その頃錢形平次は、兇賊
明神下の家に、戀女房のお靜をたつた一人留守番さしては、鼠に引かれさうで心配でならないので、向柳原の八五郎の叔母さんに泊りに來てもらひ、その代り八五郎は、叔母さんの家にたつた一人。幸ひ寒さに向つて
ところが何んと、錢形平次に追はれてゐる筈の木枯傳次は、平次が名古屋あたりへ行つた頃――つまり江戸を逃げ出して十日も經たないうちに、早くも立ち戻つて、平次のお膝元――神田明神下一角から、佐久間町、久右衞門町、八名川町と八五郎の御膝元なる向柳原一帶へかけて
十一月の末から十二月の始めにかけて、押入られた家だけでも五軒、そのうち怪我人が一人、殺されたのが一人、盜られた金は、三百兩にも上るでせう。八五郎は最初は
「錢形の親分が留守のうち、俺が此邊まで乘出して來ることになつたんだ。八五郎
十二月五日過ぎになつて、錢形の平次はぼんやり長い旅から歸つて來ました。平次が一と月も追つ駈けたのは木枯の傳次の影武者の一人と言はれた、つまらない三下野郎で、大阪へ行くと苦もなくつかまりましたが、親分の傳次に頼まれて、平次を江戸からおびき出すため、東海道五十三次を、僞の證據をバラ
こいつを
歸つては見たものの、江戸の方の
「錢形の親分、さぞお疲れだらうな、――ところで、親分が追つ駈けた木枯の傳次は、全くの影法師で、眞物の傳次はヌクヌクと江戸に居殘り、前にもまして荒れ廻つたことは大方世間の評判でも聽いたことだらうが――」
三輪の萬七は斯う言つた調子です。
「いや、飛んだ
平次は面目次第もなく
「飛んだ上方見物が出來て、拾ひものぢやないか――ところで、その木枯の傳次だ。あれから五ヶ所に押入り、一人に怪我させた上、一人殺して居る。放つちや置けないから、手一杯の網を張つて見た」
「――」
「幸ひ荒し廻るのは明神下から向柳原までで、坂も登らない代りに、橋も越さない。それに鼠みたいに道まで決つて居る」
「――」
「自分の住んで居る近所を荒し拔けば、いづれ巣を變へるだらうが、その前に生捕るつもりで、此邊一帶に網を張つて見た」
「――」
「すると、思つた通り、三度までこの
「――」
三輪の萬七はいかにも口惜しさうですが、
「ところで、その木枯の傳次が三度までも逃げ込んだ場所は何處だと思ふ、錢形の」
「?」
平次は
「向柳原の、あの路地だよ、――八五郎
「――」
「御存じの通りあの路地の奧には、叔母さんの家の二階に八五郎兄哥が住んでゐる外には、足腰の達者な人間は一人も居ねえ、――尤も
三輪の萬七がわざ/\明神下の錢形平次の家を訪ねて來て、斯んな途方もないことを云ふ眞意は一體何んでせう。
この秋から江戸の一角を荒し廻る兇賊
「ね、錢形の親分。あんまり樣子が變だから、内々八五郎兄哥の
「――」
平次はゴクリと
「出たの出ねえの、縁の下や、ドブ板の下から、財布や紙入が十と七つ。それが皆んなこの間から木枯傳次に盜まれた何百兩とも知れぬ金を入れた品だ」
「――」
「それだけ證據が揃つて居るんだ。八五郎兄哥に繩を打つて引つ立てても、文句の出る氣づかひはねえが、十手の
三輪の萬七は、まさに宜い心持さうでした。此處で錢形平次の右の腕――とは言へない迄も、左手の小指くらゐには當るほどの八五郎に繩を打つて、傳馬町の
「それは有難う。三輪の親分なればこそ、それほどの大事を打ち開けて、相談に來てくれたんだ、恩に着るぜ――が、三輪の」
「――」
平次は靜かに語り繼ぎます。
「八五郎は間拔けで飛び上がり者には違げえねえが、まさか泥棒をするとは思はれない――いや、泥棒をするとしても、生得のドヂだから木枯小僧ほどの器用な眞似は出來ない筈だ。それに自分の盜んだ金の入れ物を、自分の家の
「――」
「長いことぢやない、たつた七日――いや三日待つてくれ。八五郎を
平次の出した條件は穩健そのものと言ふよりも、少し
「大丈夫だらうな、錢形の」
「武士なら、
錢形平次もまさに袋路地に追ひ込まれた形です。
「それほどに言ふなら、一應錢形の親分に任せるとしようか。念のために言つて置くが、俺は三十二人といふ下つ引を狩り出して、三度までも木枯の傳次をあの路地の中に追ひ込んで居るんだぜ。路地の入口には町木戸の番屋があつて、路地は一方口の袋路地だ。入口を
「――」
「髷などを賭けると、飛んだことになりさうだぜ。ハツ、ハツ、ハツ、ハツ」
平次のうなづくのを見て、三輪の萬七とお
その後へ八五郎はフラリと入つて來たのでした。相變らず
「今んちは、親分、良い天氣ですぜ。煙草の煙の中に坐つて、モノを考へて居るやうな
「馬鹿野郎」
「へツ、今日は風當りが強さうだ。又出直して來るとしませうか」
「誰が歸れと言つたんだ、――待ちなよ、八」
「へエ」
「足で格子を開けて、人の家の中へ彌造を持込むやうな野郎に、器用な泥棒が出來るかどうか、考へて見るが宜い」
子分思ひの錢形平次は、この涙ぐましき迄の正直者――ガラツ八の八五郎に小言を言つてるのではなく、此處まで
「それは何んのことです、親分」
「先刻三輪の親分が、嫌な事を言つて來たんだよ」
「へエ?」
「近頃御府内を荒し廻つて居る泥棒の木枯傳次を、うまい具合に
「へエ?」
「その路地の住人で、足腰の達者なのは八五郎たつた一人。その八五郎の家の
「誰です、そんな事を言やがるのは」
「三輪の萬七親分だよ、――そこで俺はさう言つてやつたのさ。八の野郎が
「ジヨ、冗談で――」
「覺えがあるなら、今のうちに名乘つて出てお慈悲を願つた方が宜いぜ」
「飛んでもない、親分」
錢形平次の話にも少しばかりの作が入りますが、八五郎の驚きは格別でした。
「それ程の騷ぎを、お前は今まで知らずに居るわけぢやあるめえ。路地の中に木枯の傳次が逃げ込んだと知つたら、何んだつて縛らなかつたんだ」
「それがね、――あつしはこの騷ぎには口をきいても指を出してもならねえと、笹野の旦那に構はれたんださうですよ、――そんな事は親分が江戸に歸つた時、
八五郎の器量の惡さ。
「それは聽いたが、笹野の旦那が、そんなわからねえことを仰しやる筈はねえと思つて聞流して居たが、今から考へると、木枯の傳次が三輪の親分に追ひ詰められて、あの路地の中に姿を隱したんで、三輪の親分がお前を怪しいと睨んでそんな
「へツ、癪にさはるぢやありませんか、親分」
「一體その騷ぎのあつた晩、――木枯の傳次が向柳原の路地の中に追ひ込まれた晩よ、――お前は何處で何をして居たんた」
「三度とも
「何處で、誰と?」
「え――と、最初は十一月二十五日の晩でした。あつしの家と言つても叔母の家ですがね、
「勝負は?」
「あつしが五六目勝ちましたよ」
「二度目は?」
「居留木さんの浪宅で、あつしと居留木さんと打つて居る時で」
「勝負は?」
「中押であつしが勝つたと思ひます」
「三度目は」
「飴屋の甚助の家で、――その時は居留木さんと甚助で打ちました。何しろ甚助の家は路地の口だから、騷ぎが
「外に碁を打つ者はないのか」
「ありますよ、路地内では叔母の家の隣に住んで居る後家のお
八五郎は妙に碁の強いことは、この捕物控の物語の中にも、幾度かくり返して出て居る筈です。
「此處で相談して居ても、木枯傳次の正體がわかる筈はない。出かけて見ようか、八」
「ぢや行つてくれますか、親分」
八五郎は妙な心持でした。が、錢形平次が出動してくれさへすれば、事件は半日經たないうちに解決して、木枯の傳次はヒヨイとつまみ上げの、自分に着せられた
「お前の住んでゐる路地には、どんな人間が居るんだ。もう少し
途々平次は八五郎の口から、出來るだけの材料を引出さうとして居る樣子です。
「親分も御存じの通り一番奧が叔母の家で、その二階に居るのはこのあつしで――」
「お前は勘定しなくても宜い」
「奧から順に言ふと、一番奧――叔母の隣がお大婆さんで、たつた一と握りほどの年寄の
「無駄が多いな、お前の話は?」
「大した
「それは間違ひもなく
「婆アの泥棒なんか年代記もので、――杖を突いて押込んで、入齒を落したとたんにつかまる」
「又無駄だ」
「尤もそのお大婆さんの孫娘のお歌は大した
「それから?」
「その隣は浪人者で
「碁は強いのか」
「あつしと互先ですよ、――居留木さんの隣は飴屋の甚助で、これは三十五六の男盛りだが、弱氣ではにかみ屋で、少し
「變な人間が揃つて居るんだな」
「その三軒の長屋の前は、御存じの質屋の黒板
「よし解つた、――おや、さう言ふうちにもう向柳原ぢやないか」
平次はさう言ひ乍ら、町木戸の裏の番屋の
「
「おや錢形の親分」
番太の吉六は、膝の上の
「ところで三輪の萬七親分が三度ばかりこの路地に泥棒を追ひ込んださうだな」
「へエ、大變な騷ぎでございました」
「その時の樣子を
「十一月の末から三度、――確か二十五日と二十七日と、今月に入つて四日、月のない晴れた晩ばかりで、三度とも宵のうちでございました。三輪の親分が豫々木枯の傳次の巣はこの邊と睨んでゐたさうで、八方から網を
番太の吉六は
「それは三度共、町木戸の閉まる前だつたのか」
「
「その日は夕方から宵にかけて、路地を出た者はなかつたのか」
「出た者も入つた者もありますが、一々氣も付けて居りません」
「逃げ込んだのは、三度とも
「黒裝束で恐しくはしつこいのをちらつと見ただけで、確かなことは申上げられませんが、三度とも同じ野郎だつたと思ひます」
「黒裝束?」
「黒の
黒の頬冠り? それは新しい事實ですが、それ以上にこの老人からは引出せさうもありません。
「八、お長屋の衆に引合せてくれ。お前が木枯の傳次でなきや、一應皆んなの顏を見なきやなるまい」
路地を入ると右手は三軒長屋で、突き當りの一軒は八五郎の叔母の家。そして左手は質屋の黒板塀が、忍び返しも嚴重に、塗り立ての墨の生々しさを見せて恐しく
「どうだえ、お前が木枯の傳次だとしたら、この黒板塀へ飛び付いて質屋の庭へ逃げ込む工夫はないか」
平次はニヤニヤと
「冗談でせう。忍び返しは鐵のやうに丈夫だし、黒板塀は塗つたばかりで、引つ掻きを
ガラツ八は木枯の傳次になり濟して、これも斯んな受け應へをして居ります。
右手の三軒長屋は
「すると木枯の傳次は、突き當りのお前の叔母さんの家へ飛び込むより外に、逃げ路はないことになるぜ――俺が三輪の萬七親分でもこいつは八五郎を縛り度くなりさうだぜ」
「嫌だね親分」
そんな事を言ひ乍ら、二人は取つつきの飴屋の甚助の家の前に立つて居りました。
「居るかえ、飴屋の大將」
「あ、八五郎親分、――今日はいけませんよ。
さう言ふ飴屋の甚助は、三十四五のまだ若い男で、少々
隣は浪人の
「錢形の親分か、――いや、お隣の話を聽いたよ。八五郎親分が泥棒の汚名を
と言つた調子です。
三軒目の後家のお
「錢形の親分さんで、御苦勞樣でございます。八五郎親分にはこの間から飛んだお世話になつて居ります。女二人世帶で、淋しがつて居りますので、孫のお歌なんかは八五郎親分、八五郎親分と、そりやもう夜も日も――」
「あれ、お婆さん、止して下さいよ。そんな極りの惡いことを」
後ろからそつと袖を引くのは、十九といふにしては、
平次は尚も立ち入つていろ/\訊いて見ましたが、この三軒に住む四人の男女は、いかにも無害なお長屋の住人達で、少しの怪しい節もなく、
「成程、こいつは八五郎が一番怪しいといふことになりさうだぜ」
「冗談ぢやありませんよ、親分」
「
「二度目と三度目は、あつしは家を
「すると、益々お前が怪しくなる」
「嫌になるなア、親分」
これは全く解きやうのない謎でした。
平次は最後に殘された探索の網を
十一月二十五日に押込んだのは、佐久間町四丁目の油屋山崎屋與兵衞で、
「へエ、――
主人の與兵衞は
「――仕方がないから二階に居る女房を呼んで、仕入れの爲に用意した、五十兩の小判を、財布ごと持つて來さしてやつてしまひました。いや、その
主人はまだその五十兩を忘れ兼ねた樣子です。
賊の木枯傳次は始終緊張した態度で、用心深く
二度目の十一月二十八日、押入つたのは、
「小柄でオドオドした男でございました。スーツと入つて來たと思ふと、騷ぐ主人を一と突きにして、默つて金を受取つて、あつと言ふ間に飛び出してしまひました。
これは萬屋の番頭の言葉でした。
越えて十二月四日に押入つた、久右衞門町藏地の家主半兵衞の家では、
「小柄といふ方ではなく、どつちかと言へば
半兵衞の女房は
「どうだ八、解つたか」
「いえ、一向」
三軒廻つた後で、平次は一寸八五郎をテストして居ります。
「俺には大分わかつて來たが、――仕上げをし度いことがある。明日、いや、
「そりや、やつて見ませう」
「三軒長屋の衆を皆んな集めるわけは、今度俺の用事で明神下へ引越さなきやならないことになつたに
「?」
「變な顏をするなよ、お前の
「へエ、濟みません」
平次は八五郎の手に小粒を二つ三つ握らせて、その日はそれで別れました。
家へ歸つて來ると、其處に待つて居たのは、苦蟲を噛みつぶした、三輪の萬七とお神樂の清吉です。
「おや、三輪の親分、留守にして濟まなかつたね。何にか用事で」
平次は如才なく二人を迎へ入れました。
「錢形の親分、約束の三日は明後日だが、それ迄待つて居られない事になつたんだ」
「はて」
平次はお茶などをすゝめるお靜を、眼顏で追ひ退けて靜かに煙草を
「清吉の野郎が、八五郎
三輪の萬七は勝ち誇つた姿でした。三尺の黒木綿を、これ見よとばかりに平次の前に押展べるのです。
「――」
平次は默つてそれを取上げると、念入りに調べ始めました。が、やがて側に萬七と清吉が居るのも忘れた樣子で、明り先に手拭を持つて行くと、打ち返し打ち返し念入りに調べるのです。
「どうだえ錢形の」
「面白いな、――ところで、この手拭に附いて居た髮の毛は、まさか捨てはしないだらうな」
「其處に
萬七は懷紙の大きく疊んだのを取出して平次の前に押し開きました。中から出て來たのは三筋の髮の毛。
「三輪の親分、この髮の毛は三筋とも色合ひも形も違つてゐるのはどういふわけだらう、――一本はひどい
「?」
「手拭にもまだ短いのが澤山附いて居るが、皆んなこの三通りの毛ばかりだ。言ふ迄もないことだが、八五郎の毛は赤くて太くて熊の子のやうだ。そんなのはこの手拭に見付からないやうだが――」
三輪萬七は明かな負けでした。スゴスゴと歸つて行くのを呼び止めて、黒木綿の手拭を借りた平次は、なほも殘る夕陽を追つて縁側に持出し、一生懸命調べ續けて居ます。
その晩八五郎の家――といふよりは叔母さんの家に集まつたのは、八五郎の外に、浪人の
その間に客があつたり、人が來たり、居留木角左衞門と甚助は自分の番でなくて見物に廻つてゐる間に一度づつ座を外しましたが、勝負に夢中になつて居る八五郎はそんな事さへ氣がつかない樣子で、やがて二番目の手合八五郎と甚助の二子番は、八五郎の中押にならうといふ時でした。
「火事だツ、飴屋さんの家が火事だツ」
路地の外にわめく聲、ハツと立ち上がると、入口の障子にパツと映つたのは、
「それツ」
甚助も角左衞門も飛び出しました。八五郎も勝つた
「何んの事だ」
舌打をして歸らうとする矢先、
「御用ツ」
「神妙にせい。木枯の傳次、御用だぞツ」
路地の内外からどつと湧いた御用の聲。
「や、
闇の中に
「親分、これは何んです」
八五郎はまだ黒の
「
「この三人のうち誰が傳次です」
「三人共木枯の傳次さ」
「へエ?」
「もう一人、若くて綺麗な木枯の傳次は早くも風をくらつて逃げてしまつたよ」
「あのお歌?」
「さうだよ、でも――八五郎親分に罪はない、あの人は正直過ぎるから、仲間の皆んなに道具にされました――と手紙を書いて俺の家へ投り込んだのは、どうもあの娘らしいよ」
「
「今日さ、夕方だつたよ、――今晩の碁會が怪しいと早くも氣が付いたのだらう。どうかすると木枯の傳次といふのは、あの娘のことかも知れないな」
平次の言葉は見事に當りました。取調べの進むにつれて、木枯の傳次といふのはお歌のことで、あれは三十近い大年増でしたが、綺麗なので十九とも二十とも言ひ、數人の男とお大といふ
× × ×
「どうして惡者共は碁の席から拔け出したり、そつと歸つたりしたのでせう」
事件落着後、八五郎の問ひに對して、平次はいつもの繪解きをしてやりました。
「お前が夢中になつて居る時、そつと拔け出したのさ。だから第一夜お前と甚助の手合せして居る時、
「へエ」
「三度目には、甚助と角左衞門の手合せの時、お歌が拔け出したのだ、――そんな具合に三人がお前といふものを道具に使つて、交る/″\拔け出して惡事を働いて居たのだ」
「どうしてそれがわかつたんです」
「三晩の
「へエ、
「呆れるのはお前だよ、岡つ引が泥棒の道具になるのは
平次はさう言つて