錢形平次捕物控

嫁の死

野村胡堂





「親分、お早やうございます」
 八五郎はいつになく几帳面きちやうめんに格子戸を開けて入つて來ました。神田明神下の、錢形平次住居の段、――もつとも、几帳面に引かないと、この格子はつがひごと敷居から外れます。
 借金の言ひわけと細工事さいくごとが大嫌ひで、棚が落ちても釣らうとせず、半日肩で押へてゐて、八五郎が來るのを待ち兼ねない平次です。入口の格子戸のはづれるくらゐのことは、三年でも我慢する氣でなければ、店賃たなちんを六つも溜められる道理はありません。
 それは兎も角、平次は相變らず粉煙草をせゝつて、三世相大雜書さんぜさうだいざつしよを讀んで居りました。干支えとを繰つて見ると、前世に寺から油を三合借りて返さなかつたので、んなに貧乏するんださうで、
「八五郎のやつは、八幡樣の神馬しんめの生れ變りで、福徳圓滿、富貴望むが儘なるべし――は少し眉唾まゆつばだが、顏の長いところは、馬に縁がないでもない。――おや、おや、その代り、いやなトきが附いて居る。その代り『伉儷かうれい得難かるべし、縁談すべて望なし、つゝしむべし、愼しむべし』だつてやがる、何が愼しむべしだ。可哀さうに、何んだつてまた御神馬なんかになりやがつたんだ」
 ポンと分厚な大雜書をはふると、
「お早やう、起きてるんですか、親分」
 八五郎の顏が六疊を覗くのです。
「あ、きもをつぶすぜ、あごのお化けが出たのかと思つたよ。いきなり入つて來やがつて――」
「聲を掛けたのを、親分が聽えなかつたんで」
がらにもなく、尋常らしい聲を出すからだよ。小笠原流に物申すぢや、聞えはしないやな。お前が八幡樣の御神馬ごしんめの生れ變りで、金はウンと出來るが、女の子は出來ないといふ、有難い本を讀んでゐたところだ」
「イヤになるなア、金なんざ百も欲しくねえが、江戸の良い娘がベタれといふが出ませんかね。塵溜ごみだめをあさつてゐる雄鷄をんどりの生れ變りで結構だから」
「呆れた野郎だ。――ところで、此二三日顏を見せなかつたぢやないか」
「御婚禮へ行つてゐたんですよ」
「三日は長過ぎるぢやないか。まさか、お里歸りまで附き合つたわけぢやあるめえ」
「附き合ひましたよ。聟と嫁を送り出して、やうやく年明けになつたから、親分のところへ、久し振りで御挨拶に來たんで、喧嘩や出入事の歸りと違つて、何となくう物腰が尋常でせう」
「本人がその氣でゐるんだから、結構なことに違げえねえが、御祝言は何處どこにあつたんだ」
「岡惚れを一人なくしてしまひましたよ、へツ」
「泣くなよ、岡惚れはどの口だえ」
「富坂のおすゞ坊、後家ごけのおこのの娘で、年は十九、やくは厄でも、こんな綺麗な娘には神も佛もばちは當てねえ」
「大層な御信心ぢやないか」
「親分でも、あの娘を一と眼見ると、そんな心持になりますよ、――そのお鈴坊を見染めたのが、牛込肴町の兜屋かぶとや三郎兵衞の伜殿松とのまつ、兜屋と言つたつて、鎧兜よろひかぶとを賣るわけぢやありません。武家あがりの酒屋で、大した身上で、後家の娘のお鈴を、金にあかして貰つたんで」
「それにお前は掛り合ひがあるのか」
「金持なんかに、掛り合ひはありませんよ。何しろお鈴坊が嫁に行くとなると、牛込から小石川かけての若い男は皆んな半狂人はんきちがひだ。おどかしの手紙をはふり込む奴がある。石を抛る奴がある。火をつける奴だつて出ないとも限りません。萬一お里歸りの若夫婦に、惡戯いたづらでもされちや大變だから、あつしが頼まれて三日も見張つたわけで」
「散々當てられたことだらうな」
「ところが、あんまりさうでもなささうで、――若い夫婦などといふものは、あんなものぢやありませんね。野郎の方は見つともない程附きまとつて居るが、お鈴坊の方は、逃げて居るやうな具合で、そりや變でしたよ、――尤も、聟の殿松は、良い男ぢやなさ過ぎましたよ。その癖、しつこくて、鼻聲で、頑固ぐわんこで」
「八五郎とあべこべだ」
 その日の話は、これでおちになりました。


 それから十日餘り、八五郎が少しあわてて入つて來ました。
「どうした八、今日は首尾よく格子を外したぢやないか。何をあわてて居るんだ」
 平次はひまで/\仕樣のない日を、一杯呑むほどの工面くめんもつかず、相變らず埃臭ほこりくさい粉煙草をせゝつて、八の來るのを待つて居るのでした。
 江戸は太平無事で、氣のきいた泥棒猫も居さうはなく、平次の出勤をうながすほどの事件もなかつたのです。
「變なことになりましたよ、神樂坂上の易者えきしやが、あの嫁は家にたゝると言つたさうですが、嘘ぢやありませんね。女の綺麗過ぎるのも良し惡しで」
 八五郎は獨りで呑込んだことを言ひ乍ら、自分の袂でグイグイと汗を拭くのです。
「何へたゝつたんだ。話して見なきやわからねえが」
兜屋かぶとやの二番目の伜に祟りましたよ。こいつは捨吉と言つて好い男だ。兄の殿松は、かんが強くて、念入りの醜男ぶをとこだが、弟の捨吉はそりや好い男で、面と向へば見違へる筈はないが、暗いところで、わからなかつたんですね。兄の殿松は嫁のことで、二三百人もの敵をこさへてゐるから、誰に狙はれてるかわかつたものぢやねえ」
「それがどうしたのだ」
 平次はもどかしさうに先をうながしました。
「兄の殿松と間違へられて、弟の捨吉が、船河原町の路の上から、御見附下のお濠に突き落されたのですよ。捨吉は男つ振りは好いけれど、あつしとポチポチで、まるつ切りの徳利だ。その上あの邊はさらつたばかりで自棄やけに深いから危ふくおぼれかけたところを――」
「お話中だがネ、八、あつしとポチポチといふのは、泳ぎの出來ないことがポチポチなのか、それとも、男つ振りの好いところがポチポチなのか、それをはつきりさせねえと、お調しらべがつかねえ」
「あれ、負けて置いて下さいよ。兩方だと思へば間違ひはないわけで」
「勝手な野郎だ」
「アプアプやつて居るところを、見附のお役人が見付けて、――これも洒落しやれになりますね」
「無駄が多いな」
「あすこは時々身投げがあるから、小船が用意してありまさア、早速引揚げて介抱かいはうしたが、根が丈夫な男ぢやないから、生命は助かつたがそれつきり寢て居るさうですよ」
 八五郎の話はどうやら一段落になりました。綺麗な嫁が身上しんしやうに響く話は、これが發端で事件は妙にゆがんだ發展をして行きます。
「ところで、捨吉と間違へた兄の殿松も泳ぎは出來ないのか」
 平次はちよつと突つ込みます。
「それが不思議なんで、兄の殿松は町道場の看板で、武藝も泳ぎも、相當にいくんですつて」
河童かつぱを水に突落す奴もねえものだ」
「尤も、捨吉は何んかの寄合があつて、兄の殿松の夏羽織を借りて行つたんですつて。そんな野暮なものを着て歩くから、魔が射すんでせう」
「お前の言ふことは、相變らず途方もないよ。ところで、その惡戯わるさをした奴の見當くらゐはついたのか」
「山の手の若い男が皆んな下手人見たいなもので、三日でもあの嫁を見張つてゐたあつしだつて、殿松の不景氣なつらを見ると、ツイフラフラとなりますよ」
「そのうち、近いところでは?」
兜屋かぶとやの手代の岩三郎に、隣の息子の三七、――富坂の方角では、お鈴の從兄いとこの大工の勇太郎」
「それに八五郎か」
「冗談、あつしはそんな覺えはありませんよ」
「兎も角、うるさいことがありさうだ。目を離さねえやうにしろ」
「親分にさう言はれると、威張つて肴町さかなまちあたりをウロウロして居られますね。嫁のお鈴さんは大したきりやうだが、兜屋の末の娘のお袖ちやんといふのも、惡かありませんよ。二番目の兄の捨吉で、ポチヤポチヤして、可愛らしいといふことは」
 八五郎は他愛もありません。娘の品定めといふと、眼の色が變るのです。


 七夕たなばた過ぎる頃から暑さがぶり返して、お盆前の江戸は、釜の中に坐つて居るやうな心持でした。何處の家でも、往來に縁臺を持出して、夜半前に床に入るものなどはありやしません。
 縁臺風景――縁臺將棋しやうぎから星の論、怪談噺くわいだんばなし、若い者の間には、幾組かの戀が生れて、噂は秋に持越されるのです。
 平次も、明神前の路地の下で、縁臺クラブの中に入つて、あまり上手でもないを打つてゐると、八五郎は息せき切つて飛んで來ました。もう眞夜中近かつたでせう。
「どうした八、遠來ゑんらいの馬見たいに、泡を吹いて居るぢやないか」
 平次は事ありと見て、碁を片付けました。
肴町さかなまちまで行つて下さい。到頭變なことになりましたぜ」
 全く唯事でない見幕です。
兜屋かぶとやの殿松がどうかしたのか」
「あの高慢ちきな野郎がどうしたつて、驚きやしません、――死んだのは、嫁のお鈴ですよ。醫者は自害じがいだらうつて言ふけれど、――あのピカピカするやうな嫁が自害をしさうもないし、どうもに落ちないことだらけだから――」
「よし行かう。お前は驅けられるか」
 照り續きの町、人々の夢を驚かして二人はお濠端傳ひにほこりをあげました。
 兜屋の店は、肴町の表通りで、そとは市が立つたほどの騷ぎでした。それを追ひ散らすのに、土地の岡つ引は精一杯。
「あ、錢形の親分、これは良い方が來て下さいました。八五郎親分が飛んで行つたやうですが、夜中でもあり、嫁は自害じがいのやうだから、親分に來ていたゞく迄もないと思ひましたが」
 兜屋主人の三郎兵衞が、迎へてくれます。にはかの出來事に、すつかり興奮して居るやうです。
「飛んだことでしたね。八五郎が見張つてゐて、斯んなことになつちや」
「八五郎親分は、宵から見張つて居ましたが、ちよいと、縁臺碁えんだいごを覗く隙にやつたんで、災難と申す外はありません」
 主人三郎兵衞になぐさめられて、平次は挨拶に困りました。
「若旦那ですよ、親分」
 八五郎に袖を引かれて振り返ると、身體だけは立派ですが、不機嫌な醜男ぶをとこが、怒つたやうな顏をして、默つて挨拶するのです。
「お氣の毒でしたね、若旦那、――皆んな外に居たんですか」
 平次は店の外をグルリと見廻しました。三間間口の店で、半分は大戸を下ろしてありますが、店の灯の屆かないところに、岐阜提灯ぎふぢやうちんをブラさげて、その上に月があるのですから、縁臺碁に不自由はありません。
「皆んな外に居ましたよ。何しろ此暑さだから、寢たつて眠られやしません、――もつとも身體の惡い弟の捨吉は表二階に寢て居る筈ですが」
 殿松は相變らず、怒つたやうに言ふのです。
「御新造は内に居なすつたわけで?」
「暑いけれど、店先へ出ると、町内の衆に顏を見られるから、嫌だと申しまして」
「成るほどね」
 まだ嫁に來たばかりのお鈴――、牛込一番と言はれたきりやうでは、人に顏を見られるのも無理のないことでした。
「親分、まだ外科げくわが居るさうです。早く見て置いて下さい」
 八五郎に言はれるまでもなく、平次は一刻も早く死骸を見て置くべきですが、八五郎が言ふ樣に妙にに落ちないものがあるので、記憶の新しいうち、一つは、つまらない細工をされないうち、多勢の目の前で、その時の人々の配置と、動きとを知つて置き度かつたのでせう。
「待つてくれ、醫者が居るなら、其方そつちは急ぐことはあるまい、――その時碁を打つて居たのは誰と誰なんだ」
あつしと若旦那の殿松とのまつさんで」
「私はツイ口を出し過ぎて、八五郎親分に怒られました」
 主人はすつかり照れて、ポリポリ小鬢こびんを掻くのです。
將棋盤しやうぎばんも出て居るやうだが」
「それはお隣の御隱居と、裏の米屋の多吉さんで――女達は二つ三つに固まつて、無駄話をして居りました」
「誰か動いた者はなかつたのか。家の中へ入るとか、何んとか」
「私は店へ一寸入つて、納戸から提灯を持つて參りました。月明りはあるが、手元が暗かつたので」
「おや?」
 平次は背伸びをするやうに、提灯を押へました。その時蝋燭らふそくはバタリと倒れて、あツと言ふ間に焔は岐阜提灯に移り、メラメラは[#「メラメラは」はママ]燃え上がつたのです。
 八五郎が手を貸して、それを叩き消すのに大骨を折りましたが、それでも提灯を半分殘して、燃えさしの蝋燭は下水のふたの上にバタリと落ちて、やうやく納まりました。


 奧の一と間、中庭に面した六疊には、若い女の死骸が、あけに染んで倒れて居ります。
 それは綺麗に片付いては居るが、新夫婦の部屋らしく、何んとなくなまめきます。
 死骸は喉笛のどぶえを左から掻き切られ、足を縁側に投出して、それでもたしなみよく、半分疊の上に、押しつくねたやうにこと切れて居りました。
 八五郎から噂は聽いて居りましたが、碧血へきけつ大氾濫だいはんらんの中に横はつた若い嫁は、まことに非凡の美しさです。血を失つて、青白い顏、唇に不自然なこびふくんで、見開いた大きい眼は、あらぬ方を見詰めて居ります。
「錢形の親分か」
 顏を擧げたのは、神樂坂の徳庵とくあんといふ年寄の醫者でした。
「徳庵先生でしたか。御氣付きのことは?」
「この御嫁御は、刄物を持つてゐるから、自害をしたに違ひないが、――それにしては少しばかり氣に入らないことがあるな――」
 徳庵先生は、鐵拐仙人てつかいせんにんのやうな長い息を吐くのです。慈姑くわゐの取手に山羊髯やぎひげ、それも胡麻鹽ごましほになつて、世に古りた姿ですが、昔は斯ういふ醫者が信用されました。平次が默つて後をうながすと、
「――喉の傷は、首筋を掻き切つて居るが、後ろから逆手に刄物を引いたものだ。自分の手では斯うは引けない。――自分の手で刄物を前へ引くと、どんなに加減をしても喉笛をやられるわけだ」
 傷は喉笛の側に深々と始まつて、左耳朶みゝたぼの下に深くをはつて居ります。
「刄物が違つて居ませんか」
「いや違つてゐない。その死骸の持つて居る刄物で切つたのだ」
 死骸の持つて居る刄物といふのは、上等の鮫皮さめがはを使つた、鎧通よろひどほしで、世間並の匕首あひくちではありません。
さやは?」
「最初からなかつた」
「御存じありませんか。この品を」
 平次は主人の三郎兵衞を振り返りました。
「よく存じて居ります。それは私がまだ榮えた頃、昔の主人から頂いた鎧通しで、主家の武功を傳へた品でございます」
何處どこに置かれたので」
「隣の部屋の用箪笥ようだんすの中に入れてある筈――尤も、其處にあることは、家中の者は皆知つて居る筈」
「では」
 立上がらうとする平次を、八五郎が呼び止めました。
「親分、ちよいと待つて下さい。その刄物が少し變ぢやありませんか」
「お前も氣が付いたのか」
「一度拭いて又血をつたやうですね、刄物の元の方に、拭いた跡が布目に殘つて居ますぜ、――そして死骸のたもとには、それを拭いた跡も殘つて居るやうで」
 八五郎の頭もなか/\よく働きます。
「それつきりか。――お前にしては、大層氣がつくやうだが」
「氣のつくわけがありますよ。先刻あつしが死骸を見たときは、死骸の手には刄物はなかつたんですもの」
「何? 刄物がなかつた?」
「刄物がなきや自害の筈はありません。自分の喉を突いた佛樣が、刄物を隱すわけはない」
「理窟だな、――たしかに刄物はなかつたと言ふのだな」
「だからあつしは明神下まで飛んで行つて親分を引つぱり出したぢやありませんか。皆んなが自害だといふけれど、どうも腑に落ちないから」
「よしわかつた、徳庵先生に伺はう。ね、先生、死骸は最初刄物を持つて居りませんでしたか」
 平次はすつかり緊張して居りました。事件は思ひも寄らぬ發展をしさうです。
「いや、刄物は持つて居ましたよ。私が使ひの者と一緒に驅けつけた時は、八五郎親分はもうゐなかつたが――」
「すると、八の間違ひぢやないか。死人に刄物を持たせるといふのは、そんなに容易なことぢやないが」
 刄物はたしかに死骸の右手に持つて居り、指の掛けやうにも間違ひはありません。
「いや、一がいには言へない。死んで少し時が經つと、死人の身體がかたくなる、その時を待つて握らせられるが、その前、斷末魔だんまつまの緊張でも、得物を握らせることが出來る」
 それはしかし、微妙な時間的關係があつて、うまい具合に出來る細工ではなささうです。


「最初に見付けたのは?」
 平次は改めて四方あたりを見廻しました。其處には主人の三郎兵衞と、伜の殿松と、八五郎の三人だけ。
「あの、娘のお袖でございました」
「此處へ、呼んで頂きませうか」
「おい、お袖、お袖」
 主人が手を叩くと、返事もせずに――いや口の中で返事をしたのかも知れませんが、縁側の障子を開けて、ソツと顏を出したのは、十六、七の、可愛らしい娘でした。
「――」
 默つてお辭儀をするのへ、
「親分が御用だと仰しやる」
「ハイ」
「いや、大したことぢやない。そんなに固くならずに」
「――」
 ゴクリと固唾かたづを呑んで、平次を見上げた顏は、痛々しくも泣き出しさうに緊張して居ります。
後先あとさきの樣子を話してくれまいか」
「ハイ、――家の中が空つぽですから、私は時々見廻つて居りました。下女のお崎は、御近所の方と話に夢中で、何處へ行つたかわかりません。ねんのために表二階に寢て居る兄さん(捨吉)の樣子を見に行きましたが、御手洗場へ行つた樣子で、とこの中には見えません。裏梯子うらばしごを降りて、姉さん(嫁のお鈴)の部屋をのぞくと、灯が點いて居なくて、月あかりの中に、倒れて居る樣子なので、聲をかけ乍ら――覗くと」
 お袖はその時のことを思ひ出したらしく、言ひかけて身をふるはせるのです。
「誰にも逢はなかつたのか」
「誰にも逢ひません」
「庭に人影は?」
「氣がつきませんでした。尤も私はもう夢中でしたから」
「その時、御新造のお鈴さんは、手に刄物を持つて居たのか」
「さア、そこまでは――多分持つて居たやうに思ひましたが」
 顛倒てんだうした小娘が、死骸の手に氣のつかなかつたのも無理はありません。
「娘の聲に驚いて、皆んな立ち上がりました。驚いて飛込んで來ると此有樣で」
 主人の三郎兵衞は補足するのです。
「その時のあかりは」
「手代の岩三郎が、店から行燈をげて來たやうで」
 平次は若旦那の殿松とのまつの方に振り向きました。
「外に何にか、氣の付いたことはありませんか」
「ない、――なんにもないが、私にはわからないことばかりだ」
 殿松は相變らず不機嫌な顏をして居ます。
「御新造の手に刄物があつたことに氣がつきましたか」
「私は、八五郎親分と一緒に飛込んだが、――お鈴の手には刄物がなかつたやうに思ふ。――が、これは、私の見違ひかも知れない」
 殿松はブツ切ら棒に斯う言ふのです。
「それから死骸の側を動きましたか」
「私は直ぐ御醫者に飛んで行つた。――此處には、父さんと妹が殘つて居た筈で――八五郎親分は、お鈴がこと切れてゐると見ると、私と一緒に飛出して、明神へ飛んだやうで」
「その時あとに殘つたのは、御主人とお孃さんだけで」
「さうなりますか、――尤も、私は捨吉のことが氣になつて、一寸二階を覗きましたが」
 主人三郎兵衞は覺束おぼつかなく應へるのです。
 平次は尚ほも灯を借りて、縁側の下、庭のあたりを見ましたが、日照ひでり續きの庭に箒目はうきめ美しく掃除さうぢが屆いて、其處には足跡らしいものもなく、縁側は行止りですから、若しお鈴が人に殺されたものとすれば、曲者は外から入つたのでなく、廊下の方からそつと忍び寄つて、いきなり後ろから手を廻して、喉首を切つたことになります。
「暫らくお孃さんを拜借しますが」
 平次が立ち上がると、お袖は手燭を取上げて恐る/\それに從ひました。廊下を少し行つて、梯子はしごの下のよく片付いた小綺麗な部屋、そこに誘ひ入れると、八五郎は心得て番犬のやうに廊下に眼を光らせて居ります。
「お孃さん、お鈴さんの喉を突いた、鎧通よろひどほしは、何處にありました」
「この部屋にあつた筈です」
 平次の問ひに應へて、娘は部屋のすみの用箪笥を指さしました。あとは納戸、女中部屋、居間、佛間などで、用箪笥を置く場所もなく、狹くはあるが、富める町人の家の樣子を見て、平次の感は見事に當りました。
 用箪笥の引出しを下から順々に開けて行くと、三つ目の引出しに、鎧通しの巖乘なさやがあります。それには間違ひもなく血が附いて居さうな氣がして、灯の下に持つて來ると、血などは少しも附いて居ず、その代り鞘の全體――わけても鯉口こひぐちのあたりのほうの木が、心持濡れて居るのは見逃せません。
「お孃さん、何にか知つて居なさるでせう。惡いやうにはしない、言つて下さい」
「いえ、私は何んにも――」
 お袖は首を振るのです。強張こはばらせた顏が、固い/\花のつぼみを見るやうで、妙に可愛らしく痛々しく、人の心を打ちます。
「言ふことがあつたら、打ち明けて下さい。ね、お孃さん」
 平次はもう一度さう言つてお袖を一人殘して部屋から滑り出ると、廊下に待たして居た八五郎を差し招いて、二階の梯子段を上がりました。
「親分、お鈴は本當に殺されたのでせうか。殺されたとすると、下手人は誰でせうね」
 八五郎は好奇心で一パイ、梯子をのぼり乍ら平次に問ひかけます。
「外から曲者が入つた樣子はない。縁側は行止りだし、店先には一パイ人が居る。――お鈴は安心して後ろ向になつたまゝ月を眺めて居た。――曲者は隣の部屋から鎧通よろひどほしを持出して刺したが、その後で刄物を拭いて、隣の部屋の元のさやに返したが、又氣が變つて、刄物を持出して死骸に握らせ、刄の上に血まで附けて、それから鞘についた血を洗つて拭いて――手水鉢てうづばちの上の手拭に少し血がにじんでゐるだらう、恐ろしく氣のつく曲者だ。第一それだけの事をして、少しもあわてた樣子はない」
「誰でせう」
「まだ俺にもわからないよ」
 二階に上がつて少し行くと、此暑いのに閉め切つた部屋があり中から灯が洩れて居ります。
「御免下さい。お休みですか」
「いえ、まだ起きて居ります。どなたで?」
 力のないしわがれた聲でした。
「では御免下さい」
 平次は唐紙を開けて、ソツと入りました。プンと藥が匂つて、蚊帳かやの中に居る、病人の頭が、一ときは蒼白く見えます。
「何にか御用で?」
「私は明神下の平次ですが、御新造の亡くなられたことについて、いろ/\訊き度いことがありますが」
「私は御覽の通りの病人で、むさ苦しいところですが」
 捨吉は起き直らうとしましたが、ひどくき込んで、又グツタリと床の上に寢てしまひました。なか/\の容體です。
「どうぞ、そのまゝに、――お氣の毒ですが、少しばかり訊かせて下されば」
「濟みません、こんなに意氣地がなくて。以前はそれほどでもなかつたのですが、いつぞや、お濠に落ちてから、風邪を引いたせゐか、急に惡くなりました。近頃では三度の物まで、妹が此處へ運んでくれます」
 いかにも華奢きやしやな男ですが、八五郎が吹聽ふいちやうしたやうに、それはなか/\の男前です。
「お前さんをお濠に投げ込んだ相手はわかりませんか」
 平次の問ひは妙なところから始りました。
「少しも見當はつきません。――富士見町に運座うんざの會があつての歸りでしたが」
「ところで、お鈴さんが死んだときのことを何にか氣がつきませんか。私はあれは自害ではなくて、人に殺されたのだと見て居るのだが」
 平次はズバリと打明けました。
「何んにも氣がつきません。此處までは大分離れて居りますし、――家の者が騷ぎ出したので、きもをつぶしたくらゐで――」
 捨吉は大して驚く樣子もなく靜かに受けます。
「お鈴さんを殺すやうな相手を、心當りはありませんか」
「さア」
 捨吉の顏は、灯にかげつて苦しさうにゆがみます。平次は宜い加減にして切り上げました。これ以上に引出せさうもなかつたのです。


「八、お前手拭を持つて居ることだらうな」
「持つて居ます」
 梯子段の途中で平次は妙な事を訊ねました。
「ちよいと貸してくれ。――俺の一本だけぢや間に合ひさうもない」
「これで宜いんで?」
「汚い手拭だな、犢鼻褌ふんどしと手拭だけでも、切り立てのパリツとしたのをたしなみにしろ。若い者が見つともねえ」
「それが、本所の伯父さんの形見なんで」
「間拔けだな。三年前に死んだ伯父さんの形見の手拭を、何時いつまで持つて歩くんだ。――その手拭を、手水鉢でしめして、固く絞つて來い。――ついでふんどしも貸せと言はれたらどうするつもりだ。七年前に死んだ、親父の形見の褌なんざ、親孝行の旗幟はたじるしにもならないぜ」
 平次は無駄を言ひ乍ら、上から下へ、梯子段を拭いて居りましたが、中途で立止つて、階下の灯にすかしました。
「どうしました、親分」
「シツ、聲が高いぞ。大きな聲は無駄を言ふ時だけにしろ、――これを見ろ、眼で見ただけぢや氣がつかねえが、濕つた手拭は正直で、薄く桃色に附いたものがあるだらう、――間違ひなく血だよ。手へ着いた血が、四つん這ひになつて梯子段を登る時――」
「すると、あの青瓢箪あをべうたん野郎が兄嫁を――」
 八がいきり立つのを、平次は手をあげて押へました。
「靜かにしろといふのに、わからねえ野郎だ。――着物の裾から着いた血かも知れないぢやないか。そんな着物を知らずに着て居る者はないか、それとなく氣をつけろ」
「へエ」
「それから、死んだ嫁のお鈴と、家中の者との折合、近所の噂などを一應あさつて見ろ」
「それ位のことは、三日も此家に居たんだから、大概たいがいわかつて居ますが」
「どんなことがわかつたんだ」
 平次と八五郎は縁側に立つて居りました。月はかたむきかけて、曉近い風が身にしみます。
「あの總領の殿松といふのは、父親にも弟の捨吉にも、妹のお袖にも似て居ませんね」
「俺もそれを不思議に思つて居るよ」
「なんでも、あの殿松といふのは、兜屋かぶとやの義理のある貰ひ子らしいといふことですよ。亡くなつた内儀は妙に總領贔屓そうりやうびいきで可愛がりましたが、父親の三郎兵衞はハレ物にさはるやうに育てて居るさうです」
「――」
「その上、あの面相の通り、近頃ではノサバリ返つて、兜屋かぶとや中を切つて廻し、父親にも物を言はせなかつたさうで」
「達者な息子だな」
「嫁のお鈴だつて、本當は弟の捨吉と相合傘に落書をされた仲で、本人同士はその氣で居たのを、お鈴の母親が慾張つて總領の嫁にと望まれて乘出したので、可哀さうなのは弟の捨吉ですよ。散々見せびらかされて、病氣が重くなるのも無理はありません。これは近所の噂ですがね。嫁のお鈴はどんな氣でゐたか、死人に口なしで、そこまではわかりませんが――」
 八五郎はんなことまで突つ込んで話すのです。
「それぢや、頼むぜ八。御近所の衆は飛んでもないことを知つて居るものだ」
「親分は?」
「少し調べ度いことがある。いや、先刻さつきから俺に話し度がつて居る人があるんだよ。人目のない所で、その人を待つて居ようと思ふ」
 平次は庭口から外へ出ると、兜屋の裏からあまり遠くないが毘沙門びしやもん樣の境内へ入つて行きました。神樂坂の毘沙門樣は善國寺の境内をあはせて、今よりは遙かに廣く、眞夜中過ぎのたゝずまひは、氣味が惡いほどシンとして居ります。
 本堂の横の拾石に腰をおろすと、後ろからいて來た人は、そつと平次の側に立つて、くびうなれて何やら切つかけを待つて居る樣子。まぎれもなくそれは、兜屋の主人の三郎兵衞の、打ちしをれた姿です。
「親分」
 三郎兵衞はやうやく口を切りました。
「――」
 平次は默つてそれを迎へました。何んにも言ひませんが、身のこなし、常夜燈じやうやとうに透して相手を見上げる顏、いかにも穩かな態度です。


「錢形の親分、私を縛つて下さい、――伜の嫁を殺したのは、この私――兜屋三郎兵衞でございます」
 三郎兵衞は言ふべきことを言つてしまつて、力が盡き果てやうに、平次の掛けて居る石の前、同じやうな捨石にガツクリ崩折くづをれました。
 この男には、恰幅にも氣魄きはくにも、昔の身分を物語る武家らしさは少しもなく、見たところ全く疲れ果てた六十歳近い唯の老人です。
「そいつは手輕に受取り兼ねるが、――わけを聽きませうか」
「申し上げませう。今更嫁が自害したと申したところで、親分は本當にして下さらないでせう。皆んな申上げて、親分のお繩を頂戴しませう」
「――」
 平次は先をうながしました。
「斯うなるのは、矢張り約束ごとでございます。――今までは隨分隱して參りましたが、――私の伜、總領の殿松とのまつは、私の本當の子ではございません」
「それは噂で聽いたがどうしたわけなんで」
「元私は、八千五百石取の大旗本の用人でございました。主人の名前は御勘辨願ひます。守名かみなのある、役付の大した御身分で御座いました。その御主人が、召使に手をつけて身持ちにさせ、奧方の嫉妬やきもちがひどかつたので五ヶ月の腹を抱へて、私に押しつけられました」
「――」
 平次は舌を鳴らしました。此社會のだらしのなさ、日頃尤もらしい顏をして居るだけに馬鹿馬鹿しくなります。
「私は大枚の金を頂き、不義の相手は私といふことにして、お屋敷を追ひ出されました。私が覺えのない子は、それから五ヶ月目に生れました、これが殿松でございます。女房は殿樣のたねといふことが忘れ兼ねて、酒屋の伜に似氣なく、殿松などといふ名をつけました。それから、弟の捨吉と、娘のお袖が生れましたが、あれはまぎれもなく私の子でございますが、あつてもなくても良い子だからと、捨吉、お袖と、これも女房の好みでつけた名でございます」
「――」
 平次に取つては想像も及ばなかつた世界の物語です。
「十年經つて女房はくなりましたが、元手が確かりあつたので、酒屋は繁昌して、兜屋かぶとやの身上は、今では山の手で指折りの店になりました。が、殿松は亡くなつた女房に聽いたらしく、自分の身性をさとつて、我儘が募るばかり。今では兜屋を切り廻して、私に口も出させない始末でございます」
「で?」
「嫁のお鈴も、元は弟の捨吉にはせるつもりで、私も樂しみにして居りましたが、兄の殿松が横から乘出して、強引に自分の嫁にし、私を無理押しに承知させて、夫婦になつてしまひました。何分にも押しの強い人間で、親兄弟などに遠慮などをする人間ではございません。その上武術が相當にいけるので、私などはあくたほどにも思つて居りません。――現に先日弟の捨吉が、御見附の濠にはふり込まれたのだつて、誰の仕業しわざか、私にはよくわかつて居ります。世間體は、兄の殿松と間違へられた災難といふことにいたしてをりますが、どんな暗闇の中だつて、あの仁王樣のやうな兄の殿松と、ヒヨロヒヨロの弟の捨吉と間違へる、そゝつかしいやつがある筈も御座いません」
「――」
「こんなことになるのも、元は私の間違ひからで、今更くやんでもいたし方もありません。可哀想に捨吉は、あれから容體が惡くなつて、とても助かるまいと、お醫者もさじを投げてしまひました。――憎いのはあの殿松でございます。一と思ひに刺し殺してやらうかと、なんべん決心したかわかりませんが、腕前の達者な殿松を、私の手では殺せさうもなく、その上――主人のたねとわかつて居るだけに、腹の中では憎んで/\、燃えつくほど憎んでゐるくせに、私の手ではどうにもならず、一層のこと、殿松が夢中になつて居る嫁のお鈴を殺して、溜飮りういんを下げようと思ひついたのでございます。――あんなに弟と親しかつたお鈴が、段々殿松にひかされて、近頃では、殿松の氣を兼ねたか、ろくに捨吉に口もきいてやりません。――私はの助言の途中から、家の中に入り、灯を持つて來るといふことにして、鎧通よろひどほしを持出し――」
 三郎兵衞は絶句したまゝ、自分の涙におぼれるのでした。
「わかつた。が、あの死骸に匕首あひくちを握らせたのは誰だえ」
「それも私でございます、――嫁が自害したやうに見せかけるために」
「まア、宜い。が旦那、――そんなことで、平次をだませると思つちやいけませんよ」
「親分」
「お前さんにも手落ちはあつた。主人の不都合の跡始末あとしまつをして、それを忠義だと思ふやうなことは、こちとらの國ぢや通用しねえことさ。猫のつもりで虎の子を育てて、あとで手を噛まれたところで、誰をうらみやうもあるまい。兎も角、餘計なことはしない方が宜い。お前さんは、身上の執着しふぢやくを捨てさへすれば事が濟むだらう。弟の捨吉さんの養生に骨を折るが宜い、――お前さんが腹の中で思ひ詰めたことを、誰かが代つてやつたまでの事だ。閻魔えんま樣の前ぢや言ひ開きはむづかしいが、あつしは口先でだまされて繩はかけ度くはないのさ」
「あゝ、親分」
「私は歸りますよ」
 クルリと背を向けて往來に出ると、
んなところに居たんですか、親分」
 八五郎は曉の町を馬のやうに飛んで來るのです。
「俺はもう歸らうと思ふよ」
「下手人はどうするんです。――親分に言ひつけられた通り、皆んなの着物の裾を見ましたが、何しろあのひどい血だ。妹のお袖は身仕舞が良いから無事だけれど、あとは皆んな何處かに血を附けて居ますよ」
 八五郎はそれが此事件の大きなキーのやうな氣がして居る樣子です。
「さうだらうとも、十手捕繩を預かる八五郎でさへ、すそひぢにひどい血が附いてるぢやないか、身體に血の附いてるのを縛る段になれば、第一番に八五郎が縛られるよ」
「冗談ぢやない」
「だが、あのお袖といふ娘は良い娘だつたな。あんなに氣の廻る娘を、俺は見たこともないよ。八の嫁には、少し――」
 などと、相變らず、呑氣さうな平次です。
        ×      ×      ×
「親分、肴町さかなまちの兜屋の嫁を一體誰が殺したんです。いつかは訊かうと思つて居ましたが」
 秋になつて、ある日の茶呑話に、八五郎は平次にさそひかけました。
「下手人が死んださうだから、もう打ちあけても差支へあるまいが」
「死んだ――といふと、あの弟の捨吉ですか。身動きも出來ない容體からだでしたが」
「一生懸命は恐ろしいよ。後からはつて行つて、聲くらゐは掛けたかもしれないが、昔の戀人だから、お鈴は氣にもしなかつたことだらう。そこを後ろから喉笛を切つた。匕首あひくちは死骸の着物で拭いて、元の用箪笥にしまひ込んだのだらう。どうして刄物をしまひ込む氣になつたか、いまだにわからないが、兄の殿松とのまつに思ひ知らせるためだつたか。それとも父親の大事の刄物だから、元のところへ返して置かなきや惡いと思つたのか。兎も角、捨吉はもう長く生きては居られないと覺悟をして居た樣子だ」
「――」
「それから、つかれ果てて四つん這ひになつて梯子はしご段を登つた。手についた血が、段々についたわけだ」
「――」
「その後へ、主人の三郎兵衞が行つた。嫁の死骸を見てきもをつぶしたが、この男は武家奉公もしたくせに恐ろしく臆病おくびやうだから、岐阜提灯へ照れ隱しに灯を入れて店先に持つて來たが、蝋燭らふそくがよく釘に立つて居ないから、それから一刻近くも經つて熱で蝋燭がやはらかくなると、私がさはつただけで倒れて提灯を燒いた」
「へエ、成程」
「あの時私は主人が怪しいと思つたよ。娘のお袖は、提灯を持つて來た時、父親の樣子が變なので、直ぐ家の中へ入り、兄嫁の死骸を見て、何も彼も覺つてしまつた。あの娘はたつた十七だといふが、恐ろしく身仕舞が良いばかりでなく大變な氣の廻る娘だ。早くも鎧通よろひどほしに氣がつくと、用箪笥から持つて來て、血塗つてお鈴の死骸に握らせ、自害らしく見せかけ、隣の部屋へ引つ返して鎧通しのさや鯉口こひぐちまで拭つて置いた。さすがの悧巧な娘も手水鉢てうづばちの上の手拭に、ほんの少し血が附いたことと、梯子段に眼に見えない血がこぼれたことだけは氣が付かなかつたらしい」
「成程ね」
「主人の三郎兵衞は、俺の調べの樣子に氣が付いて、伜の捨吉が危ないと見てすぐ名乘つてきたが、こいつは縛れない。――本當の下手人も、あの通り、何時死ぬかわからない重病人だ。これを床の中から縛る氣にはどうしてもなれなかつた」
「へエ」
「それから氣をつけて居ると、捨吉は間もなく死んでしまつたさうだし、兜屋の主人三郎兵衞は、娘のお袖と二人、隱居をして、引越してしまつたさうだ。殿松は押しが強いから、良い身上しんしやうを拵へるだらう。お鈴は自害といふことで濟んでしまつた」
「隨分變な話ですね」
「變な話だよ、――諸方にろくでもない子を生みつけて、金で始末をしようとする奴が、一番罪が深いといふことになるのさ」
あつしのやうなのは大丈夫で」
「相手も無きや、金もないから、成程無事過ぎて張合がない。嫁でも搜す氣になれよ。幾つだと思ふ」
「あ、又始まつた。もう少し獨りで置いて下さいよ。後生だから」
 三杯目の土瓶どびんが空になつて、ひぐらしが明神の森に鳴いて居ます。





底本:「錢形平次捕物全集第二十一卷 闇に飛ぶ箭」同光社
   1954(昭和29)年2月15日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1953(昭和28)年9月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年11月23日作成
2017年3月4日修正
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