兩國橋を中心に、大川の水の上にくり
船は大型の屋形で、乘つて居るのは主人吉兵衞、娘お清、養子の喜三郎、番頭周助、それにお長屋の衆が五六人
夜は暗く、雨模樣でさへありました。六月二十二日の月はまだ昇らず、意地惡く風さへ死んで、飮んで騷いで大汗になつて、この
この狂躁曲の演出者は、
これだけ藝達者が揃ふと、小唄や
「あゝくたびれた。まるで御馬前に討死の覺悟でやつてるやうなものだ、安い日當ぢや斯うは
野幇間の善吉は、良い年をして居る癖に、お
妙に生温かいと思つたら、夕立の來る前觸れでもあつたのでせう。金龍山の堂の上あたりで、遠
「あツ、怖い」
「もう歸りませうよ」
若い女達の騷ぐのへ押ツ冠せるやうに、
「雨なんか來るものか、――まだ早いよ。お
養子の喜三郎、良い男で道樂者で、精力的で押が強くて、遊びに飽きることを知らないのが聲を掛けると、
「酒だ、酒だ」
野幇間の善吉がそれに應じました。
「此處で用意した
喜三郎は最初の一本――赤い紐で徳利の口に目印をつけたのを、養父の吉兵衞にすゝめて、あとは一本づつ男の膳に配らせました。それが一巡りゆき渡ると、又も
浪人者
「こいつは三味線に乘りつこはねえや。此方は一番すてゝこと行かうか、お家の藝だぜ」
善吉はフラフラと立ち上がりました。
「駄目よ、師匠は醉つて居るから、――あ、あ、それ御覽、お膳を
お
丁度その時でした。又一陣の突風がサツと吹いて來ると、
「あ、
主人吉兵衞の聲が船の中程からかゝると、
「へエへエ唯今、
その灯がなか/\手輕るに提灯や手燭には點かず、船中を硫黄臭くして居る最中、
「あ、わツ」
不思議な絶叫と共に、凄まじい水の音がして、船の中まで
「若旦那が見えないぢやないか」
小間物屋のおかみで、おけさといふ中年女は若旦那の喜三郎と向ひ合つて居たので一番先に氣が付きました。
「お
野幇間の善吉は、けろりとして膳を
「船の上だよ、お前さん」
それをたしなめるやうにおけさは
「さう言へばツイ今しがた、――水の音がしたやうだが――私は魚がはねるのかと思つたけれど」
年増藝者のお粂でした。
「川なら大丈夫で。
番頭の周助は柄にもない
「それにしても、斯う暗くちや」
船中は興も醉も醒めてしまひました。船頭を走らせて夜中
「何しろ酒を呑んで居たからなア、少しくらゐ泳げたところで――」
「その喜三郎の死骸が、今朝百本
翌る日の朝、この報告を、明神下の錢形平次のところへ持つて來たのは、お馴染の八五郎でした。
「道樂息子が一人、醉拂つて、土左衞門になつたところで、十手を振り廻すわけにも行くめえ」
平次は自若として、戀女房のお靜のくんでくれる、食後の茶を樂しんで居ります。六月の朝陽は、貧しい縁側一パイに這ひ寄つて、今日もどうやら暑くなりさう。
「ところが、その死骸の肩のところに、突き傷があるとしたらどんなものです」
「百本杭の釘にでも引つ掛つた傷ぢやないのか」
「そんな引つ掻き見たいなものぢやありませんよ、
「成程そいつは容易ぢやなささうだ。行つて見よう」
「親分が行つて下されば、晝前に
これは併し八五郎の見當違ひでした。里見屋の養子喜三郎を怨んで居る者は、實際五人や七人ではなかつたのです。
龜澤町の家主吉兵衞は、町役人では顏の利いた方で、内々は高利の金も廻し、
「飛んだことで、――ところで佛樣は?」
「まだそのまゝにしてありますが」
主人の案内で平次と八五郎は奧へ通されました。しもたや造りですが、暮しの良さが反映して、
喜三郎の死體は、奧の六疊に寢かしてありました。變死となると檢屍にどうしても半日はかゝるので、まだ何も彼も其儘。僅かに
平次はいつものやうに一禮してから、死體の側に
顏に少しのむくみもなくて、齒を喰ひしばつて眼を剥いた激しい苦惱の跡は、良い男の死顏を散々なものにして、二た眼と見られない物凄さがあります。
「傷はどこだ、八」
「これですが」
八五郎は平次の
「
「
八五郎はそれも氣樂に片付けてしまひます。
平次は默つて死體の左肩口に口を開いてる傷口を見詰めて居ります。長さ一寸ばかり、肉がはぜて、四角に見えますが、深さは大したこともないやうです。
「
「鑿で突き殺したのですね」
「いや、これくらゐの傷では死ぬまいよ、――若くて達者な男が――」
平次もこれ以上は見當もつかない樣子です。
その時、部屋の中にそつと入つて來て、邪魔にならないやうに、平次と八五郎の檢屍振りを見て居る者があります。
それは十八九の若い娘で、美しいとは言へないまでも健康さうで單純らしくて、なか/\に好感の持てるきりやうです。
「お前は?」
平次は顏を擧げました。
「お孃さんで、お清さんと申しますが」
番頭の周助が代つて答へました。
これが里見屋吉兵衞の一粒種で、やがては死んだ養子の喜三郎と祝言させる相手だつたのでせう。
「御主人、これは容易ならぬことらしい。萬事打ちあけて話しては下さらぬか」
別室に主人の吉兵衞と對座して、平次は折入つた調子でした。
「私にも
吉兵衞も昨夜から思案に餘つて居るらしく、平次の叡智にすがる心持で一ぱいです。
「先づ第一に喜三郎さんの身持はあまり良くなかつたやうに聽いたが――」
「私の口から申上げ兼ねるが、全く話の
「では、怨んでゐる者もあつたことでせうな」
「それはもう」
主人の吉兵衞は、分別らしく
「それを養子にしたのは、わけのあることでせうな」
「私に取つては義理のある兄の子で、男の子のない私が跡取りにするのは世間並のことでしたよ」
「お孃さんもその氣になつて」
「いや、死んだ者のことを惡く言つては濟まぬが、娘は何んと言つても十八になつたばかりで」
「――」
「道樂者の喜三郎を好きになる筈もありません。その上、この頃の喜三郎の仕打は、増長がひどくなつて、私を
「――」
「あまりのことに私も辛棒がなり兼ねて、近いうちに親類達に寄つて貰ひ、離縁をする段取まで出來て居りました」
「喜三郎さんもそれを知つて居たことでせうな」
「それはよく知つて居りました。あんまり
「放埒といふと、金のつかひやうでもひどかつたわけで?」
「いや、そんな事ではない。金は費つたところで、若いうちのことだから、大目に見られないこともなかつたのだが――」
吉兵衞の話は奧齒に物が
「昨夜のことは?」
平次はそれとなく、
「今から考へると私共風情にしてはやり過ぎでした。近頃ムシヤクシヤして居るので、思ひきつたことがやつて見たかつたので」
吉兵衞はさすがに年の手前も
「もう少し
平次は少しジリジリしました。
「兩國を出たのは
「で、言ふまでもないことですが、酒も料理もみんな同じだつたことでせうな」
「いや、申譯ないことだが、私は酒だけはやかましくて
「夕立が來さうになつて、
「魔がさしたのですね。二度目の風で船中の
吉兵衞は僅かに養子の喜三郎の性惡さに觸れました。
錢形平次は、昨夜凉み船に乘つた者に、一人々々會つて見る氣になりました。里見屋の持つて居る長屋は、五軒や十軒ではありませんが、凉み船に乘つたのはほんの七八人で、龜澤町の一角に片寄つて居るのは何より好都合でした。
里見屋の隣の
「左樣、若旦那の喜三郎はあまり評判が良くなかつたやうだな。が、殺すといふのは容易のことではない、――拙者には
そんな事を言つて、ケロリとして居るのです。
「提灯は消えても、水明りや空明りはあつた筈です。御武家の出石樣が、眼の前の殺しに氣が付かない筈はないと思ひますが」
平次は突つ込んで見ました。
「まさに一言もない――が、喜三郎が
「よくわかりました。出石樣が其處まで仰しやつて下されば、私の方も大變助かります」
平次は其處を宜い加減にして、小間物屋のお神のおけさ母娘を訪ねて見ました。これは龜澤町の表通りには違ひありませんが、一間半口の
四十女のおけさは、無遠慮で圖々しくさへありました。昔は美しくもあつたでせうが、世帶の苦勞が骨の
「若旦那が殺されたんですつてね。當り前ですよ、殺し手がなきや、私が殺したかつたくらゐのもので、――あんな薄情でケチで、
おけさの毒舌は、際限もなく發展するのです。
「お前のところにも娘があつた筈ぢやないか」
「娘はありますが、うちのお六はまだ十六ですよ」
さう言ふおけさの袖の蔭に、女になりかけた可愛らしい娘が、物に
母親のおけさの激しい調子から見れば、この十六娘も、家主の伜の、恐るべき獵色家の前には、決して無事では濟まなかつたでせう。
平次の足は其處から隣の勘太郎の長屋に向ひました。若い
「親方、大層精が出るぢやないか」
仕事場でせつせと仕事をして居る勘太に、平次は敷居越しに聲を掛けました。
「急ぎの仕事を持込まれてね」
何やら箱のやうなものを拵へて居る勘太は、不精無精の顏を擧げました。店が
「
平次は相手の勞働意欲に壓倒されたやうに敷居に腰をおろしました。
「錢形の親分でせう、――折角だが、あつしは何んにも知りませんよ」
勘太は少しばかり劍もほろゝです。
「昨夜、親方は若旦那の喜三郎と隣り合つて坐つて居た筈だ。何んにも知らないでは濟まされないと思ふが――」
平次は一應
「さう言へば、若旦那が川へ落ちたのは、唯事ぢやないと思つたが――あつしと若旦那の間に
勘太は小首を
「ところで、親方は若旦那の喜三郎を怨んぢや居なかつたのか」
「怨んで居ましたよ。妹のお榮がひどい眼に逢はされたからね」
勘太は齒に
「お前の
「大工と違つて、指物師は滅多に一寸鑿は使ひませんよ。そいつは
勘太は昂然として言ひきるのです。さう言へばそんなものかも知れません。
「妹のお榮さんは居るかえ」
「お勝手に居りますよ、――あの娘に逢つたところで、何んにもなりませんよ」
勘太は妙に氣を廻しますが、平次は矢張りその娘に會ふことにしました。
「お榮さんと言つたね」
お勝手に顏を出した平次の前に、
「あら、私」
「お前は里見屋の若旦那をどう思ふ」
平次の問ひは唐突でした。が、お榮はその唐突さに氣のついた樣子もなく、
「良い方でした、――氣の毒なことに――」
と
「お前と勘太親方とは、本當の兄妹ではあるまい」
平次は妙なところへ氣が廻りました。
「え、本當は
お榮のさり氣ない言葉の
最後に平次の訪ねたのは、同じ里見屋の長屋に住む
「いよう、これは錢形の親分」
などと、五十男の善吉が物事を茶にしてかゝるのを、
「師匠、今は人の命に拘はることだよ。里見屋の若旦那を殺したのは、お前かも知れないと思つてやつて來たんだ」
平次はガツキと受け留めて、頭から
「冗、冗談でせう。後家や新造殺しなら身に覺えはあるが、男の子は苦手で、附き合はないことにして居ますよ、親分」
善吉はすつかり面喰つて居りました。
「さう言ふお前が、喜三郎の側に居たぢやないか。川へ投り込んで
「とんでもない、あつしは
善吉は泣き出しさうです。
「それぢや訊くが、喜三郎が船から落ちた時、もう一度船に這ひ上がらうとした筈だ。
「その通りですよ、親分。若旦那が船から川へ落ちて、暫らく水に沈んだやうでしたが、間もなく浮び上がつて、
「それは本當か、善吉」
「見たわけぢやありませんが、昨夜の潮の具合ぢや、そんなことになりさうです」
善吉の辯解は苦しさうです。
「サア、大變ツ、親分」
翌る日、ガラツ八の八五郎が
「何が大變なんだ。頼むから五六日その大變を封じてくれないか、壽命の毒だぜ」
平次はさして驚く樣子もなく――實は心待ちに八五郎の報告を待ち乍ら、粉煙草と朝顏と、女房のお靜の奉仕に滿足しきつて居るのでした。
「ところが、待つちや居られませんよ。三輪の萬七親分が、お神樂の清吉をつれて來て、指物師の勘太を擧げて行つたから
八五郎は自分の
「さうか、そいつは一足先にやられたかな」
「何んです? 親分」
「實は俺も勘太を擧げようかと思つて居たんだ。死體には
「へエ?」
「喜三郎は本所名題の
「へエ、そんなものですかね」
八五郎は
が、事件はこれからの發展が更に奇怪を極めたのでした。
三日目の朝、もう一度八五郎が、髷節で
「サア、大變。親分、今度こそ本當の大變だ、
「止さないかよ馬鹿々々しい。大變の申し子が、大變
平次は古渡りの大變くらゐには驚く色もありません。
「里見屋を覗いて見ると、番頭の周助が死ぬか生きるかの大騷動ぢやありませんか」
「どうしたといふのだ」
平次もさすがに立ち上がりました。
「行つて見て下さい。毒を呑んだやうで」
「人に盛られたのか、自分で呑んだのか」
「其處まではわかりませんが、――死に度くない、死に度くない――と言つて居るさうで」
「
平次と八五郎は二頭の三歳駒のやうに、兩國橋を渡つて龜澤町へ一氣に飛びました。
里見屋へ行つて見ると、
「一と足遲れましたよ、親分。周助は今息を引取つたばかりで――」
主人の吉兵衞は、さすがに顛倒して出迎へます。
「そいつは
店の隣の周助の部屋に通ると、散々に取り亂した中に凄まじい死骸を守つて、まだ町内の本道が、坊主頭に湯氣を立てて去りもやらずに居るのでした。
「毒が薄かつたので、一と晩苦しみ拔いたが、――矢つ張り助からなかつた」
本道は獨り言のやうに言ふのです。
「毒は何でせうね」
と平次。
「
「そんなものを、何んだつて呑む氣になつたでせう」
「間違ひだよ、錢形の親分、――一昨夜の凉み船で呑んだ酒の殘り、徳利に殘つて
主人吉兵衞の指した通り、死人の枕元には一升徳利が一本、小型の茶碗を添へて供へてあるのです。
平次はその酒を嗅いでみましたが、もとより何んの臭ひがあるわけではなく、
「凉み船の中で酒の毒に
「一人もなかつた」
主人は答へました。
「?」
平次は何やら深々と考へ込んで居ります。
「不思議なことがあるものだな、錢形の親分」
「いえ、私には段々わかつて來るやうな氣がします。――お孃さんに少し訊き度いことがありますが」
平次はあの子供々々したお清に何を訊かうといふのでせう。
「ね、お孃さん、隱さずに言つて下さい。あの凉み船の中で起つたこと――お孃さんは何にか知つて居るに違ひないと思ふんだが」
小部屋にお清を
木綿物の質素な單衣に、赤い
色の淺黒さも、紅白粉と縁の遠いのも、この娘をひどく地味に見せては居りますが、斯う近々と側に寄ると、純情で總明さうで、得も言はれない新鮮な魅力があるのです。
「でも」
お清は
「言つて下さい。少しも怖がることはない。何を聽いても、私はこの場限りといふことにしませう、――相手を平次とは思はずに、石の地藏に向つて獨り言のつもりで言つて下さい」
娘の清潔さと、その善良さを見拔くと、平次は斯う言はなければならなかつたのです。
「でも――私は
「それから」
「赤い紐で首を
お清はこれだけ打ち明けるのが精一杯でした。が、何んの
平次はそれで滿足した樣子でした。店の方に出て來ると、八五郎を物蔭に呼び出して、何やら
その晩遲くなつてから、八五郎は誰やらと一緒に、今度は泥棒猫のやうにそつと入つて來ました。
「親分、
親指を
「よし/\、あんまり
平次に注意されて、引返した八五郎は、間もなく泥醉した大坊主――
「善公、しつかりしろ。錢形の親分が、お前に訊き度いことがあるんだとよ」
「何をツ」
善吉はきよとんと
「確かりしろ、善公。お前は、ヂツとして居られない事があるんだらう、それで一日飮み廻つて、自分で自分の氣持を
「親分さん」
「みんな言つてしまつてはどうだ、――大した惡氣でやつたことでもあるまい。が、喜三郎が死骸になつて百本
平次の言葉は決して烈しいものではありませんが、善吉に取つては
「泳ぎ自慢の若旦那が、
善吉は思ひきつた樣子で、フラフラと醉顏を擧げました。
「川へ突き落したのだな」
「突き落したわけぢやございません。落ちさうになつたのを、押へてやらなかつただけで」
「少しは落ちる手傳ひもしたことだらう」
「飛んでもない、親分」
「――」
善吉は大きく手を振りましたが、がつくり首を垂れると、思ひきつた調子で斯う語り續けるのです。
「でもね、若旦那のことを考へると、私の胸は煮えくり返りますよ、――私は斯んな――
野幇間の善吉は泥に
「もう宜い、歸れ、――いや、一人ぢやむづかしからう。八、善公を龜澤まで送つてやれ」
「へエ」
これも上がり
「里見屋の喜三郎は、親殺しの毒酒を仕掛けて、間違つて自分が飮んだのだ。
「有難いツ親分」
八五郎は思はず飛び上がりました。
「何を愚圖々々して居るんだ、早く善公をつれて行つてくれ。俺は醉つ拂つた
「へエ」
「三輪の親分にもさう言つてやるが宜い。隅田川を
「そいつは是非言つて來ますよ。遲くなつてもわざ/\三輪へ廻つて」
「夜が明けるぜ」
「夜が明けたつて日が暮れたつて驚くものですか」
八五郎は善吉を