作家名: | 古川 賢一郎 |
作家名読み: | ふるかわ けんいちろう |
ローマ字表記: | Furukawa, Ken'ichiro |
生年: | 1903-03 |
没年: | 1955-10 |
人物について: | 1903(明治36)年3月、香川県綾歌郡美合村(現まんのう町)に生まれる。父親の仕事の関係で長崎県に転居、高島尋常小学校、私立端島高等小学校、長崎市立飽浦工業補修学校卒業。1920(大正9)年三菱長崎造船所に就職。十六七歳頃より詩作を始める。長崎在住時は同人誌「白百合」「草土」に作品を発表する。1923(大正12)年、父親の死をきっかけに、単身満州に渡り、南満州鉄道に入社。1928(昭和3)年頃一家を大連に呼び寄せ、以後17年間測量士として満州、北支、蒙古を転任。詩作では同人に参加、満州文芸家協会会員。1942(昭和17)年第一回満州詩人会賞受賞。1947(昭和22)年1月、大連から新潟県に引き揚げる。同年5月、釧路市に転居、釧路市役所土木課勤務。1949(昭和24)年子供の看病のため、香川県坂出市に転居。埠頭会社、印刷会社に勤務。詩作は戦後、同人誌「詩と詩人」「人間」「長崎文学」「詩研究」「詩と芸術」などに参加し、詩、詩文発表。1954(昭和29)年2月、重度の高血圧症のため印刷会社を退職、闘病生活に入る。1954(昭和29)年4月、女子少年院「丸亀少女の家」の院長三原スヱ氏より詩作指導を委嘱され毎週土曜日に入院中の少女達に詩作を指導する。その体験をもとに「砂に咲く花-丸亀少女の家にて-」執筆、同年10月脱稿する。三原氏などが出版に努力するが、不調に終わる。1955(昭和30)年10月、肝がんのため死去。享年52歳。その後同原稿は所在不明となるが、2009(平成21)年11月、娘宅で原稿が発見され、2011(平成23)年9月出版される。 三原スヱ氏(1903(明治36)年~1986(昭和61)年)は、1947(昭和22)年民間の団体「子供を良くする会」を設立、1948(昭和23)年、香川県丸亀市の丸亀城内の陸軍施設跡を利用して私立「丸亀少女の家」を設け、非行少女の収容を始める。同年、国立「四国少年院分院丸亀少女の家」となり、1951年初代院長に三原氏が就任する。同施設は、1952(昭和27)年丸亀市中津町に移転し現在に至る。 三原スヱ氏は、1971(昭和46)年第5回吉川英治文化賞受賞、受賞理由は「「丸亀少女の家」「和光園」の園長として、非行少女たちの更生保護に尽力、青少年育成にすぐれた成果をあげている。」(kompass) |