「親分、良い陽氣ですね」
ガラツ八の八五郎が、鼻の頭から襟へかけての汗を、肩に掛けた手拭の端つこで拭きながら、
「陽氣の良いのはオレのせゐぢやないよ、頼むから少し退いてくれ。草花の芽が一パイに
平次は縁側に並べた小鉢の前から、
「へツ、宜い氣なもんだ、結構な御用聞が、三文植木なんかに
「何んだと、八、何んか言つたやうだな」
「何、此方のことで、――良い陽氣で、江戸の町は一ぺんに花が咲いたやうですよ、少し外へ出て見ませんか。春ともなれば、斯う不思議に人間の雌が綺麗になる」
「何を言やがる、『春ともなれば』も
「全くその通りだから嬉しくなるでせう。人間の雄は暮も正月も大した變りは無いが、雌の方は、新造も年増も三割方綺麗になるから不思議ぢやありませんか。親分の三文植木だつて、花も咲くわけで――」
「呆れて物が言へねえよ、何時までも其處に突つ立つて、憎い口を叩いて居ると、頭から汲み置きの水をブツかけるよ」
「そいつは御免を蒙りませう。逆上のさがるのは有難いが、その代り一張羅は代無しだ、それより少し歩きませうよ、親分。
「いよ/\お前といふ人間は長生きをするやうに出來て居るよ、――ところで、何處へ俺を誘ひ出さうといふ
平次はもう、八五郎の
「エライ、圖星ですよ、親分。新造も年増も、お天氣も鰻の匂ひも皆んな親分を誘ひ出す
「俺とダボハゼと間違へてやがる」
「兎も角も出かけませうよ、良い陽氣で、新造で年増で、鰻でダボハゼでせう。こんな時家にばかり引つ込んで居ると、お尻に
「あれ、八さん」
お靜は驚いてお勝手から顏を出しました。存在をはつきりさして置かないと、この男は何を言ひ出すかわかりません。
「場所は本所相生町二丁目ですがね」
「其處に氣のきいた鰻屋でもあるのか」
「あれ、まだ鰻に取つつかれて居ますね。あつしの話は同じ長物でも、鰻ぢやなくて槍ですよ。九尺柄
「氣味が惡いな、一體それは何んの話なんだ」
平次も少し本氣になりました。八五郎の話術は、ひどくとぼけて居る癖に、妙に人の注意を捕へる
「石原の利助親分のところのお品さんが、
「嘘だらう、お品さんはそんな荒つぽいことを言ふものか」
「首つ玉へ繩はあつしの作ですが、兎も角、親父の利助一生の大事だからと、あの氣性者のお品さんが、涙を浮べて頼んで行きましたよ。――相生町の阿波屋といふのは、御入府以來から
石原利助は曾て平次と張合つた顏の古い御用聞でしたが、中氣になつて身體の自由がきかず、出戻りの娘お品が、二十五の年増盛りを、子分衆を引廻して十手捕繩を守り續け、娘御用聞とか何んとか言はれる、本所名物の一つにされてゐるのでした。
「お品さんはまた、何んだつて此處へ來て頼まないんだ」
「何んと言つても、親分と面と向つちや、頼み憎いんでせうよ。其處へ行くとあつしなんか人間が
「馬鹿野郎、誰がお前にそんな事を頼むものか」
無駄を言ひ乍らも平次は、手輕に支度を
相生町二丁目の阿波屋榮之助の家といふのは、雜穀問屋には相違ありませんが、何百年續いた町名主で、何んとかいふ
「錢形の親分、待つてましたよ」
店先に迎へてくれたのは、利助の子分の多美治、三十前後の、利助の片腕と言はれた男です。後ろからそつと顏を出して居るのは、よく肥つた圓々とした中年男、
「御苦勞樣でございます。私は店の取締をして居ります、總吉と申すもので」
一番番頭の總吉、利に
他にもう一人、平次に目禮だけして、店の隅つこにコソコソと引込んだのは、若い手代の新吉で、神經質らしい
平次は番頭總吉の導くまゝ、奧へ/\と進みました。ひどく古めかしく、贅澤と儉素が背中合せに住んでゐるやうな家です。
縁側の盡きるところで、右手の障子を開けると、問題の主人の部屋、これは思ひの外明るい八疊で、主人榮之助は、繃帶だらけの半身を脱出すやうに、これも絹づくめの贅澤な夜の物に横になつて居ります。
「錢形の親分ですが」
「あ、御苦勞々々々」
番頭に取次がせて、主人榮之助は少しばかり顎をしやくりました。
「こちらは御新造樣で」
枕元に居る三十五六の女は、今氣が付いたといふやうに、あわてゝ身體を
「ま、ま、飛んだお騷がせをして」
よく脂の乘つた、豊かな感じのする、美しい女、言ふまでもなく妾から成上つた二度目の内儀です。
その後ろから、そつとお辭儀をするのは、十五六の、それはほんの小娘で、内儀のお淺のつれ娘、お君といふのだと後で聞きました。母親に似ぬ華奢立ち、可愛らしくはあるが淋しさうです。
「飛んだ災難だつた相で」
平次は主人榮之助の裾の方から、床へ近く
「自分の家の雪隱へも
榮之助は取つて四十と聽きましたが、年よりは老けた青黒い男で、分別者らしい眼の鋭どさ、戰鬪力を思はせる四角な顎など、初對面の平次にも好い印象は與へませんが、斯んなのが
「どんな樣子でした、
「
その時の不氣味さを思ひ出したか、榮之助は言ひかけて
「槍は何處のものです」
「阿波屋の先々代から傳はる道具で、不斷は鞘をかけたまゝ、土藏の
「すると?」
「癪にさはるが、曲者は家の者ですよ」
「土藏の槍は何時から無くなつたか、氣が付きませんか」
「何しろ暗い土藏の中ですから、其處までは――」
眼が屆かなかつたのは當然でせう。
「家の方といふと、此外には?」
「下男の辨次と、下女のお信と、――二人共若いが、よく身許もわかつて居ります」
「外には」
「庭先の
「?」
「それは、八年前からの中氣で、身動きも出來ない老人ですよ。下の世話までさせては、奉公人達へ氣の毒だし、祖先から傳はつた由緒ある家も汚し度くないと、今から丁度五年前、私共の留めるのも聽かず、自分から進んで離屋へ入りました」
「先の御内儀は?」
「お島と言つて家付の娘ですが、病氣があつて子供の出來る望みも無いと申して、自分から言ひ出して、今此處に居るお淺といふ妾を家に入れ、私の世話を一切任せて、自分は父親の介抱をするのだと、離屋へ一緒に入つてしまひました」
主人榮之助の説明は、一と通り筋は通りますが、其處に何やら不自然なものがあり相です。
「すると、御主人を怨んでるのは誰でせう」
「それがどうも心當りが無いのです。奉公人の手當は良い上にも良くしてあるし、父親と先の女房も私を怨む筋は無いし」
主人はそれ以上には物を考へ度くない樣子です。
もう一度番頭の總吉に案内されて、主人榮之助の刺されたといふ雪隱を見せて貰ひました。
これは床の間の後ろにある上便所ではなくて、奉公人以外の家中の者が使つて居る、納戸の後ろの便所で、中は廣々と大小二つに別れて居り、その間に二本燈心の行燈を掛けて、人間が立ち上がると、横手の壁に大きな影法師が映るやうになつて居ります。
外に面した方は荒い格子に紙を貼つて、僅かに寒い風を防いで居るだけ、その中程より少し下寄のところに、槍で突いた紙の破れがあつて、
「此處へ主人が入つたことは、外からわかるかな」
平次はフトそんな疑を持つたのです。格子に紙が貼つてあるのですから、外に居る曲者には、誰が雪隱へ入つたか、一寸わかり憎い筈です。
「へエ、でも、主人は毎晩
番頭の總吉はフト自分の言葉の可笑しさに苦笑して、唇を噛みました。
「この家に槍を使へる人は居ないのかな」
「いえ、町人のことですから、
「――」
「その先代の御主人樣は、中氣で足腰が立たないのですから、お話になりません」
「兎も角も、その御隱居――先代の御主人に一應逢ひ度いが」
「御案内いたしませう、此方へ――」
庭下駄を突つかけて、
「主人が刺された時、大きな聲でも出したことだらうな」
「へエ、びつくりいたしました。私は店から、お信はお勝手から、あとは銘々の部屋から驅けつけましたが」
「元の主人は?」
「あのお身體で動けやしません。騷ぎの後で直ぐ離屋を覗きましたが、前の御新造のお島さんは留守で、有明の行燈を
「あとの人達は?」
「
そんな事を言ひ乍ら、三人は離屋の入口に立つて居りました。離屋と言つても、元は物置か何んかでせう。一と通り纒つては居りますが、木口も建具もひどく粗末で、これが阿波屋の隱居榮左衞門の老病を養ふ場所とは思へません。
離屋の障子を開けると、プンと匂ふのは、長患ひの病人特有のイヤな臭氣です。絹物には相違ないが、ひどく汚れた布團を引被つて、向うを向いた寢姿は、
「御隱居樣、錢形の親分さんですが」
番頭の總吉がさう言ふと、
「あ、さうか、今日はひどく身體がだるくて、寢返りも打てないが――」
榮左衞門は如何にもおつくふさうです。
傍に介抱してゐるのは、一と
「昨夜は松井町に縁付いて居る妹のところに子供が生れましたので、身動きの出來ない父親のことも心配でしたが、夕飯を濟ませてから、辨次の供で松井町に參り、たうとう泊つて參りましたが、今朝歸つて來ると斯んな騷ぎで――」
「それから辨次はどうしました」
「賭け事が好きですから、いづれ近所の賭場へでも入り込んだことでせう」
元の新造、お島の説明はこれで全部といつても宜いでせう、平次は追つかけていろ/\の事を訊ねましたが、何を訊いても
「何んか氣に入らないことか、腹の立つことは無いのかな――斯うして居て」
平次は番頭總吉の
「飛んでもない、私は毎日々々、阿彌陀樣にお禮を申上げて居ります。私共親子が、惡病に取つかれたのも、前世の
お島は合掌し乍ら、そつと病床の父親を顧みました。床の中で、ボロ
此上粘つたところで、何を聽き出せさうも無いとわかると、平次は八五郎を目顏で誘つて、土藏の前に居る總吉の方に歩みを移しました。
「その槍は?」
「物騷で叶ひませんから、元のところへ仕舞ひ込まうと思ひました。でも、親分にお目に掛けなきや」
總吉は血を拭いて清めた槍――九尺柄
「成程、結構な道具だが、久しく手を入れないと見えて、ひどい
「
平次が憚かつて言はなかつたことを、八五郎はヌケヌケと言つて退けるほどの膽力がありました。
「ところで、親分さん、これは
番頭の總吉は、
「何んだえ、番頭さん」
「これはまだ、誰にも言はないことですが、この槍について、私は不思議なことを存じて居ります」
總吉は聲を潛めるのでした。
「不思議なことゝいふと何んだえ、まさかその槍が祟るとか何んとかいふ子供騙しのやうな話ぢやあるまいな」
「飛んでもない、そんな事を言つたところで、信用して下さる親分ぢや無いでせう」
「といふと?」
「この槍は十日も前から藏の中から持出して、物置の藁の蔭へ立てかけてありました」
總吉の調子は、物々しく小さくなります。
「誰がそんな事をしたんだ」
「私が言つたといふことは内證にして置いて下さい。――實は辨次の奴で」
「下男だつたな。槍を持出して、何をやつたんだ」
「物置の土臺下に、
總吉の説明は委曲を盡しますが、それ丈け辨次に對して惡意を含んでゐる樣子です。
相生町の物置は藁の一と山を積んでゐるのは不思議なやうですが、その頃は本所も奧へ入ると田圃續きで、龜戸はまだ村であり、四つ目には村名主が頑張つて居た頃のことで、雜穀を扱ふ阿波屋が、物置に藁を積んで居たことに何の不思議もありません。
「この野郎ですよ、親分」
八五郎は一人の男の襟髮を掴んで引立てゝ來るのでした。
「痛え、痛え、ひどいことをするぢやありませんか、あつしは何んにも知りやしませんよ、親分」
八五郎に引立てられてバタバタやつて居るのは、三十前後の達者さうな男、むくつけき中にも、何んとなく小意氣なところがあつて、庭男や下男には勿體ないやうですが、これが、槍を持出したといふ、辨次といふ男でせう。
「手荒なことをするな、八」
「でも、この野郎が、藏から槍を持出したんでせう、鼬の代りに主人の喉笛を狙つただけで」
「違ひますよ。槍を持出したのはあつしだが、旦那を突いたのはあつしぢやありません」
「三兩や五兩の給金ぢや足りさうも無い面だぞ、野郎ツ」
八五郎はもう此男を下手人にきめて居る樣子です。
「槍はそつと持出したのか」
「なアに、皆んな知つて居ますよ、番頭さんだつて新助どんだつて、あつしが鼬と一と立ち廻りやるのを面白がつて見て居た位で。――第一、そんな錆槍なんか持出したつて、旦那は叱るものですか、嫌な顏をするのは、御先祖の幽靈に取付かれてゐらつしやる、御隱居さん位のもんで」
辨次は斯う言つて、偶像破壞者に共通した、太々しい表情を見せるのです。
「よし/\、下手人はその男ぢやあるまいよ、八」
「どうして、此男ぢやないんです、親分」
「辨次がその槍を持出したことは、家中の者が皆んな知つて居るといふぢやないか、雪隱の窓へ槍を突つ込むのも、その男のやりさうな事ぢやねえ」
「さうですよ、親分、あつしは隨分氣の短い方だが、雪隱で人を刺すなんて、そんな臭い事はやりやしません」
辨次は調子に乘つて勢がよくなります。
「お前の生れは何處だ」
「千住で」
「本所へ流れて來たのか」
「女道樂が過ぎて勘當になり、親類の者が口をきいて、此家へ預けられました。三年
「なるほど、鼬には
平次も苦笑ひしました。この男は雪隱の窓へ槍を突つ込むよりは、主人の寢首を掻く方を選びさうです。
平次は八五郎と一緒に、尚ほも總吉に案内させて、家の外廻りを一巡しました。石原の子分の多美治は、調べを平次に任せて、安心して店に頑張つて居ります。
家の外には、何んの變つたところも無く、戸締りも嚴重で、曲者の紛れ込んだ樣子もありません。夕方お島が出た後は、下女のお信が裏口を締めて居り、店から奧へかけては、主人の榮之助が、念入に見廻つたといふことです。
店構へは大きく廣く、裏には二た棟の土藏があり、部屋も二つ並んで居りますが、塀が高く、忍び返しが物々しく、外からは忍び込む工夫もありません。
その上、珍らしく春の天氣續きで、人間の足跡などは何處にも無く、唯ところ/″\に、小さい深い穴が、棒でも立てたやうに、物置から母屋へ、縁側沿ひに
「おや/\、洗濯物を取落したのかな」
八五郎は物干竿の下のあたりに引摺つた、着物の跡を指摘しました。
「お信のやつがそゝつかしいからですよ」
總吉は答へました。さう思つて見ると、成程物置の裏の井戸端に、大きい
斯んなことで、大した收獲もなく、もう一度主人榮之助に逢ひ、仇つぽい新造のお淺に送られて、相生町の通り、
「此邊に良い醫者は無いのかな」
平次は送つて來た多美治に訊ねました。
「一丁目の瀧先生は、橋向うまで名の通つた人ですが」
「それは良いあんべえだ」
平次は八五郎と多美治を外に待たせて、瀧
「何? 平次? 錢形の親分か、珍らしいな、どんな用事だ」
などと、氣さくな宏庵先生は、藥臭い書齋へ平次を招じます。十徳を着た白髯の老人で、醫者といふよりは、本草家か儒者見たいな感じのする人です。
「先生は、阿波屋の御隱居榮左衞門さんを御存じでせうな」
平次は單刀直入に問題を提出します。
「あ、知つてるとも、私の患者ぢや」
「あの御隱居は、本當に身動きも出來ないほどの病人でせうか」
「八年越しの
「と仰しやると」
平次は反問しました。
「中風の病人によくあることだが、あの御隱居は二度目の當り返しを恐れて、手足を動かさうとも起上らうともしない、相變らず死人のやうに寢たつきりだ」
今の言葉でいふ「高血壓恐怖症」です。この氣の弱さのために、幾人の老人が自分で自分の病氣を作つて居ることでせう。
「すると、あの御隱居は、動き出して、十間も歩いて、人を殺すやうなことはないでせうか」
「そんなことが出來れば、八年もの長い間、養子に辛く當られ乍ら、齒を喰ひしばつて寢て居ることはあるまいよ」
「有難うございました、それでよくわかりました。もう一つ、元の御内儀のお島さんの容體は?」
「あれも輕くない病人だ。そのためにあの通り乾し固められたやうに小さくなつてしまつたが、年を取つて居るし、體が固まつて居るから、無理さへしなければ一生
宏庵先生は、ブルン/\と頑固らしく掌を振るのでした。
「サア、大變、親分」
八五郎の大變が飛込んで來たのは、その翌日の晝過ぎでした。
「何をあわてるんだ、節分の豆まきで、大變だと鬼は追つ拂つた筈ぢやないか」
「へエツ、その大變が又やつて來ましたよ。相生町の阿波屋の元の内儀、あの阿彌陀樣のやうだと言はれてゐるお島さんが、縛られて行きましたぜ」
「何んだと、誰が、そんなことをしたんだ、まさか石原の子分衆ぢやあるまいな」
平次はそればかり恐れて居た樣子です。
「三輪の萬七親分ですよ」
「フーム」
「
「よし/\、放つて置け、御用聞や手先に繩張りがあるわけはねえ」
「でも、癪にさはるぢやありませんか。若し萬一、あのお島さんがどうかしたら、病氣の父親を誰が世話をします」
「成程そいつは厄介だな、あの隱居の世話をする人が無いのか」
「妾のお淺の連れ娘の何んとかいふのが、飛んだ心掛の良い娘で、最初のうちは世話をして來た相ですが、母親のお淺がやかましく言つて、離屋へやらないので、下女のお信に頼んで、見てやつて居るといふことです」
「お島さんの妹――隱居の二番目娘が、松井町に縁付いて居る筈ぢやないか」
「
「それは氣の毒なことだな、三輪の親分はまた、何んだつて元の内儀のお島さんを縛つたんだ」
「阿波屋の主人を殺すほど怨んで居る者は、家中には元の
「死ぬ程人を怨んでも、仇を返せない者もあるし、變な眼で見られたといふ丈けでも、相手を殺し度くなる人間もあるよ」
平次は覺つたことを言ふのです。
「ところが、あのお島さんには、疑はれるやうなことが、うんとありましたよ」
「どんなことだ」
「その晩、松井町の妹の家へ泊つた筈のお島さんが、宵のうちに、相生町へ引つ返して居ますよ」
「?」
「松井町の妹は、姉のお島はあの晩松井町の私の家へ泊つて、一と足も外へ出ないと言ひ張つて居ますが、困つたことに、松井町から相生町は、女の足でもそんなに遠いところではなし、それに――」
「それにどうした?」
「松井町の近所の衆が、お島さんが宵のうちに歸つて行つたのを、二人も三人も見て居ますよ。――因果なことに、一昨日の晩は月は良かつたでせう」
「フーム」
「三輪の親分は、鬼の首でも取つた氣で、松井町の奉公人を締め上げると、親身の妹の外は、一とたまりも無く、皆んなペラ/\としやべつてしまひましたよ。それによると、お島さんが、父親のことが心配になると言つて、宵のうちに一度歸つたのは本當ださうで」
「一度歸つた?」
「
「戻つたのを見た人もあるのか」
「そいつは誰も見なかつた相で」
「多分松井町へお島さんを送つて行つた、辨次はどうしたんだ」
「四つ目の賭場にもぐり込んで、すつてん/\に
「成程」
平次は深々と考込んでしまひました。
「ね、親分、三輪の親分の鼻を明かせる工夫はないでせうか、あつしはあの親分が味噌をつけて、鬼が臍を
「馬鹿野郎」
「へエ、何んか氣にさはつたんで? 親分」
「お前の言ふことは一々氣にさはるよ。――内儀のお島さんは放つちや置けねえが、三輪の親分の面當てに仕事をするのは俺は嫌だよ」
「へツ、
「惡い口だなお前は、あれでも昔は本所小町とか何んとか言はれて、良い娘だつたといふぜ、女は惡い亭主を持つと、身體まで滅茶々々にされる」
「それを助けてやつて下さいよ、親分」
「お島さんを助けてやる位のことなら、何んでも無いぢやないか」
「それが、そのあつしの智慧ぢやうまく行かないんで」
「お係りは?」
「同心の久保山喜十郎樣」
「久保山樣ならよくおわかりになる、お前が行つて、斯う申上げるが宜い」
「へエ」
「あの晩阿波屋は店も裏口も、木戸も嚴重に締つて居て、外からは入れなかつた筈だ。主人は刺される前に戸締りを見廻つて居るから、これは間違ひないことだ」
「成程ね」
「元の内儀のお島さんは父親を案じて歸つて來ても、聲を掛けるのも戸を叩くのも遠慮して、そのまゝ松井町に戻つた筈だ。若い男なら塀を乘越す工夫があるかも知れないが、あの病身のお島さんぢやそれは出來ない」
「へエ、へエ、良い
「まだあるよ。――槍で人を突くなどといふことは、心得のないものに出來ることでは無い。主人榮之助の傷を見てもわかるが、あの槍は
「まだあるんですか、親分」
「あの内儀は病身で
「そんなものでせうね」
「雪隱の窓の外から、槍を眞つ直ぐに突つ込んで居るが、踏臺も何んにも無かつたし、北向の柔かい土の上には、そんな跡も無かつた、どうしても五尺五六寸の人間が頭の上あたりでためて突いたのだ」
「もう澤山ですよ、親分、それ丈け言へば久保山喜十郎樣膽をつぶしますよ」
八五郎は手綱を切つた荒駒のやうに飛出すのです。
「調子に乘つて、三輪の親分に恥を掻かせちやならねえ、宜いか、八」
平次の聲はその後から追つかけます。
阿波屋の主人榮之助が、雪隱で襲はれてから七日目、元の内儀のお島は、松井町の妹のところへ、赤ん坊の七夜の祝ひに呼ばれて行きました。
病身のお島は、近いところではあるが、暗くなつてから歸るのは大儀だらうと、妹が氣をきかして泊めることになり、奧の一と間へ寢かしたのはまだ宵のうち。
その夜曉方近い
燒け跡の灰を掻いてゐると、その中から、もう一人の死骸が出て來ました。それが何んと、隱居の榮左衞門だつたことは、どんなに人々を驚かしたことでせう。
曉方になつて驅け付けた、元の内儀のお島は、暫らくは茫然として、氣拔けのやうな顏をして居りましたが、やがて父親の死骸に取りすがつて、身も浮くばかりに泣いたのは無理もないことです。
だが、併し、朝になつて驅けつけた三輪の萬七が、お神樂の清吉を松井町に走らせて、昨夜もお島が、夜半に拔け出したといふ證據をかき集め、意地になつて今夜もお島を火付け人殺しの曲者として縛つてしまつたのです。
八五郎の二度目の大變が、明神下の平次の家を驚かしたことは言ふまでもありません。
「待てよ、八、隱居の榮左衞門が、母屋に這ひ込んで、火に燒かれて死んで居たといふのに、娘のお島の火付けはをかしいぢやないか」
「そんな事はあつしにわかるものですか、兎も角も、三輪の親分が、お島さんを持つて行つたんですから、何んとかしてやつて下さいよ。夜中に拔け出したには違ひあるまいが、お島さんが松井町の妹の家を脱け出したのはまだ
「わかつたよ、俺へ喰つてかゝつたところで、どうにもならないぢやないか。――その昨夜も松井町の妹の家を拔け出したお島さんは、松井町へ歸つたのは何時頃だえ」
「本人は一刻もかゝらなかつたと言つて居ますから、
「よし/\直ぐ行つて見よう。お掛りの久保山樣は、何處にいらつしやる?」
「兩國の番所に引場げた筈で」
「それぢや一と走り」
平次は又八五郎と一緒に飛出しました。
相生町の阿波屋の燒跡へ行つて見ると、まだブス/\
「あ、錢形の親分」
席を讓つて、コソコソ庭へ引揚げる人達の間を、平次は八五郎を從へて離屋に入りました。三つ並んだ死體は、此上もなく無慙な姿ですが、平次は不氣味さも構はず、恐ろしく念入りに調べて居ります。
「八、變だとは思はないか」
平次は顏を擧げました。
「何んです親分?」
「家中の者は皆んな無事なのに、達者な主人の榮之助と、妾のお淺だけが燒け死んだのは、どういふわけだ」
「へエ、煙に卷かれたんでせう」
「隱居の榮左衞門は、自分で火の中へ飛込んで死んだのかも知れないが――」
死骸は三人共燒け死んだに間違ひなく、一つの傷も無い上、鼻や口には、したゝかに灰が入つて居るのです。
もう一度燒け跡へ取つて返した平次は、濕つた材木を掻きわけて、念入に調べて居りましたが、
「八、矢張り仕掛はあつたのだ、これだよ」
八五郎を顧みて、燒け材木や灰の中から、半ば燒けて性を失つては居るが、明かに逞ましい細引や、手頃の麻繩と見られるのを、幾本も/\搜し出しました。
「何んです、それは親分?」
「主人と妾のお淺の寢て居る部屋の外は、縁側も廊下も一パイにこれが張り渡してあつたのだ、高いのも、低いのもあつたことだらう、部屋の入口のも、廊下の端のもあつたに違ひない」
「――」
「
「誰ですそれは? お島ぢやないでせう」
八五郎は膽を潰しました。燒跡から麻繩を搜したのは、早く火消しの手が廻つて、燃え切らないうちに水を冠つたせゐでもありますが、それにしても平次の考へも非凡なら、曲者の智慧も容易ではありません。
平次は殘つて居る
「わかつたよ、八」
思はず膝を叩くのです。
「何がわかつたんです、親分」
「離屋の入口の戸に、外から鍵が掛つて居たのだ、それを内から押してはじき飛ばして居るぢやないか」
「え?」
「南側の雨戸も、外から心張か何んかで締めて居たことだらう、あとは格子をはめた窓だ」
「?」
平次は奉公人達に確かめましたが、今朝見ると、離屋の南側の雨戸は、外から心張をかつて居たといふ、平次の推理に間違ひもありません。
「お島さんは、――此前雪隱へ槍を突つ込んで、養子の榮之助を殺さうとしたのは、中風で寢てゐる筈の父親の仕業と知つて、今夜も妹のところへ行くので、心配して外から離屋を閉めて行つたのだよ――父親の榮左衞門はそれと知つて、曉方になつて、鍵をおろされたまゝ、内から押してハジキ飛ばしたのだらう」
「すると下手人は?」
「二度とも、中風病みの隱居榮左衞門だよ、八年前から中風で寢込んだが、それを良いことにして、女房のお島――榮左衞門には掛け替への無い娘だ――それを放り出して妾を入れ、家をそつくり横領して、養父の榮左衞門を、物置のやうなところに放り込んでしまつた養子の榮之助が憎かつたのだ」
「――」
「隱居の榮左衞門はさぞ口惜しかつたことだらう、幸ひ中風の方は少しづつ良くなつて、近頃は物につかまるか這ふかして、少しづつは歩けるやうになつたが、榮左衞門は深い考へがあつて、それを誰にも知らせなかつた、尤も娘のお島は氣が付いて居たことだらう」
「へエ」
「辨次が槍を持出して物置に置くと、昔取つた
「成程ね」
「娘のお島は、父親の心持を知つて、心配でたまらないから松井町から相生町に戻つて見たが、締りが嚴重で入れなかつた。――昨夜もそつとやつて來たが、二度目は時刻が早過ぎて何んの事もなく、安心して歸つたところへ、曉方になつて父親が仕事を始めた」
「――」
「身動きも出來ぬと見せかけた中風病みが、少し
「でも、親分、雪隱へ槍を突込まれた騷ぎの時、番頭の總吉は直ぐ離屋を覗いたが、御隱居は向う向きになつて、スヤ/\と眠つて居たと言ひましたよ」
「それは隱居の計略だよ、急に離屋へは戻れないと知つて居るから、座布團か何んか入れて布團を脹らませ、枕のところへ藥鑵でも置けば、總吉はあわてゝ居るから、隱居の寢姿だと思ふよ、さうして置いて、這ふやうにして歸れば宜いのだ。――翌日はお島が盥の中へ、泥のついた着物を浸けて置いたのは、前の晩父親が庭を這つた證據を隱すためさ」
「あ、成程」
「もう一つ、養ひ娘のお君を煙の中から助け出したのは、隱居の榮左衞門さ、その
「それで何も彼もわかりました、一と走り兩國の番所へ飛んで行つて、お島さんを貰つて來ますよ」
「待ちなよ、八、向うから、久保山樣が此方へ來られたぢやないか」
× × ×
話は至つて簡單に
「これでうまく行くだらうよ、二人は仇同志のやうだが、腹の中では母娘のやうに親しいところがある、――阿波屋の燒跡へ草を生やしちやならねえ」
平次は久保山喜十郎に挨拶すると、後の事を石原の子分衆に頼んで、八五郎と一緒に明神下へ引揚げます。妙に淋しいやうな花やかなやうな、或日の春の夕暮でした。