日本推理小説の曲り角

十返肇




 周知のように、松本清張・有馬頼義・菊村到・柴田錬三郎ら、いわゆる純文学系の作家が、推理小説に筆をそめだした結果、これまでの専門作家による探偵小説に、ひとつの照明が、たしかに投げられたのであった。探偵小説という、私などの好きな昔なつかしい名称がすたれ、一般に推理小説という言葉が使用されはじめたのが、この現象と時を同じくしているのは、決して偶然ではなかった。いわば、これらの作家によって一言でいうならば、探偵小説のリアリズム化が行われたのであった。
 それは、まずあの「私は今なお二十年前に起った怪奇とも不思議とも形容しがたい、あの戦慄すべき事件を思いだすと……」式なハッタリ・プロローグの廃止から始まった。こういう言葉は、冒頭いきなり読者を、作品の世界へ誘導するために書かれていたのだが、今日の読者は、かえって、こういう書きだしには、「またか」という反撥こそ感じても、もはや魅力をおぼえなくなってきている。これは、あきらかに前時代の米英探偵小説の古典からの模倣であって、まったくの通俗小説ならともかく、多少とも知的であろうとする小説を求める読者には、もはや往年の[#「往年の」は底本では「住年の」]魔力をもっていないのである。
 つぎに、これは横溝正史などがよく用いたシチュエーションであるが、地方の旧家にまつわる因果ばなしによって、大きな屋敷が「化物屋敷」といわれて空家になっているというような背景が、私たちには実感をもたなくなってきたことである。住宅難にあえいでいる現代の日本では、たとえ、どんな神秘な伝説があろうとも空家などというものは、リアリティをもたないのである。前記の作家たちは、こういう舞台を取り扱わず、もっと読者の身近かにある平凡な場所を舞台に求めた。
 つぎにいうまでもなく、明敏神のごとき名探偵なるものを廃したことである。“探偵”というものが、私たちの周囲には存在しない。私たちの知っている探偵とは、興信所の事務員のごときもので、縁談の相手の品行をしらべたり、良人の浮気をさぐるぐらいの用にしか役立たず、殺人事件など手がける探偵というものの存在は、私たちの実感に遠いのである。
 これまでの日本の探偵小説は、ほとんど米英の模倣であったから、こういう日本の風土や習慣と遊離した作品であったし、読者もまた、探偵小説では、そういう非現実的な面白さで満足していたのである。しかし、純文学系の作家は、あくまでも日本的な現実の上に立って、「探偵小説」を書こうとし、それが、読者にも歓迎されたわけである。このことがいわゆる専門作家にも影響を及ぼさない筈はない。最近の新人は、佐野洋にしても、多岐川恭にしても、日本的な生活の中から、ストーリーを展開しようと努力している。もっとも、多岐川氏の場合は氏のディレッタンティズムのために、まだ、かなり現代日本人としては不自然な生活者が多く登場しているが。――ところで、こうした傾向が受け入れられると、専門作家も、これまでとは異った「日本的現実」のなかから物語を創造してゆかなければならない。しかし、その転換が、あまりうまく行かずに、もたついているように、素人の読者の眼には映ずる。横溝氏、大下宇陀児氏らの近作から、私はそうした停滞を感ぜずにはいられない。ヴェテランたちが転換を志しつつ、転換し得ないところからくる、このモタツキが、現在の日本の推理小説が、“曲り角”に来ているといわれる第一の理由ではあるまいか。江戸川乱歩が、作品を書かないのも、そういう転換期の悩みによるのではないかと思われる。
 第二の理由は、この、いわゆる純文学系作家の推理小説そのものに求められる。
 私は、さいきん殆ど相前後して出版された以上四氏の著書を一册ずつ読んだ。すなわち松本「真贋の森」、有馬「黒いペナント」、菊村「灰」、柴田「今日の男」の四篇である。いずれも一応の興趣をもって読み終えることができたが、すでにどの作家も推理小説に手がけた最初のころのような新鮮さを失い、あまりに古風な自然主義のなかに埋没せんとしつつあるか、週刊誌の要求によって多産した結果の水増しでごまかそうとしている気配である。そして、卒直にいうと、自己を模倣して、マンネリズムにおちいっているといえよう。「推理」の面白さはないではないにしても、ほかの夾雑物が多過ぎるのである。わずかに「黒いペナント」が、プロ野球を扱っていて現代の推理小説らしく今日の風俗を扱ってはいるものの、それだけの意味でなら「四万人の目撃者」がすでにあるし、殺人という題材の強烈さからいっても及んでいない作品である。同氏が「中央公論」(九月号)に発表している「葉山一色海岸」も、新しい境地を示すような作品ではない。
 このような事情によって、二つの“曲り角”が、今日の推理小説には見受けられるのであるが、これを破るものとしては、まず新人に期待をかけるのが最も手取り早いであろう。そして「一本の鉛」「高過ぎた代償」「三人目の椅子」(ただしこの小説は結末がおそまつ過ぎて失望した)の佐野洋や、「天国は遠すぎる」の土屋隆夫などが、この“曲り角”を突破しそうな可能性を示してくれている。しかし、手ッ取り早い[#「手ッ取り早い」は底本では「手ツ取り早い」]観方ではあっても、それだけでは[#「それだけでは」は底本では「それでけでは」]粗雑すぎよう。いつの時代でも、新人には期待をかけられるが、また頼りないのも新人であって、ヴェテランの底力を軽視してはなるまい。ただ、正直にいって、現在の推理小説界のヴェテランが、さしあたって私たちを歓ばしてくれそうな予感を、私はほとんどおぼえることができない。彼らの多くは、「新青年」華やかなりし頃の「探偵小説」への郷愁から脱し得ていないのではあるまいか。
 いわゆる純文学系作家の進出と、新人たちの登場に挾撃されて、安易な「捕物帖」へ逃げてばかりいては困るので、高木彬光などは、もう少し意欲的作品を見せてくれるべきではあるまいか。
 ところで、私が、推理小説に望みたいことはいい古されたことながら、もう少し主人公に魅力ある人物を登場させられないか、という点である。いうまでもなく、明敏神のごとき名探偵や、スーパーマンを意味するのではない。
 松本清張えがく古手刑事など、ある種の人間味は感じられるけれど、なにやら大船映画にでてくる脇役みたいなそれであって、魅力というべきものは印象されない。今日は英雄の時代ではないにしても、小説の主人公は魅力ある人物でなければならない。柴田氏の「今日の男」の主人公山河幾太郎という探偵小説家も、眠狂四郎の現代版に過ぎず、もうこの種の人物は、柴田氏自身によって類型化されてしまっている以上、魅力を読者に感じさせることはできない。
 新人の主人公またしかり。かつての名探偵のような非現実的な人物でなくなったのは、一応結構であるとしても、あまりにも平凡なサラリーマンや、気障ッぽいディレッタントでは、いくらトリックや謎解きが面白くても今では読者をひきつけない。
 最近の推理小説は、自然主義的リアリズム化するとともに、主人公の人間像までが、自然主義文学の人物のように魅力を失ってしまった。これが最大の“曲り角”の理由ではないのか。





底本:「宝石増刊号第14巻第12号」宝石社
   1959(昭和34)年10月10日発行
初出:「宝石増刊号第14巻第12号」宝石社
   1959(昭和34)年10月10日発行
入力:sogo
校正:Juki
2017年1月12日作成
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