錢形の平次は、椽側の
八五郎は少し離れて、頬杖を突いて足を投げ出し、お先煙草を立てツ續けに
「お願ひだから八五郎さん、その冗談は止して下さいな。今丁度
お靜は
「剃刀を使つてるものを笑わせるのは危ないぢやないか。一つ間違へば、下手人はお前だ」
平次は
「私は不器用で、
お靜は自分のせゐにして、それとはなしに八五郎を
「不器用は俺さ。貧乏人は、自分で
平次はさう言つて、苦笑ひをするのです。平次の不器用は通りもので、ろくな棚も釣れないくせに、捕物となると、用意周到で、鬼神の働きをするのを、八五郎は不思議でたまらなかつたのです。
その頃の女は、剃刀を使へるのが一つのたしなみで、
「ところで、どうした、まだ
平次は首をねじ曲げて、後ろを振り返りました。髯を剃るのを半分にして、肝心のお靜が、立ち
「でも、
お靜は何を考えたか、心持顏色が惡く、白い
「代つて上げても構はないが、あつしも器用ぢやないから、親分の喉笛を掻き切るかも知れませんな」
「あ、宜いとも、思ひ置くところなくやつてくれ」
あゝ言へば
「お願ひだから、そんな話は止して下さいな。私はもう」
お靜は剃刀を箱の中に入れて、小娘のやうに自分の眼を
「おい、どうしたんだ。このまゝぢや外へも出られないぜ」
「でも、本當に怖いことを思ひ出したんですもの、それもツイ昨日」
「何があつたんだ、話して見な」
平次は問ひ返しました。どうかすると、自分の胸一つに疊んで、つまらない苦勞してゐる、日頃のお靜の氣性を知つてゐる平次には、その日のお靜の
「お話して宜いでせうか」
御用のことに口を出すな――と、日頃
「
「珍らしい人?」
お靜は手早く
「私の幼な友達のお仙さん、――御存じないか知ら、私が阿倍川町で育つた頃、御近所の荒物屋の娘で、私より四つ五つ歳下、抱いたりおんぶしたり、そりや可愛がつて育てました。私が兩國の水茶屋へ奉公に出る頃は、まだ十二三でしたから、本當に綺麗な娘でした。でも、その綺麗なのが、反つて不仕合せだつたのかも知れませんね」
綺麗なのが不仕合せ――不思議な言葉ですが、封建的に
椽側の
それは去年の春のことでした。十八になつたばかりの、咲き
その頃の江戸の娘達は、
表情的な大きい眼、少し
その條件にピタリとする
眞太郎は堅い息子で、弱氣でした。色白で
それがどつと寢付いて、父親を心配さしたことは一と通りでなく、それが
戀患ひ――こんなロマンチツクな流行病が、江戸時代にはまだあつたのです。社交機關を持たない娘達や、
「お仙さんは、皆んなに
「それはまた、どういふわけだ」
平次は
「お
「鬼三匹か、そいつは大變だ」
八五郎は額を叩いて、舌出し人形のやうに、ペロリと赤い舌を出すのです。
「先づ、眞太郎さんの姉さんで、二十八になるといふ出戻りのお清さん、
そう言つて、まだ若いお靜は、自分の顏を染めるのです。
「その二人だけでも、
八五郎は人事になると、少し面白さうです。
「その上、お谷といふ掛り人があります。二十一の働き者で、お勝手も帳場も、お得意まはりも手傳へるといふ、大變な娘で、たゞ、ひどいきりやうで、本人もあきらめて居るやうですが、氣性の激しい人ださうです」
「その中に泳がせられちや、
「いえ、もう一人、お稻といふ四十がらみの
「勝手にしやがれ、――意地の惡い女護ヶ島で」
「それでも、お仙さんは、齒を喰ひしばつて辛抱したさうです。ところが、そのお仙さんは、この春になつて、唯の身體でないとわかり――」
「目出度いぢやないか」
平次は重い口を挾みました。
「いつまでも、眉も齒もそのまゝにして置くわけに行かず、いよ/\
嫁の元服は、
「で――?」
平次は
「阿倍川町のお母さんが、
「――」
「その時、フト顏をあげると、縁側で多勢の人が覗いて居たといふことです。下男の嘉七といふ三十男、品吉といふ十六の
「?」
「いざといふ時、眉毛を
「それは誰の顏だつたのだ」
「
お靜の話は、それでざつと一段落のやうです。
「それつきりの話なら、御用にも十手にも及ぶまいよ、
平次に言はせると、大した問題でもありません。
「でも、お仙さんはさう言ひました。――近いうちに、何んか變つたことがあるかも知れません。あの人(眞太郎)は頼りにならないし、萬々一私の身體に間違ひがあつたら、お前さん――平次親分にお願ひしてくれつて、その氣持が可哀さうぢやありませんか。あの人は、本當に死ぬほど
お靜は言はうか言ふまいかと、良い加減迷つた揚句、これだけのことを言つてしまつた安心感で、ホツとした樣子で立ち上りました。そして、もう晝近い陽射しを眺めて、いそ/\とお勝手に立去るのです。
この邊で、事件は急轉直下しました。
「ね、お前さん、一寸逢つてあげて下さいな。車坂の池田屋から、お使ひが來たんです」
お靜に
昨日、御用の筋で品川まで出かけ、歸つたのが夜半過ぎ、トロトロとしたばかりのところを起されたやうな氣がしますが、雨戸を開けさして見ると、成程日はもう三
井戸端で
「お前は、池田屋の小僧さんか。品吉とか言つたね、御新造お仙さんがどうかしたのか」
平次は先を
「いえ、御新造樣が、明神下の錢形の親分のところへ行つて、お願ひして見ろと言ふんです」
「一體、何があつたといふのだ」
「
「お前はどうして口を利いた」
「そつと手招ぎするから、外から廻つて、庭から顏を出すと、――早く明神下へ飛んで行つて、錢形の――」
「よし、わかつた。俺はすぐ車坂へ行くが、お前はこれから直ぐ、向柳原に廻つて、八五郎にさう言つてくれ。岡つ引の八五郎と訊けば直ぐわかるよ。まだ寢て居るに違ひない、
平次はさう言ふうちにも手早く仕度を整へて、十手を一本
「あれ、お前さん」
驚いてそれを引留めるお靜。
「宜いつてことよ、飯なら昨夜も
さう言つて飛んで行く夫の後ろ姿を、お靜は拜み度いやうな氣持で見送るのです。
車坂まで着くと、池田屋は町役人と三輪の萬七の子分達で、まさに
「おや、錢形の、大層良い鼻ぢやないか、
と、目ざとくも平次を見付けた萬七は、相變らず意地の惡さうな眼を光らせます。
「それは宜い
平次はこの大先輩の御用聞、三輪の萬七には
「御新造のお仙さ。
萬七はさとつたことを言ふのです。
「何處に居るんだ、ちよいと逢つて見たいが」
「そのお仙の部屋で、
「でも、證據がないのに」
「いや、殺されたお才と新造のお仙は仲が惡かつたさうだ、――それだけで澤山だよ」
萬七は
平次はそれには答へず、目で下女のお稻を呼んで――いや、これは名乘るまでもなく、平凡な四十女で、自分の名前を頬つぺたに書いてゐるやうな女で、お勝手を我物顏にして居る樣子を見るまでもなく、お勝手口から入つた平次にはよくわかります。
「親分さん、御新造樣はこゝでございます。お可哀さうですから、早くなんとかしてあげて下さい。――人くらゐ殺し兼ねなかつたのは、佛樣のことをさう言つちや惡いけれど、お才さんの方で」
下女のお稻は、平次の後ろからそつと囁やくのです。
平次はそれには、うなづいて見せて、納戸の入口に近づきました。板戸の前には萬七の子分のお
戸をあけると、中は長四疊、格子の前まで布團を積んで、薄暗く淋しいところに、チラリと白いもの、それは平次を迎へに出した、若い嫁――お仙――の涙に
「――」
默禮してそつと擧げた顏、十九になつたばかりの初々しさ、打ち
「御新造、――言ふことはありませんか」
平次はたつたこれだけ訊ねました。
「私は、本當に殺し度いと思ひました。
十九の花嫁の胸に、どんな憎惡と
でも、この正直さが、三輪の萬七に疑はれた原因になるのでせう。
「その時のことを、
平次は疊の上に膝を立てました。いつもは、先づ死骸を見て、その周圍の事情と時間の關係を考へて、それからいろ/\の人の調べにかゝるのですが、今日はお勝手から入つた道順と、三輪の萬七の調べた後を、そのまゝ
「昨夜の
「――」
平次は默つてその先を
「あの人は、いつも長い方だけれど、それでも昨夜は長過ぎるし、お才さんのことも氣になるから、そつと
その時の凄まじさを思ひ出した樣子で、お仙は絶句してしまひました。
「其處には誰も居なかつたのか」
「え、誰も。でも、窓は開いて居りました。良い月で」
「
「灯はなくても、窓際の疊の上に、突つ伏したお才さんの樣子は唯事でないとわかりました」
「血は?」
「何んにも見えなかつたやうです」
「御新造とお才さんは、隨分仲が惡かつたやうだな」
「――」
お仙は默つてしまひました。二人の激しい
窓の外の櫻を眺めながら、
平次は
其處には主人の池田屋八郎兵衞を始め、
もう晝近い陽ざしですが、その頃の御檢屍は手間取つたもので、それが濟むまではお
「錢形の親分、お仙は人などを
平次の顏を見ると、飛び付くやうに言ふのは伜の眞太郎でした。蒼白い
「飛んだことで」
平次は當らずさはらずに挨拶しました。そして
二十三の眞太郎と同じ年、利口過ぎて
ひどく血の氣を失つて居りますが、
「刄物はこれですね」
平次は死骸の側に置いた、合せ
「外に何んにも道具はなかつたやうで」
主人の八郎兵衞は、消極的に肯定します。
剃刀は二梃ともよく使ひ込んだもので、背と背を合せて、
日本風の剃刀は、峰が高くなつて居るので、振り廻したところで
その代り、合せ剃刀は兇器以外には使ひ道がなく、死骸の側にこれが落ちて居れば、先づ間違ひもなく殺しと斷定してよいわけです。
「この剃刀の持ち主は?」
平次は左右を顧みました。
「不思議なことに、二梃ともお才の持つて居たものです。一梃は自分ので、一梃は私の剃刀で、古くなつて使はずに置いたのを、
「黒い
平次は合せ剃刀を結へた、黒元結を指摘しました。元結は白いのが通常で、黒い元結は滅多に使ふものではなく、それで剃刀を縛つてあるのが、異樣に眼につきます。
「お才さんのですよ。あの人は若いくせに中剃りがひどく
姉のお清が説明してくれました。女でなければ、わからない消息です。
「二階の部屋からお仙さんが誰にも見とがめられずに此處へ降りて來られるでせうか」
平次はもう一度主人の八郎兵衞を
「それは出來ないこともありません。が」
八郎兵衞は考へ/\、
「お才さんは、この頃、若旦那に何にかせがんでは居なかつたでせうか」
「さア」
「隱さずに打ちあけて下さい、大事のことですから」
「死ぬとか生きるとか、人困らせなことを言ふ人でした。でも、お才はいつでもその調子で、芝居氣が多いから、あまり氣にもしなかつたのです」
若旦那の眞太郎は澁々
「それで大方わかりましたよ。三輪の親分には氣の毒だが、お才さんを殺したのは、嫁のお仙さんぢやありません」
「何を言ふのだ、錢形の」
平次がズバリと言つてのけると、三輪の萬七は顏色を變へて詰め寄りました。
「お仙さんが二階から降りて來て、廊下から入つたとすると、お才さんは窓に後ろ向きに
「たつたそれだけの事で――」
「いやまだある」
平次は萬七の言葉を押へて靜かに説き進むのです。
お才は、
こんな時、お才のやうな若い女の心には、
その不安と緊張をなひ
「そんな馬鹿なことがあるものか、お才を怨んでゐる者は、嫁のお仙の
三輪の萬七は、四角な顏を精一杯角張らせて抗議するのです。
「そいつは一應
平次の言葉の終らぬうちに、
「え、私とお稻は、まだお仕舞をしてをりましたが、お勝手口からは、誰も出た者はありませんよ」
掛り人のお谷は、
「ところで、もう一つ、皆んなに訊き度いが、この家で、物を
「お才さんですよ。あの人は、利巧で器用な
眞太郎の姉のお清は、廊下にハミ出した人の中から應えました。二十八の出戻りで、氣の強さうな年増ですが、眞太郎の姉だけに、なか/\のきりやうです。
「器用な癖に、盲目結びの癖があつた――ありさうなことだな。利巧者で才氣走つた人に、反つてそんな妙な癖があるものだ。この通り」
平次は血潮に汚れた二梃
「そんな馬鹿なことが――」
萬七は肩を
「これは、他の者が眞似ようとしても、餘程落着いてやらなきや出來ないことだ。――が、その二梃
平次は自分へ問ひかけるのです。下手人は嫁のお仙ではないとわかつても、では、一體誰がお才を殺したのか、さすがの平次もハタと行詰つてしまひました。
「ちよいと、親分」
八五郎の
「どうした、八」
「夜分が、萬七親分と渡り合つてゐる間、あつしはあつしなりに、昨夜の皆んなの動きを調べて見ましたよ」
「それは大層氣の利いたことだな、どんな具合だ」
二人は、人の聽くのを避けて、梯子の下の四疊に入りました。晝近い陽も此處までは射さず、薄暗くて妙に濕つぽい部屋です。
「驚いたことに、昨夜、お才が殺された
「それは本當か」
「主人は店から動かなかつたし、掛り人のお谷は、お勝手から動かなかつたことは確かで、あとは下男の喜七は急の注文があつて、隣り町のお
「それから?」
「眞太郎の姉のお清は、暫らくの間、何處にも姿を見せやしません。嫁のお仙は――」
「それはわかつて居るが、――不思議なことだな、氣を揃へて變な素振りのあつたのは、――兎も角、若旦那の眞太郎を此處へ呼んでくれ。いろ/\訊き度いことがある」
「何んか御用で?」
八五郎に呼込まれて、若旦那の眞太郎は、オドオドしながらやつて來ました。
お才と同じ年の二十三、蒼白くて若々しくて、心身共に
それにしても、
「打ちあけて言つて下さいよ、若旦那。うつかりすると、御新造のお仙さんが、下手人にされるかも知れないから」
「ハイ、へエ」
眞太郎は少し顫へて居りました。いつでも涙を溜めて居るやうな、大きいうるんだ眼、口許に女の兒のやうな
「お前さんは、昨晩お湯へ行くと言つて出たさうだが、櫻湯に顏を見せなかつたさうぢやないか。番臺の娘は若旦那に岡惚れしてゐるから、見のがす筈はないぜ」
八五郎は平次に代つて、もどかしさうに突つ込みました。櫻湯の番臺の娘――といふ動かない證據が擧げたかつたのです。
「ハイ、實は」
「實は、お才さんを殺したとでも言ふのか」
八五郎は先を潜ります。
「飛んでもない。私は、そのお才に逢ふのが
「待つてくれ、そのお才さんに逢ふ約束といふのを訊き度いが、――
「――」
「逢ふのが辛いといふのも唯事でないが」
平次は押し返しました。眞太郎の態度が煮えきれないのを見て、八五郎がひどく
「お才が、無理を言ふんで」
「無理?――誰も聽いては居ない、そのわけを打ち明けて下さい。八、お前は向うへ行つて待つて居ろ」
「へエ」
八五郎は不足らしく、唇を
「さア、誰も聽く者はない、――お才が何を若旦那にせがんでゐたんだ」
平次は靜かに訊ねます。
「あの人は無法でした。――お仙を追ひ出すか、それが出來なければ、私の眼の前で死んで見せるといふんです」
「それは又、
「あの人はさう言ふ人でした。今から十二、三年も前のことでした。私もお才も、同じ年の十一二の頃喧嘩をしたり、仲直りをしたり、時には一緒になつて
「夫婦約束?」
「夫婦約束と言つても、十一や十二の子供の遊びで、後々まで覺えてゐる筈もなく、私などは、それつきり忘れてしまひました。お才に言ひ出されるまで、そんなことがあつたのをさへ思ひ出さなかつたほどでございます」
「――」
飛躍的な話に、平次も默り込んでしまひました。
「お才が、年頃になつても嫁入りを嫌ひ、どの縁談もどの縁談も斷わり續けたのは、私も、私の父親も、世間でも、お才が利巧過ぎて、どの男も不足に見え、片つぱしから縁談を斷わつたのだと思つて居りましたが、お才に言はせると――これはツイこの間私に言つたことですが、――十二年も前、物置の中で、飯事をして遊んだ時、
「――」
「私は膽をつぶしました。その時はもう私にはお仙といふ女房があつたのです。――どうしてそれを早く言はなかつた。今となつては遲いではないかと言ふと、お前が忘れてしまつた樣子だから、言ひ出すのも極りが惡いし、そのうちにお仙さんを見染めて、戀患ひをする騷ぎだもの。私が十年前のことを言ひ出せば、恥をかくばかりぢやないか――と斯う申します」
「ところで、若旦那は、お才さんが一時でも好きだつたのか」
平次は妙なことを訊ねました。
「飛んでもない、私はあんな女を、好きだと思つたこともありません。利巧で、意地つ張りで、――十二年前、日向の筵の上で、指切りをしたり、
眞太郎は泣き出しさうな顏をするのです。
「お才さんが、何時頃それを言ひ出したんで?」
「去年の秋頃からでした。それまでは、素振りにも見せなかつたお才が、ある日、私が物置の片付けをして居ると、用事があつて物置へ來たお才が、いきなり私に
「――」
斯う言つた女の氣持は、もとより平次にも呑込めません。默つて後を
「私とお仙の仲の好いのを見て、お才は我慢がならなかつたと申します。そして今年になると、間がな
眞太郎は、その弱さと
「それで大方わかつたが、昨夜はどうしたのだ」
「宵のうちに、そつと忍んで、自分の部屋へ來てくれとお才は申します。そこでしかとした返事を聽き度い、來てくれなければ、お仙を殺すといふ脅かしやうです。私は櫻湯へ行つて來るからと、一時のがれのことを言ひましたが、湯へ行く氣などは少しもなく、どうしたものかと迷ひながら、町内をグルグル歩きました。自身番の前を四度も通つて、變な眼で見られたくらゐですから、訊いて下されば直ぐわかります」
眞太郎の話は、まことに途方もないものでありました。それだけに眞實性があり、弱氣の眞太郎が、お才に
「どうして、それを、親旦那に言はなかつたんで?」
平次の問ひには、激しい非難が籠ります。
「飛んでもない。親父にさう言へば、お才は追ひ出されるにきまつて居りますが、この家を出るとき、きつとお仙を殺して行くと言ふんです。それくらゐのことを、やり兼ねない女でした」
眞太郎は、死んだお才が、まだその強大な意志を働きかけさうな氣がして、斯う言ふのさへビクビクもので聲をひそめるのです。
平次はすつかり
だが、殺しといふ現實は、外の因縁の糸を引いてゐる筈です。お才がお仙を殺したのなら、因果關係は極めて明らかですが、
「八、ちよいと來てくれ」
「へエ、もう用事は濟んだんで?」
思ひの外近いところに、その長んがい
「若旦那の話を聽いたらう。お前は自身番へ行つて、昨夜池田屋の若旦那が、この邊をウロウロして居なかつたか、
「そんなことならわけはありません。それぢや、親分」
「待つてくれ、もう一つ、此處へ若旦那の姉のお清さんを呼ぶのだ」
「へエ」
八五郎は飛んで行きました。その後ろ姿を見送つて、小さい窓のところに引返すと、小僧の品吉が、せつせと庭の
十六と聽きましたが、
「大層精が出るぢやないか」
平次は聲を掛けて見ました。
「へエ、
品吉は顏を擧げました。
「それは感心なことだな。――どうだ、この家は、住み心地は?」
「皆んな良い人達で、こんな家は滅多にございません」
「お前の生れは何處だ」
「土地の生れで」
「下谷か」
「いえ、淺草で、阿倍川町でございます」
「嫁のお仙さんも、阿倍川町の荒物屋の娘ださうぢやないか」
「子供のうちから、よく存じて居ります。年は私より三つ上ですが」
「良い人かえ」
「あんな人はありません。若い嫁で、何彼と遠慮はあるでせうが、でも、影になり
さう言ふ品吉は、感激に頬をほてらせて、少し涙ぐんでさへ居ります。
「若旦那との夫婦仲は好いのか」
「戀女房ですもの、惡い筈はありません。でも、近頃はお氣の毒でした」
「どうかしたのか」
「お才さんが、意地惡をしたり、水を差したり」
「姉のお清さんはどうだ」
「あの人は、氣の強い利巧な人ですが、お仙さんにはよくしてくれます」
氣の強い利巧な
「お清と、お才の仲は?」
「どつちも負けず嫌ひで、きりやう自慢で、――あまりよくはありません」
品吉は
「二階から、お勝手や店を通らずに、庭へ降りる工夫はないのか」
「そんなことが出來るわけはないぢやありませんか」
品吉はやつきとなつて反對するのです。
「それから、もう一つ、掛り人のお谷といふのは、どんな人だ」
「働き者ですよ。遠い縁續きださうですけれど、不きりやうで
「眞太郎さんとは?」
「相手にもしないし、相手にされないのを何んとも思つて居ない樣子です」
「まだあつたな、下男の嘉七は?」
「三十にもなるのに、遊びも勝負も嫌ひ、給金をためることばかり考へて居ます」
その嘉七は信州者で、平常はおとくゐ廻りの御用聞にもなり、今日は受付けに廻つて、店口で一生懸命働いて居る樣子です。平凡な三十男、好奇心も情熱も何處かへ拂ひ落したやうな、
「私に御用ださうで、錢形の親分」
お清は廊下から聲をかけて、入口の唐紙から
「まア、中へ入つて貰はうか、其處ぢや話も出來ない」
「おや、さう、お
「冗談は冗談として、お前さんは、殺されたお才とは、仲がよくなかつたさうだね」
「仲が好いと言ひ度いけれど、あの氣性のお才さんと、敗けず
お清は齒に衣きせずに、斯うズケズケ言ふのです。
「新造のお仙さんとは?」
「大の仲好し――と言つたつて、誰も本當にはしてくれないでせうよ、出戻りの
お清は斯んなことを、ヌケヌケと言ふ女でした。激しいところはあるが、好いきりやうで、身振りは澁い方、たしなみの良い、二十八の
「お前さんは、夜分は何處に居るんだ」
「二階に居ますよ、眞太郎夫婦の部屋の隣りに」
「昨夜の騷ぎのあつたときも、其處に居たことだらうな」
「階下で、お才さんが、悲鳴をあげるから膽をつぶして飛び降りて行きましたよ」
「二階から、お勝手も店も通らずに、庭へ降りる工夫はないのか」
「さア」
「どこかにある筈だと思ふが、大きい家はそんな無用心な造りはしない筈だ。不意に火事騷ぎでもあつた時の用意に」
「さう言へば、物干へ出て、九つ
「其處を見せてくれ」
平次は妙に活氣づきました。無造作にさへ見えるお清を案内に、二階へ行つて廊下の突き當りの開き扉から物干臺に出ましたが、其處には取外しの出來るやうに、粗末な九つ梯子が掛けてあり、其處から庭へ降りさへすれば、お才が
物干の上には一足の
「御新造」
「あ、錢形の親分さん」
「お靜に聽きましたよ、いろんなことを。――でも、心配することはありません」
「有難うございます、親分さん。私は
お仙はおど/\した調子でした。死んでまでも
「御新造はこの物干臺へ出ることはありませんか」
「時々は登りますが、でも、私は怖いんです」
「何にかあつたんで」
「梯子が
「あの品吉も、阿倍川町の生れださうで」
「私は子供の時から知つて居ます。良い子でした、正直で親切で。――でも、近頃は、その品吉も、變な樣子だから、氣をつけるが宜いと、あの人が言ひます」
あの人、――それは言ふまでもなく、若旦那の眞太郎でせう。
「その品吉が、御新造を
さう言へばお仙は、誰も監視してゐないところに、神妙に籠つて居たことになります。
「あの子は好い子だけれど、――ヂツと私を見張つて居るやうで、そりや氣味が惡いんです。物の蔭からでも、暗がりの中からでも、――どうかすると」
お仙はハツと口を
「さア、親分、何處に居るんです」
八五郎の姿が、
「此處だよ。親分の賣物ぢやあるめえし、少しはたしなめ」
「へエ、物干臺で天文を見てゐるんですか、――殺しは
「そんなことは、どうでも宜い。お前の眼で見ても、物干臺の
「それがどうしたんです」
「下手人は二階に居た姉のお清と、新造のお仙ではなかつたといふことさ。――ところでお前の方の調べは?」
「若旦那の眞太郎は、昨夜自身番の前をウロウロ歩いて居たことは確かで、二度までは見かけたさうですよ」
「それつきりか」
「家中の者の身許から、日頃の心掛け、
「懷具合は餘計だ」
「主人の八郎兵衞はお人好しの上、少し御座つて居る」
「何が?」
「中氣の輕いので――若旦那の眞太郎は弱氣で、意氣地なし、男つ振りは好いが、
「誰もお前にそんな事を頼みやしない」
「お才とお清は負けず
「何んだい、それは」
「それ
「お谷はそんなものを書いたことがあるのか」
「名前がないからわからないけれど、無類の惡筆だつたから、誰の
「氣の毒だな」
「それから少しばかりの身だしなみから化粧まで、サラリと捨てて、あの通り汚な作りの働き者になつたといふことですよ」
「眞太郎は、その時、どうした」
「面白がつて笑つて居たさうですよ、薄情な野郎で。尤も、それから直ぐ
八の
「話はそれつきりか」
「まだありますよ。昨夜お勝手に居たのは下女のお稻とお谷の二人だと言ひましたね」
「?」
「お勝手に居た二人の女が、睨めつこをして居たわけでないから、
「さう言ふわけだな」
「現に、お稻は三度、お谷は二度外へ出て居ますよ」
「フ――ム」
「斯うなると、誰が
「殺されたお才が氣を許して居るものだよ。廊下から入つて、正面から斬りつけたのでないとすると、後ろから廻つて、庭から聲でも掛けながら、お才が敷居の上にでも置いた、合せ
「――」
「お才は若旦那の眞太郎の來るのを待つて、張りきつて居たに違ひない。後ろから下手人が忍んで來て、夜の庭を、お才に氣付かれずに、後ろへ近寄れるわけはない。お才は下手人が背後へ近づくのを知つて居ながら、知らん顏をして背を向けて居たのだ」
「その曲者は足跡くらゐは殘した筈ぢやありませんか」
「それはないよ」
「?」
「
「へエツ、そいつは?」
八五郎も少し驚きました。
事件は
その夜は、一應明神下の平次の家へ引揚げました。池田屋は三輪の萬七とその子分のお
「だが、變なものですね、親分」
お仕着せの一本づつを
「何が變なんだ。一本ぢや不足だから、謎を掛け度くなつたんだらう」
平次は空つぽの徳利を振つて居る八五郎の、怪しい手つきを眺めながら、相變らずの推理を働かせるのでした。
「おつと、酒ぢやありませんよ。姐さんに無理をいつて、この夜更けに酒屋へやらないで下さいよ」
八五郎にも、それぐらゐの思ひやりはあつたのです。そのくせ
「それぢや何が變なんだ。池田屋の騷ぎで、何にか、氣のついたことでもあるのか」
「何んにもわかりませんが、あれだけの騷ぎを起したのも、男の子と女の子のいきさつ、つまりその戀といふ曲者でせう」
「古風に、『戀は曲者』と來やがつたね。そいつは小唄の文句だ」
「考へて見て下さいよ。池田屋の若旦那は、戀
「もう宜いよ。お前なんかと來た日にや、毎日三人か五人に
「まさか、それ程でもありませんがね。――でもあつしのは、すぐ忘れるから、後腐れがありませんよ。湯屋の番臺で見染めても、床屋の
「
「ところで、この變な騷ぎも、今夜一パイで片付きさうですよ。明日といふ日になれば、三輪の萬七親分の鼻の先で、あつしがこの手で下手人を縛つてお目にかけます」
八五郎は、アルコールで少し赤くなつた、鼻の先を
「大層なことだな、お前がね、へエ」
「さう言つたものでもありませんよ。この八五郎にも、キメ手といふものがありますよ、いざとなると」
「オイオイ頼むから、一人呑込んだ顏をせずに、俺にも話して見な。折角の證據を掴んだのなら、お前一人に任せて置くのは危なくて仕樣がない」
「大丈夫ですよ。今度だけは私一人の手柄にさして下さい」
「宜いとも、お前も皆んなにビツクリさせる程の手柄を立てて、八丁堀の旦那衆からも、さすがは八五郎――と褒めさしてやり度いのは、腹一杯だ」
「濟みません。――あつしは決して手柄の獨り占めをしようとは思ひませんが、――相手の女は、一と晩だけ默つてゐてくれ、明日の天道樣が出たら、お才殺しの下手人が誰か、そつと教へて上げられるかも知れないと――斯う言ふぢやありませんか」
「下手人を知つてゐると言ふのか」
「――」
「女だと言つたな」
「あ、しまつた。其處まで言ふつもりはなかつたんで」
「女――といふと、お清かな、お谷かな、それともお稻かな。――まさか新造のお仙ではあるまい。女の
「へツ、褒められて居るやうな氣がしませんね」
無駄な話に夜は更けて、その晩は明神下の平次の家に、八五郎も泊つてしまひました。そして翌る日の朝。
平次と八五郎が車坂の池田屋に行つたのは、まだ
「どうした品吉、ぼんやりして居るぢやないか。お前も戀患ひぢやないのか、相手は誰だ。まさか、お谷ぢやあるまいな」
八五郎は店に入るといきなり、其處を片付けてゐる
「ところが親分、そのお谷が昨夜殺されかけて、一と騷ぎやりましたよ」
下男の嘉七が横から口を出しました。いかにも慾の深さうな男ですが、その代りこの男は、色戀とは關係がなささうです。
「そいつは大變だ、誰がそんなことを?」
「相手がわかれば、私でも縛りますよ」
「殺されかけたと言ふんだから、命だけは助かつたのだらう。行つて見よう、八」
平次は店から入つて、暗い廊下をお勝手に拔けました。摺れ違ふやうになつて、ヒラリと横に
「好い女ですね、親分。あんなのが百人に一人、千人に一人あつただけで、あつしはこの世に生き甲斐があると思ひますが――親分はさう思ひませんか」
「馬鹿野郎、俺はそんな間拔けなことを考へちやゐないよ。――お才を殺したのはあの女でないことは確かだが、あの女は萬事を知つて居さうで、それが氣になつてならなかつたんだ」
が、御新造のお仙は何んにも言はなかつたにしても、お勝手近くなると、緊張と騷ぎの
「おや、錢形の親分で、又飛んだ騷ぎが始まりました。幸ひお谷は助かりましたが――」
と、迎へてくれたのは、主人の八郎兵衞でした。少し足が不自由ですが、話も、考へも、少しの
「どうしたんです、旦那」
平次の調子には、僅かに非難が匂ひます。この家の總元締の主人が病氣のせゐであるにしても、少し放漫なやうに感じて居たのです。
掛り人のお谷の部屋は、お勝手から二つ目、下女のお稻の部屋でもありました。四疊半へ二人休んでゐるやうです。
「あ、錢形の親分、私は、もう」
寢て居たお谷は、平次の顏を見ると起き上がりました。其處に居る多勢の人に氣を兼ねたらしく、もとの枕にガツクリ首を落して、
「皆んな、暫らく遠慮して下さい。私はお谷さんだけに訊き度いことがある」
平次は四方を見廻しながら言ふと、若主人の眞太郎を始め、その姉のお清、主人の八郎兵衞までが、ゾロゾロと廊下に退きました。お互に警戒して、ザワザワしないやうに坐を滑るのですが、今まで賑やかだつたので、急にシーンとした心持になります。
「さア、誰も聽いてるものはない、俺と八五郎の二人きりだ、――
「――」
「それから、昨夜、お前を殺さうとしたのは誰だ」
「――」
平次がさう訊くとお谷の顏は急に警戒的になつて、上眼使ひに平次を眺めたまゝ、蟲のやうに默り込んでしまひました。青黒いコメカミが激情のためらしく、ヒクヒク動きますが、閉ぢた唇は
「な、お前は何を言はうとして居るのだ。お才さんを殺した相手の名か」
「――」
「言つた方が宜いぜ、人を殺して知れずに居るものぢやない。いつかは知れるに決つて居るが、知つて居て口を
平次は
「親分さん、皆んな私の思ひ違ひでした」
いきなりお谷は、
「何? 思ひ違ひ?」
平次は問ひ返しました。
「あの晩、お稻さんと私がお勝手に居て、洗濯物を取込んだり、井戸端へ行つたり、引つきりなしに外へ出て、月の光の下で、お才さんを殺す人の姿を見たやうに思つたんです。あんまり思ひも寄らない人なので、一と晩考へた上、八五郎親分に申上げようと思つたけれど、昨夜といふ昨夜、それが人違ひだつたといふことがよくわかりました」
お谷は思ひ入つた調子で言ふのです。隨分廻りくどい話ですが、調子にはなか/\眞實性があり、一
「それぢや、昨夜お前を殺さうとしたのは誰だ」
「――」
「
「私はいつものやうにお仕舞をして、井戸端から家へ入らうとすると、いきなり建物の蔭から飛び出した者が、私の首に
「その紐は?」
「紐が太いから助かつた――とお醫者もさう言ひます。お勝手に投り込んであつた洗濯物の中から、私の
掛り人の貧しい
「私は持つて居た物を投り出して引つくり返つてしまひました。そして少しは暴れたかも知れませんが、相手の力に敗けて眼を廻してしまつたんです」
「――」
「すると、お勝手に居たお稻さんが、私の遲いのに氣が付いて、外を覗いてくれました。御存じの良い月でした。私が井戸端で引つくり返つてるのを見付けて、それから大騷ぎになつたさうです。幸ひ時が經つて居なかつたので、私は間もなく
さう言はれたせゐか、思ひの外美しい聲のお谷も、今朝は
「昨夜は良い月だつた――お前はその曲者の顏を見なかつたのか」
「グイグイ後ろから喉を締められて目を廻したんですもの、顏なんか見られやしません。でも、手足の樣子や、身體つき、もつと大事なことは、その人の身體の匂ひで、私が八五郎親分に申上げようと思つた、お才さんを殺した下手人でなかつたことは確かです。イエ、お才さんを殺したのも昨夜の人だとすると、私はすつかり間違つて居たんです。あの人はそんな事をする筈はない」
お谷は後ろから首を締められながらも、若い女の
それが、一昨夜、お才を殺した下手人でないとわかると、成程うかつに口は滑らせられません。
「八、此處へ來て見るが宜い」
「へエ」
平次に手招きされて、八五郎は物干臺の上に登りました。此處からは、川開きの花火もよく見える自慢の物干臺、町内は申す迄もなく、池田屋の裏表、一と目で見盡されます。
「人間の眼といふものは不都合なもので、自分の背の高さしか行き屆かないものらしいな」
「何を言ふんです、親分」
「あれを見るが宜い、此方は陽が當つて高いから、向うから見えないのも無理はないが」
平次はさう言つて、物干の北側、物置の蔭のあたりを指すのです。
「何んです、
「お前のとこからは、相手が見えないのだよ。此方へ寄つて見るが宜い」
「おや、相手は、御新造のお仙さんですね。物置の後ろに追ひ詰められて逃げるに逃げられず、困つて居る樣子ですね、行つて小僧を叱つてやりませうか」
「待て/\、折角の一と幕を、ブチこはしちや何んにもなるまい」
「でも、主人の嫁を掻き
「掻き口説くのか、お小遣をねだつて居るのか、此處までは聲が屆かないが、――兎も角も尋常ぢやないよ」
「變な家ですね、下女が若旦那に戀文をやつたり、
「兎も角も、わけがありさうだ。お前は二人を逃さないやうに、この物干からよく見張つてくれ。俺は庭から廻つて一人づつ
平次は八五郎を殘して、九つ
「御新造ちよいと待つて下さい」
「私に御用で?」
お仙の顏は、朗らかで何んの
「外でもない、丁稚の品吉は、何をせがんで居りました?」
平次の話は遠廻しのさぐりです。
「――」
「何んの氣もなく、母屋の物干の上から、皆んな見てしまひました。品吉は何にか、うるさく
「あの人には、本當に困つてしまひます」
お仙はこれだけ言ひきるのが精一杯の樣子です。
「何が困つたので?」
「――」
「皆んな話して下さい、これは大事なことです。うつかりすると、もう一度、御新造は、イヤな目に逢はなきやなりません。――品吉は何を申しました」
平次は押して訊ねました。
「申しますワ、品吉は私をつかまへて一緒に逃げてくれと、そんな大變なことを言ふんです」
「それは大變なことだが」
「私も大變だと思ひました。――そんなことは出來ないと言ふと、今直ぐ逃げなければ、私の命が危ないと言ふんですもの」
「――」
「そして、泣いたり、おどかしたり、私はどうしようかと思ひました」
「御新造さんは、品吉が嫌ひですか」
平次は妙なことを
「いえ、嫌ひなんかぢやありません。阿倍川町で、子供の時から、仲よく育つたんですもの。私のことを心配してくれるのも無理はありません。でも」
「でも?」
「私が品吉と一緒に逃げられるかどうか、考へて見て下さい親分さん」
お仙は
「何が何んでも、逃げ出したりしちやいけませんよ。そんなことをすると、飛んだことになり兼ねない」
平次はあわててこの純情らしい
「親分、こんな
八五郎は物干から降りて平次の方へ長い
「お前とたいした變りはないよ。――若旦那が出かける時、どんな樣子をして居たか、それが知り度いが。身なりや
平次は妙なことを言ふのです。
「品吉は前髮があるし、身體つきや背の高さは似てゐても、間違へるやうなことはありません」
「いや、明るいやうでも、月の光の下では、見違へることがあるものだ。
平次は嘉七を呼んで、近くに誰も居ないことを確めると、それとはなしに、一昨日の晩、若旦那の眞太郎は、どんな樣子で外へ出たか、それを訊くのです。
「サア、別に變つたところもなかつた樣子ですが、お湯へ行くとか言つて、手拭だけはブラ下げて居たやうで、――ア、さう/\店口から出かける時、何をあわてたか、姉さんのお清さんの駒下駄を
嘉七はつまらなさうに、そん怒事を言ふのです。
「姉さんの下駄、それはどんな下駄だ」
「幅の狹い、齒の薄い女下駄ですよ。若旦那は華奢だから、あの女下駄が履けるんだが、あつしなんかぢや、とても突つかけられません」
「女下駄を履いて湯へ行くのは、隨分あわてた話だね」
平次は何やら、深々と考へて居ります。
「
「有難う、それで、いろんなことがわかつたやうな氣がするよ。八、お前は店口に頑張つて、暫らくの間、誰も外へ出しちやならねえ、裏には――嘉七が宜い、その男に見張らせろ」
平次は、その邊の手配を濟ませると、お勝手に近い、掛り人のお谷の部屋に入つて行きました。
「あ、錢形の親分さん」
起き直らうとするお谷を、平次は輕くとめて、その枕許に坐りました。
「そのまゝで宜いよ。まだ聲が變だ、ひどい目に逢つたものだな」
「――濟みません」
布團を直してやる平次に、お谷は目禮しました。
「ところで、くり返すやうだが、お前の考へも定まつたことだらうと思つて、やつて來たよ。お前の首を絞めた相手の名、お前は顏を見なかつたと言つたが、命まで
「――」
「それを言はないと、皆んな飛んだ迷惑をするばかりでなく、これは
「申上げますわ、親分。少し待つて下さい」
「それは宜い心掛けだが、この上待たせるのは良くない了簡だぜ。お前は本人に逢つて、本心を聽く氣かも知れないが、一度でもお前の命を取らうとした相手だ、余計な思ひやりが
「――」
「お前の口から言ひ難ければ、俺が代つて言つてやらう。宜いか、昨夜井戸端で首を締めたのは、
「どうしてそれを親分は?」
「品吉でなきや、若旦那の眞太郎さんだ」
「いえ、品吉です。若旦那なんかぢやありません。若旦那にはあんな力がないし、私は洗濯物でよく知つてますが、品吉には少しばかり
「よし/\、それで宜い。が、お前は八五郎に教へる筈だつた、お才さんを殺した下手人、それは品吉ではなかつた筈だ」
「――」
「お前が井戸端から月の光で見た一昨日の晩の人影、――それはお才を殺した下手人に違ひないが、それは誰だ」
「翌る晩私の
「いや、違ふ。お前が前の晩見かけたのは品吉ではあるまい。――品吉に首を絞められて、見當がつかなくなつた」
「――」
お谷は
正直のところは、お谷自身にも判斷がつかなくなつてしまつた樣子です。
「あツ」
平次が不意に障子を開けると、廊下から飛び退いた者があります。平次とお谷の話を立ち聽きして居たに違ひありません。
「品吉、待てツ」
品吉はあわてて廊下の行止り飛び込み、逃げるに逃げられず、間が惡さうに引ツ返して來たのです。
「へエ」
「へエぢやないぜ、――お前は人殺しをやりかけたんだ。お谷は放つて置けば死んだことだらう。繩を打つて引かれても文句はあるめエ」
「――」
品吉の顏はサツと蒼くなりました。臆病な
「お上にもお慈悲がある、縛られるのが嫌なら眞つ直ぐに言へツ。お谷の首を締めたのは、お谷がお才殺しの
「――」
品吉の蒼い顏は僅かにうなづきます。
「昨日の朝、お才の殺された窓の下を
「――」
「あの窓の下には、足駄の跡があつた。俺はその足駄の主を調べようとして居ると、お前は先を
「――」
「窓の下の足跡は女だつた。窓の敷居の上には、死骸から少し離れて、血染の二
「親分、御新造は人などを殺すやうな人ぢやございません」
「この平次が、それを間違へて、御新造のお仙さんを縛るとでも思つたのか」
「親分」
品吉の顏は苦しさうでした。十六の少年の
「お才さんを殺した下手人は女ぢやない、女の下駄を履いた男だ。――窓の外から近づいて、窓に
「親分」
「どうだ、言ふことがあるか」
「相濟みません。皆んな親分の言ふ通り、私は、御新造を助け度いばかりに、いろ/\のことをしました」
品吉はたうとう我慢の
「さう打ちあけさへすれば、手數をかけずに濟んだのだ。――お前は助けてやる、逃げ隱れしちやならねえよ、宜いか」
「ハイ」
品吉の打ち
「お前は二階へ行つて、若旦那の眞太郎さんを呼んでくれ、平次が
「へエ」
品吉は
「おや?」
若旦那の眞太郎は、空つぽになつて居る、お才の部屋に入つて、不氣味さうに立つて居ります。その部屋は何一つなく、血潮の跡も洗ひ清められて、寒々と開け放してあつたのです。窓の外には人影、――それは外から廻つた平次でした。
「若旦那、此處で待つてましたよ」
「錢形の親分」
「この上默つて居ると、いろ/\の人が迷惑をしますよ、お谷が首を絞められたり、御新造が下手人の疑ひをかけられたり、それでも若旦那は默つて見て居るつもりですか」
平次の調子には激しい非難の響きがあります。
「親分、私は途方にくれました。お才を殺したのは、私のやうな氣がしませんが、私に違ひないのです」
若旦那の眞太郎は思ひきつた樣子で、
「お才さんの使つた二梃
平次は此處まで見拔いて居たのです。
「皆んな申し上げませう。お才はこの半年私に
「――」
平次はその先を
「一昨日の晩もこの部屋へ忍んで來てくれ、いよ/\死ぬか生きるかの返事を訊くといふのです。私は散々迷つた
「――」
「すると、それぢや、私に死ねと言ふも同じことだ。お前さんの目の前で死んで見せると、二梃
若旦那の眞太郎は、言ひ了ると、一昨夜お才がしたやうに、窓の内、疊の上に兩手を突くのです。
× × ×
事件はそれだけ、お才は自害で事は濟みました。
「これで萬事
八五郎は鼻の下を長くして言ふのです。
「へエ、大層
平次はお勝手に合圖を送つて、一本つけさせることにしました。お靜は呑込んで要領よくお膳立てをして居ります。
「お才といふ女は、あれだけのきりやうを持ちながら、氣が勝ち過ぎて、智慧があり過ぎて氣の毒でしたね」
「それがお前の
「でも、お仙を見て下さい。少し弱氣で、利巧さうではないけれど、申し分のない嫁ぢやありませんか」
「綺麗でありさへすれば、お前には申し分なく見えるのさ。
「男の
「そこへ行くと、八五郎なんかは大したものさ、金もないし、男つ振りも大したことはないが、――氣の強いことだけは、江戸一番と言つても二とは下るまいよ」
「その氣で附き合ひませう」
「良い氣のものだ、――どりやお
平次は面白さうに徳利を引出して八五郎の前へ持つて行くのです。