昭和二十二年の秋の話である。
その頃私は、資源関係の或る会の委員をしていて、日本の水資源の調査を一部やることになっていた。敗戦後の日本に残された資源のうちで一番大きいものは水であるから、これは少し真面目にやってみる必要がある。というので、柄にないことを始めたわけである。
ところで水資源のうちで、一番大きいものは、日本では、まず雪であるということに気がついた。これは我田引雪の話ではなく、日本が世界的に見ても、非常に雪の多い国であることは、小学校の生徒でも皆知っている。それから雪が解けると水になることも、改めていうと叱られるくらい明白なことである。それで日本の国で水資源を論ずるとしたら、雪を真先にとりあげるべきである。
ところが日本には、昔から妙な習慣があって、雪というと、必ず害という字をつけないと、気がすまないことになっている。雪害対策、雪害防止委員会、白魔などと、雪はひどくきらわれものになっていた。しかしこれは日本だけの話であって、外国ではその反対のように取扱われている場合が多い。
例えばアメリカで、この頃流行の綜合開発というのは、冬の間に高山地帯に積った雪が、春さきになって解けて川へ流れ出る、その水をダムによって貯えておいて、それで発電をし、且つ年間を通じて平均にこの水を、水道や灌漑に利用しようというのが、その主眼である。スイスでも、最近のことであるが、アルプス全山に積った雪の雪解け水を利用して、大発電事業を起そうといって、調査が始められている。
それで世界の雪の本場である日本でも、もうそろそろ雪害意識から脱却してもよい頃である。一体、日本アルプスに積っている雪が何兆トンあるか、大体のことでもいいから見当をつけてみろといっても、誰も一言も答えられないのだから、誠に妙である。山にある雪は、とけて水になって流れ落ちる時に、あれだけの雪を山頂まで持ち上げるのと同量の
それで手始めとして、北海道の石狩川の水源地帯である、大雪山に白羽の矢を立てて、そこでこの雪量測定をすることにした。もっとも大雪山全体では、あまりにもことが大きくなるので、上流地域におけるその支流の一つ、忠別川を選定し、その水源地帯に積っている雪の全量を測ってみることにした。そしていろいろ計画を立ててみると、どうしても、全地域の航空写真が必要であるという結論に達した。全地域をいくら克明に調べて廻っても、けっきょく線の上の話であって、面上に分布している雪の姿を、すっかり見ることは、到底出来ない。おまけにこの地域は一般スキー家はもちろんのこと、熊狩りの猟師も行けないという恐ろしい場所が、大部分の面積を占めている。それで地上測定は、もちろん出来るだけやるが、一方航空写真をとって貰って、それと比較検討して、全貌をとらえようということに話がきまった。
地上測定の方は、当時北大の私たちの教室にいた菅谷重二博士が受けもつことになったが、航空写真の方は、総司令部へ頼むより仕方がない。それで天然資源局へ出かけて行って、こういう航空写真をとって貰えないかと頼んでみた。すると初めはひどく叱られた。終戦後二年しか経っていなかった頃だから、とんでもないことを言って来る奴がいたものだと思ったのであろう。もっとも理由なく叱られたのではなく、航空写真というものは、非常に面倒なもので、大型の飛行機を使い、写真測量機の調整にも何週間とかかるものである。そう簡単に頼みに来る筋合のものではないのだと、たしなめられた次第である。
考えてみれば、チャムスの大学の満人教師が、関東軍司令部へ出かけて行って、日本軍の飛行機を使わせてくれと頼んだようなものだから、叱られるくらいですめば、まだ大いに有難かったわけである。おまけに時期も悪かった。二合三勺の配給すら欠配がちで、さつまいものつるを食ってる最中に、大雪山の雪の目方を測る話をもち込んだのだから、先方も少しあきれたにちがいない。しかし調査の目的と方法とを詳しく説明して、アメリカでも将来こういう調査を必要とする場合があるかもしれないから、そのモデル調査として、この機会に一度日本でやってみられたら如何でしょうと、図々しく頼んでみた。そうしたらいろいろ詳しい計画をきいてくれて、「よろしい、承知した。公式ルートで依頼の書類を出せ」と、あっさり承知してくれた。やはり文明人の方が、話が分り易くていい。
それで公式の書類を出して貰っておいて、さっさと札幌へ帰り、地上調査の方にとりかかった。ところが
ところが、六月になって総司令部から、突然大きい小包が届いた。開けてみたら、美事な航空写真が一杯はいっている。二十五センチ角くらいの大きい写真が、五百枚近く届いたのである。百六十枚で全流域をおおうのであるが、それが三組はいっている。積雪最盛期と、半分解けた時期と、ほとんど解けた頃と、希望どおり三回の撮影をしてくれたのである。これには全く唖然とし、且つ感謝した。
写真は実に美事にとれていた。虫眼鏡で覗いてみると、雪の状態はもちろんのこと、一本一本の立木まではっきり写っている。雪庇の出来工合、岩山の
恐ろしい雪庇が、尾根に沿って、ずっとのび出ている。とてもここは降りられない。探して行くうちに、辛うじて降り口が見つかる。その下は軟い粉雪が膝を没するくらいふんわりと積っている。スロープはかなり急であるが、この雪ならば、直滑降だって出来そうである。全身をかくすほどの猛烈な雪煙を立てながら滑降して行くと、間もなく樹林地帯にはいる。
もっともこの航空写真は、私の幻想用に役立っただけではない。この写真のおかげで、初めて大雪山の忠別流域に積っている雪が、一億九千万トンあることが知られたのである。この想像を絶する多量の雪は、春になると、雪解け出水として、よく田畑を荒し、最後は日本海へ空しく流れ去っている。電力源として使われているのも、この全量のほんの一部に過ぎない。
大雪山の雪を電力にかえ、更に灌漑と工業用水とに使っただけでも北海道の生産即ち国の生産は、一挙に上昇し、北海道民の生活程度は飛躍的に上ることであろう。又これは本州の雪国地帯にも同様にあてはまることである。せっかく総司令部の特別の好意で、その基礎の調査は、少くも一部分はとっくに完成しているのであるが、こういう資料を活用しようという気風が、現在の日本には、ほとんどないようである。しかし雪は今後とも永久に降るのだから、やがてはこういう研究が生きる日も来るであろう。
(昭和二十七年三月)
さっきからだいぶ風が出て来たらしく、雪の洞穴の入口に垂れた幕が、ばたばたとはためいている。しかし実験が巧く行っているので、それもあまり気にならない。
大雪山の頂上をすぐ目の前に見るこの凹みの土地は、周囲に亭々たるえぞ松の林をひかえ、風当りはさほどひどくないところである。雪は二丈近くもつもっている。人界からは何十里、土の露出している土地からは何百里、とへだたっているので、見渡す限り、全く汚れのない、純白そのものの雪である。いくら掘っても、塵一つない真白な雪である。その雪の中に、六畳間くらいの穴を掘って、天井も雪でおおう。そしてその中へ、山小屋から電灯線を引き込むと、それで立派な低温の研究室が出来る。
この雪で作った研究室の中で、さっきからもう大分長い間、顕微鏡を覗いている。もう夜はだいぶ
全然音のない世界には、静かさも、また無いのであろう。放送局の防音室の中にあるものは、静かさではなく、音の死骸なのである。中国の古い詩人は、一鳥啼いて山さらに静かなりとうたったが、漱石先生はもっと巧くこの境地を表現して居られる。「ほろほろと山吹散るや滝の音」の句は、私が最も愛好する句の一つであり、いかにもよく深山の静寂さをとらえている。
雪はしんしんと降っている。今が書き入れ時である。大空はるか高いところで、雪の結晶が最初に誕生する時、何か芯になるものが無ければならない。その芯については、今までのところいろいろな学説が出されているが、まだ本当にそれを捕えた人はない。それは顕微鏡でも見分けられないような小さなものであるが、幸いにこの頃は電子顕微鏡が発達したので、巧くやればその本体が見つかる見込みが十分ある。助手のK君がこの電子顕微鏡のエキスパートなので、わざわざこの山奥までその標本をとりに来たところである。
アメリカでは、シェファー博士たちが、人工降雪の研究に没頭し、近いうちに、地球上の気象を人間の力で支配しようという夢を抱いている。その夢の一部を担当する仕事が、これなのである。人間の力で雪が降らせたら、雨ももちろん降らせることが出来る。南太平洋のあの広茫たる海原の中で、颱風の芽が萌え出して来る。その時刻を巧くとらえて、人工降雨術をほどこせば、颱風の原動力は、赤児のうちに、雨となって消えてしまう。日本国の住民の半ば以上を占める農家の人たちは、一年間の辛苦を重ね、すべての望みを秋の取入れにかけている。それが一度の颱風で消しとぶばかりでなく、父から祖父から譲られた大切な田圃が、ひとときの間に押し流されてしまう。あの恐ろしい颱風も、そのうちに、人間の力で征服することが出来る日が来るかもしれない。
真夏でも、六七千メートルの上空では、気温はいつも零度以下になっている。地球上の気象を支配する要素は、そういう高空にあるのだから、大雪山の雪の洞穴での実験は、即ち南太平洋の上空での研究なのである。人工降雪、ひいては人工降雨という、二十世紀の魔術は、この雪の結晶の芯の問題が明らかにならなければ、その実用化は望めない。洞穴の実験室の外では、望みどおりの雪が盛んに降っている。この機会を逸すると、又次の理想的な雪の日までには、何日待たなければならないかもしれない。或はこの冬の間には、又という機会はないかもしれない。
風はさらに強くなって、梢を渡るその音が、夜更けとともに、ひとしお強められて来る。電灯は消してあるので、顕微鏡の照明用のラムプの光だけが、わずかに洩れて、雪の壁がほの白く光っている。このうす暗い雪洞の中で梢の風音にじっと耳を傾けていると、ダーウィンの『ビーグル号周遊記』の中の一つの場面がふと心に浮かんで来る。ところは南米の海岸である。原始林が海岸近くまで迫っていて、その中には、無数の鳥獣と昆虫とが、夜をとおしてあらゆる騒音を立てている。暗い海の上に碇泊しているビーグル号の甲板の上で、ダーウィンは、深夜ただ一人この遥かなる騒音に耳を傾ける。人界からは遠く隔絶した世界である。ダーウィンは、この世界を「最も逆説的な騒音と沈黙との調和(The most paradoxical harmony of noise and silence)」という言葉で表現している。
入口の幕がはためいて、一陣の風とともに、粉雪がさっと吹き込んで来る。台の上にも、装置の上にも水晶の粉のような雪が、薄絹を張ったように、一面にほの白く散らされる。こう風が強くなっては、結晶は降って来る間にこわされてしまうので、実験材料にはならない。もう寝た方がよさそうである。身体もすっかり冷え切ったようだから。
(昭和二十六年七月)