「親分は
ガラツ八の八五郎は、いきなりそんなことを言ふのです。御用も一段落になつた春のある日、後ろに一
「
錢形平次は氣のない返事でした。天氣は上々、春は
「虫や魚の話ぢやありませんよ。それ、
「
「さう、さう、そのけえづのことですがね」
「下らねえ
「
「さうだらうとも、五匁玉半分煙にして、
「どつちも欲しかありませんよ。痩せ我慢のやうだが、江戸中の娘にがつかりさせるのも殺生だし、御用聞が金を貰ふと、後が怖いから」
「良い心掛けだよ、お前は」
「そのけえづなんですがね、親分。一つ搜して見る氣になりませんか。首尾よく手に入ると、御褒美の金が何んと小判で百兩」
「止さないか、馬鹿々々しい。そんなものに掛り合つてゐると、御家の騷動に捲き込まれて、腹を切らされるよ」
「へエ、さうでせうか?」
「歌舞伎芝居や
平次はまるつ切り相手にしません。
「さう言はずに聽いて下さいよ。お禮は兎も角、こいつは
「何處かでまた、おだてられて來たんだらう。兎も角、話して見な。事と次第では、小出しの智惠を貸さないものでもない」
「有難いね、親分が引受けて下されば、
「おだてちやいけねえ」
「親分は、染井
「そんな
「小父さんぢやありません。江戸
「ハテネ?」
八五郎の話は、相變らずまことに
染井右近といふのは、王朝時代に
染井の當代は
もとより、世を
その頃の人達――わけても若い野心家達は、出世といふことを、どんなに熱望したことでせう。家柄や
假に金を積んで旗本御家人の株を買ふことが出來たといつても、その爲には少なくとも數千金を投じなければならず、一般の貧乏人などには、どんなに才能があつたところで、出世や立身などといふことは、夢のやうな話です。
それが、祖先の手柄を認められて、公儀からお召となつたのですから、染井家一門の喜びは大變なもの。
ところが、いざ名乘つて出ることになつて、當主の染井鬼三郎は中風で寢たつ切り、
當主の甥の福之助、
「レロ、レロ、レロ」
と、これは
「そこで、錢形の親分を頼み度いといふわけ、こいつは無理もないでせう。その系圖が出て來て、恐れ乍らと
八五郎はその褒美を貰つてしまつたやうに勢ひ立つのです。
「待ちなよ、八、俺が大名に取立てられるわけぢやあるまい」
平次は泰然として馬鹿なことを言ふのでした。
「當り前ですよ。錢形の親分は、どんなに捕物が名人でも、大名になつてくれとは言やしません。
「それぢや止さうよ。尤も、大名なんかには成り度くないがね。此上、天下の喰ひ潰しを一人殖す手傳ひも御免蒙らうぢやないか」
「喰ひ潰し?」
「俺はさう思つて居るよ。大名が多くなれば、百姓町人は難儀するばかりさ。尤も、俺が
「
八五郎は
それから三四日、大事な追ひ込みがあつて、八王子まで行つた平次が、御用が一段落になつて神田明神下の家へ歸り、一と晩休んで、漸く旅の疲れが取れたところへ、八五郎がプリプリし乍らやつて來たのです。
「親分は戻りましたか――」
「
女房のお靜は、お勝手から廻つて、格子の横へ顏を出しました。
「今日は親分に文句を言ひに來ましたよ、――だから言はないこつちやねえ――と」
「あら、八さん、どうなすつたの? 大變な御機嫌ね。喧嘩ぢやありませんか、肩のあたりは大變な泥ですが」
お靜は心
「放つて置いて下さい。巣鴨で小半日
「まア、まるで、私のせゐ見たやうね。どうなすつたの、八さん」
お靜は手を引つ込めて、大きい眼を見張りました。いつまでも娘氣の拔けない、
「親分が直ぐ出かけて下されば、こんな騷ぎにならずに濟んだかも知れませんよ」
八五郎がぷん/\してゐる原因は、其處でした。
「何を言やがる、俺が旅へ出たのが惡いといふのか」
平次は奧から顏を出しました。
「さう言ふわけぢやありませんがね」
八五郎は少したじろぎます。
「それぢや、どうしろと言ふんだ」
「人が殺されましたよ、親分。斯うなりやこちとらの
「誰が殺されたんだ」
「巣鴨の染井鬼三郎が、
「
「それが判りさへすれば、あつしの手柄にしましたよ」
八五郎は始めて肩を落してニヤリとしました。錢形平次ともあらうものが、不意を突かれると、斯んな
「さうか、そいつは成程俺の手ぬかりだつたが――百兩欲しさに、系圖搜しは俺の性分では出來ないことだよ。それに御用があつて八王子――いやこいつは言ひわけだ、八五郎さへ面白くねえ顏をして居るくらゐだから、止して置かう。ところで、留守中にどんな事が起つたのだ。
平次は
「巣鴨の染井鬼三郎が殺されたのは
まさに驚天動地と言つた、
「成程、これは大變だ、――それからどうした」
「それつ切りですよ、――死骸の見えなくなつたのは
「フーム、その死骸――といふか、佛樣を置いた部屋には誰も居なかつたのか」
「お通夜は半通夜で、近所の衆も親類方も引取つて貰ひ、近い身内の者と、あつしを始め土地の御用聞だけが、
「すると、暫らくの間は佛樣だけか」
「ほんの四半刻(三十分)くらゐのものでしたよ。
「成程な」
「氣が附いて見ると、――鬼三郎の娘のお
「その娘は幾つだ」
「十八、父親が變りもので自分の名前に
「物好きだな、兎も角出かけて見よう。實地を調べた上でないと話が出來ない」
旅の疲れも拔け切らない平次は、事件の
晝近い春の陽、うら/\と
巣鴨の染井家は、まことにてんやわんやの騷ぎでした。主人と言つても、隱居同樣の染井鬼三郎が、床の中で絞め殺され、その始末もつかぬうちに、翌る晩には、死骸が
「錢形の親分ださうで、私は亡くなつた主人の甥の福之助でございます。飛んだお手數をかけます」
四十前後の、それは立派な男でした。染井家は土地の舊家で、何百年と傳はる豪族ですが、大した金持といふわけでは無く、かなりの土地を持つて、その收入で手堅く暮してゐると言つた、江戸の郊外によくある旦那衆だつたのです。
「大變なことでしたな。ところで、あつしは旅から歸つたばかりで、何んにも知りません。最初から
年代の古びたドツシリした調度の中に、平次は――今は此家の主人同樣の福之助と相對しました。
「
「鬼三郎さんは身體がよくなかつたといふことだが――」
「左樣で、二年前からの
「戸や窓は開いて居なかつたのかな」
「二階の窓が開いて居たさうで。二階と申しても、中二階同樣の至つて低い二階や、格子も何んにもありませんから、その氣にさへなれば、女子供にも忍び込めます」
「その伯父さんを
「そんなものがあるわけもございません。中風で寢たつ切りの佛樣のやうな伯父で」
「その伯父さんを殺して、誰が
平次はズバリと言つて退けました、向う三軒筒拔けに聽えさうな聲です。
「儲かる者なんかあるわけはない。現に、染井家祖先の手柄について、公儀の御調が始まつて居る最中です」
福之助は少しムツとした調子で答へました。
「伯父さんが、亡くなれば、公儀のお調べもそれツ切りになるわけで」
「いや、そんなことは御座いません。當主の染井鬼三郎が急死すれば、その跡取になつて居る、甥の私が當主といふことになります」
「すると、貴方は矢張り儲かる方で」
「何、何んといふことだ。町方役人とは申せ、私も
福之助は、いかにも
「いや、これは飛んだことを申しました。ところで、御内儀は?」
平次はあわてて話題を
「私が、當家の家内、富と申します」
後ろの唐紙が開いて、蒼白い顏が挨拶しました。三十七八の淋しく
「あ、丁度宜い、錢形の親分に、いろ/\申し上げるが宜い」
福之助は口を添へました、今までこの内儀は、
「何んにも申上げることはございません。私はこの二日間、お勝手の方にばかり居りましたので」
「すると、鬼三郎さんが死んで居るのを見附けたのは?」
「
「そのお梅さんとやらは」
「此方へ呼びませう」
福之助が手を叩いて下女を呼ぶと、何やら言ひ附けました。と間もなく、二人の若い娘が押し並ぶやうに、縁側に手を突くのです。
「これは家内の姪のお梅、――そちらは、
「――」
平次は妙な氣持になりました。内儀の姪のお梅といふのは、豊滿な娘で、もう二十近く、少しばかり下品ですが、
「お幽さんに訊き度いが、どうしてお前さんは、此家に住まなかつたんだ」
平次はこの淋しく美しい娘に問ひを向けました。
「父親の
「中氣で身體の自由でない父親が――」
「それは何より私の惱みでございました。でも、伊之吉が居てくれるから、お前は心配はいらないと、父は申しました」
「伊之吉?」
「あの方が伊之吉さんで」
お幽の指した方を見ると、庭で何やら用事をして居る若い男、それは遠縁の者で、此家で手代のやうに働いて居る青年だつたのです。
「何んか私に御用で?」
自分の名を呼ばれて氣が附いたらしく、伊之吉は縁側近く來て
「いろ/\訊き度いが、主人鬼三郎さんが殺された晩、何にか氣のつくことはなかつたか」
平次は平凡なことを
「何んにも存じません。旦那樣のお手當をして、宵のうちに自分の部屋へ引込んでしまひましたので」
「翌る日の夜、死骸のなくなつた時は?」
「一日親類方へ知らせに廻り、よほど疲れたものと見えて、半通夜が濟むとぐつすり寢込んでしまひました」
「すると、二た晩とも、何處へも行かなかつたわけだな」
「その通りでございます」
「亡くなつた主人のことをお前はどう思ふ」
「立派な、良い方でしたが、――でも御病氣のせゐか、近頃は少し氣むづかしくなつて居りました」
「何にか、主人のことに就いて、お前は變だと思つたことはないか」
「さう、さう言はれると、御主人には妙な
「癖?」
「あんなにお身體が不自由なのに、
「湯に入るときはどうする」
「行水をお使ひになりましたが、その時でも腹卷は卷いたつきりで、身體を
「それはどういふわけか、お前には解るだらうと思ふが――」
平吹は突つ込んで訊きました。
「旦那樣の背から腹へかけて、帶幅ほどの
「彫物?」
「
先代染井鬼三郎の
「御當主福之助さんも、それを御存じでせうな」
平次は福之助の取すました顏を振り返りました。
「いや、人の
「御内儀も?」
「――」
内儀のお富は固い表情で默つてしまひました。
「親分」
主人鬼三郎が殺されて、その死骸が紛失した現場、――二階の部屋へ平次はわざと一人で行くと、後から八五郎がついて來ます。
「何んだ、八」
「あの男ですよ、――あつしに
「福之助が一存でやつたことかな」
「伯父の鬼三郎とは仲が惡かつたやうですから、どうせあの男の一存でせう」
「百兩の褒美は何處から出す氣だつたんだ」
「さア、人の
八五郎はそれが
「
「間拔けな顏は地ですがね」
「利口さうに見えるのは附け
そんな事を言ひ乍ら、二階へ登りました。至つて質素な六疊で、
「お前は確かに、此處に死骸を置いてあるのを見たことだらうな」
「見ましたとも、首を締めた
「變なことを言ふぢやないか。紋め殺された死骸は仰向になるのは當り前ぢやないか」
平次は聞きとがめました。八五郎の言葉には、妙な
「ところが當り前ぢやないんで」
「なぜだい」
「死骸を見て、伊之吉が變な顏をして居るから、蔭へ引つ張つて行つて訊くと、――伯父の鬼三郎は、中風になつて身體が惡くなつてから、俯向になつて、枕に
「珍らしい癖だが、身體の惡い人には、ないこともあるまい、それが?」
「それが、伯父の死骸は仰向になつて居るから、伊之吉が變な顏をしたのも無理はありません。その上、首を
「良いことを聞かしてくれた。もしそれが本當だとすると、俺は考へ直さなきやなるまい」
「何を考へ直すんです、親分」
「染井鬼三郎は
平次は妙な方に話を持つて行きます。
「若い頃は武藝自慢だつたさうで、五十を越しても良い身體をして居ましたよ」
「それほどの男が、少々身體が不自由でも、腹帶も自分で締め直せるといふのに、女子供に
「へエ――」
「俺は間違ひもなく、下手人は大の男だと思つたよ、――ところが、俯向になつて眠つて居るところを絞められたとわかると、話が違つて來る」
「――」
「俯向きになつてゐると、手足をもがきやうもなく、枕に額を押しつけたまゝ殺されるわけだ。下手人は
「――」
「その上、絞めた細紐を後ろ首で結んであつたといふのは、何よりの證據ぢやないか。品川の
「すると親分」
「待つてくれ、あわてちやいけない。まだ下手人はわかつたわけぢやない」
「ぢやこれから何をやらかしや宜いんで」
「主人の死骸が、何處へ消えたか、それを搜し出すんだ。それから死骸が
「成る程ね」
「梯子段の下には二三十の眼玉がある。死骸は
「すると、
「馬鹿だなア、窓の内をキヨロキヨロ見廻したところで今頃何があるものか、外へ出ろ」
「へエ」
八五郎は窓から狹い
「其處に何にか跡が殘つちや居ないか、泥は柔かい筈だが」
「足跡なんかありませんよ」
「そんな間拔けなものぢやない、梯子の足の跡は?」
「ありませんね」
「陽の具合が惡い。地べたに顏を當てるやうにして、横から
「あ、窓のすぐ下――と言つても、一間も離れたところに、板を置いた跡がありますよ。それも行儀よく二尺ほど離して二枚」
「板の先は?」
「
「車だよ、八」
「へエ、何んの車で?」
「大八車を持つて來て、
「でも、腰高窓の敷居越しに、窓の下の大八車に死骸をおろすのは、大變な力業ですよ。あの人は十五六貫はあつた筈だから、女子供に出來ることぢやありません」
「待て/\」
平次は考へ込んでしまひました。此處まで來て、又ハタと行詰つたのです。
「何んだつて、そんな
八五郎はうまい事に氣がつきました。
「それは俺も考へて居るよ。なか/\わからなかつたが、先刻の腹卷の話で
「あ、成る」
「お前表から廻つて、家中の者に聽いて來い。昨夜、
「へエ」
「それから此邊に
「それつきりで」
「家へ入るとき、足を拭くのを忘れるな。その足で入られちや大變だぞ」
平次はそんなことまで氣をくばるのでした。
「八、來い」
二人はいきなり外に飛出しました。
「何處へ行くんです、親分」
「お前が言つたぢやないか。第一に福之助は
「なるほどね、尼寺は手廻しの良いことで」
「お
「さう言へば、あの林の中に、荷車が捨ててありますよ」
「しめたツ」
二人はまつしぐらに林の中へ入ると、尼寺の戸へ躰當りをくれました。
戸が何んの抵抗もなく開いて、八五郎が突つ轉んだのは、まさに、正面佛壇の下に横たへた、
「わツ氣味が惡い。死骸があつしの頬を
「何をつまらねえ、――お前はこの死骸をよく知つてるだらう」
「間違ひなく、染井鬼三郎ですよ」
「ところで、曲者は、何んだつて死骸をこんなところに持込んだんだ」
「あつしのせゐ見たいに言はないで下さい。おや、腹卷が解けて、
「いやな事を言ふな。おや、おや、おや、腹卷の下を見ろ、背中の方だ」
「皮を剥いだんですね、ひどい事をしやがる」
「
「ひどい事をやつたもんです。間違ひもなくこいつは地獄行だ」
「腹を立てたつて何んにもならないよ」
「その死骸の皮には、どんな彫物があつたでせう」
「百兩出しても見付け度いといふ、染井家の系圖かな」
「それに違ひありませんよ」
「あわてるな、八、そいつは素人料簡だ。
「?」
「系圖ではあるまい。系圖を隱してある場所かな、それとも」
「兎も角歸りませうよ。死骸を染井家へ運ばせなきや」
「それはわかつて居るが、その前に、もう一つ氣のついたことがある」
「何んです、それは」
「林の中に捨てた大八車に、妙なものが附いて居たんだ」
「?」
平次は
「車の上から拾つた、キラキラする
「さア、見當もつきませんよ」
「
「さう言へばさうですね」
「女の帶は
「へツ、うまい事を考へたもので」
「お前はその帶を見付けるのだ。
「そんなものなら、わけはありませんよ。ちよいと家搜しをすれば」
「さうお手輕には行くまい。帶は何處かへやつてしまつたことだらう」
「さうでせうか」
「もう一つ
「?」
「この
「わけはありませんよ。彫物師も
「そいつを直ぐ調べるのだ。ぬかるな、相手は飛んだ
「何んの」
八五郎は飛んで行きました。この事件ももう山が見えたやうですが、思はぬところに
「親分、――驚いたね、どうも」
八五郎が明神下の平次の家へ歸つたのは、もう暗くなつてからでした。
「どうした八、腹が減つたらう。有合せの
平次はそれを迎へて、お勝手に合圖を送つて居ります。
「
「彫辰か、彫定に逢つたのか」
「逢ひませんよ、――彫辰は旅へ出て留守、竹町の彫定は、三日前から行方
「行方不知は穩かぢやないな、どうしたんだ」
「湯へ行く恰好でフラリと出たつきり、いまだに戻らないさうで」
「それつきりか」
「湯屋の前で若い女と立話をして居たのを見た者がありますが、
「はてな?」
平次は首を
「親分、これはどんなことでせう。湯屋から消えて三日、氣になりますね」
「相手は容易ならぬ曲者だ。――なア、八、白状すると、俺の方も
「へエ、親分の方もね」
「あの家中の者に訊いたが、
「へエ?」
「内儀のお富は貧乏人の子で、金襴の帶どころか、ろくな
「すると、どうなるでせう。親分」
「行止りよ。袋路地に入つてしまつたのさ」
平次は投げ出してしまひました。事件が大袈裟で
「これから先、どうすれば宜いのでせう」
八五郎が悲鳴をあげたのも無理のないことでした。
「此上は鬼三郎の娘のお幽に聽く外はあるまいな」
「でも、あの娘は、こちとらには喰ひつけませんよ。用心深く
「それを俺は心配して居るんだ」
「――」
「でも、染井鬼三郎の彫物は大したものでないやうな氣がしてならないのさ」
平次は妙なことを言ひ出しました。
「それは、どういふわけです」
「考へて見るが宜い。文字にも書けないほどの大事なことを、自分の身體に
「――」
「自分の背中に
「
八五郎は氣のきいたことを言ひました。
「鏡に映るのは左文字だよ。その上、人間の背中を、まる/\映すやうな鏡は何處かのお社の拜殿でもなければ備へ付けてはゐないよ」
平次は言ふのです。その頃ギヤーマンに
「すると、どうなるでせう、親分」
「皆んな嘘だよ。系圖を彫物にするといふのも嘘なら、系圖の隱した場所を、
「?」
「兎も角、此上はお幽に口を割らせる外は無いが、あの娘は滅法綺麗な癖に、
「御白洲へ引出して石を抱かせるには、少し痛々しい」
「馬鹿なことを言へ。そんな
「良いことがありますよ。あの娘と染井の手代伊之吉とは、唯の仲ぢやありませんね」
「何をツ?」
「錢形の親分も、此道にかけると、まるで唯の人だ。物言ひ、物腰、目のやり場、あつしは二人がちやんと出來て居ると睨みましたよ。堅い娘ほどこの道には
「そいつは良い思案かも知れない。それについて、これだけの事を言ふが良い」
「へエ/\」
「あの娘の父親を殺したのは、女に違ひない。父親の染井鬼三郎が仰向に眠つて居るところへ忍び込み、首の下に前から仕掛けた
「――」
「金襴の帶は多分お幽のものに違ひあるまい。それが出て來ると、お幽は親殺しの疑ひを受ける、――曲者はちやんと其處まで用意してあるのだ。帶の兩端はひどく
「へエ、恐ろしい野郎で」
「野郎ぢやない、曲者は女だよ。
「――」
「先祖の染井右近の系圖が見付かれば、染井の跡取は召出されて、大名と行かないまでも、旗本御家人くらゐに取立てられるかも知れない。世間の評判は大きいが、お上は容易に大名などを
「よし、やつて見ませう。あの伊之吉といふのは飛んだ好い男で、すつかりあつしと友達になつてしまひましたよ」
八五郎は安
× × ×
翌る日の朝、八五郎は伊之吉とお幽をつれて、明神下の平次の家を訪ねて來ました。
「親分さん、私の父親を
お幽は伊之吉に
「お孃さん、よくその氣になりました。親の敵は、染井福之助ぢやありませんよ。福之助を大名にでもする氣の、馬鹿な女の仕業です」
「馬鹿な女?」
「福之助は皆んなに見張られて居るから何んにも出來なかつた。お孃さんの父親を殺して、その皮まで剥いだのは、お孃さんの
「すると、矢張り?」
「心配する事はありません、手配はつけてあります。何處へも逃れやう筈はありません」
平次はキツパリと言ひきるのです。
「では申します。父は、自分の背に系圖の隱し場所を
「あ、成る程」
「隨分用心して人に知られないやうにいたしましたが、父は身體が不自由になると、益々心配になつたらしく、嫌がる私を、叱るやうにして、牛込の叔母に預けました」
「わかりましたよ、それで何も彼も。すると、お孃さんの肌には、系圖の隱し場所が、今でも彫物になつてあるわけですね」
「その通りです」
「その
平次もツイ乘出しました。此處に出世の玉子を身につけた美少女が居るのです。
「いえ、私も、この彫物を潰してしまひ度いと思ひます」
「それは又、どういふわけで」
「こんなものを身につけて置くと、氣味が惡う御座います。それに、
「――」
若い二人は顏を見合せました。
「牛込の叔母は細々と
お幽は言ひきつて、美しい眉を
「系圖は」
「誰も取出すものが無ければ、そのまゝ土の中で
何んといふこと。若い二人に取つては、そんなものは大した値打がなかつたのでせう。
この時伊之吉は、
「家名は此處で絶えます。御先祖には濟まないと思つても。人殺しまでして爭つた系圖を、出世や金に代へ度くはございません。私もお幽さんも、その氣で居ります」
と、靜かに言ひ添へるのでした。
平次はそれを、良いとも惡いとも言はず、若くて純情な二人を勵ますやうに、うなづいて見せただけのことです。
やがて二人はお靜にまで挨拶して、大急ぎで歸つてしまひました。父染井鬼三郎の死骸を取入れて、お
「八、お前はどう思ふ」
平次は路地に消えて行く二人の後ろ姿を指さしました。
「良い話ですね、あつしはもう嬉しくなつて」
「百兩貰ひそこねて、
「飛んでもねえ、此方から百兩やり度いくらゐで」
「百文も無い野郎は、よくそんな氣になるものだよ」
「違げえねえ」
八五郎は