以前田舎へ旅行すると、昔「出家とその弟子」を書いた倉田百三氏とよく間違へられたことがある。倉田百三の田百を引繰り返すと僕の姓になるからである。が、近頃では内田百間だ。これがまた田百である。どうも私の姓を逆用した人はみな有名になるやうである。
かういふ間違ひ方をされるといふことは、正直にいふと甚だ不快である。百田など問題でなく、田百でよいのである。無視されるといふだけならなほよいが、田百でなければ通用しないなど甚だ以つて業腹である。
当たり前なら、さういふ侮辱を感じさせる内田百間のものなど決して読まないのだが、ふとした機会で、不名誉にもいつの間にか僕も百間フアンの一人になつてしまつた。ある日伊藤整のところへちよつと寄つたところ、その本箱の中に百鬼園が二冊(一冊は「冥途」といふ小説集であつたが)も入つてゐたので、どんなものを書いてゐるかナと云つて、ちよいと覗いて見たのが不可なかつたのである。伊藤が貸すといふから、借りて帰ると女房がまづそれに取憑かれてしまつた。六畳の椅子の上へ載せておいたら、こんどは三年生の子供がまたそれに取憑かれた。それからいよ/\私に伝染して来たのである。
此間、版画荘でその百間先生にはじめてお目にかゝつた。百間先生は盛夏の午後三時頃の版画荘楼上へ、黒い羽織を重ね黒足袋に爪皮のかゝつた日和下駄を履いて、それをカチ/\鳴らしながら、蝙蝠傘をかゝへて入つて来られたのである。その時はじめて百間全輯刊行のことを聞いた。
百間全輯を刊行するなどは、まるで嗜眠性脳炎の病菌を無際限に播布するみたいなものである。コロリコロリと向ふでも倒れ、此方でも倒れることであらう。金槌を持つてそいつら共を片端から一人二人と叩きつけて歩きたいものである。
(九月四日草す)