うす寒い秋風の
よ、つ、め、や。
一字一字こう白く
「おや? ……」
桐箱とひとしくキチンとすわって、
「――今の娘だが」
小首をかしげて、通りすぎた下駄の音にまで耳をすましたが、やがて、細口の銀ぎせるに、
たばこ屋に
「また帰ってくるにちがいない」
こんな予感をもったらしく、新助はわざと往来を気にして往来を見ずにいると、やがて案のじょう、のれんの下に影がさして、
「あの……」
と、お客様です。
「いらっしゃいまし」
「おたくに、油はありますか」
「油? ……へい、びんつけで」
「いいえ、
「おあいにくさまでございました」
「そう」
客は軽く立ち去って、別のものを見ようともしない。けれど、それは新助が心まちをみたしに来たさっきの
あきらめました。もうそろそろ
夕方の風が砂と落葉をまいてゆきます。
と――その時、
「ちょっと、お伺いしてみますが……」と、いかにもオズオズした様子で、店口へ寄ってきた女を、新助は見ると共に、
「あ」
来たナ、と思わず
「さア、どうぞお掛け下さいまして」
一
「何か、お
「いいえ」
娘は往来の
「あの、売物なんですが」
「え?」
「買って下さいませんでしょうか」
どうやら話はあべこべです。
娘の
「どうでしょうか」
「ヘエ……」と四ツ目屋の新助も、少し勝手がちがって、常の
なるほど、時世もだいぶ変ったものだ。と考えさせられたものでしょう。
新助の記憶でも、去年の大奥の
それを思えば、まだ眉も歯も女になっていないこの娘が、紫ちりめんの頭巾を重そうに、親にいえない金のために髪道具を売りにくるくらいは、ぜひのない
「そりゃ、品によりましては、手前どもでも、引取らないこともございませんがね」
と、新助の調子は急にニベがない。
金をうけとる
「いったい、物はなんですか」
「
「というと、
「
「おや、それじゃお嬢さん、お話しになりますまいよ」
娘はまッ赤になってうつ向いてしまう。白い
「まるで
買物にそそられない新助は、そう考えて、しきりと女の姿を見入っていたが、さて、これを一枚の師宣として見るだんになると、帯や着物の調子はよいとして、また紫ちりめんをかぶったのも悪くないとしても、ほかに難がないだろうか。どうも何か苦情をつけたい。
どこが――というとさて困るが、横顔になってみると、あまり鼻すじがとおり過ぎて、男には一種の強迫感を与えそうだし、まつ毛の濃さも
何しても、美人にはちがいないが、江戸の系統といえず、
「どうも、お気の毒でございますが、
「ですが……」と、娘もその時は、だいぶ度胸がすわって来たものでしょう、押し返して、
「見るだけでも、見て下さいませんか」
「へい、そりゃもう」
「自分では、たしかな、
「え、古渡り?」
カチッ……と奥で
小判で百両。
異様な娘が、それを赤い帯あげの中にくるみ込んで、宵の町角を
シンとなると、裏にも表にも、落葉のあるく音がします。浅草もちょッと横丁へ入ると、
「親分」
奥へ入った手代の新助は、そこにいる者に不平そうに、
「つまらねエ口を出したんで、百両くれてやったようなものです。どうも親分は、時によると、女に甘い
女気がないとみえて、ひとり、箱膳を隅ッこへ出し、ザクザク湯漬けを食べながら、
グチはいいが、新助、いかに店を
五
大小をおッぽり出して、坐りながらのふところ手で、膝の上にある桃色
「
その感にたえている
「なにがですえ?」
「印籠のおじめ、五
「ヤキが廻りましたね、親分も」
「ばかをいえ、
いかにも
けれどよく見ると、それは地中海からあげた
「そりゃ私だって、物はたしかだと見ていましたがね」
「あたり前だ、奥にいたおれにさえわかったことを」
「だが、あっしは、金をくれて買うなんて夢にも思っていなかった。すると親分が百両くらいなお
相手にする値うちもないように、浪人の男は、珊瑚を
そして、腰をのばして、
「どれ……」と立ち上がったかと思うと、新助に袱紗を預け、あとの戸締りをいいつけて、ノシリと裏口へ出てゆく様子なので、
「あっ、親分」
もう戸が
世間とはツツ抜けなのに、そのばかな声を、
「しッ!」
と、
「オオ、笠……」
出してくれ、と戸の外から手をのばす。
降るのは星ですが、しら
新助、今のにコリているので、今度は返事も
「ど、どこへ行くんですか親分」
「わからねエのか」
「だって、あんまり不意じゃありませんか」
「まあいい、あとを
「帰らねえンですか、今夜は」
「あさッて市で会うだろう」
もうその影は、紺屋の
曲がりくねッた露地の
その中に、かれの目は鋭く何かを求めている。いうまでもありますまい、
四ツ目屋の奥で、およそは観察していたはず、あてなき探し方ではありません。糸をたぐッて行くように、ここ、あすこ、思う所の横丁や店をのぞいてあるくうちに、チラと、目の中に飛びこんできたのがあの紫です。
三味線屋に腰かけて、しきりと何か出させている。
まぎれもなく、
そこで、
畳の上にチカッと光った小判を見て、番頭が手をもむと、こまかいのはありませんという。で何かまた、いらない物まで買い足して、そこを出るとすぐにまた、
呉服物を見ては、あれ、これ、とまるで夢中になって
でも、なお買物に
かくて、珊瑚を売った百両の小判のカケが、
四ツ目屋という紺のれんは、元より世間に日蔭を作る仲間の巣。新助でさえ不平なのに、無論、しら浪根性に劣りのないこの男が、世の中の物質に代価を見ない盗賊という本業を裏切って、すなおに、あの珊瑚を買うべき理由がないのですから。
渡してやった百両は一時の
「ちイッ……」
と、小娘の浮かれの果てしなさに、うしろで舌打をもらしたものの、名うてな日本左衛門とて、この盛り場では手も出せますまい。
やがて、浅草の灯に別れると、酔のさめたように娘の足どりは少し早めになって、
根気よく影をつけていた浜島庄兵衛の日本左衛門には、そろそろ思うつぼの並木や、人通りのまれな
「オイ、娘さん」
と、手をあげた。切通しの坂をのぼりきッた所で、このあたり
「待て! おい」
走り出しそうな気振り――と見たので、
「な、なにをするのさ、お前さんはッ」
高い悲鳴をあげる代りに、
「声をたてますよ、いいかい」
「静かにしろ」
「二、三丁先は
「小娘にしては、なかなか落ちついたもんだ。おい、もう少し落ちつけよ。物どりには違いねえ、いかにもおれは
「誰か来て下さい――ッ」
突然人を呼ばれたので、日本左衛門の袖がその頭を抑えつけて、少し力を
「シッ、静かにしろッてえに!」
「く、くるしい」
「何も、お前みたいな小娘を、どうこうする盗賊じゃない」
「手ッ、手を、手を放して下さいよ」
「可哀そうに……」
その美しいもがきに、ちょッと恍惚として、
「放してやるから金切り声を出さないでくれ。いいかね、なるべく殺生はしまいと泥棒の方で願っていても、そッちでヤボな声を出されると、つい、こいつが後を追いかけて行きたがるからな……」
と、何やら魔の目のように
が、それには、目もくれないで、
「――少し頼みたいことがあって、実ア四ツ目屋から御迷惑でもつけて来たんだ。ねえさん、一ツおれに、案内をしてくれまいか」
「……案内ッて? ど、どこへですか」
「それがわかるくらいなら……」と思わず含み笑いをもらして、
「知っているのは、お前だけの行く先だ」
「? ……」
「四ツ目屋へ持ってきた
かの女がカッとした一時の熱い動悸は、まぶかな編笠の顔をのぞくにつれて、ようやく
「どこだ? お前の家は」
「知りません」
「自分の家を知らない?」
「だって、あたし」
「じゃ、あの
「知らない。あたし、そんなこと……」
「シラをきるな」
「
「うるせえッ」
「…………」
「案内しろ!」
「いやです」
「ウム、じゃ
恐ろしい脅迫。
なまなか光り物を抜いたり
その恐怖にみちた瞳を、この暗やみでなく、昼の明るさにこうジッと見合ったならば、日本左衛門も、かの伊太利珊瑚と思い合せて、ははアと、出所の謎を解いたのかも知れない。
と……切通し下から三ツ四ツの灯がチラついてくる。
タッ、タッ、タッ、と足音も少ない
「オイ、歩け」
と言ったのは日本左衛門が、早くもそれを知ったからで、うしろから帯あげの腰をグッとつかもうとすると、思いがけない、柔らかい手の
「ねエ、御浪人さん、
驚く間に、
「後生ですから、私を見のがして下さいよ。私、あの
なみの娘なら気を失う男の胸へ、自分の方から甘えるようにすがりついて行った。機敏な態度の変りようが、世間の裏を見抜いている日本左衛門にも舌を巻かせる
「頼みます」
「まあ、あるきねえ」
「だッて、あなたについて来られちゃ、私、なお困るんですもの……助けると思って。ネ、お願いですから」
「そんなに困るなら、番屋へでも奉行所へでも飛びこんだらよかろう」
「そうすれば、なおさら私の自滅ですもの」
よくよく窮して、ついに泣きだしたものでしょうか。やはり女は女、最後はいつも涙であります。
だが、猶予ならないのは、ぐずぐずしている間に、坂下から足拍子をとって近づいてきた数点の
カッと炎をこがす一団の火焔行列とも見えました。
見事な
しかし、その近づくのを見て、日本左衛門が驚いたのは、その夜中横行の異風でなく、まッ先に立った
紫頭巾が泣きじゃくッているのが幸いでした。肩に手を。
戸まどいしては、かえって、見とがめられる
「あっ」と、一歩を引く。
「しまッた!」
日本左衛門としては、あるまじき不覚。
かれ程な者も、小娘の涙にはウカと油断をさそわれたものか、不意に手をかすッた短刀は、
「お。お助け下さいまし! あれっ、あれッ」
「これッ」
「お
「寄ってはならぬ」
「無礼もの! そちは何じゃ」
と、口々です。
「は、はい……」娘は小鳩のようなおののきを見せて、顔の紫ちりめんを解く、そして、むき出された
「今、あの
それまで、ひッそりと、ゆかしい
「なに、盗賊だと?」
「面白い!」
と、ひびきました。
スッと、内から
幕府三家の一、
それにしては、女駕の
「盗賊とは面白いやつに会った。つかまえてやろう、草履を持て!」
と、
「めッそうもないことを」
当然、供の者は、以ての外という顔で、お
「草履をもて! 逃げてしまうわ」
と、高声をいら立てる。
すると、うしろの
「やッ、
「なに、金吾が?」と、万太郎がそれに思い止まったところへ、何かにおくれて、息をきりながら一行に追いついて来たのは、尾州の馬廻り役、江戸
「金吾か、よいところへ来た」
かれの姿を見ると
「そのあたりに、この娘が出会った盗賊がひそんでいよう。そちの手で、からげて来い!」
「はッ」と、主命、息をつく間もゆるされない。
金吾は
相良金吾が木立の奥へ駆けこんだのを見て、
「それ、逃げ口をとれ」
と、徳川万太郎は
捜索は遂に徒労でした。かれの
「ウーム、逃げおッたか」と万太郎は残念そうに駕の内へ
「金吾、この女中を、
娘が
市ヶ谷御門外の尾州家、
途中万一を思って、娘を送らせた金吾は直ちに戻ることと思っていたが、かれがそこに落着いて、
何となく待たれる。
「どうしたのだろうか?」
と。
音もなく、
流れこむ冷気に
「殿……」
「おお、金吾か」
「只今帰邸いたしました。時に、今ここを拙者と入れちがいに向うへ行った者は
「いや、別に……」
万太郎は、異なことをいう、という風な面もちで、
「
「はてな?」
と、小首をかしげて、金吾はもう一度廊下の外を見廻したが、そういわれれば異状はないので、自分の気のせいであったかと思い直して、静かに室内へ入り、うしろの
「たいそう遅いことであったな」
「はい、意外に暇どりまして」
「して、娘は送り届けたか」
「は、小石川の同心組の近くまで参りました」
「ふウむ、すると何か、ありゃ同心組屋敷のうちの女中であったかの」
「ところが」
と、相良金吾は、やや
「
「なに?」
と、万太郎は
「そちの送り届けてやったのを、かえって迷惑がって、姿を隠してしまったと申すか」
「
「ふウむ……?」
と万太郎は唸った。金吾も、今なお
「では、そちはあの娘に、
「しかし、それでは金吾、仰せつけを果たさぬことに相成ります。また、いろいろ不審を感じましたので、やっと、それから一
「ほウ……」と、徳川万太郎は好奇な目をして、
「そちが突き止めたと申すあの娘は、そして、どこへ入ったか?」
「一度見失った姿をチラと見うけましたのが、
と、万太郎は思わず膝をゆり出して、
「えっ」
「切支丹屋敷の中へ」
「はい、
「あの娘が? ……ふウむ」
「殿」
「おお金吾」
「まことに、惜しいことを致しました」
「そうと知ったなら、帰すのではなかった! 屋敷へつれ参って問いただせば、かねてから心がけている例の事や、また
と、舌打ちして、その残念さをくり返しているのは、尤もな理由のあることで、
同じ剣工の
万太郎はまずその方で、甚だしくお大名の素質に欠けている。
けれど、またかれの性格がこうのびたのも、あまりな当時の大名生活の退屈さが助成したのかも分りません。
とにかく、そういう万太郎である。ところがその万太郎に、皮肉にも、また大きな
「
です。それは前々代、大納言
すでに、書庫の
以来万太郎は十枚
「しかし、御失望なさいますな」
金吾がそう言って、舌打ちをした万太郎へ、何か、思案のありそうな微笑をして見せたのは、かれも共に腕ぐみをして、しばらく無言をつづけた後で――
「必ずあの娘から、例のことを聞き出して見まする。金吾、
「イヤ、そりゃ、まずいぞ!」
と、万太郎は期待をはずして、
「邪教
「ほ、伺ってみまする」
「毒をもって毒を制す名案であろうと自分は思うが……」
「それは?」
「盗賊を使うのじゃ! つまり、
ここに万太郎と金吾の話し声だけは、いつまでも時刻を忘れていたが、一城の広さもあろう程な尾州家の建て物は、うし
ぼッ、ぼッ……と大廊下三
すると――
今、二人のいる一室と
何者?
桐の
そこで、もうろうたる人影は、ニヤリと
ジロジロと辺りを見ながら何か思案をしている風でもあります。何者かと思うと、それはまぎれもなく日本左衛門。
切通しで、万太郎と金吾の為に、
目的の娘が、切支丹屋敷へかくれたまで見届けたなら、何も、危険を冒して、こんな尾州家の奥深い殿中まで、忍んで来る必要がないように考えられるのは、善良人の思いそうなところで、盗賊心理はまた別であります。
では、日本左衛門、ここへ何しに来たのかというと切通しでブマをした腹いせに、その意趣返しをしに来たものに相違ありません。
復讐! あだをしてやる!
すべて盗賊は仕事の上に、その快味をも忘れぬと言います。本来の物盗り以上に、仕返しはかれらの血をわかせるもの。しかも、今夜のことは、相手が尾張中将の七男徳川万太郎。こいつのドギモを驚かせて、御三家の邸内に足あとをつけてやるということは、日本左衛門が好みそうなところで、好まれた方こそ、まことに禍いなるかなであります。
だが、奥書院まで、幾室かの
「ふん……部屋住みの万太郎、この様子じゃ、だいぶ手元をつめられているな」
と、家財調度を目づもりして、大盗らしい
「さて? ……」
と、あだをする手段を考えている。
運わるく、その床の間にうやうやしく置いてあったのは万太郎の兄にあたる当主
持って帰るには、手頃であります。
その面箱をゆすぶッて、中のコトリという音を聞いただけで、日本左衛門の六感は禁じえぬ欣びにくすぐられました。
一方。
万太郎の部屋ではその万太郎と金吾とが、何か密話に他念がなかったが、その相談の結果、かれが尾張城から持ち出して来て秘密に
「若殿、すぐに
「いや、
「ほ、では何処へお仕舞いなさいましたので」
「誰も気がつかぬ所だ」
「――と申すと、書院の袋戸へでも?」
「ウム、
「えっ、あんな所へ」
「心配いたすな、兄上が大事にしている
面箱が紛失している。
北口の杉戸に土足の痕がある。
すわ! と騒ぎはじめたのは、それから寸刻の
変を聞くと、
「なに洞白の面が?」
と、誰よりも驚いたのは、当主であり万太郎の長兄である
「洞白の面が盗まれたとは、そりゃまことか! 曲者は捕えたか!」
義通は青くなって、
かれは病身、息を切っています。
見ると、
床には、
「万太郎ッ」
義通は激しい声で、不意に、弟の肩をつかんで、
「出目洞白の面を、かような所へ置きすてておいたのはその方か」
「はい!」
と万太郎は、やり場のない怒った声で、
「はい、私ですが」
「な、なぜ、そんな不始末な……」
「兄上」
「そちは身の行状の悪い通り、何事にも、ふしだらでいけないッ。殊に、
「いや、お待ち下さい。私は兄上の許しを受けて、いつか、
「黙んなさい! そちはその後、納戸の者に渡して面箱は宝蔵へ返したと言っておったではないか。それも単に秘蔵の品というならばとにかく、
義通は唇をわなわなさせ、あくまで、
が、かれに取っては、結句きゅうくつな上屋敷よりも、草
ただ、無念なのは、日本左衛門の皮肉な置きがたみです。面箱の底へ
かれが根岸へ移された翌日のこと。
相良金吾は、ひそかに、
今日もまた、
よ、つ、め、や。
紺の
のぞいてみると四ツ目屋の店には、例の銀流しの店番男、新助の姿は見えないで、それに代る
「オ、違ったかナ?」
と相良金吾は、わざと田舎者めかした菅笠を上げて見なおしたが、間違いはない、茶屋町の軒ならび、似よりの店もこの一軒よりほかにはありません。
だいぶ聞いた話とは違っている。――新助という若い男が店にいて、表面は手固い小間物店に変りないが、実は
「それも嘘か。あの娘の言葉も信じきるわけにはゆかない」
と金吾は迷いました。
ままよ、どうせ
「物を聞きたい!」
わざと、ぶッきら棒に、
「新助という手代のいる店は当家か?」
あッけにとられたかみさんは、積みかけていた
「いいえ……」
「では、年頃二十七、八、
「……存じません、お
「たしかに、茶屋町の四ツ目屋と聞いたが」
「あー、それでは、前の
「前の方?」
「はい、
と、かみさんの綺麗なおはぐろ歯が笑みこぼれる。
聞いてみると、店は
明け渡した新助や浪人の住居は、どこへ変ったか、主人でも居なければ……と極めて
「あっ、もし!」
かれに続いて四ツ目屋の露地から、ひとりの男が手をあげて、
「もし、お
草履が砂をとばしたが、金吾はカッとした気味で、耳にも
「もしッ、お侍さんてば!」
やっと、その男が先の袖をとらえ得たのは、観音堂の境内、いちょうの葉に水の見えない池のそばで、
「ああ、息がきれた……」と胸をたたきながら小腰をかがめ、
「少しお話したいことがあって、四ツ目屋の露地から追いかけて参りました。恐れ入りますが、向うの
と、甚だ
不審な目を
めったに、油断はならぬと思いながら、
「拙者に、どこへ来てくれと申すのか!」
「御立腹なすっちゃ困ります。その、ここはあまり人通りがございますから」
「うむ、それで……」
「あの淡島堂の陰で、とっくりお話を伺いたいと思いますンで」
「話があると呼びとめたのは貴様ではないか。拙者の方から聞かす用談などはない」
「どッちにしても同じことです。まア、ちょっとこッちへお
袖をつかむ町人の手を切るように、パッと払って
「これッ、おのれは!」
と、喉を攻めつける親指と共に、激しい
金吾に襟元をしめつけられて、町人は喉の血管を太くしながら、
「待ってくれ! けッ、決して怪しい者じゃありません」
悲鳴に似た声で手を振るのを、
「だまれ、おのれは日本左衛門の手先に相違あるまい」
「飛んでもねえことを、な、なにしろ、淡島堂の裏に待っている人に逢ってくれれば、話はわかる。く、くるしい、少し手をゆるめておくんなさい」
「待っている者がある? ……」と、金吾はいよいよ不審に思いながら突っ放してやると、その様子を見ながらニヤニヤして、池の
黒ッぽいみじん縞の
そこへ来ると金吾の前に、カッチリした物腰で頭を下げて、
「お迎えにやったのは手前でございます。何か使いの奴が、不作法なことを申し上げたようですが、どうか御立腹なく」
と、この方はまたすこぶる尋常な応対なので、金吾も今さら大人気ないことに自ら恥じながら、
「おお、拙者を呼び止めたのは、其方のさしずか」
「左様でございます。突然、お後をつけさせたりして、まことに失礼でございますが」
「して、そちは」
「初めてお目にかかります。私は、
「ウーム、目明しと申すと、奉行手先の御用ききだな」
「御信用下さいまし」
と、釘勘は、片手を
「オイ、伝吉」
と
「てめえはもう役済みだ、家へ
と、
「定めし、びッくりなさいましたでしょう」
「どうも、何が何やらわからんのだ。が一体、目明しの其方が」
「なんで呼び止めたかと仰っしゃるのでございましょう。実は、わっしは
「あっ、あの騒動を存じておるのか」
「そこで今日、洞白が売りに出るかも分りませんから、旦那に知らせて上げるんです」
「売りに出ると申すのは、あの面箱がか?」
「そうで」
「人手に渡っては一大事、あの洞白の鬼女面は、文昭院様から大殿が拝領した品、毎年
「ですが……」と釘勘は薄く笑って、
「面も大事な品でしょうが、それよりもなお欲しいのは、面の下になっている
「そこまで存じているなら何も隠さぬ。いかにも『ばてれん口書』の一帖は、万太郎様に取って命から二番目の物だ。それが売りに出るとは耳寄りである。いッたい、どこへ行ったら買い戻せるだろうか」
「
「市?」
「へい、そこへ、お連れ申しましょう」
「かたじけない。では、
「なアに……」と釘勘は前後を見廻して、
「あなた方は聞いたこともございますまい、くらやみ市とも
金吾も、これは多少疑わないでもありませんでしたが、深くたずねてみると、かれは、江戸の盗賊や
目明し道徳とでもいおうか、釘勘は、万太郎や金吾の困惑を見て、手入れの騒動となる前に、あの洞白の面箱を何とか無事に被害者の手に返してやりたいと思いました。で、もしその品が今日の市に出たら、
救いの神――と金吾は心に謝しながら、
「釘勘とやら、どうか、よろしく頼む。しかし、盗賊どもの集合している所へ、この姿では工合が悪かろうな」
「なあに、泥棒だからといって泥棒らしい姿をしている者は一人も居ませんから、かえって、私達もヘタに化けるよりはこのままの方がようございます」
「で、時刻は、
「もうそろそろ寄っている時分です」
「え、この昼間?」
「急ぎましょう、洞白が人に買われてしまっちゃ何にもならない」
「どこだ、その場所は?」
「まア黙って、私についておいでなさい」
釘勘は人ごみを縫って、サッサと足を速めだしてゆく、その足どりの様子では、浅草観音堂を中心とした盛り場を程遠くないようですが、金吾はいよいよ怪しんで、この真昼中、江戸も目抜きなこの辺にどうして、かれのいうような盗ッ人市などがあるだろうか、どうしても合点がゆかない。
だが、釘勘は迷う風もなく、三
大股に寄ってゆくと、
「
「ウム。
「あいつは、
「ほ、あれが」
と、うしろを見たが、黄ばんだ桜並木の間を織る行楽の人通りに、もうその姿は見つからない。
こういちいち釘勘の目を借りてみると、世間はあたかも百鬼昼行で、そこにもかしこにも、面をかぶった
馬道へ出ます。
ここへ出ると、所々の人家のきれめに、枯れ尾花のくぼ地や、
「どこへ行くのだろう?」
金吾のいぶかりも今は一ツの好奇心でした。
千
などと思っている
おや?
と見廻すと釘勘は、ツイと湿っぽい
要所に、手配を伏せておく、かれが組子の岡ッ引ということは、うしろで見ている金吾の目にも分りましたが、
「ム……そうか」
と何かうなずいて、囁き合うと、金吾をさし招いて釘勘はまたすぐにその横丁を走り出して、
「どこへ行くのだろうか?」
金吾は一歩ごとに不審を増して後から続くと、今戸橋から北に寄ったそこは隅田川の三角洲、川口から向う
この辺に多い
「おやじ、市へ来たんだが、合図を頼むぜ」
と、声をかける。
「ふたりだね」
と、
「よしきた。合図はしてやるが、親方、手配はずいぶん大丈夫だろうね」と、そこから、不安そうに釘勘を振向いて、念を押すのを、
「うむ、済んでいる。大丈夫だから、安心しねえ」と、釘勘がくり返します。
「しかたがなしに、仲間の者を裏切るのだが、もしこれがヘタなことになると、こッちの命があぶねえからの」
「あとはお
「へい」
と、おやじは、なかば
その間に、金吾はつれの方へ向って、
「釘勘」と、小声に、
「へい」
「あの今戸焼の老人もやはり盗賊なのか」
「なあに、あれは善人です。ただ幾らかの口止めをもらって、市の時には、ここで見張りをしている奴なので」
「その方の指図にしろ、よくその口止めを破ったものだな」
「
囁いているまに、おやじは、指合図が向うに通じたと見て、
「親方、行って下さい」
「御苦労だった。じゃ相良様、こっちへ」
と、
雑多な舟が
近づいてみると、立って自由に出入りのできるくらいな
金吾の記憶にも、この
「相良さん、これから先は、あまり口数をきかないように。それと、武家言葉は
「ム、承知いたした」
金吾は心得てうなずいたが、これはむずかしいと、自分でも思いました。今の返辞からしてすでに固い武家口調がぬけてない。
「じゃ……」と、あとは、目まぜで、釘勘は委細かまわず先に立って
「だれだッ?」
と鋭い咎め声をガンとひびかせました。釘勘はすました顔で、
「
「どこから?」
「
「あ、
「村山の彦七。途中で一緒になったので、不案内だというから連れて来た」
「おかしいな、
「ありゃ東村山だろう、こちら、西村山の
「おいでになっています。ツイお見それ申してすみません。さ、どうぞ奥へ」
ひとりが立ち上がって両手でパッと暗やみを割るように開くと、ハネ上がったむしろの間から、赤い光線に塗られた奥の怪奇な光景が、びょうぼうとして面前にのぞまれた。
嗅ぎつけない
なお端の方から個々に注意してみると、
が、目明しの眼でこの集合を眺めると、職業的に二分されます。一は盗む者と、一はさばく者です。需要と供給、泥棒とけいず買い、この両者が必要をもって寄る所に、当然、
さすがな釘勘も目を
河ッ童穴の奥は、いつのまにか百
顔ぶれの中には、諸国の役人を血眼にさせている雲霧と呼ぶ兇賊や、常にその
幸いなことに、洞内を赤く照らしている灯は、煙草の煙に
その渦の中で、ひとりの男が、
「ジャワ
と叫んで、
「ジャワ?」
「
「どっちでもいい。さ、いくら!」
「一
「一丁三ッ」
「幾巻あるんだ?」
「五本」
「よし、オヤ指、一手で抱いた」
「次!」と、札を落す。「――奥ジマ十反、潮かぶりは一反もない
「
指が出る。
引ッたくるように誰かがうける。とすぐに次! 次! 次! と順々に出る品物は、南京どんす
中でも、あばき合いで
そのうちに、
「
と叫ぶと、
何を叫ばれても、それがみな
「さ、
と息を殺していると、右の袖をグイと引ッぱる者がある。
呼ぶわけにもゆかないので、そのままにしていると――一番に振られたのが、
「
と叫ばれた
紙入れ、軸、
すると、市も少しダレ気味になり、混濁した空気に各の頭もだいぶ疲れたころになって、
「
という囁きが交わされだした。抜け買いの手から出るなら分っているが、こんな
「ウウム、相変らず、うめえ仕事をするな」
と、感じ合っている顔つき。
そして、
こんな世界にも女が交じっているのかと、金吾が、珊瑚の買主をうしろに物色してみると、どれもこれも目ばかり光る物騒な顔の中に、たッた一人、きわだって白い女の
「あら――」
といった調子に、
「はてな?」
と思ったまま見つめていると、女は前の二、三人を抜けてきて、押されるように背中へピッタリと寄りついたかと思うと、なまめいた髪油の匂いが、金吾の耳の辺に
「旦那……」
と、
「お忘れですか」
「? ……」
「しらばッくれているんでしょう」
「…………」
「
「えっ」
「
「あ……」
「そしてまた今日も、ここへ来る前に、たしか観音堂の手前で逢っておりましたね」
この薄暗い中でこそ幸い、金吾はギョッとして顔色をかえたに違いありません。
真間で逢ったということは自分の方の記憶にはないが、観音堂の境内で擦れちがったのはつい今し方――あの時釘勘が自分に教えた、丹頂のお
しまった!
ここで素性を知る者にとび出されては、もう釘勘の好意も滅茶滅茶で、下手をまごつくと生きてこの
南無三です――悪い所へ悪く目ばしこい女が来合わせたもので、さすが
「あ、それどころじゃない」
女の指が、かれの背中を突いて、
「
「えっ!」
「
「おお!」
と、のび上がって前をのぞくと、覚えのある
「か、買った!」
と、夢中に手を振ってしまったものです。
けれど幸か不幸か、単に買ったというだけでは、市の通用語をなさないので、かれの絶叫は一顧もされず、面箱は他の
金吾は当惑して、気が気ではあるまい。人手に取られては大変な品、ことに、けいず買いの手に移ったが最後、どこへどう行ってしまうか知れたものではないのですから。
と言って――いかにかれがこの切迫にワクワクしても、すべての声が
釘勘は? 釘勘は? オオ釘勘はどこへ行ったのかと今になってあたりを見廻すのもすでに遅い話で、頼みにしていたその釘勘は、あなたにいる日本左衛門の射るような視線をよけて、人の足元から
「ちぇッ」
と、金吾は歯ぎしりをかむ。
市へ来ては
「ウウム、弱った!」
腹の底でうめいていると、その時また、うしろの小声が甘い
「サ、早く引かないと、横合いからさらわれてしまいますよ」
と、お粂が見すました止めの
品物を受取ったはいいが、幾ら払ったものかマゴマゴしていると、お粂が、
「七十両」
と教えました。
七十両、心得たと、金吾はよろこび勇んで紙入れを出しかけたが、どうして今日はかれ程な男が、こうも、たびたび血のあがったヘマを演じるのか、考えて見れば、屋敷を出た時に金子の用意などは無論していないので、紙入れを逆さに振ってみたところ、高々四、五枚の小判と一両に足らぬ小つぶがあるに過ぎないはず。
ハッと思って、ふところへ勢いよく入れた手を出しかねていると、
探ってみると封金、百両ほどな厚みです。
金吾の一心はただ面箱を取り返したいことにあって、一瞬、何を考えているまもなかったことでしょう。その金を投げるが如く渡すと、うしろへ身を
「や、釘抜きッ」
「な、なにッ」
「釘抜き、釘抜きが潜りこんでいやがった」
「畜生」
「逃がすなッ」
というすごい騒ぎです。
グワラン! と岩天井の
ダッ――と相良金吾、一足とびに穴を馳け出して来ましたが、どうやら釘勘が密偵ということを見破られて、袋だたきになっている気配。
「取り返す品を手にしたなら、私にかまわず逃げてくれ、あとは捕手の方寸にあるから――」
とは前もってかれがいい切っていたことではあるが、みすみす群盗の中で袋だだきの目にあっている者を見捨てて、おのれの功にのみ急ぐのは、金吾として甚だ忍び得ない行為に違いありません。
でも、人間は迷う。誰にせよこういう場合は、
「
「たたッ殺せ」
「大川へ蹴込んでしまえ」
「うぬ」
「ふてえ奴だ」
いかに残酷な土足にかけているかを想像させてひびいて来ます。
胸に抱えた
遂に見すてては行かれないかれの本性は燃えあがる。
かれが身をめぐらして引ッ返したのは一瞬でありましたが、元の場所へ馳け戻ってみると、こはいかに、洞窟の奥には、一点の
「やっ? ……」
ですが――かえって疑心暗鬼は金吾をして、そこに兇猛な影が群れをなし
「うむ、鳴りをひそめたな」
と身をかがめたり土の肌をなで廻すほどに、
「――釘勘ッ、釘勘ッ……」
と、石を投げて古井戸の水をさぐるように、四、五
いよいよ変です。
どうしたのだろう? つい今までここにわめいていた人間どもは?
戸隠の伊兵衛、
――と相良金吾の怪しんだのはさることながら、帯の結び目にも抜け身を工夫している盗賊の寄り合いです。元より一方口の
とすれば――いよいよ釘勘の身こそあぶない次第で、金吾は、
「あっ、いっぱい食わされたな!」
と気づいて、にわかに頻りとその抜け口を探しだし初めたが、勝手を知らぬ上の暗中摸索、まるで、
「面倒!」
と
途端です。
「あっッ」
かれが仰天したのは、釘勘を救うべく、手に抱えていては邪魔だと思って竹置場の青竹の蔭へかくして置いた
カラカラッと、
「おお、うぬ!」
と金吾の姿も林の如く立て掛けてある竹と竹との間をくぐって、飛鳥の如く追いました。
追いつつ先の
待て! などとこの場合に尋常なことを叫んでいる余裕などはなく、金吾の目はそれを睨んだまま息をつめ、ただ疾風です、ただ懸命です。
ここで折角手に入れた面箱を横からしてやられて堪るものか。
と思うと――材木場の薄暗い迷路の一方から、ひゅッと、
材木のかげや竹蔵の八方から、仆れたと見た自分の上へ、ワッと
返り血をあびた
後も見ずに、七、八間ほど馳けだしたかと思うと――その時、
「御用ッ!」
と、地を引ッ裂いた
「御用、御用」
なだれ合って慕ってくる光が、横なぐりに降る
「あっ……」
さては、賊の仲間とまちがえられたか――と追われつつ金吾も気がついた事ではあったが、もう及ばぬ場合、血刀のやり場に困りながら、一時のがれに真土の森へでも姿をかくすほかに道がない。
隅田川に近いせいか、捕手の声が水と木の間に嵐のような音響を交わし合って、細い二日の月が梢に見える頃までも、そのたけびが麓にたえないようでありましたが、いつまで、笹の下にも居られないので、金吾は女坂の途中から身をあらわし、あたりに気を配りながら、静かに、
と。
それも捕手の
「お、
と声をかけて驚く面前に立ちはだかりました。
ゆらりと仰がれたのは、広い肩幅とつばの深い編笠。で、
「今日はとうとうムダ骨折りだったな」
さびのある声が
「な、なにッ?」
「おれは、いつぞや
「ウーム、おのれッ!」
かッと燃えあがる血気にまかせて、
夕月を斬ッた水の如き光は、編笠の肩をはずして、黒髪堂の床柱へ、ズンと深く食い込んだまま
「ばか
高く笑った声を消して、その姿は、表の石段から浅草の灯の
金吾はビクともせずに仰向いていました。夕月を散らす
闇を割って、お
捕手騒ぎに抜け穴を出て、聖天の宮にひそんでいた丹頂のお粂は、何かうなずくと金吾のそばへ寄って、ジッと、悶絶している男の顔に見入っています。
青い夕月をうけて、血の気のうせた金吾の顔は、おそろしく秀麗に見える。頬を寄せても知らずに、手を握っても知らずに、眉をひそめたままでいる男の顔は、多情な女の眼にあやしい思いをさせないでしょうか。
「妙に縁のある人だよ……」
お粂は、
だのに、金吾の体をそこに見捨てて、
十二月。
正徳五年のあます日もおしつまりました。
けれど、
「お蝶さん、坐らないか」
そして、どっかりと自分が先に腰をおろして、
「こいつは工合がいい、お
「だって……」
「何が?」
「こんな所にいて、もし、誰か来たらどうするの」
「臆病だなあ」
龍平はお蝶の
「大丈夫だってことさ。同心でも来たら、お蝶さんは野菜小屋へ用があるふりをしているし、わっしは、ぽいと隠れてしまうまでのことじゃないか」
「もしか、人に見つかるとねえ」
「そんな怖がりんぼじゃ、色恋はできませんぜ」
「あら、八ツ口が
「だから、素直におしなせえ」
「なアに……用って?」
袂に引かれて、お蝶は龍平のそばへ身を寄せました。
ここは小石川の窪地、
ちょうど、
外の者はここを切支丹屋敷とよび、内部のものは山屋敷と呼んでいる。もとは
それと、たった一つの
あとはすべて畑です。
そこへは時々、
世間で思う切支丹屋敷とはまるで違っている。
一口に、山屋敷といえば、水責め火責めの
六、七十年
では、ここは
今でも一人の異国人が、あなたの牢に数年間とじこめられている。その一人のために、これだけの広い場所が保存されてあるのですから、政策というものは
されば、山屋敷の内部では、
「
お蝶は、男にもたれて、
「
とろけそうな
おや、その
いつか、浅草の四ツ目屋へ、
お蝶が、敷いている
「え、どういう話?」
と、
「それが、ちょっと、言い
「なぜ?」
「たびたびだからなあ」
「じゃ、またお金のことなの」
「まあ、そんな
膝ッ子へ、がっくりと額をつける。
お蝶の眉が少し曇りました。
だが、この娘も酔狂ではあるまいか。十人並以上の容貌をもって、何を苦しんで山屋敷の
思案のほかにも程があろう。
と――岡焼きの意味でなくとも大いに疑われますが、さてまた、そこには多少道理なわけがある。なぜかといえば、お蝶は、その青春の対象を、山屋敷の
かの女は、
宗門同心今井二
今井二官といえば日本人の如くきこえますが、海をこえて布教に来た異国人です。しかし、かれは日本に着くと幕府に捕われて、きびしい責め道具に逢い、その宗旨をすててころびました。転宗すると、幕府の同心になり、この山屋敷のお長屋に住んで二十人
そういう者を「ころびばてれん」と呼んで、幕府ではいい
また、首を斬られた罪人の後家さんで、適当な女があると、それを妻として
二官も型の如く、ある罪人の後家を妻として、お蝶という子をもうけた。つまりお蝶は、ころびばてれんを父とし
なんと、
いかに美しくとも
ころびばてれんの娘――お蝶にも青春がめぐってきた。けれど山屋敷にはいろいろな束縛がある。そこへ対象に現れたのが
こいつ、仲間にしては
また、お蝶も、こういう所で育ったせいか、
「――何も考えることはねえじゃないか。おやじの二官が持っている合鍵をちょッと借りて来りゃ、百や五十になる品物は、いくらもあの土蔵から引き出せるんだ。頼むから、何とか都合してくれよ、え、お蝶さん……」
先頃も、同じようなハメになって、お蝶は父二官の合鍵を盗み、父が管理している切支丹屋敷の土蔵から、
「いいわ」
お蝶は、遂に
「じゃ今夜、あの土蔵の窓の下に来て待っていてくれない? ……
「すまねえな」
男は、小娘の胸に、ありありと高い
古い柿の木だ。
自分がこの切支丹屋敷の長屋に住んで帰化してから、も早や二十年以上にはなる。そして、また今年もすでに暮れようとしている。
夢だ……。
――ころびばてれんの今井二官は、そんな追憶にふけりながら、
わからないものは人の運命。
そして、お蝶という、娘までもつ身になっていようとは。
故郷の――
面目ない。
二官はそれを思うたびに苦痛らしい。
使命を裏切った背教者!
意気地なく
長崎に、
それはみんな汝の名だ!
と――遠い
その机の上には。
こくめいに文字をつめた書類や
何かと見ると、辞書の草稿です。
幕府の
「ああ、また自分で気を腐らせた。忘れよう……及ばないことを」
気をとり直して筆を持つと、
「二
と、その時、形ばかりの竹垣をめぐらした裏口から、落葉をふんで、ひとりの同心が、
「よく精が出るのう。もう陽が暮れるのに、そんな薄暗い所で
と話しかける。
南天の枝へ六尺棒を預けて、くつぬぎ石から投げるように、縁へ腰をおろしましたが、それはやはりこの
「……こうして夢中になって
「ウーム、しかし、余り精を過ごして、体を
「女親が先に亡くなっていますので、私も、お蝶の行末だけは、何かにつけて案じられまする」
「親心は、異国人でも、変りがないとみえる」
「むしろ、人一倍でございましょうな。何せい、血の
「ウム、けれど、お蝶も近頃は、目に立って美しくなった」
「はい、年頃は、争えませぬ」
「気をつけることだな、もう、そろそろ油断がならないぜ」
と河合伝八の言葉は意味ありげでしたが、
「あの美しさが
と、先の真意のあるところは耳うつつで、ただ子
そこで、伝八はきせるを抜いて、
「火を一つ貸してもらうぞ」
手あぶりを縁へ引きよせながら、ジロと、部屋の中から勝手口をのぞきこんで、
「お蝶は、見えんようだな」
「先程、畑の方へ、野菜をとりに参りました」
「ふウん……
「私が陰気なので、あれだけは、若い娘らしく、せめて山屋敷の中だけでも、好きに、飛び歩かして置きたいと思います」
「結構だ。けれども二官殿」
「え?」
「気をつけろよ」
「…………」
「
「……悪い虫が?」
「ウム、
「あいつ、拙者の見るところでは、どうやらお蝶に甘い言葉をならべて……」
なおも言いかけようとした時に、コトン……と勝手の水口で、誰やら帰ったらしい物音。
色を変えてボウとしている二官の前に、いつか伝八の姿は去って、入れかわる夕闇の
「お父さん」
「…………」
二官は腕を組んだまま。
「ここでよろしゅうございますか」
八畳の間の中ほど、
「ウム……」
不きげんに、言ったのみであります。
気にもかけないで、お蝶は、長い
そして、暫くは、勝手で瀬戸物の音がつつましく、この寒いのに、香の物をきざむ音が、子煩悩な二官の
「ばかな!」
かれは、今の、不快な想像をうち消して、
「お蝶に限って、そんなことのあるわけはない。わしを異国人と思うて、伝八めが気をもましてみたのじゃ」
自ら気をとり直して、雨戸を閉めたり、書物を片づけて、膳の前にきてみると、お蝶は、親の目にも見とれるくらい、濃厚な
「つけて貰おうか」
「
「いや、結構。だがお前は、今し方までどこへ行っておったのだ」
「御門鑑をいただいて、坂上まで、買物に行ってまいりました。お父さんの
もの言うたびに、黒髪の蔭で金の
貧しい二官は、お蝶が自力で、
「世間を知らないお父さん――」
お蝶は、自分の父が、事情に暗い異国人であることを、ある時は、幸せだとさえ考える折があります。
何しろ、十六、七までは、欲しいと思う紅を求め
ふと、伝八の口から耳にしたことさえ、つとめて、打ち消すようにして、敢て、幸福な眠りを急いで
すると……その晩です。
やがて――
「む……むウム……」
二官が寝返りを打った途端に、かの女の身は機敏にちぢまり込む。
木枕のきしみに、あの、
そして。
眼をつぶりながら……。
お蝶は
蒲団の中の心臓の音が自分にもハッキリと聞こえる。
冷やッこい金物が、
うしろ向きに、深く夜具の
水口の戸を開けると同時に、サッと流れこむ寒風を怖れながら、素早く、音を盗んで外へ出ます。
まだ宵でしょうが山屋敷の中は
「土蔵の下で、もう龍平が首を長くしているだろうネ……少し約束よりおそくなったようだ」
お蝶の目には男の姿がチラつく。
家の裏から
そこに年ふる四、五本の
「オオ、寒!」
と頭巾のはしを口にくわえて、お蝶の足が自然と早くなりましたが、それとともにどこかで不意に、
「お蝶さん――」
呼びとめた声がある。
遠いようで近い声――さびたる
「どこへ行きますか、お蝶さん」
「…………」
お蝶はゾッとして、木の葉まじりの風に吹き止められながら、
「誰?」
と言うと、
「わたしです、ヨハンです」
声の
「あ、ヨハンさん」
「いいところへ来て下さった。すみませんが、その
「あ、これ?」
「ええ。私の、
「取ってくれというの?」
「どうぞ……」と、牢のヨハンは拝むような表情をして、お蝶の手からそれが鉄格子の間にさし込まれると、いくたびも感謝しながら、古い聖書のページへ大事におさめました。
「もう七年」
ヨハンは暗い中にかがやく目をして、
「――
現在、切支丹屋敷の牢獄に、たッた一人いる異国人とは、すなわち
かれは今から七年
吟味所でかれを調べた新井
(すべてその人博聞強記にして、かの国多学の人と聞こえて、天文、地理の事に至っては、われら
と自著西洋
ころべば、幕府は妻家
日に、小麦の
それで命をつないでいるヨハンですが、肉おとろえ骨あらわれても、どこか、かれが生気を失わないのに反して、
ころびばてれんと。
ころばぬばてれんと。
何しろ、皮肉な対照でありました。
ところで今――こんもりした榎の下の暗がりで、ヨハンは石室の鉄窓からお蝶の夜目にもあでやかな影を見ながら、
「ど、こへゆきますか、こんな晩に」
と
「わたし?」
お蝶は面倒くさかッたが、
「
と、出まかせなことをいう。
「かんざし?」
ヨハンは
「アア、髪へさすかんざし? ……それなら、あした、明るい時に見に行った方がよいでしょう」
「だッて、もし、雨でも降ると、泥の中に埋まってしまうかも知れないんですもの……あたし、心配で、寝られやしない」
こんな答えをする時のお蝶は、いかにも無邪気そうな、あどけない表情をして、あの毒針を心のどこへ引ッこめてしまうのか、ちょうどヨハンの故郷、
「いつか、
牢の中では、思い出したように不意にいって――
「お蝶さん、ちょうどいい、話があります」
「まあ、いやだ、気味のわるい人!」
飛び
「離して! わたしには、ほかにも急ぎの用があるんですからネ」
「気味がわるいことはない、私は神の
「大きなお世話じゃないか」
「お気の毒な、さだめし、二官殿は良心に責められておいでだろう」
「うらやましかったら、お前さんも早くころんで、牢から出してもらえばいいのに」
「はははは……」
あたりを忘れて笑ったが、ふと、改まって、
「私の国も
「そんなこと、聞かなくッても分っている」
「じゃ……二官殿が日本へ来たほんとの
「? ……」
「日本は禁教の国、徳川家では、海をこえて来た異国人と見れば、すぐ捕えずにはおかない。そんな危険を承知しながら、なんで、私がまた二官殿のあとから羅馬を立って来たか、そこに深い秘密がなくては……」
「離して下さいよッ」
じれッたそうに袖を引いてうしろを見ました。
そこには、いつのまにか、土蔵の方で待ちぼけを食って、たずねて来た
オイオイお蝶、いい加減にしろよ、いい加減に――。
何をつまらねエ
男の手招ぎに気がつくと、聞くのもじれッたいヨハンの話などは、もう耳にも入らないで、お蝶はその方へ馳け出しました。
「龍平かい?」
「で、ございましょうよ」
「悪かったネ、遅くなって」
「お嬢さん、じょウだんじゃありませんぜ」
「オヤ、何が? ……」
「何がって、ばかばかしい、大事な約束を前にしながら、この寒空に、龍平を
「そんなに怒るもんじゃないよ。だッてね、今夜に限って、あのヨハンが私を見かけると、
「あんな、
「ア、いやだ……そんなことを言ッちゃあ」
ぶるッと、怖そうな表情をして、男の腕に巻きついたが、その柔らかい手は、少しも真から怖そうな脈のひびきではありません。
そうでしょう、これから官庫の
俗にお
けれど、それを
「お、鍵は?」
と、うしろで、龍平の低い声がします。
くずれた石垣の蔭から、無言で姿をみせたお蝶は、帯の間から取りだしたものを、思い入れして男の手へ渡しました。
かの女は、このお
百数十年来――二代将軍時代からの
それはまた何かといえば、皆、はるばる海をこえて、
されば、中には、当時の江戸ではまだ見たこともない、白金や宝石や異国の七宝珍貴な物が、あるべかざらざる所にあるわけでありますが、慾には抜け目ないはずの要路の役人どもが、それを
だが、龍平にはそんなことは、決しておかまいないことで、お蝶とても、父の手伝いにここへ入って、初めてそれを見つけた時には、
「まア、勿体ない」
と、むらむらとしていたくらいなものです。
「――お蝶さん、見張りを頼むぜ」
龍平は、鍵をうけ取ると、五、六段ほど石段を
「あ、早く……」
と、お蝶はそれに応じて、小走りに土蔵の裏がわをのぞいて来て、
「大丈夫……今のうちだよ」
「ウム!」
と言うと、龍平の両手は、ガチリ、ガチリ、と大きな
全身を
――
耳をつけても外では音の知れッこはありません。
――でまさかにそれとは知らなかった。
ところで、中なる土蔵では、
「――親分」
と、ひとりの黒ン坊が、
「こんなものがありましたぜ」
「ウム、
と言ったのは、本格な黒いでたちをした男、そばにも二人ほど控えていて、それだけは大長持に腰をすえ、
「明けてみろ……」
と、
「
「用はねえ」
「親分――」
と、また
「これはどうでしょう」
「
「そうらしゅうございます」
「すててしまえ」
スルスルと梯子をすべって来たのがまた何か見せると、用はねえ、違う、イヤ、それでもねえ、あれでもねえ、と次から次へ首を振って、ほとんど、この土蔵の中に何を求めるのか、かれの不機嫌に
で、とうとう見切りをつけることに一致した黒ン坊一同、ソロソロと長持の前にかたまッて、
「親分、もうこれ以上は、探しようがありませんが……」と、かぶとをぬいだ泣き声で、あやまり入った風情です。
「ウーム……」
男は腕をこまぬいて、荒涼たる土蔵の中を眺め廻しておりましたが、舌打ちして、
「じゃ、しようがあるめえ。引き揚げよう」
「いめいめしいなあ」
うしろで、舌打ちにつれて言うものがある。
「わっしは、七日七晩、焼き米かじッて、ここに住み込みで探したんですから、それで外へ出たひにゃもう半病人です」とさえ、中には言うやつがありましたから、これは、何かよほどな探し物だったにちがいありませんが、それは骨折り損になり、なおまだ、親分というものが何を求めるのか、意中の
「尤もだ、じゃあ話すから、誓いをしてくれ」
と、一同へ
「おれとここにいる
浜島庄兵衛の日本左衛門、ここに初めて、手下の者へも秘していた、ひとつの大仕事をうちあけようとして、声調おのずから低まりました。
ガチリ、ガチリ……と、いつまでも錠前と取ッ組んでいる様子なので、見張へ廻っていたお蝶も、見ていられない気になって、
「ちイッ、なにをしているの」
「ま、待ってくれよ」
「鍵が合わないのかい?」
「ピッチリ
「おかしいネ、貸してごらん」
代り合って、こんどはお蝶の白い指が、冷やかな金物にふれました。
日本左衛門を真ン中に、土蔵のうちでは黒いものが、
「短刀?」
「ウム」
「一尺ばかりの短刀ですって」
「ウ……」
「親分がそれまでに目をつけるからには、いずれ
「もちろん」
「とすると――
「いいや」
「少し下がって、千手院、
「ちがう」
「古刀ですか」
「うんにゃ」
「じゃ、新刀で?」
「そうでもねえ」
「はてね……。だが、
「いる!」
「分っていますか」
「ウム、実は、
「えッ」
と、ここで初めて黒い連中は、自分たちの反問が
しがない
「妙に聞くかも知れないが、決して、嘘やからかい事じゃあない」
無智な手下たちの気を見てとることは早く、日本左衛門、
「――おれが生涯の大仕事として、ひそかに探し求めているのはその短刀の埋もれている
真面目です。
その
そこでかれが話すところには。
短剣というのは
その者は、日本でたしかに
「夜光の短剣が見つかれば、ある王家が亡びずにすむのです。誰でもよろしい、それを手に入れてくれた方と何万金でも取引します」
熱心に南蛮船から
あの、四ツ目屋での、
それも実は、日本左衛門が、こいつは? ――と首をひねッた敏覚からつけてみた事で、その暗示から山屋敷をこえ、一歩進んで、官庫の中をこうかき廻したのも、まったく、
けれど。
それは見事な失敗に終って、
「こいつらにも、無駄骨を折らせて気の毒だった」
と思うままに、今、実相の一端を洩らしたのでありましょうが、意外にも、かれが話し終ると共に、
「はてね? ……親分、私はそれと同じ話をツイ四、五日前にもよそで聞きましたが……」という者が出てきました。
日本左衛門には意外でありました。
夜光の短刀の秘密こそは、まだ自分と、
手下の前で、今、その一端をもらしたのも実に初めてであるのに、それをもう
うっすらと
「だれだ? そう言うのは」
声の
「へい」
と、うずくまった
「ウム、てめえは
「へい」
再度こう返事をしたのは、お人好しの率八と通称のある小泥棒。
盗賊の中に籍を置いていて、それで、お人好しもないように聞こえますが、この黒い連中もこれで一社会をなしている以上、やはりその粒のうちにも、おのずから善と悪があり、義と不義があり、固い性質とズボラがあり、素走ッこいのと薄のろ、陰険なやつとお人好しの
「前へ出ろ」
その率八をあごで招いて日本左衛門は、
「――今おれが話したとおりなことを、よそで四、五日前に聞いたと言うが、そりゃあ、まったくか」
「まちがいなく耳にしました」
「どこで?」
「
――何を言ッてやがンでえ――と例に依ってクスクス嘲笑しかける者がありましたが、日本左衛門は、それで一笑に付し去ろうとはしないで、なお
「伊兵衛というと、道中師の伊兵衛のことか」
「そうです」
「あいつなら、たしか、いつぞやの市にも顔を見せていたな」
「
「ウム」
「すると、伊兵衛は居ません。あっしは腹が減っていました、飯が食いてエなと中に
「ウム……」
「話し声に目がさめると、隣の部屋で、伊兵衛と
「ふム……」
「とネ、親分、馬春堂のやつがでッかい声で――伊兵衛! こいつあ大変だぞ! えらい物が手に
「箱を
「へい、そのそばに、女の
その外では。
中から用意の
けれど……そこが開いたらどうだろう?
むしろ、開かない戸こそ、幸いだったのではないでしょうか。
率八は、それからまた、
「馬春堂と伊兵衛さんが、
と、日本左衛門へ向って、話しつづける。
「なアに、二人が思案し合っているのは、その女の仮面じゃあなくッて、面箱の底から出て来た、
「尾州家の……おっ、それが面箱か?」
「へい」
「合点がいかねえ!」
と日本左衛門は、大長持に腰かけて抱えていた大刀のこじりを、
「尾州家の面箱といえば、
「親分、あいつは、伊兵衛があのドサクサまぎれに、さらッて逃げたんでございます」
べつな
なるほど。
それには日本左衛門にも、
「まア、そりゃ、どうでもいいが……」
深くは
「で、それから、馬春堂が何か話したのか」
「そうです、伊兵衛さんの口ぶりじゃ、その面箱をポンと開けると、面の裏から、奇妙な、えたいの分らねえ、
どうもお人好しだけに、複雑な話になると廻りくどい。
つまり。
率八の話を
首きられたそのばてれんの口書にも、はるばる
けれど、時の役人――尾州家の者も、異教禁令の
(巧みに虚妄を申し立つるといえども神威のお
と結んで、審議のあやまちは知らず、調書に誇って書いてある。
けれど見る者が見ると、
(夜光の短刀をこの日本へさがしに来たのだ! 布教ではない! 夜光の短刀がほしい!)
と白洲で叫びつづけたその者の口書には、どこかに真実が
偶然――その口書の内容と、今、日本左衛門がここで一同に話したこととは
「ウーム、そうか。率八よく聞かしてくれた、礼を言うぜ」
と、すべてを聞いて黙思した日本左衛門も、ここに一段と自分の捜索に眼界をひらかれた心地。
思えば……。
じッと冷静に夜光のまぼろしの遠い過去を思えば……それは二年や三年、きのうや今日に始まったことではないらしい。
率八の話をきいて思わず深い黙思に落ち入っていた日本左衛門は、やおら、やがて、
「うッ、うーウむ……肩が張った!」
土蔵の天井をつきぬくように
「さあ、いつまで、ここにこうしていてもしようがねえ。みんな! ぼつぼつ引揚げとしようぜ」
ぬッくと、大長持から腰をあげました。
そして自ら先に、黒頭巾を脱ぎすて
それに習って。
一党の黒い連中もおのおの黒衣の一端からクルクルと仕事着の皮を剥きはじめる。
見ると、それは縫目もなければ袖もない、
それを器用に五体へ巻きつけて、四本足の
「腹が黒い」という語源が、そもそもこの辺りから出たものかどうか、それは詮索の
ちょッと、たもとからくり出される
さて。
連中があざやかに引揚げ
「おい、日本左衛門」
「ウム……」
という気のない肩を打って、
「――がッかりのあとが理に落ちて、イヤに今夜は陰気になった。吉原とでも目先をかえて、
「よかろう、案内をしてくれ」
「雲霧」
「おう」
「行くか」
「なにしに否やの
「は、は、は、は、こういう相談で破談になった
「親分」
「親分、あっしも」
「てめえたちは鼻の穴でも洗って、どこかへ勝手に散らかるがいい」
チリン、チリン、チリン、と分け前の小判が、こんな中でも
「じゃあ――行こうぜ」
「灯を消せ」
日本左衛門の声を最後に、ふッ……と前後に吹かれた息が、さらぬだに暗い真のやみを呼び落しました。
「…………」
ズ、ズ、ズ……と一同の
先にやみをなで廻して、
鉄のような
そこの
女性のねばりづよい執着。
そのあるかぎりの精を蔵の戸に賭けて、お蝶はさっきから何ものもない様子で、そこを開けないうちは去り得ぬ心理になっている。
かかればかかるほど、凡婦と凡夫、自己の錯覚に捉われてゆくばかりで、
「どうして開かないのだろう。こんなはずはない、こんなはずは……」
精と根気をすり
そうです。
「よそうじゃねえか」
とうとう男が、弱音を吹くと、
「なにさ!」
かえってお蝶の方はやッきとなって、
「折角鍵をなにして来たのに、またいついい折があるか分りゃあしない」
「そうだなあ……。どれ、もう一度おれが」
浅ましいやつ。
まだ感づかずに、口をへの字に曲げて
「あっ……お待ち!」
その時。
お蝶が不意に袖をひきましたが、龍平は
「ウムッ……強情な戸だなあ……」
「お待ちってば、龍平」
「こいつあ変だ。いよいよあかねえと相場がきまった」
「それどころじゃあない……」
「えっ」
「たれか来たようだよ、人がさ……」
「ど、どこへ?」
と、かれがうしろへ目をやった途端。
しまった!
はッと驚いて、
「ちイッ、いけないねえ……」お蝶は龍平の手首をきゅッと握って、
「見つかったよ、見つかったよ」
「こ、こうしちゃアいられねえ」
ひッ腰もなく、男が戸まどいして馳けだそうとするのを抑えつけて、
「
「おっ、来やがった」
「早くッ……姿を隠すんだよ!」
じゃけんに枯れ草の中へ男を突きとばしておいて、お蝶自身はヒラリと石垣の下へ飛び降り、そこに乱雑に積んであった大谷石の間へ、機敏に体をひそませました。
と!
一瞬の
「はてな? ……」
と、急がしい目くばり、白壁にさした人影をあたりに探し求めている。
見るとそれは、夕刻、今井二
ふと、蔵の
「おおっ!」
かれは、
そして。
もう――と霧に立って、あたりへ降ってきた細かい血汐の粒にお蝶は肩をすくめて、
「あっ……」
歯の根をかみながら、口を破ッて出そうな驚きを、ジッと袖口でおさえました。
今。
蔵の錠前がはずれているのを見て、いきなり馳け上がって行った同心河合伝八が、そこの大戸があくよと見るまに、真っ向から
下へ落ちた伝八は、ただ一刀に絶命して、
「ウームッ……」
と枯れ草の根をつかみ、
ですが。
お蝶にも龍平にも、どうして、誰に、伝八がかく斬りさげられたのか殆ど前後が分らない。
こんな一瞬の気もちを夢中というだけで片づけるには、あまりに当人たちの心理が複雑でありましょう――言いようのない恐怖、疑惑、戦慄、さまざまな錯倒を胸に描いて、なお怖いもの見たさの目が無意識に、真っ黒な口をあいた蔵の戸前へつり上がッている。
逃げるにも逃げられる場合ではなし、その気力もあり得ようはずはなく、疑惑とおののきを歯の根にかみしめて、虫のごとく、
「? ……」
ただジッと、息をころしているほかにない
すると、静かな空気のまま。
魔法をもって吹き出された人間のごとく、蔵の中からのッそりと足をふみ出したのは雲つくばかりな大男――、栗色の衣類に
すぐあとから一本の刀の光が、
つづいて、
でっぷりと肥った男、
一
そのほか一味の
ところが、また少し間をおいて、慌てて走り出してきたのは、今までの連中と違って、しなやかな線をもった痩せ形な人影。
追いついて、先の
しとしと……と多くの足音が、遠のいて行く
一陣、夜更けをすさぶ
ザア――ッと吹きめぐる風の渦は、山屋敷いちめんの畑や蔵や役宅や
翌日、山屋敷の騒ぎは案の如きものとなって、役宅からは
わらわら飛んで来たはいいが、見るほどの者が皆そこへ来ると
中は目もあてられない乱脈!
さらに、戸前の下には同心河合伝八の謎めいた死骸!
あまりの事に寄り集まった者が、
「まったく、あっしゃ、生れてから今朝みてえにビックリした事はございませんよ。何しろこれですからね。何の気もなく起き抜けに奥の物置へ掃除の道具を取りに行こうと思うとこれなんでさ」
大勢の者は、同じことを何度も言って廻る龍平の
「はじめ、あの
「では、貴様が第一にこれを見つけたのだな」
初めてかれの顔を顧りみたのは、役宅
「よろしい、現場は拙者が預かる、一同はここを
こういうと側に居合した二人の同心に何か耳打ちをした様子。ひとりは龍平を連れて役宅へ戻り、ひとりはあとの者を追い帰して、直ちに、今日よりお許しの出るまで、山屋敷の者一同外出まかりならず、というきびしい触れを出して禁足しました。
これは当然な処置でした。この
で、
「弱った……」
役宅へ引揚げてきたかれの顔色はまっ青で、
「ウーム、弱ったことができた」
ただ吐息をくり返すばかり。
皆目、なんの見当もつかない。官庫を破った者は少なからぬ人数のようであるが、その目的とした所がまるで想像がつかない。
このまま、これを幕府に報告して、町奉行の力を借りるとなれば、切腹は待つまでもなくそれと同時の仕事です。と言って、風の如く来て風のごとく去った群盗の
わずかに、勘解由が思い当るのは、これは誰か、内部のものが内から手引をしたのではないかという疑念。
で――その翌々日、かれは役宅に
入れ札。
それは一体どういうことかと疑いながら、むしろ好奇な目で、ころびばてれんの今井二官は、何も気がつかずに娘のお蝶を連れ、神妙に、その中の
入れ札の白洲というのは、いわゆる犯人投票といったような方式で、当時、何か事が迷宮に入った場合にはまま行われたものだと申します。
白洲といっても畳を敷きつめた役宅の広間なのです、正面には山屋敷
で、与力の
「お上の御封庫を荒し、同心河合伝八を殺害した不敵な
ジロリと二十七名の頭数を見渡して、なおも一応入れ札を取るに至った理由をのべます。
そして、言い渡しの終りに、
「たとい肉親
思い当りの全くない者は、
(誓って存じ寄り
と書いて
扶持高の順番が一人一人廻ってきて、やがて指名されたのは今井二官です。二官は御封庫破りの騒ぎも寝耳に水でありましたし、それを手引したという疑いをもつ者なども、自身の周囲には思いよるところがないので、そのまま正直に、
(誓って存じ寄り
と、入れ札をすまして引き退がりました。
次には、その
お蝶の濃艶な姿はこんな情味のない席にあって一層衆目をひきながら、静かに書記机の前へすべって、歌でも書くようにスラスラと何か入れ札を
最後に、八、九人の
入れ札が終ると、一同は役宅を出て、
(誓って存じ寄り
という札ばかりです。
仲間の龍平が入れた札も同様でありました。
ところが、最後に開いたお蝶の入れ札を見ると、それには優しい文字で明らかに、官庫破りの盗賊を内から手引きした下手人の名として、
お小屋番のもの龍平。
と、かれの名を
遠いところの昼の三味線――
松の内の町を流す女太夫の糸でもありましょうか、例のけだるい稽古
枕元には、白茶の
また、鎌倉塗りの盆の上には、
その福寿草も開き切ってしまいそうな暖かい初春の陽が、
眠れる人は、
金吾といえば、彼は尾張中将の放縦なる若殿徳川万太郎の側付き、その万太郎が市ヶ谷の上屋敷を放逐された
「おや……」
切壁の
「……まだ眼がさめない」
枕元にやんわりと坐ると、長火鉢で加減をみてきた
「――だが、瘠せたねえ」
何を思うのでありましょうか、手を
あれは十一月の頃でした。
その考えごとに
と、いうのは、
もともと金吾があの時の不覚は、日本左衛門の
と言って、気を失ったままにしておいて、自分の置きたい部屋に、そっと据えておくこともならない。
お粂が甘やかな親切気を見せて、気つけ薬と言いながら金吾に最初飲ませたのは、何か微量な毒のある
「万太郎様がお案じであろう、早く、一日も早く、わしは根岸へ帰らなければならぬ」
金吾の
「もし……相良さん」
と、お粂はやがて夜具の中の
「堪忍しておくんなさいね」
こう詫びると、突然、自分の顔を男の頬へピッタリと押しつけて行って、美しい
「帰しゃあしない……
「お粂さん――御馳走さまだな」
あらぬ所から思わぬ人声が飛びこみました。
はッと男の体から身を離したものの、ここは丹頂のお粂が好きに手足をのばしている隠れ家で、まして茶室ごのみに壁で仕切ったこの奥の部屋へそんな不作法な人目はないはず。
と、思って――お粂は自分の驚きを打ち消しはしたものの、もう
あだめいた女がさす櫛とさえいえば、
で、この両名の関係は、仲間の者でもあいまいに考えられていますが、いつか
そういうお
そうした愛と毒心の矛盾に立ってお粂は今またそこで、
「相良さん、目をおさましなさいな。御飯ができましたから……ね、相良さん」
と、今度はほんとに肩を抱いて起しかけましたが、それを聞くとどこかでまた、笑うらしい
「おやおや、朝ッぱらから……は、は、は、は、どうもお安くないことですな」
襟すじへスウと風が来たので、お粂はムカッとしてうしろの
「どうも飛んだところを拝見しました」
と、げらげら笑いながら謝っている。
謝るくらいなら引ッ込めばよいのに、なおずウずしく馬面を貼りつけているので、お粂の仲の
「なんだねまア、大きな鼻の穴をしてさ、物貰いのお獅子かと思ったら、その顔は馬春堂じゃないか」
「仰せのとおり、
「何がげらげらおかしいのさ、家にゃ、こんな九尺二間でも、格子作りの入り口があるんだからね、用があるなら表から廻っておくれよ」
「ところが、いくら訪ずれても、その表の格子が開かないと来ています」
アア違いない! と気がついたが、ここで折れるのは
「そうさ、
朝から縁起でもない
「
折から長火鉢のわきへ出してあったお重箱の
腹を立てる値打ちもなくなって、お粂は
「用のありそうな顔つきをして来て、やっぱり
「仰っしゃる通りでもあり、そうでもない用件も少し帯びて参ったので。まあ春のこと、一杯やりながら
と
「あちッ、ち、ち、ち、ち……」
「ひとつ、
「有難くないね、お前さんのお
「いくら奥に色の小白いのを寝せつけてあるからッて、そんな憎まれ口をたたくものじゃありませんぜ、馬春堂だって、一年三百六十五日広小路へ
「ああ、そうかよ、うるさいね」
「人の顔を見るや否や、すぐに
「どういう訳だが、自分で
「その判断なら
と、膝をあぐらに組直して、馬春堂の針をふくんだ手酌のあいさつ、この八
「なるほど、まあそんなことかも知れないねえ」
お粂は取り合わないふうに、かんざしの脚で、きせるの朝顔をほじりながら、
「見料にもう一本つけるから、さッさと飲んで帰っておくれ。今日は少し出かける用先を控えているんだから」
「よろしい、じゃぼつぼつ用談に取りかかろう」
と二ツ三ツ
「ほかじゃないがお粂さん、あの奥に寝ている侍は、尾州の徳川万太郎の家来だろうね」
「それがどうかしたのかえ」
胸にギクリとくるものをかくして、お粂はわざと何気ない眉を馬春堂へ寄せながら、ぷッと
「なに、どうもしやしませんが、その相良金吾に違いなければ、どうだろう、わしにあの侍の体を一日貸してくれませんか」
「おとぼけでない」
お粂は糸切歯にゆがんだ笑い方を見せて、
「相良さんの体を貸してくれないかってお言いなのかえ? じょうだんも大概にするがいい、お前、
「じゃあ、どうだろう」
馬春堂はお粂の舌頭ぐらいには、チクリとも感じそうもない
「ちょっと、手前に引き合わせてくれぬか」
「会ってどうするのさ」
「話があるんだ」
「私が聞いて取次いであげようじゃないか」
「御親切は有難いが、少し内密なことなので、じかに聞いて貰いたいと先方からも頼まれているので、どうも
「……ヘエ、それでは、用があるのはお前ではなくって、だれかべつに頼まれている人間があるんだね?」
いよいようさん臭いお客様と見て取って、長火鉢の猫板へ
「だれだい、その頼み
「それも言ってくれるなと固く口止めされていてな……どうも弱った。だが何、決してお前さんの恋の邪魔をしようの何のというような腹じゃあないから……」
と馬春堂はお粂の
手酌に重なる
「オイ、なんだッて!」
「よしゃアがれ、おたんちんめ、相良に会うも会わねえもこッちの勝手だ。ありぁあ元々てめえが
「ホ、ホ、ホ、ホ。そんなおせッかいな噂をしている
「知らぬは亭主ばかりなり――日本左衛門はどうだか分らぬが、おら、道中師の伊兵衛から深いことを聞いているよ」
「伊兵衛? ……ああそうか、お前に何か頼んだというのは、あのからくり屋の小細工だね……」と、お粂が何か思い当っている
「そんなことはどうでもいい、表にゃ駕が待たせてあるんだから、金吾はおれが連れて帰るぜ」
「――何をするのさ、病人だよお前、相良さんは」
あわててお粂がその前に立ちふさがると、馬春堂は相手を女と呑んでかかって、
「そうよ、その病人をなおしてやるんだ。邪魔をすると承知しねえぞ」
「ふざけた真似をおしでない、丹頂のお粂の家で
「生意気なことを!」
平手で横顔をはりつけようとすると、お粂もきいている女ではありません。
「人を
蘭花のまなじりに
「さ、出ておいで! 出ておいで!」
台所のほうへ引きずってゆくと、
「ちッ、この
とたんに。
棚の瀬戸物小鉢が、いっぺんにガラガラと流し元へ落ちて
「あい、ごめんよ、ごめんよ」
その時。
露地の口元が人で
「あれ、親分……留守のようですぜ」
と、開かない格子に手をかけながら、自分のうしろにヌッと立っているふところ手の
「留守?」
「ええ、開きませんもの、これが」
「そんなふうには見えない、もう一度、でかい声で呼んでみろ」と日本左衛門。
稼業がらの癖に、留守か留守でないかの見分けがつかないところはさすがに率八らしく、格子に顔を押しつけて、奥へ訪ずれることなおしばし、しかも、返辞のないのは依然であります。
日本左衛門はその間に、かれを残して家の横へと廻っている。それは何の
「そうか――」
かれはお粂が風邪でもひいて寝ているものと直覚しました。で、何気なく前に馬春堂が立った所から四畳半の内をさしのぞいて見て、
「やっ?」
お粂と思いのほか、どこかで薄ら覚えのある若い武士の寝姿が
「……おっ、相良金吾だ?」
思わず口走ろうとする驚きを、ペリッと笠のつばに折って、うしろへ身を
「親分――」
どんと
「やっぱり留守じゃありません、お粂さんは裏の方にいるようなんで、それに、変な物音が……」
導いて行こうとすると日本左衛門は、何思ったか、反対の方へ五、六歩急いでお人好しの率八をうしろに
「おれは帰る、お粂にあれだけを耳打ちしてやってくれ」
ただ一
ぽかんと、口を開いている間に、その姿は抜け道へ
「
と、前の調子で力強く手にかけると、こんどは勢いよく開け過ぎて、あぶなく流しの前へ
お粂を下にねじ伏せた馬春堂が、相手の胸元へ短刀を擬している。その光が率八の眼の玉へいきなり飛びこんだから堪りません。
「野郎!」
というと有り合う獲物、何をつかんだか自分でも分らず、飛び上がるなり馬春堂の頭の上からザーッと手桶の水をおんまけて、
「姐御に向って何をしやがる」
不意を食った馬春堂が下へころげ落ちたところを、手にふれた
「ウーム、おぼえていろよ」
お粂は髪を直し、濡れた着物をつけ直して率八を長火鉢のそばへ呼び、
「
率八の労を
「なんてえ、ゲジゲジだろう」
と、なお去らぬ余憤に舌打ちを鳴らしています。
「姐御もまた、何だって、あんな野郎を寄せつけるんで」
「いくら不愛想にしてやっても、のこのこ来るのだから、手におえないやね」
「いつか私が、
「ああ、それでだね……」
とお粂のひとみが奥の方へうごいたには気がつかないで率八は、
「ところで、今日来たのもその話なんてすが、
「親分……が来たのかい?」
「ええ、つい窓の下まで」
ドキと不安を呼ばれたお粂の胸に、あの蒼白にして
「で――話は急だし大変です。切支丹屋敷の一件が町奉行の手に移って、ぐずぐずしていると、ここも捕手の目につくから、今夜のうちに世帯をたたんで一時どこかへ姿を隠した方が無事だろうと、こう親分が御心配なすって、その耳打ちだけをしておいてくれといって帰りましたぜ」
がアーッと二、三羽の
ここは根岸の里。
すると。
かなり荒廃した
空へハネ返った
「うまく行った」
と、いうていにニコッと
けれど、塀を越えて抜け出したところを見れば、まだその行状は相変らずなものと見えます。身なりは、絹の光の冷やかな着流しに
「寒い……」
肩をすぼめて急ぎ足に、かれがそこを離れてゆくと、藪のかげからまた一人の男が、
「――万太郎様、しばらく」
と曲ってゆく
「万太郎様、万太郎様」
呼んでゆきますが声が低い。
それをいい事にして先へ行く万太郎は、耳のない振りをしていよいよ大股になる。
ええまずい!
外にまで
ままよ、面倒くさい、打ッちゃらかして行けという気なのでしょう、そのまま
久しぶりで万太郎、
「まず、飯でも食べての上の思案としようか」飢えてはいないが冬眠していたかれの習性が催促する。
びっくりするような、
ハタとかれの足が止まる。
万太郎は生れて初めて、六本の黒い
相良金吾をたずねに出たのです。帰らぬ金吾の身を案じて、その消息を知らんとして抜け出して来たのです。
また、金吾が取返してくると言って出た、かの洞白の面箱と、その底に秘めておいた「
で遂に番人の目を盗んで飛びだして来たものですが、さて、何を手懸りに尋ね出したものか?
その、迷路の靄に
「ゆるせ」
という万太郎は、吸われるようにそこの囲いへ身を入れました。
「お……」
と
判断の前に
ある紛失物を求めるために屋敷を出た家来が今もって帰らないがその者の消息が知りたい。
まず、生死の点如何?
あるいはそのもの変心して遠く
また求めに行った紛失物はかれの手に入っているのか、それともその
――徳川万太郎はあらましこんなところを告げて大道易者馬春堂の一
おぼるる者
「ほう、紛失
と馬春堂。
「――お待ち遠さま」
うしろの日月の幕の間から、顔を出したそば屋の
パチ、パチ、パチ、パチ……
万太郎は
「
「さらば……」と馬春堂、しかつめらしく机をにらんで、
「ウウム、お案じなさることはあるまい、凶兆はあるが、また一道の吉兆も見える」
「では、家来金吾の身にも、まだ別状はござらぬな」
「いいや、そうもいえませぬて。つらつら
半信半疑に聞いていますと馬春堂は易書をくって
「ウウム
「なに、その者がおると申すか」
「いかにも、北に向って湿気の多い袋地、その奥にある女
あたるも八
それは根岸の
あとでは易者の馬春堂、
「は、は、は、は。今夜みたいにあたった易はねえだろう」
独り呟やいたのも自慢にはならない。昼間、自分が見てきた相良金吾の居所、お
そこで先生、
「どれ、冷えないうちに」
と、早速うしろの
「はーてな? ……いやに
目を皿にして、いくら見廻したとて見当りません。
すると、日月星辰を描いてある灰色の幕のかげて、何者かクスクス笑う声がしたので、いよいよ驚いた馬春堂、そこを払い
「これはしたり」
とばかり、呆れ返ってものがいえない。
さてこそ
「アア、うめえ。御馳走様」
ひどい礼儀もあったものです。食べた杉箸を
「ふざけた野郎だ」
と、丼は受け取らずに、その腕首を引ッつかんでくれると、
「おッと、止せやい」
「何をいッてやがる、乞食かッ貴様は」
「止せったら、馬春堂。おれだよ、おれだよ」
手を捻じられながら、笠のつばを上げて顔を見せたのは、下谷
「なあんだ、おめえか」
「折角の
「よけいなおせっかいだ、風邪を引いた気味なのでワザワザ熱くして頼んでおいたものを」
「何でまた酔狂に、春先から風邪なんぞ引きこんでいるんだ」
「それもお前に頼まれた一件からだぜ」
「どうして?」
「お粂の
「じゃ、例のを探りに、行ってくれたのか」
「ところが、その方の首尾は散々でな」
と、馬春堂は伊兵衛の期待へあわてて手を振って、
「まあ、こっちへ這入ってから話すとしよう」
風
「おめえが頻りと気にしているから、実は今日お粂の家へ様子を見に行った。ところが御安心なものさ、その金吾は病人で腰が立てない」
「それじゃ、あの
「そんな元気はないようだよ」
「ないようだじゃ心細い。金吾に会って、そらとぼけながら口裏を引いて見りゃいいに」
「それをやろうとしたのが大しくじり、会わせてくれというと、いきなりお粂が
「意気地がねえな、女に水をぶッかけられて引き
「なあに、水をかけた奴は率八だがね」
「どっちにしても
「今行った、徳川万太郎かな」
「そうよ、あれを馬春堂、お前は尾州の若殿徳川万太郎と知って、金吾の居所を教えてやったのか」
「ウム、
「どうする気だ! 飛んだことをしゃべったじゃねえか。もし万太郎が金吾の体を取っ返して見ろ、今度は二人がかりで
「なるほど」
馬春堂はお粂に対する腹いせに、金吾の居所を指してやったのですが、いわれてみると伊兵衛の言葉がもっともなので、
「こいつは、悪い易を立ててやった」と、悔いを噛んで目をそらしました。
と――その目の前の往来を
「やっ、捕手が廻っている!」
と馬春堂は腰をうかして、宵の町に黄色く舞った砂ぼこりの行方へ眼色を変えましたが、
「たいそう仰山な人数だな……こいつは悪くすると、また当座だけでも江戸から足を抜かないと
あわてて腰へ煙草入れをさし込み、笠の
「オオ、それから、お
「持って行くのか」
「おめえに預けておくのは
「成程……だが伊兵衛、お前はそれについて、これと目星がつくような手懸りがあるのかい?」
「あるものか。見当がついているくらいなら、こんなまごまごしちゃあいない」
「
「気を廻すにゃおよばねえ、そんなに造作のない物なら、あのばてれん口書を持っていた徳川万太郎が、とうの昔にどうかしていら」
「何しろ、でかい騒動になったものだ」
「どうして」
「夜光の短刀のことを知っているのは、その万太郎と日本左衛門と――それからお
「ウム、腕にかけても、伊兵衛がきっと探し当てて見せる」
「そう問屋で
「何より頼りになる、あのばてれん口書がこッちの手に這入っているのが強味じゃねえか、心配するな。オオ早くあれを出してくンな」
「伊兵衛、おれも一緒に出かけよう」
「どこへ?」
「どこへでもいいやな。お
「そいつもよかろう、じゃその
「お手のものの道具で旅易者か」
「おれが食えなくなった時は、途中でチョイチョイやって貰うことにするぜ」
「こいつは助からない役廻りだ」
にわかに、幕や机や
どうせ捨てて行っても、至って惜しくもないガラクタばかり、算木と
馬春堂は
そして、最後に。
ジューッ……と忍川の流れから白い煙が噴き揚ッたのは、おさらばのついでと景気よく蹴込んで行った
…………
一方は
ここに戸を閉めきった一軒の構えがある。
表通りで女住居と聞いたには、
まさか、易者の言葉を真ッ向に信じて、戸をたたいてみるほどの勇気も出ない。
ピタリ、ピタリ……とかれは
「あっ……?」
といって立ちすくみに、ぶるるッと身ぶるいをしましたが、時やおそし、万太郎がハッと気づいた殺気のただよう所から、闇を切って
ぶ――んと低く
万太郎の右足が上がって、
形は小太刀に似て作りは十手と同じこの
「やっ?」
と、蹴って返す万太郎。
「無礼なッ。何者だ!」
尾張中将の
ですが、その怒れる声の張合いもなく、向うの気配はシーンとして、ただ氷の如く張りつめる殺気と人の動きだけが
露か、
しかしながら万太郎には、不浄役人に陣を以て待たれる理由は毛頭ない。
「――人違いであろう」
早くも察したので胸をなだめて、早足に露地の口へ引っ返して来ると、表通りから馳け込んで来た男の影が、
「オオ、万太郎様で」
と、出会いがしらにバッタリと、膝を折って足元へうずくまりました。
今し方、どこぞで聞いた声のようだが――と思いながら、影ににひとみをこらして見ると、ガッシリした町人
「――路傍、かような場所がらで、身分の低い手前などが、
ははあ、こいつはわしの素性を知っているな。
万太郎はかく思いましたので、
「ウム、ゆるす!」
「呼び止めたのは何の用事であるか、申して見い」と、屋敷言葉で
「と申すお願いは、
「邪魔になる? ……」
「へい、恐れ入りますが、今宵はすぐ根岸のお住居へ、お引取り下さいますように」
「だまれ、左様な指図はうけんでもよい」
「と、お怒りも無論であろうと、実は最前からたびたびお呼び止めいたしながら、心怖じけて差控えてまいった次第、ここまでの辛抱を何とぞお酌み取り仰ぎまする」
「なに、最前も
「塀をお越え遊ばして、あれから、
「や、では、あの時の声は?」
「不作法
「ふーむ、してそういう
「申しおくれました。手前は、食いついたらきッと抜くといわれた釘抜きの勘次郎――と申す
会釈がすんで腰を立てる。
かの
金吾のこと、お粂の恋、道中師伊兵衛と馬春堂の関係など、すべての
しかし。
だが分らない。
町奉行所でも、どうしても分らない一つの疑問。
そも何のために日本左衛門らが、山屋敷の官庫を無益にかき廻したのか、その根本の目的であります。
解けぬ謎を解くべく、釘勘が今夜の手配に先立って、根岸に押込められている万太郎を訪ねたのは、つまりそれが重大な動機。
けれど、
で、どうしたものか? ……と
すぐ、声をかけたものの、先の身分や往来を考えて、つい気おくれしているうちに、その万太郎の
「ええ、しようのねえ坊っちゃんだ」
どれほど、ジリついたか分りません。
今夜伊兵衛が姿を現わすのは分っていたので馬春堂の
この袋地では、釘勘が、
日本左衛門はもう一度必ずここへ来る。
釘勘は自信をもっています。目明しの霊感を以てその信念の
だのに――万太郎が
かれが万太郎に向って、
「邪魔になる」といったのはここのこと。
「根岸のお住居へお帰り願いたい」と
暗愚ではない徳川万太郎、一部始終を聞き終って、
「ウム。ウム。おお、そうであったか」
尋常にうなずく事はうなずきました。
しかし、素直に帰る
「日本左衛門が官庫を荒らしたには深い理由がある。金吾に力添えをしてくれた礼として、その秘密をそちだけに洩らして
こういわれたのには、
「あっ……それを。有難う存じます、では暫く、あの空家へでも這入って」
南町奉行所
万太郎は、座敷にあった小机に腰をかけて、
更けてきました。――こうしているまに、もう真夜中ともおぼしいころ。
果たせるかな、その時刻になると、霜の降りたせいかほの白く冴えた袋地の一端に、ぼッと、三ツの
怪しげな三人の
何か囁やき合っていましたが、やがてお粂の
「
のび上がって家の中へ――
「
合図をして問わず語りにしゃべり出したのを聞くと、釘勘は家の中で、
「しめた」
と、明りを吹き消し万太郎の耳へ、
「いよいよやって来たらしゅうございます……」
「お、日本左衛門が?」
と驚いた様子で、万太郎も思わず腰を上げました。
「そうです。高飛びの行きがけに、ここへ、
「しかし、そのお粂は、もうここにはおらぬと申したが」
「賊でも日本左衛門は首領と立てられるくらいな人物、仲間の者の手前、お粂と金吾のことは見て見ない振りをしているんですが、お粂は男を見捨てきれないで、夕方のうちに二
「ではその駕の一挺の方には、金吾が乗っていたわけじゃの。ウウム、一足違いで惜しいことをいたした」
「何しろうつつの病人ですから、何処へ連れて行かれようと、今じゃあお粂の意志のままで、御当人にも分らなかったでしょう」
「してその行った先は?」
「手先を追わせてありますが、まだ何ともいって来ないところを見ると、何処かでうまく
「そうか」と万太郎も心得て――
「それでは今夜のところはここで別れるであろう、金吾の居所が分り次第に、根岸の方へ知らして来てくれい」
「あっ、今ここをお出なすッてはいけません」
「工合が悪いか」
「折角、日本左衛門という大きな
「成程」
「御窮屈でしょうが暫くの間、その押入れの中へかくれていて下さい。ワッと捕物の
「これへか……ウム、よろしい……」と万太郎は意外な修羅場に遭遇した危険を、むしろ欣ぶふうに、戸棚のうちへ身をひそめます。
「ようがすか、わっしが合図をするまで、外へ出ちゃいけませんぜ……あぶのうございますから……ようがすか」
いい残して釘勘はそこを去った様子。
颱風の中心にあるこの家は、今や、刻一刻と、気味のわるい
「そうだ! ……」
飛んだ野心を起しました。
「すさまじい乱闘が起るだろう、血の雨が降るだろう、日本左衛門が死にもの狂いを見せるであろう――ウームそれと釘勘の捕物陣、どんなものか、ひとつ見物したいものだが……」
と、今いわれた言葉を忘れ、スルリと外へ抜け出すと、かれは手探りで勝手の方へ忍び出し、上からダラリと下がっている何かの繩の端に手をかけた様子です。
引窓の繩――
スウと引くと暗やみに、四角い星空が切り抜けて出る……。
引窓を仰いで万太郎が、そこの
――不意に水を断つごとき呼子笛のつンざきが、家のどこかで吹かれたかと思うと、それが釘勘の合図であったものと見え、
「わアーっ……」
突如、袋地の八面から一時にあげた捕手の声は、まるで暴風を思わせて家の周囲を駆けめぐり、
「御用」
「御用! 御用!」
すわこそ、
窓の下へ寄っていた三人の
「オオ、始まったな」
万太郎はなんだか愉快になりました。
美殿の厚いしとねに乗って腰元や老臣相手に光る君を写したような生活をしているよりも、かかる所にかかる遊戯をしている時こそ、かれの性格に適しているのでありましょう。
「こりゃ面白い」
と、呟やきながら、引窓の綱を頼りにしてスルスルと蜘蛛上がりに、屋根の上へ抜け出しました。
そこで、瓦の波を這い廻りながら、様子如何に? と見下ろします――ああ綺麗だ! 地境の隣にあたる浄音寺の境内から西がわの長屋の
「ウーム、なるほど」
捕物陣といったのは、あの時釘勘の口ぶりとしてチと
露地、川、本道、建て物、障害物、樹木などの市街物を巧みに利用して、これほどの捕手が今までどこにいたか分らず、一瞬一声の
「御用――ッ」
すぐ目の下のすさまじい声に、はッと、ひとみを移して今度は足元をさしのぞくと、
「あっ、
「
「あ、親分」
雲霧の仁三が、うろたえるお人よしの率八をかばって、大刀を振り廻して寄せつけない様子。
四ツ目屋の新助は裏の方へ馳け出して、井戸と猫柳の木をグルグル廻りながら、これまた道中差を引ッこ抜き、捕手を相手に死物狂いと見えました。
「お、親分、お、お、親分はどこへ行った? ――」
と、その乱闘に目を廻して、迷子が母親でも探すように、悲鳴をあげているのは率八で、上からその男を見つけた万太郎は、盗賊の中にもあんな弱虫がいるのかしらと、笑止がっていよいよ吾を忘れていますと、
「わーッ」
と、たれか、斬られたらしい凄い絶叫。それと共に、プーンと湿っぽい血けむりが、
「斬ッたな」
身をのばして二、三尺、屋根瓦の坂を
「――尾州家の坊っちゃん。今晩は」
と、人をばかにしたことをいいました。
「や? ……たれだ……」
と万太郎は驚いて、目をふさがれた冷やっこい手へ、自分の手を重ねて軽く身をもがく。
たれとも知れぬ者にうしろから目をふさがれたので万太郎、
「おのれ!」
と、その手をねじって離そうと試みましたが、どうして、離れればこそ。
爪を立てたが離しません。
と言って――何しろ足場の悪い屋根の上、霜にぬれた瓦のぬめりを無理に踏んで立ち上がれば、身を滑らすのは知れているので、
「ウヌ、何奴ッ?」
「あぶねえ!」
と、逸早くその手はサッとうしろへ逃げて、万太郎の短気、あわや、自分の
と、宙天にからからと笑う声がして、
「お坊っちゃん、ひどく、御立腹だな」
「あっ!」
振り仰いた万太郎は、
緑林涼風。
日本左衛門のこす。
忘れはしませぬ! 去年市ヶ谷御門
「ウーム!
ジリジリと瓦の
「おお、おれはその節飛んだ騒ぎをさせた男、いかにも日本左衛門だ」
「おのれ、よくも秘蔵の
「あとで聞いた噂には、そのためにお手前は、父中将殿の怒りにふれて上屋敷を追われ、今では、根岸に閉門幽居の身の上だってな。おれも、蔭で聞いて少しは気の毒に思っている」
「えい、左様なことはどうでもいい! ここで汝の姿を見つけたのは何より幸い、秘蔵の品を盗んだ下手人、家来金吾の仇、この万太郎が召捕ってくれるから、そこ動くな!」
「はッ、はッ、は、は、は、は……。さすがは御三家のお坊っちゃんだ」
身を切るほど冷めたい天風のうちに、日本左衛門はこう嘲笑して、
「――世間知らずにも程があらあ! おめえの手で日本左衛門が召捕れるくらいなら、八丁堀や奉行所の人間どもは、あすから飯の食いあげになるだろう」
「な、なんじゃと」
と万太郎は歯がみをしたが、かれの足元には、うかとは寄れない構えが見える。
あくまで、万太郎の無念そうな様子を、子供あしらいに見下ろして、日本左衛門は悠々然と、
「ウム、時に」
ふと語調を変えて、
「おれは今夜から当分の間、影を消すかも知れないが、それについて一
グッと、上から睨みをくれて、うしろへ一歩
「ちイッ、何をしやがる」
身を沈めた日本左衛門の肩――
キラッと光を縫って
ふわりと、先の影が屋根の峰を歩みだしたのを目がけると、徳川万太郎、おのれ逃がしては――と勢い込んだ
「待てッ」
と、飛び上がって大刀の抜打ち!
さッと、眉の先へ流れて来た閃光を逃がさず、
「あぶない!」
と日本左衛門。
肩を開いて、斬り
「殿様芸の刃ものいじり、金吾のてつをふんで怪我をするな」
グワンと耳へ
「ううむッ」
と、弦を掛けられた弓のように日本左衛門の体が
「実名浜島庄兵衛ッ、御用!」
まぎれもありません、目明しの釘勘。
ここに人影ありと見て、下の捕り物を組子にまかせ、自身屋上によじ登って来てみたところが、見当らぬ日本左衛門と万太郎とがそこに影を重ねていたので、猶予なく、うしろから差廻した十手の
「御用」と、一つ絞ってみたのであります。
「
さすがは日本左衛門、動じるさまもなくうしろへ身を捻って、顔をながめ、
「うぬは釘勘だな」
「…………」
釘勘は声が出ない。
今や、自分の内ぶところに、緑林随一と誇称する大盗の五体をかかえ込んでいる。全身からふり絞っている力は歯の根と十手の先に集められているのに、この際、何の四の五を言っている余裕などがあるものか。
ふふん……日本左衛門は笑いまして、
「命知らずめッ」
振りほどいた両手の力は、あたかも鷲が存分に蛇に体を巻かせておいて一時にパッと寸断する翼の
だが、釘勘も捕り物の老巧、敢て
「万太郎様、
と、かれの危地だけを救うと、
「神妙にしろッ!」
――見ればいつのまにか、かれと日本左衛門の腕首の間には、タランと一本の
すると、
「あっ!」
万太郎が突然絶叫する。
それと共に釘勘も、自分の力を逆に引かれて、屋根の上へツンのめりました。まるで重い
「おお」と、驚いて馳け寄ると、しまった! 引窓の口から下へ飛びこんでいる。
「ウウム、抜け道がある! 家の中から抜け道があるに違いない! ちイッ、しまった!」
と、地だんだを踏んだ釘勘。
飛鳥! 屋根から袋地へ飛び下りました。
「ああ、凄い奴だ――」
茫然と、
浄音寺から水門尻へわたる捕手明り半円の灯の陣は、今、三枚橋と下谷の二手へ列を乱して、吹かるる螢の如く
そして、あとの袋地には、何かわめくお人よしの率八の声が、泣くが如く
どこを毎日遊んで廻るのか、不良少女の
今日も。
かの女の姿が丹下坂に戻って来たのがもう夕方――。あたりの
だらだらと坂を降りると
そこへ来ると、
「あ……廻り道をすればよかった」
お蝶に悔いの色がうかぶ。
急に足を小刻みに早くして、右がわの藪を見まいとしながら急ぎましたが、そう思う一方には、怖いものを見たさの心が、
(どんな顔に変ったろう)
と、頻りに好奇を
獄門橋の
橋と言っても、ほんの四、五尺の小溝に渡してある土橋のそば、見まいとしても目につく所に、白木の制札と栗の丸木に新らしい板を架けてある獄門台が、お蝶の足をギクリとくい止めました。
たとい三町や五町の所は廻り道をしても、お蝶はこの前を通るべきではありません。だのに、今日に限って、思わずこっちの道から帰って来たのは、やはり一度はどうしてもここに招き寄せられる因縁であるかも知れない。
ぽと! ……と
片がわの茂みですが夏は
しかも四、五日前から、そのわきの
かなり気の強いお蝶ですが、戻って廻り道をしようかと迷うらしく、袂を唇にあてて足を
「ばかだね私は……死んでしまった人間が何をすることがあるものか」
自分の臆病を笑い
(怖かあない)
ほほ笑ましくなりました。そしてこんどは声に出して、
「ちッとも怖いことなんかありゃしない……ねえ、龍平や」
じッと見つめているお蝶は、いったいどんな気持なのか。
あの入れ札のあった時。
龍平は正直に知らぬと札を入れたものを、お蝶はもし発覚しては身にかかる難儀と男を裏切って、ひそかに龍平の名を入れ札にさしたので、かれは立ちどころに捕えられて、
だが、お蝶は
入れ札ではその密告者を決して当人に洩らさない
「けれど、こんな姿になったのを見ると、私もいい気持はしないよ、ねえ龍平、お前が私をダシに使って、官庫の物を盗ませさえしなければ、お前だって、こんなことにはなりはしなかったのに……可哀そうね」
お蝶は、死者の妄念を無視しておりました。いつか死顔の形相に馴れて、恐怖を忘れていたものか、それともかの女らしい
そして、
「龍平! あばよ」
急ぎ足に、山屋敷の方へ、五、六歩下駄を鳴らしかけますと、
「お蝶!」
と、獄門の首が呼び止めました。
二度目の声も、
「お蝶!」
と、たしかに龍平の生首が、獄門の上から呼んだ如く聞かれましたが、見世物のからくりではあるまいし、首がものを言うわけはないので、
「誰ッ?」
と、わざと声の
「どんなお化けだか知らないけれど、思わせぶりばかりしていないで出ておいで。山屋敷の人を呼んでやるから」
いずれ首番の非人か、この辺に、
「なるほど、胆ッ玉の太い娘だ、これじゃ龍平が一杯食ったのも無理はねえ」
ぞろぞろと三人の男。
椿の蔭、橋のたもと、三方から現われて来てお蝶の前後を取りかこみ、
「おれ達だよ」
「ああお前たちは、先頃、山屋敷をお暇になった小屋番の
「そうよ、龍平たあ生きてるうちから兄弟分にしている仲間の源六、松、権次のお三人様だ」
「御参詣でいらっしゃいますの?」
「なにを」
「
「な、なにを言ってやがるんで」
「てめえの帰るのを待ち伏せしていたんだ。さ、今日は少し取ッちめて、聞く筋があるんだからおれ達と一緒に来い」
「聞くことがあるなら仰っしゃいな。よそへ行くことはありゃしない」
「うぬ、素直にしねえな」
「お前さんたちッ――」握って来た手を振り払って、「わるさをすると、すぐ向うは通用門、山屋敷の者を呼びますよ」
「おお呼んで見ろ、おお、呼んで貰おうじゃねえか。
中でも手強い源六という
「やい! 虫も殺さねえような
「なぜです!
「うぬの胸に聞いてみろ。え、お蝶。あとで探って見りゃ入れ札に、龍平を下手人だと書いたのはてめえだという話じゃねえか。しかも龍平とはさんざんおれ達を岡焼きさせた二人の仲、ふだんからその事は、龍平にもすっかり聞いているんだぞ」
「それがどうしたんですか! それが! 私と龍平とどんな仲だったからって、大きなお世話じゃありませんか」
「じゃその
「私がいつ龍平を殺しましたか」
「てめえが殺したも同然だ」
「言い
「何と言おうが承知はできねえ、兄弟分の恨みに
酔いどれのような
「じゃあ私、呼ぶのは止すわ……」
と、そこの木の根へ
「それまで知り抜いているのでは、いくら強情な私でも、観念するよりほかに道はないネ」
かがみ込んだまま地に向って、お蝶は、ひとり
「……ああ悪いことはできないもんだ……」
「おい」
赤い襟裏をイヤな目でのぞきながら、三人のうちで
「どうだ、いくら賢いようでも女の小智慧、世間には
「じゃ、お前さんたちも、悪党なの」
「当たりめえよ、ぼんてん帯の渡り仲間に、真っ直な人間がいてたまるものか。だがお蝶、そう怖がることはねえ。なあ、この三人は龍平の友だちだから、龍平同様におめえとも
少し脅しの風向きが変って来ました。
弱味をつかまれて身を縮めたお蝶の艶な姿が、みだらな出来心を
「あっ……いやッ……」
お蝶は手を出して来るのを払いつけて、両の袂で両の乳を抱きしめました。
「へッ、へ、へへへへ」
権次と松はみだらな笑い方を見合って、
「憎かあねえな、え、おい」
「うん……こんな
「おい、松、よだれが……」
「嘘をつけい」
情炎に
お蝶はぶるぶるとふるえている。もう、
三人は何か耳と目まぜで
「なあお蝶さん、今ほかの者とも相談したんだが、これからおれ達の部屋まで一緒に遊びに来ないか? え、なアに今夜のうちにはきっと家へ帰してやるさ、もう一度この獄門橋を通るのが気味が悪いというなら、おれ達三人で送って来てやろうじゃねえか。な、おいでよ、いいだろう」
猫なで声の優しい裏には、イヤとは言わさぬ眼光と前の弱点をつかんでおります。
「ええ、行ってもいいけれど、
お蝶は袂を噛みながら、くるりと背なかを向けて、またそれを慌てて打ち消すように、
「嫌よ、私……」
歩き出したので源六、玉を逃がしてはと追いすがって、
「な、なぜよ?」
「だって、嫌いな人が居るんですもの」
「お蝶、まだおめえは話が分っていねえのかい。ここで嫌だの応だのと言うと、おめえの身の破滅は元よりおやじの二官まで飛んだ目にあう事になるんだぜ」
「だから、嫌じゃないんだけれど……私、だけれど、やっぱり嫌になってしまう」
前髪のほつれを眉に垂らして、
「何を言ってるんだよ一体。嫌なのかい」
「いいえ」
「じゃ、承知なんだろう」
「私、向うの……」
「え、向うの?」
「あの二人が嫌なのよ。ねえ、源六。あたしあんな者さえ居なければ、お前と何処へでも行きたいのだけれど……」
あまり不意だった歓びと、生れて初めて知る幸福の巡り合わせに、かれが思わずぶるると胴ぶるいをして、その返辞をすら忘れている
「ネ、ネ。だから……あの二人を殺して頂戴な」
ぽッとなった源六の
「うん……うん……」と、源六はうつつになってうなずきながら、
「おめえの心がそうならば、よし、どうせ後には邪魔な奴らだ」
急に引っ返そうとすると、お蝶は軽く、
「あっ……」
と言って、袂の蔭で握り合っていた手を離してやりながら、
「きっとよ」
と、ひとみにいッぱいな
源六が元の場所へ戻って来ると、待っていた権次と松のふたりは不安らしく、
「おい、何をいつまで、向うでグズグズ話をしていたんだい」
不平を尖らせて来た返辞の代りに、源六、いきなり
「やかましいやいッ。都合の悪いことがあるから、お蝶はおれ独りで貰って置くんだ」
「やっ、この野郎」
と、おどろく朋輩の松まで、返す木刀で腰骨を砕いて仆し、足にからんで来る一方の必死を、なおも、嫌というほど打ちのめしました。
不意を食らった味方の裏切に、なんの骨折りもなく二人はグッタリと土を掴んで
源六は、その襟がみを両手にして、女を独占する勇躍の余力で、ズルズルと獄門橋、溝の際まで引きずって行き、そこでドボン! ――、と泥まじりの
途端です!
どうしたのか、源六。
「わーっ! ……」
ダ、ダ、ダ、ダッ、と橋板を荒くふみ鳴らして、うしろへ
「ちッ、ちッ、ちッ、畜生――ッ」
滅多やたらに空を切って、もがきながらのグルグル廻り、ただ事ではないがとよく見ると、その脇腹にうしろから組み付いている白い人の手と月形の懐剣!
虚空をつかむ源六の苦しみは、その脇腹から黒血を噴かせて、見るまに橋板に
唇を噛み、黒髪を乱し、かれの背後から組みついているのは
脇の下から白い腕を廻して、源六の肉体に懐剣を与えているのはかの女の手でした。
物狂わしく源六が橋板の上でグルグル廻ると、かの女の体も同体に振り飛ばされんばかりに
かんざしが飛ぶ、花櫛が落ちる。帯の間から鏡が抜ける。
それでもお蝶は離れませぬ。
「うう――む。……だッ、
言ったかと見ると源六は、もがき疲れて、お蝶の腕にグンニャリと重くなります……、それをお蝶は突き飛ばすように仆して、自分も一緒によろめきながら、
「あっ……」と、火のような息を肩で吐く。
源六の体は俵のようなぶざまな転げ方をして、向うの橋
七日ばかりの月影が、森を洩れて橋板の上へ、青い光の
自分の膝を源六のみぞおちに当てて、
「うッ、うぬ!」
くわッと目を開いた源六が、断末とはいえ口惜しまぎれの
「よ、よくもおれを……、うぬ、うぬ、てめえも一緒に連れ込まなけりゃあ、死……死ねるものか!」
一念、遂に相手をねじ伏せて、お蝶の懐剣を噛み
お蝶は息をうちへ引いて、
(突かれた!)
血を冷やして、そう思ったことでしたろう。
わき腹に、致命的な
乗しかかッている相手の重圧で、その切ッ
「がッ――」
と、妙なうめきを揚げると共に、源六は何者かに背中を蹴られて、下の体を飛び越えるなり向うへ俯ッ伏し、手を離れた短刀は、お蝶の顔から四、五寸
「おう、あぶないところだった」
誰かは知らないがそういった人の手に抱き起こされて、ほっと胸を伸ばしながら、お蝶は初めて意識的に、源六の死と自分の生命の無事な姿をハッキリと眺めましたが、まだ半ばは、夢……うつつです。
「おい、しっかりしなさい。どこも怪我をしちゃいないようだ」
抱かれている者に、体をゆさぶられてハッと吾にかえりながら、
「あ、ありがとうございました」
見ると知らない旅の者です。
「あぶなかったなあ、ほんとにあぶなかった。もう一足わしの来るのが遅かったら、
離したらお蝶のスンナリした姿が倒れてしまいはしないかと、こわごわ支えているのは馬春堂、――かの
「どうだい、どこか体でも痛むかね」
この人物、丹頂のお
「大丈夫です……はい、もうなんともありません」
お蝶は自分の犯した罪が怖ろしい。まだ何とか挨拶の言葉も知らないのではないが、自分の顔を見覚えられるのがイヤで、
「御心配下さいますな、家はすぐそこの、山屋敷の中なんですから……、今帰ってすぐに、誰かここの始末によこすといたします」
しきりと馬春堂のいたわる親切を振り切って、あたりに飛んでいる持物や塗下駄をさがし、襟や帯の身づくろいをしながら木立の影をくぐって山屋敷の方角へ、風鳥のような姿を駆けらせてしまう。
馬春堂は取り残されて、
「なあんだ……」と、
「どれ……もう来るだろう」
橋の
が、幸いに、舌が
かかるところへというあんばいに、
やがて近よると双方から、
「おう、馬春堂」
「あったかい? 忘れ物は」
「うむ、戻っても無駄じゃなかった、茶屋でちゃんと取っておいてくれたんでな」
「そりゃあよかった」
「ずいぶんここで待ったかい」
「なあに、待つ
「なぜ」
「
「うふッ……そいつぁ成程、ひとりぼっちで淋しかったろう。悪党に獄門橋なんざあ禁物だ。……どれ、それじゃおれもつき合いに一服」
と、腰から取って、ぽんと、筒の
肩の
「南無、消えるな、消えるな」
と、
「おや?」
と、透かして見ると、油のような血が流れていて、そこに浮いている
「こりゃあ何だろう」
伊兵衛は血に染んだ花櫛を拾い取って、
「おい、馬春堂。向うに、
「なあに、江戸の場末には、ありがちなことさ」
「ちょッと、この花櫛が気になるじゃねえか」
「そこの
「ふウん……」
「武家の娘だろう、懐剣でその仲間のわき腹を突いていた。だが仕舞にゃ取ッちめられて、あべこべに突き刺されそうになったところを、うしろから馬春堂先生が、そいつを蹴とばしてやったというだけの話で、あとは
「はてな、こんな花櫛をさすような娘が、あの山屋敷の中にいたろうか」
「すらりとした
「年ごろは」
「八か、十九。
「そうか、ウーム……」と、伊兵衛は花櫛を
「ちょッ、ちょッと待ってくんねえ」
ひょいと
「どうだ、あったかいだろう」
と一ツ背中をたたきました。
馬春堂は変な顔をして、
「おい、どうするんだ」
「ところで、歩いてもらおうじゃねえか」
「おめえは?」
「少し道草をしてあとから追うから、先へ行って、音羽の
「ばかにするなよ」
馬春堂があわてて合羽を脱ぎ捨てそうにしたので、伊兵衛は抱くようにおさえつけ、
「まあ、そう怒らずによ。頼まあ先生」
「よくお前は道草をする男だなあ。いったいどこへ寄って行く気だ」
「切支丹屋敷!」
「えっ」
「まあ来いよ」
伊兵衛はグングン馬春堂を歩かせて、獄門橋を離れて行きながら、相手へ早口にこうささやく。
「――てッきり二
……ところでおれも
え、馬春堂、おらどうも切支丹屋敷にゃ、ぜひ何かなくっちゃならねえと思うよ。なぜかって、現在、
……ま、おれの道楽仕事を見ていてくんねえ。盗ッ
もう一つ、そこで馬春堂の背中をたたきますと、いやも
「頼むぜ!」
ぷいと引き返して、小溝のめぐる石垣の
ひらりとその下枝へ飛びつくと――。
二、三度、体をぶらぶらさせて、
体の重みで、グーと枝の先が弓なりに
枝に
「おッと、どっこい」
梢と縁の切れた伊兵衛の体が、一丈二尺の高塀の峰に、
「なるほど、広い」
と、山屋敷の中のムダ地の多いのに、いささか舌を巻いた
いずれこいつは、ぽんと中へ飛び込むでしょうが、小手をかざしている間に、少しこの男の伝記を吹聴するならば、――伊兵衛取る年は四十一歳、泥棒も男ざかり分別ざかりで、ホシは
根は百姓、
若い時には、笛の伊兵衛といわれたものです。
で、あッちこッちの二十五座に、
といって、遊んで食べられない世の中を、伊兵衛は遊んで通ってきました。いや、遊んでとはいわれない、やっぱり、いつか泥棒という商売を
ですが伊兵衛の渡世ぶりは、日本左衛門
稼ぎもたいがいは江戸ではやらない。
今日浅草にいたかと思えばあしたは奥州街道に、――ゆうべ武蔵野をゴソゴソ歩いていたかと思えば
今では、一本立ちの道中師としても人間の質にも、かなりサビの懸って来た伊兵衛には、日本左衛門の
関八州の盗賊が、すべてといっていいくらい、日本左衛門をかしらに頂いている中で伊兵衛ひとりは、
「ふん……青二才が」といった調子で、まだ、あいさつもした事がない。
仲間の異端者!
日本左衛門も、充分、腹にはふくんでいるでしょう。また、かれが伊兵衛を眼中におかない態度を取るにしても、この間うちのいきさつから、夜光の短刀が、双者のさぐり合いとなって行く様子には、伊兵衛の方で、慾以上の熱と興味をもち、やっきとなっていますから、とうてい将来の暗闘は、かれと伊兵衛の間に、まぬかれそうもありません。
さて。
塀の上に取ッついている道中師の伊兵衛。
「夜光の短刀」
こうつぶやいてニヤリとしました。
「――おれが探し当てて、日本左衛門の鼻をあかしてやったら、あいつら、泥棒の神様へ対しても、渡世をやめて坊主になるかも知れねえぞ」
空想は愉快です。
仕事を昂奮させます。
あいにくか、幸いか、今夜は七日ばかりの月がある。
ジッと、そこから下の足場を見下していた伊兵衛は、ススススと、腹にも短い足が何本もあるように、塀の峰をすべるが如く這い出しましたが、
「あっ? ……」
何か驚いて、突然、山屋敷の内側へと、もんどり打ってその影を消す。
けれど、どすんと、不器用な音もさせないし、今の素早さ、跳躍の軽さ、まことに、あぶな
きょうが
歳時記では今を水
「おお、あいにくな人出だな」
どこか気品のある侍です。
朱を浴びた春の
「若様、あいにくは乱暴です。ここの坊さんが聞くと怒りますぜ」
「でも、あいにくではないか。こう
「それにしても、ここを約束の場所にしたのはこッちの都合で、護国寺じゃ、毎年きょうと
「何せい、仕方がない。どこか小高い所へ上がって、この群衆の
「なに、ほかに探し方もあるんです。まあ、私についてこッちへお出でなさいまし」
といいながら、先に立ったのは目明しの釘勘で、法蔵院の池の前から八ツ橋をスタスタと渡り、向うの
ついて行く侍を見ると、これは徳川万太郎です。きょうは釘勘の注意か無紋の羽織、例の
「若様――こちらへ」
と、釘勘はまた先に立つ。
西国三十三ヵ所を模した
「ここじゃねえな」
ひとり
「釘勘」
万太郎は不審そうに、
「最前から何を眺めて歩いておるのじゃ」
「千
「千社札? ……腑に落ちぬことを申す。そちの組下の伝吉をたずねるはずではないか」
「その伝吉の姿を探しているより、この方が早くぶつかるかも知れませんので」
そういって、七番堂の廻廊へズカズカと登って行く。
釘勘はまたそこでも、柱、
「ウム、ここだ。若様ここで伝吉の来るのをしばらく待ってみましょう」
「こんな所にいるのでは、なお見つかるまい」
「大丈夫、
「印が? ……」と万太郎は、廻廊の千本
ある一ツの目的で、四方に散らかッている手先の者が、社寺の千社札を利用して、時には探索者の所在を暗示し、時には会合の場所を示し、ある時は行先を残す
「へへへへ。あなたは尾州の若殿でいらっしゃいます。そんなことを御勉強なさらなくっても……」
てんで相手にしてくれない。
でも、興にふれると是が非でも、つきとめたいのが万太郎の性質、なおも追求して、目明しの
「? ……」
あらぬ方へ、釘勘の目が吸いついている。
それは天井の千社札ではない、本堂階段の降り口にあたる方角。
そこからかなりの距離がありましたが、今しも、
「あっ……お
もう万太郎の
兵庫くずしの姿を目あてに、七番堂から馳け出した釘勘の跳足! かれの
織りなす開帳の人浪をこぐり抜けて、仁王門の前まで息をきって行く。
と――お粂も
「――御苦労さま」
といわないばかりに、姿は素早く石段を降りて、なだれる人渦の中へ吸いこまれて行く。
「逃がしては!」
と、それを追う釘勘。
一足飛びに玉垣の前に来て立ちましたが、既に遅し! ぱたぱたぱたと楼門の空から、白紙のように降りた
で、茫然としていると、
「親方」
と、馳けて来た者がある。
「オオ、伝吉か」
「さっきから、ずいぶん探しくたびれました」
「おれの方こそ、いくら見つけて歩いたかしれやしねえ」
「すみませんでした、今日が開帳だとは気がつかなかったので、ただ護国寺の境内とだけお
組下の伝吉。
それは水門尻に捕物のあった晩から、釘勘の命をうけて、逸早く姿をくらましたお粂の行先を突き止めるべく馳けずり廻っていた手先のひとりです。
「ですが親方、七番堂の
「ウム、見た」
「それなら、あすこに待っていて下さればよいのに、そこにも姿が見えないので、わっしゃ、まだ来ないのかしらと思っていました」
「ところが、今お粂の姿を見かけたので、七番堂に居たのだが飛び出して来たのだ」
「ヘエ……今もここを通りましたか」
「手懸りがあったとおれの方へ
「いえ、ふたりの落着いた宿は、もうすっかり突き止めちゃあいるんですがね」
「というと、金吾様も、そこにいるんだな」
「この先の
「この人混みじゃ立話もできねえ。向うの七番堂にゃあ万太郎様もおいでになっているから、とにかく、そこへ行って相談をするとしよう」
「えっ、万太郎様? ……あの尾州家の若殿様が来ているんですか」
「きさくなお方だけれど、馴れるにまかせて、御無礼な
「へい、ですが」
「窮屈がることはねえ、ただ、それくらいな気持でおれに
すると、ふたりが通り過ぎた池のほとりから、ひとりの男がのっそりと、五、六歩あるいて見送りましたが、
「はてな? ……どこかで今の奴は見たことがあるぞ」
しきりと首をひねっていました。
だが考え及ばないものか、そのまま藤棚の下へ這入って、そこにある
道中師の伊兵衛の荷物をもって一足先に、この護国寺のすじ向うにある、筑波屋へ泊りこんでいる馬春堂でありました。
「ばかにしやがる」
今さら腹が立ってたまらないように、馬春堂はそこでぶつぶつ呟いている。
「あの野郎、おれに合羽と荷物を持たせて、どこに道草しているのか、きょうであの晩からもう三日目、まだ姿を見せやがらない。第一こッちは
ははあ、それで馬春堂先生、気の腐るまま宿を出て、
時をへて馬春堂は一転して、寺領の外の空地に小屋を建てならべている御開帳あてこみの見世物の景況を、いちいちひまつぶしに見てあるいている。
江の島の貝殻寄せ。亀市の
お隣を見ると
まだある。
そのほか茶番道化、大道の針呑みまで寄せますと、この一側だけでも、見世物番付ができるくらいで果てしもありませんが、さて、見世物はあきません。
そこに立ち、ここに立ちして、いつかこの
だが、その終りに、一脚の机をすえていた同業の
「あ……おじさん」
と、まろばすような娘の声が、前に見て通った、地獄極楽の木戸口から呼び止めました。
「おお」
と馬春堂は少し
「おとといの晩の娘さんだったね」
「ええ……そのせつは」
あどけない笑顔を近づけて、
お蝶を見ると馬春堂はまた心のうちで、伊兵衛が今もって帰らぬのはどうしたものかと、少し
「お開帳の帰り道かね」
「ええ、ずいぶん人が出ましたわね」
「あまり遅く帰ると、またこの間みたいな悪い奴につけられるよ。それにお前は今、地獄極楽の見世物を見て来たんだろう、あんなものを見て、よく丹下坂の森を帰られるな」
「だって、おじさん、地獄極楽なんて嘘ッ八はありゃしないでしょう」
「あるさ」
「おかしい……」
ホ、ホ、ホ、ホ、と笑ったはずみに、手にかかえていた包の中から一枚の小皿が落ちて砕け、お蝶の足元へ玉虫色の
「あ!」
「なんだい?」
「
口惜しそうに踏みにじッて、
「わざわざ京屋へ廻って買って来た寒紅なの。こっちの油を落とさなくってまアよかった」
「たいそうみやげ物を買い込んだじゃないか」
「父がひとりでまっていますからね」
「ウム……そういやお前の父親というのは、ころびばてれんの」
「嫌アよ! おじさんは」
「知らない。――嫌な人」
先に人ごみを縫って急ぎました。
「怒ったのかい、おい、お蝶さん、お蝶さん」
用もないが、からかい半分、前の仁王門の横手まで追って来ると、そこの玉垣の前にたたずんで、しきりと自分の方を注視している三人づれ。
二人の町人
変な日というものがよくあるものです。
走馬燈の心棒に立ったように、いろんな影が自分を中心に織りめぐって、うしろにあるはずの影が前に居たり、前にさす影がうしろに居たり、心待ちにする影は来ないで思わぬ影がぽっかりと現われたり、すべて、疑心暗鬼から生まれる影が、目のさき足の先にちらついて、妙に心を
きょうの九星は何の日かわかりませんが、馬春堂、変な日だぞと考えました。
得てこういう日には、ちぐはぐな事が多いものだ。
お蝶さんに
なまはんか
筑波屋の前は、早くも日暮を思わせて、宿についた、
お帰ンなさいまし――とも迎えられずに、馬春堂は幅の広い
「おや?」
何か
また、「変な日」の迷信が頭にこびりついて来て、部屋違いをしたかしらと、廊下の曲りを考えましたが、やはりここは自分の部屋に間違いはないのです。
で、もう一度、襖のつぎ目をはだけて見ると、あかないはずです、
「こいつめ」
ギュッとつねると、
「あ痛ッ」
中で飛び上がッた
「さんざッぱら人を待たせておいた揚句、つまらない
と苦りきる。
「オオ
と足の親指をおさえながら、そのまずい
「なんだ、おれが
「襖をおさえていたろう」
「けッ……」
鶏が
「べらぼうめ、四十男の道中師伊兵衛が、そんな
なるほど、いわれてみれば、その通りです。
ここでも一ツどじをやって、馬春堂はまた気が腐って来そうになりましたが、まず伊兵衛が帰って来れば多少景気もつこうというものと、
「おい、風呂へ行かないか」
「おれは少し気が
「今、宿へ着いたばかりじゃないか」
「ウム、まアいい……」と、伊兵衛は何か考えていたがクルクルと
「じゃ、つき合おう」
豆絞りの手ぬぐいを袖口にぶらさげる。
そして廊下へ出て行きますと、先に出た馬春堂が、何か奇妙な虫でもに見付けたような顔をして、入口の
「何を見ているんだい?」
と自分もそこを見上げますと、
なんの
――と馬春堂に伊兵衛。
部屋の入口にはってあった奇妙な札へ、かたみ代りの批評をいって、そのままトントントンと
「アーいい湯だ」
二ツの首を浮かせました。
伊兵衛はスジ
「この間、獄門橋でわかれた時から、とうとう湯にも
「また
「そうだろうたあ思ったが、おれも実はひどい目にあって、どうしてもここへ帰ることができなかったんだ」
「ふーむ、すると、山屋敷の役人にでもとッ捕まって、逃げて来たのか」
「なに、そうでもねえが……」
伊兵衛は湯気の立った体をザブリと上げて、小桶をふせて腰かけながら、
馬春堂も上がって、グンニャリと膝をかかえこむ。
「――で、あれからの
「飛んでもねえ邪魔物がいて、大不首尾よ」
「邪魔者というと?」
「知れてるじゃねえか、夜光の短刀の相手方、日本左衛門と一まきの奴らだ」と、伊兵衛は話しかけて、あたりに鋭い気をくばりましたが、
で――安心して、それからスラスラとしゃべり出すことには。
「おめえと別れて、あれから切支丹屋敷の高塀を越え、中の様子をのでいていると、いきなりおれの
「すると、そいつはみんな、日本左衛門の手下なんだな」
「そうとよりほかに思い当りはねえだろう」
「だが伊兵衛、日本左衛門のやつが、それほど根気よく山屋敷に目をつけているとすれば、こりゃだいぶ、仕事が面白くなって行くぞ」
「なぜ」
「考えてみるがいい、何かあの山屋敷に、夜光の短刀の手掛りがあるものと睨んでいればこそ、日本左衛門もあぶない要心をくぐッて、そこを
「ちげえねえ? そう考えりゃ、ゆうべとおとといの
「じゃ、あの洞白の
「隠しておくのが、身軽で一番安心だが……」
「その隠し場所にまた困るぞ」
「護国寺の札堂――あの辺は」
「物騒物騒」
「じゃ、目白の
といいかけた時でした――湯気出しの口につんであった小桶の幾つかが、ガラガラとくずれ落ちて、はッと振返った伊兵衛の目に、そこから逃げた女の影――。
ろくに体を洗いもしないで、それから伊兵衛と馬春堂が、上がり湯をザッと浴びて着物を引っかけ初めたころ。
――もう八
そこへ、化粧道具を
「あの、番頭さん」
二、三だん、梯子を踏みかけながら、上げ
「――早くして下さいよ、急ぐんだから」
「ヘイ、只今」
勘定書であろう、帳場の番頭、パチパチパチパチ
「お風呂はもうお済みでしたか」
「ほかの客がいたから止めてきましたよ」
「あれ、
「いいよ、もう」
「あいにくと今夜は、護国寺のなんで、ばかに混み合いますもんですから、どうも不調法ばかり仕りまして」
「それから、
「かしこまりました」
「私は、足ののろい駕屋さんは嫌いだからね」
「達者なのをそう申しておきます」
「じゃあ、すぐにだよ」
「お夕食は?」
「いらない」
トントンと白い
女中の手が足りないかその部屋には、まだ行燈が来ていません。
音もなくあいた襖すべりに耳をとめて、
「お粂か」
と、膝にのせた了戒の刀を重そうに向き直りました。
「――お支度は」
「ととのえておる」
うしろ向きに立って、お粂が丹前をぬぎすてると、白い肌の曲線が、手早く次に羽織る着物に隠されて、さやかな
「お粂……」
金吾は
「わしは止そう、どう考えても、そうしておられる体ではない……」
「あれ、またそんな」
男の体へふわりと絡んで、
「どうしてあなたは、そうすぐに気が変るんですえ? もう駕まで頼んでしまったじゃありませんか」
「…………」
「あなたにしても、いつまでお体がこんなでは、どうジリジリあせッて見たところで、仕様がないことでございましょう」
「といって、このままお前と湯治場へなど、なんで
「遊びに行くという訳じゃなし、あなたの御病気をなおしに行くんですよ」
「そりゃ一刻も早くこの体が、自由になりたいのは山々だが、もうお屋敷を出てから幾月目になるか、沙汰もせねば居所も知らさず、万太郎様も定めし憎いやつと思っておいでになるだろう……」
「ですから、せめてお手紙でも届けましょうかといえば、今となっては、面目ないと仰っしゃるし」
「当り前ではないか。なんで、今さらこの浅ましい病体をして、万太郎様にお目にかかかれようか、お前には武士の切なさは分るまい」
「それ故、湯治場へでも行って、お体の養生をなさるのが、今の大事じゃございませんか」
「ええ、重い」
お粂の体をうしろへ押しのけて、
「
「そんな
「ああ、どうしたらいいのだ、この体を……」
さすが気丈な武士相良金吾も、自分でも
「もう駕が来ているんですよ。ねえ相良さん、私のいうこともきいて下さいな。静かな湯治場へでも落着いたら、その上で、この気持ちもすっかり打明けて話しますから」
うしろへひいた帯の端が、スルリと夕暗の畳にうごいて、蛇の妖情を思わせます。
それから程なく。
夜立ちと見ゆる二
「あ、駕屋さん」
うしろの一挺でこういうと、駕の内からお粂の白い顔が外をのぞいて、
「すまないが、ちょっとここで降ろしておくれ」
「なにか、忘れ物でございますか」
「少し、思い出した用があってね……。
「ヘエ? ここで、お待ち致しているんですか」
「病人は、駕の中へ残しておいてもいいけれど、寒くないようにしてあるだろうね」
「
ひとりがタレを上げて中を見せますと、お粂はニッ……とうなずきました。
なんという奇病――
さっきも、駕にのるまでは、人手も借らずに乗った病人ですが、もうここまで来る間に、いつものような昏睡に落ちて、呼べどもさめるふうはなく、了戒の刀を抱いて俯向いたまま、おのれの駕の行く先も知らぬ
(ああ……罪が深い)
その姿を見ると、お粂もそら怖ろしいほど、自己の
しかしどうしても、金吾を自分の所有にしきってしまわないうちは――と、
「じゃ駕屋さん、少しだけれど」
紙入れの中から二朱金を一枚つまみ出して――「まっている間に一杯おやり」
「ありがとう存じます」
「アアこれでも、いくらか夜露をふせぐ足しになるかもしれない」
着ていた羽織をぬいで、フワリと裏返しに、金吾の駕の屋根へかぶせてやると、お粂は小走りに江戸川の土手を、元の道へ戻ってゆく。
どこへ?
と思うとその姿は、目白の台へ急いで
「こっちが先を越しているはずだが……どうしやがったんだろう、あの二人は」
人待ち顔につぶやいたお粂は、二本松の根方にある石神堂の前に、
× × ×
それより少し前のこと。
筑波屋の裏口へ主人を呼んで、十手を示した上、客らしく装って二階へ上がって行ったのは釘勘です。
ズーと裏二階の廊下を見てゆくと、手先の伝吉がはっておいた、例の、目印の
そのどっちにも明りの影がさしていないので、釘勘は、しまッた! と早くも手遅れを感づきました。
偶然、ここにお粂と道中師の伊兵衛とが、一ツ宿屋に落ち合っていたため、一方へかかれば一方を逃がすおそれを生じ、あれから、いったん引っ返して、手配のため番屋廻りに時刻を
「だが、遠くへは行くまい」
と、一つの部屋をあけてみると、
火鉢の残り火を見つめながら、釘勘は、この部屋の空虚に立って、不思議な疑惑にくるまされました。
――病体にしろ相良金吾が、どうして、お粂と共にこう早く姿をかくしたり、あの妖婦の自由になって逃げ廻ったりするのか?
「ウーム、
吐息の如くつぶやきましたが、今はそんな事を考えている場合でもないので、サッとその部屋を抜けて出ると、何やら足の先にコロコロと転がった物がある。手で探ってみると――冷ややかで、透明で、小さくて、見なれない形をした、紫色の
むらさき色のビードロです。その当時にあっては、長崎の者か蘭法医でもなければ見知らない、小さな薬の
それが拾われて、釘勘の手のひらに、気味の悪い色と冷たさを感じさせています。
丹頂のお粂が、
とにかく、
「忙しいところを、お邪魔しました」
「どういたしまして、何かあの……」
「なに、べつに」
本来は、二組の客の行先を、くわしく問いただすべきところでしょうが、お粂にしろ、伊兵衛にしろ、正直に行く先を帳場にいって立つはずはなく、聞くだけ野暮と
「親方」
と、待構えていたのは手先の伝吉、
「一足ちがいで、逃げられた様子ですぜ」と、そばへ来て手おくれを口惜しがる。
「ウム、惜しいことだッたが、仕方がねえ。それよりも万太郎様は?」
「さっきも、親方が意見していたようですが、どうして、なかなか根岸へ帰る
「じょうだんじゃあねえ、御三家の若殿が、こちとらずれの仲間に交じって、岡ッ引風情の真似を一緒になってやられちゃア困るじゃねえか」
「だって、万太郎様は、面白いといってきかねえんですからね」
「何が面白いことがあるものか」
「当分、釘勘の部屋の者になろうかって、いっていましたぜ」
「ばかをいやがれ。御勘当にこそなっているが、尾張様の七男、もしや怪我でもあった時にゃ、こッちが飛んだことにならあ」
「困ッた人だなあ」
「で、どっちへ尾けて行った?」
「目白台へ上がって行ったかと思いますが……何しろ私は、お粂の方へ、七、八人追いかけさせてあるんで、ここを動くことができねえんです」
「じゃ何しろ、馬春堂と伊兵衛から先に片をつけるとしよう。お粂の方は駕屋を洗ってみたらほぼ
こういいのこすと、釘勘は、もしやと万太郎の身が一途に案じられて、木立に暗い坂道をあえぎあえぎ、目白の台へかけのぼって行く。
…………
どこかに月が出たようです。
月のありかは分らない。
ただ銘刀の
「なあ、馬春堂」
「ウーム?」
「陽気もだいぶ楽になったなあ、今夜あたりが、おぼろ夜っていうやつだぜ」
「そうさ、
「俳諧ってなあ、なんだい」
「そう聞かれちゃ、ちと困る」
「おめえもやるのかい」
「多少は心得がある」
「悪党の癖にしやがって、
「悪党だって、絵の上手なのも居るし、家で
「量見のよくないやつだ。おれなんざ、おぼろ夜となれば、ひとりでに考え方が違ってくる」
「どう違うのかな?」
「やたらに、仕事がしよい晩だと思って、気が
ぶらぶらと歩いてくる二ツの人影。
やがて、二本松の石神堂で足を止めると、伊兵衛は肩の
「ウム、
と古びた
「さ、どこへ隠そうか」
石神堂のぬれ縁に腰をかけて、伊兵衛が
「そうさなあ?」
と馬春堂が、改めてこの
ギイ……と
その石神がまた変っています。
――土着の人は、何事の
もっとも、本体の石神様自身が、神か仏かただの人間か、古色
「どうだろう、伊兵衛」
馬春堂は喜連格子の中へ首をつッこんで、
「ここに
「だが、動くか、そいつが」
「おそろしく頑丈だが、二人がかりならどうにかなりそうだ」
「しかし考えてみると、こんな所に隠しておくのも不安心だ」
「といって、その
何しろ自分に大事よりは、人手に渡したくない性質の物なので、伊兵衛も暫くは迷いましたが、大事なだけに、これを持って歩いていることが、どれほど、苦労だったか分らないことを思うと、
「じゃ、人の来ねえうちに」
と、腹をきめて、
「馬春堂、手を貸すぜ」
「ウム、押してくれ」
二人がかりで賽銭箱をズラしました。
馬春堂はすぐその下の床板をさぐって、
「おや」
「なんだ? ……」
「お誂らえだぜ、面倒なく、床板が
「そうか、じゃまってくれ、
伊兵衛が手早く入念に、
そして、
床下の上へおくつもりで、そっと手から放しましたが、途端に――あっ! と伊兵衛も馬春堂も、色を失なって飛び上がりました。
そこは、わずか二尺か三尺と思いのほか、手を離れて行った洞白の
「た、大変だこいつは」
「飛んでもねエことをしちゃったじゃねえか。どうして、そんな所へ」
「まさか、
「えっ、困った! なんとかして引き上げる工夫はねえかしら」
「
「オオ、蝋燭なら、ここにいくらもある。早く
焦燥と泣きたいような気持とが、カチカチッ、カチカチッ、と火花と散って、やがて、あたふたと点けた一本の灯を、手につかんだだけの蝋燭へ移して、それをかざしながら怪異な石神の足元をのぞきこむ……。
「ウーム、こりゃ深い。まるで井戸のようだ」
馬春堂は、伊兵衛のかざす蝋燭の流れを背中へポタポタ浴びながら、石神堂の床穴へ体をのめりこませていましたが、やがて遂に、
「とても駄目だ!」
と、絶望の声を放つ。
「ま、待ちねえ」
「深いからといって、このまま諦らめるわけにゃ行かねえ。ウム……こうして見りゃおよそ底の見当がつくだろう」
手につかんでいる蝋燭を、火のついたまま一本一本床下の穴へ投げ落として見ますと――それは美しい一条の光をひいて、直線に真ッ暗な地底へ吸われてゆきましたが、ある程度まで下がってゆくと、ふッ、ふッ、と魔ものの息にかけられたように消えて、伊兵衛の機智もなんらの効果を見せません。
「ちぇッ」
と、舌打ちをしたものの、最後の一本まで投げてしまえば、上も暗やみになってしまうので、それは賽銭箱の上へ蝋を溶かして、ていねいに立てかけながら、
「馬春堂、帯を解きねえ、帯を」
「な、なにをするんだ」
「おれの三尺や何かもつなぎ合せて、この穴の底へ降りてみるから」
「よしな、あぶない芸当は」
「
「いかにもそれは残念だが、まあもう少し考えて見るさ」と、伊兵衛が三尺を解きかけるのを押し
「おれはかえって、こうなった方が、石神様の
「ばかにするねえッ」
噛みつくように呶鳴った伊兵衛、この意外な失策に、ジリジリしているので喧嘩
「何が御利益だ、馬鹿野郎め」
「そうガミガミ怒るなよ。あのばてれん
なるほど、それは馬春堂のいう通りです。先にはこの男を、半端な悪玉と
「――いいかな、ところで、あれに書いてあることは、おれもお前も、もう呑みこんでしまっていること、今では、用のない読みからしだ。ただそいつが人手に渡ると、またぞろ、夜光の短刀、夜光の短刀と猫も
「ウ、まアそういや、そんなもんだが」
「とすれば――めッたに人目にかかる気づかいのないこの御堂の縁の下――おまけに、石神様の足で踏ンまえていてもらえば、他人が探り出してゆく憂いはなし、いよいよ自分たちに必要な時には、また折を見てとり出すし、どっちにしても願ったり叶ったりだと思うんだが」
「ちげえねえ、なるほど、ものはとりようだ」と、伊兵衛もサラリと考え直して、
「じゃ、
と、何の気もなく、腰をのばした途端です。
「伊兵衛ッ!」
ガンと、耳の
「あっッ」
といったが、もう遅い。
飛鳥といいましょうか、
同時に、馬春堂もまた、賽銭箱に立ててあった蝋燭へ手をついて、コロコロと突ンのめるなり前へ
「わっッ……」と、ただならぬ声をあげましたが、南無三です。そこは今、蝋燭の灯で深さを測った底知れずの穴――ドタッといった物音をこの世の名残りに、ああ馬春堂先生、「変な日」の予感がとうとう本ものとなって、真ッ逆さまに落ちこんでしまったようです。
忽然と、床下に影を失った、馬春堂の片袖を手に残して、
「やっ、これは?」
さあれ、一方では釘勘が、伊兵衛のうしろから組みついて、万力のような両腕をしぼり上げている刹那なので、
「おお!」
われに返って助太刀に向うと、どっちが足を踏み外してか、からみ合ったまま釘勘と伊兵衛、御堂のぬれ縁から勢いよくころげ落ちる。
落ちたハズみこそ伊兵衛にとって、逸すべからざる好機でした。
「ちッ、この岡ッ引め」
とんぼ返りを打ちながら、横ざまに抜いて、
伊兵衛、剣道の名人にあらずといえども、死に身の力から発した自然の
ピシーッ。
真ッ青な火が削られる。
かれの道中差が
「おのれッ」
と、寄って来た万太郎。
抜き打ちに、
さえずくもらず、夜は今もなお、宵のとおりな
やがてまた、それを追っかけてゆく目明しの釘勘と、徳川万太郎の影が――見ているうちに、遠くなり、小さくなり、うすくなって、果ては、その
野となれ山となれ。
あとの石神堂は開けッ放し。
いかに何でもこれはひどい。まるで、
だがしかし、あしたにでもなれば、例のごとくこの無名神を、神か仏かのけじめもなく、ただおそれあがめている土着の人たちが発見して、あら勿体なやと、戸締りをなおし、賽銭箱の位置も正すでありましょう。
ところが、それにも及ばないようです。それから
どうしてといえば。
それも石神様だけが知っていたこと。いや、神通力のない釘勘でも万太郎でもが、もう少しあとに残って様子をうかがっていたら、必ず、同じあやしいものを見たにきまっている。
足音が遠のいたかと思うと――すぐその後です。
ふと気がつくと、いつの間にか、威厳おそろしき石神の首が変っている。
「ばかだねエ」
丹頂のお
その翌朝――夜が明けると同時のことです。
耕作に出る毎朝の通りがけに、きまって石神堂のまわりを掃除する土地の百姓が、
「おや、落とし物がある……」
堂の前に、泥だらけとなっていた
「大変だ!」
おそるおそる
「石神様を荒らしたやつがあるぞ」
「ふてえ奴だ、そいつはどうした」
「そいつは居ないが、ここに、これ、
「旅の者だろう」
「土着のものが、なんでそんな
「路銀に困って、またお
「ばか者めが、そしたらまた、手を突っ込んだ
「何しろ早く、
それから、選ばれた足達者の男が、どこかへ急いで立ちましたが、御府内は元よりこの江戸川附近に、高麗村という地名は絶えて人に聞えておりません。
どこまで行ったのか、使いはなかなか帰らないで、それをまた
それらの人が
それも特に選ばれた足達者が行ったのですから、一体、高麗村の御本家とかまでは何里あるのか? 江戸西方の近郷を指折ってみても、板橋、
すると、ようよう二本松の
「おお、御苦労」
といいながら、ぽんと馬上から飛び降りました。
これでも、かなり急いで来たものと見えて、使いの者は胸毛の汗をふき、馬は草に渇して、
その黒駒の
藩のお
「おおこれだな、
武士はそういって、石神堂の中を
「よく知らせてくれた。ところで、少しこの方より駆け遅れて参るが、あとの始末をする者が、やがて二人ほどここへ来るから、お前たちは引揚げて、また呼びにやったら参ってくれ」
と、強いてそこから追い返してしまう。
そして、しばらくすると、かれと同色な
素性の知れない三人の武士は、そこで、
「どれ、それではひとつ、
三人一緒に、やおら腰を上げて、石神様の背中にあたる、堂の裏手へ廻りました。
堂のうしろの二
「お先へ」
と、いうと三人のうちのひとりが、
中をのぞくと床なしの段です。
素性不思議な三人の侍は、それを心得て降りてゆきましたが、やっと身を入れるに足るくらいな狭さ。
けれど、数歩下ってゆくとその空洞は、馬春堂の落ちた例の
その下へ向って真ッ逆さまに、サッと投げられた
「おい! 生きているのか」
と突然、大きな声で呼びかけて行く。
声はガア――ンと穴
「はて?」
ひとりが小首を傾げると、
「返辞がないじゃないか」
「まいッてしまったかな?」
「いや、死ぬはずはない。底の土はやわらかいし、下には水も少したまっているから、一時気絶したにしろ、もう息を吹ッ返していなけりゃならない」
「そういえば今まで、各所の石神堂にある
「そうとも、死んでしまわれたのじゃ、こちら様の御用に立たない事になる。どれ、
小声にささやいていたのを、また怒鳴るような大声に変えて、
「これこれ、下に落ちている旅の者、息はないのか! 息は!」
「オオ、うなっている」
「しっ……」と手で制して、
「これ、どうした」
上から射す明りを見上げて、ウームと下で呻いていたのは馬春堂。――打ち所のいい悪いなどはとにかく、何しろ、夜の明ける前から、ふッと正気づいて、さんざんもがき疲れた揚句、わずかに、したたる水を吸って、飢えと恐怖にふるえていました。
それに、肩と頭部がひどく痛んで、ものの思判力がみだれている。
上に人影が見えるのですから、飛びつくように、助けを呼びそうなものですが、ぽかんと、しばらくは無言のまま、
「ウムム……」と、ただ太い息でうめいていますから、
「おい、旅の者――」と、上の三人は、再度口をそろえて、
「上がりたくないのか」
一本の
その垂れている繩の先に、冷やりと顔をなでられたので馬春堂は、ハッと、失いかけていた生命の
「おーっ、たッ、たッ、助けてくれ――」
いきなり、ムシャクシャに繩へかじりついてきました。
しかし、上の三人は、そう引ッ懸って来た魚をすぐに釣り上げようとはしないで、
「おお気がついたか。あせらんでもよい、あせるなあせるな、元より此方たちはお前を救いにまいったのだから、もう心配することはないぞ」
「あっ、ありがとうございます」
馬春堂の声は泣いているようです。もし、ここに道中師の伊兵衛が居たならば、また、
(悪党のくせにしやがって、しッかりしろい)
とか何とか、毒づいたかも知れませんが、こんな場合はかえって、
上では、そんな思慮もない様子で、
「おい、ところでな、旅の者。上がるついでだ。今、上から袋をほうるから、その底にたまっている銭を、はいるだけ詰めてくれ。――なに、石神様の
いわるるまま馬春堂は、穴の底で、手に触れたそれらしい物を土と共にかき集めて、上から垂れている繩の先に結ぶ。
この辺で土着の人が、石神堂の床下を、
「くくりつけたか、しっかりと!」
「はい」
馬春堂は神妙です。いや、半ば夢中なのかも知れません。
「よし!」
と、上では三名、それに応じてグイグイと
「これ旅の者、もうしばらくそこで待っておれよ」
こういうと、一人だけをそこに残して、あとの二人は、ズシリと重いその袋をさげて、前の観音開きから堂の外へ飛び出しました。
さらに奇怪なのは、それから石神堂の前へ、土着の者を呼び寄せて言い渡した、かれの行動と言辞であります。
「この賽銭、何程あるか分らぬが、
いかにも厳然とした口調でいうと、
もっとも、
それ故、土俗の者が、高麗村の御隠家様というものをおそれ敬うことは想像以上で、しかもその御隠家とやらは、武蔵の国に散在する幾多の石神の司祭者であるといいますから、馬春堂の落ちた銭瓶の穴――また
さて、おごそかに神財配分の例事をすまして、一同を退散させると、かれらはまた、前の所へ戻って来て、馬春堂を
――もうその時刻には、日もとっぷりと暮れていて、ゆうべよりも
穴の底にいた時は、ただ助かりたい一念であった馬春堂も、地上に足を着けると共に、にわかに、風俗不思議な三名の侍が怖ろしくなって、礼もそこそこ立ち去ろうとすると、
「これ、どこへ参る?」
と見とがめて、馬の
「すでに命のないところを救われておきながら、一応司祭者たる御隠家様にお礼も申さず立ち帰るやつがあるか、たわけ者めッ」
と叱りつけて、はッたと睨みつける。
その眼光にちぢみ上がッていると、うしろから
「御隠家様のお屋敷へ案内してつかわす故、それへ乗れ」
と、駒の手綱を寄せましたが、それがまた、いかにも気の荒そうな野馬です。
「と、とんでもない事で」
馬春堂は一も二もなく尻ごみして、
「乗れません、はい馬になぞ、元来、乗ったことのない
「乗れないことはないッ、乗れと申すに乗らんか」
「でも、まったく、馬術のおぼえがございません」
「おぼえがなくとも大事ない。乗れッ」
「だ、駄目です、こればかりは」
「まあいい。教えてつかわすから、その
一難去ってまた一難。あわれに馬の尻を見ている、馬春堂の泣きたそうな顔です。
「これくらいの馬に乗れないとは世話のやける男だ。ええ、面倒くさい」
そういうと、
「やッ」
と、鞍の前壺へほうり上げて、自分もそれへヒラリと飛び乗ると、かれの体をしっかと膝へ抱きこみました。
「むッ……、苦しい」
それや苦しいでしょう、無理はない。馬春堂はゆうべからの半死半生。
「あッ、
馬春堂は驚かないが、驚いたのは三人の武士、その凄気にうたれて、思わず一歩足を引きながら、
「なんだこの箱は?」
「
「ウーム、この般若はまたおそろしくよく出来ている!」
よく出来ているはずです。一代の
馬春堂は穴から救い出される時にふと気がついて、この品を、ついでに持って上がったのですが、こんな事になるならば、むしろあのまま
「おい、貸してくれ」
と、馬上の侍は手を出して、
「――それを」
「
「般若も、その仮面箱も」
「手綱と荷物がある上に邪魔ではないか」
「じゃ、箱の方だけ、貴公たちに、持って行ってもらおうか」
「
「顔へつけて参る」
「酔狂な!」
「いや、夜だ! 覆面がわりに」
「なるほど、それも春興か」
取って渡すと馬上の侍は、仮面をピタリと顔へかぶって、
「
と、手綱を進めかけながら、うしろを見る。
「うむ、追って行くが、あまり飛ばすなよ」
「心得た」
駒は石神堂をあとにして
おくれるものかという勢いで、
――そしてまた飛ぶ。また駆けだす。
ここらはもう無論江戸の
天地は穏やかな春夜の
いつか、道はもう
川越街道の
初めは、馬のたてがみに突ッ張っていた馬春堂の体も、また気を失ってしまったのか、グタッとやわらかになっています。そしてめぐり廻る家や岡や林――それらの
馬と人とは、そこを、北へ北へと急ぎました。かの石神の司祭者御隠家様の屋敷とかがある
よくひらきました――
ころびばてれんの今井二官の
――陽気のせいでもありますまいが、お蝶はこの頃どうかしてやしないか、少し、いつものお蝶とは調子がちがう。
あの出ずきのお蝶が、ここ半月ほどは外出や買物あるきもせず、あのお化粧気ちがい、着物気ちがいのようなお
きょうも
それも、自分の帯とか春着の小袖とかならばとにかく、洗い張りをした二官の
こういうところにも、かの女の鋭い才気というものが見れば見られまして、白い指に持たれている針が緻密に早くチクチクと運ばれてゆきます。
少しも倦怠や
かの浅草の
しかし、それは元より、かの女がたれにものぞかせぬ秘密な半面で、小縁にさす蝶の影にも気をとられず、針仕事に他念のない姿をながめる目には、まったく優しい、気だてのいい、
「二官もしあわせ者だ、あの
と惜しがる世評に間違いはないのであります。
それだけに、二官がお蝶を愛していることもまた想像外です。お蝶は、この山屋敷の
慈母と厳父の両性愛を身ひとつに持って、二官はお蝶を育ててきました。
ところがどうしたのか、その今井二官が、ここ七日ばかりというもの、
家の中は
一ツ屋の棟の下に、親ひとり子ひとりが、別々に生きてるような淋しさと、たまらない――ワッと泣きだしたいような空気がこもりきっている。
――で分りました。
父の顔色を見るにさといお蝶は、それでにわかに、態度をかえているものと見えます。かれの機嫌が直るように、賢く努めているものと見える。
二官はこわい。
お蝶にも父親だけはこわい。
二官の盲愛か慈母になっている間は、甘えたい放題甘えますが、その顔色が厳父になっている時は、さすがなお蝶も寄りつくことができません。
チロ、チロ、と時々お蝶の目が、机によっている二官のうしろへ今もうごいて、
「なんで幾日も私に口をきかないのかしら? ……」
どこかで、やぶ鶯の鳴くのが静かです。
「お父さん」
呼んでみました。
「――お茶でも入れましょうか」
それにすら答えないで、二官は机から重い胸を離すと、黙然と、ひとりで自分の肩を二ツ三ツたたきながら、
「ああ……」
と、思わず太い
「――もみましょうか」
ツイと、機敏に立ってきて、二官の肩へしなやかな指をかけますと、そのお蝶にからみついて来た糸巻が、コロコロと踊りを踊る。
二官が押しだまって煙管を持つと、
「あ、火がありませんのね」
火を運んでくる。
湯のみへ茶をついですすめる。
そして、またうしろへ廻って、父の肩へつかまりながら、
「あまり根気をつめ過ぎたんでございましょう、お父さんはもう筆をもつと、御飯も忘れていらッしゃるんですもの、だから、肩がこッて気がふさいで来るはずですわ」
わざと常のように、晴れ晴れしい声でそういって、幅の広い父親の肩をしなやかな指でもみ初めました。
そしてまた肩越しに、甘える
「ずいぶん指に力があるでしょう――
友だちにでも話しかけるような口ぶり。
ですが、二官は常のように、うれしい顔もせず返辞もせず、邪慳にお蝶の手を振りのけると、ツイと立って縁先から
「ああ……」と、さっきの如き
「――わしは何できょうまで生きていたんだろうか」
髪の毛をつかんで、近頃目にたって衰えた肩をふるわし、かの柿の木の根元にうずくまりましたが、呪うても死ぬことのできない自分の生命を持てあますものの如く、額を抑えてふらふらと――
「まア」
と、お蝶は家の中から、呆れたような目をみはって、
「まるで、気狂いみたい――。わたしがこんなに機嫌をとっているのに、何をいつまであんなに怒ッているのかしら?」
チッと、舌打ちをして
「あら?」
手にとってギョッとしました。
その
その時落とした花櫛です。
獄門橋で落として来たのは
と思うと神経で――
お蝶はまだかわかぬ血が指へでもついたように、畳へそれを捨てましたが、一度おびやかして来た疑念と戦慄は、身をふるッても離れませぬ。
「じゃ……ことによるとお父さんは? ……」
そうです――感じるに敏なお蝶がひとりでサッと顔色をかえた胸のうちのとおり、これは、ヒョッとすると、二官の不機嫌な原因がこれに、
「どうしよう」
畳の目へ沈んだこぼれ針が一本、落着かないお蝶のひとみをキラキラと
二官はどこか知らず黙々とあるいて出ました。
憂いにみちた顔いろです。
無邪気な小鳥の声、雨とふりそそぐ温光、行く所の足元をいろどッている花も草も、かれの
子ゆえの
古いことばの味も今の二官の心にはピッタリと迫ってくる。
かれの
かれは今さら自分に親の資格を疑い、ただ子煩悩というだけに盲愛してきた罪を悔い悩んでいましたが、また、こうした父を裏切ったお蝶の心が、時々、暴風のようにいきどおろしくなって、いッそ! ……と怖ろしい殺意さえ起って来ます。
だが……。
だが、と思うと、かれは意気地なく涙がわきます。
――あれもふびんな女にはちがいない。
世間なみの家と親の手で育てられた箱入娘とはちがう。周囲もちがう。自由もちがう。おれという者の
ことに、お蝶の母親が、
自分は生きるために屈服して、ころびばてれんの汚名にも甘んじていたが、幕府から与えられた囚徒の後家を妻にもって、その間に、お蝶という遺伝の結合が生れて、老い先にまでこの愛憎の苦しみを延長して来たのは、やはり、神にそむいた神の罰か。
――こう考えると、たまりません。
お蝶の行状をいきどおる前に、二官は、おのれの身を責めさいなんで、血を吐かせてもあき足らなく思う。
そしてまた、
「これだからわしはいけない。わしが考え方は煩悩だ、盲愛だ、ただわが子を
以前から――殺された同心の河合伝八も、それとなく注意してくれた。
山屋敷の長屋の者が、妙なうわさをするのも耳にしていながら、それも、人のひがみとばかりとって、耳も
その後、官庫の騒動――入れ札の時のお蝶の挙動――また四、五日前の晩、たれのしたことか雨戸の隙に、血のついたお蝶の花櫛をさしこんで行った者があったりしたことなど――次々に起ってきた不審に、今は、二官もハッキリとお蝶に目をさましてはいるのですが、わが子ながら、あまりの怖ろしさに、単なる
で、かれは歩いています。
黙々と、家のまわりを
そうしていても、かれの苦悩は少しでも軽くなることはありません。ただ居ても立ってもいられないし、お蝶の姿を見ていれば、気が狂ッて娘を刺し殺した上に、自分も死のうとするような気持が、いと易いことに思われてくるので、わずかの思慮が、しばらくかれをあてなく
と――道は日蔭にはいったようです。すッくと高い
「あっ……」
と、突き当りそうになった大榎に顔を上げた二官は、そこで急に、来まじき所へ来たように足をすくめて、
「二官ッ!」
突然、呼び止めたかと思うと、かれが引ッ返そうとする足元を察して、なお鋭く、
「おうッ二官ッ。待て! 待て!」
うしろを見たら飛びついてきそうな叫びが、つづけざまに、榎の下の石牢からひびいて来ます。
呼び止めたのはヨハンです。石室の鉄窓にすがっている二ツの目です。
「人間の皮をかぶッた
と、手痛く
「…………」
無言で振りかえった二官の
「二官、ここへ来い。いって聞かすことがある!」
「来られないのか、ウム、来られない道理だ! いかに
毒舌は針を吹くようです。
ころびばてれんの二官と、ころばぬばてれんのヨハン。信仰の上だけでも、この二人の間には、犬猿もただならぬ暗闘のあるはずですが、ヨハンの口裏には、何かより以上な
「おい、何とか答えたらどうだ。これほど
「ヨハン殿」
二官は初めて五、六歩足を寄せて来て、
「――なんとでもいってくれ。わしの心は神様だけが知っている」
「ばかなッ、お前に神があるか。お前はその醜い肉体を生きのばす
「…………」
「いい訳はあるまい。あさましい
「ヨハン」
くずれるように、二官は榎の根元へ腰を落として、
「もういってくれるな。それよりは、久しぶりで、羅馬の思い出話でもしようじゃないか」
「おれは責める! 責めずにはおくものか。二官、貴様はなぜ神を売った、なぜ幕府の手に乗ってころんだか」
「お前が責めなくとも、わし自身が、明け暮れひとりで責めている。妻を持ったためにも、子を持ったためにも、それは当然だろうけれど、人にいわれない苦悩が、現在、わしの上にむくいとなって現われているのだから……」
「その苦しみは当然だろう」
ヨハンは鉄窓の間から、小気味よげに二官のもだえを冷視して、
「これだけいえば、わしも胸がすいた。ころびばてれん! もう用はないからあッちへ行け」
と、
「ひどい! ヨハン殿、それはあんまりひど過ぎる」
二官が色を変えて鉄格子につかまると、
「けがらわしいッ、そんな泣き言をならべたところで、わしには何の同情も持ち合せない。わしは
「羅馬……」二官は鉄窓に両手をかけたまま、祖国の名を呼んで、男泣きに肩をふるわせました。
「その羅馬の
ジッと何か案じていた二官は、やがて何か決意に燃えるひとみを上げて、
「この二官が、恥をしのんでこうしているのは、まったく、王家のためにどうかして、あの夜光の短刀を、尋ねあてたいばかりなのだ」
「うまいことをいう」
ヨハンは一笑に付して取り合いもしません。
「いや、わしは恥じない、信じてくれ」
「ふん……人を欺くにも程がある。羅馬からこの国へ、夜光の短刀を探しに派遣されたばてれんは、もう百年も前から、数知れないほどあるが、みな
「形の上では言い訳がない。しかし、元々雲をつかむような夜光の短刀、とてもあれは、自分一代で探し出せないことは分り過ぎている」
「それじゃ何もならないわけだ」
「イヤ、自分の一代で探せなかったら、次の時代へ自分の血をつないで探させる。それには子を育てるよりほかに方法がない」
「じゃ、使命を
「いかに
「なるほど……その話はもっともらしく聞こえるが。じゃ二官、おぬしはまず第一に、たれにその使命を伝えるつもりでいるな」
「娘のお蝶へ」
「あれは美しい
「なにッ」
「あの妖婦、あの毒の花のような娘へ、夜光の短刀を探せよといいつけて、おぬしは今の考えが順当に
「ウウム……」
「わしは見ていたぞ、この
さんざん
存分に罵って、胸のすくほど相手に恥を与えたあとは、一時の清涼のあとに、やがて一種の淋しさが落ちて来る。そして、
「――二官のああいった考えも、ことによると真実なのかも知れない。いつか一度と思っていたので、わしも少しいい過ぎたような……」
と、手に聖書を持ちかけましたが、その聖書をパタリと落して、外の
「? ……」
何かにギョッとした様子。
いつか日の暮れてきた石牢の前を、落花のつむじが、小さな風の渦を幾つも巻いて流れてゆく。
「オー、また今夜も来ているな」
見えるがため、かれは毎夜、安らかな眠りをとることができません。山屋敷の役人さえ少しも気づかずにいるあやかしの影を、かれのみは夜になると見ていました。
影です――人影です。
奇妙な黒衣の影、
それも月のない晩に限って
「もしや、自分の命をねらいに来るのではないか」
と、初めは怖れおののきました。
けれど日を追うて、そうでないことだけは薄々わかりました。かれらは何か、べつに目的があってこの山屋敷へ探りに入り込んでいる密偵であろう。
…………
さて。
さっき今井二官が血相をかえて自分の
見ると、伊兵衛であります。
目白の石神堂で、釘勘という
当座しばらく姿をかくしていて、今ここへ
「おれの眼力はちがわなかったぜ」
伊兵衛はニッタリして藪を出ました。
次に移ったかれの居場所は、すなわち、今井二官の家の床下です。そこには、どこからか持って来た
「――おれもずいぶん根気がよかッた。それでも二官のやつめ、夜光の短刀のやの字もおくびに出さねえから、そろそろ根気もつきかけていたンだが、今日はとうとうヨハンのやつと
ゴロリと寝そべって、手まくらをかいながら、
「さあ……これで二官の腹も読めたし、ヨハンのやつの心底もおよそ見当がついてきたが、さて」
と、そこで将来の方針という
まるで、えたいの知れなかった暗中
「ベッ……」
突然、伊兵衛は顔をなで廻している。巨富一
上では、いつになく二官の荒い声と足音につれて、お蝶の泣くような声が聞こえだしていたので、
「ええ、耳がかゆいぞ、こりゃまた何か、いいことを聞く前兆かも知れねえ」
と伊兵衛はそろそろ起上がッて、体じゅうを耳にしました。
いつもの今井二官とは打って変って、ヨハンといい争った後、ただならぬ血相で家へ馳けこんで来たかれは、
「ウーム、こんなもの!」
やにわに机の上の物を、座敷じゅうへ取って投げ散らし、
「これも無駄な記録! こんな物も今は見るのも腹立たしい」
日記やそこらの
「あっ――お父さんは?」
何となく気が晴れぬまま、勝手へ出てぼんやりと、
「ど、どうしたんですお父さん――もしッお父さんてば! お父さんてば!」
立ち上がる父のうしろから、力いッぱい抱き止めて、
「気が
さすがに声もおろおろと懸命になって、この時ばかりは混血児お蝶も、純真純情な一個の小娘になって泣きだしました。
ですが、父二官の妙に
「えい、この体にとッつくなッ、貴様がさわると、わしはよけいに気が
突き飛ばそうとしましたが、お蝶は
「静かにいッて下さい。わけをおッしゃって下さいッ……よ、よ、よッ、お父さーん」
「なに、わけをいえ?」
「ええ、わけを聞かして下さい、たった親ひとり子ひとりの私達なのに、この間から、口もきかないで怒ッていらッしゃるのは、一体どういう訳なのか、わたしは、情けなくッてたまりません」
父の足元へ、ワッと泣いて身をくずしましたが、その悲しげな泣き声も、今日の二官にはかえって腹立たしく、いつもお蝶の涙には、白も黒もなく盲愛にくるまれて口のきけないかれの手が、
「ええ、よくそんな空々しい口がきけたものじゃ、お蝶ッ、お前というやつは……お前という怖ろしい女はッ……」
その力に他人と父の愛憎のちがいはありましょうとも、なかば狂気した二官の骨ばッた握り
しかし、お蝶はもう泣いてはおりません。ただ背なかに波を打っているばかり……ヒタと畳にひれ伏したきり、声も出さなければ逃げもしない。
瞬間、家の中は、おそろしいほどヒッソリとする。――二官は太い息を苦しげについて、なお怒れる拳を解かず、その手を膝に突ッ張ったまま、ぐったりとお蝶のわきに坐りました。
「お蝶ッ、顔を上げろ」
「…………」
「お前というやつは、まあ何という怖ろしい女だろう。わしはな、お前をそんな娘には育てなかったつもりだ。ころびばてれん、ころびばてれんと、衆人にさげすまれて来た永年の忍苦も、なんのためだ! ああそんなことも、今はいうほど身を苦しめる
脇差はいつのまにか、二官の右手に抜かれていました。
それでもお蝶は身ゆるぎもせずに、ジッとうッ伏しているきりです。――上の様子は分らないが、縁の下では道中師の伊兵衛が、
「はてな――いやにシンとして来やがったが? ――」
そういう時こそ、
お蝶は顔を上げて、父の手に抜かれている
「逃げると許さんぞ、逃げると」
ジリジリと二官は膝をにじらせて行きましたが、お蝶がわるびれもせずに、甘んじて父に
「おのれは……」
と、切ッ先を向けようとした二官の狂わしさも、多少
「取乱すなよ、わしも死ぬ。そしてお前も刺し殺してゆく」
お蝶は澄みきッた顔を、すごい程青白くしてこそいますが、ちッとも、取乱してはおりません。むしろ、こうつき詰めて来た今の瞬間では、二官よりも遙かに冷静です。
「なぜ死ぬんですか……なぜ私をお父さんは殺そうとなさるの?」
「わ、わからないのか、親の心が」
「わかりません。わたしは、お父さんに殺されるようなおぼえがないんですから」
「おまえは美しい
「ええ、そうかも知れません――」お蝶の口答えは
「ころびばてれんの娘ですからネ」
「ちッ、わしに向って、よくもそんな口を!」と、ふたたび彼の気がたかぶると、押し揉まれるほどお蝶の顔色も真ッ青にさえて、
「だッて、そうに違いないんですもの。わたしは温かい母親を知りません、世間の娘のような楽しみを知りません、だから、自然に、こんなふうな女にいじけてしまッたんです。私の罪じゃあない、私を生んだものの……」
「まだいうかッ、まだその口をうごかすか」
「いいます! どうせ殺されるなら、私はいいます!」
「悪魔ッ、悪魔」
その声を横にうけて、お蝶が笑ったように見えたので、二官はクワッと逆上しました。そして、思わず刃を走らせると、
「死ぬのはいやですッ」
父の手元を交わして、お蝶は刃をもぎ取ろうとする。
「生かしてはおけない、おまえは、わしの鍵を盗んで、御封庫を破った大罪を犯している」
「知りません、わたしは……」
「だまれッ、まだ罪がある。おまえは
「知らない、知らない。みんな世間の人のうそばッかり」
「いうな、あの血のついた花櫛も」
「あれは
「いくらこの二官が子におろかでも、もうお前にだまされてはおらんぞ。たれも知るまいと思っていようが、おまえと龍平のしていたことや、お前が暗の夜に犯していた罪の数々は、のこらず、あの石室の鉄格子から、ヨハンの目が見ていたのだぞ」
「ヨハンが? ……」お蝶はぶるぶるッと目に恨みをこめて、
「あの人が、そんなことをお父さんに告げ口したのですか」
「天を怖れろ、おそろしいのは神のおさばき、おまえのその生首が、龍平と同じ獄門台に乗らないうち、自分の手てさばきをしてやるのが、わしがお前に送る一番最後の愛だ」
「いやです、
「刑吏の
「あっ、いやですッ」
「こッ、こうまでいって聞かしても」
「死ぬのは嫌です! お父さんッ、――あれッ、あれッあぶない!」
絹をさくようなお蝶の声。
それまで、耳をすましていた縁の下の伊兵衛も、ふたたび頭の上にひびく物音に、どうなる事かと思っていると――その襟元へ、タラタラと生ぬるい液体がこぼれて来たので、
「あッ」
と、仰向いて見ると、床板の隙間に、まざまざと
「ちぇッ、ばかな真似をしやがッて、とうとうお蝶を」
首すじに垂れた血潮をなで廻して、伊兵衛もそこでうろうろと、
「折角、夜光の短刀の秘密を、親子の口から
じッとしてはいられなくなって、四ツん這いになった道中師の伊兵衛、そこを飛び出そうとして暗がりをはい出すと、土台柱一本へだてて、意外やそこにも二ツの目玉。
「? ……」
「? ……」
すくみ合って、双方、互いのにおいをかぎ合いました。
こういううまいかくれ場所に道中師の伊兵衛様が、地獄耳をそばだてていることは、相手方の日本左衛門でも、夢、気がつくまいと内心得意でありましたところが、あにはからんや、この縁の下には自分のほかにも、ヘンな
「おっ……」
と、しりごみをした伊兵衛。
「こいつはいけねえ」と、あと下がりに身を
(この野郎、うさんくさい)
と、向うでもいいたそうに、四つンばいに這って追い廻して来ますから、伊兵衛も
「甘く見てやがるな、三
そこで今度は攻勢に出て、こッちから
抜いたと知りましたから道中師の伊兵衛も、からかい半分ではなくなりました。いくら、
「よし」
と、伊兵衛も道中差。
そこでこの状態のまま、二本の刀が根くらべの三
果てなき勝負と見えました。
ここに冬眠からさめた
すると、その時また、
「うう――むッ」
と、床の上のただならぬ絶叫。
お蝶のうめきやら二官の苦しみやら知れませんが、とにかく、上の屋内で大変の起っているのは、甚だしくそこらへ
どたッと、たおれる音。
「おッ、お蝶ッ……」
はッきりと、二官の声。
「――夜光の!」
もつれる舌で、
「夜光の! ……」
「おッ、お父さーんッ……」
と、つづいて苦しげなお蝶の声が、嵐の中から叫ぶように。
はッとそれに気をとられて、伊兵衛の胸算はとつおいつ、この縁の下を出ようか出まいか。
「はて、困った」
と、迷いましたが、ふと見るといつのまにか、今の物音の途端に外して行ったのか、相手の刀は消えています。
すッぽかされた道中師の伊兵衛も、それ幸いと飛び出して、初めて、床下から腰をのばして見ると、陽はすでに暮れて花のおぼろ夜――
二官の家の庭先の桜が、なんの凶兆を暗示してか、しきりに降り散って、それが山屋敷じゅうに
すると、そのとたんに――お蝶でした――お蝶にちがいありません、家のうちから落花の庭先へ、突きとばされたように転んで来て、そこへうッ伏せに仆れたかと見ると、帯も黒髪もしどけなく、よろ、よろ、と足元もあぶなげに、ヨハンの
――そのあとで。
伊兵衛はすぐに家の中へ土足で飛び上がりました。行燈の灯も今宵はともされぬままでありましたが、花明りでそこらを見れば、目もあてられない有様で、乱脈をきわめた
無残……
二官の死に顔はまだ泣いているようです。
「どうしたのだろうか?」
刃物はかれの手を離れて、ふすまの下にほうり出されてあるので、伊兵衛にも、たッた今の
「まさか? ……」
と、つぶやきました。
かれの如き人間の推測でも、お蝶が現在の親を殺して逃げたとは考えられないことであります。
わたしは若い、十九やそこら。
十九やそこらで
――お蝶の生の執着は、今、なにもかも忘れて家から迷いだしたのであります。
逃げる気でしょう。
この山屋敷をのがれて、どこかに新しい生き場所を求めるつもりらしいが、ふだんの才智なら、化粧をととのえて、表門からぬけ出すでしょうに、ここへ来て、うろうろと高い塀を見あげているさまを見ると、さすがに彼女も、父の血を浴びたせつな、心を取乱してしまったとみえます。
「お蝶さん、どこへ行く?」
すると、どこかで咎めるものがありました。
「また今時分、どこへ出て行こうとするつもりか」
「ヨハン」
きっと、
「ヨハン!」
むらむらとして、石牢の前へ馳けよりました。
「おお、どうしたのか、そんな姿をして」
「あの」
赤いくちびるを鉄の格子につけて、
「あのね」
「ム」
「大変ができたの」
「大変が」
「ヨハンさん」
「え……」
かれも昼のことが胸に思い当って、何か知れぬ不快な胸苦しさをおぼえながら、
「どうしましたか」
「こっちへ、こっちへ、ヨハンさん。もっとこっちへ寄って、耳をかして頂戴」
「なに」
と、そばへ行って、赤いくちびるへ顔をよせると、鉄窓の下の方からいきなり、短い刃物の切ッ先が、ヨハンのわき腹をねらッて勢いよく突いて来ました。
「ちイッ……」
と、鉄格子の間に手をつッこんだまま、唇をかんでもがいている。
「オオ美しい悪魔」
やがてヨハンがいいました。
声の様子ではべつに怪我もなく、中でしッかとお蝶の手を抑えつけているものらしく、
「なんで私を殺そうとしますか」
「な、なにがッて」
お蝶は眉をしかめて、死ぬ苦しみをこらえながら、
「お前が、わたしのお父さんを殺したから、私もおまえを殺してあげる」
「えッ、二官殿が死んだッて」
急にブルブルとふるえるのが、お蝶の腕にも激しくひびいて、
「ほんとに、二官殿は死なれたのか。あの一途な気持で……ええ、しまッた」
絶望的な息をついて、なおもお蝶の腕をだきしめる。
お蝶はヨハンの無性に泣く涙が、自分の腕にこすられるのをこそばゆく感じながら、妙に血が下がってきました。
「お蝶さま、お蝶さま」
「え……」
ヨハンの改まった言葉に、身をうごかそうとしましても、まだ苦しい手を放してはくれません。
「おわびいたしますお蝶様。二官殿は自殺したのでございましょう。それは私が殺したのも同然です。あの方の本性を疑っていたのはこのヨハンのあやまりでした」
まったく、昼のヨハンとは話がちがって、お蝶も奇異な思いが、いつやら身にしみてくる。
「深いあやまりでした。私は、どこまでもあの方を、日本へ帰化した今井二官、ころびばてれんと憎みました。そして疑ッてまいりました。しかし、実をいうと故郷の
「だれが」
「二官殿です」
「えッ、おまえは、私のお父さんの家筋に、代々つかえてきた家来だッて?」
「はい、あの方こそ、今は夜光の短刀がないために、家名はつぶれ、貴族の籍もはぎとられて、それを探しに日本へ流浪なされましたが、まことは、羅馬のさる王家を再興なさらなければならない、たッた一人のお血筋であッたのです」
はじめて聞かされた父の系図。
祖先を思うときに現実の自分はひとつの不思議な存在であります。
お蝶もまたわれとわが身を疑いなくしていられません。
ヨハンのいうが如く、父の二官が羅馬の一王家を興すたッた一人の血筋であるとすれば、その人の亡い次の血は、異国にこそあっても、当然、自分ひとつの身に遺されて、自分は王家の姫である。
(そんなはずはない! そんなはずはない!)
と聞くそばから否定して、
(わたしはいやしい山屋敷の
と、思いました。
けれどヨハンの話は、
「わかりましたか、お蝶さま」
いつまでも彼女の腕を放さない。
決して、うわの空に出る一言一句とも思われません。
「――そこで私の素性を申しましょう。私はさっきもいったとおり、王家の従僕でございます。代々の家来でございます。ところが夜光の短刀をさがしに、日本へ渡来された二官殿が、幕府の手にのッてころんだ上、名も今井二官と名のり、妻をもち子までもうけて、帰化しているという噂が、本国の法王庁へまで聞えてまいりました」
「手がしびれる……すこし放してよ、ヨハンさん」
「あ、すみませんでした」
ヨハンが手をゆるめると、
「で、私は法王庁から、その視察をいいつけられ、日本へ渡航を命じられましたが、禁教の国へばてれんとして
ヨハンは、七年の前を追想して、石室の中で目をとじました。
あとのことは日本幕府の記録が示すとおり、村人に見つけられて長崎の
思うつぼに、ヨハンは
ところが、二官はヨハンの下獄してきたのを知りつつ、そこへ会いに来たこともなければ、たまたま、ちらと姿を見せても、あわてて顔をそらしてしまう。
「浅ましい人間!」
ヨハンは自分の主人ながら、その
「私は、その
ヨハンは声をすすッて泣き入りました。そしてまたお蝶に力をこめていうようには、
「この上は、二官殿の遺志をついで、夜光の短刀を探しだす者は、あなた以外にないことになりました。――お蝶さま! あなたはこの山屋敷をお逃げなさい。そして夜光の短刀をたずね出して
一句一句、ヨハンが胸の秘密を解いてしぼり出すようなことばに衝たれて、お蝶も、ジッと首をたれて聞き入りましたが、
「だって、それを探すといっても私には……」とためらい顔です。
「いいや!」
ヨハンは強く首をふる。
「そんなむずかしい事ではありません。それにあなたはどう見ても日本の娘、どこを歩きさまようても、怪しまれぬのが何よりです。――教えましょうお蝶様、さ、教えましょう」
「え、なにを?」
「夜光の短刀のありかを知る、たった一ツの手がかりを!」
花のちる音か、やぶの笹鳴きか、その時あたりの物蔭でかすかな空気がうごいたようです。
その時――
「また
と、ヨハンが牢のそとへ神経をすましたので、お蝶も、思わずわが身のうしろを脅かされて振向きましたが、夜の幕には、ただ散る花のゆるい運動が怪奇美な光を舞わせているのみであります。
「……お蝶さま、夜光の短刀のある方角を教えてくれるただ一つの磁石、それはこれです」
ヨハンの手は何かの興奮にふるえている。
見ると、かれは肌身はなさずに所持している聖書の
そして、その聖書のこばを歯で破ッて、ビ、ビ……と
「これです、お蝶さま」
と、かの女の手に握らせる。
手ざわりのいい
はがれた聖書の裏表紙?
不審そうに見はッたお蝶のひとみは、それとヨハンの顔とを、かたみがわりに見つめています。
「これですよ、お蝶さま」
「これが?」
「なにか指にさわる物があるでしょう。その羊の皮のやわらかな手ざわりのほかに」
「ええ、石つぶのような、こまかいものが」
「いいや、それは、石ではありません。二枚かさねて袋になっている表紙の中に、わたくしがソッとかくしておいたのは、
「え、種子が」
「端の方をすこし歯で破りました。出してごらんなさい。あ! ……ですが、こぼさないように、それをなくしては大変です」
いわるるままに、お蝶は、貝のような白い手のひらの上へ、中の黒いつぶを
なるほど幾つぶかの植物の
まるみのかかッた三角形のその
「なにかしら」
と、小首をかしげているばかり。
これがどうして、ありかの方角を知る磁石なのか、秘密をあける鍵なのか。
疑惑は依然として疑惑で、さらにふしぎが深まるのみであります。
「お蝶さま、それは
ヨハンの話は、ペトロ院の日あたりのいい庭で、説教をする時のように、お蝶の耳へもわかりよくはいりました。
二官の祖先、お蝶にも血のつながる遠い過去の人――
かの
その人はまだ、日本が戦国の
その後かれがなつかしき
かくても、天草の宗教戦前後までは、幾多勇敢な宣教師たちが、海を越え、危険をおかして、日本へ乗渡ってきつつありましたが、特に、
しかも、そのありかを知るに至難なことは、かの貴族の古い通信によって見て、その人の最期の地が、今は、将軍家の膝元となっている関東江戸附近ということが、ほぼ限定的に分っているのに、長崎天草までは乗渡って来た羅馬の人も、よくここまで足をふみ得たものが稀であります。
布教にくるばてれんも、それをたずねて日本へ渡った者も、幕府の宗門役人からみれば、みな同色な異国人、見つけ次第に十
徳川万太郎が名古屋城で手に入れた「
思えば、夜光の短刀を求めにくる、羅馬の人々の屈せぬ根気は敬服にあたいしますが、それに払われた犠牲もまた少ないものではありませぬ。
文字どおり生きかわり死にかわり、慶長から現在の正徳五年にいたるまで、およそ百二、三十年、今なおここに二官やヨハンにまでうけつがれて来ています。
そして、日本へ赴く時その使徒たる人が、王庁からさずけられる手がかりとしては、わずかに左の数項よりなかったので、それは今――ヨハンからお蝶へ手渡された羊皮の裏表紙にもギリシャ語をもって
日本にて客死せる王族ピオ(かれの名)の最期の地は、関東江戸市を中心とせる僻地なるべし。
ピオは世襲の夜光珠の短剣をもてり。
ピオはおそらく日本政府の追捕をおそれて人跡なきところに餓死 せしならんか?
ピオは自然をこのめり、生前バチカノの草原の風趣を愛せり。あるいは江戸市西北の未開の曠野 にかくれて、天寿を全うせしか?
また、ピオは花をこのみ、ことに鶏血草の深紅 を強くめずるの癖あり。かれが日本渡航の理想は、バチカノの野に似たる平和の自然に、鶏血草を移植して学林の庭とし、日本における聖カトリック羅馬教 の教会を建設するにありき。
またピオの通信は千六百〇三年――日本慶長八年の記号を最終としてたえたるも、絶対にかれは日本政府に捕われたるものにはあらず、その後の天草支会の報告書を綜合するもすべてそれに一致すればなり。
「こう書いてあるのです、その羊皮の裏表紙にも――」と、ヨハンは、お蝶にもわかることばに訳して、
「――つまり、日本にない鶏血草の花が、一輪でも、この国のどこかにさいていれば、そこはピオ様の居たところか、
「あ、それで私も思い出した」
お蝶は、その
「お父さんも、こんな草の種子を、春の彼岸、秋の彼岸がくるたびに、しきりと
「オオ、じゃこの山屋敷にさきましたか」
「いいえ……だめなんです、いくら土や日あたりのよい所に蒔いても、いちども芽を出したことがありません」
「二官殿は何といっていました」
「最後に、もう一粒しかない、この一粒でさけばお前に羅馬の花を見せてやることが、できるが……となげいていましたが、とうとうその一粒をなくすにはしのびないといって、蒔かずに、どこかへ取っておいたようですけれど……」
「しッ! ……たれか来た」
ヨハンは突然、
「
――でなくともお蝶の心は、さっきから追い立てられているように、
父のあんな死にざま。
あれを山屋敷の役人に見せないわけにはゆかない。
当然、きびしい調べがあろう。白洲へつき出されれば勢いそれからそれへと、身の疑いが明るみに出て、自分の罪もあばき出されるにきまッている。
オオ、龍平の首が、獄門台の上から呼んでいるような。
――夜光の短刀の奇しき話に気をとられている間は、そんなおそれもふと忘れていましたが、ヨハンが突然、
「たれか来た」
と、あわてる声に、お蝶も一緒にビクッとして、鉄窓の前を離れながら、別れをつげて、
「じゃ、お別れよ、ヨハンさん」
ヨハンは
「体を。体をな……。お蝶様」
「大丈夫、私は、死にゃあしないから」
「お待ちください。そして、二官殿の死を
「だって」
お蝶は、逃げも得ず去りもえずに、
「――わたしに、探せるか探せないかわかりゃあしないものを……お前。待っているなんていッたって困ッちまう」
「そ、そんな事で、どうなさいますか!」
ヨハンは思わずやッきとなって、
「きっと探せます! 私は捕われの身、この牢獄で神様に一念お祈りしています」
「いいよ、いいよ、そんなことをしていてくれなくッても」
「じゃ何の為に、あなたは山屋敷を出てゆきますか」
「命が惜しい、明るい世間に
「ちぇッ……そんな気持か」
あれほど説いて聞かした自分の誠意も、この少女には通じないのかと、ヨハンは歯がみをしてまた何か叫ぼうとしましたが、それは、あッという仰天に変りました。
ツイと、お蝶が身をひるがえして、そこを去らんとしたとたんに。
さッきから物蔭で、いさい残らず聞きすましていた道中師の伊兵衛、いきなり
「もったいねえ、おれがもらっておいてやる」
と、かの女の手にあった羊皮の表紙を引ったくッて、どんと、胸を突く。
バラッと、あたりへ撒かれた鶏血草の種子、伊兵衛の襟にもこぼれました。
――お蝶は倒れます。
落花は
「おさらば、もう山屋敷に用はねえ」
伊兵衛はこういって、
あッ。ドたッ――という音。
見ると、竿でハタキ落とされた
「渡せ」
「今のを出せ」
「うぬ、いやとはいわせねえぞ」
ギラギラッと端の方から一斉に抜きつれると、たちまちそこに輪をつくる剣の歯車、伊兵衛の体は心棒の位置に置かれています。
「ふざけるな」
と、伊兵衛は笑って、
「てめえたちは、日本左衛門の手下だろう、御苦労様なやつらだ。この間うちからの張込みで、さだめし足に痺れをきらしたろうから、おれが風を吹かして送ってやる」
いきなり、着ていた合羽を両手にしぼると、それをつかんで
ところへ。
小者の急報で、二官の家に集まってきた山屋敷の役人は、そこに自殺とも他殺ともつかず倒れている、かれを検視しておりましたが、大
「やッ、あれは?」
と、六尺棒や提灯が飛花をついて駆けだしてくる。
しかし、乱闘は同じ場所に待ってはいません。ことに
牢獄のすみでは、ヨハンが、石のように身を伏せたまま、何か
ところが、ここにもう一人――いやもう二人、事の始終を高い所から見ていた人間がある。それは裏の高塀の境にある
「きれいじゃねえか」
と、指さして、
「まるで
よそごとのようにいって笑いましたが、
どこかの部屋では世間をよそにして気のいいめりやすの三味線が、『描のつま』か何かの独吟に三を下げて、
三とせなじみし
猫の妻
もし恋ひ死なば
かはいのものよ
三味線の
いろにひかるゝ
中つぎの
棹 はちぎりのたがやさん
ごていねいにも、わざわざ江戸から師匠づれで来ている蔵前のお客様とかが、毎日、まずい一くさりをさらッては、どッと、あたりお構いなしに笑いくずれています。猫の妻
もし恋ひ死なば
かはいのものよ
三味線の
いろにひかるゝ
中つぎの
きょうは、
ここは
「あれ、お嬢様」
「ちょッとここへ、お嬢様、ちょッとここへ出てごらんなさいませ」
手拭を
「なアに」
やさしい返辞はしますが立っては来ません。
書院の下に小机をよせて、巻紙をひろげている後ろ姿が見えるばかりで、
「――いいものが見えますから」
「私は今、手紙を書いているから駄目」
「そんな事おッしゃらないで、ちょッとここへ来てごらん遊ばせ」
「うるさいね」
と軽い舌打ちをして、
「――今この手紙を書いてしまってからネ」
と、いいふくめるように、机に向ったまま、サラサラと筆の穂を走らせている人は、まことに上品な――少しやせすぎてはいますが――線のいい美人でした。
書き終えた巻紙を、くるくると封じてやっと筆をおいてから、ニッコリした顔が小間使いのおりんを見る。
「はい、すみました」
「もうだめですわ、お嬢様。とッくに下町の方へ行ってしまいましたもの」
「そら、やっぱり、
「いいえ、嘘ではございません」
「じゃ、何があったの」
「
「孔雀?」
「ええ、ゆうべ湯番も話していました。上方の方から来た孔雀の見世物が、あしたは船で黒磯へ上がるから、小屋へかからないうちに見てしまえば、その方が木戸銭がいらないなんて」
「それが通ったのかえ」
「ええ、ぞろぞろと沢山の人がついて」
「じゃ、次郎もそれを見に行ったのかしら。この手紙を、飛脚屋へ頼もうと思うのだけれど」
「それなら何も、宿の者へおいいつけ遊ばせばようございましょうに」
「ところが、私は字が下手ですから、人様に見られるのが恥かしい」
「あんなこと」
「次郎を探しに行こうかしらね」
「二、三日の雨で、少しも外をおひろいになりませんでした。おりんもお供をいたしましょう」
身分のある武家の御息女らしく思われますが、固くるしい作法のとれた湯治場のこと、気軽に
と――薄暗く湯のにおいがする梯子だんの中途で、病人らしい若い侍へ、
「お風呂でございますか」
小間使いのおりんが、ことばをかけると、
「お出かけか」
と、先でも軽く、あいさつをしました。
そして、もう一度、上と下とて、両方の目が振り向き合った時、
「――
廊下の角に待っていたのは、宿の
次郎という山猿のような
「いったい、あの女は何様だろうか」
と、いうささやきが、もッぱらであります。
この
「あれは番町のお旗本のお嬢様で、連れている猿みたいな小僧は、
「ヘエ、そうかな」
と、一時は感心しましたが、二、三日すると、また
「湯番に聞くと旗本の娘じゃないっていう話だぜ」
と、
「どうもおれも、旗本にしちゃ、あのお供や、あの小間使いの口ぶりが変だと思ったよ」
「第一、屋敷は江戸じゃないそうだ」
「へえ、どこだい」
「どこだが分らないが、御府外の遠方だそうだ」
「あんなに永く湯治場においといて、虫がついたらどうする気だろう。親の気もちが分らないよ」
「次郎という小僧が、その虫の番人にちげえねえ、何しろ、毎年、二月ぐらい入湯に来るというこッたから、何か病気でもあるんだろう」
「気の毒だな、あの若さと、あの
「だが、病人とは見えねえな、いつもきれいだし、外へも出るし」
「病人だってなにも、
「きれいな病気ッてものがあるかしら」
「
「なるほど、癆かな」
「そういえば癆かもしれない、あんまりきれいだ」
とうとう素性の方が分らない腹いせに、衆議が癆にしてしまいました。
こんなふうですから、二階の障子が
せっかく世間を
ある日は、次郎をつれ、
ある晩は、
洗い髪で、磯を飛んであるく、月江の姿もよく見ます。時には、庭先で、鬼ごッこをしていたり、すべてが開放的で、明るく、そろいもそろった無邪気な三人であります。
だから、傍観の
「おお、道がきれいになった、ゆうべの雨で」
今も、庭の裏口から、宿の
「おりんや」
と、涼しい目を細めて呼ぶ。
「はい」
「お前はほんとに人なつこいね」
「なぜですか、お嬢様」
「だって、あんなお
「ちッとも突然ではございません、私は、もう朝夕ごあいさつをしているんですから」
「まあ……」と仰山に、
「おまえはいつのまに、あのお侍様と御懇意になっているのかえ」
「ホホホホ……お嬢様ッてば」
「何がおかしいの」
「わたし、御懇意にしたからッても、べつだん何でもありゃしませんのに」
「だから、何でもあるといやアしないのに、お前こそ、よッぽどおかしい」
「お嬢様こそ、よッぽど妙です」
「いいよ、おりん。旅先だと思ってたくさんおいじめ、
「あら、お怒り遊ばしたんですか。――お嬢様そんなに早く行かないで」
「いいよ、いいよ。お前はあッちへ行って、相良様とたくさんお話し!」
くるりと身を廻して、
それも軽い戯れでした。
くったくのない蝶々のように、月江とおりんの主従は、それから次郎の姿をさがしに、下町の坂を北の方へ向って駆けだして行く。
「あら、また坂がある」
「
「武蔵野には坂がない」
「あんな海もございませんのね」
「りんや」
「はい」
「次郎はいッたいどこへ行ったのだろうね」
「さあ――こッちにも見えませんが――また遠ッ走りをして、走り湯の権現様の方へでも行っているのじゃありませんかしら」
「おや、あそこに沢山人が見える」
「ほんとに、たいそう人がたかッておりますこと」
「居るよ、あの中に。きッと次郎も交じッているんだよ」
「行ってみましょうか、お嬢様」
「うしろから行って、そッと、目をふさいでやると面白い!」
「それよりもわッと背中をたたいておどかしてやりましょう!」
軽快な姿が、
そこは野中の地蔵とよぶところで、晩には、沖の潮鳴りがきこえるほか、人も通らない湯町の端れで、ただ一軒、
網小屋のそばには、馬子や漁師や往来の者の
「アー……いいお湯だ」
と、湯気の中から渡り鳥の腹を仰向いて見ていました。
板前の
ところで。
月江とおりんがそこへ来て見ますと、野天風呂と
次郎の姿はここにも見えませんでしたが、宿の丹前を着たお客の男女や、往来の者や、土地の悪太郎が寄ッてたかッて、
「
「法斎、法斎、法斎……」
「法斎きちがい! 法斎きちがい」
――なにか知らないが面白そうに騒いでいるので、思わず首を突ッ込んで、人の肩の間からのぞいて見る。
名物の馬鹿でもいるのかと思いましたら、べつだん人間をよんでいる訳ではなく、岩の間からふきだしている湯へ向って、土地の子供が、
「法斎きちがい、法斎きちがい」
と、手をたたいているのでありました。
「ああ、これが、法斎湯だよ」
と、月江もおりんの耳へ口をよせてささやいている。
この湯口は、法斎きちがいと呼んで手をたたくと、自然に
で――その湯口のそばには、江の島の
「おじさん、法斎呼ぼうか」
「おばさん、法斎呼ばしておくれよ」
と、一文二文をねだッています。
「つまらない……」
おりんは、さんざん見てしまったあとで、つまらないと呟やきながら、そこを離れて月江と一緒に歩きだしました。
「あの法斎法斎ッて、お湯が怒ッてくるのは、仕掛があるんですとさお嬢様」
「まあ……そうかえ」
「あの子供たちには、
「そんなことは、知らない方がいいのだよ。あれも土地の名物だと思って、ぼんやり見ていれば面白いじゃないか。世の中のことは、みんな法斎湯みたいなものだからネ」
話しながら野道を縫って、磯の方へ廻ってゆきますと、よく湯治場にあるやつで、甚だよくない眼つきをした遊び
「もすこし先へ行って」
「磯へ出るぜ」
「だからよ……」
あと先を見廻しながら、ふたりのあとからついて行きます。
わるい者が目をつけてゆく。
何かなければいいがと眺めていると、案の如く、海辺へ出てあたりに人なき様子を見廻すと、三人のならず者が、突然、月江のうしろへ飛びかかッて、
「あれッ」
と、悲鳴をあげかけた小間使いのおりんも、その口を大きな手のひらでふさがれて、小雀のように、磯松の根元へだき倒されましたが、
「おりんや、大丈夫だよ!」
月江の声がこうひびきますと、大の男が
姿に似気ない手のうちに驚いて、おりんの方はあと廻しに、こんどは、三名が一束になって
「何をしやるッ」
柳眉に美しい険が立つ――
「女と思うて、ぶしつけな、この上わるさをすると許しませぬぞ」
いうかと思うと、いつのまにか、手につかんでいた砂の目つぶし。
笑止です。
「わッ」
と、
そして、二、三町ほど走ッて行って、また、小舟のかげに顔を出し、いまいましそうに見送っていた人の方をながめて、
(いい気味!)
と、いわないばかりに手をはやしました。
ところが、それから月江とおりんの主従が、横磯の砂浜をきれてゆく頃――
「お嬢様、大変です、大変です」
「うしろをお見でない、うしろを見ると、よけいに狼は飛びついてくるものだから」
「だって、帰れないじゃございませんか」
「錦浦の方へ歩いて見ようよ、わたしはまだ、観音様の石門も見ないし」
「見物どころじゃございません」
「お前がわるいのだよ、あの法斎湯に仕掛があるなんて、土地の名物にケチつけたから、それをよい言い懸りにして来るんです」
「まあ、どうしましょう月江様」
右は念仏山の断崖、左は海、道はそのふもとに添う一筋です。
うしろを見ると、大漁
はッと、おりんが思いあたったのは、この道の先の
とは気がついてみても、うしろを振顧ると、あとへ帰る気にもなれないし、立ち止まってもいられません。
鎌倉右大臣の――箱根路をわがこえくれば伊豆の海や――その伊豆の海はだんだんと困惑の足もとから暮れかけてきそうです。
大島初島も、すでに紅い
…………
時に、ちょうどその頃――同じ海の暮色を見ながら、日金の峰の中腹、東光寺の下あたりから、口笛をふきつつ町へ帰ってくる、風の子のような元気な小僧がありました。
まもなく、湯前神社の石段から町へ降りてきた口笛の馳け足は、隠居藤屋の裏庭へ飛びこんで来て、そこから、
「お嬢様、ただ今」
と、二階の部屋を見上げました。
月江の
次郎は今年十五だそうで、遊びたい盛りの溌剌たる眼が、ちょッとの間も、ひとつ所にジッとしてはおりません。髪は麻糸でそッけなくうしろへ結び、なりは手織りの
「おう、次郎さんかい」
「え」
月江の返辞がなくて、うしろで呼んだ者があるので振顧ると、
「お嬢様は、お前をさがしにゆくといって、さっき出かけたきり、まだお帰りがないようだ」
と、顔なじみの、宿の下男が来て、おりんも一緒であることまで教えました。
「へ……そうかい」
次郎は、障子の
「どッちの方へ行ったか、おじさん、知ってないかい」
「さあ、下の
「アア、あの法斎きちがいか」
次郎はふところへ手を突ッ込んで、藁や髪の毛や木の葉でまるまッた鳥の巣を、両手で
「おじさん、これを預かッといてくんないか」
「なんだいそれは」
「鳥の巣さ」
「鳥の巣は分っているけれど、一体どこで取ったんだ」
「東光寺の
「困るなあ、
「大丈夫だよ」
「縁の下へでも入れておきな」
「猫に食われてしまうと可哀そうだもの」
「ほんとに雛が居るのかい」
「居るよ。寝ているよ」
「弱るなア、そんなもの」
「ここへ置いたよ、いいかいおじさん。猫に食わすと承知しないぜ」
次郎はまたスタスタと馳け出して、行きちがいになった月江の姿を、そこか、ここかと、しきりに探し廻っている。
そして、法斎湯の近所へ来て、知ると知らないにかかわらず、逢う人ごとにたずねて見ると、
「あ、藤屋の隠居所のお客さんですか。その人ならばさっきこの辺で、湯鳴りを見物していなすッたが、その法斎場には仕掛があるとか人に話していたっていうんで、土地のならず者が聞きかじッて、横磯の方へ追いかけて行ったようです」
「えッ、ならず者が追いかけてゆきました」
「お前さん身よりの方なら、早く行って見ておあげなさい。
「ありがとう!」
次郎は、それを聞くや、宙を飛んで、
「さあ、大変」
と思いました。
もしやお嬢様の身に、かすり傷でもつく事があったひには大変だ。次郎はなんのために熱海までお供をして来たのか。
「さあ、一大事」
彼も責任感に責められました。
温泉
次郎は草を蹴って、野づらを
「ウーム、見えないぞ」
と、太い息でうめくばかり。
潮のけぶる
「どこだ、どこだ。おいらのうちのお嬢さまは?」
次郎は波うち際を
「月江さまア」
と、大声を張りあげましたが、その声には、一脈の哀傷と不安なものがカスれていました。
――駆けるほどに、呼ばわるほどに、暮れかけている横磯の
「どこだ、どこだ」
次郎はいよいよ血眼となって、
「――お嬢さまア、お嬢さまア」
遂には、波にひびくその絶叫も、涙ッぽい訴えと変って、刻々と
すると――向うで、
「おのしは、次郎さんでねえか」
と、磯の石が呼びました。
磯の石が声をかけるはずはないが、うす暗い海辺にかがんでいたひとりの
「あ……」
驚いて近づいてゆくと、ふだんこの辺でよく顔を合せている海女です。
「おばさん、教えてくンないか」
次郎の問いは唐突です。
「おめえ、それで飛んできなしたか」
「居なくなッちゃッたんだよ、お嬢さまが。――おばさん、おいらのうちの月江様を知ってんなら、教えてくんなよ」
「大変だぞ、おめえ」
「えッ」
次郎はもう飛び立ちそうな様子をして、
「大変て、ど、どうしたンだい」
「悪いやつに追われて、魚見小屋の中へ連れこまれて行きなしたようだ」
「見ていたのか、おばさんは」
「札つきの悪者ばかりが、のッそりのッそり、藤屋のお客さんのあとをつけて行くので、なんか悪いことがなけりゃあいいがと、さッきからここで案じていたところ……おめえよく来なした、早く行って見てあげるといい」
「ど、どッちの方だい」
「
「岬ッて?」
「ここを真ッすぐさ、そこにな、魚見小屋があるから、すぐと知れるだ」
「あ、ありがとう、おばさん」
いいすてて勢いよく走りだしましたが、何か棒のようなものを蹴って、砂の上につンのめりました。
そして、前へころんだついでに足で蹴ったその棒を拾って、よい獲物とばかり小脇に持ちこみましたが、その先ッぽに、鋭利な刃物が光っているところを見ると、これは、漁師の置忘れた
波はごうごうと
と――
やがて次郎のあえぐ道が、岬の鼻へ向ってのぼりになって来たかと思うと、ごうッ――と耳をなぐる松風の間に、ちぎれ飛んでくる大勢の人声。
たしかに魚見小屋のあたりです。
きッと、空の明りにすかされる岬の松のかげを睨んで、
「畜生、見ていろ」
と、くちびるを噛んでつぶやくと高麗村の次郎、山に
ところが、ここに。
まだ岬のはなの乱松に
きのう網代へついた江戸の便船のうちに、ちらとその姿を見せた目明しの釘勘と、かれが組下の伝吉という男。
――伝吉は、いつぞや、丹頃のお粂と
しかし、きょうの半日を、この岬のはなの風にあたッて、根気よく海とにらみ合いをしていたのは、まったく、それとは意味のちがうものであって、
「まだ見えない」
「はてな、きょうは波も穏やかだし、日どりの狂うはずはねえが」
と、何か心待ちにするのか、ついそこで、日の暮れるのをうッかりしていたものであります。
「いけねえ、暗くなって来た……」
海の
「親方、このあんばいじゃ、やつらの船がくるのは
「ウーム、そうかもしれねえ」
「どうします」
「しかたがねえから、そこらで一晩しのごうじゃねえか」
「ちょうどいい小屋がありますぜ、その向うに」
「
「なんです、魚見小屋ッてえな」
「潮色を見て出漁引き漁の貝合図をふく番人のいる所だ。――だれか居るか」
「いねえようです、だれも」
「そこらの、松葉をすこしかき集めてきねえ、中へ
がらりと、あるという名ばかりの
伝吉が土間の
釘勘は腰をさぐッて
「ははあ、この辺のやつも、だいぶ抜け買い(密貿易)の手伝いを内職にしていやがるな」
と、ぼウと赤い炎のいろに浮き出したあたりの物を、まず一流の鋭い目で見てしまいました。
そこのすすけた壁には、漁具、網、法螺の貝、
「――で、なんでしょうか」
伝吉は一ぷくつけながら、小屋へ
「その……きょうか今夜は、必ずこの辺へつくはずだと親方のいう霊岸河岸をでた
「分っているのは、日本左衛門に
「で……そいつらの旅へ出たのは」
「無論、江戸は近ごろ物騒だからよ」
「夜光の短刀をさがす
「それもある……だがそれより先に」
「お粂ですか」
「ウム、自分を裏切った丹頂のお粂――お粂を奪ったとにらまれている相良金吾。――日本左衛門はなにより先に、この二人を生かしちゃおくまいと、おれは前から要心しているのだ」
「なるほど、あの男にしても仲間の者にも、それくらいな執念はありましょうね」
「どッちみち、こんどは、よほど気をつけないと、お粂はもちろんのこと、金吾様の命もあぶない、おれも、江戸表ならどうにでも捕手を自由に使ってみせるが、旅へ出ちゃ腕一本すね一本、それにひきかえて日本左衛門の方は……」
といいかけた時、何か、ぶつけたような物音と女の声が、突然、後ろの戸を倒して中の火をあおッたので、
「おうっ!」
と、釘勘も伝吉も、
そこの、魚見小屋を背なかにして、外に立っていたのは、遂にここまで追いつめられてきた、
おりんは歯の根もあわずに月江の胸にすがっている。
その
「りんや、心配おしでない」
と、月江の片手が帯の懐剣をさぐッたせつな、目まぜをし合ったあぶれ者の二、三人が、いきなり、かの女のうしろへ廻ろうとしましたが、そのひとりが、懐剣で頬をかすられたかと思うと、魚見小屋を内がわへ
「あっ」
と、中へころがり込む。
とたんに。
「こいつらッ」
意外な
「わッ」と、驚いたあぶれ者の影が、一時に小屋の前をひらいて、
「野郎、なんだてめえは!」
と、虚勢を張って立ち直りましたが、伝吉が、
「御用ッ!」
と、ふた声ばかり浴びせかけますと、もともとたいして骨ッぽいのは居ない連中ですから、十手を見たばかりでわれ勝ちに岬の下へ逃げだしました。
それほど、他愛のない小悪党の群を、釘勘や伝吉とて、なにも
「うぬ、待て」
とばかり駆け散らして行く。
すると。
その坂道の横合から、ブ――ンと風を切ッて飛んだ一本の
いやが上に、驚きあわてたあぶれ者は、むしろより以上な危険のある横手の
だが、自分たちのおどかしよりも、なおかれらを驚かした銛の投げ手はたれだろうか――と、そこに
「おい、待ッた」
釘勘が手をあげて、
「人違いをするな、おれたちは、通りかかった旅の者だ」
「どこだ! おいらのうちのお嬢様は」
「ウム、向うにいる、お女中をさがしているのか」
「えッ、いる?」
「待ちねえ、今、おれの連れが呼びに行ったから。だが、おめえ達は一体どこの者だね」
「おいらのことかい? お嬢様かい?」
「おめえも、あのお女中も」
「お嬢様は
「ついぞ聞いたことのねえ所だが、高麗村というと、やはりこの伊豆の
「ばかをいッてら、おじさん。高麗村がこの伊豆なもんか。――武蔵の国北多摩の奥で、
次郎、そこまでは、問わず語りにお国自慢をしゃべりかけていましたが、ふと気がついて口をつぐんだ時、魚見小屋の方から来る、月江とおりんの姿を見たので、
「おっ、居た、居た!」
釘勘を置きッぱなしにして、そッちへ足を向けたかと思うと、次郎のいう、おいらのお嬢様なる人の求める腕へ、まるで、犬ころのように飛びついて行ったものです。
ふと――
刀の
刀は持ち
心の腐ッた持ちぬしの手にあれば、柄糸も
どうにもならない
もう近頃では、この愛刀
ふしぎです。
刀は人の持つものでありながら、かくまで人を支配します。心おおらかな時は、それに
――それを感じて、金吾は、自分というものに、強い
「武士か! 貴様は」
かれの矛盾した心は、二ツの相良金吾という人間に苦しめられているようです。
一つは本来の金吾であり、一つは、奇病に衰えた肉体から、武士らしい魂をひき抜かれて、ここにこうしている相良金吾。
過去の金吾は大殿の信も篤く、ために徳川万太郎の側付きとなった程、忠義一徹、武門名誉の侍であるはず。
しかし。
現実の金吾は――というと、本心はとにかく、表面の生活から
そうではないか。
そう
――金吾は了戒を膝から落として、ゴロリと仰向けに寝ころびながら、また口のうちで、
「武士か! 貴様は」
おのれを、おのれの外に置いて、腹立たしげに罵りました。
おしろいの
なまめかしい女の小袖。
横磯の沖に月が出たのです。
黄色い春の月の思いきッて大きく、ぬっと、
風もなく、障子にさわる桃の花びらが、
白玉か
何ぞと人のとがめるは
露と答へて消えなまし
物を思へば恋ごろも
それは昔の芥川
芥川
これは桂 の川水に
浮名を流すうたかたに
泡ときえゆく
信濃屋 の
お半 を背なに長右衛門
また、あちらの座敷に陣取っている師匠と何ぞと人のとがめるは
露と答へて消えなまし
物を思へば恋ごろも
それは昔の
芥川
これは
浮名を流すうたかたに
泡ときえゆく
お
「ああいう世界もあるんだなあ」
金吾はうッとり耳を誘われていました。
そして、いつか軽い湯づかれにとろとろとうたた寝の浅い眠りに落ちたかと思うと、やわらかい丹前を、ふわりと自分に着せかけたものがある。
おぼえのある肌の
お粂は、いつのまにか湯から上がってきて、そこに寝ころんでいる手枕の人をよそに、あだな夕化粧をこらしていました。
で、偶然、鏡の中で見合した
金吾が見た鏡の中のお粂の顔は媚をふくんで笑っていましたが、お粂が見た鏡の中の金吾の顔は、
(妖婦め!)
と、いわんばかりに睨んでいました。
「まあ、こわい顔」
と、くちびるへ
「――相良さん、また江戸表のことを考えているんでしょう、およしなさいよ、しんきくさい」
冷たい海風のもれてくる障子の隙を合せながら、
「オオ、向うの座敷の陽気だこと……私たちも、今夜は酒でも少しとりましょうか」
「酒?」
「エエ」
金吾はハネ起きて、
「酒」
と、もう一度つぶやきました。
こういう時にこそ、酒を飲むべきものだったと、初めて気がついたように、
「よかろう! いいつけてくれ」
「まあ、めずらしい」
お粂は自分からいい出しておきながら、金吾が同意したのをわざとらしく笑って、それから女中をよんで支度を頼み、その間に、
「こちの人、おひとつ」
浮いた調子で、お粂は軽く戯れながら銚子に細い指をかけて、
「いかが……」
と、少し首を曲げる。
黙然と杯をとって、金吾は苦しそうに一口グッと飲みほしました。
「私にも下さいな」
お粂は元よりいける口です。
相手がものをいわないので、さしては飲み、うけてはつぐという調子には、杯が廻らない。
でも、
しかし、同じ
「あなた」
「…………」
「何をさっき、
金吾はものをいいません。いわんとする時は、その口を杯でふさいでいる。
そして、両の腕をくみ、飲めば飲むほど陰鬱に、青白い顔をうつ向けています。
入湯のききめか、お粂の手当が届いたせいか、この熱海へ来てから、とにかく金吾の奇病というものも、ある程度まで回復して来たようです。
けれど、そのかわりに、
それは、こうしている宿屋住居の二人の生活が、前とだいぶ変って他人行儀がとれ、それでいて、許し合った情人というほど密でもなく、夫婦ともつかず、お互いにどうにもならない運命の部屋に閉じこめられているような状態から見ても、その後、お粂と金吾の仲に思いがけない――もう切るにも切れないものが生じて、悪縁の鎖を結んでしまッたことが明らかであります。
お粂の熱情にほだされたにせよ、金吾のためにこの一事は、実に終生の不覚というべきでありますが、一頃のように、彼が昏々と眠りから眠りへ落ちている間ならば、妖婦の抱擁もこばむ力がなかったわけですから、一概に彼の心事を責めるのもどうでしょうか。
しかし、お粂にとれば、これで思いが
お粂は陰性の妖婦とみえます、これが陽性の毒婦型の女だったら、こんな遠廻しな、手数のかかることはしていないでしょう。また、いかなる男も、お粂のような手段をもってされては、その術中に墜ちないではいられますまい。
ですが不自然に結ばれた、二人の間というものは、その成長につれ、その変態な苦しみが、当然ふたりへ公平に分けられてくる。
金吾の憂鬱はその悔いです。
お粂のいらいらするのは、ここまで行ッていながら、まだともすると、自分の手から逃げそうな男の
せめて、その憂鬱を晴らすかと思って飲んだ酒も、金吾には沈痛な理性が
……酒が冷える。
「
廊下の障子をなでてゆく
宿の
そこから廊下を離れた角二階の部屋は、例の問題の、月江様、おりん、小僕次郎、こう三人がいる部屋で、そこの空気はまた、いつも和気と春風にみちて、ハチきれそうな笑いの爆発がたえません。
「いや! 次郎は
「痛い、痛い」
「痛ければお放し」
「死んでも放さない」
「強情だね、お前は。りんや、加勢しておくれな、次郎は狡くッてしようがない」
「ホ、ホ、ホ、ホ、
何を笑いはしゃいで争ッているのかと見ますと、これは近ごろ
一枚のうんすん加留多の札を、月江が抱きこんでいると次郎がそれを奪おうとしてゆずりません。読み手のおりんは面白がッて、キャッキャッと笑いながら口から読み札をこぼしている。
「あッ、やぶけた」
「次郎、おまえは」
「知らねえ知らねえ、お嬢様のせいだ」
「意地わる!」
「ほーら、負けたんで口惜しがッてら」
「おまえの負けよ」
「お嬢様の負けだい」
「どうして」
「どうしてでも」
「りんが証人だよ、ねえ、りんや」
「おりんさんが知ッてら、ねえ、おりんさん」
「憎らしい。ひとの口真似をして」
「憎らしい。ひとの口真似をして」
「あら」
「あら」
「ホ、ホ、ホ」
「オホ、ホ」
「猿!」
と、月江がそこらの札をかき集めて、笑いながら相手の顔へぶつけたので、次郎はクシャンと
と、次の間の障子があいて、
「ごめん遊ばせ」
宿の女中の声がしています。
そんな事には気がつかないで、笑いさざめいている三人は、加留多をよせ集めると次には遊戯の趣向をかえて、座敷の中程に
枕の上には銀の
扇は金泥に山桜の
おりんも次郎も、投扇にはまだ初心とみえて、どうやるのかと神妙に
――
われながらいみじき事に覚えて、今一度と、扇を取って幾十返りかこれを投げるといえども、枕の前後に落ちて、枕上に止まらず、これより
「まあ、お
と、おりんが聞き終ると、次郎は半分以上わからない顔をしていたくせにして、
「なんだ、そんなことか」
「
「白酒を飲むこと、点の多いのを打った時には二杯」
「じゃ、おいらが先に、一杯飲む」
興にのッて、次郎が月江の指南を真似、妙な手つきで山桜の扇をぽんと投げましたが、それは胡蝶を追って枕上にとまる――というような軽妙ではなく、まるで扇の
「あら!」
と、月江が目を見はッたのは、その調子はずれに驚いたのではありません。
扇の飛んで行った次の間に、ひとりの男がいつのまにか坐っていて、
「折角なところを、夜分お邪魔いたしまして相すみませんが」
と、その扇を持って、いざり出して来たからでありました。
「最前から、女中に案内されて、こちらでお声をかけましたが、お遊びに夢中な御様子だもんですから、しばらく控えておりましたんで」
「そうですか、して、お前はたれですか」
「お忘れでございますか。いつぞや、岬の
と、
「アア、伝吉さんでしたか」
それでほっとしたらしく、おりんも安心し、次郎の鋭い目元も
月江としては、その折、助けられた恩人なので自身の方から礼に行かねばならぬと、二人の宿をたずねさせていたくらいなので、よいところへと茶菓子をいいつけようとすると、
「あ、どうか、それは」
と、伝吉は、あわてて止めて、
「実はとんだお願いがあって伺いましたので、いずれまた改めて、連れの者と一緒にお邪魔をいたしにまいります。で、今夜のところは、その話だけをぜひ一つ聞いていただきたいと存じますが」
「前にお世話になっている私たち、なんでございますか、出来ますことならば」
「有難うぞんじます。ほかじゃございませんが、こちらの同じお二階にいる、相良金吾というお人と、もしや、御懇意ではござんすまいか」
「相良さんですか」
月江はおりんと顔を見合わせて、伝吉をよそに微笑を交わしましたが、すぐに改まって、
「はい、御懇意というほどでもございませんが、このりんと申す者が、時折、おことばくらいは交わしております」
「ならば、何より好都合でございます。まことにあつかましいお願いですが、一方のお粂という女が疑わないように、その金吾様だけを、何とかして、ちょッとここへ呼んでおもらい申す事はできますまいか」
「さあ? ……」と、三人は顔を見合している。
これはいと易いことに似て、甚だ難題に考えられたに違いありますまい。
なぜかといえば、あの侍の側についている女は、おりんが廊下でちょっと金吾へ声をかけても、決して、快くは思わないふうでありますし、第一彼の起居に影と形のようにつきまとッていて、かつてあの
どう考えてみても難題です。
あの女に内密で金吾をよび出してほしいという伝吉の注文はむずかしい。
月江にもおりんにも、これには名案がありそうもない。折角魚見小屋での恩返しにも、できることならして上げたいが。
そう思ってうつ向いていますと、何か、伝吉に妙案があったか一膝すすめて声を落としていうには、
「お嬢様、まことに
これはやさしい。
またすぐにもできる事ではありますが、そしてどうしようという伝吉の考えなのか。
あまり深く聞くのも失礼だと思いましたから、無邪気なおりんと単純な次郎と、世間見ずなお嬢様とが、そこでまたかれの望みに任せて、投扇の点取りをやって遊びはじめました。
「なるほど、まことにシャレたお遊びでございますな。やはりお嬢様が一番お上手だ。さあ、どうぞ御遠慮なくやって下さい」
伝吉は、行司になって、拝見している。
興に入るとまたおりんの調子はずれな笑い声や、次郎のおいら言葉が廊下を越えてもれてゆく。
「あ、
すると、不意に伝吉が立って、
「ばかにするないッ。何を。いけねえいけねえ、わざとおれに
ふた声ばかり怒鳴って、
そして
「あれッ」
と、おりんが、びッくりしたり呑み込んだりして廊下を馳け出し、奥の一間の唐紙をサッとあけたものですから、
「あっ」
と、驚いたのは水入らずの長火鉢で、そこに
「お侍様、あの、あの……」
声をおろおろさせておりんはお粂の顔を見ずに、
「お助け下さいまし、今あちらで、投扇興をしておりますと、廊下を通りかかった悪いやつが、その扇がぶつかッたと、お嬢様に
「びっくりいたした、そなたは向こうの部屋にいる、月江殿の小間使いではないか」
金吾がいつの間にか、月江というよその客の名を知っていたのが、お粂にはちょッと意外で、何か面白くない気持です。
おりんは会釈なく、
「はい、
手を取るように
「お騒ぎなさるな、ほかの客の興をさましては宿へも気の毒」
立ち上がりながら、ちよッとお粂の方を見ましたが、お粂は何が気にいらないのか、冷えた杯を猫板に移して、ツンと横を向いておりました。
で、金吾もそのまま、おりんについて廊下へ出て刀の
「こいつ、湯治客をゆたぶる、遊び人だな」
と、一図に見てとって、ずかずかとそこへ
「貴様か、宿を騒がすやつは」
ムズと、襟がみをつかみました。
ひょいと仰向いて伝吉は、
「お、相良金吾様」
ずばりと名をさしたものですから金吾は仰天して、はっとその手をゆるめますと、こんどは伝吉の方から突然かれの腕くびをつかんで――
「やっと誘い出しました。さ、さ、お粂に気のつかれないうちに、少しも早く外へ出ておくんなさい。今夜ある場所で、親方の釘勘が待っているんです」
「えっ、釘勘が?」
「いやとはいえませんぜ、相良さん。会った上のお話はいろいろありますが、釘勘はあなた様の御主人、徳川万太郎様の頼みをうけて、遙々ここまでやって来たんでございますからね」
金吾は穴にでも入りたいように、
「なんと申す、では、万太郎様のおさしずで、釘勘がわしを迎えに参ったとか」
「まア、そんなことはどうでもいい、お粂が感づくと困りますから」
「待ってくれ、ま、考えさせてくれ」
「今夜は待ッたなしです、あなたをここまで誘い出したのも、なみたいていな苦労じゃねえ。主命と思って来ておくんなさい」
と、無理に梯子段を降りてゆくと、かれは金吾の腕を抱きこむようにして、庭の植込みから木戸を押して、湯気のさまよう湯町の辻へ駆けだしました。
誘い出してというよりは無理やりにして、金吾を外へ引ッ張り出した釘勘の
どこへ連れてゆくのやら、浜町のお
そこを一散に北へ上がる。
たった一度の湯治お
のぼるとそこは広前の
梅が香 もわくや
出 で湯の春のかぜ
と、「伝吉か」
と、楠の木を楯にうかがいました。
「オオ、親方」
「どうした、相良さんは」
「やっとの事で、ここへお連れ申して参りました」
「えッ、一緒にお
と、これは釘勘としても予期以上の上首尾らしく、ひどく機嫌のよい調子で伝吉の気転をねぎらいました。
しかし、その声を聞いただけで、もうハッとして胸を衝かれたのは相良金吾。
面目ない!
思えば釘勘とここに会うのは沙汰の限りな恥かしさです。彼とは
ああ、どの
金吾は杉の幹に両手を支えて、
――その姿へいきなり物をいうには耐えないで、釘勘も、しばらく無言でいましたが、
「オオ……」と気がついたように――「伝吉、おめえはまた御苦労だが、もしやお
「ええ、よろしゅうございます」
「頼んだぜ」
「もし、お粂が追いかけて来たらどうしましょうね」
「そうだな? ……」
と、釘勘はちょっと金吾の方へ気がねしながら、
「かまわねえから、御用とくらわせろ」
「合点です」
――馳け出そうとすると、
「おっと」
呼び止めて、
「待ってくれ」と、また考え直した。そして、「まさか今夜はそうもゆくめえ、こッちの話さえ
「へい、承知しました」
伝吉はすぐ町の方へ引っ返して行きます。
あとは――釘勘と金吾の二人。
最初に姿を見合った時、オオと声をかけてしまえばそれで話の糸口があいたのかも分りませんが、お互いの胸のうちを話の先に察してしまって、妙に
やがて、釘勘の方から、
「相良様、ずいぶんお久しぶりでございましたなあ」
取ってつけたようにいいました。
「いちべつ以来、そちも健固で」
金吾の声は処女のようです。
「おかげ様で」
「なによりじゃ」
「まず、そこらへ、腰をすえようじゃございませんか」
と、くだけていうと、金吾は突然に、
「釘勘ッ、せ、拙者は、そちに今ここで会わせる顔がない! ……面目のうて会わせる顔がないのだ……」と、にわかに感傷に走って来た声をふるわせて、深く顔を押しかくしますと、
「は、は、は、は。そう窮屈に考えるからいけませんや」
と釘勘は、抜きかけた
「まあさ、そこへおかけなさいまし、武門のことは分りませんが、女出入りのあとしまつなら、こりゃお侍様の智慧よりも、はばかりながら町人の方が遙かに
と、あくまで金吾の苦しみを見ぬいている、苦労人のことばです。
さりながら、好意も時には罵倒よりは胸に痛い場合もある。
春ながらここは寒い。
杉の夜露が襟もとを打つ時は、思わずゾクとしてきます。
「ぶしつけな申し分かも知れませんが、あっしとあなた、浅い御縁じゃございませんな」
そこで、釘勘は
すぱりと、一服つけて、
「――金吾様、どうか今夜はひとつ、
ぼつぼつ彼のことばはいわんとするところへ向って来ました。
その語調は至って平静でありますが、すぱすぱと味もなく吸う煙草の火のかすかな光で見れば、釘勘の目は涙でいっぱい。
「ええ、相良さん」
返事のないのにじれ出して、
「どうしたもんでございます!」
「…………」
古木の
けれどまた釘勘の察し方もすこし情けない。大きな誤解がある。自分がお粂の色香に迷ってこうなったものと思いこんでいる独り合点がある。
今さら言い訳がましいことは、彼の性格としても
「いや、待ってくれ」
初めて、敢然と口をひらくと、その顔色に驚いて釘勘が、
「お怒りなすっちゃ困ります、どうか、御立腹ないところで」
「なんの怒ってよいものか。しかし釘勘。いかにも拙者は武士として、終生ぬぐわれぬ不覚を踏んだには相違ないが、決して、お粂の色香におぼれて主家を忘れたわけではない」
「分っております。失礼ながら、その御本心を買っていればこそ、あっしは自分の役目がらを忘れてまで、こうして万太郎様のお
「待て、今のそちのことばでは、深い事情までは分っていない」
と、金吾はやや興奮して、
「その通りです。だからあっしはなぜあなたが早く気がついて、たとえどういう手段をとっても、お粂の家から出ないのかと、それがふしぎにも思われましたし、また歯がゆくってならなかったんでございます」
「そうは申すが、お粂とても拙者にとれば、かりそめならぬ命の恩人じゃ」
「と、とんでもないこと」
「なぜ?」
すこし色をなして
「これでもあなたは、お粂の親切をまことと思い、あくまで命の恩人だとおっしゃいますか」
金吾は眉を
「なんじゃ、それは」
「ビードロです」
「ウム、蘭薬を
「そうです、しかもこのビードロの瓶に、どんな蘭薬が入っていたかお分りにはなりますまい。小石川
――とまで聞いた時に相良金吾は、思わずその小さな紫のビードロから顔を横にせずにはいられませんでした。
かれにとって怖るべきものと頭にしみついていることは、眠りであります。眠りつつ衰えてゆく奇病のために、妖婦の
「ようがすか、話の眼目は、それからなんで」
釘勘は、ここで一だんと力をいれ、
「そこでこの滅多にない品物を、どこで手にいれたかというと、あなたもお忘れはありますめえ、音羽の護国寺前、筑波屋いう旅籠の二階で、惜しいことには一足ちがいで、あの晩そちらは、お粂と二挺駕で旅へ夜立ちと出かけたあと、入れちがいにあとの部屋で、ひょいと見つけたのがこのビードロです。
親身とみせたお粂の情けが、実はおそるべき魔薬の手管であったと、その証拠までを釘勘につきつけられて、金吾は慄然たるおののきに、そのビードロを手にとる勇気もありません。
しかもその女の策におちて、切るに切れない悪縁のちぎりまで結んでしまったとは。
なんたることだ!
身を責め、自己の
「釘勘!」
悲痛な一語。
いきなり
「万太郎様へこの通りと、よしなに、犬侍の終りを
あわやです、われとわが腹へその切ッ先を。
「あッ」
と驚いた釘勘。
前もってこんな事になろうかと油断はしていませんでしたが、さて実際にこうなってみると、かれもあわてて取っ組むように、金吾のうしろへかぶりついて、
「ばッ、ばかなまねをしなさんな。だからおら侍は
「放せッ、放してくれ釘勘」
「じょ、じょうだんいっちゃいけねえや。ここでおめえさんを殺すくらいなら、なアに、人間一生、どうころんだって五分と五分、お粂の
思わずはいる力が、金吾の腕くびの骨をにぎりくだきそうにして――
「え、相良様。あなたがここで御短気をなすったら、あと、万太郎様の御勘気はどうなりましょうか。出目洞白の
痛烈です、雄弁です。
町人の見解としても、そこに多少の真理はある。
ことに万太郎の境遇を考え、最初に自分が屋敷を出た目的を思い合せれば、かれのことばを待たずとも、金吾は、何としてもここで死なれた自分ではありません。
といって――
ああ、そうかといってまた、生きておめおめと万太郎の前へ、どうこの姿で会えるものか。
なるほどかれのいう通り、死は
「悪かった」
やがて、金吾はおとなしく、釘勘の前に両手をついて、
「不覚な上に不覚をかさねるところだった。よく申してくれた」
「えッ、じゃあ、あっしのいう事をきいて下さる?」
「うム、一途に死を急ごうとしたのは拙者の心得ちがい、金吾は死ぬまい。あくまで生き恥をさらすであろう」
「では、手前と一緒に、すぐここから江戸へ帰ってくれますか」
「だが待て……」と、かれは再び苦悶の色をあらわして、
「それだけは許せ! いかに
「いや、すいも甘いも知りぬいた若様、なんで野暮なとがめ立てをしますものか」
「なんというても今お目にかかるのは金吾の苦痛じゃ、ただよしなにお
「あッ、もし……」
釘勘はあわてながら、どこともなく立ち去ろうとする金吾の影を追って、
「もし、相良様――、もし、もう
湯前神社の
「強情な事をおッしゃらずに……もしッ相良様」
「何とあろうが、江戸表へは参れぬ、放せ、たもとを」
「万太郎様の仰せにそむいても?」
「ウウム、ゆるせ。しばらくの間、金吾はなきものと思うて見のがしてくれ」
「あとはどうなさろうとも、一度はお屋敷へ帰った上で」
「そちに会うさえ心苦しい今のわしが、万太郎様の前に、ただ今帰邸いたしましたと、どの面下げてお顔を合されようか。止めるなッ、この金吾をこれ以上苦しめてくれるな」
「といって、一体、どこへ行こうというつもりなんです」
「あてはない!」
――金吾は叫びました。
「ただ洞白の
止めようとする釘勘、ふり切ろうとする影が、なおもそこで、もつれ合っている時でした。
石段を馳け上がってきた伝吉が、
「――親方ッ、お粂が」
「えッ」
思わず手を放し合って、
「お粂が来た?」
「まだここを探し当てるには間がありましょうが、あとで宿の者に様子を聞いたらしく、眼色を変えて藤屋から出て来ましたぜ」
「それ、ごらんなせえ」
釘勘はいい
「じゃあ、伝吉」
「へい」
「てめえ気の毒だがもう一度戻って行って、本陣の四ツ辻あたりで、おれが金吾様をつれて裏通りから宿へ帰るまで、見張りをしてくれねえか。何しろ当座は、あいつにだれかの姿を見せるのは禁物だからな」
かれはもう自分ひとりで、金吾と万太郎の引合せ役、また帰参の取りなし役を背負ッて立った気で、いや応なく、江戸表へ同道するものと決め込んでいるらしい。
で、どこまでも、このまま
その伝吉が取って返して、本陣今井屋の四ツ辻の辺に姿をかくした頃――ちょうどその頃に丹頂のお粂は、ヒタ走りに浜の方へ馳け出して行ッて、
「どこへ? どこへ?」
あの切れの長い眼をつりあげ、あなたこなたをさまよっていました。
つづく限りの波うち際にも、磯松のほの暗い並木にも、金吾の影が見出せなかったので漁師町の細い露地から野原へ出て、夜も白い湯煙を噴いている
「逃げたんだね! あの人は」
そこで初めて、お粂はキッとくちびるをかみしめて、怨めしげな眼をうるませました。
逃げたとすれば、人をだまして、手引をしたのはたれだろうか?
おかしいと気がつき初めた時は、ふと、同じ二階に泊っている
「何しろ、こうしてはいられない」
金吾ひとりはお粂の生活全部であります。日本左衛門をすてて金吾にこれまで打ち込んだことは、かの女にとって、
はたから見れば妖婦の面白そうなからくりと見えても、あれ程の侍ひとりを、この熱海まで連れてくるまでには、お粂自身として生命がけといっても足らない、気苦労、細心、根気、情熱――そしてその男に毒を
不自然な技巧で遂げられた恋の結果は、当然、男の
「きっと、万太郎の廻し者が来て、連れ出したにちがいない。そうすると浜の方よりは、
もう
かかる場合の女の前にはどんな宗教も光がないといいます。ましてやお粂にはあの伝法と世間を怖がらない強さがある。
「ホ、ホ、ホ。わたしも丹頂のお粂、どんなことをしたッて、逃がしゃアしないから!」
たれにいうともなく罵ッて、根府川街道の方へ道をかえて走りだしてゆく。
そして次第に息ぎれが激しくなるにつれ、
と。――丑の
「オオ
不意に横からよぶ者があって、またすぐに違って次の声が、
「姐御のさがすものはここに居ますぜ」
と、手をあげました。
背筋へ水をかけられたように、お粂がキッとうしろを見ると、そこに四、五本の
かなり取りのぼせていたお粂の耳にもそれはハッとひびきました。江戸なら知らずこの熱海で自分を丹頂の姉御とよぶものは一体たれなのか?
「お久しゅうございました」
お粂があきれている前へぞろぞろと姿をならべたのは余人でもありません、四ツ目屋の新助、尺取の十太郎、雲霧の仁三、千束の稲吉など。
それら五、六人の者はみなお粂にも深い馴染がある日本左衛門一まきと称されるなかの
「あッ……」
それと知って驚いたお粂が、返辞もせずに逃げようとしましたが、もう間に合わないことでした。
「おッと、待ッたり」
油断のない目が前とうしろを取巻いて、
「ここで逃がしてたまるものか。さ、会わせてやる人があるから素直におれたちについて来るんだ」
と、にわかに言葉があらくなります。
なかで四ツ目屋の新助は、お粂のそばへズッと寄って来て、
「びッくりするこたあありませんよ、会いてえというのは親分です。だが、この湯町の近くじゃ人目につくからというんで、さる所にお待ちなすッていますから、まあ余り世話をやかさないで、黙ッて一緒に来ておくんなさい」
背なかを押して追い立てようとしますと、お粂は振り払って、
「いやだよッ、
「え」
「親分に会いたくもないし、それに、今夜はほかに忙しい用があるんだから」
「忙しい用が? へへへへ」と尺取の十太郎、
「まあそちらの方もお忙しゅうございましょうが、親分にしましても目をかけた女に寝返りを打たれたままで引ッ込んでいるわけにも行かねえし、こちとらにしたッて姐御と相良金吾の
「それでお前たちは熱海へ来たのかい?」
「お察しのとおりで」
「御苦労さま」
「まッたく御苦労さまですよ、姐御の浮気がたたッて、江戸から、ワザワザ追ッ手役に参ったわけです。元来、駆け落ちの追ッ手なんてものほど御苦労さまな役目はありゃあいたしません」
「ああ、じれッたい。わたしは今そんなくだらないことに暇をつぶしていられない場合なんだからね、どうか、ここで会わないことにして別れておくれな」
「じょうだんいッちゃ困る」
四ツ目屋の新助はくちびるで薄く笑って、お粂の背なかを小突きながら、
「さ、歩いてもらおう!」
ほかの者もそれにつづいて、
「姐御、話は親分と会ってからにして、とにかく先へ行ってもらおうじゃねえか」
「何をするのさ、おまえ達は」
「なにもこうもあるものか、さッ、あるけ、あるけ!」
と、あとのことばは耳にも入れず、いやといえば腕力でも引ッ立てずには
しかしお粂は動きません。今さら日本左衛門の所へ戻るくらいなら初めからかれを捨てて金吾という男はこしらえない。それに、こうしてぐずぐずしている間に姿をかくした男が刻々と遠く去ってしまう気がして
なみの女ならばおどしにも乗りましょうが、役者はお粂の方が一枚上ですから、なんといったところで決して動く
「生意気ッ」
と、業をにやしたのは短気者の雲霧で、
「面倒くせえじゃねえか。こんなやつは手ぬぐいをかませて引ッかついで行くにかぎるぜ」
目まぜをすると、お粂のうしろに立っていた千束の稲吉が、
「兄弟、手を貸してくれ」
と仕事は早い――いきなり手を廻して猿ぐつわをかけようとしましたが、いつのまにか抜いて持っていた
「畜生ッ」
ばらばらッと六、七間。
逃げ出す先へ廻って尺取の十太郎が手をひろげる。
雲霧が帯をつかんで引きもどす。
そこを新助が飛びついてウムをいわせず匕首をたたき取る。
――親分日本左衛門が寵愛していた女と思えばこそ多少の手加減もしておりましたが、こうなればイヤも応もいわせたものではありません。
いかにまたお粂が必死で反抗してみたにしろ、雲霧、四ツ目屋、尺取なんていう人間たちが、手をつないで取巻いてしまッては逃げられないのが当然で、逃げようとすればするほど
「それッ、早くしろ」
ねじ伏せたお粂の口を
「飛んだ世話をやかせやがる」
「ほい! 道が違うぞ、こッちだこッちだ」
「宿じゃあねえんですか」
「
と、辻を北へ曲がろうとした時に、何を見たのか、ひとり横ッ飛びに、
「野郎!」
と怒鳴って紙屋の辻の方へ駆け出したのは雲霧です。
見るとかれの真ッ先へ猫に追われた鼠のように駆け出してゆく男がある。それはさッきから辻の一方にジッとかくれていて、つぶさに事のなりゆきを
「わッ」
といって伝吉は、前の方へ身を泳がせ、
小気味よげに
「おや? ……」
ふと、辻の
「やッ?」
抱き起してみると伝吉です。
金吾もおどろいて共に手当を加えました。そしてやっと気のついた伝吉の口から、たッた今の出来ごとを詳しく聞いて釘勘はそれをむしろ好い都合と考えましたが、「ウーム……お粂が」
と、相良金吾はあらぬ方へ目をやって、何か目に見えぬものの力に引きずり込まれるように足を前へのり出しました。
ひょいと釘勘がうしろを見た時は、もうそこに金吾が居なかッたのです。
「しまッた!」
かれが
しかし。
相良金吾はあきらかに常人の常識とは反対な方角に向って、今、
その血相をごらんなさい常の金吾ではありません、常識の人でないことは、その眼気、その息づかい、その足どりの早さ、髪を乱してゆく風の間に見てもわかります。
恋は熱病といいますが、恋とはいえない不純の女の危難を聞いて、なんで金吾がかくまでにすごい勢いで駆けだすのでしょうか、これは
とにかく、この瞬間だけでは、深くかれの心理に立ち入ることができない。ただ不可解です、魔がさしたようです、しばらくはかれの行動を見ているほかにありますまい。
――見ていれば相良金吾はなおもそれから走りに走りつづけ、小田原の宿へつづく根府川七里の街道をさながら
はるか南に、走り湯
まばらな家数はみな寝しずまっていました。
そして漁船の柱にかけた網の目に、晩春にしてはめずらしく冴えた月が
ぽウッと白い煙がうすく濃く海風にあおられました――千鳥ヶ浜の波うち際に。
そこで火を
「寒い……」とつぶやきながら、
「潮風にあっちゃたまらねえ、肌着の
「何しろ、もうすこし焚きつけがなくッちゃあ困る。オ、そのうしろに舟板がある」
「こりゃ
「ふ……
「あまり
「あたりめえだ。人殺しをしていながら、板子一枚助けてみたところで、
「それでだんだん悪事に深入りするのだ」
「まあ、そうかも知れねえ」
「オオ、いい火になった」
「冬のようだな」
「もう
「そういえば、もう
「――と聞けば、やはりお江戸が恋しくなる」
「恋しいのはお粂じゃあねえか」
「ばかな!」
「あは、は、は、は、は」
と焚き火にてらされた赤い顔が大きな口を
その風采から眺めますと、平和な
余人でもありません。これは聖天の盗ッ
「なあ、金右衛門」
お粂の話が出た
「こんだあ飛んだ
「なにさ、どうせ当分は江戸から足を抜いているところ、かえっていい保養をしたというものだ」
「うまいことを言う……」
薄ら笑いをして
「だが、今夜なんざ、あまりいい保養にもなるめえが」
「このくらいな義理はしかたがない、友情というやつでな――。しかし日本左衛門、よけいな口を入れるようだが、まあ腹の立つところを抑えて、こんどは一つこらえてやるんだな」
「なにを」
「お粂の始末さ」
「…………」
「おめえの身になってみれば、
「……ありがとう、その忠言に礼だけは言っておく」
「いや、まったく」
「だが、この事だけは、黙ッて見ていてもらいたい。すこしおれにはおれの方寸がある」
「どうしても、おめえはお粂を許さないつもりか」
「これ以上大目に見ているなあ、許すという意味にはならない。ただ日本左衛門が女に甘いと見られるばかり。第一おれが忘れてやるにしても、手下のやつが歯を喰いしばるので捨てちゃあおけない」
「ならば、男の方さえたたッ斬ってしまえば、お粂も目をさましてわびを入れてくるだろう」
「いやいや、このいきさつの罪は明らかに金吾になくて、お粂にある」
「金吾はおめえと
――もうそれ以上は答えないで、日本左衛門はただ微苦笑をもらしておりましたが、
「それはそれ、これはこれ」
と、つぶやきながら板子の焚きつけを持って綺麗な火の子をほじり立てる。
その時、街道から磯へ降りてくる
なにか罵り合いながらやがてそこへ近づいて来たのは、お粂を
「親分、お待たせいたしました」
と注文の品物でも引っさげて来たように、彼の足もとへ、しどけない姿のお粂を突き出しました。
そして、口をそろえて、
「どうも親分、こんな
「そうか、ウム――」
と、日本左衛門は、自分の足元へ突き倒されてきた
「御苦労だった。こんなことで、てめえ達にまで世話をやかせたのはおれの落度、勘弁してくれ」
「どういたしまして」
愚痴をならべた連中がみな恐縮しながら、
「なにも親分、そう真面目になって、こちとらに勘弁してくれなんて、水くそうございます」
「でも、こんな女の後始末までに、子分の手を煩わすのは、いかにも親分甲斐のねえ話。――おれは面目ないと思う」
いつに似もやらず憂鬱な顔を伏せて、日本左衛門は波うち際の砂をふみつつ、
「アア子分はいいものだ……」
だれにいうともなくつぶやきました。
「――おれには親もなし女房と名のつく者もない、子を持つ親の味も知らなければ、女親の愛情も小さい時から覚えがない。だから、金や物に不自由を知らねえ日本左衛門も、人情のあたたかみには飢えていた。……お粂を世話していた気持も、実は色恋ばかりでもなく、こいつを娘とも
内面の怒りを理性で抑えつけようとして、行きつ戻りつしながら、波の間にこうつぶやいている親分の独り言に、あらくれた手下たちも、思わずシーンとして消えかけている焚き火の残り火に目を集めました。
それは日本左衛門のみでなく、心の
世の中の品物はみんなおれの物だと考えることも、盗人だけにはできます。
将軍家の秘庫の宝物たりといえどかれの手のとどかないものではありません。
また黄金をもって世の中に得られぬものも何一つとしてない。
しかし、ただ一つ、人の愛情をいかんせんです。世に人情を盗み出し得る
常に盗人の淋しいものは、その生業の性質から、その生活に愛情味のかけることでありましょう。
「……おれもばかな考えをしたものさ。それをお粂に買おうとして、忍川に家を持たせた。ところが、その家からも人情の芽は吹かない。――だが
お粂は突き倒されたなり砂浜の上へうッ伏し、泣きじゃくッている様子でありましたが、日本左衛門のことばを聞いて今さら悪かったと悔悟しているものやら、または金吾との仲を裂かれて口惜しいと思っているのか、泣いている時の女の本心ばかりは神にも人にもわかりません。
「親分、勝手を申すようですが」
そこの空気がどうにもならなくなったので、気転をきかした四ツ目屋の新助が、
「まだ
「ウム……そうだな」
と、日本左衛門が考えているうちに、先生金右衛門もそれがいいと立ち上がって、一同サクサクと根府川の方へ立ち去りました。
ザブン、ザ、ザ、ザ、ザ……とあとはひとしお静かな波の諧音。
お粂はいつまで顔をあげず、日本左衛門も
「お粂!
やがて、こう口を切った日本左衛門。
のッしりと、小舟の
「なぜ顔を上げない? なぜ早く両手をついて詫びないか。最前、おれの述懐も聞いていたろうに」
声のさび、
「てめえが金吾をかくまっていたことは、この春、おれもたしかに茶の間の
いう語調の少しもせかぬ如く、おッとりとした片足の
憎いやつ!
そう思って踏みつけるほど、そこに力がはいッているのではありませんが、理もあり情もある片足の下から、お粂はのがれることはなし得ませぬ。
「おれは甘い。いかにも、もろい人間だと、自分でも合点はしている。しかしおれがもろいのは人情を
――そりゃあ時と場合によりけりで、好きな男があるというなら、
相良金吾! おれを仇とねらッて屋敷を出ているやつ! おれの大望に邪魔だてをする万太郎や釘勘と同腹のやつ! そいつに
風のない月光の海――
珠を洗う波の音。
日本左衛門は、ふと、ことばを切って、あなたの街道を飛ぶ一点の灯に注意していました。
しかし、それは熱海を
「もうくどい事はいうまい。金吾と別れろ」
「…………」
「お粂ッ」
返辞がないのでやや鋭く、
「金吾と手を切って、おれや子分の目の届かねえ所まで落ちて行け。さすれば、てめえの命だけは助かるというもの、これがおれの最後の情けだぞ」
と、足を放して突きやりました。
そして自分は、先に小田原へ向った金右衛門や子分のあとを追うべく、砂地に捨ててあッた
「待ってください親分」
何と思ッてか、お粂も急に立ち上がって、その編笠をつかみながら、
「じゃ親分、あなたとは、今夜ではっきり別れましたね」
「よし! 金吾ともきッと切れたな」
「その御親切はわかりましたが、私も丹頂のお粂、卑怯な嘘はいいますまい。ここでおことわりしておきますが……親分え、お粂は死んでも相良さんとは切れない覚悟でございますから、それだけを承知していて下さいましね」
「なんだと」
かぶりかけた編笠が、ふたたびその手に戻りかける。
虫をこらえていた心へ、女が投げつけてきた捨鉢なことばに、
「お粂ッ、もう一度いってみろ」
むッと、日本左衛門の顔いろがうごきました。
この男の憎念を買ったが最後、それがどんなに恐ろしいものかということも、知りぬいているお粂ではありましたが、持前の気性がこじれて、その恐れ
「はい、どんな目にあおうとも、相良さんのことは思いきれない! 金吾さんとは手を切れないといッたんですよ!」
糸切歯に唇をゆがめて、二度まで、男の名をことばのうちに呼んだものです。
「こいつ、
と、日本左衛門は笑いかけましたが、それは火のつきそうな怒気を自嘲する身ぶるいにも似ておりました。
「おれの気持がわからないと見える。女子と小人は度しがたしというやつか」
「女の気持もべつですからね、御親切は身にしみますが、一方と手を切れなんて、情けの押し売りはやめてください」
「では、どうしても、金吾とは手を切らねえというのだな」
それには、
「ほんとに、ひどい目に会わせやがッたよ」
呟やいて、うしろ向きに、
「――じゃア親分、お
「待て待て、お粂、お粂」
「なんですか」
「待てッ!」
「親分とは、今夜ここで、きれいに別れる約束をしたはずでした」
「うーむ、ぬかしたな?」
「未練じゃありませんか、去った女に」
「ちイッ」
というと、かれの手にふるえていた編笠はポンとうしろへ――
「
という一喝――抜き打ちの
せつな!
ひ――ッ……という傷手をふくんだ声が千鳥ヶ浜をかすれて行きましたが、一瞬の剣風をかわして、お粂の影がまたドドドドと砂地の浜をこけつまろびつ、死に身になって逃げ廻るのが、黒く明るく、潮煙と月光のなかに見える。
白い
親分という
初めは、足にからまッた厄介な
千鳥ヶ浜の広さと、
が、しかし。
そうしたかれの白刃が、お粂の背後へ憎念の風を切ッて迫ッた時には、意外な危機が、女の身よりも、かえってかれのうしろへ急迫していたのです。
怖るべき殺気に吹かれて、
「あッ!」
と、日本左衛門が気がついたのも髪一筋の
「おのれ! 卑怯ッ」
という不意なかすれ声に、思わず
ダッ――と横に跳ね飛ぶと、砂地へ半身
その間を波の叫びが、
「おお! さ、相良さん――相良さん――」
お粂の狂気した声を交ぜて通りぬける。
と知るや日本左衛門は、伏せ身の青眼を少しもくずさず、そのまま体をヌーとのばして、
「ウウム、来たなッ金吾」
と、かえって心の落着きを取り戻していう。
はッはッ……という荒い息づかいが、かれの剣前に聞こえます。そして海をうしろにし、月に鬢の毛をそそけさせて、柄に手をかけている若者は、相良金吾でありました。
卑怯――と
ですが、日本左衛門の立場から見ると、ここに金吾の来たことは、決して、偶然ではありません。
ありうることです。
いや、こう来なくッちゃあならないところだ。
かれの考えからは、金吾の複雑な心理や悩ましさなどは毛頭察し得ない。
で、瞬間。
来たなッ――という気が真ッ先に起りました。深間になった女を
いかにも金吾の眼はおそろしい敵意に燃えている。
(おのれ、お粂をやッてなろうか)
とも見られる
鯉口に半身の力をこめているので、刀の
その猶予を与えまいとして、一方の
こいつは少し手間がかかる。
――と考えたのは日本左衛門の胸のうち。
金吾はまた金吾として、ここに立つ以上、充分なる覚悟と死に身の用意がなければならないはずです。かれには一度、真土の山の黒髪堂で、素早い
容易に切ッて放たない
「金吾、
と日本左衛門のことば。
タ、タ、タ、と寄りつめて来たかと思うと、
「オオ、ゆくぞッ」
空に白い剣の虹――
ひゅッと来れば受けきれますまい! あなやというまもありません――大上段から真ッ向です。
で金吾、なんでその
「むッ」
と、刀の
「あっッ――」
と、日本左衛門は思わずのけぞる。
誰がこの無法な剣を予期しましょう、いかに捨て身とはいえ、殆んど剣も生死も無視したやり方。
ですがこれを、片山安久の抜刀法なり一ノ宮流の
かれは初太刀で完全な居合の呼吸に成功した。
けれど、自身の剣を相手へ深く届かせたことは、同時に、相手のだんびらを自分の肩へ充分のぞませたことにもなる。
相討ち?
よれて合ッた二ツの影へ、ザアッ……と波しぶきが煙るのをすかして、お粂は意識なくその方へ駆け寄っています。
火の如き勢いが剣の機先を制して、金吾の第一刀はあざやかに、日本左衛門をして
「若蔵、味をやるな」
と、軽く
「――さ、出かけるぞッ」
と激越に立ち直り、
「無駄な
ジリジリと食い迫ッてきたなと思いますと、あわや、
「ム、無念ッ」
と歯がみをして、懸命、踏みこらえんとはしますものの、技量の相違はここに至って絶対的なものとなります。
ことに、血気一図な若さと場なれのした老練との差は、時ふるほど格段な差をあらわし、相良金吾たとえ意気はどれほど
おお、その顔は死相です。生ける色ではありません。日本左衛門が
が――
幽明を
バラバラッと日本左衛門の顔へ向って、突然、
「あッ……」
目つぶし!
砂!
お粂です。
横に廻った丹頂のお粂が、男の危機にわれを忘れて、つかんだ砂の目つぶしです。
消えなんとした
しかし、それで金吾が相手を逆地に
「やッ、親分じゃねえか」
と叫び合うや、ひとり残らず、舟の中からおどり上がッて、わッとここへ馳け出してくる様子。
それは今し方、一足先に小田原へ行くといって、日本左衛門と別れた四ツ目屋、雲霧、尺取、
どうして、その連中が、ここへ引ッ返して来たかというと、ここから遠からぬ根府川の関所――そこは女手形の関なので、
で、にわかにあとへ戻って、磯辺の舟を拾い、江の島方面まで海づたいに落ちのびようと相談はきまりましたが、日本左衛門がもしそれを知らず根府川へかかッては一大事と、二
それはいいが、早くも、関所の方でもまたそれを感づいて、海と
遠く聞こえる
いんいんたる太鼓の音も浜にひびいて聞こえてくる。
月明の海上にチラチラと
すでに月は箱根の二子山と駒ヶ岳の背に傾いている。時刻はあれからだいぶ過ぎて、もう夜明けにも程近い頃。
ひとり道なき山の沢を迷っているのは金吾の影でした。
いや金吾のみならず、あの関所の人数が暴風のように千鳥ヶ浜を襲った後は、みな
「残念至極……あの事さえなければ、たとえ刺しちがえるまでも、日本左衛門のやつを生かして置くのではなかったのに」
と、金吾は道に迷いつつ、道に迷っている当惑は念頭にありません。
体も綿のごとく疲労しているはずなのに、なお、時々、つぶやくことは、かれを打ち損じた無念。一太刀の怨みを
が反対に、相手の日本左衛門にいわせれば、もう一足捕手の殺到が遅かったなら、金吾の五体を
とまれ金吾は、今夜の機会を逃がしたにせよ、またいつか一度は、きッとこの報復を思い知らしてやるぞ――と迷える道を歩むのでした。
どこへ?
この迷える道をどこへ歩もうとするのか?
それは金吾にも分りません。
かれはただこれから先、どこまでも生きなければなりません。
そして、それまでは、尾州家へ帰ることもできないし、万太郎の前に姿を見せることもならない彼です。――この道をどこへ向ってゆく気かと問われれば、出目洞白の
すると……
どこからか自分を追い慕って来るような声が、
「相良さアん――相良さん――」
と、木魂にひびいて、沢の真下に聞こえて来ました。
耳のせいかと疑ぐりましたが、その声が、だんだん近くなって来たので、足を止めて山の中腹に待っていますと、すぐそこへ、髪を乱したままのお粂の影が見えたので、
「おッ! お前は」
と驚きながら、金吾は何思ったか、ことばもかけずバラバラと山の背へ馳け
「ひどい人!」
お粂は追いつくと共に、男の袖をつかんで、
「待ってくれたッていいじゃありませんか、いくら呼んでも、振り向きもしないで」
怨みがましくいって、波うつ息を
と――身をへだてて金吾は鋭く、
「何しに拙者を追って来たッ」
と、
「えッ? ……」
お粂はハタかれたように、目を見張りましたが、自分の聞き違いかと思い直して、
「一緒に逃げてくれるつもりなんでしょう。……だのに、ちッとも待ッてくれないでさ」
と、ようよう少し落着いて、髪や
「お粂、お前は何か考え違いをしていやしないか。――拙者はもうお前とは逢わないつもりだ。この先まで、一緒に逃げて行くなどという思案は毛頭ない」
「相良さん、それは本気でいっていることなんですか」
「元より本気じゃ、この場合のことばに、なんで嘘や
「それでは、何で私を助けるために命がけで、日本左衛門を追ッかけて来たんですえ? そんな、気の分らない話ッてないじゃありませんか」
「お前を助けるために? ……なるほど、お前から考えれば、そう思ったかも知れないが、拙者が日本左衛門を打とうとしたのはその意味ではない。かれは主家の
「えッ……じゃお前さんは、私のことなどはちッとも助ける気じゃなかったんですか」
「お粂ッ――貴様も拙者にとれば
「あッ……それでは、何もかも」
「知らいでどうしよう! 金吾は悪病と悪夢からさめている! 形の上ではそちにも長い世話になったが、礼をいう一言もない。――帰れ帰れ! 妖婦ッ、
と、かれは心の怨敵へ構えるものの如く、
気がついて見れば、いつかあなたに青々とした
タラン、タン、タン、タン
ドン、ドドン、ドン
ヒュウー、ヒャラリ……と横笛や
それが、
のぞいて見ると、色の黒い男どもが五、六人、そこに
「ほい、右足――」
「それ、打ちこむよ」
「廻って――」
「ドン、ドドン、とそこで
「すぐ笛につれて
と、しきりに笛に合せ
家のあたりをながめると、ここは武州阿佐ヶ谷村の百姓家、ただの
防風林の喬木はみな薄赤い木の芽をもって、その百姓家の仏壇がある奥の部屋まで、暗からぬ陽がさしています。
およそ、武蔵野原に土着の百姓家には、どこの
ところへ――
その悠長な音律を楽しんでいる防風林のなかへ、バラバラッと、眼色を変えた人間が八、九人馳けこんで、
「これ! ただ今この中へ、
という。
笛を持っていた男、
「へい、これはお役人様で」
と急に、ぞろぞろと
一人の同心と
「後刻また、こういう者が立ち廻って来るやも知れぬ。その時はすぐ役所向きへ訴人いたすように、万一、縁故者が
一枚の人相書を渡して、先を急ぐように、またバラバラと引ッ返して行く。
「おや、この人相書の男は、見たことがある」
あとで、百姓
「な、見たような男じゃないか」
「ほんとだ、これはよく似ている」
「だれに?」
「もとこの村にいたあの男さ」
「じゃあ村の者か」
「やはり、おれ達の、阿佐ヶ谷
「ああ、あのやくざ者か」
「ゲジゲジの伊兵衛に違いない。飛んでもないやつが立ち廻って来たもんだ」
「お役人様が触れを廻して来たところを見ると、あいつめ、諸所方々を食いつめて、また村へ舞い戻ってきたのかも知れないぞ」
「どうすべえ、やツが来たら」
「水をおンまけてやれ」
「止せ止せ、あとの
「訴人したらなお怨まれるだろう」
「どんな仕返しをするか知れたもンじゃない。まアまア、
「困ったなあ」
「何か来ないお
と、折角な稽古の興をさまして、なおも伊兵衛の悪口をたたいておりますと、向うの日当りのいい母屋の縁側で、
「オイオイここへ珍客様が訪ねて来ていらッしゃるのに、何をいつまで、飯粒を取ッつけ合った
と、ゲラゲラ笑い出した男がある。
「あれ?」
と、
それが今、人相書が廻ってきた本ものの道中師の伊兵衛でありました。
伊兵衛はニヤニヤ笑って、
「オイみんなの者、また厄介なやくざ者が村へ帰って来たから、何分よろしく頼むぜ。阿佐ヶ谷村なんて
と縁側いッぱいに足を投げだして、
「それともおめえ達、人相書にてらして、訴える気なら何も遠慮はいらねえぜ、おれはここで日向ぼッこをしているから、今出て行った
と、あきれている百姓
「いや、とんでもない事、たれが昔なじみのお前を、訴人してよいものか」
異口同音にいいわけをすると、伊兵衛はクスッと鼻で笑って、
「それでも、昔なじみと心得てくれるのか、やッぱり生れた村はいいものだな」
「四、五年姿を見せなかッたが、その永い間、一体どこを飛び歩いていなすッたの」
「べらぼうめ、道中師という
「へえ、のん気だの、相変らず」
「のん気というなあ、お
「じゃ、なぜこの村に、大人しくしていないのじゃ」
「性分だ。持ッて生れた根性を、おれにだッてどうにもなりゃしねえ」
「そうそうおめえを育てたお
「へえ、お常婆さんは死んだかい?」
「まだある、原の
「やれやれ、諸行無常ッてやつだね、南無阿弥陀仏」
「来たついでに、墓
「どうして、そんな暇はねえ体だ。ところで
「なに、今度はすこし、遠方から頼まれて、
「遠方へ? ふウむ……どこだえ行く先は」
「今度初めて行く所だが、なんでも、北多摩の
「狛家!」
というと、伊兵衛はツイと縁がわを離れ、不作法に合羽の裾をまくるなり、一同のいる
「その高麗村へ頼まれてゆくのか」
と、にわかに真剣な目いろになりました。
「何かしらないが、高麗村の御隠家様とかで、今度、
「ふウむ……そいつアいい所へ来合せたものだ、じゃあ頼むぜ、おれも一人」
「えっ? ……」
と、伊兵衛のことばの意味がくめないで、目をしばたたいておりますと、
「笛でもよし、舞でもよし、
ここにまた徳川万太郎は、
で、またぞろ、禁足を破ッて、根岸の屋敷を飛び出しました。
外の風に吹かれると、かれの本性は目をさましたようにピチピチして、
「ああ、
と、青空の下の自由をよろこび、心ゆくまで世間の空気を吸うもののように歩む。
「あぶない!」
いきなり鋭い声を浴びせられて、びッくりした万太郎が、はッと、うしろを見ると声の
一騎、神田橋から大手の方角へ――
つづいてまた二、三騎。
どれも、式服を着けた武家ばかり――そして江戸城の正門へ一散に。
「はて、なんだろう?」
彼は鎌倉
「何か、お城の内に変事があるな」
と思った直覚が、いつかしら
見ると、諸門は
ことに大手の
その騒ぎを横に見て、
「はて、ばからしい。将軍家が、
と、苦笑をもらして行き過ぎようとすると、
「下郎、邪魔だッ」
またもや、日比谷の方から砂を蹴立てて来た一列の騎馬に怒鳴られました。
下郎ということばにムッとしましたが、万太郎の方も充分に悪い。当然歩みよい柳並木の道端もあるのに、かれは大道の真ン中を、ふところ手で歩いていました。
しかし、尾張中将の七男である万太郎の大名気風が、道ばたをかがんで歩かない癖になっているのも自然で、それを知れば騎馬の先頭も、そんな
「待てッ」
いきなり、四、五人目の――その主人と見える立派な鞍へ飛びついて、
「聞き捨てにならぬ暴言、あれはその方の家臣であろう。待てッ、降りろ」
と、引きずり降ろさん血相です。
驚いたのは馬上の武家――
「あッ……」と、万太郎の力に引かれて、グルリと駒を廻しましたが、
「やあ、尾張の七男坊」
「なんじゃと」
「どうした!」
といわれて初めてその姿を見上げると、鞍上からなれなれしい笑顔を向けている者は、ちょうどかれと同年配ぐらいな若殿。
弓の稽古をしているところを急に飛んで来たものとみえ、手に
「やあ」
と、万太郎はてれました。
吉宗は如才なく、
「火急の場合とて、家来の暴言、悪く思うてくれ給うな」
「何か、御城内に?」
「オオ、御危篤」
「えッ、
「
「では、いよいよ将軍家
「不吉な!」
と、叱られて、万太郎もハッと口をつぐみましたが、
「では、急ぎな矢先、これでお別れといたそう」
「貴公は」
「……む、自分は今、根岸の方に」
「兄上の尾州殿のお姿も、ついその辺でお見かけいたしたが」
「や、兄貴が来る? それはいかん」
と、万太郎はすこし
「自分もきょうは急ぎの出先、これで御免を」
「オオ、こちらも火急なところ故、御免!」
「いずれ!」
「いずれ!」
と双方、端的な会話を投げ合って、吉宗が江戸城へ
ぷーんと、木の
ちょうど日ぐれ時、夕飯の
今、
「ゆるせ」
と、その奥へ通って行ったのは徳川万太郎。
あたりの客の膳を見廻して、
「あのようなものをくれい」
と、小女に注文する。
田楽屋へはいッて、あのようなものという注文は、かなり
酒、ひたしもの、吸い椀、田楽、それに、茶づけ茶碗まで付いて一人前、あのとおりなお
それは
「へえ……」
と、イヤに感心した声がする。
背なか合せの
「じゃあ、もうお
「……らしいネ、御様子が」
「だって、まだ御危篤ぐらいなところだッていう
「えらい人のおかくれになる時は、みんなそうさ。それから喪を発すという事になるんだ。きッと、
「と、また不景気だろうな」
「おれたちの稼業に、不景気があるもんか」
――ははア将軍家のおうわさだなと、万太郎は何か面白いような気持でそれを聞いている。
衝立の向うにいるのは三、四人の町人で、
「飲む時に稼業の話は止そうぜ、稼業の」
「ウ、つい口がすべッた。ま、一つ
「
「なんでも、後見の
「わかりもしねえ大奥の事を、あんまり見て来たようにいうない」
「いや、おれは、確かな筋から聞いているんだ」
「じゃ、こんどの将軍様が、水戸から出るか、紀州から出るか、尾張から出るか、てめえ知っているか」
「それがもめているんで、将軍様はとうに死んでいるんだが、その喪っていうやつを、世間へ触れることが出来ねえんだとよ」
「へえ」
「紀州から出すか、
「なるほど」
「水戸様は館林をかついでいるし、
「ありそうなこッた。だが、紀州から出るとすれば、たれだろうか」
「まず赤坂に屋敷のある吉宗公だろう」
「尾張とすると」
「万太郎様だね。年頃からいっても」
「万太郎?」
「ウム、尾張の徳川万太郎」
「聞いたようじゃねえか、万太郎ッて……」
「そういや、聞いている名だ」
「あっ……いけねえ。あいつが将軍家になぞ納まッたひにゃ、それこそ親分はじめ、おれたちの稼業が、上がッたりになってしまう」
最前から、噴き出しそうになる
ははあ、これはやはり日本左衛門の手下か、もぐりの
万太郎はそう察しました。
間もなく勘定を払って、彼等は、いい機嫌な足どりで「でんがく」の軒先を出て行く。
万太郎も、
口三味線に端唄かなんぞを合せて、千鳥足にもつれてゆく三人のうしろから、
「これ、ちょッと待て」
と不意に声をかけると、ギクとして振向いた六ツの目が、その姿を凝視するなり、
「わッ」
コマ鼠のようにキリキリ舞して、馬場の土手を飛び越えました。
二人はあざやかに逃げ去りましたが、最後のひとりは戸惑いして、土手の
「これッ、待てと申すに」
ずるずると引きずり降ろすと、あわれやこ
「は、は、は、は」と万太郎は笑って――「あわてるな、身は奉行所の役人ではない」
「へ、へい……」といったが、まだ不安そうに、
「どうか、ま、まッ平御勘弁を」
「何を勘介してくれというのか」
「何しろ、今日は半年ぶりに、伝馬牢から出たばかりなんで、へい、それで仲間のやつが、一杯祝ってくれた晩なんですから、どうか、お目こぼしを願います」
「ふウむ、では察しの通り、貴様は小泥棒だな」
「左様で」
「顔を見せろ」
「どうかお慈非に一つ……。まだ牢から押ッぽり出されて、家にも帰っておりません。それをまた、ここから逆戻りしましては、女房や子が嘆きます」
「まだわしを役人だと思ッているのか、そう拝むな、拙者は不浄役人や手先ではない」
「へ。では、お役人様じゃないので」
「ウム、少したずねたい事があって呼び止めたのだが」
「ヘ……ヘイ」
「貴様、日本左衛門の手下ではないか」
「よく御存じでいらッしゃいます。まッたく、そうなんで、ヘイ、嘘は申しません」
「なんという」
「へ?」
「そちの名はなんと申すのか」
「
「率八か」
「お人よしの率八というんで」
万太郎はつかんでいた
そして、つらつらこの小泥棒の顔を見るに、なるほど、愛嬌のある憎めない顔つきをしております。
お前の親分は今どこに居る?
その後夜光の短刀について仲間で何か手懸りを得てはいないか?
馬春堂の所在を知らないか?
道中師の伊兵衛は今どうしているか噂でも聞いていないか?
お
何か変ったことはないか何か――と、矢つぎ早にこんな事を万太郎が質問しだすと、それに向ってお人よしの率八は、いちいち神妙に首を振って、
「知りません。へい、知りませんです。へい、嘘は決して申しません」
張合いのないこと一通りでなく、憎めないことおびただしい。
これはいけない、
「何をきいても知らぬ存ぜぬで、こやつめ、さては白ばッくれておるのじゃな」
ホンの形ばかりに、
「あっ――」と、手ばかり振って、逃げ腰も立て得ない
「申せ!」
「で、でも。まッたく知らない事が多いんで……何しろ今年の正月早々、忍川の袋地で捕手にかかッたきり、
「しかし、ああして仲間とも会っておる以上、種々その後の話も聞いたに違いない」
「え……そ、そりゃ、何ですが、
「ウム、今たずねた事だけを、答えたら放してやる」
「親分は詮議がきびしいので、当分江戸へは帰らねえそうです」
「して、今は」
「伊豆へ行ッたという話ですが、変な所へ出かけたもんで、何しに行ったのか、あっしにも判断がつきません」
「伊豆へ……」と、万太郎は目を閉じて、
「夜光の短刀のことは?」
「まだ皆目、手懸りも足がかりもありゃしません。あ。それに、あの短刀は、伊兵衛も
「その伊兵衛めはどうしたろうか」
「どこか飛んで歩いているンでしょうな。何しろ、足の早い奴で」
「それきりか」
「へい」
「行け」
「ありがとう存じます。……あ旦那、それからお粂さんの事をお聞きになりましたが、あれは親分が可愛がっていたお
「もう用はない、行けと申すに!」
それは万太郎の知りたい事ながら、聞いて決して愉快ではありません。
率八はホウホウのていで、腰や懐をなでながら
「さようなら」
と、思い出したようにお辞儀をして、ひょこひょこ歩きかけました、
すると万太郎はまた、
「あ、これこれ、率八とやら」
呼び止めると、もう沢山な顔をしながら、
「ハイ」
と、情けない返辞をする。
「率八」
「ハ、ハイ」
「貴様は
「左様でございましょうか」
「なんで泥棒になった」
「わかりません」
「どうして日本左衛門の手下などになったかとたずねるのじゃ」
「いつか、お金を恵んでもらいました。それで、恩返しに、泥棒になったようなわけで」
「ふびんな奴じゃ……」
「ど、どういたしまして」
「改心して真人間になれ! よ! 貴様には女房や子もあると、最前申していたようだが」
「きッと、
「早く足を洗うがよい」
「食べることができますかしら」
「これをやる」
「え」
「これをやるから持ってゆけ」
「へ? ……」
「
と、万太郎の差し出した手のひらに、大判か小判か、四、五枚の山吹色がのせられているのを見て、率八は、ひょいと食指を動かしましたが、急に手を引ッ込めると、淋しいゲタゲタ笑いを作って、
「……な、な、なんて旦那、人をからかッた上に、バッサリと来るんでしょう」
「ばか」
遂に、癇癪を起した万太郎が、それをザラリンと投げてやりましたが、
その夜は赤い
なんとなく面白い。春や過ぎたりといえど湯上がりの寝心地、身は
夜更けまでどこかで聞こえる
ただ、物淋しいのは、将軍様
それについて、町ではヒソヒソと
――などと考えて、枕の上のかれの顔が、ひとりでニヤリと笑みくずれる。
いや待てよ。
あの野心
――ひょッとして、そういう事がないともいえない、なかなか可能性がある。子の心親知らずで、丁字風呂の赤い夜具にくるまっている
真ッ平、真ッ平、願わくばそんな風よ、向きをかえて、水戸へでも紀州へでも吹いて行け。
紀州はいいな。
そうだ紀州はいい。
今日途中で会った吉宗なら将軍様にもッてこいだ。素行はよいし、
それより何より本人に充分色気があるようだ。今日会った時馬上から、「やあ、尾張の七男坊」なんて来た調子は、すでに御臨終に駆けつけながら、あわよくばの気じゃあないか。
(だがと、待てよ……)万太郎の空想はそこで
――あの自分と同年ぐらいな、しかも、家柄も何もかも似ている吉宗が、一躍、八代将軍家となって、小マシャクレた朝令暮改なんかをやり出すと、この万太郎も少し癪にさわらないかしら。
将軍家にすわることなんかは願い下げにしたい自分なのだが、吉宗が大統をうけて天下にのぞむとなると、自分も少し、何か、して見せなければ男が立たない。
尾張の七男坊とは竹馬の友じゃに依ってなどと、
――こう考えているうちに、万太郎の仰ぎ見つめていた天井の木目が、満々たる大洋の水となってまいりました。そして漠々たる雲と海とのあなたに異国
と――その翌日。
かれは起きるが早いか、
いつか釘勘と共に
覚えのある
堂の横からのッそりと出て来て、
(何をする?)
といわんばかりに監視の目を光らした男どもは、銭瓶の穴の変事以来、申し合せて、この御堂番をしている土着の者でした。
やましい気持のない万太郎は、ズカズカと自分から歩み寄って、
「その方たちは土地の者と見えるが、ちょッと、この堂の内部を
「駄目でがす」
「なぜ」
「なぜでも開けるわけにはいきません。はい。この武蔵一円の石神の司祭者御隠家様のおゆるしがなければ」
「御隠家とはどこの者じゃ」
「
「ではたずねるが、その後この堂へたれか立入った者はないか」
「きのうもここへ、うさんくさい男が来て、あなた様と同じような事を尋ねて行きましたが、何しろここの銭瓶の穴へ落ちた男の体は、すぐ御隠家のお使いが高麗村へ連れて行ッてしまったので、その
「きのうも来た? ……?」
「はい」
「風采はどんな男じゃ」
「
「そして?」
「じゃあ高麗村に行ッて見ようかと、しばらくここで考えていましたが、そのうちに、通りかかッた捕手の衆を見ると、プイと、姿を消してしまったのでびッくりして、そのお手先に聞きますと、そいつは道中師の伊兵衛とかいッて、有名な悪党だそうでございます」
「ははあ……」と、万太郎はそこでわずかに
彼も、何か思い迷うらしい面持。
実はゆうべ、
そして、あの一帖の文に暗示されてある「夜光の短刀」を探し求めて、ひとつ、
紀州の吉宗が八代の将軍になって納まッている頃に、おれは
こんな大望がむらむらと起ったものですから、かれの夢が、ゆうべ、あの丁字風呂の部屋を
「いや。そうか」
というと、万太郎は忽然とそこを去りました。
そして、かれの足は御府外の方へ向く。
武蔵野原を北に歩んで尽くところ、北多摩の山の尾根と、
高麗の郷高麗村というのは、その峡谷の首村であり、御隠家様の屋敷がある所と、かれは今、堂番の男につぶさに聞いてまいりました。
途中、街道の古びた草紙屋で見つけて買い求めたのは、一冊の
のろのろと
けれど、
武蔵一円の石神の司祭者、高麗の御隠家様とは何者か知らぬが、銭瓶の穴から持去った洞白の
そして
「ああ、それにつけても、金吾が居たならば……」
と思う道の先へ、小さな蝶の群がうららかに飛び乱れて、そこに、人待ち顔な一挺の
はて?
「誰を待っているのであろうか」
懐中絵図を畳みこんで、万太郎は足を休める振りをしながら、しばらくそこに立ち止まり、その女駕の前を通り越してしまうのが惜しまれました。
「どうしたのだろう」
「ウム、もうお見えになりそうなもの」
「道を
「すると、こんな所に、ゆうゆうとお迎えの駕をすえて待っていたとて、いつまでおいでになる気遣いはない」
「そんなはずはあるまい。
「おかしいな」
「まあ、もう
そこに一挺の女乗物を置いて、人待ち顔に往来を眺めている郷士風の侍のささやきを聞くと、これはまごうかたなき
察するところ、永らく熱海へ行っていた月江が、次郎、おりんを連れて帰ることになり、その前ぶれの手紙を見て、ここまで折角迎えの乗物を用意して来たものが、何かの間違いで行きちがいとなって、
そういう内容は分りませんが、話のうちに、御隠家というのをチラと耳にとめたので、万太郎ツカツカとその前へ寄って来て、
「あいや、突然失礼ではあるが、少々ものをおたずね申したい」
と、こころもち笠を下げて、
「当所武蔵野の山尾根に、高麗村と申す部落がある由でござるが、絵図にも見当らず、詳しい方角も知らず、当惑いたしておるところ、お見うけすれば
「高麗村のだれをおたずねなさるのか」
「御隠家とか申す、
「ふむ……?」
と、一同は目と目を見合って、
「してまた、どういう御用向きで」
「先頃さる者が、目白の石神堂へ取落とした品、それを高麗村のお使いが持ち去ッたと聞いた故、取戻さんと存じました」
「その品物というのは」
「身にとって大切な、洞白の
「ははあ? ……」
そこでまた一同のひとみが、万太郎を何者かというらしく、期せずして、その風采と笠のうちを見廻しました。
「――もしや各は、
「左様、
「どうやら、そうではないかとお見受けいたした。ならばもっけの幸い、ぜひ御案内願いたい」
「しかし、御隠家様は、めッたな者にはお会いにならんが」
「会わんと拒んでも、ぜひ、会って話されば相成らぬ」
「どこの馬の骨か素性の知れぬものをウカウカ連れて行って、もし、御隠家様にお叱りをうけては吾々の
と、意地わるく横を向く。
導く親切気のないものへ、敢てこれ以上に求めるところはありません。
「左様か」
と、万太郎も少し片意地。
道ばたの草のように高麗村の者を見捨ててサッサと歩み出したのは、これも涼しいしかたです。
すると、あとに残った者達は、何か目まぜをしてヒソヒソとささやき合っておりましたが、不意に一人がバラバラと万太郎のあとを追いかけて来て、
「あいやお武家、高麗村へ御案内申すからしばらくお待ちなさい」
と、呼び止めます。
「あいや、そう参っては方角が違う――」
と、重ねて呼び止めた前の郷士、万太郎の
「先程申したのは戯れでござる、高麗村へおいでとあれば、どうせ吾々も帰り
「では、案内してやると仰っしゃるか」
「お易いこと、ちょうど乗物もあれにある、女用ではござるが……」
「いや、乗物まで頂戴しては恐れ入る」
「御遠慮には及ばん、どうぞあれへ」
「いや、かえってそれは」
と、固辞していると、あとの郷士達が、もう例の女駕をそこへ運んで来て、
「さあさあ、どうぞこれへ、御隠家様をお訪ねとあれば屋敷のお客も同様、遠慮なく御使用下されい。それに
と一同が余りすすめるので、
「ではおことばに甘えて」
「どうぞ」
「御免」
腰の
ぷーんと、えならぬ香気がする。駕の中に
いつか、自分の身は浮いています。駕の
と――その足取りもだんだんに早くなる。
駕が早くなるにつれて、ギッギときしむ音、タッタとそろう郷士たちの足音、一つの調子をもって来て、万太郎の体は浪に揺らるる小舟の中にあるような感じ。
それも、行く程に駆ける程に、
森を見ました、八幡の鳥居を見ました、
もう、この駕は、何里を駆けたでしょう。
いつか夕霞の薄い
あれから
としても、四、五里は一息に来たにちがいない。
途中、
乗物はまだギッギと飛んでいる。
もみにもまれて、万太郎もヘトヘトになって来た様子です。
どッぷりと厚ぼッたい夜がこめて来て、もう外には微光だも見えず、身は雲の中でも駆けているような
「おお、
遂に声をあげて呼びかけましたが、それも耳にははいらない風なので、
「あいや、しばらく」
と、中でガタガタたたき初める。
それも聞こえぬ様子です。
駕は
「あっ……これは乱暴な」
身を浮かせた万太郎は、
「駕の者、静かに!」
と、もう一度、怒鳴るが如く叫びました。
西へゆくのか、東へ向っているのか、もう方角も分らない。
「これは不都合千万」
気がついたものの万太郎、もうどうにもなりません。
「待てッ。これッ。降ろせ!」
と思うと――にわかに体も乗物も坂になって、ふらふらと高い所へ差し上げられたような心地がして、その途端に、ゲラゲラ、ワハハハ、一斉に嘲笑う声と共に、
「それッ、高麗村に案内してやる!」
とばかり、駕もろとも万太郎は、笹や
ややあって万太郎は、ハッと正気に
意識を得て、彼は初めて、自分が
そして、吾に回るや、
「ウーム、憎ッくい奴!」
と、
しかし、その駕があるため、あの高い所から転落しても、かすり傷一ツなかったのは一面の
駕は苦もなく破れました。
彼は脇差を以てメチャメチャに突き破り、
地上に星がまたたいている。水があるなと歩み寄って、小さい泉へ身をかがめ、口をつけて
ついでに、脇差の
と――その時、どこかでゆるい笛の音がする……笛につれて太鼓……太鼓につれて小鼓、
「や? ……」
仰げば、そこは盆のくぼのような低地、一面の灌木におおわれて、自分の
ザワザワとその茂りを分けて、上へ上がッて見ると、夜は深沈たる武蔵野の
見えました。
まさに、そこから二、三丁先の草原に。
火を焚いている一群の人影が黒く。
笛、太鼓、
そこで節面白く
「はてな?」
万太郎は早足になって、
「将軍家の逝去、ために、天下は、
と、好奇に駆られて、急ぎました。
近づいて、物蔭へ、ソッと身を伏せてうかがいますに、黒い人数は六、七人、枯木や枯草をパチパチ
「オイ、もう一つ稽古をつけてくれ」
と、中のひとりが立っています。
「何をやろうか」
「
「おっと、合点」
ことばと一緒に、また野趣のある諸の楽器が、一だん調子をそろえて
踊る、踊る、踊る。
その踊りと囃子を見ていますと、この人どもは心から、「あな面白や」と浮かれきって、ちょうど平安朝の頃の民が、自由民楽時代の土俗のように、世間かけかまいなく欲する遊戯に陶酔している風に思われる。
「うまい!」
と、囃子の者が、
踊っている男は図に乗って、
「どうだ、どうだ」
「やんや、やんや」
「うまかろうが」
「さすがに、ちっとも忘れていないな」
「根が器用な生れつきでござる」
「されば」
と、狂言ことばで、笛吹の男がすぐに
「根が器用でござれば、神楽ばかりでなく、盗人の方も、都で聞こえを取りました」
「やい!」
と、踊っていた男は、いきなり仮面を取って、
「お調子に乗って、つまらねえ冗談をいうのは止せッ」
と、ムキになって怒り出した様子。
やッと、――万太郎は仰天しました。
「オオ、貴様は道中師の伊兵衛! そこうごくなッ」
と、大声に、吾を忘れておどり立ちましたから、伊兵衛は元より阿佐ヶ谷
さて、話がかわります。
――例の馬春堂先生の身の上をちと伺いましょう。
その後、あの長い顔が、息災なりや否や。
四
そこに、
村の将軍様――というくらい。ふしぎな権力のある
そしてそこの、奥まった一室に、わが馬春堂先生は、長い
かれは今、自分が幸福に恵まれているのか不幸に呪われているのかも分っていません。これから先はなお分らない。そして現在の存在も一向ハッキリしていません。ただ、分っているのは、
(おれは、生きていることは生きてるんだろうな)
という事だけです。
そこで目をパチパチさせて、庭を見たり、窓から首をのばして見たり、天井を眺めたり、床の間の
すこぶる退屈の
逃げたいにも逃げられないこの
(いったい、おれを、どうしてくれるつもりなんだい!)
怒鳴ってみたくなりましたが、そんな勇気もありません。
そこで馬春堂は、この
「……もうこんなになったかなあ」
と、日数を先に勘定して、また書出しの方からボツボツ黙読しはじめましたが、
「ウーム……自分で読んでも、これはなかなか面白い、一つ、江戸へ帰る日があったら、これを版木にかけて、
こういう時に、助かるものは空想です。
「版にして出すとしたら、書名をなんと
――ところへ、
「お客人、さだめし御退屈なことでござろう」
馬春堂は起き上がって、あわてて行儀を直し、
「おや、もう
「山家のこと、いつも珍しい御馳走もございませんで」
「今、朝飯を頂戴したと思っていたら、もうお午、これで、またすぐに晩飯。イヤハヤ、食べてばかりいるようですテ」
「どうぞ、食べるのが仕事と思って、御遠慮なく、あれをくれ、これを食わせろと仰っしゃって下さい。さ、御一
と、杯をすすめ、銚子を取る。
「やあ、三度三度、こうして結構な美酒と御馳走、夢のように覚えますな」
「ちと、おぬるくはござらんか」
「イヤ、ちょうど頃合」
と、
「ウーム、実に
「酒はお好きとみえますな」
「至って好物」
「御隠家様のお心添えで、今日からは量を増しました故、この世の名残りにたっぷりとお過ごしあれ」
郷士の口裏に、ちょっと変な意味が挟まりましたが、酒の
「いや有難いおことば」
と、お目出度く額をたたいて、
「ならば
「どうか、お心おきなく」
「しかし……」と、ソロソロこの辺から
「まだお目にもかからんが、御隠家様の指図で、
「少しばかり心祝いのお印しに」
「ほほウ……およろこび事か」
「左様。永らくお留守であったお嬢様が、久しぶりで
「どちらへ行っておられたので」
「熱海へ御保養に」
「じゃあ、御病身とみえる」
「至って御丈夫に見えますが、どうも御当家のお
「ふうん……女が
と馬春堂は、いつかお酌を待たず手酌になって、ここでまたチビリ、チビリと杯を重ねてから、
「御当家の息女とあれば、さだめし美人でいらっしゃいましょうな」
「お美しいことも代々でござります。これで御病気の遺伝がなければ申し分はないが、世の中はままにならぬもので」
「しかし
「たいがい、二十四、五歳におなり遊ばすと、枯れるが如く亡くなられる。それが、系図を拝見しても、
「
「大して古いという程でもないが、今よりザッと一千年前の
「それは大変な旧家だ。江戸にしてもまだ家康公開府以来二百年とはならないのに、一千年も前から武蔵にお住居とは驚きましたな」
「ところで、当代の
「なるほど、それはお
「
「それに就いて、御隠家様には、まだ月江様がお小さいうちから、ほとんど十幾年の間、本草書類や伝家の古書を
「おお。では今日に至っては、その御心配もとれたわけか、やれやれそれで手前も安心したが、してそれに利く名薬は何でございますな?」
「あは、は、は、は」
と給仕の郷士が、急に腹を押えて笑いこけたものですから、馬春堂は
「何をお笑いなさる」
「イヤ、こっちの事で。まあもう一献どうでござる」
「わしは今、お嬢様の
「ああ、左様でございましたな」
「何ですか、それは?」
「その薬法でござるか」
「その薬は」
「……じゃあお話しいたすが、実はその薬になる物というのは、お手前の生き
「えっ……」
と息を止めた馬春堂の顔の長さは見ものです。
「おからかいなすッてはいかん。生き胆を取るなんて、冗談にも程がある」
「まあ、そうお怒りなさらないで」
「人を……人を馬鹿にしている」
「ご
「もう沢山ですわえ」
「御酩酊なされたか、じゃ、御飯をおつけ申そうか」
「飯も食いたくない」
「それは困る……折角今日まで美酒
「じゃあ……」と馬春堂の厚い唇がワナワナとふるえて、
「わしの生き胆が入用なために、ここへ捕えて置くというのはまったくなのか」
「今日までおかくし申していたが、貴殿はこれでちょうど四人目。御隠家様のお心として、いかに月江様のお
「? ……」
馬春堂は、なるほどとも申しません。
もう酒の気もどこへやら。
給仕の郷士は、あらかじめ覚悟をさせて置くように、人胆の由来と犠牲者に選まれた理由を述べ、因果をふくめるつもりでしょうが、馬春堂の身になってみれば、聞きたくもあり聞きたくもなしで、もう半ばは生ける心地もないでしょう。
「――そこであの
「あ……」
「つまり貴殿はその一人」
「ま、ま、待って下さい」
「もうここへ参った以上、泣いても喚いても無益でござる」
「……お助け下さい」
馬春堂は、にわかに立ったり、すわったりして嘆くが如く泣くが如く、わけの分らぬ事を叫んで、グルグル部屋の中を廻りはじめましたが、給仕の郷士ふたりは、素早く酒器や膳を下げて杉戸の口へ、例のとおりピンと錠をかけたきり、二度と姿を現しません。
馬春堂の桃源夢物語はさめました。もう日記どころではない、空想どころではない。頬杖ついて
何ぞ知らん、ここへ来てからの御馳走は、生き胆の精をつけるためであり、下へもおかぬもてなしは、
「もう
さんざんもがき疲れた末に、どっかりと腰を折って坐りこみましたが、ふしぎに涙も出てきません。
すると、たった一つの明り取りの窓から、ひょいと、見なれぬ者が眼だけ見せて、
「馬春堂」
と、小声で呼んでは首を引ッ込め、またしばらくすると、
「オイ、馬春堂」
と、首をのばしている。
明り取りの小さな窓から、馬春堂馬春堂と小声で呼ぶ者があるので、かれは飛びつくようにそこへ寄って、
「オオ、たれだ」と、人恋しげに
「しッ」
と手を振って、辺りを見廻しながら、
「おれだよ」
と、
「やッ、伊兵衛じゃないか」
「どうしたえ、先生」
「ウーム、来てくれたか。伊、伊兵衛、来てくれたのか……」
と馬春堂は茫然となった後に、地獄で仏、感
「どうもこうもない、一刻も早くこの死地を逃げ出さなければならないところだ。早く、おれをここから助け出す工夫をしてくれ」
と、拝まんばかりの哀訴です。
その
「あわてちゃいけねえ、おれがここへはいり込んだからには、
「有難う、有難う、じゃ
「何を言ってやがるんで、
「だが、どうして、おれがここに居るというのが分ったのだ。何だか夢みたいな気がしてしようがない」
「あの後の
「じゃ、今の話も聞いていたのか」
「声を出して笑えばバレるから、おら、この下で、腹を抑えて我慢していた」
「ええ、人の気も知らないで、何がおかしい事がある。出してくれ、後生だ」
「ところが、
「そんな
「なあに大丈夫、まだおれだって、十日や二十日は御滞在遊ばすつもりだ」
「よしてくれ、おれの方は、もう
「その時にゃ、またどうかならあな、いいかい、くれぐれも血迷って先へ
「おい伊兵衛、伊兵衛、待てよ伊兵衛……」
馬春堂はわれを忘れて、思わず泣き声を上げかけました。
しかし、一方はそれに耳も貸さないで、真っ赤に咲いた
一時は情けない気がして、かれは伊兵衛の不人情を恨みたくなりましたが、考えてみると、かれにも何かの都合があろうし、自分の無二の者が、ここへ化け込んでいるかと思うと、最前よりは遙かに心強いわけです。
それから
「お嬢様のお帰りじゃ」
と
藤棚の藤の花もゲッソリと散り細ッて、
「
と、その人をひきつける童顔に目じりを細めて、銀を植えたような
「左様でございます。何しろ、
久米之丞は
いかにも武蔵野育ちらしい野性と
年はまだ三十になるまいが、粗野な性格を無理に抑えて、もっともらしい会話をしながら、一言一句にも、
ことに。
月江や次郎が留守のうちは、一日置きに、この狛家を訪れて、御隠家様の千蛾老人の機嫌をとり結び、何かの相談にもあずかるので、自然今では、召使いをはじめ彼自身も、ここの家族同様な気持でいるらしい。
「ウウ……もう半年も会わんか」
「入湯の
と、
「久米之丞様は、相変らず人斬りがお好きかなどと、月江も、よくあちらからの手紙の端に書いて来おッた」
「やあ、それではいかにも
「それなのに、拙者は、月江様が入湯中も、一向ぶさたばかりしておりました故、今日はキッとお怨みをいわれるやも知れません」
「それはいかん、なぜ手紙をやらぬのじゃ。旅先では知人の手紙ほどうれしいものはない」
「気はついておりましたが、ちょうど、拙者と月江様とは人目うるさい年頃……もし御隠家様のお目でも忍ぶように噂されてはなるまいと思って」
「は、は、は、は、気の小さい奴じゃ。まだお前にも若者らしい正直さがあるのじゃな」
「まったく、この一本気の正直なために、よく友人などにも誤解をされましてな」
と、久米之丞は妙にソワソワしたり、またひとりで顔をどす赤くしたりして、
「御隠家、ちょッと、中座をいたします」
と、立ちかける。
「どこへ行く」
「とにかく、一応月江様に、御挨拶だけを済ましてまたここへ戻ってまいります」
「まア、よい」
と、老人は眉で抑えて、
「月江も今屋敷へ着いたばかり、疲れてもおろうし、支度もかえねばならぬ。――何かの事がすんだらここへ来るようにと申してあるから、お前が行かなくとも、やがて、ここへ見えるであろう」
「でも」
「まあ、そこに掛けていなさい」
「べつに御用事もないふうですから、とにかくちょッとあちらで」
「いや、用事がないどころじゃない。あればこそ、わざわざ人を遠ざけて、ここにお前を呼んだのだが……」
「はあ、何か?」
「ウム、これを読んでみい」
と、千蛾老人はふところから一冊の古びた
「先頃、かの
「ははあ? ……」
と、久米之丞は渋々ながら浮腰をおろして、初めはお役目に一、二枚拾い読みしておりましたが、いつか、その中の奇怪な文字の魅惑に、われを忘れて引きこまれてゆく顔つき。
それは洞白の
「ウウム……」と久米之丞、初めは渋々でしたが、深く読み入ると、いつまでも手から放そうともせず、
「御隠家様!」
と妙に力を入れ込んで、
「一体かようなものが、どうして世上にあるのか、これはどうも、実に不思議千万で」
「どうじゃ、お前も意外に驚いたであろう」
「これによって祭しますと、慶長以来より、御当家数代の方がかかッて尋ねている、
「わしも因縁の奇なるに一驚を
「仰せに相違ございませぬ」
「久米之丞、お前もせいぜい骨を折って、一日も早くあの短刀を尋ねてくれ」
「承知仕りました。だんだん捜査の端緒も見えております故、今に必ず尋ねだして御覧に入れます。……が、御隠家様」
と、久米之丞は抜かりのない目つきをして、ギシッと網代竹の卓を押して来ました。
「む……何じゃ」
と、千蛾は「ばてれん口書」をふところに入れて、
「……もし、何でございましょうか」
「もし、何じゃ?」
「その夜光の短刀を、拙者が尋ねてお手元へ差上げましたなら」
「ふム」
「つまり、由緒ある御当家には、御不幸にして、跡目をつぐ男子がございませぬ」
「何をいう。分らんの」
「いや、その……」と久米之丞は、ヘドモドしながら、ここ懸命になって、
「押しつけがましゅうござるが、拙者と月江殿をお
「お前が夜光の短刀を探して来たらというわけじゃな。つまりそれを功にして」
「はっ、御意で」
「月江がほしいか」
「面目次第もない儀でござるが」
「あ、は、は、は、は」と千蛾は笑って――
「何もそう面目ながることはない。わしの目を盗んですることなら許さんが、夜光の短刀と取換えの約定で、堂々と、月江の婿になりたいという申込み、イヤ面白い、いかにも約束いたしてやろう」
「えっ、ではおゆるし下さいますとか。それで一段と骨折り甲斐もあるというもの、有難くお礼申しあげます」
「これこれ久米之丞、その礼はまだ少し早かろう。わしの先代も、その先々代も、生涯かかッて尋ねながら遂に探し得なかった夜光の短刀。間に合うかな? 月江が若い間に」
「自信がございます」
「ほう……」
「慶長の昔、この武蔵野にさまようて来て、御当家にもしばらく
と、久米之丞がなお話に
ふと、ことばを切って、二人がそこの
「たれじゃ」
「猫ではございませぬか」
と見廻していた久米之丞は、突然、顔じゅうに笑みをくずして、
「やあ、お嬢様が」
と、落着かない挙動となる。
なるほど、それへ見えたのは次郎を連れた月江です。衣服を
「月江、おまえか。今そこの山吹のうしろで何かしていたのは」
と、顔を見るとすぐに、千蛾老人がこう尋ねましたので、月江も次郎も不意をうたれたように、
「いいえ」
と顔を見合せています。
「たれだろうか?」
月江でも次郎でもないとすると、そこの山吹の蔭で、今、二人の密話をぬすみ聞きして逃げた者がほかにあるに違いない。
「おかしいのう……」
と、
「さ、月江殿こちらへ」
と、自ら
「お
「おう」と、久し振りの孫娘へまなじりを細めて――「どうじゃッたな、熱海は」
「ほんとに面白うございました。
「そんな事をきくのではない、体の工合はどうか、入湯の
「――でもお祖父様、私は元より丈夫でございますもの」
と、顔に触った
「ホ、ホ、ホ、ホ」
背中へ手を突ッ込んで
「私は元からこの通りすこやかなのに、お
「ウム、ウム」と、千蛾は前言を取消して、うっかり口をすべらした病気のことを、かの女の気に病ませまいとして
「そうじゃ、そうじゃ。熱海へ行ったのは何も病気の為ではなかった」
「ええ、私は
「面白かったらそれでいい。イヤ結構結構」
「来年はお祖父様も、きっと一緒に参りましょうね。この武蔵野には海がありません、お祖父様は海を御覧になったことがありますか」
さっきから話の仲間に
「海はようございますな!」
と、
「武蔵野に
「あら」
と、初めてその人間に気がついたように、
「久米之丞様におすすめしているのではありませんよ」
「これはきつい御挨拶」
千蛾老人は突然上を向いて哄笑しました。
そこへ小間使いのおりんが馳けて来て、
「お嬢様、あちらの芝生へいらっしゃいませんか」
「
「ここに」
と、たもとの中に抱いている
「蹴鞠をなさるのでござるか、月江殿、月江殿」
と、それにつれて久米之丞も、あたふたと立ちかけますと、
「ああこれこれ」
と、千蛾老人はその出鼻を呼び止めて、
「お前にもう一つ厄介な頼みがある。そろそろ風が薄寒くなったから、奥の座敷へ来てくれんか」
「はっ」といったが、久米之丞はうらめしそうです。
「まだ何かほかに御用が?」
と、不承不承。
こう御隠家様の信用を取りすぎるのも好しあしだわい――と思いながら、月江の去ッた方をまだ眺めていますと、ポーンと快い音と一緒に、蹴上げられた
暮れのこる卯の花に、もうこの山里では
「えっ、
と、奥の一間からびッくりしたような人声。
そこに対座して夕刻から、何かヒソヒソと囁いていたのは千蛾と
淡墨の
「月江殿には不治の癆であると仰っしゃいますか」
久米之丞は、もう一度こういって、千蛾へ膝をつめ寄せている。
かれが、行末は自分の妻と、深く思いきめている月江の血のなかに、
だが、また。
そんな虚言を構えて、自分に断念させようとする千蛾の腹ではないかとも思って、少しひがみを持ちながら、
「仰せではござるが、あの健康そのものの月江殿が、癆なんて、そんな御病気であるはずはございますまい」
と開き直りました。
「ウム、まだその
と、老人は憂色を声にあらわして、
「ほっておけば、やがて、あの
と、いい切りました。
久米之丞は、こは
「な、なぜでござる」
「それが、癆の特徴じゃからしかたがない」
「しかし、まだ病気の兆候も見えないうちに、なんで月江殿の運命が、左様に呪われたものといい切れますものか」
「それは、
「はて、不審なおことば」
「お前は他家の者ゆえ、そこまで深刻に考えついておらぬかも知れないが、わしに取ってみれば、もうあの月江は一つぶ種、何よりそれが案じられておるのじゃ。……当家の系図が示すところによると、代々、不思議と女が
「血を吐いて?」
と、
千蛾はしんみりと語をついで、
「しかし、不治の
「なるほど」
「その為、あらゆる漢書和本をあさッて見たが、これはと思う物もなかった。で、一度は断念して、月江が美しく育つのをただ怖ろしく眺めていたが、そのうちに、わしの
「あのお話なら、この久米之丞も、前から御相談にあずかっておりました」
「ウム。だがお前はどうしてこの
「さあ、その辺はどうも……」
「今日はその由来を話そう」
と、老人は燭を
いつのまにか、不治の遺伝の話が、また夜光の短刀のことに変り出して来たので、久米之丞は、
「はあ」
と、答えましたが聞き骨の折れる顔をして、さっぱり気が乗らないふうです。
「ピオと申す異国人があった」
千蛾老人は目を閉じて語り初めます――
「慶長の当時、上方の戦乱や、異教迫害の火の手に追われて、この武蔵野へのがれて来たのじゃ。ピオは
「それが、夜光の短刀の持主でございましたな」
「そうじゃ」
「その時、彼がその短刀を持っていたのは、事実でございますか」
「わしが伝え聞いているところによると、ピオは、自分の命をとられるよりも、その短刀が人の手に渡ることを怖れて終生逃げ廻っていたらしい。だから、後世になればなる程、その
「それをまた、御当家の方が、幾代となく探しておいでになるには何かそこに、深い理由がございましょうな」
「ある! それはピオとの約束じゃ。――ピオは当家の祖先の者へ、ある年限を過ぎさえすれば、
「不覚でござるな。それくらいならば、夜光の短刀を御当家へ預けてゆくなり、また何か、かくし場所に目印をしておけば、こんな苦労もない訳でございます」
「それ程大切がっていた品ゆえ、生ける間は、手放すことが出来なかったのは異国人として無理の無い気持じゃろう。……ところが、まことに偶然なわけで、わしが月江の短命を苦にして、その薬法を究めるため、先頃、また気まぐれに書庫をかき廻していると、そのピオが当家に残して行った手廻りの品が見つかった」
「ははあ、ピオの
「中にピオが日本で
「な、なるほど!」
と、久米之丞は、ここで月江の病気と結びつく話の前提だったのかと、にわかに生き生きした調子でうなずきました。
「して、その薬法はどういう秘伝でございますか」
「人の
「胆血?」
「わかりよく申せば人間の生き
「ふム」
「――漢方の胆血に加うるに、余のもてる
「しかし御隠家様、鶏血草などと申す植物が、この日本にありましょうか」
「ある!」
「拙者は初めて耳にいたしますが」
「今もいったとおり、それにピオが、余の持てる鶏血草の――と書いている。してみればかれがその薬草の種を日本へ持って来たことは明らかなわけではないか」
「いかにもな!」
「のみならず、ピオは生前に当家の者へ、自分が終った所には、必ず鶏血草がさいているであろうと話していたそうじゃ。――察するところ、その鶏血草の花こそ、ピオの墓じゃ、夜光の短刀の
「ウーム、鶏血草の花……ピオの墓……夜光の短刀……癆の薬草」と、久米之丞が首をかしげてつぶやくのを、老人は軽く話を笑い納めて、
「そう複雑に考えるからいけない。お前が見事、夜光の短刀の
ふと、ふすまの向うでする
密談のあとで、何か耳打ちをしていた御隠家様と久米之丞が、あわてて身を離すと次の間の外で、
「お
と、開けないままの声がする。
「おう、月江じゃの」
「ハイ、まだお居間へ
「ウ。……ム、いやよろしい、おはいり」
「もうお話はおすみ遊ばしたのでしょうね」
最前からそこの話が、余り永々としめやかだったので、少しヒガんでいる様子です。
その時、御隠家自身が何となくハッとしたのは、月江が今の話をそばで聞いてしまったのではないかという疑念でした。
久米之丞の粗野な神経には、そんな心配もひびかぬらしく、月江と知るとにわかに陽気づくッて、
「水入らずのこの部屋に、なんの遠慮がいりましょうか、さ……」
と、自身立ってふすまを
「
「だってもうとッくに日が暮れておりますのよ」
「なるほど、いつのまにか燭台が来ている」
月江は、ツンツンとして坐りながら――
「久米之丞様」
「はっ」
「何をここでお
「その……やはりあなたのことで」
「
「
「そうそう」
と、
「いいつけて置いた酒の支度はどうしたものじゃ」
と、手をたたいてそれを
「オオ、
「はっ」
「あの奥に泊めてある阿佐ヶ谷村の
「春の
「
「では、早速」
と、久米之丞が呼びに立ちかけますと、月江はそれを
「お祖父さまは、こんど将軍様御他界で、
「いや、それは、こんな山奥にもお触れがあったよ。だから当家でも、折角催すつもりであった石神祭りの
「内輪だけのことなら、何も苦情はござるまい。それにこの山間の広いお屋敷、世間に聞こえるはずはなし」
と、久米之丞は独りぎめに立って、何かの指図を急ぎ初めました。
支度はやがて、べつな広間。
五、六十畳も敷かりましょうか、正面の九尺床には、偉なる
ならびました。人々、席順に。
まず、御隠家様の千蛾老人、無論正面をうしろにしまして。
そばには、月江。
左には関久米之丞。
以下は家の子たる高麗村郷士の者たちで、はるか末席の
すべてを入れて三、四十人、ここにズラリと居ならんだ有様、鎌倉山の星月夜とはまいりませんが、貧しい大名などは及びもない一家族で、それにこの
程なく。
それへ案内されて来る六、七人。
阿佐ヶ谷
そのおしまいにくッついて来たのは、まぎれもない道中師の伊兵衛。
どうも、白足袋の似合わないこと。
こいつ、豆しぼりの
「これ、神楽師どもにも杯をやらぬか」
と、御隠家様は目通りの一同を細目にながめて御機嫌ななめならず、
「膳部、膳部」
と、世話をやかれる。
「はい」
と、おりんが立って
「お酌いたします、お過ごしなさいませ」
と、武骨につき出す。
「へ……へい」
「
と、御隠家様のお声がかかる。
「無礼講だそうですよ」
と、次郎がことばの取次をしていう。
「では……」と、それから始まって、神楽師も飲む、郷士たちも飲む、久米之丞も飲む。
御隠家様の千蛾老も、今夜はだいぶ過ごされている様子。
「どうじゃ月江、
月江は何か浮かない顔色で、
「お
「何をいう」
「だって……」
「ばかな事を。お前のような、
陶然と、今度は、反対な方を向いて、
「久米之丞。酌」
と、杯を重ねます。
その
それをまた、強いて紛らわそうとするものの如く、千蛾老人は頻りと自分から賑やかになって、
「おお、それよ、阿佐ヶ谷村の者達。ただ騒然と飲んでおッても面白うない。何かさかなをせい」
「へい」
と、連中一度に返辞をして、
「なんぞ、御所望が?」
「いや、なんという事はないぞ、なんでもいい。こうした晩らしく、賑やかに、
「では御隠家様」
と神楽師のひとりが、うしろに引ッ込んでいる伊兵衛の顔を指さして、
「あれにおります男、至って、人相はよろしくありませんが、生来笛の名人でござります。御所望とあれば何がな一曲吹かせておやり下さいませ」
「ウム、笛をやるか」
「仲間でも吹ける男といえば、まず、あれにいる伊兵衛でござります」
「やい、やい」
と、道中師の伊兵衛、あわてて袖を引ッぱりながら、
「つまらねえ事を
というのを、千蛾老人、遙かに目に止めて、
「伊兵衛とやらいう笛吹きの名人、ちょうどここに、当家秘蔵の一
と、うしろの床の間から、
「ど、どう致しまして、仲間の奴らが、からかい半分に飛んでもねエほらを吹きゃアがって。イヤ
いかにも、
「はて、この男は?」
と、燭を透かして、酔眼にジッと見直しました。
一方。
そッと席を
その突き当りに、
この
例の馬春堂先生が、桃源の夢こまやかであッたり、地獄の
奥の酒宴を抜けて、かれがここへ来たのは、いうまでもなく千蛾老人の
しばらくそこで、密室のうちの気配に、耳をすましていた久米之丞、刀の
「ウム、寝ているな……」
ニッと、殺気のある笑みを流しますと、そこの錠口に手をかけました。
すると――
その時、遙かな母屋の方から、
いと面白き
低き時は水のせせらぎも
御隠家様を初め、一同の者に
伊兵衛は天生笛の名人であるとか。なるほどこれは本ものです。まことに奇妙な泥棒の隠し芸。
一座の者も、かれの本業を知らぬ故、それに酔わされておりましょうが、それを、泥棒の芸術と知って聞いたら、鬼気身にせまり、肌に
……今、馬春堂を殺そうとして密室の外へ忍び寄った久米之丞も、その妙音に酔わされて、うッかり、曲の終るまで聞きほれてしまいそうです。
「オオ、あの笛は?」
と、
「伊兵衛らしいが……」
と、不安そうな目をポカッとあいて、部屋のあたりを見廻している。
「なんていう呑気な奴だ、畜生、人の気も知らねえで」
と、やたらに腹が立つ。
泣きたい程、
一方は死の恐怖に襲われどおしで、寸間も安心していられないというのに、一方は笛や
昼には、月江が帰って来たのを見たし、今夜はいつもと違って、ばかに陽気な空気が馬春堂にも感じられていましたから、
「こいつは変だ、伊兵衛の助けに来るのを安閑と待ってなんかいると、飛んでもねえことになるかも知れない。ウッカリすると今夜あたり……」
馬春堂は跳ね起きました。
だが、これという計画的な考えもない。ただ、ジッとしていられない恐怖の本能が、彼をして、
そのうちに。
あなたの狛笛、曲や終りけん、ハタと止んで、こんどは能がかりの
「今夜だ、今夜だ」
馬春堂の意識にも、それだけのことは働いていました。
窓へ
――何ぞ知らん、すでにその時には、橋廊下の錠口が四、五寸
すウと、
真ッ暗な二重壁の廊下を、ミシ、ミシと手さぐりで進みながら、
「馬春堂殿、少々お話し申したいことがあるが、お目ざめでござるか」
と、声を作って、うかがいました。
「? ……」
どこかで鼠のようにガリガリ音をさせていた先生は、その声と、部屋の中へ流れ込んで来た夜風にギョッとしたものでしょう、しばらく返辞もありません。
明りがないので中は真ッ暗。
久米之丞もこれには少々
相手を怖るるのではないが、
「馬春堂殿、ちょッとこちらへ」
と、また呼んで、手元へ招き寄せようとする。
「? ……」
でも、先生は動かない。
どこにいるのかと思うと、袋戸棚の
果てしがないので久米之丞は、膝歩きにソロッと部屋の中へ進んで、相手の所在を見廻しましたが、まさか、戸棚の上とは気がつかない。
手さぐりで、机、床の間、ふとん、枕……。
と――そこが、
「やや?」
と、いった途端に、
戸棚の上の馬春堂先生、
(あッ……)
と、水を浴びたようにゾッとしましたが、からくも口を抑えて、その驚きだけはのみ殺しました。
そして、
けれども、それは真の覚悟ではなく、立とうとしても立てない形、腰が抜けてしまったのでしょう。
「はてな? はてな?」
下では久米之丞、夜具や辺りをなで廻して、
「逃げるはずはないのだが」
と、二、三度、大刀に素振りをくれて、暗の手ごたえを探ッている。
馬春堂は目前の
「おのれ、そこに居たか」
と、飛びついて来ました。
中では必死。
戸はガタガタと馬春堂の胴ぶるいを
充分、無駄な戸を抑えさせて置いて、久米之丞は大刀の切ッ先をそこへ向け、力いッぱい刺し入れて、ふすま
…………
能がかりの笛や太鼓、奥の夜宴は今たけなわの最中とみえます。
伊兵衛の
やんや、やんや、
かかる
そこの雰囲気はただ賑やかに。
――御隠家様でさえお舞いなされた。次にはぜひとも、月江様の
「一同がアア申すのじゃ、わしも見たい、立て、立て」
と、老人まで一緒になって、月江の舞をうながしましたが、いつもは、歌えといえばすぐ歌い、舞えといえば軽快に仕舞の扇をとることを惜しまない月江が、なぜか、
「いやです、私」
かぶりを振って浮かない色です。
その浮かないのが気になって、どうにかして月江を陽気にしてやろうと、心にもなく自身から舞って見せたり上機嫌を努めていた千蛾老人、
「なんじゃ、そちとしたことが。――おりん、仕舞の衣裳と
取上げずにいいつけましたが、
「おおそれ。いつぞや手に入れた
「なるほど、御趣向!」
と、郷士たちは、手を打って、
「あれをつけて、お美しい
「たれぞあの洞白の仮面を、奥の御神前から取出して来い」
と、月江がしきりと拒みぬくのを、そうして機嫌を直そうと御隠家様がいなやをいわせぬお声がかり。
「はっ」
と、郷士のひとりが立つ。
すると、それまで酒の酌ばかりしていて、足にしびれを切らしていた
「はい! 私がすぐに!」
人の先を越してバラバラと、
所々、ほの暗い
かねて、奥庭の石神堂の内部へ出るには、千蛾老人の部屋から三ツ目のお
やがて、ゆくこと遠からず、間道の突き当りに、七尺ばかりの自然石を畳み上げたところがある。
幾度か出入りしているので、
これ、狛家千余年来の守護神であり、また武蔵野に散在する幾多の小さき石神堂の総元の
しばらく、中のくらやみで、カサコソと音をさせていた次郎が、程なく、
「あった! あった!」
と、つぶやいて、何やら箱のような物を振って見ている。
「これだろうな? ……音がする、音がする」
でも、音だけでは不安になって、念のために箱の紐を解き、逆さにポンと板敷の上へふせると、
ザワザワと、その時、堂の横手で風らしくもない樹木の枝がゆすれました。
「おや?」
と、次郎が耳をたてると、
ガサ……ガサ……と横手の樹木をかき分けて来る者があるので、
「なんてえ奥
体の木の葉をハタきながら、抱えて来た包みをそこへ押ッぽり出し、
おや?
変な男が来やがった。
旅支度をしているじゃないか。せかせかと、妙にあたりをキョロつきながら。
それもいいが、勿体なくも石神様にお尻を向け、
「怪しいやつ」
次郎は目を丸くして、喜連格子の内からジッと息を殺していましたが、やがて、すっかり身づくろいして、キリッと裾を
「あっ……あん畜生」
と、二度ビックリです。
それは次郎より一足前に、酒席を抜け出していた道中師の伊兵衛で、ひそかに自分の手廻りをかきあつめ、ここで衣裳を
この
ここは、「
「あしたの朝になったら、さだめし
伊兵衛はおかしく思いながら、ふところにのんでいる
あぶなく、声を出しそうだったのは、中に忍んでいた次郎で――
「あらッ? ……」
と、驚きながら身をかがめ、白眼をジッとそこへ射向けていますと、外の伊兵衛は
鋭利な
なんの手間ひまもかかりはしません。
忽ちそこの用心を切り破って、ギイ……と開いて来た道中師の伊兵衛、すでに、その品物の位置までちゃんとのみ込んでいたものの如く、
「
と、
「あっッ」
と、さしもの伊兵衛が
途端に――
「泥棒ッ!」
と、
小童の鬼面におどされたとは知らず、伊兵衛もスッカリうろたえて、
「ちぇッ、何をしやがる」
振り払うや、無我夢中、
「どッこい!」
次郎もなみの小僧ではありません。
飛び降りる伊兵衛の
「小父さん、どこへ?」
目をふさいで、うしろへ引き倒そうとするのを、そのままなおも、伊兵衛が駆け出しましたから、身の軽い次郎の体は、彼の肩先へてんぐるまになッて取ッついて行く。
「ええ、この化け物め!」
身ぶるいをして叫んだ伊兵衛。
何か、不気味なものを振り捨てるように、堂の岡から平庭の方へ駆け出しながら、腰を落として肩越しに、デンと次郎を投げつける。
「あ痛ッ」
と、般若の泣き声。
次郎は
「
起き上がり小法師のようにピョンと立つ。
――いよいよ面食らッた道中師の伊兵衛は、それとは反対に植込みの中へ身をかくし、
「おお、伊兵衛助けてくれーッ」
と、突然、針の山から呼ぶような悲鳴。
ひょッと見ると、屋根の上、
その前に。
かの密室において関久米之丞が、戸棚のうちへ刀を逆しまにして突き込んだ時のせつな!
中で、ワッと
身代りになって、
途端のこと。
ドタドタッと天井裏の
さては! と久米之丞、荒々しく蒲団をつかみ出してその上へ飛び上がりました。見れば、頭の上の天井板が、やっと身をのがれる程
死にもの狂いの馬春堂は、ここから窮地を脱したものとみえます。
彼とて何の猶予がありましょう。
「うぬッ」
と、怒声を投げるや否、つづいて其処から屋根裏へ這い上がろうとしてソッと首をさし入れる。
ところを。
待ッてましたというように馬春堂の足が、力いッぱい、
「けッ!」
とばかり久米之丞の頭を蹴飛ばし、なおも
「おのれ、どうしてやろうか」
と、屋根裏を睨んでいるところへ、
「
「それ、橋廊下の向うへ」
「お出合いなさい、曲者だ! 曲者――ッ」
と、不意に、向うの長廊下を馳けめぐる物々しい人声。
久米之丞はあわてました。
おそろしく素早いやつ、さては、もう何処からか屋外へ逃げ出していたのかと
「伊兵衛ッ、助けてくれ――ッ」
と呼んだのはその時。
地獄で仏、吾を忘れて大地へ飛び降り、何を叫んだのか何を言われたのか、一切夢中で二人とも屋敷の外へ逃げ出しました。
かかる間に
「お出合いなさい、お出合いなさい!」
と告げて廻る。
すでに
あまたの郷士たちは、みな押ッ取り刀で八方へ馳け出し、あとの空虚には、燭も白け渡って、
一同が出払ったと見て、次郎もつづいて表門へ走り出して行く。
逃げた! 逃がすな! という声が入り乱れて聞こえる。今さらそこでそんな間の抜けた叫び声がするようでは、もう道中師の伊兵衛も馬春堂も、この峡谷を一散に、足の限り根かぎり逃げ出しているに違いありません。
「馬小屋ッ、馬小屋ッ」
たれともなくこう
チャリン、チャリン、チャリン、あわただしい
その間に、それを指図しそれを追わせる、御隠家様の
次郎も一匹の裸馬を引ッぱり出して、ヒラリと背なかへ取ッつきました。
この峡谷は前にも説いたように、
夜風に逢うと般若の
そこは
夏は
そこに一軒の鍛冶小屋があって、今夜も
それに若い時、
「ああ、やッと上がッた」
と、今まで根よく
「今日はすこし精が出過ぎたようだ。オイお常、そろそろ寝酒の御用意、おれはここを片づけ初めるから、奥へ支度をしてくんな」
と、しゃがれ声で女房へ怒鳴って、
その忙しさと物音にまぎれて、半五郎もお常も気がつきませんでしたが、女影の里の迷路をグルグル駆け廻って、ここへ馬蹄を飛ばして来た四、五騎の郷士、
「半五郎おるか!」
と、鍛冶小屋の前で手綱を投げるや否、馬の背から飛び下りて、ドヤドヤと土間の内へ
「あ――これは
と半五郎、あっけにとられながら、
「みな様おそろいで、しかも騎馬立ち、何か変った事でも起りましたんで?」
「ウム、実は御隠家様のお屋敷を騒がして、この方角へ逃げ出した奴があるのだが……」と、うす暗い仕事場を見廻してギョロギョロしていたのは、先に立って来た関久米之丞でありました。
「――一人は総髪、一人は合羽、遊び人ていの男と
「さアてね……」
と、半五郎は腰骨をたたきながら、
「ついぞそんな者は、この辺で見かけたこともなし、訪ねても来なかったようです」
「これ、隠すとそちの為にならんぞ」
「なんで、わしが」
「いや、わずかな慾に目がくらんで、かくまッてやるという事は、よく
「飛んでもないことを。御隠家様へはお出入りをしているし、うちの餓鬼の次郎までお嬢様のお世話になっているこの半五郎でがす。――そのお屋敷を騒がして逃げた悪い野郎を、かくまい立てなどしてよい訳のものじゃございませぬ」
「きッとだな!」
「まだ疑わしく思いなさるなら、家探しでも何でもしておくんなさいまし。なあお常、おめえも、そんな者は見かけやしまいが」
「ええ、易者だの
という夫婦のことばに、偽りがあろうとも思われませんし、そうとすれば、またほかを探す心も
「では、吾々のあとにでも、ひょッとしてそういう者が参ったら、ことば巧みに
といい残し、またワラワラと馬の背に飛びついて、迷路の
が、しかし久米之丞だけは、何と思ったか、馬に水を飼わせておいて、鍛冶小屋の横にただ一人、忍ぶように身を寄せている。
そして彼は、そこに絞り上げて干してあった
騎馬の郷士が立ち去った
「ああ
と、仕事を終えたあとの一服、うまそうに吸って
お常が寝酒の支度をしてくる。
早速それにかかって、チビリ、チビリと飲みながら、
「どうだい、奥のは?」
と、一眼をギョロリと、ふすま隣へ向けました。
「どうしたのか、よほど疲れているとみえて、正体なく、寝てばかりいるようだよ」
「そうだろう、おれが
「そんな調子で、何処からとなく歩いていたのかしら、着物の袖はほころびているし、
「いずれ、素性の悪いものじゃあるまい」
「だけれど、よくお前さんのような、すごい人相をしている年寄について来たもんだね」
「馬鹿アいえ、おれのような、親切なおじいさんがあるものか」
こう笑いながら半五郎は、お常に追い注ぎをさせて、杯を膳の隅へおき、
「――歩きながら話を聞いてみると、まんざら気狂いでもなさそうだ。
「だが、おやじさん。そしてあの女をどうする気?」
「どうするって、何が、どうだ?」
「まさか、その年で、浮気沙汰でもないだろうしさ」
「有難いな、おめえもその年で、すこし
「流行ッ子たあ、なんのことさ」
「――
「ごきげんだよ、いつになく」
「そりゃ、うれしい事のある時は、酒も素直にまわるというもんだ。おめえも喜びねえ、近いうちにゃ、チリン、チリン、チリン……悪かアねえな、うふ、ふ、ふ、ふ……」
「なんだい、その真似は」
「小判を勘定するところよ」
「夢でもみているんじゃないかいこの人は。おいておくれよ、ばかばかしい」
「何が夢だ、まア聞けよ。――中仙道でもあれくらいな玉のハマる宿場はたんとはないぞ。板橋や大宮じゃ、江戸に近すぎてあとくされが心配になる。まあ、軽井沢だな、軽井沢の遊女屋は草津へゆく江戸者がみんな財布を病気にするところだ。あそこの扇屋か二葉屋あたりなら、アノ上玉で百両や百五十両は右から左に出すだろう」
「じゃ、おやじさん、あの奥へ連れて来た娘をおまえ売り飛ばすつもりなんだね」
「でッけえ声をするなよ。でッけえ声を。――だから貧乏人の婆さんに、めッたに小判の話はできねえ。売り飛ばすというと、なんだかおれが悪党らしくなるが、親もない、家もない、行く先もないという女の身の落着きをつけてやるんだから、大した功徳というもんじゃねえか」
と、ひとりで理屈をつけましたが、吾ながら、少し声の
「だが、次郎には
声を落として杯を取りましたが、その時その途端に、仕事場の境をガラッと押し開けたものが、
「わッ!」
と夫婦をおどかして、
かっと
「小僧めッ。親をおどかすやつがあるか」
と半五郎が、むきになって怒鳴りつける。
次郎は手をたたいてうれしがりながら、
「お父ッさんは臆病だな。ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
と腹をかかえて笑いこけましたが、それも
「しようのない
半五郎は片目で親らしく睨みつけながら、
「この夜更けに何しに来たんだ、そんな物を
「悪いやつを追ッかけて来たんだよ。御隠家様のおいいつけで」
「てめえなんぞに捕まるものか。早く帰ってお嬢様のお気にいることでも考えていろ。あのお屋敷を追ん出されたって、もう家へは
「おいらも家になんか帰りたくねえや」
と、次郎は
「おッ
「いけないよ、今おまえは、
「お
「こいつめ」
半五郎もわが子には他愛がなく吹きだして、
「大きな
「駄目駄目」
と次郎はかぶりを振って、
「もう追ッつかない。逃げたやつは、何処へもぐり込んだのか、影も見つからないんだもの。――この広い武蔵野で二人ばかしの人間を探すのは、二匹の虫を探すようなもんだよ」
「それにしたッて、
「だッて、いつも、おいらが帰るといえば、泊ってゆけ、泊って行けと、おっ母もいうくせに」
「でも、今夜はいけないよ」
「なぜ?」
「お客様が居るんだから」
「え。お客様が泊っているのかい」
「だから、帰れよ」
「いいよ、おいら、くたびれたから、泊まるよ今夜」
女親のひざを枕に、両手をのばしてふんぞり返り、
「どうも、この小僧と来たひには、手におえねえな」
と野鍛冶の夫婦も仕方なく、次郎にうすい
そして人々の寝息が静かに夜の時刻をかぞえてゆく……。
時ならぬ頃にその家の外を、馬の
と――。
いわゆる、屋の
墨を塗ったような鍛冶小屋の戸が、内からスーと開いたかと思いますと、夜目にもあざやかな
ありあまる黒髪の乱れを白い指先でかき上げながら、そッと、あとの戸を閉めてよろめくように、野鍛冶の家の軒下を出る。
その手に――
そのときは、よいのうちの
夜が明けかけたような景色で、月のありかをたずねると、まだ真の
ふと。
そこに干し忘れてある
そして、両手を顔に当てたかと思うと、美しい
次郎の寝顔から
――やがてその怪奇な、そして美しい人影は、草と水と水蒸気とにぼかされた
女は何処へさして行く気でしょう。
右を見ても左をながめても、
――だのに。
この深夜、野鍛冶の家を出て来たのは、片目の半五郎のおそろしいささやきを聞き、親切ごかしのたくらみに気がついたものから、にわかに、虎口をのがれる気で、抜け出したものにちがいありますまい。
そして。
次郎の
いかにも、その
また、命知らずな野伏せりも
現に。
その晩、高麗村の
しかし、ひどい目に会ったとはいえ、それは勝手に先方が驚きあわてて、吾れがちに逃げ出して、小川へ落ち込んだり、いばらに引っかかれたりした臆病の罪で、女が何の危害を加えたわけでもありません。
同じように、
それとて、べつに女が不意に声をかけたわけでも何でもなく、彼女は真ッすぐに
が――
噂はすべて、ひろがるほど
「おらあ、てッきり、二子の池の
これは嘘です。
うわさが生んだ大げさというものです。
怪力乱神を語ることを好む人の通有性が、あざむく気もなくいい触らす誇張です。
とはいえ、その晩その女に出会ったものは、実際、このくらいに感じたことはほんとでしょう。伝説はそんなところから生まれてゆく。
さるにても、女は何処まで行くでしょう?
月も野末にかたむいてくる。
そして、暁の支度が、うッすらと白い霧が立ちこめて来ます。
「ああ……」
やがて――
裾は露に、袖は夜霧に、ビッショリとぬれ果てて、女もさすがに疲れぬいてしまったものでしょう、道ばたの丸い
眠る様子でもありません。
膝をかかえて夜の白むのを待とうとするふうでもない。
過去か、行末か、今の身の上にか、とにかくそうした思いに、深くなやみ沈んでいる様子。
思えば、世の
草がのび草が枯れ、いつも
遠い昔、
――また源平前期の頃おいには、村山党、畠山党、
江の島から藤沢の宿を
駕は、
「若い衆さん、お茶を飲んで行ッて下さい」
駕の者をねぎらッて、手代が
「九兵衛。突然におとずれて、家内を騒がせて気の毒だの」
「どういたしまして」
羽織を着かえて、店先へ迎えに出ていた亭主、
「今朝ほど江の島のお宿から、立ち寄ってつかわすという、有難いお手紙、大山街道から江戸表へお帰りでは、廻り道になるものを、わざわざお訪ね下さいまして、
「いや、家来どもをつれて、江の島詣での帰り
「まず、どうぞ、奥へお通りを」
「ゆるせ」
と、
そして店の者一同へ
九兵衛はあとに残って独り言のように、
「まったく珍しいお方がお見えになったものだ。これ、お前がたも
「旦那、ついぞお見かけしたことのないお武家様ですが、あれは一体、江戸のどなた様でございますか」
と、店の者たちも、九兵衛の出迎えの
「あれは、多分お前がたにも話したことがあると思うが、この
「ああ、あの
「いいや、あれは御用人。お若い方さ」
「たいそうキビキビしていらッしゃいますな」
「御番衆のなかでも一番の裕福だし、もう大殿様はお
「なるほど」
「それでアアして、お気軽に、湯場や江の島などを歩いていらッしゃるのだろうが、こんな
九兵衛は帳場格子をまたいで、忙しそうに
奥では、女中の声や
「……そうだな、江の島に永らく御滞留だったのだから、所詮、この辺の生魚などはお口に合うまい。……野菜がいいよ、新しいお野菜をな。……ウム、
そんなことをいいつけながら、書き終えた手紙を飛脚状にして、
「じゃ、奥の支度はすッかり済みましたね。そうしたら、お前たちも骨休みをして。いいかね。用があったら手をたたきますから、つまらない事でいちいちわしを呼びに来てはいけない。第一、お客様の御酒興を
着物の紙ぼこりをたたき、
人払いをしてあるので、中座敷から先はひッそりしています。そこの、ふすま際に膝をついた九兵衛は、
「ごめん下さいまし」
と、静かにおとずれて、
目で迎えた客の二人。
「九兵衛、ここは大丈夫らしいな」
「ええ、安心なもンです」
「じゃ、ひとつ、こうなろうじゃねエか」
と、膝をくずして
「ウム、気をゆるしてくれ」
と、九兵衛もあとをピンと閉めて、
「――だが、どうしたッていうんだい二人とも。まるで、化け物みたいに不意にやッて来て、
客も客なら、
奉公人を遠ざけて、そこの一間を閉めきると、動作、ことばづかい、最前の店先とは主客の様子がガラリと変っている。
「九兵衛、しばらくだったなあ」
と、肩で笑って、
「
盃をとり直して、こういった客なる者は、日本左衛門に
また。
この厚木に店を構え、煙草の荷元として、かなり手びろく商いをしている秦野屋九兵衛も、実は、前身でなく現在においても、
「そうか。じゃあ、江戸表は鬼門だし、東海道筋にも落着いてはいられまい。店の奉公人たちには、巧くいいくるめてあるから、その窮屈さえ忍べるならば、いつまでも、滞留していて貰いたい」
「で、おれ達は、どういう触れ込みになっているのかな?」
「番衆町の岩波様っていうことに話してあるんだから、万事、店の者にはそのつもりで、ソツのねえように、芝居気を持っていてもらわないと困る」
「は、は、は、は。飛んだものに出世したな」
と、金右衛門もくすぐッたそうな笑い方をする。
それから、四、五日経ちました。
今日は
店の隅では、たばこの葉を
ところへ。
渋色の
「ごめんなさい」
と、秦野屋の
「いいお
たれにいうでもなく世辞を撒いて、ジロジロと奥の方や店の棚をながめ廻している。
男が、首からはずした胴乱を見ると、箱の左右に「諸国
で――店の者には、小口の
「……ええと、龍王の
などと呟いて、店のはり札を読んでいましたが、やがて、
「――じゃあ番頭さん」
と、手代へ向って、
「細かくってすみませんが、
と、注文する。
「秦野の
「薩摩はどうも好き嫌いがあって売りにくい。じゃ、
「へい、有難うございます」
品をそろえ、
男は、首にかけていた財布の
「おや……旦那、こりゃあ少し
と、
「え?」
と、初めて、顔を上げた九兵衛。
見ると、渋色の巻頭巾に、たばこ売りとはうまく化けました。それは日本左衛門の手下、四ツ目屋の新助で、
「ネ、旦那。……ここは、それ、お間違いじゃござんせんか」
と、書付は店の者の手前、何か、意味ありそうな目まぜをする。
九兵衛がハッとして目をまどわせると、新助は小声になって、
「奥に居る親分へ、内密でこれを」
と、今の
「や、左様でございますか。勘定に間違いのない
さり気なく装いながら、九兵衛は、下の手紙を袂へ落とし、たばこの品書だけをひろげてパチパチやっておりましたが、
「お客様、勘定はこの通り合ッておりますが」
「へえ……あっ、なるほど、こいつは私の勘違いで、
「いえ、どういたしまして、またどうぞ
「はい、これからなるべく、こちらへ仕込みに参りますから、よろしく」
箱胴乱に仕入物を詰めこむと、それを肩にかけて四ツ目屋の新助、
と――それからまた二、三日経ってのこと。
同じような行商姿のたばこ売り、これまた
見るとそれは、やはり日本左衛門の手下のひとり、尺取の十太郎です。
それがまた、前に来た新助と同じように、店の者の目をぬすんで、そッと、一本の封書を
「ははあ」
と、九兵衛はやっと思い当ッて、
「おれの家の奥に、日本左衛門が潜伏しているので、手下の奴らは表向きに訪ねて来ることもならず、たばこ売りに化けて、つなぎを取っているのだ」
案の定。
それからも千
しかし、人出入りの多い秦野屋の店、わずかな品を仕込みにくる「目ざまし草」の行商も、この者達ばかりではありませんから、店の手代や
が、不審は九兵衛の胸にあって、どうも、こう頻繁に奥と世間でつなぎをとっているところを見ると、奥にいるあの二人は、ただ江戸から足を抜くばかりの目的ではなく、何かほかに仕事をもくろんでいるものに違いない。
こう考えて、九兵衛ある一日、
「兄貴、さだめし退屈だろうな」
それとなく、二人の腹をさぐりに、奥の座敷へ茶をのみに来ました。
何か、絵図面らしいものをひろげて、額を寄せていた日本左衛門と金右衛門は、九兵衛が
「いや、退屈どころじゃねえ。いろいろなやつが店へ出入りするので、おめえこそ、人知れない気苦労だろうが、まあ、もうしばらくゆるしてくれ」
「そんな事はどうでもいいが、兄貴、おれは少し気にくわない一件がある」
「なんだ?」
と、金右衛門は
「水くさいと思うのさ」
九兵衛はジロリと彼のうしろにある紙片を見ながら、
「こうして、二人の
「もっともだ」
日本左衛門はうなずいて、
「実はそれについちゃ、この間から、話した方がいいか、話さぬ方がおめえの為か、おれも、迷っていたところなのだが……、そういうならば
と、目くばせして、庭先や部屋の外に、立ち聞く人もあるやと注意ぶかく見廻しました。
この間うちから「目ざまし草」の箱胴乱をかけて、しきりと秦野屋に出入りし、折あるごとに九兵衛の手をへて、奥へ密書をもたらして来た者たちは、皆これ、日本左衛門のさしがねをうけて何物かを探しあるく、彼の
その探し物とは、無論、彼が一代の大望としている夜光の短刀。
江戸では、釘勘の
いや、
で、今。
日本左衛門は九兵衛のひがみが解けるように、その次第をつぶさに打明けて、
「金右衛門、それを見せてやってくれ」
と、少し席をひらく。
九兵衛が部屋へ
江戸及び江戸の御府外を中心として、関東一円にわたるふつうの絵図面に、今日までに探り得た
(江戸市西北の
それは、切支丹屋敷でかのヨハンがお蝶へ指さし教えた
御府外を西北に去る平野といえば、そこは草
南は多摩川を境とし、北は中仙道、西は
九兵衛はそれへかがみ込んで、
「ウーム……」
と、何かうめいている。
「この中だ」
日本左衛門はその点線を、
「図で見れば、一尺四方に足らないこれだけの中だが、さて、尋ねてみると、武蔵野の広さがわかる。ことに、その方角を知っているのは、おれ達ばかりではない、まず」
と、指を折って、
「お蝶が知ッている。道中師の伊兵衛がかぎつけている。――徳川万太郎はまだそこまで深く知らないが、あのお坊っちゃん
夜光刀の秘密をめぐる幾多の人間の影を数えて、日本左衛門は、そのまま黙ッてしまいました。
「兄貴」
九兵衛は膝をのり出して、
「よく打明けてくれた。ろくな役には立つまいが、この九兵衛にも手伝わせてくれねえか。何しろ話を聞いただけでもこいつあ面白そうな仕事だ」
日本左衛門はかぶりを振って、
「いや、おめえに乗ってもらうくらいなら、初めから何もかも打明ける。それを今日までつつんでいたのは、おれの老婆心、まア、止したがいいだろう」
「なぜ?」と九兵衛は
「おれなどは、邪魔にはなっても、役に立たねえという腹か」
「このまま、世間に前身を知られずに済めば、秦野屋九兵衛という堅気で無事に生涯の終れるおめえだ。それを、こんな話から引き込んで、首尾よく目が出てくれればいいが、まかり違ッて、おれたち同様、獄門台に目をつぶるようなことになッちゃ、どうも、おれの寝ざめがよくねえからな」
「なるほど、兄貴らしいその思いやりは有難いが、いくら上手に世間ていを作ッていても、おれの素性が、このまま世間に分らずに、生涯無事に通るなんていうはずはねえ。どうせ、末には、
店では夕方の取片づけにせわしく、一日の
「番頭どん、わしは奥のお客様を案内して、夕飯は河原の
いかにも商家の旦那らしい、地味な
「じゃ、頼みますよ」
たばこ入れを腰にはさみながら、外へ出る。
外へ出ると、土蔵わきの木戸口から、ちょうど庭づたいに出て来た日本左衛門と
「九兵衛、大儀だのう」
「どういたしまして」
「どこやら風に青葉のにおいがする。今頃の夕方はまた格別じゃ」
「折角、お
店の前を小戻りして、宿場はずれをブラブラ抜け、いつか
川のながめを裏にした井筒屋という茶屋、そこへ上がッて、二階の一間に席をとる。
それは秦野屋の奥で、日本左衛門が夜光の短刀のことを九兵衛に打明けた数日の後。
あの時、九兵衛、
盃の音もひそやかに、そこで酒を酌んでいること一
「もうぼつぼつ来そうなもんだが……」
と
すると。
やがて対岸の
それはこの仲間の
「兄貴、やっと人数がそろったから、出かけて来てくれといっているぜ」
「そうか、じゃあ渡ろうか」
九兵衛は変に思って、
「え、向う
「ウム、うまくいって、
「それや造作もねえが、一体、今夜何があるんだ」
「まあ、一緒に来て見ればわかる」
女中をよんで舟の支度を頼み、それへわざと酒さかなを運ばせて、茶屋へは酔後の遊船らしく見せかけ、九兵衛が竿を取って相模川を少し
と、――向う岸の火繩もそれに
「ここだ、
と、金右衛門と日本左衛門はヒラリと
九兵衛も鮎舟の綱を
そして三人が、千鳥のように川洲を飛んで、向うの岸へ駆け上がッた頃です。何ぞ知らん、
鮎舟の一隅に積みかさねてあった
秦野屋が土手へ上がッてみると、そこに待つ者がありました。最前から暗に火繩を振って、日本左衛門と金右衛門に合図を送っていた男。
「そろっているか」
「みんなお待ち申しております」
三人は黙って男のみちびく
そこは多分、社家の
ボッと薄赤い明り――その水車場の裏手でした。シンと鳴りをしずめていた人間の顔が、二十か三十か一斉に足音へ
「あ、親分」
どろどろと立ち乱れると、無言のうちに整然と、それへ来て腰かけた三名を
見ますと。
そこに集合していた人間は、一列一体に、渋色の巻頭巾、わらじ脚絆、「めざまし草」の箱胴乱をかけた姿で、みなこれ、同業同色のたばこ売りでありましたから、九兵衛もいささか驚いて、いつのまに、こんな出店がふえたろうかと呆れている。
「頭数は?」
と、やがて日本左衛門のことば。
「三十四人です」
答えた声は雲霧らしい。
「この中に、
日本左衛門は、少し不機嫌に、
「あいつが、水門
「へえ」
と、おそれいる後ろから、
「親分、率八の体のことは、御安心なすッて下さいまし。江戸に残っている仲間の者が、この間牢役人に手を廻して、うまくもらい出したそうでございます。――ただ今夜の
「そうか、それは好くやッてくれた。今日の
満足そうに
「時に」
と、重い語調で、一同へ向き直る。
改まって、何をいい出すのかと思っていると、日本左衛門、
「――この間うちから夜光の短刀の事について、皆が必死に働いてくれたおかげで、どうやら少し糸口がついて来た。まず今夜の用件を相談する前に、それから先に礼をいっておく」
両手を膝にし、
「ウーム」と、腕ぐみをして眺めていた秦野屋九兵衛は、日本左衛門が常にその手下を、
人を使うことで、思いあたる話は、
「ソレ兵法ノ
といったことば。
なるほど、自分から死を楽しんでバタバタ死にたくなるほど上手に人間を使いこなせば、これ以上の兵法はありますまい。軍学者とはまことに怖ろしい哲学を
士卒のなかに、
人あり、
「あなたの息子さんは仕合せ者じゃないか、呉起将軍が口をつけて
卒の母、泣きながら答えますには、
「昔、呉王もあれの父の
なおオイオイ泣いて止まなかッたという話であります。
秦野屋はいやに感服したふうですが、日本左衛門は元来侍あがり、
しかし、泥棒が兵法を応用するのは、さまで恐ろしいことでもないが、これを金満家が人を使って大きな仕事を成す上に使ったなら、それこそ、
余談はとにかく。
何の密議か、ここに暗夜の会合が、ひそかに首を寄せ合った時、河原の土手に駆け上がって来た
――遠目にも、すぐ相手に認められ易い自分の姿に、石尊詣りの男は、ふと、そこで思案に迷っているふう。
と。
男は、あたりの灌木の枝を手頃に折ッて、それを幾つも持ちました。
こうして身を屈して行けば、幾分か白い姿を紛らわしますから、
首尾よく、水車小屋の近くまで忍んで行くと、一枚の
ゴトン……ゴトン……と
「じゃ、釘勘はあれから、一たん江戸へ引返したのだな」
何かたずねる声は日本左衛門。
「それは確かです。充分突き止めてまいりました」
「そうか」
といって次のひとりへ、彼の質問が移ってゆく。
「尾州家のお坊っちゃんは?」
「…………」
返辞がない。
「だれだ、万太郎にかかッていた者は」
「あっしです」
「稲吉か」
「へえ」
「なぜ黙っている?」
「実は、今夜の
「お蝶は?」
言下に雲霧が答えました。
「あいつあ、
「馬春堂の様子を探りに行ったのもおめえだな」
「いえ、そりゃあ、
「十太郎か」
「へい」
「あいつは毒にも薬にもならねえが、どうしているこの頃は?」
「伊兵衛に助け出されて、
「そして」
「あとの事はまだ探りにかかりませんが、多分、中仙道筋へもぐり込んだものと観ております」
「じゃ、これで、あらかた目星はついて来たな」
「でも、まだ
「ウム、お粂か」と、彼の声がやや沈み入りましたが、
「あいつは、やがて自然にわかって来るだろう……じゃ、これでおよそ皆の話も聞き取ったから、そこで」
と、また深く考えて、不意に、
「雲霧、
といいました。
「籖?」
妙な顔をして訊くと、
「そうだ、これからの大役を、
「へ。何本?」
――指を折って、
「五ツ組、六本でいい」
雲霧が
「ところで、この
と、引かせる前に日本左衛門は、雲霧、四ツ目屋、尺取、千束、それと秦野屋九兵衛とを加えて、その五人にすべての手下を五ツ組に分ける。
そして、これからの行動は、すべてこの五ツ組に分れて目的を遂行すること。寄合の時、場所、その
「サ、たれからでも引くがいい」
金右衛門が
「ですが、これは一体、どういう訳の籖なんだか、そいつが分っていねえと、張合がありませんね」
と、たれかいう。
「じゃ、前に種を明かしておこうか、実はそれには、
「へえ……それで?」
「その名を引いた組の者の仕事は、その人間を殺すことだ」
「すると、一本よけいになりますが」
「残りは、親引き」
「なるほど」
「ですが、親分……」と、また四ツ目屋が疑いをはさんで、
「――その中にある、かんじんな、相良金吾だけは、まだどうしても
「ウム……金吾か」と、日本左衛門はニンマリと笑みをふくんで、
「泰野屋の奥に居ても、おれも、ただは遊んでいない。金吾の歩む足音は、この
「えっ、じゃ、親分はご存じですか」
「知らなくッて、どうする!」
「どこに居ますか、今、
「わからねえのか。……それ、てめえ達の居所から、ものの十尺と離れていない、ツイそこの水車の蔭に屈んでいるのが――」
金吾? 金吾ならばついそこの水車の蔭に居るではないか。
――何の前提なしに日本左衛門がこういったものですから、一同はギョッとしながら半信半疑に、
「えッ、金吾が?」
と、あたりを一斉に見廻して立ち迷いました。
が――その幾ツもの目が、水車小屋の蔭にハッとして動いた影を見つける前に、
そして、後ろを
「おそろしいやつだ」
ホッとして
金吾は今の一時ほど、日本左衛門という男のおそろしさを真に感じたことがない。
「どうして彼が自分の
と思えば思うほど不思議にたえません。そして、根府川の千鳥ヶ浜で、剣と剣とをもって生死の境に面接した時の彼よりも、遙かに脅迫的な日本左衛門のむッつりした
しかし、金吾が彼にもつ疑いと同じに、彼が日本左衛門の
丹頂のお
白い
それから彼の行動を
で――今夜、河原の井筒屋へ上がッたことも知っていたので、どうかして、近づこうと苦心しているうちに、二人が裏の河原へ降りて来たので、
一方。
水車場の裏では、金吾がそこに居ると聞いて、一時、ソレと総立ちになった様子でしたが、日本左衛門が、
「立つな。今夜は決して追ッちゃあならねえ」
という制止に、ようやく動揺をしずめて、元の冷静に返ったらしく、やがて、今後の役割を振分けるべく用意した「暗殺の
――夜光の短刀の捜索が、ようやく、その
そこで、彼の果断は残忍をいとわぬ事になって来ました。すなわち、自分を別にして、手下の者を五ツの組に分け、数えあげたその邪魔ものを、疾風迅雷に手分けをして刈り尽くそうという考え。
そこで、
雲霧の仁三の組…………徳川万太郎を暗殺する。
尺取の十太郎の組………目明しの釘勘を暗殺する。
千束の稲吉の組…………丹頂のお粂を暗殺する。
四ツ目屋の新助の組……道中師の伊兵衛と馬春堂の二人を暗殺する。
秦野屋九兵衛の組………相良金吾を暗殺する。
そして最後に親引きとして残った日本左衛門の暗殺の籤を引いて、
「さて、つぎの寄合は土用の
と、日本左衛門が一同の耳へもれなく届くように、こうくりかえして――
「いいか、日は土用の初めの
と言い渡すと、千束の稲吉が、
「親分、おたずねするまでもなく、あっし達が受け持った仕事も、それまでの間に、首尾よくやッてのけなければなりますまいが、万一の場合があって、もし土用の辰までに、目ざす
「いや、次の土用の寄合は、お互いの首尾や
「承知いたしました。じゃ親分、土用の辰に、
「ウム、それまでは、もう寄合うことはねえだろう、お互にこれから先は東西南北、どこへでも気ままに散らかッて行くがいい」
立ちかけましたが、日本左衛門は、ふと傍らの九兵衛を
「おお秦野屋、おめえにも
「元よりおれから望んで仲間にはいッたこと、なんで異存があるものか」
「おめえの受持ちは相良金吾、あの
「一番骨ッぽいのを引受けたのは、秦野屋として面目をほどこしたわけ、兄貴、どうか心配しねえでくれ」
「じゃあ、今夜の
と、
「オオ」
と、思わず一同が立ちすくみました。
それと共に、静かな夜気と相模川の水に反響して、カ――ン、カ――ン、カ――ンと、河向うの厚木の宿で、
風がある。西らしい。
土手に若葉をゆす
その炎の色を映して、
風向きのせいかパチパチと
「どこだ、どこだ火事は」
土手を駆けて行く人と人が、たれに聞くでもなく、これに答えるでもなく、
「
声を投げ合ッて走って行く。
岩井染之助一座。
なるほど、そんな
――と、四ツ目屋、雲霧、
「ウーム、この風じゃ……」
黙然と腕ぐみをして、炎をにらみながら呟やきました。
「秦野屋、どうやらあの火の手じゃ、おめえの店は
と、日本左衛門が側へ寄ってささやくと、九兵衛は結んでいた口をニヤリと
「――とすると、千両ばかり煙になる勘定だが、楽に積んだ
「あはははは。
と、日本左衛門も、これが堅気の秦野屋なら、慰めなければならないところを、かえって妙に
「――おい、盗ッ
おのれの身にもありそうな、この皮肉に自嘲をおぼえて、愉快そうに
火をもてあそぶ風は血を見た人間のように、いよいよ
宿場の火事は加速度に燃えひろがりました。
一度西から東へ転じていた風が、また
九兵衛は遠い炎に赤く照らされている顔を笑いくずして、
「こうなってみりゃ、
サバサバとした顔つきで、日本左衛門や他の者と、
「では親分、土用の
「いずれいい
「あっしもこれで」
「手前もここで」
雲霧の
その頃――
相良金吾は
たれを追いかけたわけでもない。ただ、向うへわたる渡船を求めるために。
自分がひそかに宿を取っていた、宿端れのわびしい
と、息をきって、渡船場へ駆けつけて来るなり、向うへ渡る舟はないかと見廻しますに、それどころではない、ここは瀬がいいので、対岸の火中から逃げのびて来る人々が、荷物や女子供を舟に託して、われ先にと混み合ってくる一筋路。
火の子に泣く幼い者の声、何か高声でわめく男、荷物を流して身を忘れる女など――金吾は思わず目を
どこの家族という見境なく、荷物や老人に手を貸して、夢中になって働き出している。
そのうちに、意気地のない悲鳴をあげて、二、三艘の小舟に乗って逃げて来た一組がありましたが、その
すると、今。
岸に着いてゴッタ返しながら、荷物をあばき合っていた河原者の舟で、
「あれッ、あれッ、どなた様か、そこへ流されてゆく者を助けて下さいませ」
と、
見ると、折わるく一番瀬の早い
岩井一座の小屋が火元だという土地のうわさが、初めからパッと広がっているので、自然と憎しみを持つものか、それとも自分達のことで他を
ひとり、駆け出したのは金吾です。
急流とはいえ、
「ああッ……」
と、水の中から、人魚の泣くような声。
かれが掴んだのは女の黒髪と
「しっかりいたせ! これ女中」
水を吐かせようとするのと、気を張らせようとする用意で、わざと
「おっ、
なんという不意でしょう。こう言った女の声です。
「えっ……」と金吾。
抱きかけた黒髪のベットリついた女の顔を、空明りによくよく見ると、それは思いがけないというよりは、彼にとって、むしろ
「あっ! ……」
と金吾が驚きを投げた途端に、そこでザッと水しぶきが上がりました。そして、彼の白い影が、逃ぐるが如く、
一度救われかけたお粂は、金吾に救いの手を放されて、また十数間水に押されてゆきましたが、幸い、浅瀬の
と、やがてのこと。
前の岩井染之助一座の者でしょう、人手をかりて駆け出して来たのが、提灯の明りを
「おお、あすこにだれか倒れている」
「あれだ、あれだ」
と呼び騒ぎながら、土手を降りて川床の草地へ集まって来る。
こういう場合に経験のつんでいる土地の船頭らしい男が、
「
生きるか死ぬかと、はたの者が心配している最中に、のん気なことをいいながら、みずおちを押して見て、
「大丈夫、大丈夫。ろくに水をのんでいねえから、気がつけば確かなものさ」
ゆうゆうと手当をしてくれるのが、かえって
ところが、一座の御難はこれに
「その
と、
見ると
「左様でございます。手前どもは
「その染之助はこれにおるか」
「へい」
と、うしろの方にふるえ上がっていた
「手前が
「
「ええ、その太夫元というのは名前だけで、一座と一緒に歩いているわけではございません。御覧の通りな、頭数の少ない一座、手前が名前人やら奥役やら
「しからば申し聞かすが、今夜、その方たちの小屋より失火を出しておりながら、お
と、
待ちかまえていた手先は、有無をいわさず、座頭の染之助、
その間に、ふと、ぬれ鼠になって倒れているお粂に目をつけた同心は、
「この女は何者じゃ」
と、染之助に問いつめて来ました。
「……ええ、そのお方は、一座の者ではございません故、どうかこの事にはお見逃しの程を」
「だまれ、何者かとたずねるのじゃ」
「江戸表におりました頃、
「それがどうして、その方たちの楽屋におるのか」
「ちょうど手前達が、三島の小屋を打っております時、突然たずねておいでになり、事情があってしばらく旅に居たい身の上だから、楽屋においてくれないかというお話、以前御贔屓になった御縁もあるので、何とはなしに、そのまま私達の仲間と一緒に、
「ふむ……しからば引ッ立ててまいっても仕方があるまい」
同心は目くばせして、
赤い空も、いつかどす黒く沈んでいました。
その翌日。
焼け出された岩井一座の小屋者は、衣裳つづらと一ツの籠を取り巻いて、旅回りの惨めさをかこちながら、八王子街道を落武者のように元気なく
今日もまた武蔵野の原をさまよう一ツの
「はてな……」
と。幾つもの
時折、笠のつばを上げて、四方の
編笠につつまれた顔をのぞくと、それは徳川万太郎でした。――かの不思議な
彼です。
彼はあの晩、阿佐ヶ谷神楽の連中が、
また、その連中のなかに、道中師の伊兵衛が交じッていたのも見ました。
ところが、いつもながら、例の
いきなり躍り出して、彼等の
(
と驚いて、かがりを踏み消して八方へ逃げ散り、伊兵衛も共に影をくらましましたから、万太郎はまた元の暗黒に一人取り残されて、夜もすがら迷うのほかなき結果を招いたのです。
そしてその後、数日の間。
彼は、見知らぬ百姓家に宿を借りて、その晩の疲労をいやしておりましたが、ようよう体の痛みも癒えたので、昨日から教えられた
ですが――自分ではその方角が誤らないつもりなのが、どうもだんだん妙な道に踏みこんで、少し頭も混迷してきた形です。
一方。
伊兵衛の方は、
気性が勝っているようでも、やはり若殿は若殿、日本左衛門がお坊っちゃん扱いをするが如く、どこか悠長なところがあるのでしょう。
「――どうしたのじゃ、この道は、昨日もたしかに歩いたように覚えられるが?」
二日も道に迷いながら、迫らず騒がず、まことに鷹揚なふところ手。
染屋の悪狐にでも
だが、いかに万太郎が
彼が、昨日も今日も、自分で怪しみながら同じ道に迷っているのは、この土地の地理にうとい必然な錯覚であります。ここを有名な
――それを知らずに、唯、錯覚の感じを頼りに歩いている
「おお、あれにあるのは
半五郎の鍛冶小屋です。
「留守か……」
がっかりして辺りを見廻していると、ちょうど鍛冶小屋の横手にあたって、たれか、
何の気もなく、万太郎は、静かにそこへ足を運んで行ったのです。
見ると、羽目板の
顔は見えないが
たれか近づいて来た
この辺では見かけない人品のいい侍が、ジッと
万太郎はそれへ立ち止まって、
「お前はこの鍛冶小屋の小僧か」
と、驚かぬように、やさしく声をかけて見ました。
暫くこッちを向きませんでしたが、やがて次郎、涙をかわかして、
「おいらかい?」
「うむ、少々道をたずねたいのだが……」
「ああ、道に迷った人か」
「
「高麗村へ行くの? おじさん」
「そうじゃ、そこの御隠家様と申す屋敷をたずねあぐんで、昨日からこの辺を迷うている。知っているなら教えてくれい」
次郎の眼は改めて、万太郎の
これは伊兵衛や馬春堂の
「その高麗村はネ」
と立って――あなたの連山を指さしながら、
「あの右に見える物見山と、左の奥に見える大丹波の間を、グングンと
「では、飛んでもない方角ちがいをしていたわけだな」
「ここは
「女影の迷路? ……話に聞いた女影の里というのはこの辺であったか。道理で……」と万太郎は笠をめぐらしながら、
「この先へまいって、もしまた、道に迷っては甚だ難儀に思うが、お前、わしの案内をしてその高麗村まで同道してくれぬか、駄賃は何程でもそちの欲しいほど遣わすが」
――と言うと、次郎の眼がまた急に曇って、
「おいらも高麗村へ帰りたいのは山々なんだけれど、わけがあって帰れない。おじさん、一人で行っておくんなさい」
「ほウ、では、お前は高麗村の者であるか」
「御隠家様のお屋敷に奉公していた、次郎という者だけれど、おじさんは?」
「わしか……」と、口をにごしながら万太郎は、これはいい者に出会ったと喜んで、
「わしは徳川万太郎という者だが、そちがあの屋敷の召使いとあらば、さだめし様子も知っておるであろう」
と、目白の石神堂から郷士たちの持ち去ッた
「ああ、おじさん、それじゃ高麗村へ行っても無駄足だよ」
と、両手を頬に当ててガックリとうなだれました。
次郎の答えに、何かつつまれている事情があるらしく思えたので、万太郎も少し色をなして、
「えっ、では
「この間までは、確かに御隠家のお屋敷にあったんだけれど、今では、どこへ行ったか分らない」
「嘘であろう、
「嘘じゃない……ほんとだ。……ほんとだからこそ、おいらはここで泣いている」
「洞白の
「ああ……おいらは狛家へ帰りたい。お嬢様のそばへ行きたい。だけれど、あの
次郎の答えは率直です。彼には邪心がありません。邪心のない者は人を疑わない。
殊に万太郎のたずね方がやさしいので、やや感傷的な気持でここに泣いていた次郎は、自分の
――自分や
また、その晩の騒動。
あれからのいきさつ。
調子に乗って石神堂から取出した
ちょうど同じその晩――
父の半五郎が連れて来て奥へ寝かしておいた素性の知れない女が、自分が顔に
半五郎は怒ッて、その翌日、早速女の行方をさがしに出かけたが、とうとう姿が見つからず、と言って、このまま捨てておくのも業腹だし、仕事も手につかないといって、二、三日前にまた家を飛び出したが、まだ帰って来ないところを見ると、やはり行方が知れないのかも知れません――と次郎はここで元気なく話を区切り、うつろな顔を上げて昼の雲を眺めました。
「それが確かに洞白の
万太郎は思わぬ者から、幾多の耳寄りな事実を聞き取って、暗夜の行路に一点の明りを見つけたような心地――
こう分ってみれば、もう高麗村の屋敷を訪れて行くのも無益となりました。
それ以上の急務は、怪しげなその女の髪かたちや特長を知ることですが、
「半五郎とやらに会って、なお
と、万太郎は
そのうちに、次郎の母が戻って来て、立派な侍が上がり込んでいるのに驚いた様子でしたが、訳を聞いて気を休めたらしく、野菜などを煮て夕飯のもてなしを急ぎ初める。
次郎は母親にいいつけられて、
「お武家さん」
窓の外から顔を出して――
「風呂がわいたよ。お湯におはいンなさい」
「それは
「ここへ
「大儀だのう」
「え、大儀ッて、おじさん、何のことだい?」
「はははは。貴様、なかなか面白い小僧じゃ」
帯を解いて、ふと見ますと、そこから出た方が近道という次郎の考え、片ちンばの下駄が窓の外にそろえてある。
窓から下駄をはいて裏へ出るということが、万太郎にはすこぶる愉快に感じられました。屋敷にいては想像もつかないこういう生活が、彼には事ごとに一つの興味となっている。
そこを
その風呂がまた彼には何ともいえない物です。破れた雨戸を横に立てて、その中に
どぶりと野風呂に身を沈めて、夕暮の空を仰ぐと、初めて、気のつかない雲の美しさを見出します。
「アア……よい気持だ」
尾張中将の若殿も、こういう幸福感にひたったことは、実際生まれて初めてのよろこび。
と――たれか、
「次郎や……」
と、呼んだ者がある。
「次郎や……、次郎は居ないの? ……」
風呂の
「あ……お嬢さん」
と、吾を忘れてキョロキョロと見廻しました。
声のみ聞こえて、風呂の中にいる万太郎に、その姿は分りませんが、双方から寄って行ったらしい二人の話し声が、恋仲のように
「まあ、次郎。おまえは一体どうしたの?」
「お嬢様、……すみません」
「男のくせに……
「いいえ、煙いんです、風呂の煙が」
「じゃ、顔をお見せ。……
「え。それはよく、分っています。だから私も毎日この
「じゃあ、なぜ高麗村へ帰って来ないの」
「…………」
「おまえは、もう奉公がいやになったのかえ? 私のそばに居るのがいやにおなりなのだろう」
「お嬢さん。次郎はお屋敷へ帰れないことをしてしまったんです。あの、石神堂に納めてあった
「ああ、それで」
「御隠家様の前に合せる顔がないんです」
「いいよ、いいよ。月江がお詫びをして上げるから」
「でも……」
「いいから私と一緒にお帰り」
「行かれません。次郎はどうしても、あの
「まあ、強情な次郎だこと」
果てしのない押問答。
いつまでも黙って聞いていると、湯気に上がッてしまいそうなので、万太郎が風呂から立ちますと、その音にハッとしたのか、二人はあわてて鍛冶小屋の横へ話を持って行きました。
「あれが
万太郎は戸板の隙間からチラと見えた姿にうなずいて、湯を上がりながら、洞白の
で、急いで衣服を着け、ふたたび前の窓口から外へ
見ると
「やっ、お嬢様ここにおいででございましたか」
「
「ひどいお方じゃ。染屋の観音へお
無理やりに、月江を自分の乗って来た馬上に押し上げ、自身は馬の口輪を取って、
「どうッ、どう!」
薄暮の野路をさして急ぎ出します。
次郎はションボリと取り残されて、馬の背に吹かれてゆく月江の黒髪を、
月江も馬上から
すると――その馬と人とが、入間川の水辺を
「お客様、お腹がおすきなさいましたろう、さ、御飯をやっておくんなさい」
半五郎の女房のお常が、奥へ
「次郎かあ?」
「おい」
「
「おっ
「
「ああ、油がねえよ」
「油壺はうしろの棚に乗っている。早く明りをとぼして、お客様にお給仕でもして上げな」
万太郎は膳を構えてキチンと四角に坐っておりました。
お常が煮出した茶を
客が
「なあ、おっ母あ。
「五日や六日帰らないことは、いつでもよくあることなんだよ。お前は家に居なかったから知らないだろうけれど」
「今ね、そこを町屋の
「死んで通ったッて
「ううん。戸板に乗せられて」
「へえ」
「どうしたんだい、といって聞いたら、一ツ石の辺で、女の通り魔に殺されたんだとさ」
「女の魔もの?」
「この頃、
「知らないね」
「
「……そら、お客様が御飯じゃないか」
「おい」
と、両手を出すと、万太郎は首を振って、
「茶をくれい」
「お客さん、もうお
「うム、たいそう馳走になった」
「遠慮をしない方がいいぜ、
「もう沢山じゃ。……ところで今の話だが、それは近頃の事か、それとも、前から左様なうわさがあるのか」
「いいえ、ついこの頃の噂なんです」
「して、その通り魔というのは、どんな姿をしているのじゃ」
「さあ? ……」と次郎は小首をひねッて、
「だれもそれを、側でよく見た者はねえし、おらも出会ったことがない」
万太郎が何か考えこんでいると、次郎は母親と辺りを片づけながら、まだしきりと、帰らぬ父の身を心配している。
あの心のねじけた片目の半五郎でも、次郎にとれば、またなき父親と恋われるのでしょう。町屋の
「おっ母あ、おいら、行ッて見て来ようかなあ」
「何処へ?」
「何処ッて分らねえけれど、
「ばかなことおいい」
「なぜよ」
「夜じゃあないか」
「でも、なんだかおらあ、胸騒ぎがしてならねえ。
「お寝よ。そんなことをいっていないで」
「寝られないんだよ、おっ母あ」
「じゃ、お客さんとこへ行って、話の相手にでもなっているがいいじゃねえか」
「あのお客さんは、黙っている人だ」
「立派な方だね」
「この頃は妙にこの
――次郎は何げなく呟いたのでしたが、彼のことばは、夕方から妙に神経の
なぜかといえば。
その時
ひとりの男の目まぜに働く四、五人の
万太郎は眠りについている。
疲れた手足をぐッたりとのばして、枕に目をふさぎましたが、次郎の話した奇怪な
武蔵野のあちこちに出没して、
この鍛冶小屋に泊って
「ことによると、その通り魔というのがその女ではないか?」
暫くムズムズとしているうちに、洞白の仮面を取り返さねばならぬと思う一心と、その怪異な風説の正体をつかもうとする猟奇心が時刻を忘れて、
「そうだ!」
と、思わず彼をしてガバと
しかし、今夜はいたく疲れています。
終日道を迷い歩いた足のくたびれや何かを顧みると、さすがの彼もまた少し二の足をふむ。
そして、思い直したらしく、
「この間からの風説といえば、何もにわかに、今夜と限ッたことはあるまい」
と、ふたたび枕を引き寄せましたが、今度こそ雑念を払って寝入ろうとするものの如く、夜具を
すると、ちょうど手をついた床の辺りから、何か目に痛いような光がサッと瞳の中へ飛び込んで来たので、
「あっ」
と立ち上がッた途端に、どうでしょう、まぎれもない大刀の
まさに鋭い刃先が四、五寸、おびやかすように、ズバと目の前に突き出ているのです。と――見つめている間もなく、その冷刀の先が、ギラギラと畳の目へ消え込んでしまう。
万太郎は
次に、彼はまた、ガラリッと窓の破れ戸を押し開けました。
サッとはいる風と共に、流れ星が吹き込んで来そうな晩――
じッと耳を澄ますと、何処かをシトシトと歩く人の
この夜、鍛冶小屋のまわりや床下に、しきりと怪しい物音と気配があったのを、万太郎もうつらうつらと知りつつはありましたが、昼の疲れがいつかしら彼を放胆な眠りに導いて行きました。
あるいは、その疲れが倖せであったかもしれない。
もし、畳の目から顔を出した刀におびやかされて、あわてて外へでも飛び出したものなら最後、そこらの
だのに、怖いもの知らずの若殿は、そういう異変の予報をうけた翌日、しかも逢う魔が時という夕暮をことさらに選んで、
「べつに用もないのじゃが、退屈しのぎに、ちょッと染屋の観音まで歩いて行ってみる。帰りは遅くなるかも知れぬし、あしたの朝になるかもわからぬが、心配しないでくれるように」
こういって、鍛冶小屋を出たものです。
そして
「お武家さーん。お武家さアーン」
と、うしろから宙を飛んで来るものがある。
たれかと思うと高麗村の次郎で、
「おじさん、おいらも一緒に行こう」
その杖の先ッぽが、キラキラ光るふうなので、よく見ますと、鍛冶小屋の隅から持ち出してでも来たか、野獣を追う時に農家の者がよく使う、
次郎の次郎たる値打ちをまだ深く知っていない万太郎は、彼が物騒な野槍などを引ッさげて
「あ、これ。そちは何処へ行こうとするのか」
わざと訊ねますと、次郎は、
「何処へでも、おじさんの行くところへ」
と、
「染屋の道は聞いてまいったから、もう迷うようなことはない。帰ってくれ、帰ってくれ」
「おじさん、染屋の
「なぜじゃ」
「
「ウーム、それを承知いたしながら、わしに
「おいらだッて、あの
「しかし次郎、きのうも
「それは、分っています」
「ならば、そちが来ても仕方があるまい。それよりは、わしの申したことを御隠家殿に伝えて、
「でも、今日となっては、手ぶらでは帰れません」
「と申しても、あれは戻せぬというに」
少し鋭くいいましたが、次郎は悪びれもせず、
「はい、一緒に行って、あの
「貸してくれ?」
「え、それを持って、御隠家様に事情を話せば、きッと許してくれるに違いありません。そして
万太郎はこの辺のことばから、この童子の奇なることに気がつきました。彼がいうとおり、一日でも
だが果たして自分の推察どおり、噂の通り魔が仮面を持つその女であってくれればいいが……。
いつかどッぷりと日が暮れる。
行けども行けども果てしのない同じ野道。次郎と話しながら歩いて来るうちに、万太郎には行く手の方角も、過ぎて来た方角も、さらに分らなくなってくる。
「おじさん、少しこの辺で休もうか」
「うむ」
「ここに石がありますよ。ここへおかけなさい」
次郎は青すすきの
すると、この二人よりは半丁ほど離れて、絶えず見えがくれに
「二手になれ」
こういったのは
「おれが合図をするまで消えていろ。いいか、なるべく近づいて息を殺しているんだ」
「ちょッとお伺い申しますが」
と、笠を取って申しますことには、
「――もしや
と、いんぎんな言葉ではありますが、その鋭い眼ざしに驚いて、次郎は少し野槍の手を動かしかける。
見知らぬ町人、不審と感じながら万太郎は、ふと、ゆうべの
「そちは、たれか!」
と、油断のない気構え。
男はさらに悪びれないで、
「へい、手前は日本左衛門の手下、雲霧の仁三でございます」
「なにッ?」
立とうとするのを、笠で制して、
「ま、お待ち下さいまし。万太郎様、もう駄目でございます」
「だまれ、何が駄目?」
「お命をもらいにまいりました。実は、ゆうべ早速と存じましたが、ちと
「わしの命を取りに来たと?」
「はい、親分のいいつけで」
「やらなかったら何とする?」
「だから前もって、駄目だとお断りしてございます。
「ウーム、さては汝ら、かねてのことを遺恨にふくんで、この万太郎を
「大体そんなものでございますが、また、そんな簡単な
と、雲霧の仁三の物腰は、少しも人を殺そうとする前のようでないから一層気味が悪い。
「御承知の夜光の短刀。――あれは親分がぜひ手に入れる段取になっております。ところで、その秘密を知ってウロウロしている人間達が、親分の目にはまことに邪魔でいけません。まず第一に
万太郎は髪の毛のそそけ立つような
前後に暗くそよぐ風も、今は、いつ身をのぞんで来るかわからない白刃が思われまして、さすが自負自尊の念の強い若殿も、そのたびごとに思わず四肢の筋がビクッとするのをいなみ得ません。
次郎も驚いたことでしょう。けだし、次郎の驚きはさまざまであります。
自分の家の、あのきたない
驚きながら
(この野郎!)
いざといわば、持って構えている
暗殺といえば不意打ちを原則としているようですが、この場合は違っている。
貴様の
そして、ふッと話の切れた途端に、かえって万太郎の方から不意をねらッて雲霧に斬りつけましたが、
「それッ」
というと雲霧の仁三、持ったる笠を投げ上げました。
笠はクルルッと
ひゅう! ひゅッ……う!
何が唸ッたものやら分りません。
――と同時に万太郎、タタタタッと駆け廻りながら、狼に似た六人の
彼もいわゆる詩歌
けれど、法は法を知る相手によってこそ行われるので、法もヘチマもない敵に向っては、構えをとり気息を正し、青眼兵字構えなどの組太刀の型どおりを、そのままやっているわけには行かない。しかも相手は
で――万太郎がこの際、御指南番流の法を捨てて、刀の峰であろうと
しかし一方も、多少あばれることは覚悟の上なので、彼の前後にからんで、組んず倒れつ、何処か体の一ヵ所穴をあけてしまえばしめたものと、必死に六本の短刀がおどる。
万太郎には、相手の兇器が短刀であるのが致命的な苦闘でした。これが、
そのうちに――
雲霧組の
「あッ」
と、万太郎のただならぬ声です。
そして、彼の体がズデンと草の中に倒れましたから、雲霧の仁三は駆け出しながら、
「うム、
と、
それをまた、それと同時に、怒髪を
「こん畜生ッ」
とばかり、
「この餓鬼め! 帰れ」
はッたと
「何をッ」
前へ駆け廻るが早いか、目を射て来た野槍の光が、顔へと思わせて胸板へブンともひとつ。
あぶなく
「野郎――ッ」
奮然と野太い声をあげたかと思いますと、紺の
「てめえも殺してもらいたいのか」
と、ギリギリと体の向きを変えてきました。
ですが、それは
のみならず、次郎が歯がみをしてムキになってくると、かえってクッと
――といって、なかなか味をやるので、
「この餓鬼め!」
彼はもう一度すごい形相を作って見せながら、
「
次郎はビクともするひまもなく、
「なにッ」
と、
「帰れ、小僧」
「くそうッ、だれが」
「斬られたいか、この刀が目に見えねえか」
「おいらの槍がわからねえか」
「ちッ……」
ここに至って、雲霧も、この足手まといを、どうにかしなければならなくなりました。
否、どうにかしなければならない機会は、また別の方からも起って来ている。――というのは折悪くちょうどその時、一方の道から
じゃらん、じゃらん、じゃらん……
数頭の馬の鈴、賑やかな話し声、そして八王子組の
――雲霧はいきなり次郎の手元へ飛びつき、かれの襟がみを引ッつかみました。次郎の
だが――不覚はかえって雲霧の方にありました。なぜといえば、彼が無造作に次郎を鷲づかみに取って役げた刹那、投げられた次郎もウンといって気を失ったが、投げた雲霧もその
「あっ」
と叫んだまま眼が
そして、ぶッと唇の血を吹きながら、二度首を振りうごかした様子。見ると、満顔
じゃらん! じゃらん!
次郎の体を
彼は狼狽しながらも、一方の万太郎の方は首尾よくいったものと信じていましたから、指の間からしたたる血汐に着物の前を染めつつ、両手で顔を抑えたまま、
「出た!」
「出たぞ――通り魔が」
と、そこで立ち騒いだ八王子組の
「逃げて行ったじゃないか、
数頭の小荷駄の間にはさまって、道中馬の背に横乗りになっていた手ぬぐい
そういわれて落着いた面々が、
「おう、棒を持った小僧が死んでいる」
「死んでいるのではない、気を失っているんだ、気絶しているんだ」
「血がついているじゃねえか、この棒に」
「あっ野槍だ」
「何しろ早くどうかしてやらなくッちゃ……」
などと口々にいって、ある者は荷駄から飛び下り、ある者は
それはその連中に任せておいて、手ぬぐい冠りのあだッぽい女は、細口の
この旅人や小荷駄の一行は、その日の昼、八王子の宿を出て、今夜の
どうも近頃、
そこで、この一行も
中仙道の川口方面へ出るという
中で一番あたま数の多い一組は、五日市から八王子を三日ほど興行して、これから中仙道を打ちに廻ろうという旅役者。
それとて、役者らしく見える者はわずか四、五人で、
その
ふッと気がつくと、
「気がついたか」
「有難う……」
「どうしたんだい、お前は」
「悪い奴にいじめられて、あぶなく殺されるところだったんだ。おいらは、死んだのじゃなかったのかしら」
「人に聞くやつがあるものか。立派に助かっているじゃないか」
「そうだね」
「お前は何処の者だい。これから先だって、一人で帰るのは物騒だよ」
「あっ……」
やがて、身を吹く風を覚えると、次郎は万太郎の身の上を思い出して、足元の野槍を拾い取るや否、この一同を指揮するように手を挙げて、
「みんな、探しておくれよ! 探して! おいらのほかにもう一人連れが居たんだ、その連れが生きたか死んだか分らない」
「えっ、まだ居たのか」
と驚いた人々が、提灯を振り廻しつつ、さながら、次郎の手足の如くになって
そのうちに、遠からぬところで、一人が何か
見つかったのは
斬られています。
左腕にかすり傷、肩に突き傷、ほかにもあるらしいが何しろ衣服も血みどろで裸体にしてみなければ判明しない。
「息を見ろ、息をよ」
と、だれか罵るようにいう。
「息はある」
抱き起した者がうしろへ叫ぶ。
「それじゃ捨てても置けないから、何処か医者の所へ」
「医者といったッて、この原じゃあ……」
「血止めだけして、乗せてゆくのよ」
「川越の城下までもつかしら」
「もたなかッたら、それまでの寿命とあきらめてもらうより
てんやわんやの
行くこと半里ばかり、一軒の灯を見ますと、次郎はその家へ飛びこんで、また野槍をさげながら出て来ました。
「今のは、お前の家かね」
一行の者が、たずねると、首を振って、
「ううん、おいらの
「おまえの家は」
「
「じゃ、みんなと別れて、早く帰ったらいいじゃないか」
「あの小父さんがどうなるか分らないのに、おいら一人で帰れるもんか。今そこの家へ、おっ
こういいながら、馬と人の間にはさまって歩いてゆく。
その馬の背中から振り向いた女の目は、最前から頻りと次郎に注意している様子でした。
熱海の湯場で永らく一つ宿に泊まり合せていた記憶を、女の方は、あるいは思い出していたでしょう。しかし、次郎はその手ぬぐい
死ぬか生きるかわからない虫の息の
* * *
ここは徳川家の
そこの
「御当地
こんなビラが掛小屋の付近に目につく。
けれど、小屋組みが出来ても、一
同じ
そこのいかもの部屋に、この間うちからゴロゴロしている一組は、
そこに、例のお
腹では涙をこぼしているかも知れません。
「どうだいお粂さん、少しゃあ板について来たかい」
こういって、時々部屋へ様子を見に来るのは、でっぷりした興行元です。
「まだどうもねえ……」
「うまくいかないのかい」
「不器ッちょだからなかなか覚えきれないんですよ」
と、お粂は気がくさるように、
「師匠の教え方がいけねえんだろう、どうせ見物の目をごまかす
「まだ
「衣紋流しだの吹上げが出来りゃあ、独楽廻し一人前だ。前芸に
「え、明日から小屋を打つんですか」
「ビラばかり景気よくはり出してあるんでどうも世間ていが持ち切れない。慾をいわないで、ひとつ明日から
と、興行元はそこらに居合す者へも、それぞれ何かいいふくめて、空き地の小屋へ出掛けてゆきました。
「困ったねえ……」
と、お粂は板の間へペッタリすわって膝の前に仕掛
もし、独楽が人間だったなら、
(お前とわたしと、どうしてこんな縁になって、こんな家の板の間に、さし向いになるようになったんだい?)
と、聞いて見たいような気持です。
で、考えてみると、そもそもこうなる初まりが、熱海を去ッた
でも、一座が厚木を打っていた時分は、曲りなりにも、岩井染之助一座という看板がありましたが、あれからが一座の災難とお粂の災難。
飛んだ火事騒ぎから
でも無理に、五日市や八王子で、
そこでまた、見切りをつけた者が、持ち逃げ着逃げをして三、四人一座を抜け、あとに残ったのは、逃げても食えない、居ても食えない連中ばかり。
その結果、
「とても、これじゃあ」
と相談にならない。
ところで、興行元は興行元の目があるといえましょう。役者でないお粂の
「お前さんが看板になれば、確かに、一枚で売れるがなあ」
と、おだて上げました。
でも、
腹のひもじそうな連中から、
――
一夜づくりの
どうやら生業にありついている間は、遊びたいが一願の人間も、いったん生活の
そんな、あんばいで。
岩井染之助の看板を嵐粂吉一座と塗りかえて浮かび上がった連中の顔つきを見ると、お粂も悪い気持はしません。
そこへ衣裳屋の使いが来て、
「太夫さん、これでお気に召しましょうか」
と、風呂敷をひろげました。
縫い上がって来たのを見ると、けばけばしい、小袖と、その上になる
「何しろ急ぎましたので。はい。今もこちらの太夫元が来て、すぐお目にかけておけというので、まだすッかり上がっておりませんが、ちょっと持ってまいりました」
「これを私が着るのかい」
使いは変な顔をして、
「左様でございましょうと思いますが……」
「
「舞台でござんすもの」
「気まりが悪いよ、こんな年をして」
「御冗談ばッかり。……それから紋でございますが、御相談なしに、
「あ、それは
「鷹の羽ですッて」
「いけないかえ?」
衣裳屋は吹き出しそうになって、
「太夫さんが鷹の羽はヘンでげしょう。お侍か何ぞのようで、どうにも、うつりが悪うございますよ。蝶がいけなければ、
「やっぱり鷹の羽にして欲しいんだがね」
「へえ。ははあ。さては……でございますね。成程、それじゃぜひ鷹の羽でなけりゃあいけますまい、だが、まさか浅野
衣裳屋の使いが帰ると、入れ代りに
その髪でも、お粂の気持と
「それじゃ、まるで年増に見えてしまいます、
と呑みこんで、
十七、八の娘のようになった自分の首を鏡にうつして、お粂は、
そして、
「あの……髪結さん」
と、帰ろうとする男を呼び
「お前さん、これから南町へ廻るといったね」
「へい」
「南町に小川玄堂というお医者があるだろう」
「へ、ございます。
「そこへ、お前さん、ちょッと
「へえ、玄堂先生にてすか」
「なあに、お医者の家に居る者にだよ。……実は、私が八王子から川越に来る途中で、ひとりの怪我人があって、それを大勢で助けて来てあげたんだけれど、だれも旅先だし、私も落着き先が当てにならない矢先だったので、とにかく医者の
「なるほど」
「その
「へい」
「その次郎という子に、
「お
「
「ほウ。……あの尾州家の七男坊がか?」
と、鼻をつまみ上げられたように、脇息から顔を上げて驚いていました。
お話相手は、お扶持医者の小川玄堂で、
「いや、手前も、こんなに驚いたことはかつてございません」
と、その驚き具合の顔を白扇であおいでいる。
「で、玄堂」
「は」
「いつの事じゃ、一体それは」
「もう十日あまりの
「む」
「金創三ヵ所、
「そうじゃろう」
「ところが、よいあんばい、一ツの突き傷は浅く、一ヵ所はかすり傷の程度でございます。ただ出血おびただしく、そのため昏倒していたものと診断して、手当を加えますと、果たして、結果はまことに上乗で、まあ半月も過ぎましたら元の体となることは
「ほう、置いてきぼりか」
「左様な次第で」
「
「しかし、あとで話を承ると、それは
「ウム、その
「御明察の通りにございます。彼――次郎が申しますには、このお方は、徳川万太郎とおっしゃる御身分の高い人、もし療治の届かぬ時には大変なことになる、どうか、そのつもりで充分に――などといい出してまいりました。しかし実を白状いたしますと、この玄堂も、初めは一笑に付していたのでございます。ところが、日を追うにつれて、
「なるほど、それで、相談にまいったか」
「捨てては置けぬ儀と、御内聞までに」
「あの万太郎と来ては、尾張殿も持てあまされている
「後日のたたりこそ恐るべしでございます」
「飛んだ厄介者が領内へ飛びこんで来たものじゃ。どうしようかの、玄堂」
「弱り入った次第でござります」
「おやじの中将へ申し
「なかなかそんなお計らいで自由になるお方ではございますまい」
「それも、そうか」
と、
「では、たれぞ重役どもを迎えにやろう」
「御城内へお連れ申し上げますか」
「いやいや、ああいう
「御名案」
「早速に呼べ」
「どなた様に、この御大役をお願いいたしましょうや?」
「そうじゃの、万太郎の窮屈がるような者といえば……ウム、家老の
お
殿からのいいつけを聞くと、権太夫は、
「なに、尾張中将様の御一子万太郎
とばかり、
やがて、南町の小川玄堂の宅。
お扶持だけでは過ごしてゆけず、町医だけでも立ってゆかず、両天をかけてどうやら
「玄堂」
「はっ」
「若殿はおいでの御様子か」
「おられるようでございます」
「但馬守
権太夫、そういって、
「では、暫時これにて」
「わしはかまわん、若殿の方に、くれぐれお粗相があってはならぬ」
「只今、御意を伺ってまいります」
と、玄堂はおそるおそる奥へ
書斎、薬室、寝間、すべてを兼ねた玄堂の居間とみえる奥の一間に、徳川万太郎はそこの机や
「ウム、これは少し、
その傍らに、ちょこなんと、畏まっているのは高麗村の次郎。
「おじさん、
「などといって、お前は、剃刀を持ったことがあるのか」
「ばかにしちゃいけないぜ、狛家にいた時分は、いつでも、おいらがお嬢様の襟足を剃ってやったんだ」
「そうか、じゃひとつ、腕前をふるって見せてもらおうか」
「よし、やってやろう」
と、次郎は小脇差の
「なかなか形がいい、その構えなら剃れるだろう」
「おじさん、動いちゃいけないよ」
と、自分の指に
「これ、次郎」
「へ」
「なんで
「つばで」
「きたない! その
「もうありません。あ、それではあそこの水を」
と、湯呑みを持って行って縁先から、
「
「おじさん、懸人って、なんの事?」
「居候のことさ」
「すると、おいらも居候なんだね」
「おまえは、居候のまた居候」
次郎を相手に他愛なく襟を剃らせながら笑っているところへ、
「へへッ」
と、
次郎に襟を剃らせながら、万太郎は不審そうな顔をして、
「だれだい? そこでお辞儀をしているのは」
と、たずねたものです。
平伏した者は、
「
「あ、御主人であったか。永いこと世話になった上、おかげで傷も本復、わしの方から改めて礼を申さねばならんところを、何だって左様な真似をなさる。さ、手を上げて下さい、お手を」
「勿体ないおことば、いよいよ恐縮仕ります。元々、御身分を承知しておれば、かような御無礼もいたさぬものを、さる高貴のお方とは知らず、先頃からの不作法、何とぞ御仁慈を以て、おゆるし置き下さいますように」
「はてな」
と、万太郎が首を上げましたから、次郎も剃刀を離して、同じように、玄堂のしかつめらしい有様に見とれています。
「はて、どうしたものでござる御主人」
「見るかげもない
「
「まったく今日まで気づかずにおりましたのは玄堂の
「何だ……老職が迎えに来た?」
「は。一応お目通りを願いたく、あちらに差控えております次第で」
「一体、どこの老職だ」
「
「それがわしを迎えに来たとは変な話、何か、
「いや、お隠し遊ばされても、御素性は早や御近侍から承っております」
「おれに近侍などは付いていないが……ははあ、次郎、さては、お前が何かしゃべッたと見えるな」
「何も、しゃべりはしませんが、あのお医者がいろいろ聞きますので、尾張の若殿徳川万太郎様だといって聞かせました」
「それはいかん」
万太郎は苦笑して、
「それはいかんなア……」
ともう一度いいながら、剃り立ての顔を撫で廻しました。
ところへ、次の部屋へ、家老の曾根権太夫がうやうやしく式体して平伏しながら、
「へへっ。初めて御見にいります。自分ことは但馬守の老臣曾根権太夫というもの、何とぞ、お見知りおき下されますように」
と、玄堂と同様な言い訳を
これは領主の
ですが、事情さえ分ってみると、万太郎はべつに驚きもしません。
自分のうちの尾張の家中にも、こんなのが、二人や三人はいて、よく
「ははあ」
と、彼は軽くうなずいて、
「じゃ、但馬守のさしずで、わしを迎えにやって来たのか」
「御意にござります」
「折角だが、それは断る」
「えっ、それはまた
「わしは非常な
「御窮屈がおきらいとあれば、如何ようにも御自由にして、ともあれ、お越し下さりませぬと、このおやじめが折角お迎えの役儀が相立ちませぬ」
と、権太夫はどこまでも、この
いやだの、有難くないのと、さんざん駄々をこねた万太郎も、結局、権太夫の役儀大切に根負けして、
「じゃ、行ってやろうか」
と、
知らぬ他領の城下へ来て、こうもてるのも、いわば七男坊にまで及ぶ親の光。
供揃いが出来る。
すると、歩み出す間もなく、
「もし、小僧さん」
ひとりの男が、小川玄堂の門前から引っ返して来て、
「もしやおめえは、
呼びとめた男は、
次郎の目にも一見して、それは
「おいらかい?」
いぶかしそうな顔をすると、
「次郎というんだろう、お前さんは」
「あ、おれは高麗村の次郎だけれど、何か用かね」
「御城下の盛り場に
次郎はいよいよ変な顔をして、
「その太夫さんがいうには、ぜひ一度、曲独楽を見物に来て、楽屋へも遊びに来てもらいたいということだ」
「おじさんは、人違いをしているんだぜ」
「人違いなことがあるものか、小川玄堂さんの
「おかしいな」
「なぜ」
「なぜだっても、おいらは、そんな太夫さんなんて者を知らねえもの」
「なるほど、こいつあおれが言い落としをしている。嵐粂吉じゃお前さんにも分らないはずだ、その太夫というのは、この春頃、
「あ、あの、お粂さん」
「知っているだろう。じゃ、今の
といったまま、髪結の男は忙しそうに、
気がついて見ると、万太郎の駕とそれを囲んでゆく曾根権太夫たちの列は、すでに、一町も先へ遠のいているので、次郎は、
「あ!」
と、野槍を小脇に持ち直しながら、あわてて
かくて徳川万太郎は、その日から、秋元家の家老曾根家の上屋敷に食客となって、かたがた玄堂の治療をうけながら、寝たい時に寝、起きたい時に起き、人の羨む自由気ままな数日を送っている。
三ヵ所の短刀傷もほとんど癒えて、もう立ち居になんの不自由も感じなくなると、そろそろ七男坊の
「次郎、おやじが居たら、ちょっと参るようにいってこい」
と、ある日、彼のことばです。
次郎は心得て、
「御用人様!」
「おい」
と、びっくりしたように、そこで居眠りをしていた用人の伝内、
「やあ、万太郎様の
「おやじは居ますか」
「おやじ?」
「ウム」
「おやじとはたれのことで」
「おやじといえば、ここのおやじ。それ、いつも、こういうふうにシャチコ張っている、曾根権太夫という人のことさ」
「これは
「でも、万太郎様が、おやじをすぐに呼んで来いといったんです」
「御家老はまだお城からお
「駄目駄目、お前さんじゃいけない」
「なぜ手前ではいけないのか」
「万太郎様は、伝内さんがお嫌いです。あの
「これはひどい。河豚内とは、お口がわるい」
「じゃ河豚内さん、おやじがお城から帰ったら、すぐ奥へ来るようにいっておくれ」
「こいつめ、居候のくせにして」
と用人の伝内が、頭から湯気を立てるのを面白がッて、次郎は拭きこんだ大廊下を、武蔵野を駆けるように、
「おじさん、おやじはまだお城から帰って来ませんッて」
と、突っ立ッたまま復命しました。
「では用人の
と万太郎がいいますと、次郎は今の
「ええ、用人部屋で、居眠りをしていました」
「そうか。じゃ、河豚内をよんでくれ。おやじが居なければ仕方がない」
心得ましたという風に、次郎はまた表の部屋へ取って返して、そこをのぞくと、河豚は居眠りをさまして、破れ
「御用人さん、お召しです」
「また来たな。だれが」
「万太郎様が」
「それみろ、わしでも済む御用なのじゃないか」
と用人の伝内、そこは不承不承に立ちましたが、万太郎の次の間まで来ると、陪臣らしい習性でペタと鼻まで畳にすりつけて、
「へへっ、用人の伝内めにござりますが、何か御用でございましょうか」
「オ。
「は」
「ちと退屈したによって、ぶらぶら城下を見物して来たいと思う」
「主人権太夫こと、公用多繁のため、一向おかまいも申し上げず、重々相済まぬ儀と、
「そんな事はどうでもいい。何分居候の身で出かけたいにも
「恐れ入ッてござります」
「それを
「は」
「早くしてくれ。次郎、一緒に来い」
ずかずかと玄関へ出て行きましたから、河豚は狼狽して笠や
御三家の若殿などというものが、小遣銭などを持つものか、持つとしたら幾らふところに入れているものか、その辺の見当もっかず、まさかおいくら要るのですかとも聞き
まごまごしている
「河豚、早うしてくれ」
「はっ……」と、いよいよ当惑したらしく、
「手前もお供仕りましょう。主人に代って、御城下を御案内いたしまする」
先に立って門前を出かけると、そこへ、
「おう、若殿」
驚いて駕を出ながら、
「おそれ多くも、君は将軍家の御門葉、高貴のおん身として、軽々しく町なかを御遊歩あるは
万太郎は心のうちで、人が気楽に歩こうというのに冗談じゃない――と思いましたが、御家老や
しかたがなく、それに乗ると、供侍が三、四人付いたのでもウンザリするのに、家老の権太夫と用人の河豚内が、駕のそばについて歩いて来ます。
そして、面白くもない城の附近や、寺町のなんとかという
そこで、自分の屋敷の者を追い使うような調子で、
「おやじ」
と、権太夫をよんでたずねました。
「この川越の城下には、もっと、繁華な所はないのか」
「は。御意遊ばすのは、あの
「そうだ、その盛り場へ駕をやッてくれ、万太郎は下民の仲間入りをするのが大好きでな」
権太夫は眉をひそめながら、
「したが、御身分がら、ああいう場所へお近づき遊ばすのは、あまりよろしくございますまい」
「では、次郎だけ連れて歩いて行こう」
と、遂に駄々な七男坊は、駕の中から片足を出して、
「河豚、草履をくれ」
と、不機嫌にいいつけます。
権太夫も呆れましたが、ぜひなく万太郎の
さて、そこの賑やかな町といっても、江戸の両国や浅草とは比較になりませんが、古着や
そこへお練りの御家老と駕です。
権太夫と用人の河豚内が、むずかしい顔をならべて、駕の後から真ッすぐに向いて歩いていると、万太郎は駕の垂れを上げて、
「ここは何という町か」
「唐人小路と申します」
「あれは何だ」
「
「
「恐れいります」
「向うに頭へ箱を乗せて何か怒鳴っているものがあるな」
「あれは、すし売りでございましょう」
「なるほど」
と、さかんに話しかけたり指さしをするので、供の者も閉口していると、
「河豚内、河豚内」
と、人前もなく呼び立てる。
「は」
何事かと、駕を
「腹が
というのであります。
「御冗談を
「冗談ではない、まったく空腹じゃ。あのすし売りの姿が殊に面白いではないか、これへ呼べこれへ。そして、お前たちも
「ここは町の
「それではうまくない、すしはこういう場所で立ち食いするに限る、江戸表ではよくそうして試みたものだ」
「いかがいたしたものか、どうも、伝内には取り計らいかねます故、只今、御家老と御相談の上で」
「厄介な奴だ、ぐずぐずしておるまにすし売りが行ってしまうぞ。これ、あのすし売りを逃がすな」
あたりの弥次馬は目をみはって、何事かと、そこに人の輪を作ってガヤガヤと騒ぎ出す。
それにさえ当惑していた家老の権太夫は、伝内のことばを聞いて飛んでもない事と、すぐ駕を上げるように命じましたが、どたどたと弥次馬が寄って来た混雑の瞬間に、万太郎は逸早く、次郎をつれて一散に横丁へ駆け出している。
あとで、おやじと
「ああ、これでやっとのびのびしたぞ」
と、鬱屈していた五体を思うさまのばして、
「次郎」
「はい」
「これから久し振りで、気ままに体の保養をしたいな。わしが思わぬ
「もう、あの晩から、二十日にもなります」
「そうか、早いものだな」
「
「心配するな、そのうちに、きっとお前の詫びはかなえてやる」
「でも、あの
連日大入りにつき日のべ
その辻看板に、嵐粂吉という名を見たものですから、いつぞや
「あ。お粂さん」
と、そこで口に出しました。
「お粂さん?」
万太郎も、お粂という女の名は、どこかでうすら覚えのあるような気がする。
そこで次郎の話が、彼に偶然な興味を添えたものか、賑やかな鳴物を
「おい、稲」
と、その人中を
稲とよばれたのは、前髪でいなせな若者、
「え?」
と、人
「あれへ行ったのは、たしかに、尾州の万太郎じゃねえか」
と、肩に肩を寄せて来てささやきました。
「人中でよく見えなかったが、
といったのは、もう一ツの笠、
「行ッて見ましょうか」
「まあ待て、――万太郎は雲霧にまかせてある」
日本左衛門の、あの、静かなことばに
編笠の本体がわかれば、一方の笠の判断もすぐにつく。無論それは
附近を見廻しているのは、少し話のできる
「親分、空き地の向うはどうです」
「ウム、二、三軒見えるな」
「
「静かだろう、行って見よう」
三人は、
どろりとした青い水面に、富士形の編笠と、丸べりの笠と、前髪の半身の影が、足につれて浮いてゆく。
めし、
来てみればこんなものです。
「飛んだ蓮見茶屋だ。は、は、は、は」
笑いながら、
「いらっしゃいまし」
と、
「酒」
「はい」
支度をさせておいて、稲吉は奥の床几を
「親分、ここに腰をおろしていると、
彼の笠も、今、その方角に向いていました。
酒の
「あの、粂吉さんの曲独楽をごらんになりましたか」
「いいや、おれはまだ見ねえが、どうだね、評判は?」
と、稲吉が軽く相手になる。
「とても、大変な人気なんですよ」
「へえ、どう大変なんだい」
「何しろ、
「おや、それじゃ、独楽はそッちのけだね」
「何にしたッて、あなた、女の太夫さんなんていうものは、芸より顔でござんすからね」
「つまり、居酒屋にしてみれば、酒よりはお酌というわけだな」
「ホ、ホ、ホ。まあ、そんな
「そうかい、世間様は、
と、稲吉が、何の気もなくいったことば、日本左衛門の黙りこんでいる心の底を、
やがて、そこへ来た酒を、真似ばかりに飲みながら、
「稲」
「へい」
「お粂はおめえの持ちだったな」
「そうです。あっしが
「いい籤を引いたな。雲霧の相手や、おめえの目ざすものは、いつでも手の届くところにぶら下がッているのに、おれの引き当てた
と、含んだ酒も
彼をはじめとして、暗殺の
しかるに、その根幹である自分の持ちのお蝶の姿と来ては、いくら探りの手を分けてみても、一
嵐粂吉となったお粂は、すぐ目の前の小屋に、おおびらで姿を見せつけている。けれど、それは暗殺の
――と、茶店の
はいって来ると、ここの
話の様子では、城下の馬市へ来ている
そのうちに、なかの一人が、
「おい、そりゃあそうと、またこの間の晩、上野原の弥助が、
そこへ来た酒の盃をやり取りしながら、
「おれも明日は、金を持って、
「博労渡世の者が、旅をこわがッていたひには商売ができるもんか」
「だって、二度や三度のことじゃねえからな」
「上野原の弥助が、一体、何を見たッていうんだい」
「あれだよ、この前の市に、おれたちが青梅から来る途中、女影の手前でぶつかッた女の魔物だ」
「ヘエ……弥助のやつも出会ったって?」
「うム」
「いつ頃?」
「もう半月程まえだそうだが、その時は、今小屋にかかっている
「じゃ、あの女を、見たというわけじゃねえのだろう」
「だが、多分あの女の
と、真面目になって、その男は、この晩春の頃、自分たち青梅の仲間が実際に出逢ったという、女影の鬼女の話をもち出しました。
最前から、一隅に、
「稲」
と、編笠をうしろに向けて、
「あの男を、ここへ呼んで来てくれねえか」
と小声で言う。
稲吉は
「エエ親方」
と、
「あちらにいる方が、一杯さし上げながら、少し伺いたいことがあるっていうんですが、どうでござんしょう」
博労は
「何が、どうなんだい」
「お前さんだけ、ちょっと
「ふざけた事を言うねえ、人にものを聞くのに、こッちへ来いなんて大ッ面をしやがって、おれ達を何だと思ってやがる」
と、酒の勢いもありましょう、
すると、
「オイ、稲。もういいから
「へい」
と稲吉は、すごい目をくれて、
「とんだお邪魔をいたしましたネ」
セセラ笑って引っ込みました。
それで初めて気がついた
おとなしく引ッ込まれただけに、博労どもは薄気味がわるくなって、前の元気もどこへやら、大声な話も出来ず、そこを通って帰るにも帰られず、
「おい、何の用だか、ちょッと行って来ねえ。いやに鳴りをしずめているから、あとのたたりが怖ろしい」
と、仲間の者を小突いていました。
「どうも、只今は、とんだお見それをいたしまして」
おそるおそるそれへあいさつに来た男を見ると、今、
「さ、こちらへお掛けなさい」
「ところで、何かあっしにお話があるそうですが」
日本左衛門は、博労の男にも
「呼び立てて聞きただす程のことでもないが、そちが只今、向うで話していた
「へ、へい。こればかりは、嘘でも大袈裟でもございません」と、博労が得意になって語り直すのを、日本左衛門がところどころ反問して、どうやらそれで彼の疑問は
「いやよく分った。折角飲んでいるところを済まなかったな、これは少ないが……」
と、
外の風に吹かれると、すぐ耳につくのは池の向こうの
暫く肩をならべて行ったと思うと、日本左衛門と金右衛門とは、別な道へそれて行きながら、
「じゃ稲、しッかりやれよ」
言い残して、何処ともなく、
稲吉はふところに手を入れて、指先で、肌に温まっている
そして、
木戸番の男は
中には、もう昼間から二、三百の見物が詰まっている。小屋の内を眺めると、何か大きな動物のあばら骨でも見るように雑な丸太組のホッ建て小屋で、無数の
舞台では今、前芸とあって、やたらに騒々しがる男芸人と手踊りの娘とで、何か、お茶番じみた所作を見せている。
こういう
「お」
と、人を分けながら、連中の仲間にすっぽりと坐り込みました。
「兄貴、ばかに遅かったじゃねえか」
「ウム、ここで落合う約束で、急いでやって来ると、途中で親分に会ったものだからな」
「あ、親分も、この川越へ来ているんで?」
「
と、みんな膝を抱えながら、眼だけは義務のように舞台へ向いておりますが、
そのうちに中の一人が、何気なくうしろを振向いた時、はッと驚いたというのは、自分達が背中を向けている垂れ
「シッ……」
と、たれかが、
土間の見物や中売りの声が、にわかにガヤガヤしはじめると共に、楽屋の内でも足の踏み場もないような混雑。
ここ大入りつづきで、ほくほくものの太夫元は、この興行に見込みがあると見て、旅先から手踊りの女芸人を数名買い込んで来て、
その
お
「太夫さん、妙な子供がやって来て、
もろ肌を脱いで、
「来たかえ? あの山男のような子だろう」
「そうです、太夫さんから何か
「あ。ここへ、連れて来ておくんなさいな」と、お粂は肌を入れながら、一人の者が坐れるだけの余地を作って、そこに待っておりました。
「お待ち遠さま。ちょうど中入だから、太夫さんが会うそうだ。さ、こッちへはいんねえ」
と、外へ呼ぶと、そこに
「じゃ、おじさんは、外で待っている?」
と、うしろの連れを
連れがあったのか? と出方の男が外を見廻すと、青い
オ。ここで待っている――というふうに万太郎の笠が向うで
だが、そこを次郎にずかずかと通られた女達も鏡台から首を曲げて、皆、少なからず
「あら、いやだ」
と、娘手踊りの連中が、こわそうに首をちぢめて見送ったのも無理ではありません。
「太夫さん、御案内して来ました」
と、
「さ、おはいんなさい」
うすら覚えのあるお粂の声が内でする。
野槍をそこに立てかけて置いて、次郎はおずおずとビラ幕を
「あら」
と、笑いながら迎えると、
「
取って付けたようにそう言ったきり、次郎はなんだか間が悪くなって、あとの言葉が出ないのでありました。
「ここは狭いけれど、
茶をついでやったり、お
けろんとして、鏡台のまわりの紅皿や
それらの、あまり目馴れない強い色彩が、彼を脅迫するものですから、
「たしか、次郎さんと言ッたね」
お粂が見入るように目元で親しげに言うものですから、次郎はぽッと顔を赤くして、
「え。次郎って言います」
「それについて、実は、お前さんなら知っていやしまいかと思うんだけれど……、あの
「相良さん。ウム、知っている……」
「そして
お粂の粂吉が、わざわざ使いをやって、次郎を楽屋に呼んだのは、まったく、相良金吾ののその後の便りを、少しでも聞きたいばかりの手段でありました。
ですが事実は、お粂が邪推を廻しているほど、
で、彼女の
「あの、お粂さんは、元江戸の水門
と、思いがけない反問を出して来ました。
「よく知っているね、お前さんは」
「じゃ、日本左衛門という人とも前に知り合いだったんだね」
「どこで聞いたえ、そんな事を」
「熱海に居た時」
「だれに?」
「ううん、だれにでもないけれど」
短い中入の時間はもう過ぎたと見えまして、その時、土間の客席や蔭の鳴物がまた騒めき出すと、男衆がそれへ飛んで来て、
「太夫さん、出番です、お支度は出来ていますか」
「あっ、もう」
「お早く願います。見物が沸いておりますから」
お粂はあわてて衣裳を着け出すと、そこへ二、三人の女達が来て、帯を手伝うやら、
「おじさん、お待ち遠さま」
と、ひょッこり小屋の楽屋から飛び出して来た次郎は、そこにたたずんでいた万太郎の前に帰って来て、
「聞いて来ました。やっぱり、おじさんが言った通り、あの女は、日本左衛門をよく知っている水門尻の人でした」
それは万太郎が、次郎をもって探らせた事と見えます。そして彼はまた、お粂こそ金吾の体を、いまだに隠している女だと信じているのでした。
「御苦労だった。けれどそういう事を聞いて、何も向うでも変に思いはしなかったか」
「いいえ、ただ、熱海で一緒に居た、金吾という人の事をいろいろくどく聞いただけです」
偶然に、この時初めて、次郎の口からもれた金吾という名に、彼はハッと眼を
「次郎、今お前の言った金吾というのは、一体どういう人間なのか。もしや、相良金吾という者ではないか」
「そうです」
「えッ」
「相良さんというんです。月江様もおりんさんも、おいらも、みんなあの人が好きでしたよ」
「では、熱海の
「だって、おじさんと、相良さんと、知ってる人だとは少しも思わなかったもの」
「なるほど、それも無理はない話……。しかし、そうと分れば、なお
「おじさん、何だかポツンと降って来たようですよ」
「雨どころではない、さ、わしに
と、万太郎がやや大股に、
「もし万太郎様、その話なら、私がくわしくお話し致しましょう」
と、不意に手をあげて呼び止めました。
突然、万太郎をよびとめて、彼の前へ立った男は、めずらしくも熱海以来その姿を見なかった目明しの釘勘でありました。
「おウ」と万太郎は、びッくりした目を
「そちは釘抜きの勘次郎、どうしてこんな所に参った?」
「どうしてというのは若様、あなたの事じゃございませんか」と、釘勘は笑いながら、
「――熱海から江戸に帰って、早速お目にかかりたいものと、根岸のお屋敷へ伺いましたところ、ぶらりとお出かけになったまま、幾日経ってもお帰りがないというお話」
「うム……実は、そちの帰りも心待ちにしていたが、何かにつけて、じっとしていられぬ自分の性分、つい根岸から脱け出してしまった」
「はははは、相変らずで」
「いや、そのために、ひどい苦難に出会ったぞ」
「少しはお薬でございましょう」
「薬にしては強過ぎた」
「ところで、その折、根岸の御家来衆の口から伺いますと、毎年江戸城の御本丸でお催しになる
「今年もやがて
「で、市ヶ谷のお
「お、それは兄や父も当惑であろう」
「ぜひ急がなければ一大事でござります」
「洞白の
「それから……次には相良様のことでございますが」
「ウム、熱海で、そちは金吾と逢って来たか」
「お目にかかってまいりました」
「で、あれは一体、どういう気持でいるのか、この万太郎には彼の心持が
「何しろ、この往来では、落着いて話も出来ませんから、何処か静かな所へまいって、ゆっくりお話し申し上げたいと存じます」
「よかろう、では、わしの屋敷まで来るがいい。次郎、お前は帰りの途を知っているか」
野槍を杖についた高麗村の次郎は、ふたりの先に歩き出して、
「え、分っています」
釘勘は妙な顔をして、
「この川越にお屋敷があるということは
「なに、当座の
と、万太郎は澄ましたものです。
次郎は露払いの格で悠々と前に立って、やがて、秋元家の家老
「お帰りです。
今も今とて、まかれて帰って来た権太夫と用人の伝内とが、万太郎に手を焼いて困ったものだと噂をしているところへ、
「お帰り!」
という声がしたので、ゾッとしました。
権太夫は、何事もお家の為じゃ、と虫を殺しているような顔で伝内と首をそろえて式台まで
「おやじ、先へ帰っていたか」
「へへっ」
「今日は御苦労だったな」
万太郎は空とぼけながら、うしろにモジモジしている釘勘に向って、
「おい、何も遠慮はいらない、上がるがいい」
「へえ、真ッ
式台に手をついていた用人の
「あ、万太郎様」
「なんじゃ」
「それなる町人は何者でございましょうか、御同列は畏れ多い次第。庭先へお廻しなされては如何なものでございましょう」
「これは、釘勘と言って、わしの友達だ。何か
と、まるで
奥へ通った万太郎と釘勘は、そこで、夜のふけるまで
熱海の
「そうだろう」
万太郎はすべてを善意に聞きました。そして、自分に
「こうなった以上、金吾の気質としても、何か一
むしろ彼は、金吾の行為に、
「ところで、そのかんじんな
「妙な方角から、思いがけない
「いや、その
「へえ、じゃ、あまり商売人の早耳も、自慢にはなりません」
「けれど、そちの探ッている目星と、わしの存じている事とは、違っているかも分るまい。釘勘、お前はその仮面が、今何処の誰の手にあると
「思いがけない人間です」
「ウム、それは?」
「
次郎を連れて、
「お蝶がと申すか、ウム……しかし、そちはまたどうしてお蝶があれを持っていると知ったのじゃ」
「種を明かしちゃ、つまらない話ですが、実は、
「えッ、おじさん、半五郎ッていうのは、あの目ッかちの半五郎ですか」
突然、次郎がそばからこう言って、ただならぬ
「うム、悪い奴だ」
何気なく言ったものです。
すると、次郎は急にベソを掻いて、悄然と首を垂れてしまいましたから、どうした訳かと聞いて見ると、その一眼の鍛冶屋の半五郎は、彼の父親で、目明しのおじさんに捕われたことを悲しみ歎くのであると分りました。
「そうかい……」と釘勘も初めて知った様子で――「あの半五郎というのは、時々江戸の近くへ出て来ては、よくねえ事をやる男だったので、何の気もなく
それで、次郎も少し安心したふうです。
ところへ、
「やあ、やっと御馳走が参ったそうな」
万太郎は席をひらいて、
「さ、次郎もならべ、釘勘も遠慮なく、
見ると権太夫と河豚内は次の間に平伏して、
「
と、
「あ。おやじか、どうじゃ、ここへ来てお前も一杯つきあわんか」
「
「じれッたいやつ、早く取らんか、盃を」
「へへっ」
と、叱られて、権太夫は
「もういい」
と、万太郎は素ッ気なく盃を取り返して、
「そちや
そう言って、人を追ッ払ったかと思うと、やがてポンポンと手をたたく、お銚子のおかわりだという、もっと、あッさりしたお肴を持って来いと言う、誰か三味線のひける家来は居ないかと言う、権太夫に来て踊れと言う、
いやもう、ふだんのシラフでさえも大概な七男坊様、酔ッたが最後の助、
かくて、やっと乱酔のまま寝所に納まった万太郎に、ヤレヤレと、河豚内はじめ家来どもは、翌朝、思わずいつもよりは寝過ごしました。
しかるに、
また起き抜け早々、朝ッぱらからの一騒ぎ。
今朝になってみると、万太郎は居ない。
また妙に眼の光る町人も、物騒な棒を持ってあるく
二日ばかりの小雨つづき。
大入りあげくの息抜きに、
事の次第はこうであります。
人気者の
「きゃッ」
と、演技中の粂吉が、ばッたりと、床に倒れた騒動であります。
なんで見物がじっとしていられましょう。
「わ――ッ」
と、場内総立ちとなって、何が何やら分らぬなかに、
かかるなかに、押しくずれ、泣きわめく場席の其処此処で、なぐり合い、取ッ組み合いの争闘が、幾組となく行われている。
「逃がすなッ」
「こいつだこいつだ。こいつが短刀を投げた手元をたしかに見た」
「それ、逃げる」
「抑えろ、ばかッ」
「あっ」
「野郎」
いくら落着いて見ていても、だれが打ったのやら、だれが組みしかれているものやら、決して分ったものではありません。
しかしその、ごッたすッたの間に、八方
すると、その動揺した空気が、まだ落着かないガヤガヤのなかで、
「まア、いい、見物に
と、大ふうな口をきいて、
たださえ気の荒い小屋者の気が立っているところだからたまりません。
「
と、だれかいうと、ポカリと一つ。
「あいたッ、何をするんで」
「べらぼうめ、なにが大難が小難だ、やいッ、何がまアいい、まアいいだよ。この野郎、生かしちゃあおけねえ」
と、いきなり彼の
まだそれでも飽き足らず、ほんとに殺してしまいそうなところへ、
「あっ、待ってくれ」
これは前の
「それはおれの連れだ、待ってくれ、おれの連れだ」
と懸命に叫んで食い止めました。
それに一時は手を引いたものの、またお互いに怪しみの目を交わして、
「やい、おれだの連れだのって、てめえは一体見物人か、どこのだれだ? ちッともこの小屋で見かけねえ野郎じゃねえか」
「そりゃ、見かけねえはずだ、おら、旅の者だ」
「何、旅の者が、なんでこんな所に出しゃ張ってまごまごしているんだ。太夫に短刀を投げやがった野郎の片割れにちげえねえ」
「おッと、皆さん、逆上してそう勘違いされちゃ困る。おら、なるほど旅の者だが、太夫の粂吉たあまんざら縁故のねえ人間じゃあない。嘘だと思うなら、今ここへあの女が来るから、それに聞いてみるのが一番確かだろう」
「ふざけやがるな」
と、小屋の連中はますます
「まだ医者の来ねえうちは分らねえが、胸元へ三本も短刀を
と、一方の弁明もガンとして受け取らず、あわや再び、
「おや、何をやっているんだえ」
笑ってそこへ立ちました。
楽屋へ抱え込まれると同時に、死んだものと思って騒いでいた粂吉が、ひょっこり大部屋
「あれ?」
と
「どうしたんです太夫さん」
一同が足元から顔までじろじろ見上げるのを笑いながら、
「どうもしやしないよ、この通りさ」
「へえ……よく何ともなかったもンですね、こりゃ不思議だ」
と、さらに驚きを新たにして、ガヤガヤとお粂を取巻いているところへ、迎えを受けて飛んで来た外科医者も、それには及ばないとお断りを食う始末に、いよいよ今の一瞬の騒動が、たれの頭にも夢としか思い出されません。
ところで、それ見やがれといわんばかりに、息を吹ッ返して起き上がったのは、大勢に袋だたきにされて、へたばッていた総髪の男で、
「アー
すると、側に食い止めていた
「どうだ、これでも何か文句があるのか」
と、息巻きました。
お粂は、総髪の男に向って、
「どうしたのさ、馬さん」
「どうもこうもないよ、おれを捕まえて、太夫さんへ短刀をぶつけた仲間だといやがるんだ。イヤ、飛んでもない飛ばッ散りさ」
「そりゃ気の毒だったね。まあ何しろ、今夜で無事にこの小屋も打ち上げたわけだから、お祝いに、何処かで一杯おごりましょう」
「そうでもなくッちゃ助からねえ」
「だれか、駕を頼んでおくれな。
川辰とは、城下で一流の料亭です。あぶなく死人を戸板で出すところを、吉凶転じて大変な景気。
一座こぞって川辰へ乗りこみました。
そこへ太夫元や何やかが見舞に来る。そして来たほどの者が、すべて事の真相が反対なのに驚き呆れない者はない。
それでもまだ川越の城下では、
それは二階の大広間のこと、
「なあ、伊兵衛、今夜の狂言は首尾よく当ッたな」
「あんまりうまく行き過ぎてやがる。お粂のやつも運がいいや、あれが一本、顔の真ン中にでも当ッて見ねえ」
「事だな、あははは」
「あの騒ぎが本物になるところだ」
「こうなると、やっぱり、馬春堂先生の
タンゲイの語意が、伊兵衛には素直にのみこめなかったものですから、話はとぎれて、盃に手が出る。
九死に一生を得て、
ところでこの二人が、お粂を種にして、一狂言書いたには、なかなか面白い
――まだ興行の
今思い合せると、あれが、伊兵衛か馬春堂であったものと見える。
その翌日一本の手紙が
お前を殺そうと狙ッている者が、毎日小屋へまぎれ込んでいる。日本左衛門の手下千束 の稲吉と五、六人の子分だ。わしと伊兵衛でそれとなく邪魔をしているが、お前の方でも気をつけるがいい。委細はそのうち。
頓首 再拝
こんな調子に書いてある。注告のしてが馬春堂なので、お粂も半信半疑でしたが、日本左衛門がという一点が何しろ気味わるく思われて、その日から人知れず衣裳の下にも真綿の肌着をきこみ、太夫の部屋から小屋への往復にも、充分警戒を怠らなかったのです。
で、千束組の暗殺の手もつけ入る隙がない上に、見物を装って小屋へ紛れこんでみても、いつも伊兵衛と馬春堂がそれとなく見張っているので、とうとう千秋楽の日に、投げ短刀の放れ技で、満目
「だが、ばかにしていやがる、命の恩人を下座敷に置き忘れておいて、お粂のやつはいつまで何をしているんだ」
やがて馬春堂は、
「アアこれこれ、女中ども、女中ども」
と、野暮にぽんぽん手を鳴らしました。
「おい、よせよせ馬春堂」
「何がよせだ、お粂がここへ挨拶に来ねえという法はない。命の恩人じゃないか、わしやお前は」
「分ったよ、分ったよ」
「一応の礼に来ないというのは怪しからん。誰のために今夜のあぶない所が無事に助かったと思う? エ? 伊兵衛」
「おれに文句をこねたッてしようがあるめえ」
「だ、だから、粂吉をここへよこせと申しているんじゃないか。太夫もへッたくれもあるものか、馬春堂先生が用があるといって来いッ。こ、こ、
と、先生は、しゃッくりをしながら呶鳴っております。
二階の大一座のくずれた頃を見計らって、
「まあ、大変な
「粂吉がごあいさつにまいりましたから、
と、伊兵衛と馬春堂の間に坐りこみました。
先生は大いにテレて、
「まあ、粂吉太夫、御座あらせられましたネ」
「ハイ、おん前に候」
――と粂吉も人を食って、
「ずいぶん久し振りだわねえ」
と、
それで、計らずもしゃッくりの止まった馬春堂は、けろりとした酔眼をお粂の姿に改めて、
「そうそう、今年の正月、水門
お粂もその時の事を思い出しておかしくなりました。当時、お粂とこの二人とは、何となく気まずい間がらでありましたが、日本左衛門とは縁が切れ、金吾のそばからは離れているお粂であってみれば、伊兵衛や馬春堂がこの女に敵意を持つ理由もなく、お粂もこの二人を目の
そこで。
冗談は冗談として、過日の注告や、今夜のことを改めて礼をいうと、馬春堂はそれですっかり虫の納まったふうですが、伊兵衛には胸に一
「なに、礼なぞには及ばねえことだが、おめえ、この先の興行を一体どうして打つつもりだい」
「この先?」
「そうよ!」と伊兵衛は
「あぶねえのはこの先だ、いろいろの事情を聞けば、日本左衛門はどうしても、おめえを殺さずにはおくまいと思う」
「それを思うと、
「しかたがねえ、蛇を食ったむくいでね」
「
「だが、今さらなんといったところで、千束の稲吉は、日本左衛門からいいつけられたところを、やり遂げるまでつけ廻すにきまッている。この川越を打ち上げて、次へ行けばその土地へ、そこで殺せなければまた次へ」
なるほど。
そういわれて見ると、今夜の無事を祝ってはいられません。――お粂は伊兵衛のことばを聞くにつれて、思わず気が沈んで来ました。
お粂の弱みを突いて、うまく話の水を向けた伊兵衛は、
「仮に日本左衛門のことがないにしても、これから先の旅先で、女ばかりで興行して歩くうちには、ずいぶん難儀が多いものだ」
と、親切顔に、うまく話を取り結ぶところへ、馬春堂もそばから
「そうとも、だから大概な小屋には、やくざな浪人の用心棒が、ひとりや二人は必ず楽屋にころがっているものだ」
「どうだいお粂、実あおれ達も、例の一件で、当分江戸から足を抜いている体だ。一ツその用心棒格で、おめえの一座を見てやろうじゃないか」
「よかろう、それは是非ともそうありたいものだて」
と、馬券堂は自分が相談をうけているようにのみこんで、
「さしずめ、馬春堂先生を軍師とし、伊兵衛を旗本として連れてあるけば、嵐粂吉の一座も天下に怖いものなしじゃないか。――なあに、場合によれば、わしが木戸へ坐り、伊兵衛がお手の物の笛ぐらいは吹くさ」
――などとしきりに打ち
とやかくして、次の興行地へ旅立つ支度をしている間に、川越の景気を聞き伝えて、例のいかもの部屋の太夫元へ、粂吉一座を買いに来る地方の飛脚が
いつのまにか、粂吉の番頭とも用心棒ともつかず部屋へころがり込んだ馬春堂と伊兵衛が、何のかのと、それらの相談にも口を出して、やっと取り極めたのが甲府で十日百七十両三
「田舎にしちゃ思い切って気張った方だ、どうです、ここへ一つ乗り込んでは」
と、話が極まッて、途中二、三ヵ所の宿場で打つ安い興行も引きうけ、一座はそれから甲州路を諏訪あたりから上田辺まで打ち廻って、中仙道をグルリと廻って来る方針と
そこで。
一座は粂吉を初めとして、番頭格の馬春堂、用心棒の道中師の伊兵衛、若い娘芸人や
鷹の羽くずしの衣裳つづらを小荷駄の背中にのせて、お粂は例の
わずかなうちに、武蔵野の草もめッきりとのびている。
行くてにあたる甲州の山と
やがてこの一
それは。
一番初めに馬春堂が見つけたので、
「あれ……?」
と、一同に指さしたのが初まりで、みんな等しく足を止めて、その女に小手を
若い娘です。距離があるので、
娘は一頭の白馬に乗って、手に、
「――なんてえお
と、さすが、ばくれん女のそろっている小屋者の女も男も、あきれ顔に見送って、しばしの汗ばみを忘れています。
それから、またボツボツと馬の鈴と人の足が前へ進み出してから、お粂はたれに話すともなく、
「あれはね、たしか高麗村の
そういって、あとは無口になりました。
馬の背にあるお粂の心には、いつか月江と金吾のことが胸苦しく考えられているふうです。
野心家でそして野人的な、
「久米之丞殿。……お留守ですか。久米之丞殿」
門の跡はあるが門の扉はない。
元より門番とか用人とかいう使用人も家族もない屋敷なので、男はずかずかと裏庭へ廻って行って、
「お留守でござるか、久米之丞殿、関殿」
と、
――と、やっとその声を聞きつけたらしく、久米之丞の姿が庭の奥で、
「やあ」
と、いいながら
「やあ」
と、こっちも同じ言葉を返して、
「そんな所においでになったのか、何をしておられるので?」
と遠慮なく寄って行く様子です。
男は
「おや、これはめずらしい」
高麗村郷士の男は、そこへ近づいてゆくと彼の手にある鍬と彼の顔とを見くらべて、
「あなたが庭木いじりをなさるなんて、かつて見たこともないのに、一体、どういう加減で土いじりなぞをお初めなさるか」
「ばかにしてはいかんよ――」と久米之丞は、あの物慾満々な大きな鼻を笑い広げて、
「拙者だって、そう
「そうですな、そういえばこのお住居なぞは、実に風流きわまるものでござる。しかし、鍬を持って土を返している久米之丞殿の姿を拝んだのは、何せ今日初めてなので、ちょッとばかり異様に感じた次第でござる……。で、何をお植えなさるので?」
「草花の
「へえ、草花の土床を?」
「そういちいち驚く顔をいたすなよ」
「いや何、まことに、しおらしいお慰みと存じます。ですが、草花の
「そうかな」
「そうかなは心細い。それで何をお
「異国の草花、
「なるほど、異国の草では、種子の季節もよく分りますまい」
「まず、一、二度は、どうせしくじるものと覚悟している」
「鶏血草とは珍しい名前ですな、して、そんな、種子をどういう所からお手に入れなすッたので」
「うるさいなあ」
と、久米之丞は鍬を置いて、
「こっちの
「オオ」
と、郷士の男は頭をかいて、
「失礼失礼、すッかりいうのを忘れました。実は、突然ここへ急いでまいったのは、かねて御隠家様のおいいつけで、見つけ次第に持って来いと命じられている、例の
「なあんだ、夜光の短刀の方じゃないのか」
「はい、その方は、とても一朝一夕には」
「そうだ、そうたやすく
「今日、何気なく、八王子の宿まで参りましたせつ、意外なことを耳にしたので、何より久米之丞殿に、早速お知らせした方がよかろうと考えて伺いました」
「ウム、次郎の
「――と申す次第でもございませんが」
「くどいな話が。……分りよく手短にいってくれ」
「ある女が、それを持って、八王子の千人町へあらわれたのでござる」
「さては、鍛冶小屋に泊まったあの女が……」
といいながら久米之丞は、ブーンと来た熊ン蜂に顔をしかめて、手裏剣をかわすように顔を横にしました。
その郷士の話に依りますと。
鬼女の
近ごろ、関久米之丞は
「よろしい、早速行って調べて見よう」
奥へはいって行ったかと思うと、やがて、裾べりの着いた
「千人町の
「あの町通りに、土蔵造りでただ一軒の質屋でございますから、すぐに分るはずで」
「そうか」
と
「暑そうだな、今日は」と、雲の峰を仰ぎながらいう。
縁の隅にあった
「じゃ、御隠家の
「承知しました」
そして、水口の前を通る時、
「
と薄暗い勝手のなかへ呶鳴る。
「あら!」
その出会いがしらです。
銀毛の馬からヒラリと降りて、その門柱へ手綱をつないでいた下げ髪の娘が、明るい声で彼の前に立ちました。
「やあ、月江様で」
「久米之丞」
「は」
「何処かへ出かけるところと見えるのね。じゃ、また来ましょう」
「暫く、暫く」
と、久米之丞はあわてて、
「出かけると申したところで、さして、急ぐ程の事でもござらん。ま、ま、どうぞ暫く御休息を」
「いいえ、私もべつに、用があって来たわけでもないのだから」
と月江は、ふさふさした黒髪を指ですいて、毛の根に沁みる涼風に眼を細めています。
久米之丞は、ふと、その眼元にウットリと気を
「まあ
「そうかい」
と、月江の方には、さっぱり感激がなく、
「どうしたのだろう……私も、ほんとに困ってしまった」
「何がそんなにお困りでござるか。それ程のおなやみを、この久米之丞にお話がないなんて、お恨みに存じます」
「じゃ、お前も探してくれればいいのに」
「でも何事か分りませんもの」
「しらばッくれて、だから、お前は嫌いです」
と、手きびしく悪たれをいって、ツンと横を向きました。
「……ははあ、分りました。次郎のことでございますな。次郎をお探し遊ばしているので。それは内々、手前も心配いたしているところですよ。え、お嬢様」
「嘘をおいい! お前は次郎なんか死んでも帰らなくってもいいものだと思っているのにちがいない」
「毛頭そんな考えではござらん。その証拠には、オオ、今も今とて、これから八王子まで参ろうとしているではございませぬか」
月江は少し機嫌を直して、
「え、次郎が八王子に居たッてかえ?」
「いいえ、そうじゃございませぬが、その、
――なんだ、つまらない! という風に、月江は
「それがどうしたのさ……」
「物には順序がござりましょう、まず、次郎の
月江は、不意に、元の馬の鞍へ飛び乗って、
「久米之丞や、私も、一緒にそこへ行って見ましょう」
突然なので、彼もあわてながら、
「え、八王子へ」
「次郎の為になることだもの、不親切なお前にまかせておいては
「ひどいことを仰っしゃる!」
「案内をしておくれ!」
ピシッと萩の鞭が鵈る。
と、同時に、黒髪と両の袖が風に浮いてうしろへ
驚いたのは久米之丞です。案内をしろといっても、一方は逸足の駒、こっちは
「月江様! 月江様! もしお嬢様」
手を振りながら馬上の人を追って、汗みどろに炎天の立川の河原まで引きずられて行くのでした。
灯ともし頃の八王子の町を、下げ髪の美女が銀毛の駒に乗り、その供として
しかもその駒が、千人町の
まさか妙齢の
「これ、召使いども、当家の亭主が居たらこれへ出してくれ、拙者は
こんな所へ来てまでも、野侍を
で、黙ってそばに腰掛けていますと、
「番頭、これ、亭主は居るのか居ないのか」
と、久米之丞はいよいよ月江の嫌いな
「少々取りただしたい儀があって、わざわざ
「只今。……ええ只今主人に申し告げておりますから、少々これにて」
何の用事かと驚いているらしい手代や小僧が、しきりに敷物をすすめ
まもなく、それへ来た田能平の主人。
すぐ
「なるほど、仰っしゃるとおり、ちょうど今日の
「して、当家へ参った用向きは?」
「やはり、その質物の御用でございました。……
「ふーむ、妙な事をして行ったな」
「それがその……嘘か
久米之丞は心のうちで、もうてッきり
「して亭主。その節、衣類などのほかに、何かまた別な品物を質入れいたしはせぬか、その女が」
「と申しますと? ……どんな品物でございますな」
「されば、ここにおられるお嬢様のお屋敷から、
「仮面?」
と、亭主はびッくりした顔をして、
「そういうお品物は、お預かりも致しておりませんし、その節お召し
「そんなはずはない」と、久米之丞は頑張って――「確かにその女が所持していたに違いないが」
「はて、ではたれか店の衆のうちで、それを見た者はありませんか」
と手代に聞いていると、ひとりの
「旦那さん、いってもかまわないんですか」
「いいとも。わしが正直にお答え申しているのに、何をかくし立てする事があるものか」
「じゃ、いいますけれど、その鬼女の
「ほんとか」
「嘘なンかいやしません。着物を
「それだ! まぎれもない
と、久米之丞が
――というのは、最前から、店先へのッそりとはいっていた編笠の侍が、笠のまま、ふところから一個の
「おい、これで二
と、手代の前へポンと抛り出したので、その
刀の
「ところで、亭主」
「はい」
「もう一つ聞き置くが、その怪しげな女は、当家で
――店先では、編笠の浪人が、
「そういえば、店を出る時、
「ふーム、では甲州路へ向ったな」
「左様かも知れませぬ」
小仏峠へ?
――久米之丞が、じッと思案顔をしていると、店先に腰掛けていた浪人の眼も、
「いや、邪魔をしたな」
と、久米之丞が突然に立ったので、月江も一緒に敷物をすべって、
「うるさい事をたずねて、気の毒をいたしました」
「いえ、どう
と、主は店先まで送って出る。
そこの上がり
「ごめん遊ばせ」
と、月江は女らしく会釈をして、久米之丞と共に質屋の外へ出ましたが、二人がそこを出るとまもなく、浪人は、言い張っていた印籠を番頭の言い値にまけて、なにがしかの金を受け取ると、つづいて、田能平の
町は宵の
もう土蔵の
――と向うの葉柳の蔭に
(ここだ、ここだ)
というふうに手招ぎをする。
黙って、向う側へ寄って行った編笠と、待っていた
「――そうか、じゃあ今そこを出た二人は、あれから
「そうらしいよ、
「だが、
「今夜のうちに、麓の
「なるほど」
「ところで、こッちの方寸は」
「この質屋で姿を更えて行った女が、切支丹屋敷のお蝶ということが分った以上、何もあわてることはない」
「ウム、いわば袋の鼠だからな」
「
「じゃ、こッちはその上の手段とするか」
「そうよ」
と、一方の編笠は星を仰いで、
「小仏越えの道は
と、
無論、これなん日本左衛門と
川越の宿や扇町屋あたりの噂から、わずかな手がかりを得て、ここに、ようやく迷路の人――切支丹尾敷のお蝶の行く姿をみとめ、今は心にも多少、余裕があるふうです。
日本左衛門はお蝶の
時刻にすればそれとは行きちがいに、
ここは、旅をするほどの者がたれも知るとおり、甲州街道の
峠の
かかる山ですから好んで夜旅を試みる者もなく、
だのに――殊さらに宵も過ぎた時刻を計らって、この小仏へさしかかって来た女の心事こそ怪しむべき限りです。
しかも、とぼとぼと小仏へ向ってゆく姿を、星明りによく見ますと、
それは、切支丹屋敷のお蝶でした。
十九の春まで、ころびばてれんの娘として、
「水……」
喉が
氷のような冷めたい風に吹かれながら、五体は熱く、ねっとりと汗ばんでいる。――で、どこかに流れる水音を聞いて、お蝶は急に焼きつくような渇きをおぼえました。
「ああ……冷めたい……」
岩根の流れをすくって、お蝶は初めて山の肌と同じ寒さをおぼえたように、ぶるッと、身をふるわしたようでした。
でも、まだ後ろを
「とても、今夜のうちには越えられそうもない」
お蝶も今はそう思うのでした。
また、そうしてまで、道を急がなければならない理由も彼女にはありません。
では、何で、ふつうの旅人も大事をとる山越えに、夜を選んで来たかというと、それはむしろお蝶には安心な方法で、彼女の旅は、昼よりも夜こそ
人は夜を怖れますが、お蝶は昼が怖ろしい。
それよりも、むしろ夜の旅こそ、お蝶にとっては気楽でした。また生来十二、三の少女の頃から、お蝶は、人のように夜を気味わるがらない
とにかく、お蝶はそうして、甲府へ行こうとしています。
「甲府へゆけば、小さい時、私に乳を飲ませてくれた
そんな、おぼろげな目あてです。しかし、彼女の本心をのぞいて見ると、その乳母をしたって行く目的よりも、江戸を離れよう、江戸から遠くへ身をかくそう――そうしたものに、追われる気持に、追われて歩いているのです。
――やがて、少し道が胸突きになる。
お蝶の歩く星の下はいよいよ暗く、いよいよ
「オオ――イ、オウ――イ」
遙か下から、
彼女は、ふと足を止めて、
「……私を呼ぶのかしら?」
騒ぎもせず、そういって後ろの谷をのぞきましたが、その時見ると、薄化粧のお蝶の顔は、いつか、
お蝶は暫く立ちすくみました。
しかし、耳のせいか、べつな者を呼ぶのであったか、程なくその声もかき消えて、足元の
で――彼女はまた小仏の上へ向って、そのまま歩き出しました。
肉眼に見えぬ夜の空も、絶えず動いているものとみえまして、麓あたりでは
何となく、お蝶は胸に思いました。
「ああ、今年の
去年の星祭りには、七夕の歌を書いて、あの
その父も、今は天国とやらに帰ってしまった。――あるいは、その
「お
空を仰いだ般若は胸で
「ゆるして下さい、お父さん。――とてもお蝶には、あなたが最期の時に仰っしゃった、夜光の短刀なんて、探し出す力はございません。……オオ怖い星の目! お父さん、あなたは私を睨みますか」
小仏の夜路もこわいとは思わないお蝶が、なぜか、ぶるぶると足をふるわせて、
「睨まないで下さい、お父さん。……だって私は
夜は一足ごとに深まります。
聞く人もないと思うもの故、遂には、思わず、独りごとの声に出て、歩みつ仰ぎつ、髪そよがせた
しかし。
たれが彼女の泣き声に答えましょう。たれが彼女の訴えに正しい裁きを聞かせましょう。
風と足。
天地はそれあるばかりです。
シュクッ、シュクッ……と般若が泣く。
この仮の顔は、彼女が武蔵野の草深い所から、夜旅をつづけて来た唯一の護りでありました。昼は宿に寝、夜ばかり歩く若い女の身を、無事に護ってくれたのはこの鬼女の
野路、山路、あるいは真っ暗な松並木で、
――その後、
さて。
そうしてお蝶が峠の二合目あたりを辿って行くうち、
影をかぞえると、三人か、四人。
それは、宵に若い女の夜立ちを見つけて、幸運の抬い物でもしたように、
「ほい、また
「どッちへ行きやがったろうか」
「女の足だ、先は
などと、
ですが、彼等にしてみれば、この小仏の日ごとに往復している帳場なので、難路も一
お蝶は、最前下の方でオ――イという声を確かに耳にしましたが、まさか、そんな女肉の
しかし、いつまた、忽然と物騒な男に会わない限りもないので、例の
「あ、ここが小仏の石地蔵かしら? ……」
ふと見ますに、そこに一
けれど、峰の地蔵にしては、ここはまだ、四、五丁の胸突きを越えたばかりの小平地で、小仏岩までの峠道二十六丁、中の茶屋までの十二丁も前に残っておりますから、
そこへ、お蝶は足を止めました。
実はもう足もかなり疲れたので、この経塚に夜を明かし、また
まあ少し休んで、夜の白む頃までに、甘酒茶屋のある所まで行き着こう。あすこには、気の
「それにしても、その甘酒茶屋まで、もう何丁あるのかしら……?」
堂の縁に腰を下して、上の方を振仰ぎました時、何かパラパラと彼女の顔に音がしました。――
被ってみると、それは、堂の
千魂塚――
墨黒く、筆太くそう書いてある。三ツの大字が、あざやかな模様の如く、
すると――その時、何処かでガサゴソと木を分けて来る人の
三、四人の人声と知った様子です。
「誰だろう?」
お蝶の神経は
とこうするまに、いよいよ荒くれな男どもの声が、すぐその辺まで近寄って来たので、彼女は腹をすえて、白麻の
「おう、居たぜ」
と、うしろの仲間を誘いながら、のッそりと、そこに立ったのは最前の
胸毛をザラザラさせた大の男が三人、いやしげな笑みを交わしながら、堂の
「おい、娘さん――」
そのうちに中の一人が猫なで声で、
「さっきからおれ達が、あんなに呼んでいるのに、聞こえなかったかい?」
と、三方から、薄気味わるく寄って来ました。
――お蝶は頭から白麻の
で――
「ハハア、娘さん、様子を見るにおめえは、ただの町人の御息女じゃありませんね。道理で、女ながらも
と、甲の
「それにゃあまた、やむにやまれない、深い事情があるんだろうさ。どうせおめえ、ただの身の上でねえ事は分っていら」
「なるほど、さもなければ、こんな峠を、若い女が夜歩きする訳もねえはずだな」
「エエおい。可哀そうじゃねえか、この先、何処へ行くのか知らねえが、事情を聞いておれ達が、この
「そうだとも、こんな姿をして、五街道のうちで一番物騒だというこの甲州路を歩いてみや、
と、丙の男がそろそろとお蝶の体へ近寄って、膝の上の白い手へ
「オヤ」
と、そこで狼連は予定のごとく腕を
「この
「おれ達は、この小仏を帳場にしている悪玉ぞろいの人足だ、それに見込みをつけられた以上、どう騒いだところで追ッつかねえんだから、
ひとりが突然、お蝶の
――最後が来ました。こういう男どもの強迫に出会うと、
元より、貪慾好色なあぶれ者は、思いがけなく小仏の
彼女の身に危機は迫ッているのです。悪玉の毒気と爪は、すでに、手足にかかっています。
アレ――ッ!
当然、そういう悲鳴のあるべき場合を、お蝶は静かに左右の太い腕をもぎ離して、
「あら、何をするの、くすぐッたい!」
口程にもない悪玉三人、何に胆をつぶしたか、道もえらまず千
誰がつけたかこの山では、その建物を
で――今ではその下頭小屋が、乞食の願望どおり小仏唯一の
下頭の光また偉大なるかなです。
けれど善根のものもこの
こんもりした沢の低地に、その下頭小屋の灯がもれて見える。果たして、今夜のお客様は、それらのうちの何の種類か?
「おや、誰か来たぜ」
と、
見ると、そこに泊まっているのは雑多です。グッタリと荒壁にもたれて何か考えている旅の男、片隅に首を寄せて、銭の音をさせているこの峠の荷持や馬子、
「おお、駆けて来る」
その多種多様な首がヒョイと上がった時と、入口の戸が、勢いよくがらッとひびいたのが同時であります。
「やあ、
なかで顔なじみの者が、一斉にこういうと、飛び込んで来た三人の男は、雪に吹ッ込まれたように後を閉めて、
「オオひどい目に会った」
と、顔なじみの仲間に割り込んでくる。
「どうしたんだい今頃」
「どうもこうもあったもんか、……ああ驚いた、
と、三人が三人とも、口を合せて顔色を変えているさま、ただ事ならず思われましたので、
すると、毎日同じ帳場で
「よせやい、悪い事にかけては、名うてなおめえ達が、人並に胆をつぶしたなんていったッて、だれが真顔にうけるものか」
「ところが、その悪玉のおれ達が、キャッと悲鳴をあげて来たんだから話はすごいや」
「ヘエ、ほんとかい?」
「嘘だと思ったら、だれでもいい、この上の千魂塚まで行って見ねえ」
「そこに、何が居るッていうのか」
「女よ! しかも素敵に美しい」
「野郎、いよいよ人の退屈をなぐさみに来やがッたな」
「どうして、話は本筋だ、まあそう茶化さずに聞きねえッてことよ。――実はというと、こッちの
「なるほど……」
「で、誰だって、
「もっと、悪党らしく話してしまえよ」
「ウム、そこで三人が、ちょっとおどし文句をならべて、そろそろ側へ寄って行ったが、返辞もしなければ、逃げもしねえ、おや、こいつは、年にしては……と飛びつくと、どうだろう……」
「どうした?」
「ゲラゲラッと笑ったものだ」
「えっ、笑った?」
「あら、くすぐッたい――、そう言ったような気がしたので、ヒョイと娘の顔を見ると、真ッ青なんだ、その顔がよ。――口は耳まで裂けているし、眼は百
こう
すると、片隅に
ふと、身を起こしかけて、そら寝入りをしていたその男は、千魂塚から飛んで来たならず者どもがあまり自慢にもならないしくじりを、さも怪奇きわまる事のように
で、三人の
いくら小仏だって、今の世に、そんな妖怪や
いや、そうじゃない――とまたそれに反説をかつぐ者もあって、狐だろう、狸の
また一人の旅の坊さんは、すべての俗説をしからずとなしてこう言う。
――それは木の精でも妖獣の
「いやだぜ坊さん――」と一座が襟すじを寒くしていますと、片隅に
「もし、その千魂塚とやらは、これからだいぶ先でございましょうか」
と、初めて、明りの届く所へ顔をあらわしました。
「や、お前さんは、大山から
「左様でござります」
「今頃に、千魂塚の道なんぞ聞いてどうするつもりだね」
「いや、にわかに急用を思いつきましたので、これから峠を越えたいと存じますが、今のお話に気味が悪く、そこを避けて行きたいと存じますので」
「やれやれそいつは大変だ、どんな急用があるのか知らないが、夜が明けてからにしたらどうだい」
折も折なので、しきりと止める者もありましたが、若い行人は身支度をして、教えられた間道から小原へ越えると言って、まもなく、ただ一人で
よせばいいのに。
さだめし後では下頭小屋でそう言っていましょう。一歩、
しかし、やがてだらだらと上へ
それから沢を向うに渡って、狭い道を流れに沿って行けば、小仏の裏道、例の千魂塚の前を通らずに、甘酒茶屋の先に出る――と下頭小屋で聞いて来たはずなのに、その男は、敢て、右手の登りへかかりました。
小仏越えの本道、星影のつづら折りを
彼はそこに立って、あたりの暗を見廻しました。
四
「はてな? ……」
ゆうべ、下頭小屋で夜を明かした連中は、今朝もまだ、千魂塚の話でもちきりながら、ぞろぞろと
その人々と別れて、一人スタスタと急ぎ足に帰って来た
「お早いお立ちでございますな」
と、声をかける。
それに振向いたのは、ゆうべ
「お、宿の男か。昨夜は遅く着いて、いろいろと世話であった」
「どういたしまして、私はあれから、
「そちが、あの刻限の頃から用達に行くようでは、この小仏も、大した
「ところが、どうして、馴れておりますから夜でも歩くようなものの、ふつう、旅のお方には決して楽な山ではございません。――それに、昼ならまだよろしゅうございますが、ゆうべもこんな事がございまして……」
と、問わず語りに、ここでもまた、千魂塚の怪女のことを立ち話に持ち出しますと、久米之丞と月江とは、ほくそ笑みを見合して、ひそかに目と目でうなずきました。
しかし、
「お嬢様、今の話の様子では、あの女もまだ遠くには参っておらぬようでござる」
「今日いッぱい、足を早めて行ったならば、追いつけるかも知れないね」
「ただ、この嶮しい道を、あなた様のそのお優しい足で歩かせるかと思うと、久米之丞は負ぶってでも上げたいように思います」
「久米之丞。よして下さい」
「なにが?」
「お前がそんなに側へ寄って歩くと、人が、
「いいではございませんか。お嬢様。どうせ馬方や荷持などは、とかく口の悪いもの故、そんなことを気になされていては、道中を歩くことはできません」
「お前は、私のあとから離れてお歩き。……いいえ、もっと、もっと後から――」
と、月江はぐんぐん先に出る。
彼女の乗り馴れた銀毛の駒も、この小仏越えには
下頭小屋にたどり着いた時、そこで、接待の麦湯をもらいながら、手代から聞いた千魂塚の真相を、なおもよく聞きたいと思いましたが、もうゆうべの者は一人も足を止めていないので、そんな噂を知る者もありません。
汗をぬぐい、食事をととのえ、やがてそこを出たのが
「ああ、山はいいね、こんな道を、秋の落葉が落ちる頃、お
鳥の声を仰ぎ、清水のせせらぎをのぞいて、ひとりでこんな事を呟いて行くくせに、久米之丞には一言も話しかけない。
道連れもなく、一人で歩いているような月江の様子です。けれど、久米之丞はもうそれに大した不平も抱いていない。彼もまた、一人旅の味気なさをつづけるものの如く、月江のうしろ姿に
一歩一歩、山は
程なく月江は、路傍の
それを眺めて、急に休みたくなりましたが、横手の
道は、また暫く平地になってくる。
頼む木蔭もあらば休みたいがと思っていますと、うしろの方で、
「痛い」
と、久米之丞の声がしました。
振向いてみると、彼は、片足を抱えたなり、
「久米之丞、どうかしたのかえ?」
足を戻してゆきますと、彼は、顔をしかめながら、
「石につまずいて、
「おや、それは困ったねえ」
「どうも痛くって、意地にも我慢にも歩けませぬ。おそれ入りますが、
「じゃ、私がそこを
気前よく、
「あれ、勿体ない」
と、
「何をするのッ」
「いい見晴らしではございませぬか。少しここで休みましょう。折から、前にも後ろにも、ちょうど人影が絶えている」
「嘘を言ッたんですね――生爪を剥がしたなんて」
「この長い峠を登るうち、
「……お放しッ、この手を」
「いえ、放しますまい。……麓の宿屋で、ゆうべも拙者があんなに申した
「返辞? ……」
「またあんなに空とぼけておいでなさる」
「お前こそ、よい程にたしなむがいい、
「ああ、お言いつけなさいまし。――夜光の短刀を見出した時は、晴れて添わせてやるぞとは、千蛾老人も御承知のおことば」
「知らない、知らない! 誰がお前などに!」
「いくらそッちで嫌っても、老人の
「よして下さいッ、けがらわしい」
「ふン。けがらわしい? ……」
「お放しッ」
やにわに、月江が爪を立てると、久米之丞は苦もなく
「やかましいッ、声を立てるな」
野獣の野性をあらわして、彼女の体をかかえ込みます。
胸のムカつくような体臭が、彼女の呼吸を圧しました。月江は
久米之丞はもう盲目です、情炎の
――月江は声かぎり人を呼ぶ。
逃げては捕まり、起きては引きずり倒される。ああ、誰かここへ来てくれないか、ここへ来てこのいやらしい奴を
彼女はまた、久米之丞に組み敷かれながら、目を閉じて念じましたが、高麗村郷士きっての
でも、二、三度は、必死に男を跳ね返し、あるいは投げつかわしつして、逃げられるだけ逃げのびましたが、のがれて行く先は
「次郎――次郎や――ッ」
疎林をつんざく月江の声。
ここで次郎の名をよんでも、次郎が救いに来るわけはありませんが、彼さえ居たらば――と思う念がせっぱつまッて、思わずそう呼ばせたものでありましょう。
「月江ッ、月江ッ」
久米之丞は呶鳴りながら、逃げ廻る彼女を追って、疎林のうちを駆けめぐっていましたが、もう見得も外聞もない情炎の獣に、なんの仮借がありましょうか、
「うぬッ」
と、うしろから
片手に喉を
瞬間、死ぬか――と思われた程、月江の顔色がサッと白く変りましたが、彼女の必死な手はここを最後と念じて、帯の間の懐剣を、肩の後ろへひらめかせる。
不意を食った久米之丞は、
「あっ」
と、彼女の体を突き放して、その途端に、
「ちッ、女と思って、よいほどにしておけば、よくも生意気な腕立てをしおッたな。おのれ、どうするか見ておれよ」
言うなり腰の
月江も三日月
――それにひきかえて月江の方は、もう血色も呼吸も苦しげに迫っている。ねッとりと執念ぶかい男の刃は、かくて一寸二寸と彼女をうしろへ追いつめました。
(あっ! ……もう駄目だ……)
はッと驚いた久米之丞が、刀を引いて、飛びつこうとしたはずみに、その短剣は飛魚の如く、おのれの素面へ風を切って来ました。
あぶなく顔の真ン中に穴のあくところを、身をかわした久米之丞が、ふと見ると月江はもう
「ちッ、畜生、逃してなるものか」
疎林を抜けた途端です。
引ッつかまれた帯の端に、それが解けて、月江の体がくるくると無残に廻って倒れたかと思いますと、――どどどどッ――と足元の土が地崩れのようにメリ込んで、
「おっ!」
と、久米之丞も、
「アア、あぶねえところ……」
思わずホッとつくため息。
人間の心の機微、必ずやその時は、獣情に燃えていた久米之丞も、冷やりとするのと一緒に、命びろいをしてまア好かった――と思ったことは思ったでしょう。
が――気がついてみますに、そのよろこびもホンのつかの間。かんじんな、月江の姿が消えている……。
あっ、谷底へ。
一道の赤土が、岩の肌や
「しまッた!」
と、初めて、心の底から出た彼の舌打ちが、いかにも
それさえあるに、途中の木の枝にからまっている月江の帯を、茫然、自失のていで、ぼんやりと見つめている彼のうしろから、
「久米之丞! こッちを向け」
と、人をばかにした人間の声がしました。
そういう人を
「えっ!」
と、思わず彼がうしろを向いた途端に、
「間抜けッ」
と、叱りつけるような一喝。
あっ――とかわそうとしたが、後ろは谷です。と言って、前から風を切って来たのは、相手の
「あ――何者ッ」
久米之丞は、その無鉄砲な抜き討ちをかわして、さッと、横ざまに飛び
「人違いするなッ、人違いを!」
と相手を確かめようとしましたが、さらに烈しい二
ぜひなく――久米之丞はまったくぜひなく、太刀を取り直して斬り合いましたが、心は月江の落ちた谷底にとらわれていて、必死な反抗も持ち得ないのであります。
で、自然と受身になりながら、
「人違いであろう、拙者は武蔵野の
と、言い訳に似たことばを続けざまに叫んでいましたが、事面倒と思ったか、今まで手ぶらで眺めていた相手の連れらしい
「やかましいッ」
斬った男は、いつのまにか、岩の根に腰をおろして、両手に頬杖をかいながら、
「――可哀そうなことをしたな、折角、いい夢を見ていたのに」
相手に立った一方の者が、こんな事をつぶやきながら、死骸を谷間へ蹴落とそうとすると、
「あ――待ちねえ」
ふたたび編笠が腰を立って、
「念の為だ……」
と、前後を見ながら顎をすくう。
「ウ、なるほど」
頷いて、そこに、しゃがみ込んだのは
八王子千人町の夕暗から、絶えず、この二人が
「金右衛門、何かあったか」
と、日本左衛門がそれに振向くと、
「ウム……小銭のはいっている紙入れが一つ」
返辞はしません。
日本左衛門はただ
金右衛門は死骸から取り上げた幾つもの品のうちから、その紙入れを
「――
と、それも抛り捨てながら自問自答に、
「懐紙、銀ぎせる、
「どれ」
と、初めて日本左衛門が手を出しました。
それは、ほんの心覚えだけに、久米之丞が懐紙へ書きつけておいたものらしく、
こんな意味も連絡もない端的な文字が、墨色もその時さまざまに
「あっ、しまッた事を……」
「なぜ?」
と、金右衛門は不思議な顔でした。
「あいつを生かして置けば、何か手懸りがあったに違いないものを、こりゃ少し
と、日本左衛門は、その書き散らしの懐紙を紙入れのなかに畳み込んで、
「そうだ、せめて月江という女をこの谷底に探してみよう。事によったら、助かっていまいものでもない」
先に立って、谷間へ下る道をたずね、わずかに猟師の通うらしい一筋の道を見つけ、岩藤の根を足がかりに、絶壁を下へ降りて行く……。
昨夜以来、日本左衛門がそっと久米之丞を
で――生かして置くのに――とあとで後悔をしたわけでありますが、この上は、一方の月江を探してたずねたら、また何かそれについていい手懸りがないとも限らぬ。
こういう
本来、この
断崖の途中まで降りてくると、金右衛門が
「お、ここに、さっきの女の帯が引っ
と示しました。
「じゃ、月江は、いったんこの辺で止まってすべり落ちて行ったとみえる」
「そうさ、この這い松に帯を取られて……」
「そこから下の方に、倒れている姿が見えないか?」
「見えない」――と金右衛門は谷底へ手をかざして、
「まだまだとても下までには
「谷河の水音がする……」
「ウム、遠雷のように」
「うまく、水の上に落ちていれば助かるだろうが」
「おッと、兄貴」
「どうした、金右衛門」
「お
「なに、行き止まりだ? ……そいつは都合が悪いな。こんな所を曲りくねりして降りて行くと、どの辺に月江が落ちているか、谷へ降りてから見当をつけるにまた一骨折りをしなけりゃならねえ」
「――といって、その這い松から下の崖は、まるで、
「じゃしかたがねえ、我を折って、ほかの道を探すとしよう。だが金右衛門、今もいったとおり、下へ着いてから見当がつかねえから、その帯を丸めて、ここから真っ下へ投げておいてくれ」
「帯をか?」
「そうだ」
「目印にだな?」
「ちょうど
「なるほど、そいつは妙案だ。西陣だが浮織だが知らねえが、このあでやかな女の帯を、谷底へ
「だが、途中で風に
「おっ、心得た」
と金右衛門は、断崖の
無風状態のようでいて、絶えず底から吹き上げている渓谷の冷風。
――途中からサッとなびいて、一筋に長く解けた女の帯は、色鳥の尾か、雲から捨てた
しかるに、その時です。
小仏の峰を裂いて西へ落ちる星影川の渓流に沿うて、しきりと、人でも探すように歩いていた
「おや、何だろう」
行者笠とよぶ
見ていると――帯は長く尾を
なんと、美しい謎。
いたずらにしては風流すぎる。
と、思いながら、白ずくめの行人姿は、しばらく
ゆうべ
「はて……あれは?」
女、女、女、女――と胸に
金吾にとっては、実際、妙な心地がしたでしょう。
彼の目には、実際、妙な謎とも見えたでしょう。そして、これは何か、人智を
しかし、いくら見直しても、その歴然たることは、若い女の帯であることです。
「不思議な? ……」
幾度も同じ思案をつぶやきながら、その一端に手をかけて、ズルッと引いてみますと、帯は
峰から笠が飛んで来たとか、人が落ちて来たとかいうなら、まだ椿事とするに足らないけれど、女の帯だけが? ……人は見えずに帯だけが? ……
彼にはどうしても分りません。帯の依って起るいわれとこの結果の間が少しも想像がつかない。
そこで、何の目的もなく、いったん手に丸めた帯を木の根において、そのままそこを立ち去ろうとしましたが、またふと、何か去りがてな魅力があって、帯が自分を呼び止める気がする。
いよいよおかしい。
金吾はその帯を疑うよりも自分の心を疑って来ました。――帯が自分を呼ぶ? そんな
ですが、どうも、それにうしろ髪を引かれる気がしてならないのを、深山に起るあぶない心の錯覚として、邪気を払うように、杖を取り直してスタスタと立ち去りました。
それは、金吾の理性として、いつも
なぜかといいますと――金吾が自分の気のせいだと思い消したのは、その心こそすでに疑心の霧にくるまれていた証拠で、事実、木の根においた女の帯は、一度ならず二度も三度も、彼を呼んでいたのであります。
いや、帯が金吾を呼び止めたといってはいいようが悪いとすれば、置かれた帯の近くに倒れていた者が、彼を呼んだといい直しましょう。
その喬木の根から渓流の水ぎわへ、だらだら下がりになっている草むらが、三尺ばかりくぼんでいる。
のぞいて見るとその中に仆れている人間です。……まだかすかな
彼女は、
一歩、ああまことにただ一歩、金吾がそこへ近寄って行ったならば、
知らぬとはいえ、なんとすげない、去り行く彼の姿。
ひとり、渓流のほとりに、月江は苦しげな息でした。死なんとする虫の姿でした。
一方。
日本左衛門と金右衛門の二人は、かなり降りた崖の中腹から這い上がって、いったん元の所へ引っ返すよりほかに道がなかったのです。
「なんだ、御苦労様な」
「いまいましい、何処か、降りる道がありそうなものじゃねえか」
そこで腕ぐみをしながら、未練に谷間を眺めていますと、山馴れた足どりで、二人のうしろを通りすがった者があるので、
「おう、町人」
金右衛門がよび止めて、
「そちはこの
歩調を共にしながら訊きますと、男は簡単に、これから七、八町行った先の
そしてなお、
「して、そちはこれから何処へ参るのか」
「へい、峠の甘酒茶屋へ参りますので」
「甘酒茶屋というのは?」
「中の峠を越えたその先の
「そうか。それでは、いずれその時に礼をするぞ」
「どういたしまして。じゃ、お気をつけなすって」
「御苦労だった。ここを左に降りるのだな?」
男の話した、虚無僧兄弟の血のような赤い
ここも、前の道と変わらない
しかし、降りても降りても羊腸として尽きないところは、さっきの行き止まりと違って、こんどこそ見込みがある。
「おう、だいぶ谷間らしくなって来たな」
と、日本左衛門は笠を上げて、紺碧な空を井戸の底からのぞくように見上げました。
「水音が近いぜ」
「星影川だ」
「ううム、さすがに此処まで来るとゾッとするように涼しい……。お、兄弟、河があった、河が……」
「は、は、は、は。おめえのような悪党も、こういう所を迷い歩くと、子供みてえになるから
「なぜ?」
「何も、河があったッて、そう珍しいことじゃあるめえ」
笑いながらその渓流の水層岩に身を立てた時、初めて、小仏全山の
「さあて、これからまた、今度はこの上流へ七、八町逆もどりだな」
「そうだ。しかし、帯はすぐ見つかるだろう」
「やはり、ああしておいてよかったな」
「や、兄貴!」
「なんだ」
「だれか向う岸へ来る様子じゃねえか」
と、金右衛門が小腰をかがめて、渓流の対岸に見える
ここに道がある以上、ここを通る人のあることも当然ですが、暗緑な谷の
「おお、あれか。……滝があるな、この
「どうして」
「山に籠って、水
「なるほど。……では、あいつが行き過ぎるまで、ちょっと一服していようか」
「よかろう」
あの高い所から、一気に降りて来た折なので、異議に及ばず、日本左衛門も腰をおろして、カチ、カチ、と涼しい
そうして、一服吸いながら、
期せずして、奔流をなかに隔てた双者の眼は、そこでピタリと見合いました。
――すると、その刹那に、
「おう!」
と、驚いた対岸の人。
「ややッ?」
と、
ああそも、これなんらの突然。
月白き半島の千鳥ヶ浜以来、ここに再び巡り会いました。
――
しかしです。
皮肉にも、ハッと見合った双者の間には、足を入れて渡るにもよしない星影川の水が十一間の幅をもって奔流しています。
いかに仇敵の間柄でも、この奔流の水を隔てて向い合ったのでは、何ともしようがありません。
腕も及ばず、剣も届かずです。
(ウーム金吾だな! 身なりは変った装いをしているが、まぎれもない相良金吾!)
(オオ、おのれ日本左衛門)
と双方、
無言の闘争、目と目の根くらべ、いつまで果てしなく見えました。
これ以上の行動は、日本左衛門と金右衛門が、死を
だが、争闘の意気ごみというものは、そんな
で、まったく、この空気がうごくことは絶望です。
どうなる事か、精と根気にまかせて、暫くはその成行きを傍観しているよりほかに、連れの
そのうちに、眉毛もうごかさずにらみくらしていた日本左衛門が、
「わははははははは」
と、
どッかりと足元の岩に腰をおろすや、手にしていた
「おい若造!」と金吾にいうのです――
「まアそこに腰を下ろしねえ。変なところで会ったものだが、
あたかも辺りにある
むかッとしましたが、相良金吾にも、手を下してゆく方法はない。
しかし、彼のごとき複雑でない、また彼の如く横着でない、単純一徹な金吾には、対岸の哄笑に対して、同じような大声の笑いを投げ返してやることすら出来ないのでした。
まだ、衝動の紅潮を、耳のあたりに残しながら、ことば鋭く、
「ぬかすなッ、日本左衛門」
と、足をあげて蹴らんばかりの語勢です。
「人を
「なに、この激流を渡って来るのか?」
「ちッ! 待て待て」
つとめて、自制しながら、金吾はいつか吾ながら見苦しく
「金吾! 何をキョロキョロしているのだ。越えて来るなら早く来い、こっちは用事のある体、
「ばか野郎め、向う河岸で腕まくりをしていやがる。あはははは、飛んだいい
毒口を叩きながら、金右衛門も野袴の
「卑怯者、逃げるなッ」
激流の
「なにッ?」
と、
「逃げるとは、なんの寝言だ」
「では、なぜ待たぬ!」
「待つ弱みはない」
「
「だまれ。ならば、こッちへ渡って来るか」
「ウウム」と、金吾はいいづまりましたが、
「この上流に行けば、石を伝って、自由に越えられる所がある。そこまで歩け」
「オオ、
「だまれ」
金吾はいよいよ烈火になって、
「その広言は後で申せ」と、流れの
対岸の日本左衛門も金右衛門と共に、岩を避けて進みながら、
「よし、それ程死神につかれているなら、望みにまかせて討ってやろう。……だが金吾」
「多言は無用、あとのことばはこの流れを越えた上で聞こう」
「
「
「ウム、おれが尾州の
「そればかりか、この
「待て待て金吾。黙って聞いていれば、少してめえ達のいい草は勝手すぎる。そもそも、
と、相手の口吻を真似て、どこか
「――いいか、まだ先の道は三、四町あるから、
「おのれ、ぬけぬけと口をふいたそのいい訳、たとえ、
「はははは、苦情のつけように困って、こんどは、金吾個人の意気地とおいでなすッたな。――ならばかえっておれの方にこそ文句があるのだ。おい! 腰抜け武士、
「なにッ、
「おう、
「いい抜けのかなわぬところから、舌のうごき放題な暴言、おのれもう二、三町先へ歩いてみろ」
「いや、
「拙者の
「了戒ほどな名工の刀も、蔭間の腰に差されては浮かばれまい」
「うぬ、いわして置けばよい気になって、蔭間とは何事! 無駄口をたたかずに、行くところまで早く歩めッ」
「オオ、向うに狭い瀬が見えた。急いだところでもう一、二町」
「歩け、歩けッ。一刻たりとも猶予はならぬ」
「ウム、いくらでも急いでやるが、汝、主家の
「なに、不義をしたと?」
「おれが囲っておいた妾のお
「ウウム……」
と、唇をかんだ金吾は、
「どうした! 蔭間侍」
冷然と、そしてまた、鋭いものは、対岸に立った仇敵の
彼はさらに、皮肉きわまる口をひらいて、顔色蒼白となった金吾をながめながら、
「
「…………」
「おれのことばが違っているか」
「むッ……」
「犬!」
「…………」
「蔭間!」
「フウ……」
「よも、返辞はできまい。それとも、貴様の口ぐせにいう大義名分を引ッ込めて、おれを
言々句々、毒をふくむうちに明白な理をもって、
武士として、男として、かばかりの無念がありましょうか。
金吾はぶるぶると身をふるわし、
しかし、ひとたび憤念の烈火にみずから恥を感じてみれば、この際、彼に返すことばはないのです。残念とも何とも言いようがないけれど、一矢を
かなり深く、自分を理解してくれている主君や釘勘にさえ、疑惑の目をもってみられているお粂との関係を、仇たり
ああ吾あやまてり。――金吾は髪の毛をかきむしッて自分を罵りたい。
怨むべきは吾が身です。次に、今さら愚痴ですが、憎んでもあきたらぬのは、魔性の女のいたずらな恋慕――内心
(武士らしい名分を口にするなら、お粂との始末から先に洗って来い)
といった相手の放言は、
――最初の気込みをすッかり
「お……、日本左衛門、もう一度待て」
そのうしろ姿に、はッと吾に返って、ふたたび手をあげて、五、六歩追いかけて行った金吾、
「よくぞ言ッた、今の汝のことばを、金吾はきッと忘れぬぞ」
「うム、
「今日は、自分として考え直したこともある故、いったんここでは
「ばかな!」
日本左衛門は笠をゆすぶりながら苦笑して、
「いつでも来い! 出会ッてやる。――だが、おれは風のように天下を往来する緑林の人間、また会おうと言っても、滅多に日本左衛門の
「なんの、たとえ足にまかせ、月日にまかせて尋ねようとも、きっと、探し出して出会わずにおくものか」
「そう手数をかけさせては、おれのことばに男が立たない。……ウム、こうしよう。いつなん時でも、命が捨てたくなったならば出会いの場所と望みの時刻を書いて、何処の塀でも
「オオ、忘れるな、その大言を」
「それまでに、せいぜい痩せ腕をみがいて来い」
仇と仇、そこの渓流をなかに挟んで、互いに、睨み合いのまま、白刃にものを言わすことは後日に約して、両岸の道を一方は上流へ一方は下流の方へ、ここに一時の殺気を解いて別れました。
それから二、三町――
上流の方へ歩いて行った
「惜しいことをしたじゃねえか」
と、
「まあ、そんなことはどうでもいい」と、彼はすぐに常の様子に返っていて、
「それよりは、さっきの帯はまだ見つからねえか」
「お、この辺だな、投げたのは」
と、空に向ってひとみをつる。
金右衛門のひとみが、絶壁に添うて、ズッと足元まで見下ろしてくる
それに気がついて、彼が川べりを数十歩のぼって行って見ますと、
何よりも真ッ先に、日本左衛門の眼に映ったのは、娘のしめているその帯で、
(おう月江だな。運よく助かったものとみえる)
と思いながら、つかつかと歩み寄って、彼女の帯ぎわを後ろから抑えてやりながら、
「お女中、あぶないぞ」
と、ことばをかけました。
不意に自分の帯をつかんだ者があるので、月江はハッと驚いた様子です。
「さ、わしが抑えていれば大丈大、さぞ苦しかろう、早く水を飲まッしゃい」
未知の人の好意を喜んで、月江は目にその礼をいいながら、白い
まだ打身の痛みはありますが、一口の冷水に、気だけはハッキリと
「どなたですか、御親切さまに、有難うぞんじました」
岩にすがって、
「無理をなすってはいけない、さ、わしの肩につかまるがいい」
「でも……」
「なあに、御遠慮はいらぬ」
そこへ
「何しろ、この谷底ではどうするすべもないから、中の峠の甘酒茶屋まで、少しの間御辛抱なさるがいい」
「まことに、お世話をかけて済みませぬ。して、失礼でございますが、あなた方は、ここをお通りがかりの人でございますか」
「ここは、街道を
「では、あの私の連れは?」
「関久米之丞というやつか。あれの死骸も、たぶんそこらの谷間に引ッ懸っているはず」
「えっ」
彼女は、自分をささえてくれている人の
* * *
「おばさん、水を一杯飲ませてくンないか」
ちょうど、同じ日の
たッた一杯四
「水かい?」
と、
「水なら
「オオ
「うちの甘酒はもっと
「飲みてえな、甘酒を」
「ついでやろうか」
「いいよ、おれは一文もおあしを持っていないもの」
「なんだ、おめえは、銭なしで旅をしているのか」
「連れの人にはぐれたので、まだ
「どんな人?」
「偉い人だ」
「ただ偉い人だけじゃわからない。町人かね、それとも、お侍かね」
「一人は町人で、一人はお侍様でおいらが宿屋へ忘れ物を取りに返っているうちに、何処かへはぐれてしまったのさ」
「はアてね……今日はずいぶん人が通ったからなあ? ……」
「困ったなあ、おいらは、その人に会えないと、また今夜も御飯を食べることが出来ない」
と、さも
例の、杖とも槍ともつかない棒をたずさえている小僧といえば、それが、
おやじと称した御家老と、
ところで、甘酒の釜の前で、しょんぼりしている次郎の様子があまりにも
「お前さん、もしやそこに持っているのは、弁当とは違うのかい」
と、疑わしげに
次郎は、腰のそれへ手で触ってみて、
「ああこれかい。これは、
「ばかな衆もあったもンじゃないか」
「なんだい、人をばかだなンて」
「だって、仏様づくる程、お腹が
「いけねえ、いけねえ」
次郎は
「これを食うくらいなら、何もおいらは心配をしないことさ」
「へえ……」と、あきれた顔をして、「じゃお前さんは、腰に飯をぶらさげていながら、腹を減らして困っているのかね?」
「アアそうだよ」
「分らない子だ、何でそんな、くだらない痩せ我慢をして、よろこんでいるのだろう?」
「何も、おいらだって、こんなペコペコな腹をかかえて、よろこんでいるものか」
「じゃ、食べたらよかろう、その弁当を」
「大きにお世話様だよ」
と、口を
「自分が弁当を持っているからって、おいらだけ
それを聞いて、その義理固いのに、甘酒茶屋の年寄がひどく、感服したものですから、無一文なのを承知して、名物の甘酒を次郎の空腹に恵みました。
思いがけない接待に、彼は、ふウふウとその熱いのを吹きながら、
「ああ、うまい」
舌つづみを打っては、
「おいしいかね、小憎さん」
「うまい」
「もう一杯上げよう」
「もう二、三杯もらわずにはいられねえ」
「アア何杯でも」
「そんなに機嫌よくついでくれると、この釜いッぱい飲むかも知れねえよ」
やっと冗談口が出るほど腹の加減もよくなって来たものでしょう。
そこで次郎は、事によると、二人より先に道を追い越して来たのかも知れないから――といって、一個の包みを茶屋に預け、野槍を持って小仏の中の峠から千魂塚方面へと、はぐれた二人を探すべく、甘酒に元気づいてスタスタと引ッ返して行きました。
ちょうど、
すると、障子の
「おばさん、糸と針をありがとうございました。さっきの針箱と一緒に、この戸棚へ入れて置きますから……」
姿は見えませんが、その座敷のうちで、
無論――女、それも若い女の。
ところが、いつのまにか婆さんは、ピカピカ光る甘酒の釜を留守番にさせておいて、店は無人のまま
ただ、その女の声に、
「おや!」
と、
「おかしいな、この甘酒茶屋には、あんな若い声のする娘はたしか居ないはずだが? ……」
小首をひねッているふうです。
ところへ、
「あ、そういえば、今にここへ妙な侍が来るかも知れねえぜ」
と立ちかけ話に――
「気をつけなさいよ、どうも目つきがすごかった。それに、
この者は、最前ここへ来る途中で、星影の谷間へ下る道を例の二人に教えた男とみえます。
下頭小屋でも変な話を聞いたし、千魂塚でも何とやらいう噂もある、お気をつけなさい、お互いに、
やがて、店の
もう、よくせき急ぎな早打ちの
戸じまりを終えた婆さんが、カタコトと気永に何か晩飯のこしらえにかかっていると、最前聞こえた娘の声が、やはり障子を
「さっきお店に来た人が、何かいやな侍に逢ったと言っていましたが、何でしょうね?」
「こんな山の中だから、物騒な事は時々さ。だが、私のように、慾にも色にも縁の遠い人間になると、そりゃあ何処に住んでいても気楽なものだよ」
「
「ところが、それじゃ生きている甲斐がない。やっぱり、お前さんぐらいな年頃で、世の中が怖いようでなければ困るよ。――その怖いのを押して、いいなずけの男の所へ行こうという、お前さん時代が私は恋しい」
柄にもない老嬢の述懐を聞いて、障子の中では、若い女がクスッと笑いを押さえたようです。
いや、或いは、それを笑ったのではなくて、自分がここに宿を借るため出たら目に言ったことばを、先が正直に信じているので
一方で晩の仕度が出来て、やっと、
「では、おばさん。いろいろお世話になりましたけれど、これから峠を下りますから……。そして、これはほんの少しですけれども礼のおしるし、納めておいて下さいな」
と、紙にひねッた小粒銀を、明りの届くところへ置きました。
最前から障子をしめきって、中でシンとしていたのは、手廻りの物、
お蝶です。
これから人も
けれど、質朴な老婆心が、おいそれと、それをかんたんに送り出すものではなく、まあ御飯を食べて――と無理に坐り直させる。
そして、
元より、そんなことは、百も二百もお蝶は承知しておりますが、前に、口から出まかせな口実を言った手前もあるので、素直に俯向いて、聞くだけのことを聞くよりほかにない。
しかし。
だれが何と言おうと、夜のうちに歩かねば、歩くひまのないお蝶です、どうでも今夜のうちに、
何と言っていさめても、思いとまる様子がないので、その強情にあきれたか、遂には、茶屋の婆さんも好意をひっこめて、ではせめて晩の飯でも食べてと、そこへ膳を持ち出してくる。
実は、お蝶はそれもあまりすすまないところなのですが、そうそうこの真っ正直な善人を失望させるのもむごたらしく思えて、
「では、御飯だけいただいて」
言い訳ばかりに、支度のままで箸を収りました。
後で考え合せてみますと、それに彼女の食慾がなかったのも、一つの虫の知らせであったかも知れません。
ちょうど、お蝶がそうしている時刻です。
歩行にたえない月江の体を両方から助け合って、星影川の谷間から中の峠へこころざして来た日本左衛門と先生金右衛門が、ようやくのことで、この茶屋のかすかな
「もう間がない」
と、二人は月江を励ましていました。
「向うに見える
「御親切さまに」
「なに、旅では、こんなことはお互いじゃ」
日本左衛門は、この娘の口から、やがて久米之丞のふところから得た夜光の短刀の手がかりを得ようという
暗を真っ直ぐに見れば、二、三町としか思えなかった道も、また一つの下りと上りを備えていました。今は気が張っているが、これで向うへ着いたらば、倒れたきりで起き上がることは出来まいと、月江はこの上にもこの
やっと辿りついた中の峠の
大日岩のほとりに立って、四方を見廻しますならば、夜とはいえ満天をうずむる星の青い光に、遠くは木曾
あたりを見廻して、金右衛門がひとり
「茶屋だ、ここが甘酒茶屋に相違ない」
と、小声でつぶやく。
勝手な歩調であるいて来たのとは違って、日本左衛門も大分がっかりした様子です。
「早速、戸をたたいて、頼んでみてくれないか」
「うム、一つ当ってみよう」
「浪人者というと、気味わるがるかも知れないが、事情を話してな」
「よろしい」
と、金右衛門が先に立って、
「誰かおらぬか。茶店の者、茶店の者」
まず二つ三つ、軽くそこの戸をたたいてみる。
家の中へはすぐその音がひびいて、時ならぬ人声に、今膳の前で、
「あ……?」と、あの特質のある、
「これ、旅の者だが、ちょっとここを開けてくれ」
金右衛門が二度目にそこを叩いた時、何か答えがあって、目の前の戸がガラリと開きました。
手短にわけを話して一泊を乞うと、こんな例は日常の茶飯事でしかないように、婆さんは苦もなく承知して、もう明りのついていない一間を探って夜具の支度をしはじめている。
疲れと気のゆるみで、月江はその支度も待たずに、上がり口でぐったりと身を投げましたが、その時、まだ外に立って編笠をぬいだ日本左衛門が、
「忘れていた、水が欲しいのであろう。金右衛門、水をもらってやってくれ」
「水か」
と早速土間から部屋のなかをのぞき込んで、
「お、そこに居る娘、済まないけれど、湯飲みへ水を一杯くんでくれないか」
うす暗い
「…………」
「水じゃ、水を一杯」
「…………」
「これ、娘……」
ところが先は
そこを日本左衛門の手が、押し
「おっ、お蝶だな、てめえは」
片足をかけるや否、一
と、一緒に、一枚の雨戸が外へ転落して、その一枚だけの空間に星の夜空が見えたのです。そして、そこを飛鳥のように掠めたお蝶の影が、
金右衛門は驚きを極めて、
「お蝶? 今のがお蝶か」
と、あまりの唐突にうろたえながら、そこの入口を出たりはいったりしていましたが、日本左衛門はそれに答えるまもなく、お蝶の出た裏の方へ飛びおりて、
「しまッた」
疾風をついて追いかけました。
それから間もないことです。
「おばさん、寝たのかい。さっき預けたおいらの包を、返してくんないか。――おばさん、おばさんてば」
奥で物音がしていながら、さっぱり返辞がありませんので、何の気なしに土間の中へはいって行こうとすると、裏口から戻って来た金右衛門が見つけて、
「おや?」
と、その
次郎もひょッと
それが次郎自身のつもりでは、万一の護身に備えた意味であろうと、先に
ことに今の騒ぎで、金右衛門の方にも充分戸まどいのあるところです。
「小僧。なんだ、うぬは?」
まずこう威嚇を
「なんだとは、てめえこそ何だ?」
と、いちだん野槍の先ッ穂を引き込みました。
「さては野郎、お蝶の道づれだな」
「お蝶?」
「小生意気なやつだ」
ちょっと
かつて雲霧の仁三も、この油断から彼に目をやられたことがあります。今とても
「ウム、なかなか不敵な
「な、なにを」
次郎は野槍を取ろうとして
「斬れるものなら斬れ、おいらには、ちゃんと付いている人がある。今に泣き面をかかせてやるから見ていやがれ」
あれから、何処かでたっぷりと米の飯が腹におさまったものとみえて、次郎は、昼間ここの甘酒の釜の前でションボリしていた元気とは
連れがあると聞いて金右衛門は、いよいよこいつ油断のならない小僧、斬るべきか、手捕りにすべきか、それともどうしてやろうかと、思案をしながら、取敢えずポンと野槍の柄を押ッ放すと、
「あっ」
と次郎はうしろへよろけて、その足元を踏み直すや否、奮然、獅子の子のように
「さあ、突け」
「なに」
武器のうごきも心のごとく
それを軽くあしらって、かわすこと七、八たび。
もう疲れそうなものだと見ているが、棒に刃物をすげた奇妙な武器は、いよいよ鋭く、いよいよ加速度になって、ともすると金右衛門とて飛んだ不覚をとらない限りもないふうです。
最初の油断をのぞいても、まだ幾分か見
「ええ、面倒だ」
さっと、飛び
おっと、待った。
次郎もその一歩はあぶないと考えたので、グッと股を割るように踏ん張って、野槍の
突然、金右衛門をそこへ倒したのは一条の
彼が次郎の野槍に対して全能をあつめた途端に、何処からか飛んできた丈余の捕繩が、その片足を巻いて力いッぱいに引っ込んだものです。
構えをとらぬ敵に会ってはどんな者もたまりますまい。金右衛門は
次郎は俄然身を跳らせながら、しかもいい気に調子づいて、
「待て、侍」
と、野槍をすぐって追いかけんとしましたが、またも、先へ駆け出した金右衛門が、不意に暗やみから伸び出た一本の刀に出会って、サッと、その出足の真っ向を割りつけられました。
すると、一方の暗で、
「あっ、万太郎様万太郎様、そいつを斬ってはいけません」
と、はっきりした声でいうものがある。
で、次郎は初めて、相手の急敗が自分の勢力や圧倒でなかったことに気づき、いささか失望の気味で、
「あれ?」
と言ったまま野槍を小脇におさめている。
無論そこへ来たのは、彼が半日がかりで探した釘勘と万太郎です。三人はこの事にさえ出会わなければ、予定どおり、夜を
ところが。
ここまで来ると、昼間甘酒茶屋に何か
そして、すぐ
「釘勘、なんで止める?」
と、不平です。
釘勘は笑いながら、
「だって、
と捕繩で金右衛門の両腕をしばり上げながら、
「
「やっかいだな。いずれ江戸へ差立てても、斬罪ときまっているだろうに」
「そりゃ、相場はきまっていますが、生かしておく間に泥を吐かせれば、余類のやつを芋づるに
「ウ、なるほど。……だが釘勘、そうするとそちはこれから金右衛門を縛して、いったん江戸表まで帰らなければならないな」
「しかし、なるべくそうしたくないと思います」
「といって、こいつを引きずってあるくわけには行くまい」
「この小仏をあとへ戻れば
「これから行くか」
「どうもしかたがございません」
「大変ではないか、今夜はここに縛りつけておいて、あしたの朝にしてはどうじゃ」
「いや、先の事もありますから、そうしちゃあいられません」
「おい、あるいてくれ」と、金右衛門の腰を軽く突きました。
血まみれとなった金右衛門を
内にはやっと明りがついている。
今の者が戻って来たのかとおぞ毛をふるって見れば、また違った二人の来訪者。
こうも時ならぬ時刻に客ならぬ客の訪れる事は、廿酒茶屋
そこで、当然な帰結として、この山頂の一
ああ、しまった!
そうと知ったなら釘勘をふもとへ返すのではなかったのに。
釘勘もまたうかつではないか。
人一倍勘のいい男のくせに、金右衛門がここにいた事実にぶつかりながら、どうして常に彼と一緒にあるいている日本左衛門の方に思い及ばなかったのだろう。
万太郎がこうジリジリ思ったのは無理ではありません。日本左衛門がお蝶を追って行った目的はわからないが、そのお蝶はたしかに
で、彼はそこに席のあたたまる間もなく、月江と次郎を茶屋にのこして、またぞろ小仏の二
近頃は万太郎も、星を仰ぐと
と言って、その七夕の
できなかったら将軍家に対しての、父中将や兄の立場の首尾わるさが思いやられます。
かなり御苦労なしの万太郎に見えても、その禍根が元々自分にある自責の念に駆られてか、今は人知れぬ心痛、お蝶をさがして、ここまで来た旅の道すがらも、どうして、なかなか気が気ではなかったのです。
「いやだな、こんな心配は。早くひとつ
かなり足を早めつつ、こんな考えが頭のなかでも駆けあるいている。
ふと前面に
道は、岩の根から右へ折れます。そこを五、六歩降りかけて西北に傾斜している一帯を見おろしますと、羊腸とした道が星明りにもきれぎれに白く見える。
昼ならば、
また、そこに立って、暫く心耳を澄ますといえども、心にふれ耳に
――さてまた
つづいて、万太郎がそのあとを追い駆けては行ったものの、彼のえらんだ道は、俗に高尾越えという裏街道で、まるで方角ちがいであったからぜひもない。
では、お蝶そのものはどう逃げたかというに、
「オウ――イ」
その後ろから木魂になって追う声は、日本左衛門に違いない。茶屋で聞いた話には、小原までは登りの半分ということですが、その影と声とに追われて逃げるお蝶には、千里も下る思いがします。
いよいよ近いうしろに
所詮、この一筋の本道をまっすぐに走ったのでは、男の足にかなうわけがない。それに、素足の痛みにも堪え得ません。
「お蝶ッ」
その声が近い頭上に聞こえたので、彼女は横の細道へ駆けこみました。
そこはいちめんなる
果たして、暫く行って振顧ると、うしろの方からザッザという篠の
(この道が断崖の上で尽きたら、私はどうしたらいいんだろう?)
お蝶はそう恐怖せずにはいられない。
ただ、さっきよりいくらかましなことは、このいちめんな篠が生えているために、自分も自由に走れないが、追う者も
が――その安心もつかのまです。遂に来る所まで来てしまうと、案のじょう、道は深い断崖のふちで恨めしくも途切れている。
「どうしよう?」
彼女は身を抱きしめて立ちすくみました。
そうして、うろたえているまにも、ザッザと篠を掻き分けてさがして来る黒い影の半身が近づいて来る。
「おっ……」
思いがけなく、彼女の目を驚喜させたものがあります。それは、こっちの断崖と向うの絶壁の間に渡されてある一筋の
繩の影をたどって自分の足元を見ますと、その端が巨木の切株にからめてあります。オオと、お蝶の手がそれを解くが早いか、もう必死になって
と。
招きに応じてくるように、あなたの暗から一箇の怪物がカラカラカラと鳴き声を立てながら宙を渡って彼女の手もとへ飛びこんで来ました。
おそらく、都会に育ったお蝶がその怪物に触れたのも初めてで、それを乗り物と感じたのは
お蝶は、いきなりそれへ身を入れました。
しかし、乗るにも呼吸のあるものを、夢中で籠のなかへ身をまろばせ込んだのですからたまろうはずはない。
とたんに――
長い
わずか、一歩あとから、
「あッ」
という日本左衛門の声が岩頭に聞かれました。
お蝶の籠を食い止めようとして、もしも彼が不用意に、風に乗った
それがなかったのは彼のために
すでに、お蝶の身が、手の及ばない谷間の空へ勢いよくすべッて行ったので、しまッた! と意識なくうごいた彼の手が、なんの
まったく、間髪をいれる隙もなかったほどであります。
が――それほど早かった機智の刀も、綱をすべッて行った籠わたしの電瞬だったのには及ばなかったとみえて、一方を断たれた
生きた心地もありますまい。
「あッ……」
と彼女がその中からころがり出すと共に、
「しまった!」
日本左衛門が二度目の悔いを叫んだのはその時で、かなり余裕をもって追って来たつもりの彼は、自分のなしたこのありがちな失策をながめて、思わず苦笑をもらさずにはいられません。
「ばかなまねをしちまった」
こういったきりです。
冷静になって、今の場合をもういちど反復してみれば、あえて、そんな
そう考えたのはあとのまつり。みずからその道を
「なあに、あしたの日もあることだ。どの道あいつの姿はこれで確かめたのだから、何も、今夜が今夜にと急ぐこともなかろう」
諦めをつけてみると、むしろ、さッぱりと清涼な夜気にふれて、暫く足でも休めたい。
で、腰をおろしました。
「そうだ、さっきの娘も、どうせあのあんばいじゃ四、五日は起きられまい。金右衛門がついているから、おれは茶屋へ戻らずに、このままどこまでもお蝶のやつを追いつめて行ってくれよう」
すると。
いったん清涼になりかけた彼の気持が、また少しコジれだして来ました。――そこに落着いていると、
――こっちへ向って笑っているような気がする。
何か自分をあざける如き手振りをしているようにも見えます。
元より星明りに遠く見ることですから、たしかにどうというのではないが、彼の気もちに映って彼の心をコジらせるものは、どッちみち、そこを去らないお蝶の影で、彼女を見ながら手が出ないということが、そもそも
その時、ふと気がついてみると、深い
幾つもの赤い火が
「あれは何か?」
日本左衛門の気持はその火光にさらわれて、ふいと、お蝶のことを忘れている。と、同じように、向うの崖にうずくまっているお蝶のひとみも、やがてはそれを凝視したでしょう。
二人の間には、もう
火の
お蝶はそんなふうに解していました。
火は
何をしているのだろう?
何かしている。車座になって、その中に
その景色は強い好奇を誘惑するにたるものでした。日本左衛門もお蝶も、いつかしら両端の崖を這って、共に、その不思議な火と人との実体に近づこうとしています。
近づいてみて、びッくりしたのは、お蝶ばかりではありますまい。
「
「マリヤさま」
そんな
疑わずにはいられません。この一団は人里をはなれたかかる山奥に来て、幕府がきびしく禁じている
いや。
それだけの事実ならまだしもですが、今、火の円座の中ほどに立って、何か空に向って祈念している背の高い人物がある。ただ一枚の黒い
似ている!
一目見て、お蝶はあまりのことに仰天しました。
なぜかといえば、そのばてれんは、
いや、ヨハンがこんな所にいるはずはない。あの厳重な小石川の
不思議な!
どうして彼がこんな所にいるのだろう。
私が切支丹屋敷を抜け出る時に、ああ言って彼と別れたけれど、私ひとりで夜光の短刀をさがしてくることは
それとも、
ああ分った。そうではない。ヨハンは私に深いのぞみをかけていない。私は美しい悪魔、救われない人間、そう考えている彼だから、とうとう自分で夜光の短刀を捜索に出て来たのだろう。
それにしても、私がここにいることを知ったら、彼もどんなに喜ぶことだろう。
驚きのあと、そうした
「ヨハン! ヨハンさん――!」
と、ふた声ばかり。
不意に、ヨハンと呼びかけた女の声に、静かに
「あっ――ヨハンさん」
その幻滅を追うように、お蝶がも一度呼んでみた時、それに答えて来たものは、
「やっ?」
二度目の
どこをどうあるき迷ったあげくか、その翌日には、お蝶は
そして、容易ならない旅のしかたをしつつ、ともかくも、彼女の姿を甲府の柳町に見るようになったのは、それからだいぶ日数を費やした
そこへ着くまでの間は、たえず、日本左衛門におびやかされている気持でしたが、繁昌な甲府の城下にまぎれこむと、何か気強い気がして、いつかその恐怖も忘れています。
で、幼いころの記憶をたどって、きッと自分をよろこんで抱き入れてくれるであろうところの
その乳母は彼女が十二の年に、切支丹屋敷の父から
そしてその
今たずねて行っても、小さな
宿に休んだのは一日だけで、翌日はもう、お蝶は城下の西青沼の方角へ、お百草の金看板と、小さな
しかし、それは徒労でした。
尋ねるような家もないし、お咲という女を知る機屋の人もありません。
がっかりして、柳町筋を帰って来る。
日いッぱい歩いたので、足もかなり疲れていました。
江戸を離れた
ただ、注意するともなく、自然に目にはいったのは、
(
という辻ビラです。
行く先々にはりつけてあるので、いやでもそのビラが目につきます。ことに、江戸という字がなつかしい。やはりここは甲府です。お蝶にも旅の空のたよりない意識がどこかにひそんでいます。
東両国で見たあの
切支丹屋敷にいたころは、よく父の二官をだまして、両国や浅草のいろいろな小屋をのぞいて歩いたが……
そんな事を考え出しました。
そして途方に暮れて来た彼女の心が、無意識に柳町の小屋場の灯に吸われてゆく。
すると、ちょうど小屋場の二つ目の横丁から、スタスタと追いかけて来た見なれぬ男が、お蝶を追い越して振りかえったり、わざとおくれて小半町ついて歩いていたかと思いますと、人通りのすきを見て、
「お蝶さん」
と、見事に彼女の名をさしました。
ひやりとしたように、彼女のひとみが自分の肩越しにうしろを見ると、
「やっぱり、お蝶さんですね」
と、男は、左の肩にのせていた物を、右の肩にのせかえました。
それは、箒のように
お蝶は、いぶかしさと、油断のない要心をひとみに沈めて、
「あら? ……」
「お蝶さんでしたね。あなた様は」
「わたし、お前さんみたいな人を知らないけれど……だれなの? 一体」
「わたくしですか。わたくしはその、とんぼ屋
お蝶がいぶかしそうな顔をしているのにかまわず、とんぼ売りの久助は、旧知のような口ぶりで、
「ところで切支丹屋敷のお嬢さん。折入って、あなたにお話があるんですが、ちょっと私と一緒にその辺までお
と、竹とんぼを
切支丹屋敷のお嬢さんだって?
久助は今たしかにそう言いました。どうしてそんなことを知っているのだろうか、見たことも聞いたこともない
「
と、彼女のいたずらな心がうごきかけました。
久助は、さびしい裏町へお蝶を導いて、何を
「さ、遠慮はいりませんからおはいりなすって」
お蝶を招き入れて、自分も
そして、奥の――という程でもない、せまい一間に坐りこんだ時には、折角のお蝶の好奇心も、つまらない所へ来てしまったような悔いに取り代っておりました。
「どうか、御安心なすって下ざい、今は山へ行って留守ですが、ここの亭主も私たちと回じ心の者、何を話しても、心配はない
久助はこう言ってから――
「ところで、お嬢様は、さだめし変な奴だと、私をお疑いでございましょうが、実は、或るお方のいいつけで、
と、
「じゃ何ですか、郡内の手前というと、あの小仏の近くからこの甲府まで、お前さんは私のあとについて来たんですか」
「そうです。今も申しました、私たちの仲間の長老――ばてれん様の御命令で」
「ばてれん?」
「はい」
「ヘエ、ばてれん、それは一体だれのことなの……」
「御存知ないわけはございますまい。あの
「えっ、ヨハン? ……。そしてお前はヨハンから頼まれて、私のあとを守って来たのかえ」
「そうです、何しろあなた様は、大事なお体だという話です」
「だけれど妙じゃないか、そのヨハンは、小石川の終身牢に捕われている人間、どうして私が日本左衛門に追い廻されたことなどを知っているわけがないもの」
「実は、そのヨハン様は、私たち
久助の強い目に、お蝶は思わずうつ向かせられました。
そこで、なお得心のゆくように説いて話す彼のことばが、お蝶にとっては、いちいち今日まで夢想もしない世間と不思議な事実ばかりです。
――徳川初世の禁教令このかた、殊に寛永年度のきびしい
その最も力のある団体が、
とんぼ売りの久助もその一人。いま座敷をかりているこの家の亭主もその一人です。
また、吾々山岳切支丹族のなかまは、その
そこは自由な天地。
地上の楽園であります。
私たちは、その自由な山の教会へ、小石川の牢獄からヨハン様をお迎え申し、今また
――久助はこう話し終って、
「この上は、私がお供をして、山へ御案内いたします。そして、ヨハン様にお会わせするのが久助の役目でございます。――
彼はひとりでのみこんで、そこへお蝶の夜具をのべ、自分は隣の部屋へさがって、一方の角柱へ礼拝して、ふッと
疲れているので、お蝶もこの家を出る勇気はありません。と言って、久助のことばにまかせて、
とにかく、寝て考えることに決めて、明りが消えたあとの
たよる者もなく行く先もなく、自分は暗夜の途方にくれている。
お蝶は自分の姿をこうながめてみました。
だが、あの人たちの自由の天地というところが、ほんとに自分にも自由の天地であろうか、楽園であろうか。いやいや、そんないい所ではないような気がする。お蝶は信仰の生活を求めて切支丹屋敷を逃げたのではありません。
彼女の欲しているものは、世の女が競ッて
何も、
彼女の考えはこう傾きましたが、また、今の辛い放浪を思うとやはりその生命の安全を計るには、久助に連れられて、ヨハンの所へ行くのが最も善策であるように思われます。
何しろ、あの日本左衛門がいったん自分をつけ狙った以上は、必ず、いつか一度はどうかされるに
こう思案がきまると、いつか、彼女はスヤスヤと寝息をかきはじめました。
いままでは毎夜毎夜、心から気をゆるめて休んだこともありませんが、今夜は、久助という者が隣の部屋にいて、自分の身を守っていてくれるという安心がはっきり胸にあったので、お蝶の寝息も次第にグッスリと深まってまいりました。
かくて、短夜はまもなく白み初めたようです。カラカラと明け方の街道をとおる
陽はその家の東の窓に、朝からカンカンと照りつけています。たれか、用のあるらしい者が、一、二度その戸をたたいたりしましたが、ゆうべ夜ふかしをしたせいか、陽が三
暫くすると、やっと、
「あ、暑い……」
と、お蝶が一番先に目をさましたらしい。
ゆうべ、ちょっと見かけたここのお
勝手がわからないので、お蝶は、蚊帳のつり手を外しながら、
「久助さん」
と、隣へ声をかけてみる。
「まだお
耐えられなくなって、窓の雨戸を開けますと、カッと、眼のくらみそうな日光が、寝起きのあぶら顔へ容赦なく照りつけます。
「おや、もう
少しあわてて呼び起こしましたが、返辞がないので、境のふすまを細目に開けてみますと、その部屋は、
駆け戻って、奥をのぞくと、そこにも、ゆうべの内儀が夜具のなかにことぎれている。
お蝶は、いったん明けかけた窓の戸をピッシャリとしめて、よろよろと
お蝶に告げおくこと。
お蝶よ。
きょうは何処かにて必ずおんみに会うであろう。化粧 をととのえて待て。身もたのしみに待つ。
お蝶よ。
きょうは何処かにて必ずおんみに会うであろう。
日本左衛門
「
と、
なまこ塀の多い横丁のつきあたりには、たたえたような青い水と巨大な石垣がふさいでいました。
その外濠から遠からぬ
「おい仁三、仁三兄い――」
と声を立てた連中も、両手で輪切りの大きなのを一ツずつ
「やあ」
一文字笠のつばを
そこで、呼びとめた方の連中はといえば、これは
「どうしたい、雲霧」
「おれよりはおめえ達こそ、どうしてこんな所にガン首をそろえているのだ」
「まあ、そこへ腰かけねえ」
「おれも早速一つもらおうか」
「何を」
「
「とっさん、もう一つ割ってくんな、その甘そうなやつを」
「何しろ、今朝は早立ちで、今までに七里も飛ばして来たんだから、のどが
雲霧は話をそッちのけにして取りあえず大きな切れを一息に食い終って、
「ああうまかった。友達よりは、西瓜にめぐり会ったという気持だ」
「冗談じゃない、あれ以来久し振りなのに、西瓜と同格にされてたまるものか。……そりゃそうと、兄貴、その目はどうしたんだ、その目は?」
「こいつか?」
と、手を当てて、
「まあ聞かねえ事にしてくれ」
「じゃあ兄貴もまだ万太郎を片づけきれずにいるとみえる」
「御同様だ」と、雲霧は自分の不首尾に
「……が、見ていてくれ、近いうちには何とかする」
「人ごとじゃねえ、おれたちも早く何とか
「ところで兄貴」
四ツ目屋の新助は小声になって、
「今もみんなと相談をしていたんだが、例の
「ふム、それで」
「だから、この甲府でみんなが落合ったのを幸いに、一人一人の手分けをやめて、力を
「新助、おめえは道中師の伊兵衛と馬春堂を
「そうだ」
「
「まったく」
これは異口同音でありました。
「だのに、親分にも無断で、最初の約束をかえるというのは面白くねえ話だ。第一、あれっきり会いもしねえが、相良金吾をばらす方に廻っている
「なるほど、それもそうか」
「大体そんな相談をするというのが、少し意気地のねえ話、おれはおれ独りで、きっと万太郎を片づけてみせるからお前たちはどうでもいいようにするがいい。いずれ土用の
と、一文字笠を取ってかぶると、雲霧は西瓜の食い逃げをするように、仲間に未練も愚痴もなくスタスタとそこを立ち去ってしまいました。
「さすがは仁三だ、やっぱり男らしいところがある」
取り残されながら四ツ目屋はほめています。
「そうだ、おれもこうしちゃいられねえ、尺取の兄い、四ツ目屋の兄弟、お先に御免こうむります。
雲霧の今のことばに
あとに残ったのは十太郎と新助。
西瓜の代を払って、お
「あっ、釘抜きだ! ……」
ぎょッとして足をすくめました。
釘抜きと聞いて、四ツ目屋の新助も柳の木を楯に見送って、
「お、ちげえねえ」
と尺取の顔を
釘勘がこの甲府へ急いで来た
「どうしよう、兄貴」
と、その新助へ反問する。
「あいつを
「何しろ向うはこっちにとって苦手の目明しだからな。臆病風に吹かれたわけじゃねえが、おら一番わるい
「手伝ってやろう、思い切って
「いや、そいつは断る。おれも尺取だ、雲霧のやつがああ言ったこともあるから、意地でも人手は借りねえ。……オ、そんなことを言ってる
そう言うと尺取は、先にゆく釘抜きのあとを追って、柳から柳へ、見えがくれに
知ってか知らずか釘勘は、
「ふーム、これが甲斐の少将といわれる柳沢様の甲府城か。二、三百石のお小姓からとんとん拍子になり上がって、一代で十五万石まで築きあげた羽振りは当時すばらしいものだッた。しかしこの頃は、将軍様のお代がわりで、だいぶ風向きが悪くなったという噂だが、気のせいか、城下にも昔の威勢ほどには活気が見えねえようだ」
「ええ、もう場所だの場合だのと、いつまでぐずぐずしちゃいられねえ」
ふところの
こう短気にかかるくらいなら、今日までの間にずいぶん機会はあったものを、相手が目明し、もし
で、自然と、その足どりの無理や挙動が、先に行く釘勘に悟られたのはぜひもないわけです。
「ははあ」
釘勘は片腹いたく思いながら、
「また尺取のやつが
外濠の広場を
尺取も飛鳥のように向うへ抜けて、石垣の根にペッタリと身をつける。
そして、一顧もせずに急いでゆく先の影を追って、四、五丁ほどもついて行くと、城番屋敷か柳沢家の重臣の邸宅でもあろうか、高い土塀つづきに
と、その門前で釘勘が立ちどまったかと思うと、不意にクルリと
「おい、毎度御苦労さまだな」
と声をかける。
それを
そこで尺取は、どたん場へ来て見事に背負い投げをくわされた形となって、
「あっ、野郎」
と、釘抜きの姿が消えた腕木門まで駆けて来てみましたが、南無三です、そこの門札には、
「甲府
と、
これは尺取には飛んでもない鬼門です。町方衆といえば同心岡ッ引の寄り合場、さしずめここは奉行所の裏門か、その役宅の一部と思われますが、そうとすれば天下の盗賊たる身がうかうか寄りつくべき
「ちぇッ、いめいめしいやつだ」
実際こんな
どうしてやろうか?
こう唇を噛みながら腕ぐみをした尺取の目の前に、
それを取って、矢立てと共に帯の前へさしこむと、尺取は大胆にも、通用口の
「だれだ?」
ひょいと見ると、内側には、
「ええ、お出入りの酒屋です」
「酒屋?
「へい、
「はてな、見かけない男じゃないか。
「持っております。いつも参りますものが食
「ふウむ……」
「通ってよろしゅうございましょうか」
「待て待て、門鑑を一見する」
「門鑑はこのとおりで」
「待てよ、ちょッと」
「へい」
「お手は?」
「へ?」
「おまえじゃない、御同役、お手は?」
少し負け色とみえて、盤に向っている男は、役目の方などはそッちのけで、
「何だッけ、お手は」
と、やッきになっている様子。
向うはすこぶる楽天的な態度で、
「お手かネ、お手は金銀さんご
「ふざけないでさ」
「だから、金銀に
「金銀に歩か。ウーム……」
「な、なるほど、こいつあ難局でございますね。こちらの持駒は? 角に桂馬? なるほど、角に桂馬と……ウーム……こいつあ打つ手がありませんネ……。王手と行くよ。金と下がる、そいつもまずいや」
「
「とても、横好きの組なンで」
「何か名案はないか」
「さあ……どうも」
「弱ったな」
「弱りましたな」
仲間にはいって、いつかしら角屋ということを認めさせましたから、もうよい時分と、そろそろ足抜きの心支度をしていますと、そこへ不意に戻って来た最前の釘勘が、
「御門番、お奉行は西側のお役宅だとただ今伺いましたが、西側は同心のお
と、大きな声で訊き直しました。
「あ、違ッた、お奉行の方はそこを右へ曲るんだよ、東側の中門の内だ」
「左様でございますか、じゃ、とんでもない方角ちがいで……。へへへへへ」
と、
意味もない笑い方をして見せたものの、腹のうちでは釘勘も尺取の大胆なのにあきれました。
また尺取も、うまく空とぼけているところへ、不意に釘勘が戻って来たので、あぶなく顔色を変えてさとられるところです。
皆さん、お手を貸して下さい、そいつは尺取という大泥棒なんでございますから――と、釘勘にひとつ指をさされたら、尺取はもう進退きわまるほかありますまい。
が、何と思ったか、釘勘は、
「有難うございました」
門番達に礼をいうと、教えられた中門の奥の方へスタスタと立去ってゆく、次いでまもなく、尺取の姿も
一
「ではそちは、江戸南町奉行
「勘次郎と申します。折入って只今お話いたしましたこと、お聞き届け願います」
「御人数を貸してくれというのだな」
「今が今というのではございませんが、もしもの事のあった場合に」
「貸してもやろうが、
「すでに、諸国へおふれも廻っております、日本左衛門とその一味の者でございます」
「ならば人数を貸すまでもなく、当城下へまぎれ込んだ盗賊どもは、柳沢家の町方として、吾々の手で召捕るから、そちは江戸表へ帰ったがよかろう」
「それが当然でございますが、実は、そうならぬ事情がありますので。――と申すのは、尾張公の御子息、徳川万太郎様も御城下に来ておりまして、ある女の所持している
「ほウ、では何という、尾州家の万太郎様が、この甲府へ参っておられるとか」
「左様でございます」
「して、只今おいでになる所は」
「この甲府と存じます」
「甲府は分っておるが、そのお宿は」
「小仏峠でべつべつになりましてから、私も今日御城下へはいったばかりなので、まだお目にもかかりませぬ」
「ほかならぬ御三家の若殿、万一にも、当御城下で間違いがあっては柳沢家の迷惑にも相成る」
「ですからひとつ、急の場合には、ぜひとも御人数の拝借ができますように、釘勘が折入ってお願いに出ました筋は、そんなところでございます」
「う、なるほど」
「相手は日本左衛門、まちがいは御三家にかかわること、よくお考え下さいまし」
「いや、そういう事情とあれば」
「御承知下さいましょうか」
「たやすいことだ、望みの場合、いつでも当所の人数を助勢にくり出してつかわそう」
「早速のお引請けで、有難うぞんじます」
と、話がついて、釘勘もやっとこれで安心というていに砕けて、
「そのお約束が結べました上は、手前はこれから甲府の町をザッと一廻り見物と出かける事にいたしましょう。その上で方針を立って、御城下に入りこんだ日本左衛門一まきの盗賊どもを、根こそぎ一
そう言って立ちかけたが、ふと思いついたように、
「あ、
「まだ何か用事があるか」
「
驚いた尺取が、役宅の床下から逃げ出して行くところを、蜂屋源之進のあわただしい声と共に、ばらばらと駆けつけた奉行所の者が、寄ッてたかッて、高手小手に
彼が甲府町方の役所を辞して、もとの
見ると、道中もさんざんたずねあぐんで来た徳川万太郎です。
「やあ、若様じゃございませんか、一体どうしたというもんでございます」
万太郎は相変らず、何がどうしたのかというような顔つきで、
「お蝶と日本左衛門とが、この甲府へ来たのをそちは知らないのか」
「多分、それとは思いましたが、あれから甘酒茶屋へ戻ってみますと、次郎と月江というお女中だけで、万太郎様はあの晩から戻らないというお話、また出し抜けを食ったかと、一時はちょッと面食らいましたぜ」
「そうか、面食らわせてやろうと存じて、不意に甲府に来てしまったのじゃ、はははは、だいぶ探し廻ったとみえるな」
「どうも若様はお人がわるい。しかし、ゆうべは何処へお泊りでしたか」
「ゆうべの宿屋か、ゆうべの宿は至極
「柳町筋でございますか」
「なあに、あれに見える――」と、濠を越した
「柳沢屋というてな、あそこの本丸に一晩世話になって、その上、
「えっ、それじゃ柳沢様のお城へお泊りなすッたので」
「はははは、不意にたずねてまいったので、柳沢の
「その上、茶代を取ってくるなンて、ひどいお客様もあったもんですね」
「だが、やはり世界は
「お頼みまでもないことです。しかし、それにばかり気をとられていると、うしろがあぶのうございますぜ」
「うしろがあぶない?」
「日本左衛門を初め手下の奴らも、残らず甲府へ寄り集まっている様子です」
「それはわしも存じている。で、吉保に、彼等一味の
それについては釘勘も、たった今、
すでに、ここまでの間に、
* * *
時刻にすると、ちょうど同じ刻限、釘勘が去ったあとの甲府町方の役宅へ、急を訴えて来た
今朝、自分の
蜂屋源之進はすぐ四、五名の下役をつれて出張しました。場所は
検視、下吟味もすみました。
疑問は、一個の
――お蝶よ今日は汝に会うであろう。そう
江戸を離れたといっても
「最前、江戸の目明しの言ったことは虚言ではない」
思い合せて慄然とした風です。
それと同時に、領主柳沢吉保の命として、
夜ふかしの疲れで、ものうい
「喧嘩だ!」
と、時にとって、小気味のいい声が流れました。
「喧嘩だ、喧嘩だ」
そこで柳町の
「なに、喧嘩がある? 火事と喧嘩はお江戸のものだが、この甲府にもそいつがあるとはたのもしいな。どこだ火の手は?」
地廻りのあとについて、その横丁の
それを見つけると、
「あら、先生」
「太夫元の先生」
「
「先生ッてば」
「寄ってらッしゃいよ」
軒なみの女たちから、いろいろな名称をもってよばれた浴衣がけの先生なる人は、呼び声だけでもう説明は要しません、馬春堂です。
帯の前に手ぬぐいをはさみ、口に
けれど、お粂の嵐粂吉が、この甲府の柳町の小屋を打ってまだ日の浅いうちに、先生が安価な
「寄ってゆかない、この人は」
「薄情者」
「素どおりはひどい」
などと、この昼なか、多少人前というものもあろうに、容赦なく
先生は弱って――と言っても、迷惑やら嬉しいやら分らない表情で、
「オイ、くすぐッたい、くすぐッたい、放せ放せ放せ」
と悲鳴と共に手を振っている。
「このひとは、おとといの晩、あんないたずらをして帰って、よくもしゃアしゃアとうちの前を通れたよ」
「さ、上がってらッしゃいよ」
「堪忍してあげるから」
「上がらないうちは、通さない」
屋根びさしにはカンカンと陽がある時刻ですから、馬春堂先生たりとも、多少きまりがわるくなって、
「ばか、人が見るぞ」
「見たっていいじゃないの、わたしの色だもの」
「あやまった、助けてくれ」
「意気地なし」
「なんでもよろしい、今日ばかりは勘弁勘弁。わしは喧嘩を見に来たんだからな」
「喧嘩なんか、とっくの昔におしまいですとさ」
「それならまた来るよ。出直してな」
「うそばッかり」
「ア痛っ」
背なかをどやしつけられて、やっと放免された馬春堂先生、ほうほうのていで抜け裏を出て来ましたが、さすがに、色男にはなりたくないものだと、例の長い顎をなでてみる自信もこの時はないようでした。
すると、その露地の出あいがしらに、
「おお、馬公」
と、自分の方へ、突き当たりそうに駆け出して来た男がある。
道中師の伊兵衛です。ただし、伊兵衛であることはさしつかえありませんが、
「おい、どうしたんじゃ」
と馬春堂は目を丸くする。
「とうとう四ツ目屋の野郎に、不意打ちを食ったんだ」
「四ツ目屋の新助? じゃ、今の喧嘩だという騒ぎはおまえだったのか」
「何しても油断がならねえ。おい馬公、おめえもいい気持になって、横丁の女にからかってなんかいると、今にみろ、その長い面が御挨拶なしに、胴の方とおわかれをするぜ」
馬春堂は思わず首すじへ手をやってみて、
「オイオイ伊兵衛、なんぼわしの顔が長いって、そう人の顔をみるたびに縁起のわるいことを言うなよ」
「いいにも悪いにも、おれは正直に教えてやるんだ」
伊兵衛はまだ落着かない目で、うしろの通りや横丁をのぞきながら、
「ま、ここじゃ話ができねえ、どこかへ行こう」
「わしは今しがた、飯を済ましてしまったから、酒も何もたくさんじゃ」
と馬春堂は、口の小楊枝を吹いてみせました。
「けッ、友だち甲斐のねえやつだ。じゃ、小屋へ行こう」
「小屋へ行ったって、昼間はだれも居やしまいぜ」
「だからよ、だれも居ねえところで、ゆっくり相談をしようって言うんじゃねえか」
と、連れ立って歩むうちに、伊兵衛が馬春堂の腰をそッと突いて、
「あれを見るがいい」
と、
「何か貼ってあるな」
「ウム、
馬春堂はペロリと自分の顔をなでさげて、
「まさか、おれのじゃあるまいな」
「人相書にまわるくらいな盗賊になりゃ大したものだが、まだおめえの顔にゃそれほどの
「番屋のそばへ来て大きな声を出すなよ。一体だれのだろう、あの人相書は」
「まあもう少し近づいて見るさ、まんざら知らないやつでもないから」
「ふーム……」
うしろへ手を廻して、馬春堂がしかつめらしく鼻の穴を上げてみますと、それは今番太郎が張出したばかりのもので、糊のかわいていない一枚の紙に半身の似顔が描いてあって、それにこういう箇条がしるされてあります。
京都公卿浪人
異名 日本左衛門事 、無宿 浜島庄兵衛、年二十七歳
身長五尺三寸位
色あさぐろき方 、鼻高き方、眉 めだちて濃し、右眉の中に黒子 、うしろ鬢 に小さき刀傷一ヵ所、右御たずねの盗賊見当り次第訴人あるべき事、かくまいだてまたは逃走の伝手 をあたえたるものは御法に律して重罪たるべきもの也
「なアるほど……」身長五尺三寸位
色あさぐろき
甲府町方奉行所
馬春堂は番屋のそばを抜き足さし足に離れて来て、
「いやな
と首を振りうごかしました。
それですッかりおびやかされた彼は、もう伊兵衛よりスタスタと先に立って、柳町の
江戸の両国や浅草とちがい、ここの繁華は夕方からなので、昼は
その楽屋にさし向いとなって、
「伊兵衛、どうしたものだろう?」
と、馬春堂の心配顔。
「だから、おれはこの甲府へはいる前から、ちっとも気をゆるしちゃいなかったんだ」
「日本左衛門のやつが、こんな方まで来ているとは夢にも思わなかった。どうしてもお粂を殺してしまわなければ虫がおさまらないものとみえる」
「そればかりだと思うと大間違い、お粂ばかりじゃない、俺達の命も絶えずねらわれているのだ」
「執念ぶかい男だな」
「あいつらしい
伊兵衛はくちびるを歯でしめて、
「おれたちに遺恨をもって殺そうというのじゃない。夜光の短刀――あの秘密を知っている二人が日本左衛門の気がかりになるんだ」
「じゃ、もうあのことはふッつり思い
「ばかをいやがれ」
伊兵衛はこわい眼をして馬春堂を睨みながら、
「てめえがそういう二心を抱くなら、おれが生かしちゃおかねえからそう思え」
こういう脅迫をうけるのは、今が初めてではありません。実際、馬春堂は、雲をつかむような夜光の短刀の捜索にそろそろ退屈をおぼえております。いや、その大望に熱がさめたよりも、それによって起こるいろいろな危害や苦しみの多いのに、おぞけをふるッてしまったのです。
大体、伊兵衛の望みが大きすぎて、彼の望みとつり合いのとれないところがある。王侯の暮らしの百万両になる、そんな夢みたいな希望よりは、馬春堂先生は命が無事でうまい酒がのめて女に不自由がなければそれで結構なのであります。
粂吉一座の
ところが、今日の風向きでは、どうやらこの一座にも悠々と長く居る事をゆるさない様子です。
万一、お粂にまちがいがあったひには、この一座はみじめな
加うるに、番屋番屋へああいう人相書が廻っているのですから、それから察して、この甲府という地相は、自分たちにも暗剣の方位にあるんじゃないかということも馬春堂の
ところが先生の梅花堂流の
「どうしよう? 伊兵衛、おまえはこれからどうするつもりだね」
と、相手の思案をせがむに急なるばかりです。
「うるせえなあ」
と伊兵衛は腕組をゆすぶッて、
「いくらおれでも、そう早くおあつらえな智慧が出るもんかい」
――まだ木戸や舞台の支度にかかるにはだいぶ時刻が早そうなのに、その時、だれもいない
「おや、だれだ?」
二人がひょいと
小屋の者じゃない。
白い
ははあ、物もらいだな。
木戸に人がいないのを見て、何か見物の落とし物でもないかと、犬のように
――馬春堂も伊兵衛もそう合点したものですから、目をそらしていると、いつのまにか
で、また、思案と、なげ首。
「おらあズラかると肚をきめた」
やがて伊兵衛の口切りです。
「逃げるのか、この一座を」
と、馬春堂は残り惜しそうな顔色にみえる。
「それよりほかに思案はねえや。もともとお粂にくッついて来たのも、楽に旅をつづけようというこっちの方便、ここらで見切りをつけるとして、あとは雲にでも風にでも乗るとしようじゃねえか」
「お前が出るならしかたがない。じゃ、わしも行くとしよう。しばらくのんきに暮していたが、また元の
「べらぼうめ、
「でもないぜ。ずいぶんお前も飯の食いはぐれをやる性分だからな」
「そのかわりにゃ、今に夜光の短刀を手にいれてよ、
「また
「ちぇッ、慾のねえお父つぁんだ」
「慾はあるが、おれの慾はじみちな慾さ」
「べらぼうめ、慾にじみちも
「なんだと、答えたいが、時に伊兵衛ちょッと待ってくれ」
「おや、いやに改まって、どうかしたのけえ?」
「お前はどうも
「はてネ」
「それから少し親しくなると、馬春堂、馬春堂とよび捨てにしはじめた。――だが、馬春堂ならまだよろしい、しかし、近頃のように、馬公とはなんだい、馬公とは。――いかにわしでも、馬公とよばれてオイと快く返辞はできんよ。ちッたあ人間らしい交わりをしようじゃないか」
「おめえ本気で怒ったのかい」
「あたりまえさ。
「おめえが名主様のお
「そりゃどうでもいいようなものの、虫の
「
「先生まではいらないよ」
「へいへい。じゃそこで、また御相談だが、一座から飛び出すといっても、おめえは
「うム、その話は分った」
「次には路銀の一件だ」
「お前の足のふむところには、どこにでも金が付いて廻っていると言ったじゃないか」
「そりゃ、本業にかかればそうだが、まさか、今が今なにをする仕事もなかろうじゃねえか」
「じゃ、どうする?」
「先生はまことに結構なお身分でござんす。じゃどうする? って
「待てよ、伊兵衛。あれをそッくり持って行ったひには、一座の者が、あとで
「おい馬春堂、いい加減に少しあたまをハッキリもってくれよ、あとの困るのを考えながら泥棒渡世ができるものか」
「うむ、それにも一理あるな」
やっと頷いた馬春堂の耳を引っぱッて、
「手はずはこういう都合にするんだ……いいか……どじをふンじゃいけねえぜ」
と、何かヒソヒソとささやいていました。
すると、最前、
出会いがしらです。
そこへ楽屋から出て来た二人と、無断でそこへはいって行った男とが、真正面に顔を見合せて、
「おや?」
ギクと足を止めながら、両方で、どこかで見たようだがと小首をかしげました。
そこに来た者は相良金吾であります。
――
小仏から甲府に至るまでの宿場宿場――上野原、
「江戸
しかし、その粂吉がお粂であるや否やは、まだ金吾として明確につきとめたことではありませんが、粂吉という芸名になんとなくそれらしい疑いがありましたし、一日でも興行した土地の評判は大したもので、その噂にのぼる人気者の女が、どうもお粂にまちがいがない。
で――辻ビラをたどってこの甲府まで来てみると、ここでは七日の長興行というので、初めてその小屋の正体を見届けました。
けれど、今表に立ってみると、にわか作りの絵看板やのぼりは見えますが木戸番は居ない。また、中へはいってみても、同じようにがらんとしていて、働いている道具方ひとり見当りません。
といって、もう興行の終った様子もないので、さては、夕景が木戸
そう思いながら
「はてな?」
金吾はその時から、伊兵衛をどこかで見たように感じられてならない。
「江戸で……」
そこまで記憶はあるが、何者か、かんじんな名も会った場所も、さらに考え出せません。
今――楽屋口へ廻ってきた所で、バッタリ顔を見合いましたが、そのわずかな機会には、妙な疑心がよけいに働いて、いっそう記憶をつかむことができない。
だが、金吾の
とは言え、伊兵衛の方でも、やはり誰というハッキリした驚き方ではなかったのです。
不意に、楽屋裏のむしろを上げて、白い
なぜか、馬春堂が袖を引ッぱるので、伊兵衛は金吾を流し目に見ながら小屋の裏手へ飛び出して、
「何だい今の男は、小屋のなかをキョロキョロ見廻りやがって、うさんくせえ奴じゃねえか」
もう一度小屋の方を
「知らないのか、あの男を」
「見たような奴だとは思うんだが……どうも胸にうかんで来ねえ」
「お粂がさんざん可愛がった男さ」
「えっ、旅先でか」
「なあに、江戸でさ」
「江戸で? ……江戸でとすると相良金吾じゃねえか。あっ……ちげえねえ!」
思い当ると、さすがな伊兵衛も、今のうかつな出会いがしらが、なんとあぶないところだったろうと、あとで胆をちぢめた事であります。
――ひとり小屋の楽屋に立ち残った金吾の方は、あわてて出て行った二人のうしろを見送って、しばらく何か考えている様子でした。
芸人の手廻りの品は、夜ごと持ち帰るものとみえて、楽屋の内には何ひとつ派手な衣裳も見当りませんが、ふと向うを見ると、
鷹の羽――それが自分の紋だけに金吾は特に目をひかれて、ふとそこを潜ってみますと、嵐粂吉の部屋でしょう。ほかよりは少し整っていて、なお不思議に感じられたのは、そこにある湯呑、
お粂だった。
自分の想像していたとおり、嵐粂吉というのはやはりお粂にまちがいはない。
この、
(アア、紋まで片輪になりおった……)
くずし紋は芸人のよくすること、その芸人社会のものの目で見れば、思う人の紋に心意気を似よせた
――紋まで片輪になった!
こうもため息が出たでしょう。
家紋は武士がもっとも尊ぶものでした。それが、いまわしい女の、しかも
ああ紋まで――、その紋の前には、この金吾というものの生涯が、あの女のために、
人の居ない楽屋と片輪の紋。――泣いて少しでも気のはれるものなら、ここは、金吾が泣くにもっともふさわしい場所ではないか――と金吾がみずから身を
が――俄然として立つと、
「
とばかり、かれの足は、あたりにのめのめとしている片輪の鷹の羽を、片っぱしから蹴飛ばし初めました。
衣裳箱、湯呑、鏡台、つづら、そこらに紋のついてあるものは、みな彼の足の先に踊って、道化役者のようにとんぼを打つ。
不快はいよいよ不快を加えてきます。
思えばこれもおとなげない
その時、救われたように、彼の手が倒れた鏡台のひきだしにのびていました。
手紙やら、
「あっ? ……」
熱海にいたころ、お粂の話に聞いていた道中師の伊兵衛という名。
「もしや今の男が……その伊兵衛ではなかったろうか」
彼は
が、二人の姿は、もう見えぬ横丁へ曲っている。
――今、すれちがった時、どこかで見たような記憶があると直覚したのは、いつか、自分が
「それだ! その時の道中師の伊兵衛だ」
こう思い当ったのと、しまった! という悔いとが、金吾の胸へひとつになってこみあげました。
「ウム、足のかぎりに急いでゆけば、今の二人に追いつかぬことはあるまい。そして、彼のゆくところについてまいれば、自然お粂の
金吾はいだてんと駆け出しました。
彼は、
「お、あれだな」
やっと、向うの辻に見つけ出した、二人の影。
伊兵衛を捕りおさえれば、
お粂に会い得れば、すなわち、自分の熟考してきたことの決行に依って、こんどは、日本左衛門へ堂々と果し状をつけ、小仏以前の怨みと、小仏以後の忍苦をそそぐことができる。
今、二つの
高札場の辻を右へ折れて、夏草のしげった空き地の細道をななめに抜けて行こうとした時です。
「や、小屋にいたさっきの奴が、追いかけて来るようだぜ」
「えっ、金吾が?」
偶然うしろへ首を廻した馬春堂と伊兵衛とが、小半町ほど
「さては、野郎もあとで気づいたとみえる」
と、にわかに
で――逃げろとも言い合わずに、道をそれて一方の代官原という空き地のしげみへ、泳ぐように逃げこんでゆく。
その附近まで追いかけて来てふいと、二人を見失った相良金吾は、いったんその空き地を駆け抜けてしまいましたが、それより先一すじの片側町にも、また十字路になる
草
「たしかにこの辺まで、二人の姿が見えたのだが……」と金吾は足を
青い羽の虫が彼の
「はて、何処へ隠れたのだろうか」
くずれた土塀の根石へ腰をおろして、一汗ふいていた時であります。彼にはかつて見かけたことのない四十前後の旅ごしらえの町人が、その土塀に沿ってつかつかと彼の前へ歩み寄って来て、
「相良様、見つかりませんか」
と意外なことばです。自分も一緒にかくれた二人を探していたような
金吾はこの不可解な旅人を前にして、ちょっと
「相良様といったようだが、そちは、どうして拙者の名を存じているのか」
「存じております。あなたは徳川万太郎様の御近侍、相良金吾様でございましょう」
「ウウム、いかにも自分は金吾だが、してそちは誰か」
「まったく御存知ないのですか?」
「知らぬ」
「はて、そんなはずはございませんがね」
男は笠を下へ置いて、その笠の上へすっぽりと腰をすえると、腰の煙草入れを抜き取って、
「よく考えてごらんなさいまし、そんなはずはございませんから」
小さく咲いた昼顔の花へ、
何という
邪推をまわせば、かくれた伊兵衛を逃がすために、わざと邪魔をしに出たように考えられぬこともありません。
金吾は少し
「貴様のような者に知り人はない。ここで見失ったものを探しているところ、無用な邪魔をするやつだ、あっちへ行け」
「だって、その二人は、逃げちまッたじゃございませんか」
「いや、たしかにこの附近へもぐり込んだにちがいない」
「そうかも知れません。けれどそいつあ無駄ですからおよしなさい。あの伊兵衛や馬春堂を捕まえてみたところで、あなたの目的には何の足しにもなりません」
「ウーム、それまでのことを知っているのは、いよいよ不審にたえぬわけだが、一体そちは何者だ、第一、人にものを話しかけるに、寝そべっておるのは無礼であろう」
「いや、これは、御安心なさいという、あっしの礼儀でございます」
「礼儀だ? おのれ人を
常に自らたしなめている一本気がまたもや金吾をして顔の色を変えさせました。
町人は寝そべっている体をクルリと腹んばいにかえすと、ぷッと吹いた火玉をつけて、草の根から新しい煙を揚げながら、
「まったくです、決して無礼じゃございません」と、底気味わるく笑っている。
そして、金吾がじッと睨むのを、
「――なぜかって言いますと、あっしはお前さんを殺害するために、時々、
「ほウ、では拙者を
これは存外、甲羅をへた
が、男はなお夏草のなかに寝そべッたまま牛のように身を起さず、
「なるほど、まず見当はその辺でしょう。だが、あっしは日本左衛門の下風につくようなケチな男じゃない、これでも
九兵衛といえばこの春まで厚木の
当時、そこへ暫く宿泊していた日本左衛門から、夜光刀の秘密をうちあけられて、自分からすすんでその仕事に割りこんだ彼は、たしか当夜の暗殺の
金吾は今、この煮ても焼いても食えないような老賊を前にして、その肚のなかを
「だが、お前さんは若いに似合わず、なかなか見上げたところがある。おれも元よりいい年をして、初めから日本左衛門のお先棒につかわれたわけじゃねえが、道中それとなく
と少し
金吾はこの老賊が何の策をもっているか、その奥の手を見破ってやろうというつもりで、わざと語気をあらくして、
「起きろ! この
とばかり、いきなり長くのばしている足の先を蹴とばし、杖の一刀を抜こうとして見せました。
「おや、怒ったね」
九兵衛はクルリと一つ
「どうして怒るんだ先生」
煙管をとって中段にかまえます。
「ここへ追いつめて来た者を探しているところだと申すに、あくまで邪魔だてをするやつ、察するところ、おのれ伊兵衛と申すやつと
「笑わしちゃいけません、日本左衛門の下風にさえつかねえ秦野屋です。だれがあんな者の相棒になって、こんな所へのさばって来るものですか。……それに最前も御注意いたしましたが、あの二人を捕まえたところで、あなたのお望みの
「ふーむ、してその
「おッと、人を怒りつけながら、それまでただ聞こうというのは少し虫がよすぎる。何も意地をわるくするわけじゃありませんが、そいつを知りたいとおっしゃるなら、黙ってあっしに尾いておいでなさい。どこかで飯でもたべながら、ゆっくり御相談をしようというもんです」
と、九兵衛は草の
ことばの上では金吾はとても
「相良さん、来ねえんですか。なにも、取って食おうというのじゃありませんぜ」
九兵衛はもいちどそう言って、悠々と、持ち忘れた笠をひろいとる。
老賊め!
こいつ、うまうまと人を釣って、どんな芸当をやろうというのか。
こう相手の心を充分に疑っていながらも、金吾は、一面に今かれが口からもらした
「うム、話があるというのか、ならば一応は聞いてつかわそう、どこへでも案内をせい」
思わずそこを立ちました。
金吾が歩み出すと、彼はまた
「ところで、どこに致しましょうか」
だまって
「そちのたくらんでいる
わざと冷言を放ってみました。
九兵衛は深い
「なかなかあなたは要心ぶかい」
「ふん……」
笑ってみせると、思い出したように、ぽんと膝をたたきながら、
「時に、お
「ひまどってはいられぬ体だ。ことに今の場合、安閑と食事どころの沙汰ではない」
「でも、もう
あとは心得顔に
その後です。
声のわるいキリギリスが人の汗を誘うようにどこかでなきだしたかと思うと、代官屋敷の土塀のかげから、虫の音を踏み消して、
「あぶねえ、あぶねえ」
と馬春堂先生が、呟きながら出て来ました。
そのあぶないところを、首尾よくのがれ得たのにお調子づいて、
「おい伊兵衛や、もう大丈夫だよ。ほれ向うへ行っちゃった」
手を上げて、うしろを招いていると、べつな方から抜け出した伊兵衛は、もう彼より先の方をスタスタと歩いていて、
「オイお父っさん、どこを向いてだれを呼んでいるんだよ。こっちだこっちだ」
あべこべに声をかけられて、馬春堂はアタフタと追いかけながら、
「いつもお
「あたりめえだ、あんな野郎の目にふれて、まごまごしていられるものか」
「だが、うまいぐあいに行ったじゃねえか」
「
「笑っているぜ、天道様が」
「そのせいか、いやにカンカン照りつけやがって、脳天が焦げるようだ」
草いきれの道を泳ぐように急いで、
それから二人が曲ったのは、町家のなかの狭い横町、角の土蔵から幾軒目かの
「
と、なにげない顔で上へあがる。
そこには、上がり口から三味線や太鼓がみえるし、すぐ次の部屋にはなまめいた女の衣類などがぬぎ散らしてありますが、世帯道具らしいものは一点も見当らない。
興行の間だけ、土地の太夫元が
「お粂さんは居ないようだね」
馬春堂が奥をのぞくと、そこに、襦袢と湯もじ一つでふざけていた一座の女弟子たちが、
「いいえ、二階」
と、意味ありそうな笑い目を天井に向けます。
「このあついのに?」
伊兵衛はうンざりした顔で、
「――連中が二階に居ちゃしかたがねえから、夕方まで、ここで昼寝でもしているとするか、なあ馬春堂」
上がり口の六畳間に、二人はゴロリと手枕をかいました。――そして昼寝によそおいながら、この興行の上がり金をさらって逃げる相談をささやいていますと、上の二階では、伊兵衛が笑ってつぶやいたとおり、このあついのにウンスン
噴き井戸の水でしぼった手拭に汗と
「こりゃ思ったよりも涼しそうな家だ、ほかには客がないようでございますね」
あてがわれた小座敷へ坐りこまないうちに、九兵衛は言い訳ばかりの食いものと酒をあつらえ、その間に、幾つかの二階の部屋をずッと一通り見届けて帰ってくる。
そして、敷物の一つを、自分の手で床の間の上座へ直して、
「幸いとほかに相客も居ない様子です。さ、若旦那、どうかそれへお
両手をぴたとついて、にわかに改まった九兵衛の態度が、ここへ上がる前の老賊ぶりとはガラリと打って変って、あまりといえば金吾の意表を出すぎています。
「さだめし、不審にお思いなさいましょうが、これには事情のあることです。……若旦那、あなたはもう私をお忘れでございましょうな」
「? ……」
「お忘れになっているのも無理はない。もう十六、七年も前になる。……あっしが名古屋表のお屋敷に御奉公をしていて、
「九兵衛ッ」
「ま、もう少し聞いて下さい。まだあなたは私を充分に疑っておいでなさる。この狸が、何をいうかと、半信半疑のお気もちでございましょうが、最前はあの物蔭に、伊兵衛と馬春堂のやつが
「えっ、では
「その頃から悪事に悪事をかさねて、隣屋敷の納屋倉にまで盗みの手をのばし、ツイそれがばれて首になるところを、あなたのおやじ様の情けで、逃がしてもらったのがお別れでございました」
「ウーム」
と金吾は茫然たるばかりで、
そこへ、あつらえ物の膳が来ましたが、軽く銚子をとる
老いて緑林の渡世のはかなさを覚り、悪事の足を洗って厚木に
しかし、そこへ以前の悪事仲間の日本左衛門に頼られて来て、つい、何かの相談に乗るようになったところへ、また折悪く出火に会って店を
暗殺の
そして、自分が金吾を殺す籤をひきあてたことなど――
それらのことも順序を追って話してから、
「で、あっしはあなたの蔭に添って、一時は隙をねらっていましたが、ただ、相良という名が気になって、どうも思い切ったことができないので、実はこの甲府へ来る前に、いったん江戸表へ引っ返して、市ヶ谷にある尾張様のお長屋のものに、それとなく聞き探ってみると、相良勘解由様もとうの昔に
と、九兵衛はすこし声を曇らせて、横につかんだ手拭で目を抑えました。
意外です。
みずから兇悪な人間と
そして、
「そうか、じゃお前は、父上の時代に、名古屋の屋敷に奉公していた
「わるい事はできないものでございます。……というような弱音が出るようでは、もう悪党も焼きが廻った証拠じゃあございますがね」
「奇縁だな」
「空怖ろしい気がいたします」
「したが、そこでお前は、日本左衛門からいいつけられている――つまり拙者を殺そうという
「ヘエ」と九兵衛はうなだれて、
「――このまま、どこまでも、あなたの影に添って
「ふーむ……」
「が、それは
「そのことばが真実ならば、自分の望みをなしとげた上に、そちに命をくれてもよい」
「と、とんでもないことを」
「いつわりではなかろうな」
「悪党は馬鹿正直といって、言い切ったことに、みじんも嘘はありません。その証拠として、あっしが知っている限りのことを、今日はのこらずお耳に入れておきます」
こう言って、九兵衛はふいと立ちました。
何をするかと思うと、もういちど、二階から裏口を注意ぶかく見廻して来て、さて、ぴったりと膝を改めて、
「――第一に、あなたが
彼の語りだすのを聞いていると、彼には幾つもの分身があって、この甲府にはいって来た人々の動静をいちいち見て歩いているようです。
万太郎が一夜柳沢家の本丸に泊ったこと、
さあ、金吾の体は、にわかに、幾ツあってもたらないことになりました。
知らねばこそですが、この甲府にいる人々の動静を皆明らかに聞かされて、甲府盆地を
何よりも、釘勘や万太郎様にも、こうしている自分の微力を告げたい。いや、その前に、お
それもこれも、金吾の身辺には、一時に巻いている渦です。その幾つもの波紋を泳ぎ切ってゆくのには、いつもの、短気一徹なばかりの自分ではむずかしい。
程よく、勘定をすまして、
「ようがすか、その順序で、必ずあせらずにおやりなさい」
「
「家は、先程申しあげた所です。途中まで御案内するといいんですが、仲間の方にも、なかなか目ばしッこいやつがおりますから、この辺で、あっしはちょっと姿を見えなくしております」
そこの竹むらの道から、ぴょいと小川を跳び越えて駆け出した秦野屋は、農家の
(早く去れ)
という風に、金吾へ笠を振っていました。
伊兵衛と馬春堂とが、昼寝の狸をきめこむ事にした例の家の二階では、お
ウンスンというのは、
どんな
「どうしたんだろう、今日は」
じれたり、ぐちをこぼしたりするほど、
そのうちに、風向きのいい地元の遊び人と、でっぷりした興行元の男が、
「おや、
ていよく逃げ腰をうかすのを抑えて、お粂は、もう一度、もう一度と、楽屋入りの支度をのばしていよいよ負けを深めています。
そのうちにもとでが切れたとみえて、二階の降り口から下の者へ、
「あの――だれか居ないかえ」
はしごだんの下に見えた十三、四の女弟子、
「太夫さん、なんですか」
「わたしの衣裳つづらを開けてね」
「エエ」
「
「あの、小屋の方の上げ銭がはいっている? ……あれですか」
「黙って持ってくればいいんだよ、オチャッピイだね」
「……太夫さん」
「持って来ないのかえ」
「ありませんよ」
「ないはずがあるものかね、よく目をあいて探してごらんよ」
「でも、いくら見ても、ありませんもの」
「じれッたいねえ」
ここ数日間の興行と旅の間でかせぎ上げた百両程の金を入れておいた手筥がいつのまにか失くなっている。
これには、遊びに夢中でいたお粂のあたまも、はッと水を浴びたようにさめました。――騒ぎはそれからで、風呂に出かけた女弟子たちを呼びもどすやら、二階にいる男に来てもらうやら、何しろ、その金は、座員の生活費であり、先へ旅立つ路銀でありするのですから、お粂の当惑のみならず、嵐一座の死活問題であります。
「そういえば、伊兵衛さんと先生はどうしたろう?」
「お。あの二人が影を見せない」
そのうちに、たれかがこういい出したことによって、たった今まで、その二人が上がり口で昼寝をしていたと分りましたから、
「もしや?」
とお粂が戸棚の隅々をあらためてみると、馬春堂の浴衣やら伊兵衛の衣類などがまるめてあって、笠や何かの
さては、
そんなものを楽屋に飼っておいたから悪いのだと、お粂はあきらめをつけましたが、あきらめないのは飯を奪われた一座の者です。「それ、今逃げたばかりだッていうから、二人のやつを追いかけて取り返せ」
と、手分けにかかって、飛び出しました。
折も折です。そのドサクサの最中に、
「たのむ!」
と格子の外に立った白衣白杖の
「たのむ」
と外の声の二度目であります。
「オヤ、たれか
お粂が目まぜをして、今の騒ぎに落着かない女たちの口を黙らせたものですから、場合が場合なので急にシンとして、なかの一人が上がり
「ちッ、人をばかにしているよ」
弟子の女は、舌打ちをもらして、用もきかずに奥へ帰って来た。
「太夫さん、お客様じゃないンですよ」
「物乞いかえ」
「ええ、
なんのこった――と腹も立てないし、笑ってもいられない。
すると、前よりは鋭く、
「今の取次はどうしたのか。ここは嵐粂吉の宿ではないのか」
格子をあらく開けた音、そして、その語調のただ事でない様子に、弟子の女たちはまたハッと顔色を失いかける。
――でなくてさえ、ムシャクシャしていたお粂ですから、小うるさい物乞いと腹立ちまぎれに、
「いいよ、こんどは私が出て追い払ってやるから」
何気なく、上がり口の部屋へ立って来ました。
そして何の予感もなしに、そこへ立った金吾の姿を見ましたから、彼女の驚愕は一倍で、
「あらッ」
と言ったきり、暫くは、次のことばを忘れています。――やがて、
「相良さんじゃありませんか」
「お粂」
金吾にも、この際、一種複雑なる感情がなくてはいられません。
「ずいぶん珍しいじゃありませんか。一体、どういう風の吹き廻しなんだろう」
「折入って、そちに話があって訪ねて来たのだが」
「まあ、ともかく、上へあがって……」
「では」
と金吾は腰をおろして、
その時、二階から降りて来たのは、先程まで、ウンスンの仲間に顔を見せていた興行元と
「何か取りこみ事が起ったようだけれど、小屋の方は十日のビラを
と半ば、強迫的に談じつけて、せわしそうに、裏口から柳町の
それを
金吾は、通されて、取りかたづけた二階に、ひざを真四角に坐っている。
若い女が、よろこび
「待ったでしょう、相良さん」
朱塗りのたばこ盆と、冷やし麦と。
それをすすめて、
「さ、楽に坐ってくださいな。旅先の仮屋にしろ、これでもお粂の
そばへ坐ると、お粂はあでやかに笑いました。
夢にも忘れていない男の不意なおとずれに、小娘のような嬉しさがかくされない。
その証拠には、あんなせわしい間に、いつのまにか顔を
そして、ジッと暝目したきりの金吾の横顔へ、
とうとうこの人は私が忘れられないで私のそばへ帰って来た。
女の笑くぼの裏には独り合点な誇りがみえます。
が、金吾は、
「今日ここへ参ったのはほかでもなく、改めてそちに頼みがあるのだが」
依然とひざもくずさずに、
「ぜひ、ききいれてもらわねばならぬ」
「やぼじゃありませんか」
お粂は
「二人の仲に、改めてなんて水ッぽいものはないはずです。
「では、きっと承知だな」
と、不意に金吾は女の腕くびをつかんで置きました。
「まあとにかく、話のすじを聞かしてくださいな」
「ウム、ほかでもない、お前の命をもらいに来たのだ」
「なんですッて」
「命をもらいに来た! それだけで、もう拙者の心は読めているはず。過ぎ去った愚痴をくり返してもしかたがあるまい」
「相良さん、じゃお前さんは、私へ恩を仇にして返すんだね」
「恩を」
「そうじゃありませんか、
「言うな、それは」
「いいえ、それから先の看病まで、親身になってつくしたのはたれですえ。……わ、わたしはそのために、日本左衛門という世話になった男を捨ててまで、あなたに女の生涯をみつぎこんだつもりですのに」
毒婦め!
今はあの時の金吾ではないぞ。
心で叱咤しながら、彼は、お粂のきき腕をひき寄せて、
「ここで、過ぎたいきさつを言い争ってもぜひがない。素直に命をくれるか、それともいやか?」
眼底に殺気をあらわして言います。
男の要求がなみなものでないのを知って、お粂もようやく白粉の顔を青ざめさせながら、
「この手を離してください。そんな無体なまねをしなくっても、話はわかるじゃありませんか」
「いやか、おうか、それを先に申せ」
「あなたに殺されるおぼえはない」
「では
彼が二階へ持って上がった、
「あッ――」と、女は窓ぎわへ飛びのいて、やや凄い血相を作りながら、
「相良さん、おまえは、ほんとに私を殺す気で来たのかい!」
その時です。
「
と、しきりと呼び立てているふうです。
お粂はつり上がった眼を金吾に向けながら、
「あ、木戸番の源七?」
そう答えますと、下の声が、
「ええ源七です、まだ太夫の姿が見えないというんで、みんな心配をするもんですから迎えに来ました。早く小屋へ来ておくんなさい」
「ああ今すぐ支度をして行くからね」
「もう客がつめているんですから、何分お早く」
使いの者は、外に待っている様子です。
それを機会に、お粂があわただしく
「何も逃げやしませんよ」
こう
「さ、相良さん、こうしている女を、斬るならお斬んなさいまし。わたしも丹頂のお粂、すじの分った話なら、あなたの為ですもの、素直に斬られもしましょうけれど、ただ命をよこせじゃ、得心はしませんからね」
「…………」
「とにかく、小屋には客がつめているんですから、今夜の
身をかえすと、お粂はいきなり男の胸へ寄って――
「もし、まったくあなたの為になる事なら、私は、死にもします、きっと素直に殺されもします。……だけれど、今も使いが来ているように、今夜の小屋をつぶしては、見物にすみません、私だけを待っている大勢の見物に」
哀切なことばで、男の体をゆすぶって言う。
そうまでいう女を、
「いや、待ってはおられん」
突っ放しざま、金吾は、
が、
その
奥で妙な物音がしたものですから、
「太夫さん、まだですか」
外に立っていた使いの源七、格子を細目にあけて、首をつッこみますと、
「あ、源さん、すまないが四ツ角の駕政に行って、一挺急いでくるように、たのんで来ておくれでないか」
と、境のふすまから半身のぞませて、少し息をせいたお粂が、あわてて、はいって来そうな源七の足を止めました。
その顔色が、
「じゃ、駕で飛ばして来てくれますか」
「アア、あとからすぐに行くからね」
「お願い申します。じゃあ私は、駕政へ声をかけて、一足お先に」
「ご苦労だったね」
馳けだしてゆく源七を見送ってから、お粂はまた静かに奥へ戻って来て、そこに、うッ伏していた金吾のからだを、次の座敷へ抱き入れました。
そして――のぞき込んで、
「相良さん……お分りかえ?」
と言ったものです。
金吾のにぶい瞳には、そこに坐った妖艶なお粂のすがたが映っている。
だが、しぼんだ
お粂が鏡台に向って、手ふきの布に、化粧下をそそぐと見せたのは、紫色のビードロに秘められてあったおそるべき魔薬でした。
魔薬と金吾――金吾とお粂、どうしてこうも、ねばりづよき悪縁でしょうか。
こうしておいて、後のしまつは、お粂に何らかの
枕を出して、そのつむりにあてがい、自分の
そして、
「お前さん、おとなしく待ってるんだよ。……女にこんなまねをさせるのも、みんな、男の罪っていうものじゃないか」
ふかい魔夢に落ちた金吾の頬へ、自分の顔をそっと持ってゆく……
やがては、ものの
気味のわるい妖婦の
ところへ、門口で、あつらえた駕屋の来た気配がする。
はッと、われに返ったように、お粂はそこを出て来ました。
乗るとすぐに、
「柳町ですね」
「あ、いつもの小屋へ」
駕屋は心得て、その方角へ息杖を上げます。
折から、町にも灯がはいって、洗い上げたような夕方の人通りを、駕屋の足も軽そうに。
* * *
そのあとの事。
お粂が戸じまりをして出て行った留守の家を裏口から、のぞき込んでいた男がある。
鉄砲ざるを背中に掛けたひとりの屑屋。
うさんくさい目つきをして、勝手の外へ、ざるを下ろしたかと思うと、水口の戸へ手をかけて、コトンと、変な音をさせます。
こいつ、空巣ねらいかと見ていますと、四つン這いになって、奥の部屋をのぞきこんだのみで、一物も手にふれず、何かひとりで頷きますと、元の通りに戸を立てて、裏通りから
見渡すかぎりをよく食べています。
それに、もうもうとこめる煙草の煙や、酒の香や、女の髪あぶらの蒸れるのや、雑音雑臭の交響。
相変らず、嵐一座の
前の渋い
番数すすんで、道化役の男が、
「太夫身化粧ができます間、一応は当座
というような口上で、形、彩色、さまざまな
「そもそも
――よくしゃべる
すると、うす暗い八
「兄貴、ちょっと」
帯の端を引いたふうです。
見物の目は、みんな舞台に吸いつけられているので、そこから稲吉が抜け出したことなどはさらに問題ではありません。
木戸を出て町を歩き出してゆく。
「てめえは、何があっても、お粂の
「でも兄貴、たいへんな事が起ったんで、知らせに来ずにゃいられません」
「なんだ?
「金吾がやられました」
「えっ、
「そうじゃありません、お粂のやつに、うまうまと魔薬をかがされて、一時仆れてしまったんです」
「どこで?」
「きょう、金吾がたずねて行った、お粂の家でです」
「うーむ、して、金吾を
「どうも知らねえふうなんです、それで実あ、大急ぎで飛んで来たんですが、あいつの魔薬のさめないうちに、こちとらの手で片づけてしまっちゃどうでしょう」
「けれど、あれを
「ですが、金吾の方は、折角、魔薬が充分に廻って、今のうちなら骨も折れず、どうでもなるところですぜ」
「それもそうだな」
「宵のうちの一仕事、案内は、あっしがいたします」
「じゃ、そこらに居るのを、寄せて来い」
「ようがす」
この一組は、稲吉の手下について、毎夜お粂の楽屋帰りをねらっていたものですが、特に今は、魔睡している金吾のいのちを
ゆさぶり落ちる
…………
こういう事態の起こっている間に、柳町の
縫いぐるみの衣裳に汗と白粉を流して、舞台で働いている粂吉や一座のものたちも、まさかそうしている間に、留守の家をうかがう妙な黒衣の群があろうとは夢にも考えておりますまい。
「ああ、ほっとした」
今、こう言いながら、その釜熱の木戸口から、逃げるように出て来たひとりの男。
ひょいと見ると秦野屋九兵衛であります。
なかの人いきれがよほどたまらなかったとみえて、出ると、未練に
歩きながら笠をつけ、少し横目に裾を折ると、これは立派な
そうして彼の足どりが、加速度になってゆく間に、時々ちょっと足を止める。
「おう」
「秦野屋さんで」
逢うのはみんな日本左衛門の手下、この甲府に入りこんで、
ちょうど、うす暗い河岸ぶちへ出た時、
「秦野屋じゃねえか」
「雲霧か」
「お急ぎだな」
「うム、ちょっと」
「首尾はどうだい、そっちの?」
「
「万太郎と釘勘のやつが、さっき、この横の屋敷へはいったので、待ちぶせているんだ」
「首尾よくたのむぜ」
「親分はどうしたろうな、さっぱり出会う折がねえ」
「実あ、おれも、その親分をさがしているんだ。どうも、諸所の辻を見てあるくと、悪い触れが廻っているから……」
「何しろ、早い仕事をしなくッちゃ、この甲府にも長ッ
「おッ……誰か来た」
「えっ? ……」と、雲霧は黒塀の横へ飛び
「じゃあ……」
「うム、また逢おうぜ」
――さてまた、
そして、お粂の留守をうかがって、あの
案内はこの家の裏に夕刻姿をみせた例の屑屋が
でも、念のためにと、水口の戸に耳をつけて、ジッと気配をみましたが、まず、あれから格別なんの変化もないあんばいです。
「兄貴」
「う? ……」
顔を寄せたのは千束の稲吉でしょう、何かささやき合っていると、うなずいて、そのささやきを黒衣の仲間に伝えています。
スーと、音もなく一方の雨戸が開かりますと、吸われるように、稲吉をはじめ
留守とはいえ、まるで留守ともいえません。
そこには相良金吾が眠っている。
だが、金吾が居るとて、べつに臆する必要もありません、かれは、魔薬の
忍び込んだいくつもの黒衣の影は、陰森とした屋内の暗やみを探って、金吾が眠り落ちている
と。
千束の稲吉が先になって、その一室のふすまを開け、じッと、畳をすかして見る。
何やら黒いものが横たわっています。で、稲吉がうしろの者へ目くばせをすると、スルスルと
が――麻酔におちているとは知っていても、何しろ相手が金吾と思うので、なお大事をとりながらじっとそこをうかがいましたが、どうも少し様子が変です。
で、稲吉が、そこに寝ている
「あれっ? ……」
開いた口がふさがらないとは、この時の黒衣の者たちの顔つきです。
稲吉も拍子抜けがして、驚きと共に立ち上がりながら、
「居ねえじゃねえか! 金吾のやつは」
「そんなはずはないんですが? ……」
と首をひねったのは案内の屑買いの男で、
「――妙だな」
と、と息をついて首をひねる。
「眠り薬がさめたんじゃねえか」
「とすると、一大事だぜ」
「おい」
と、稲吉は少しあわてた声で、
「てめえ何か勘違いをしているんじゃねえか。ほかの部屋だろう」
「なに、たしかにこの部屋です」
「とにかく、念のために、二階や、その
「つけますか」
「ウム、行燈に灯を入れてくれ」
「ようがす」
と、一人の黒衣が
そしてぼッと火になった附木を行燈へ移そうとすると、何者でしょうか、突然うしろの押入から首をのばした人影が、
「ふッ!」
と強い息を吹いて、ともりかけた行燈のまたたきを消してしまいましたから、
「おやッ?」
という仰天と同時に、あたりを飛び開いた黒衣の連中が、
「金吾だ! 油断するな――ッ」
と口を合せて叫びました。
途端に、
そこにあった行燈も畳を離れて、暗の天井へ踊りを踊ったかと思いますと、千束の稲吉の肩をかすッて、勝手の流し元へ落ちた上、そのかぼそい骨や火皿を
行燈が飛んだあとには、また突然、そこにいた黒衣のひとりが、わっと、絶鳴をあげてぶッ倒れます。
「
と、たれか言う。
そして――押入の戸の外に、ぬッとのびた一すじの刀光をみとめたかと思うと、ぷーん……と
まさしく金吾だ――金吾が魔薬のしびれからさめて、そこへ身を挺して来たのだと思いましたから、稲吉はじめ
そのうちに稲吉が、
「えい、相手はひとりだ、びくびくすることがあるもんか」
たじろぐ仲間を叱りつけて、いきなり相手の刀光を目あてに斬りかけますと、気配を察したか彼の方から機を制して、
「おうッ」
とばかり
そこの四尺ぶすまが二枚、隣りの部屋へ風をあおッて倒れたはずみに、二、三人はそこへ折り重なって、ひとりは二度目のうめきをあげ、
「ちッ、野郎」
と、狂いまわる。
――あとは一時にすさまじい
しかも、瞬間のうちに、相手の打ちふる刀にあたって斬られた者は、一人や二人にとどまりません。何しろせまい屋内のこと、あとでお粂が帰って
起てざる者は倒れ、
稲吉は無念でたまりません。で、彼が二階へ馳け上がると、それを追って、
「待てッ、金吾」
同じように
(寄るか?)
という構えです。
「しゃれたまねをしやがるな」
前髪立ちでも、日本左衛門の手下のうちでは、何本目かの指に折られている男です。
ひゅッと、
――そして、そこの手すりに足をかけて、飛鳥のごとく、屋根へ飛び移ろうとする相手の肩をつかみましたが、途端に、
「あッ」
と言いざま、
「ちぇッ、畜生」
咄嗟、反撥的な力で、落とした短刀をつかんで跳ね起きましたが、その時、相手のかぶっていた女の
肉感なお粂のにおいが稲吉の首を巻いたでしょうが、彼の手はいまいましげにそれを払ッて、ふたたびあたりを
しかし。
その時はもう相手の影はどこかに逸し去ッて、すじ向うの
甲府荒川のほとり、城下の南郊です。遊行念仏の名道場一
――
例のかたのごとき
読んでみますと、
「
看板の彫りものには、紫の雲をたなびかせ、勿体なくも大師の顔まであらわしてある。
なるほど、これを正しい
その鼻寺の和尚と、どういう旧縁があるのか、ほの暗い
和尚の
「どうだ
内陣にあれば住職であり、方丈にあれば鼻神湯の発売元である和尚の名は法達というのでしょう。
「ウム、おりゃあだいぶ
と太り
「まあよかろう」
「久し振りの珍客だからな」
「てめえが島から帰った
「だからよ、人間どこへころんでも、相当に根を
「そうなると、そろそろ栄華や悪事がしたくなりゃあしねえか。よく、こんな所にこうして居られる……」
うしろへ手をついて、日本左衛門は、すすけた天井や怪奇な
「ええ、
と、渋うちわであおぎ立てている。
そして、思い出したように、
「もう
「使いにやった、寺男か」
「ウム、八助のやつ、何をしていやがるのだろう」
「大丈夫か、あの男は」
「その方は心配はないよ。おれが手もとに置いて使っているやつだ」
「でも
「ちょっと、おれが、見て来よう」
「まあいい。間違った時にはそれまでのことだ」
「なに、そこらの居酒屋で、道草を食っているのかも知れないから、ちょっとおれが迎えに行って見る」
「まずい……」
胸にうかび出る考えを、自分で否定するようにつぶやいて、
「やはり、お蝶のやつを殺してしまってはまずい……。と言って? ……」
その時、
法達の
「お、兄貴」
と、笠をぬぎながら縁先へ腰かけた男があります。
見ると、それは法達がさがしに出た寺男ではなく老賊
「秦野屋じゃねえか、どうしておれの
と、日本左衛門は意外らしく言って、
「が、とにかく、
「ところが、今夜は腰をすえちゃいられないので、この九兵衛のからだもせわしいが、兄貴、おめえも
九兵衛が声をひそめるのを、
「なぜ?」
と日本左衛門は微笑をふくむ。
「なぜって言って、知らねえのか、
「十太がどじを踏んだことはおれも噂に聞いているが」
「まだそればかりか、今夜は千束の稲がおれの鼻をあかす気かなんかで、金吾へ手出しをしに行ったところが、しびれ薬で参っていると考えたのが大間違い、かえって、先の
「ふーむ、それは今夜のことか」
落着いては聞いていますが、金吾のために数人の手下があやめられたという事実を耳にしては、彼の心もおだやかではありますまい。
九兵衛はことばを次いで、
「そうさ、つい今しがたの出来事だ、おれはお粂の
「それで、おれにこの甲府を立ち
「永くいる所じゃねえでしょう……と九兵衛は思うんだが」
「いや、こうなればおれも意地だ、この甲府を
「つまらねえ意地を張らないで、せめて兄貴だけでも、ここは身をかわした方が得策だと思うがなあ」
「おれに十手と朱文字の提灯はつきものだ、何も足元から鳥が立つように、にわかにあわてるには及ばねえ」
それまで、そばで黙っていた法達も口を出して、
「親分の気性としては、今のことばも無理のないところだろう。それに、ただの
一緒になって九兵衛の忠告を笑い消すので、彼も一度は口を
「じゃしかたがない」
と、さびしいあきらめ顔に話題を転じて、
「この上は、親分はどうしたかと心配している、雲霧や四ツ目屋などにも耳打ちをして、それとなく外からこの鼻寺を見張っていよう。……それと、稲吉の生死もわからず、今夜は妙に気がせくから、これでお別れといたしますぜ。なに、また隙を狙っちゃあ、ちょいちょいと会いに来ます。法達さん、ごめんなさいまし」
こういうと、九兵衛はひらりと
そして、
「こう、八じゃねえか」
と呼びとめました。
「だ、だれでエ。お、おれを呼ぶなあ……」
「だらしのねえ返辞をするない、おれだよ、厚木の九兵衛だよ」
「えっ秦野屋の親分で?」
と、寺男の八助は両手を膝に突っ張って、
「なアるほど……親分にちがいねえや。どういう風の吹廻しか、この頃はこの甲府へ、いやに物騒な親分ばかり集まりましたね」
「はははは。てめえだって、あまり物騒でない方の人間じゃあるまい」
「なに、もう
九兵衛はせせら笑って、
「それこそ弘法様が
「あっしですか」
「そうよ」
九兵衛の眼ざしに、寺男の八助はまごついて、
「このとおり、ちょっと馴染みの家へ、飲みに行った帰りなんで」
「ばかをいえ。法達の話じゃ、使いに行ったということじゃねえか」と、少し声をとがらせましたが、急に顔をやわらげて、幾らかの金を八助に握らせながら、
「こりゃ今度、おれが甲府へ来た
「ご冗談でしょう、厚木の親分、こんなものを頂戴しちゃあ……」
「まあいいから取っておきねえ。ところで、というとおめえを見くびって、金で口を開かせるようだが、今夜の使い先は何処なのか、おれにだけ、ちょっと耳打ちをしてくれねえか」
「実は、その、江戸の親分のお使いでしてね」
「だからよ、そいつはおれにも分っているのさ」
「濁り橋のそばに
「ウム、ある」
「そこへ江戸の親分の
「先はたしか、お蝶という女だったな」
「おそろしい地獄耳でございますね」
「そして、その
「そ、そいつだけは、勘弁してください」
逃げ腰になる八助のえりがみを取っておさえて、九兵衛は
「言わねえな……この野郎」
「言います……言いますから手をすこしゆるめておくんなさい。あっ……血が」
八助かふるえ上がったのも無理ではありません。顔をこすられた刀の柄に、ねっとりとねばるものを感じたので、何気なく手をやってみると血のかたまりです。
「うるせえ、早く言え」
と九兵衛の力は仮借がない。
「実はなんです、江戸の親分のいいつけで、その蔦屋にかくれているお蝶さんていう娘に、呼び出しをかけたんでございます」
「なんと言って?」
「あの娘のさがしている乳母のお咲っていう者の名を
「ウム」
「この間うち、お嬢様のお姿を町で見かけて驚きました。そのせつ、おことばをかけようと思いましたが、師の僧のお供をしていたので、ついそのまま行きちがいました」
「ふム、じゃそのお咲っていう昔の乳母が、今じゃ
「そういう狂言なんです。そこで、あしたの晩は、師僧も弟子僧も留守になるから、
「西蓮寺というのはどこだ」
「この寺のことなんで。鼻寺ッていうなあ俗名でございます」
「よし、分った。で、先のお蝶はそれを真にうけて来る様子だったか」
「なんでも、昼は行きにくいが、夜なら行くと言っていました。それに、あのお咲っていう乳母によッぽど逢いたい様子なんでさ」
「――よく話してくれた。だが、言うなよ、この事を」
「へ? へい」
「江戸の親分や法達に、おれがお蝶のことなんぞを聞き
「そんなことを、だれがしゃべるものですか、しゃべればかえってこの八助が頭からしかり飛ばされるに
「どうかそうしてくれ、それもこれも、みんな後になれば、仲間のためになるこったから」
「何が何だか、あっしには分りません」
「そうだろう、てめえは
折角いい
その晩の九兵衛の行動というものこそ、神出鬼没というやつでしょう、いま鼻寺を出たかと思うと、もうその姿が城下の
たれが彼の怪しげな働き方に注目していても、おそらくこの短時間に九兵衛の姿を出没させた場所と時刻をかぞえることは不可能でしょう。
事ほど左様に秦野屋の
それはとにかく。
今、
胸毛を押しぬぐった手拭を、風車のようにクルクル廻してあおぎながら、
「おい、ねえさん、
かたわらの
頭の上に――むぎ湯、ところてん、としてある
「お待ちどおさま」
「ほい、
持って来たところてんに箸を執って、かぶりつくようにチューと吸い出した時であります。さびしい
その笛のふきかたに約束の音があるものとみえ、九兵衛はふと聞きとめると、あわてて小銭を置いてそこを立ち、
「もし、導引さん、――おい、導引」
呼び止めると、
「へ。およびですか」
と杖の先をうろつかせている。
それを、九兵衛はそばへ寄って、事もなげに笑いながら、
「眼をあきねえ、おれだよ」
「え」
思わず、眼を白くさせた導引は、ふところへ手をやりながら、そこの人影をすかして、
「おう、秦野屋か。おらあまた犬かと思った」
ほっと、気をゆるめたふうです。
それは、
「そうよ、油断は禁物だ。それについて、何よりも心配なのは、親分の身だが」
「秦野屋、てめえは親分に逢って来たのか」
「今も今とて、この甲州から足を抜くようにといさめて来たところだが、そういうとあの気性で、頑として聞き入れてはくれねえし……」
「そして、そのかくれている場所は」
「きのうから鼻寺の
「じゃ、おれも早速行って、よく親分の胸を聞いてみよう」
「今夜は法達と飲んでいて、すこし機嫌のわるい様子だから、あしたの晩にしたらどうだ。おれも、もういちど親分に会って意見を言ってみるつもりだ」
「じゃ、そうするとして――ほかの者は」
「ついでに、雲霧や千束も誘いあわせれば何よりもいい都合だがな」
「じゃ、二人の方へも、おれから合図をしておくから、御苦労だが、兄貴もあしたの晩は出ばってくれるだろうな」
「そう顔がそろうなら、何を措いても行くことにしよう。だが四ツ目屋、おめえお粂のうちで今夜稲吉が飛んだ目にあったのを知っているか」
「さっき、それで逃げて来た手下のやつに聞いてびっくりしたんだ」
「相手が、おれのうけもちの金吾と聞いてギョッとしたが、何しろ、怪我が軽くっていい事をした。金右衛門がやられ
「だが、相手の金吾に投げつけられたはずみに、ひどく腰骨を打ったとかで、今夜は例の家にもぐって寝込んだそうだから、ことによると、あいつだけは
「そりゃあ何しても案じられる。じゃ、おれはこれから、奴の見舞に寄ってそのことも話しておくから、雲霧の方へだけ、今のことを知らしておいてくれ」
「承知した、それじゃ、あしたの晩」
「ウム、宵はまずいから、
「鼻寺だっけな」
「忘れちゃいけねえよ」
「はいはい」
笛を流して四ツ目屋は横町へ曲りました。
その立ち話の時間も入れて、四
もう寝支度をしている飛脚組の土間へはいると、九兵衛は帳場の筆と巻紙を惜りて、即座に三ツの手紙をしたためました。
「番頭さんは居ませんか」
と帳場へよぶと、
「店の者はみんな寝たよ」
「じゃ、すみませんが、こいつをひとつ」
「飛脚賃はそこに貼り出してあるから、それだけの銭を置いて、帳場の上へ乗せといておくんなさい」
「ところがひどく急用なんて、ぜひとも、今夜のうちにお願いいたしたいのですが」
「だっておめえ、飛脚組は
「なに、遠方じゃございません、御城下のうちでございますから」
「それにしても、店が仕舞ったところだからな」
「そこを一つお頼み申します。飛脚賃は何ほどでもいといません、あいにくと、こまかいのがございませんから、これだけお使いの方に上げて下さいますように」
二分銀でも出すことかと思うと、目を射るような小判を一枚、三通の手紙の上に乗せました。
寝巻を着かえていた飛脚男も、月の給料にもあたる小判を見ては、このまま寝るのが
「ようがす、じゃ私が一ッ走り参りましょう」
早くも足ごしらえや支度にかかって、早速にこの
飛脚男は三通を手に取って、
「エエと、
「さようでございます」
「庄右衛門っていうのは
「さようで」
「三本ともずいぶん毛色の変った宛名人でございますね」
「へへへへ。どうかお早く」
「あ。返事は?」
「返事はみんないりません。置きっ放しで結構なんで」
「じゃあ手間はかかりませんから、早速これから届けてきますから」
「どうか、たしかに」
肩の荷でもおろしたように、九兵衛はそこの
これで、彼の今夜の意図は、のこらず済んだのかと思いますと、まだしのこした仕事があるふうで、その健脚らしくもない細い脛が、まだぴたぴたと夜更けの町を急いでいます。
そうして、とどのつまりに来た所は、宵にあの惨劇のあったお粂の家からわずか、一、二町ほどしか離れていない鍋屋小路の一角です。
そこに、陰気な
とん、とん、とん、とん、
「こんばんは。こんばんは」
そこでも飛脚組の戸を叩いたように、九兵衛が頻りと
「うるさいやつじゃのう」
寝ぼけ眼をあいて、医者山田
「これこれ、起きんか、起きんか」
「は……はっ……」
同じく、医書生の寝ぼけ返辞はいたしますが、遂に起き出る
そこの戸締りをあける音がひびくと共に、どんどんたたいていた表門の音も止む。そして、その間、音も声もしないのは、やがて家人が門の
やがて、不承不承にそこを開けた不孤庵が、しぶそうな眼をして、
「御病家かな?」
とたずねると、
「いいえ、宵に伺いました者で」
と九兵衛が腰をかがめております。
「アア、お前さんか――」
「最前おあずけ願いましたお侍様、あれからどんな様子でございましょうな」
「こなたは、どうしたというこッちゃ。突然、わしの家の玄関先へ、正気のないお武家をかつぎ込んで来て、自分の言いたいことだけを言って、スタスタ行ってしまいなすッた」
九兵衛はとぼけた爺さんのように頭をかいて、
「はい、何とも先程は、申しわけのないことで。実はその、ほかにも連れがありまして、いろいろと急場な用をひかえていたものでございますから」
「いくらせわしない事があったにせよじゃ、あんな
「おそれいりました。まったく申し訳のないことで」
「ではすぐにでも戻って来ることかと思えば
「有難うぞんじます。それでは早速、手当を加えてくださいましたか」
「医者の玄関に抛り込んで行ったものを、いくら見ず知らずじゃというて、手当をせんではおかれまい」
と、
九兵衛は徹頭徹尾あたまの下げどおしで、
「そして、お武家は正気がついたでしょうか」
「解毒を与えたが
「じゃあ、あのままいまだに眠ったきりですか」
「で、やっと、
「へえ、そうですか。イヤ大きに有難うございました。じゃあ夜中おそれいりますが、ひとつそのお武家の部屋へ御案内を願いたいもので」
「連れて帰らっしゃるか」
「そいつは大きに当惑します。何しろもう
「それでは何としなさる気かの」
「お武家様にお目にかかって、夜明けを待っておいとまいたします考え」
「怪しからぬことを言わっしゃい、わしの屋敷は
と、相手はいよいよ
外に残された九兵衛は、やがて、薄ッぺらな黒堺へ、ゆがんだ笑いかたをして、
「いいお医者様だ。罪のねえ威張りかただ。ああいう人間からみると、このお爺さんなんざ人がわるすぎる」
門かぶりの木の枝へ、指をのばしたかと思うと、猫柳の葉も散らさず、ヒラリと黒塀を跳び越えました。
へいを越えた九兵衛は、広くもない医者の屋敷を悠々と一めぐり見て廻ってから、何かひとりうなずくと、スルスルと身をのばして、床下の奥へ這いこんでゆく。
土台の横木をひとつ
静かに、板のキシムのを感じました。たしかに、この上の部屋に居る者は目をさましている。
「金吾様。……金吾様」
「金吾様」
すると、上でかすかな返事がありました。まぎれもない聞きおぼえのある声で、
「だれだ? ……」と。
「九兵衛です。九兵衛めでございます」
「おうッ!」
おうというのだけはおそろしく近く聞こえました。
「――九兵衛か」
「お気がつきましたな」
「どうしたのじゃ……おれは?」
「魔薬に酔わされたのでございますよ。お粂のやつにうまうまと」
「……不覚だッた。おれとしたことが、恥かしい不覚だった」
「あなたはいつも、お粂の毒を忘れるからいけません。花を見ると、そのきれいなことだけ、誰しも心をうばわれますから」
「しかし、この屋敷はどこだろう」
「山田
「そこへたれが連れて来た?」
「この九兵衛が」
「そのお前は床下にいる」
「はい、床下に来ております」
「
「わかるはずがございません。――あの時、お粂はあなたをあの家の奥に眠らしておいて、
「…………」
「金吾様、聞こえますか」
「聞いておる」
「ところが」
「ウム」
「それを
「……して、それから?」
「ちょうどあっしも曲独楽の小屋にいて、その打合せを小耳にはさんだので、やつらが
「おお、そうだったか……」
「それから、そいつをよいの口あけに、イヤ歩いたのなんのッて、こんな歩いた晩はねえ……」と、これは金吾に話すよりも、ここまで仕事をこぎつけたという、ほっとした気持が、自然に口から出て自分をなぐさめたつぶやきです。
「で、金吾様。……もし」
「おう」
「まだあります、よろこんでもらう事が」
「礼を申したい。今、ここの畳をめくるから、暫く待て」
「いえいえ、話は聞こえます。畳なんぞをあげて、もしほかの者が目をさまし、怪しいやつと騒がれては大変です。どうか、このまま聞いてください。……ようがすか。……
と、思わず自分の鼻をおさえて、九兵衛はひとりでおかしがりました。
しかし、もし笑い声がきこえて、
「金吾様、まちがいなくお出かけ下さいよ。ただし、人目にふれるといけませんから、例の白い
「おう、心得た」
「これで安心した。あとはあしたの仕事、夜が白むまで、おやじもここで一寝入りいたします」
「そこで?」
「自慢にはなりませんが、何処でも寝られる修行がついておりますから」
「では、拙者もここの明りを消そうか」
「どうかそう願いたいもんで」
「九兵衛。よろしいぞ、やすむがいい」
「へい。おやすみ……」
お
その朝酒も、
「なんだって、災難は災難としても小屋だけは勤めてくれなければ困る? ふウン、そりゃ
注いでは飲む茶碗酒の勢いが、あたるべからざるものと見て、太夫元を代表して
そこは、例のお粂の家ではなく、今日から看板を外すと騒いでいる掛小屋の楽屋であります。
それも、ゆうべ小屋がハネてからずっと泊っているわけではなく、夜更けてからお粂は常のごとく――。
いや常よりも機嫌よく女弟子や男衆を連れてぞろぞろと引揚げたのでありますが、帰ってみると留守中でのあの始末。
一同の驚きかたと、それから先の騒ぎは言わずもがなでしょう。町内の会所へ届け出るやら太夫元が来るやら、検視の役人や岡ッ引が調べに来るやらして、寝るどころではない一夜を明かしましたが、お粂はその間に
「太夫さん、疲れるといけませんから。疲れるとあしたの舞台にさわりますから」
と、なだめすかして寝せようとするのを振り払って、
「お酒を持っておいでよ、お酒をさ。酒でも飲まなけりゃ、生きちゃあいられないよ」
と、そろそろ
しかし今、太夫元の使いとして来た男を追い払ったことばは、決して、酒の上の
「気の毒だけれどお前たちは、ここにあるだけの物をいいように分けて、――がさ張るものは道具屋にでも何にでも売払ってお金にするさ、――そしてそれを路銀にどこへでも身のさんだんをつけておくれ、ああサ、今日から嵐一座はぶちこわしさ」
なんとなだめても、思い直しそうな脈はありませんが、それでも、男衆や、女弟子たちが、涙ぐんで、
「太夫さん、後生ですからそんな
と口を
「金じゃない、金じゃない。私はなにも、百や二百の金を、馬春堂と、伊兵衛に盗まれたからッて、それで、
「じゃ、ゆうべの事に気が腐ってですか」
「災難ぐらいに気のくじけるお粂でもないけれど、ほかに、この胸を、えぐられている事があるのさ。ああ言うまい。お前たちに話したって、どうなるものじゃありゃしない。……さ、みんな勝手に身の振り方をつけて、早く私の肩を軽くしておくれ。元の岩井一座なら、とうに厚木か四日市で
そう言って、茶碗へ酌ぐ手をのばしましたが、酒もきれて、涙ほどしかこぼれません。
お粂は舌打ちをして、よろよろと立ちました。そして、一同があぶながるのを睨んで、湯わかし場の手桶へすがりつき、
かなりな量を無理にあおったので、今になってその胸が、炎になってやけるのでしょう。
ひょろりと立つとすぐまた倒れて、積み上げてある座蒲団の山へ寄りかかったまま、肩に波をうたせて苦しげに寝入りました。
そのさまを眺めて、楽屋では、
「どうしたのだろう? ……」
と一座の男女が、
二、三人の古手屋が来て、値ぶみをしたがらくたや古着の類を、楽屋からかつぎ出して行ったのを、お粂はうすうす意識していました。
それから、その金を分配して、一座の男女が、それぞれの思うさきへ、落ちて行ったのも知っている。
小屋にはお粂ひとりとなりました。やけ酒がまわって、苦しみながら寝入ったとばかり思えたお粂は、積み上げてある座蒲団のくずれた上へより懸ったまま、いつかシュクシュクと泣いています。しゃくり上げて泣いていました。
だが、こういう場合に女が泣くのは、女それ自身が
やはり酒が泣かせるのでしょう。
で、涙がつきると、ほんとに酒の苦しみが来ました。その苦しみが薄らぐと、こんどはゆうべからの疲れが手伝って、ぼうとあたまに
ぐッすりと深い寝息――
やけのやん八のあばれ仕舞はいつも狐つきのように寝るものと相場がきまっていますが、あとのさびしさが思いやられる。
何しろそれから長い時間、お粂を起こすものもありません。
だいぶ時刻が立ったのでしょう。
「やい、起きろッ」
「起きねえか、ふてえ
こういって、正体のないお粂の肩を不意に蹴とばした人間がある。
お粂は、座蒲団の山と一緒に蹴くずされて、そこに、しどけない自分の姿と、自分を取りまいて、
まだ赤い寝ざめの目尻をつりあげて、
「何をするのさ」
言うそばから、また一人が足をあげて、
「いいかげんにしやがれ、てめえのような旅烏に、土地の興行をいいようにかきまわされちゃ、おれ達のつらが立たねえ、どうするかみていやがれ」
と、いきなり髪の毛をつかもうとする。
そっとあのままで目がさめたら、さだめし、やけ酒のあとのさびしさが一時に襲って、ふたたび酒にでも走らなければ耐えられなかったのかも知れないのが、この唐突な暴力組のために、彼女はかえって強くなり得ました。
で、髪へのばして来た相手の腕を、薄い手のひらのこばで、こッぴどく払いつけて、
「しゃれたまねをおしでない。小屋の木戸口や楽屋裏へ来て、芸人の冷や飯をもらって歩くお前たちが、口出しをする幕じゃあるまいに」
「女のくせにしやがって、きいたふうな事を言やあがる。こう、気の毒だがおれ達は、太夫元から頼まれて、てめえの一座に前貸しの給料を取り返しに来たんだからそう思ってくれ」
「いくらがみがみ言われても、ない袖はふれないよ」
「よく捨てばちをほざいたな。よし、金がなければ、そのからだを
一人は早くもうしろへ廻って、お粂のきき腕をねじ上げました。
無論、いくら相手が三文
「ちッ!」
いやというほど、その男の頬をはりつけて、さらに一人の胸いたを突いて飛ばす。
「やったな」
「それ、半殺しにしてしまえ」
元より、その計画でやって来た手合ですから、かかるとなると気がそろッている。
襟がみをつかむ、腕をねじあげる、そして、蹴る、蹴倒す、ふみつける。
四方、
「さ、殺すなら殺しておくれ。殺せ。殺せ」
「おお、殺してやる」
「ただの女芸人と思っているのかい。これでも江戸では、丹頂のお粂といわれた
「おれたちも
五、六本の長脇差が、一時にぎらぎらと取り巻いて、お粂のからだを針差のように突いてしまうかと見えました。
その時です。
どこに居てこの様子を見ていたのか、そこへ飛んで来た一人の旅装いの男が、
「皆さん、つまらないじゃございませんか」
笠と片手をひろげて、お粂の身をかばいました。
見れば、紺のさめためくらの
「なんだい、とっさん。つまらないところへ出しゃばって、怪我するとつまらねえぞ。早く小屋の外へ引っ込んでいるがいい」
長脇差を抜いたてまえにも、お粂を取巻いた、
「相済みません、
と老旅人は腰を低くして、
「したが皆さん、金のことで、この女を殺すというのは、両損じゃないかと存じます。少々ですが、このおやじの持合せですむなら、何とか、お話し合いということにして、私にここをあずけてくれませんか」
といううちに、与市兵衛でも持ちそうな財布の
「五十両ございます」
一人の男の手をつかんで、その手へ重く握らせたものです。
目と目を見合せて、あっけにとられているのを、
「まあ、まあ、細かい勘定なしということで、あまったらあなた方で、一杯飲んでいただくし、不足だったら、その分だけは太夫元にまけてもらうという都合に」
まるで子供あしらいにして、苦もなく、五、六本の
さて、そうしてから老賊
「
自分はそこのざぶとんを拾って、楽屋口に腰をおろし、黙ってたばこを吸いつけている。
お粂もまた、黙って、そのそばを馳けぬけて、自分の鏡台のある幕のかげへ飛び込みました。
が――そこにはもう、あると思う気がした鏡台も化粧道具も、そのほか衣裳つづらまで、一物として残っていない。
しかし、離散した者たちも、お粂の着がえ一通りは、そこに残して行きました。彼女は、ほころびた着物をそれに着かえ、ともかくも髪のほつれや涙のよごれをふいて、あらためて、九兵衛の前へ来て、
「どなた様か存じませんが、只今は、有難うございます」
「まあ、怪我がなくって、いいことをしたね」
「おかげ様で、命びろいをいたしました」
「そうさ、
「そして、あなたは」
「わしかね? わしは江戸の大伝馬町に住む
と、銀歯をむいて笑いました。
では、自分をひいきにして、毎晩小屋へ見物に来ていた客だったかと、お粂はその老巧な話しぶりに少しの疑惑もはさみません。
九兵衛は、手にしている
「ところで粂吉さん、さっきから様子を聞くと、急に一座をくずして、この興行もおやめだという話だが、そして、お前さんは、一座の者をみんな押っ放して、これからどうしようというつもりなんだね」
「さあ……恥しい話ですが、さしあたって、どうという考えもなく、急に舞台がいやになったもんですから」
「といっても、困るだろうじゃないか。……それにお前さん、江戸弁だね」
「ええ、元より、江戸の生れですから」
「どうだろう、年寄の口から、ちといいにくい相談だが……」と、膝をすすめて「わしは女房もないし子もないからだで、店の方も買出し以外は番頭まかせ、いやらしいことをいうようだが、浜町の方の別宅に、ひとりくらいの女気がほしいと前から心がけていたところだ。
お粂が考えこんでいる様子に、九兵衛はことばに熱を加えて。
「どうだな、粂吉さん」
「さあ? ……」
「いやといわれると面目ない。実のところ白状すると、ゆうべも、おとといも、先の晩も、お前さんの舞台姿に、どうもわしも迷わされて、一度は人を頼んでも、ぜひ相談を持ちかけてみるつもりでいたくらいなのだから――これを断わられると、わしも、がっかりせずにはおられませんので」
年寄の恋にことよせて、うつ向いて見せた秦野屋九兵衛は、なんと出るか、鋭い上目づかいに、お粂の返辞を待ちかまえているふうです。
あくまで金持ちの
「じゃ、承知してくれるというのかい」
「こんなあばずれでも、世話して下さるおつもりなら……」
お粂の考えとしては、無論一時の方便でしょうが、また、当座の身の落着きを、どこへというあてもない体。
生きてさえいれば、そのうちには、金吾に会えもしよう。
まだその深い未練から離れません。
彼女は、きのうの魔薬が薄かったために、金吾の眠りがすぐにさめて、姿を消したものとばかり思いこんでいました。そして、男の心は、自分の手くだ一つで、どうにでも変りうるものと信じている。
九兵衛はお粂を外に誘って、
「わしはこれから一軒の荷元へ寄って、
それにもお粂に異存がないので、
「では、支度でも直して」と、城下でも一流の料亭に
「うーム、おまえは舞台顔よりは、そうして湯上がりの薄白粉の方が遙かにいい。どうだな、小屋者の足を洗って、気が涼しくなりあしないか」
「ほんとに、これでせいせいしましたよ」
「そうだろう。さ、
「え」
酒の顔を見て、お粂が急に眉を
九兵衛はあしらいよく、
「それだからいけないよ。飲むさ。頃合に飲んでごらん。迎え酒というやつだ。だが、
ふた口、三口
ちょうど軒にも灯がはいる頃。
九兵衛も程よく酔った顔をして、女中たちにざれ口をききながら、料亭の門へ送られて出て、
「かごは。かごはどうしたい」
「きております」
「ウム、二挺だよ」
「さ、お連れ様も、お召しなすって下さいまし」
お粂も何気なくそれへ誘われながら、前のかごに、ぐんにゃりともたれ込んだ九兵衛を覗いて、
「荷元とやらいう家へは、かごでゆく程遠いのですか」
「なあに、遠いといっても、城下はずれさ。歩いてゆけば、腹ごなしにちょうどいいが、途中の道がすこしさびしい。……それに、どうもわしは飲むと、一
口をきくのもものうそうに、
「ええ。いい心もちだ」
と、かごの背に寄りかかって、高いびきをかかないばかりな居眠りです。
杖をあげた二
人目のうるさい町中だけ、かごのすだれを下ろして来たお粂が、その時垂れを上げて外を見ますと右も左もいちめんな青田です。
かご屋の足拍子におどろいて、その青田の稲の波へ、紙のように散らかるのは白鷺です。
ツイ、ツイ、と流れて来ては、駕籠のすだれにとまったり、駕籠の中を通りぬけたり、自分の袖にこぼれて来たりするのは、螢の青い明滅です。
お粂は螢を一ツ手のひらに入れました。
その青い明滅が、自分の直前の運命を暗示しているものとは元より知らない気紛れに――です。
青田の道をきれると、森を廻っていくほどもなく、小高い土手の向うに、一条の幅のひろい河面が見えます。
「旦那、
「お約束の
肩をはずした駕籠かきが、居眠っている九兵衛の膝をゆすぶって言いますと、
「ウウーム……」
と中で伸びをして、
「もう
「ごらんなせい、荒川が見えまさ」
「なるほど」
まだ眠たそうに駕籠をおりて、
「それ、
「ありがとう存じます」
かご屋の明りが遠く去るのを待って、九兵衛はゆるい足どりで先へ歩き出しましたが、
「時に粂吉、もう
「さっき途中で、どこかの鐘が八ツ半をついていたようですよ」
「八ツ半かい。ちょうどよかろう」
「この辺には、あまり
「荷元といっても、大きな
男が、しきりと腕をくんでいるのが、お粂にはばかげたものに見えました。
「弱ったなあ、これはわしの早計だった」
「何がそんなに弱っているんですよ」
「おまえがさ」
「私が居ちゃあ邪魔なんですか」
「飛んでもない、邪魔なんて、ひがんでくれては困るが、その荷元の
「じゃ、私は何処かで待っていますよ」
「でも一人でさびしかろうに」
「旅にはさんざんなれていますから」
「う。いやそうだッた。じゃ、なるべく早く話を切上げて来るから、向うの辻堂で待っていてくれないか」
「早く帰って来ないと、どこへでもいってしまいますからね」
あまり他愛のない男の甘さを見て、お粂もつい、からかって見たくなった。
「すぐだ。すぐ戻ってくるから」
うしろへ手を振りながら、九兵衛は
* * *
そのともしびのほか、この辺の木立の奥に、遠く近くちらついている灯は、たいがい寺の灯であります。
その寺に
青い編笠に紺かたびら、
「はてな、さっきの
つぶやきながら、とある所の
「――でなければもう
と、くり返して、道のあなたをしきりと見ています。
と――近づいて来る人声がある。
「来たか」
と侍は、すぐ腰を立てましたが、その人影が期待とちがって、二人連れであったのに驚いて、急に自分の影を
すると。
そこを通り過ぎたふたり連れの影は、何か、ヒソヒソとささやき合いながら、うっそうとした岡の森にある鼻寺の山門へ吸いこまれて行った様子です。
それをやり過ごして、欅のかげを離れた侍は、二ツのうしろ影へ
「不思議だ! 今のやつは、四ツ目屋の新助に雲霧の仁三、たしかに、あの二人に相違なく思われたが?」
棒立ちになって、そこに小首をかしげておりますと、その姿を見つけたらしく、石屋のわきの石置場を抜けて大股に急いで来た秦野屋九兵衛が、
「もし、そこに居るなあ、金吾様じゃございませんか……」
「お、九兵衛か」
かねて約束のある事です。金吾もすぐにこう応じて、
「そちの来るのを心待ちにしておった。して今夜、自分にここへ参れと言ったのは、何か、改まった用談でもあるのか」
九兵衛は寄り添って腰をかがめながら、
「そのつもりでございましたが、何しろ、両方に
こう独り呑みこみに、彼がすぐあとの道へ取って返して行きますので、何を問うまもなく、金吾もまたそれに
暫く行くと
「金吾様、あれに辻堂が見えましょう――あの松の木が二、三本見える下の
「うム」
「そこにお粂が待っているはずです。あっしが先にそばへ行って、逃げねえようにしますから、足元へ突き出すまで、あなたは黙って見ていておくんなさい」
と、言ううちに秦野屋は、もうスタスタと辻堂の前へ歩いて、そこに腰をおろしていたお粂へ、さあらぬ調子でことばをかけています。
「おおひどい、この汗だ。今帰って来ましたよ」
「たいそう早かったじゃありませんか」
お粂は辻堂に身を休めながら、あたりの
「何さ、先様でも、上がって行けの泊って行けのと、しきりに袖を止められましたが、こんな所へ、ひとりで残しておいたお前のことが心配でな。は、は、は、は、は」
お粂は、相手が笑いながら手を握って来たので、年甲斐もない好色と、心のうちでおかしく思っていましたが、
「おう、そこでなお粂さん」
と、九兵衛は引っ立てるように彼女の腰を立たせて、
「わしが、待っている者があるからとツイ口をすべらせたので、荷元の旦那がそこまで一緒に来ていらっしゃるのだ……何とでもいいから、ちょっと、あいさつをしてくれないか。なあに、まのわるい事があるものか」
「荷元の旦那が?」
「うム、それ、そこに立っておいでになるお方だ」
変なことを言う?
お粂の直覚が九兵衛の顔に鋭くうごいた途端です。彼の手はお粂の帯のうしろをトンと突いて、その体を金吾の前へよろめかせました。
「あ――」
不意を突かれて、彼女が前へ身を泳がせますと、そこには見馴れない
姿がきのうとは変っております。第一、秦野屋を江戸の
(誰だろう?)
すぐに彼女のあたまにうかんだのは日本左衛門の姿です。しかし日本左衛門にしては少し小づくりな骨格がどうも不審にたえません。
すると、編笠の影は、笠の前つばに手をかけました。
「おお!」
と言って、一歩前へ出て来ました。そして、お粂の疑心も、それと共に、思わず一足でもあとへ退がらずにはいられなかったのです。
見ると、そのまに、九兵衛はすばやく後ろへ廻って、
事態はお粂にとっていよいよ変です。
「なんだいお前さんがたは。妙なそぶりをするじゃないか。さては私をだまして、どうにかしようという量見だね。……ふウん見くびっちゃいけないよ。丹頂のお粂さんを」
と、ゆがめた唇を糸切歯へかませました。
彼女の語句がとぎれたせつなに、金吾は、待ちかまえていたその編笠をサッと捨てて、
「お粂! 拙者だ」
叫ぶが早いか、おどろく彼女の胸元にとびついて、その腕を自分の小脇にしっかりとつかみ取りました。
のけぞりそうになったお粂の
「あッ……あなたは、相良さん」
「おお、金吾だ。よくもかさねがさね、魔薬の毒をもって、拙者に不覚をとらせたな。今宵こそはもう
「ちイッ、ひどいッ」
お粂は、奪われたきき腕を、もぎ取ろうとして身をもだえながら、
「相良さん、それはあんまりひどいでしょう。なんで私を殺そうというのか、私には少しも訳がわからない。私が、魔薬を使ったのは、ただ、お前さんを自分のものにしたいばかりじゃないか」
「だまれ、その毒手になやまされて、この金吾が、どれ程な苦しみをいたしたか、またどれ程身の生涯をふみ過ったか、いかに無智な女でも、それくらいなことは分っていようが」
「それは、悪いこととは知っていたけれど、そうしなければ、男が自分のものになっていない――その私のつらい気もちも察してください」
「たとえ、この
「自分の武士を立てるためなら、どんなに思っている女だろうが、殺してもかまわないと言うんですか。もし相良さん。私とお前さんとは、たとえ十日でも二十日でも、あの熱海の湯治場で、夫婦も同じように暮していた仲じゃあないか。今さら、男らしくもない、そんな後悔をして私を斬ったところで、二人の縁が洗われるわけでもなし、あなたの名折れが世間へ立つわけでもないでしょうに」
「いいや、立つ。立派に立つ」
と、うしろで叫んだのは秦野屋です。
お粂は、いまいましそうに、九兵衛を睨んで。
「お前はまた、どこの
「江戸の
「えっ、じゃ、厚木の秦野屋かえ」
「とんだお役廻りを内職にやっているので、おめえが勘づかなかったのも無理じゃねえ。だが、そんな事はさておいて、丹頂のお粂ともあろうものが、あきらめの悪い泣き
「私が死ぬのが、どうして相良さんのためになる?」
「日本左衛門がそう言った。――お粂とのくされ縁がないという証拠を見せて来たならば、いつでも武士らしく、男らしく、果し合いをうけてやろうと」
「…………」
「先のことばも一理がある。おめえがあきらめをつけないうちは、金吾様からあいつに刃を向ける言い分が立たないのだ。言い分というのは武士の名分、主家に対しても同じことなら、世間へ対しても同じこと。また、こちとらなら知らぬこと、武士という気持に生きている金吾様自身の心もゆるすまい」
九兵衛がその老巧な弁にまかせて、
金吾も、そうしている女の腕を、強く捕えているにも堪えないで手を離すと、お粂はそのまま草のなかにくずれて、声を出さずに肩で波を打っています。
「え、お粂さん。おめえの心も察しるが、金吾様の――侍というもののさ、苦しい立場も考えなくちゃいけねえ。それに、たとえおめえが助かったにしても、いつか一度は、日本左衛門が無事に見ているはずがない。きっとおめえは殺される。金吾様に殺されなければ、日本左衛門かその手下の者に
と、九兵衛が彼女のそばにしゃがみ込むと、それにも返辞はなくて、ただ草のなかに顔を
「おや?」
びっくりした九兵衛が、お粂のからだを抱きおこしてみますと、その硬ばった手のひらのうちに一個の小さな紫色の
抱き起してみた途端に、ぐッたりとしたお粂の
「あっ、魔薬」
と、九兵衛はあわてて、自分の顔半分を袖口で掩いかくすことを忘れませんでした。
それを
「ウーム、とうとう
と、九兵衛は彼女の仮死のからだを膝に寄せたまま、
「やっぱり人間だ。江戸の女だ。悪党の
つぶやくように、そう言いました。
金吾も白蝋をみるようなお粂の顔にジッと目を落として、
「ふびんなやつだ……」
思わず、ふびんということばを、この時彼の口からもらしました。それは恐らくまにあわせの歎声ではなかったでしょう。妖婦、毒婦、と今日までその呪いを憎みながら、また殺そうとまでしながら、半面には、そのふびんということばに現された心が、金吾自身も気がつかない心の一隅に、力づよく根を張って潜在していたのではないでしょうか。
今の年になって、悪行の生涯から
「この強い魔薬をあびたか飲んだかしたところをみると、死ぬ覚悟をきめたのでしょう。考えてみると、金吾様を思っていたことも、おそろしいほど真実だったのでございます。こういう女だけに、まったくおそろしい思いかたで」
「が、九兵衛、いつまでこうしてもいられまい」
「ヘイ、そのさいそくは、あっしの方からするところでした。これからすぐに、鼻寺の方へ行かなけりゃなりません」
「うむ、そこへは先程も、雲霧と四ツ目屋が連れ立って参ったようだが」
「そうです。甲府町方の目をくらますため、日本左衛門がこッそりとかくれている穴です。実あ、そこへあなたを
「そうか。さてはあの寺内に、日本左衛門がひそんでおったのか。よしッ」
にわかに、金吾の眼底には激しい争闘心の前駆が血走ります。そして彼は、お粂のからだのそばに膝を屈して前差の小刀を抜くが早いか、その首を
「あっ、もし」
と、九兵衛はその手元を待たせて、
「どうなさいます、そいつを」
「星影の谷あいで誓った証拠だ。これを日本左衛門の前につきつけて、今宵こそ、有無をいわさず
「そいつは少し時代過ぎましょう。何も、日本左衛門がああ言ったからって、そんな生々しいものを、土産にかかえてゆくこたアありゃあしません。首のかわりに、その髪の毛でも、たたきつけて見せれば沢山です」
「なるほど」
金吾の心も、何かしら、ほッと救われたようでした。
彼としても、すでに非を悟った上、魔薬の力をかりて自殺した女の首を、むざと、それこそまったくむざとです、掻き斬ッて、いい気持のする理由はありません。
で、九兵衛のいうがまま、首にかえて、お粂の黒髪をぶッつりと切り、くるくると懐紙に巻いて、それをふところに、
「さ、行こうか」
と、先を急ぎます。
「――
立ちながら九兵衛はそこを片手で拝んで、
「じゃ、片づけているまもありませんから、死骸はこのままにして行くとしましょう……」と、五、六歩あゆみ出しましたが、ふとまた草の露に
「あ、あれ。金吾様見てごらんなさい。ここから見ると、お粂の死骸に魔薬が青く光っていますぜ」
「いや、
「え……な、なるほどそうか。は、は、は、は。九兵衛も少し凡眼ッてやつになりましたかな。だが、煩悩の仏さまだけに、螢もうつりがわるくねえじゃアありませんか。オオどれ」
あとは無言で、暫くの間、螢のやみを駆けました。
そして、鼻寺の近くまで来ると、
「おっと」
つまずいたように急に足を止めて、
「金吾様、まだもう一つ、断って置かなければならない事がありましたよ」
「なんだ」
「
「おう、
「それを持っているお蝶という女も、今夜、この鼻寺へ何も知らずに来るはずです。――ですから金吾様、日本左衛門を討つという敵意にばかり気を走ッて、その大事な
あとは聞きとれない
そして、まもない
そこに、何か
その時刻と前後して、城下のちまたから荒川へ流れ出る
『
が。
それは異とするに足らないとしても、これは異としなければならないのは、その褪紅色の被衣にくるまれた女の顔です。
川には、
耳まで裂け上がっているくちびるは、二本の
ここにも螢がとんでいました。
水を離れて、彼女の顔へ吹き上げられてくる螢も、その形相に近づくや、光を
「……まだかしら?
「荒川の
でも、先に心を急いでいるとみえて、程なく、
時折つよく来る風が、被衣を奪って彼女の下をのぞこうとします。彼女はそれをとられまいとするらしく、両手を胸に組みあわせました。
そして、楚々と草履を
「ここにちがいない――荒川の畷は」
真っ黒なやぶと青田の間をつづいている白い道に立って、お蝶は初めてほっとしました。
「灯が見える」
そこに立つと、寺町の灯が幾つかかぞえられました。お蝶はその三つ四つのまたたきのなかに、乳母のお咲がともした明りもあるのだろうと考えこみます。
折角、この甲府まで来てみたけれど、もうさがしあぐねて、とても逢われぬものとあきらめていた乳母のお咲から、思いがけない寺男が使いに来たのは、きのうの夕方。――お蝶は宿に払う路銀もとぼしくなって、どうしようかと、さすがに旅の心細さに、ふさぎ込んでいた時です。
使いに来た八助という寺男から、
で。行くと返辞を与えましたが、後で考えてみると、いやな予感がしないでもありません。
わずか二日まえに――あの
もしや? ……
そういう
止めよう。あの寺男といって来た使いも、何だか知れたものじゃない。
感づいて、一度は断念したのを、にわかにまた、行くと決意をしてしまったのは、深夜宿へ届いた一通の無名の飛脚が、お蝶を気づよくしたためです。
無名の飛脚の内容は、数行につきていて、大略のところをつまめば――こんな意味。
明夜は鼻寺へ行った方がお嬢様の幸福ですよ。
何か不安がありましょう。それで迷っておいででしょう。たとえば日本左衛門のことなど。だが、さるお人のいいつけで手前がその方はよそながら守護しておりますから御心配なく。
くれぐれも御
迷わず鼻寺へおいでなさい。大事な
今もたもとからその文がらを出してみて、これは、乳母のお咲の心くばりではなかろうか、などと考えながら行くうちに、お蝶は、何か触覚の異様なものに、足元をすくわれて、思わずそこによろけました。
はっとしたのは、目の前に仆れている黒いものを見たからです。人間です。露ッぽい草のなかに、短い髪の毛を散らばしてうツぶしている一個の死骸は夜目にも明らかな女であります。
「おや?」
お蝶が、死骸をみてつぶやいた声は、いかにも
次には、そばへ寄って、
「どうしたのかしら? ……刀傷もないし締め殺された様子もない。そのくせ、死んでいるなんて」
おかしい事のように
そして、女の髪の毛が、短く切りとられてあるのを見くらべて、お蝶の好奇心は、死者を見る同情などを忘れている。
まったくその死顔は、死顔というべくあまりに凄艶です。むしろ作り物にしろ、生けるお蝶の
「あらッ?」
そのうちに、お蝶はこう言って、やにわに顔につけている
「見たような
しきりと考えていましたが、その身なりから推して、江戸で会った者だろうとだけは想像がつきましたが、にわかに、何処で会った誰ということまでは、どうしても思いあたらない。
と。
天を向いた
「あっ……」
すッくと立って耳をすますと、まさしく
途端に――
一方の木立のなかに、ちらとうごく人影を見たので、お蝶は、仮面と顔とをヒラリと
「それッ」
一陣になって追い慕ッたものがある。
御用――と黄色い明りを振れば、すぐに捕手とわかりますが、この一団の人影には一個の明りもたずさえられておりません。
やがて――
いたずらに、
きりょうの
いや、こんな女は、城下の茶屋じゅうで見かけたことがない。という異説も出たりします。
第一この死にかたがどうも怪しい。
評議まちまちの結果でした。
とどのつまり、やはり、これは一応誰か然るべき者か上役の者に来てもらわなければ、この死骸をこうして置いていいか、それともべつな処分をするか、どうにも去就がつかないということになります。
で、話がそうきまると、ひとりの捕手が、合点という風に
しばらくすると、篠のそよぎの消えて行った
初めて、ぼっと
どこかに伏せておいたのが、
まもなくだんだんそれが近づいて来ると、合図をした組子のひとりが、藪を分けて案内に立つ。
何かしきりとしゃべるのを、明りに添って来る三人が、うなずきながら聞き取っている。そしてザワザワと畷へすすむ。明りの先にバラバラと虫が飛ぶ。
提灯を手にしているのは、柳沢家の町方与力か、或いは同心程度の捕吏であろう。朱房の十手を前ばさみにしている。
そして、あとの二人というのは、徳川万太郎に目明しの釘勘でした。
「おい
例の鼻寺の方丈に
「そうですか。客人がそろったから蚊いぶしも馳走のつもりなのですが」
「もう充分だ。これ以上いぶされちゃ、どいつも、しッぽを出さずにいられまい」
「は、は、は、は、ちげエねえ。今夜の客人をいぶすのは禁物だったかもしれない」
最前ここへ訪ねて来て、そこに居合せた
「なあに、おれたちは極めつきの白浪だ。このほかに出すしッぽもねえが、御夢想ぐすりなんていういかもので世間様をごまかしている、鼻寺の
「ひどいことをいうなよ。御夢想ぐすりでもばかにはならんぜ。なんなら、一服進ぜようか」
「もう売りつけにかかっていやがる。おあいにく様だ。ここには、人一倍鼻のきく人間ばかりそろっている」
ところへ、何かピチピチとはねる水桶をさげて、薄暗い庭先へ顔を出した寺男の八助が、
「方丈様、やっと
「あったか、鯉が」
「大きなやつを、三匹ばかり仕入れて来ましたが、なんに致しますかね、こいを」
「どれどれ」
と、法達も四ツ目屋も、縁先へ出て水桶をのぞきながら、
「なるほど、いい鯉だ」
「おことばに甘えて、あっしは洗いにねがいたいね」
と、新助がいうと、雲霧が、
「おれは鯉こくを注文するぜ」
「寺へ来て、お茶屋へでも行ったようなぜいたくを言いなさんな」
「じゃ方丈様、造作はありません。両方に振分けてつくりましょうか」
「ウム、御苦労だがやってくれ。そのまに、おれは膳の方を出しておくから」
法達が
何を考えているのか、寺の水で鯉の血が洗われているのを眺めて、日本左衛門はひとりでクスクスと笑っている。
「おや、本堂の方で、人声がしやしねえか」
「そうだな」
新助が立って行ったかと思うと、程なくそこへ、千束の稲吉を伴って席へ帰って来ました。
「親分」
「お、稲か」
「秦野屋はまだ参っておりませんか。実あ、ゆうべおそく、話があるから
「九兵衛もそのうちに見えるだろう。……だが、てめえ達は、なんの為に、今夜おれの前でガン首をそろえようというのか」
「それは今に、九兵衛が来てから言うでしょう」
「そうか。……まあいい、折角の久し振りだ。今法達が酒の支度をしているから、今夜はゆっくり飲むとしよう。ところで」
と、急に庭先を振向いて、
「おい、八助」
「へい」
「ゆうべの返事は、たしかに訪ねて来ると言ったのだな」
「まちがいなく来ることになっています」
聞きとがめて、そばの者が、
「親分、
「だから、少し静かにしていてくれ」
「へ」
「本堂まで訪ねて来ても、もし、奥の方で荒ッぽい声が聞えては折角な
にわかにシンと声を沈ませて、
「たれですか。そいつは」
「お蝶」
「えっ、お蝶が」
「
「うまい手はずにゆきましたね」
「だが、おれはすこし考え直した。どうもお蝶を殺してはまずい」
「で、どうするつもりなんで?」
「笑ってくれ」
「親分……」
「は、は、は、は。笑ってくれ」
「親分、何を笑っていいんですか」
「実あな」
「へい? ……」
「おれはお蝶を女房にしようと思うのだ」
雲霧と四ツ目屋は黙って顔を見合せたのみです。
余人なら知らないこと、日本左衛門が自分の口から、お蝶を女房にしようかと考えている――というのですから、ちょっと口が出しかねました。
「親分」
その時、方丈の横のふすまが、音もなく
そこに突くばっている九兵衛を見て、
「おう、秦野屋か」
「よろしゅうございますか。今、裏の方へ廻ろうと思ったら、木戸が閉まっておりますんで」
「仲間うちだ。なんの遠慮があるものか」
「ごめんなすって下さい。お、稲吉も来てくれたか」
「ゆうべ、兄貴からくれた飛脚を見て、何はおいてもやって来たのよ」
「御苦労だなあ」
新助や
「やれ、こうしてみんなと膝をくむのも、何か、たいそう久し振りのような気がする」
いかにも、心からくつろいだように、九兵衛はさりげなく
「時に秦野屋、ちょうどいい所へ来てくれた。実は今親分から、思いがけないことを打ち明けられて、おれ達のような若い者じゃ、相談相手になりそうもなく、弱っていたところなのだ」
日本左衛門は笑いながら、そばから語尾を引き取って、
「仁三のように、そうしかつめらしく聞かれては困る。実はな、九兵衛」
「へい」
「軽い気持で聞いてくれ――夜光の短刀をさがす上に、とかく邪魔になるやつを片づけてしまおうと、おめえをはじめ皆にも役割をきめて今日までだいぶ手をつくしたが、こいつあおれのしくじりだった。明らかに日本左衛門の心得ちがいに相違なかった。なるほど、盗賊としての四ツ目屋や雲霧は、どんな離れ業でもやってのける、たしかに一人前以上の才覚はあるが、さて、人を殺すという仕事は、すこし性質が違っている。で、尺取のやつのように、かえって向うのわなに
「なるほど」
九兵衛は煙管をしゃに持って、とっくりと耳を澄ましていた。
「で、おれのうけ持ったお蝶だが……。あれにしても、殺せるまでにこぎつけるにゃ、それ相応に骨が折れた。しかし、おれはたしかに、そこまではこぎつけた」
と、稲吉や新助の怪しむ顔を見廻して、
「――実をいうと、この間の晩、甲府の或る裏町で、おれはお蝶を殺すばかりにしたのだ。そこは、
「親分、お話し中ですが……」
「ウム、何だ」
「その山岳切支丹族というのは、一体どういうものなんです」
「この世間では絶対に信仰のゆるされない切支丹。どうしてもその宗門を裏切れない信徒。寛永の
「じゃ、まったく世間の外に生きている人間どもですか」
「まあ、そんなものと思えばいい。だが、時には嵐のように世間へ出て、不思議な仕事をすることもある。たとえば、近ごろ江戸の切支丹屋敷の牢獄からヨハンの姿が消えたといううわさがある。また、
「そうして、何をやろうというのだろう」
「無論、やつらの目あても夜光の短刀にある」
「じゃ、あのお蝶と夜光の短刀とは、何かそんなに深いわけがあるんでしょうか」
「ある!」
「で親分も、お蝶を女房にしようと考えついたので?」
「それもあるが、いつわりのないところ、おれはお蝶に恋をしたよ。だから笑って聞いてくれと、前もって断ってある……」
そう言って、手のなかに
お粂を失った
「その晩、おれが夜ふけてから忍びこんで、
そう言って日本左衛門は、またあの口重そうなことばをつぐのでした。
「――おれはつくづくお蝶の寝顔をその時見た。ころびばてれんの娘だが、一種の高貴の相をもっている。そのくせ、
と、ここで彼はまた、前にのべた
では、日本左衛門がお蝶を生かしておいて、お蝶を利用すべく女房にしようという野心は、まったく野望のための野心であって、恋ではない。
そうも言えるじゃないか――と九兵衛は肚のうちで思いました。
しかし、九兵衛にはそれがどっちであろうと、大した問題ではありません。彼には彼の
そのわずかな
と、そこへ法達が膳を運んで来ました。
そこで。
九兵衛の胸の底に、自分を裏切るおそろしい策がかまえられているとも知らずに、日本左衛門はだいぶ心をうごかされた様子。
では、どうせ土用の辰の日には、
「どうだ、みんな」
一同へはかると、雲霧、四ツ目屋、稲吉にも、それには異存がないと言う。
「――じゃこうしよう。もうやがて、お蝶がここへ来る時刻だからそれを取ッちめたら
「するとかごがいりますね。まさかお蝶をひッかついでも歩けますまい」
「あの女が、おれのことばに、なんというかあわからないが、もしジタバタするようだったら、
「無論、騒ぎ立てるにきまっております。じゃ法達、その用意をしておいてくれねえか」
「かごですか」
「そうだ、かご屋も真面目なやつはだめだぜ。
「ようがす」
と法達は、のみこんで手のあいた八助にそれをいいつけて、
「急にこの酒がお別れとなりましたね。じゃあ手前もひとつ、お流れをもらいましょうか」と車座のなかへ割りこみます。
――すると、法達にいいつけられて、かごをさがしに行こうとした八助が、すぐにそこへ引っ返して来て、
「親分――」と低い声を落しながら、本堂の方を指さしました。
「来ましたぜ……例のが」
「え? お蝶が」
「そうらしゅうございます。今、
「そうか」
日本左衛門がきっぱりとうなずくと、方丈の酒もりは、にわかに、無人のようにシンとなって、白い眼と眼がけわしく動きました。
四ツ目屋は身をのばして、
「で、親分」
と、ささやくような小声で訊く。
「お蝶が来たら、どういう手都合にします? およそ段どりを極めておいた方がいいでしょう」
「ウム、耳を貸せ」
大きく投げられている人影が、すすけた壁に重なりました。
さらに見れば、チラチラする銀簪のほかに、あの濃い
「びっくりした……。何だろう? いま私を追いかけて来たやつは」
暫くはそこで、息のハズむのをしずめている。そして、帯の間からたとうを出しました。櫛を抜いて髪を直し、
はばの広い階段の前に立ちました。そこは本堂と思われますけれど、ほかに、寺僧の居そうな明りも見えないし、どこが
「今晩は……」
おかしいような気がしましたが、ともかくも、そこに立って、こう訪れてみたのであります。
「……こんばんは」
と、もういちど。
「居ないのかしら。……それに、お
立ち迷って、しばらくそこに腰をおろしておりますと、やがて何処かで、ガラリと重い
「どなたでござる」
誰か、こういう者があります。
振向いてみると階段の上に、ひとりの法衣の人影が見えますので、
「うかがいますが」
と、お蝶が小腰をかがめました。
「はい」
と、ジロリと見おろしているのは法達の目です。――なるほどこいつア美しいヤ、と腹のうちでつぶやいている。
「見ればお女中のようだが」
「ええ、あの……、こちらは、鼻寺というお寺ではないんでしょうか」
「左様、
「じゃあ、やっぱりここかしら」
「何か、人でもおたずねかな?」
「尼寺だというて、聞いて来たのでございますけれど、尼寺じゃないようだし……」
「ああ、それでは娘御は、江戸のお蝶どのという方ではないのかな」
「はい、そのお蝶でございますが」
「では、待ちかねている
もっと念を押そうと思うまに、法達はスススと本堂の畳を
――まだ半信半疑の気もちで、階段の上に立っているお蝶を振りかえって、
「いま案内をしてあげる。さ、そこに居て、すこし足でも休めなさるがいい」
「お咲は、こちら様に、居るのでございましょうか」
「只今、裏の庵室で、ちょっと、おつとめをいたしていますじゃ」
「そうですか、それじゃあ……」と、お蝶は初めてホッと気をゆるしました。そして、暗いのを幸いに、本堂のなかほどへ足を横にして坐りながら、
「アア、ほんとにくたびれた。……じゃお咲が来ますまで、ここに休ませておいてもらいます」
そう言って、内陣の方を振向きましたが、そこには今、人がともして行った一個の
そのまま、いつまで待っても音沙汰がないので、
「ちッ、どうしたの」
お蝶はすこしじれだしました。
「自分から、来てくれといって使いをよこしておきながら、人をばかにして――。帰っちまうよ私は。いいかい
すると。
ひとみの中に火を
「お蝶、来たか」
と、うしろの声です。
仰ぐと、そこに
お蝶はぶるぶるッとすくんでしまう五体をどうしようもありません。日本左衛門の目は冷ややかにそれを眺めて笑っている。
彼女は、一尺二尺と、あとへ体をずらせました。
が――立つ隙がありません。――逃げる隙がありません。腕も
「よく来たなあ。おれは待っていたんだ。乳母のお咲という使いは、この日本左衛門が出したのだ」
こう言って、相手が膝をまげて、ぼんぼりを下へ置こうとしたせつなに、彼女は、飛鳥のように立ちました。
と――
「お蝶ッ」
日本左衛門が鋭く言います。
「だめだ! 廊下を見ろ、うしろの内陣をよく見ろ。白いものが見えないか、あれは人の骨ではない。短刀だ、おまえが逃げるところを待っている短刀だぜ」
その時には、明らかに人の気配が四方のやみにうごいていました。
すると、日本左衛門はその
「雲霧――」
と、まず呼びます。
「へい」
「
「へい」
「稲吉」
「オオ」
「四ツ目屋――。もうここはいいから、方丈でゆっくり飲んでいてくれ。ウム、用があったらいつでも呼ぶ」
姿の見えない跫音が、静かにそこを去ってゆくと、
「まあ坐るがいい。そうしていてもしかたがねえだろう」
お蝶の袖をおさえました。
極端なおびえから極端な落着きにうつる気持が、自分でもわかるように、お蝶は、体のふるえが止まっていました。度胸というのか、
で、引かれた袖の方へ、黙って横に坐りこむ。
そして、
「なんですか、これは」
そういったものです。朱いくちびるが。
「切れることに類のない備前の
「まあ、きれいな
「おとといの晩、お前にたしかに預けておいたものがある。その命をな」
「私の命は、盗賊の借りものなんかではありはしない。……ですけれど、今夜は逃げもかくれもしませんよ」
「逃げようとしても、逃げられない」
「いいえ、逃げようとすれば、きっと逃げられるけれど、お前さんみたいな、しつッこい、根気のいい、そして、やたらに変な子分の多い人に見こまれては、私も助からないものと覚悟をきめましたわ」
「そうだ、お前のいうとおり、おれは
「で、私を殺すつもりなんですか」
「いやと言えば、それよりほかにしかたがない」
「え、何をいやと言えばなの?」
「女房になれ。おれの女房になるとここで誓いをしろ。そして、おれが幾年かたずねている夜光の短刀を、共々、一緒になって、探索するということを、きっとおれに約束するのだ」
「――夜光の短刀のあるところですって。私、何にも知りゃあしないのに」
お蝶のことばは、胸元へ来ている刀に自分の体のうごきを止められているようでもなく、だんだん常の調子になって、
「それだのに、そんな誓いを立てたってしようがないじゃないの」
と、流し目に言って、相手の顔色をジッと見ました。
「いいや、お前はそのありかを知らなくても、おまえにそれを教えようとしている人間がある」
「たれ」
「ヨハンだ。
「だって私、そんなことを、誰にも頼んでありゃしませんよ」
「ともあれ、お前は夜光の短刀の秘密をひらく一つの鍵だ。おまえという
「だから、私と切れない縁をむすんで、その夜光の短刀をさがす手先に使おうとするの? そしてその短刀を羅馬へ売りつけようとするの? ……ホホホホホ、なるほどあなたは虫のいい泥棒ね」
「が、お蝶。もうすこしおれの話をきけ。おれがそう言ったら、お前を慾の手先にだけするようだが、実あ、いつぞやの晩もお前を殺しかねたほど、おれの気持が変っているのだ」
「変っているッて、どう変っているんですか。私には、何だかさッぱりわからない」
「おれはお前に恋をしている」
「刀でおどかして、口でだますの?」
「日本左衛門、うそは言わない」
「…………」
「いやか!」
お蝶は、手にしている洞白の仮面を指でもてあそびながら、恥しそうに首を曲げて、
「わからないわ……私」
不意に、鞘は刀を吸いました。日本左衛門はそれをうしろへ置いて、ずっとそばへ膝をすすめるなり彼女の体を寄せて、
「お蝶、いやではあるまいな」
抱えあまる腕のなかに、彼女の肩を仆しました。
腕のなかで、銀の
「知らない……知らない……私、そんなこと」
言ったかと思うと、彼女の手の
「その
と、
飛びさがって、うしろの大刀をつかんだ日本左衛門は、その
そして、ヒラリと
「静かにしろッ」
ひとりが
「それ、かごへ」
「オオ、八助」
法達が本堂の蔭へ手を振りました。
ねじ抱えられたお蝶の体が、どたどたと板縁を運ばれてゆくうちに、その両足を抑えていた秦野屋九兵衛は、彼女の袖にひそめてあった洞白の
が、彼の動作に気がつくものは誰もなく、お蝶をかごの中へほうりこむや否や、
お蝶のかごを取り巻いて、
「じゃ親分。
一文字の笠をそろえて会釈しました。
日本左衛門は廻廊の端まで出て、
「城下
と、見送っている。
棒鼻にゆらゆら揺れる明りにもつれて、かごと人との影は、一散に、鼻寺の本堂をあとにして、山門の
途端です――
その行き足を食い止めて、わッという波のような人声。と共に、霜柱を蹴ちらしたような銀みがきの十手の一ツ一ツから、御用、御用、御用、御用! 果てしもない人数の喚きです。
「しまッた!」
ドンと板縁に
「日本左衛門待てッ」
と鋭く呼び止めました。
内陣からおどり出して、待てと、自分の前に立ちふさがった侍、日本左衛門は、それも
こんな際また、この、場所へ、金吾が姿を見せたことは、彼にとっては
「オオ」
と、跳び
「金吾だな!」
という言下に、その体は、すでに自然な身構えを持しています。
待てといい、オオと答えたことだけで、もう双者は一髪を
金吾は、彼を広い本堂の中央へ
「かねて、小仏の谷
「ウム、それがどうした」
「日本左衛門!」
五体に力をみなぎらして金吾が叫びます。
「こよいこそ、おのれの一命を申しうけに来たぞ。卑怯に、逃げかくれをいたすなよ」
「
「この金吾が、お粂の色におぼれている武士であるかないかは、これを見て知るがいい。お粂の生首の代り、
一つかみの黒髪は、やにわに、彼の面上へ投げられました。
「えい、うるせえッ」
その黒髪を
と。
一宮流の抜刀法――金吾の刀は抜く手の音もさせません、かれの憤然たる初剣をかわして、
「むッ」
と、気をふくんだ日本左衛門。
「…………」
ミリミリと手にしている刀身に、彼の殺気がシビれて来るように感じたでしょう。金吾はいちだんと精をあつめて、らんらんたる双眸を
――が、そうしているまに、早くも本堂の階段や、そこ、ここには、山門の方から手分けをした捕手が、土足で廻廊にふみ上がって、逃げまわる和尚の法達と八助を追って、御用、御用、という声を暴風のようにわめかせております。
――ともすればその十手に、うしろを襲われそうなのが、いちじるしく日本左衛門の不利でもあり、彼の気をいらだたせていました。で、眼前の邪魔者を、早く片づけようとするあせり気が、カッカと燃える毒焔のように、長船の先からほとばしッている。
金吾は一
この気持の相違は、いやでも双方の剣の上にあらわれなければなりません。
日本左衛門が、つけ入ろうつけ入ろうとするほど、金吾は堅実味のある
ですが。
場合による双方の気もちの変化はともかく、根本の実力に於いて、金吾の巧者が日本左衛門の剛質な剣法に及ばないことは、千鳥ヶ浜の場合でも証拠だてられているとおり、うごかすことのできない事実です。
やがて、金吾の堅実にとった
と――案に相違して、どういう虚を見たか、やがて、かえって金吾の方から少しずつ攻勢をとってゆきました。と言っても、三、四寸ずつ――
とたんです――
が、むしろ、それは金吾としてあざやかなかわしかたでした。彼の気合を空刃に
タタタタと五、六歩の
「オオッ」
いずれの声だったかわかりません。
日本左衛門が剣勢を改めて踏み
御用、御用。
(お蝶のかごはどうしたろうか? 雲霧や秦野屋やそのほかのものは無事にこの寺を切りぬけて出たろうか)
こう思うと日本左衛門、おのれの身より、子分の上が案じられてならない。お蝶のかごが、気づかわれてならない。
「ええ、青二才」
面倒と思ったのでしょう。それはむしろ、暴ともいうべき
「ムム」
と、いやおうなく、
一歩――二歩――気をくだけば彼の剣がズバリとそのまま欲するところを割りこむに違いない。
「あっ……」
よろめきました。
さっき、そこへ置かれた手燭です。手燭を離れた
せつなに、日本左衛門はこことばかり斬ッてさげる。身を起こせば斬られたでしょう。あやうくも金吾、ぱッと、畳に伏して足元を
――その寝打ちの払いが届いて日本左衛門が
火光が
その、まっ黒な濃煙が、ゆるい運動をえがいているなかに、金吾と日本左衛門の影は、すでに法や格を無視したところの殺剣を交ぜて、
もう、眼を向けられない煙です。いずれが金吾か、いずれがこれか、その識別もつかないまでに。
ふと見ると、内陣の深くは、赤い
火事! と誰やら絶叫して騒ぎ出すうちに、紅蓮は厨子から円柱をつとうて縦横に本堂の
「おのれッ」
「法達ッ、法達」
すさまじい物音が、その時、内陣のうしろにあたって響きました。
本堂の裏に火を放って、その騒ぎにまぎれて逃げのびようと計った和尚の法達は、自分のそそぎかけた油の煙と炎に追い出されて、潜伏していたそこを走り出したとたんに、
「それッ、法達だ」
「御用」
と、八方から呼ばわる捕手に追い廻され、とどのつまり、僧房の一
そこで、
「法達
と
が――一方、山門までお蝶のかごをやって、そこで、わっと捕手の一群に出っくわした雲霧や四ツ目屋の一組の方はどうしたでしょうか。
無論、殺到した人数におどろいて度を失うような連中ではありません。
「おっ、来やがったな」
と、まず精悍なる雲霧が、
「よし、ここはおれと雲霧とで食いとめるから、秦野屋と四ツ目屋の兄貴は、一足先に出かけてくれ」
叫ぶや否、抜いたる刀をふりかぶって、御用と声のかかるを待たずに、むらがる捕手のなかへ斬って入りました。
「裏山から
四ツ目屋へ向ってこう言いながら、雲霧もまた寄りつくものを斬って払う。
「合点だ。あとをたのむぜ」
と、こう四ツ目屋の新助。
「それ、かご屋! 裏山へ、裏山へ」
と言ったのは秦野屋九兵衛です。――九兵衛はまごつくかご屋の先達になって、すばやく境内を引っ返し、八十八ヵ所の小路が縦横にある鼻寺の裏山へ向って、無二無三に、お蝶のかごをのしあげました。
そこにも、樹間をチラチラする
ほっと息をついて新助が、
「兄貴、ここまで来りゃあもう大丈夫だ。それにしても、親分はどうしたろうな」
と、秦野屋の姿をふりかえりますと、いままで、かごのわきに
「おや」四方をすかして、
「秦野屋――おい、秦野屋――」
こう呼ぶと、四、五間うしろで、
「おお」
九兵衛がわらじをおさえて、かがみ込んでいるのが分りました。
「どうしたんだ」
「踏み抜きをしてしまッた。……ア
「えっ、釘でも踏み抜いたのか」
「まっ暗で、何をふんだのかわからねえが、右の足が、ち、血だらけだ……。ウーム、どうにも痛くって立つことができねえ。おめえは先へ行ってくれ、早く先へ」
「でも、兄貴を捨てて」
「なアに、おれはまた、どうにでもして後から追いついてゆく。だがおめえは、これから落ちてゆく道をどう取ってゆくつもりだ」
「
「じゃ、おれも、きっとそこで落合うから、かまわず先を急いでくれ。何しろ、足に怪我をしちゃ、かえっておめえの足手まといだ」
そう言われても、まだ新助は去りかねていましたが、そのうちに、
「さ、かまわずに行ってくれ。おめえと一緒に居ちゃ、かえっておれも逃げにくい」
と手を振っていなむので、ではとぜひなく、後日の会合を約して、四ツ目屋の新助とお蝶のかごは、
あとで九兵衛は、ケロリとした顔で立ち上がって、ふところから、手拭でくるんだ
「さアて、これからどういう寸法にしようか」
と峰を辿って、もと来た方へ引き返して行く。
だが、べつだん足を痛めたような様子も見えません。
「オオ、火が上がったぞ」
そして。
鼻寺の
「ウム、こいつア美しい」
と、両方の手へ、仮面をかぶった顔をのせて、
九兵衛が頬杖をついて見ている目の下のながめは、なるほど、きれいと言えばきれいです。壮観といえば壮観です。
何が美しいと言って世に大きな炎が物を焼きつくしてゆくほどの変化のある美はありません。
ですが、その美観は、それを対岸の火災視することのできる、冷たいひとみにだけ映るもので、ひとたび、その
今も、鼻寺の炎上を、九兵衛は山の上から、頬杖にあごをのせて見物していますが、その火の粉の舞うところ、その炎のうずまくところ、その黒煙りの底は大変です。文字どおりな修羅の
たれが苦行して
かりに、こういう寺にも、仏心のある
何しろ、炎は、ない風を呼びあつめて、鼻寺の境内、そのほか一町四方の木立のなかまで、夕焼のような明るさです。そして、
雲霧と稲吉のふたりは、あまたの十手にへだてられて、わかれわかれに捕手の人数をなやましているようです。それも二手になって働いている黒い人影と
しかし、しばらくすると、一方の争闘が止んで、捕手の影が一団に
「さわぐな。こうなりゃ
いさぎよく脇差を投げ出しました。
で、わッという声をあげて、
「稲吉を捕ッたぞ」
と捕手たちが叫んだものですから、それが雲霧の耳へもとどいたとみえて、
「よし、おれが
さながら、悪鬼のさまとなりました。脇差の刃もそれをとる手も、血みどろです。
おまけに、
時に。
その雨と降る火の粉と人数のなかを、
また、もしその人に怪我をさせてはと、絶えず影について火をくぐり、煙をしのいで、あとから駆け歩いているもう一人の目明していの男がある。
「
そのお蝶は、あのかごの中にかくされていたのだとは知らずに、こう、かんぺきの高い声で罵ッたのは、徳川万太郎です。
釘勘も、ここへ踏ん込むと共に、それは気が気でないのですが、何しろ、この自力を顧みない奔放な若殿を、ひとりで、修羅のなかへほうり出すことは、とてもあぶない気持がして、
「でも、万一若様に、まちがいでもありましては、この釘勘が、後日申しわけが立ちませぬ」
と言うと、万太郎は、いやが上に、かんしゃくを起こして、
「ばか、ばか。このような場合に、私を足手まといにしているやつがあるか。見くびるな、この徳川万太郎を! 万太郎だからとて、火や剣をおそれはしない。鼠賊の一人や二人、斬ッてすてるに何の造作があるか。――お前は裏山の方をさがしてみろ。わしは、炎をくぐって、この本堂のなかを見届けてみる」
と、意気
さあその調子ですから、釘勘は、なんとも、ハラハラさせられて、この人のそばを離れることができません。
やや説きおくれておりますが、万太郎と釘勘が、柳沢家の捕手をかりて、ここへ襲撃して来たことは、相当な筋道のあることで、決して偶然ではありません。
二、三日前から、鼻寺の附近には、充分、さぐりがはいっていました。ですが、一挙に今夜の決行をうながしたのは、前夜、しかも深更になって、柳沢家の甲府町方役宅へ、徳川万太郎
無名ですから何者が投じたものかわかりませんが、とにかく、内容には、明夜御城下外の鼻寺で、日本左衛門とそのほかのものが、必ず落ち合うことになっているということ。
また、尾州家の秘蔵
なか一日の余裕がある。で、手配はみッちりつきました。すでに、この近傍には、非人などに変装した者が、今日の夕刻を期して、ちらほらと立ち廻ってその間違いのないところを、彼へ
前もって、柳沢家とは了解のあること、人数は、望み次第町方与力から繰り出すというので、万太郎の意気ごみは鋭い。
そして、寺まで来ないうちに、荒川
その時、彼をよく知っている釘勘が、お粂のからだをあらためてみると、何とも腑に落ちない点があるし、かすかに呼吸もあり、体温もあるので、二、三の
ところが。
第一に何よりの手ちがいを見たのは、人数が、しのびやかに山門へ近づくやいな、計らぬかごと人とが、向うから、何も知らずに出て来て、手配のととのわぬうちに、そこで、いやでも物音をあげなければならなかった不測の事です。
不意だったので、先も驚いたでしょうが、
とこうするうち、本堂から火があがる。人数はいたずらにちりぢりになる。そして、かんじんなお蝶の姿と日本左衛門が、いつまでも見当りませんから、万太郎たるもの、青筋を立てるいわれは多分にあります。
釘勘はまた、この人あるがため、自分の
「じゃ、本堂の方は、手前が見届けますから、若様は、裏山をひとつ……」
と、それとなく、無難な方へ彼を避けさせようとしましたが、何がさて、人のさしずなどをうけて、そのとおりに動く万太郎ではありません。
「いや、裏山へはそちが行け。あの火の手をあやぶんで、捕手どもは、
「ちッ」と、釘勘は舌うちをしましたが、さりとて、持てあました若殿を、持てあましたまま見すててもおけず、つづいて、炭のように焦げた本堂の板縁へ、十手をさか手にひらりと跳びあがりました。
むッと、
「あッ、万太郎様」
と彼は、思わず袖口で息をおさえながら、
「
向う見ずな万太郎も、おそらくそれは感知したでしょう。柱、うつばり、暗澹たる焦熱のやみの中にすべてチラチラと火をハゼておりますが、畳ばかりは一見なんの異状もないように見えます。が、それへ身を乗せたが最後、やわらかに焦げきっている
と――
板縁を廻って、奥と持仏堂の境まで来た時。
突然、一方の長廊下に当って、バリバリッという凄い物音です。
と同時に、何者か、煙をくぐッて、駆け出したような
「やっ?」
いったん、そこを駆けぬけた万太郎が、不審と、きびすを返して飛んで来ると、今しも一室の源氏窓を蹴破ッて、火の粉と共におどり出した、
「日本左衛門!」
喉のうちで、こう叫んで、万太郎は一
先の影は引ッさげ刀で、庭廊下をドドドドッと駆けだしてゆく。
「おのれッ」
そのうしろへ万太郎が、気いッぱいに斬りつけた抜き打ち。
「あっ!」――というと彼の刀は、青龍刀のような
あやしげな人影を追って、万太郎が奥へ駆けこんだ様子に、釘勘は
松や
万太郎を投げすてた者は、それに見向きもせず、なおすすんで、最後の一室へ馳け込みました。そして、そこの
「野郎ッ」
と、たすきに組みつきました。
釘抜きといわれた勘次郎が、うしろから好みをつけて、こう組んで締めた以上は、たとえ日本左衛門でも、めったにこれを振りほどかせはしない――と彼には自信がありました。
「ええッ」
と、相手はもがいて、ハタき捨てようとする。
そして、その手にする大刀が、耳の近くを幾たびか
が――餅のようにねばり付いた釘抜きの体は、容易に離れないで、そのまま、よろよろとうしろへ引き戻しましたが、やにわに、相手が膝をついて、肩をすかしたからぜひもありません。はッと思うとたんに、
「くそうッ」
と、仆れながら釘勘の十手が、いきなり横に払って、敵の片
「あっッ」
跳ぶというよりは落ちるように、相手はうしろへ捨て刀をくわして、窓の下へ地ひびきを打たせました。
ところへ、先に庭先へ投げすてられた万太郎が、跳ね起きてそこへ来るなり、最前の相手と見ましたから、
「おっ、居たかッ」
とおめきながら、前の手痛い目も忘れて、無二無三に斬りつけてゆきます。まことに、この若殿の剣法なるものは、しばしば実例が示すとおり、釘勘の目でさえハラハラするものでありますが、長袖の
果たして、一方の者は、万太郎としては烈々な気込みで斬ッてかかった刃を、二、三合ほどチャリンと軽くはねつけたばかりで、まッしぐらに、
「おのれ、待てッ」
と、追いかけたものであります。
五、六間ほど、脱兎の如く身を跳ばしてから、先の相手も、窓を越える時、十手で払われた
「得たり!」と万太郎。
そこを、背割りにと浴びせかけましたが、のめりながらも、相手の体は、素早く横にかわっております。
で、二度までも、
「しまッた」
と斬りすべって、
すわ、若殿の危急。
と、仰天して釘勘は、駆けるいとまもありません。やっという声の下に、手を離れた早ほどきの捕り繩、五、六
「うぬッ」
と、投げた繩の端を、グッと睨んで、うねりを引きます。
繩の手加減、あざやかに効を奏して、
が、
しかし、先にそれだけの隙を作らせたので、釘勘が、手元へつけ入る余裕はできたわけです。
そして、振り込んだ十手。
同時に、サッと上がった敵の剣と、持ち直した万太郎の刀とが、そこに三角線の白い光を曳いたせつな!
「やっ、あなたは?」
万太郎は気技けがしたように、自分の前へひれふした男の姿を、不審そうに見つめていましたが、釘勘はせつなに膝を折って、
「もしやあなたは、金吾様じゃございませんか」
と、その手をすくい取って握りしめると、
「おお、釘勘」
かすかに
と、万太郎も愕然として驚きの目をいっそう見張りながら、
「えっ――相良金吾だと? おうそちが、おお、金吾か……」とばかり、ただあきれたように自失している。
彼として、金吾の姿をここに見たのは、まったく思いもうけぬ突然でした。その意外さと共に、突然な
が――やがて万太郎の口から出たことばは、常々、金吾が
「どうしたのじゃ、相良」
と、彼の肩へ手をのせました。
「かねて、釘勘からそちの消息は聞いていたが、なぜ、わしのところへ戻って来ぬのじゃ。この万太郎にあいそが尽きたか」
以前と少しも変りのない主従のことばです。いや、そういう階級意識を超えた愛熱がことばのうちに溢れていました。
「滅相もない仰せです。
彼には、そういうだけの答えしかありません。もっとつけ加えれば、まだここで万太郎と会うのは何としても面目がないということを言いたかったでしょう。
けれど、万太郎はこの奇遇に何ものも忘れたような満足をあらわしている。そして、釘勘と共に、どうしてここへ来合せたかとたずねましたが、彼は、熱海以来の経過や秦野屋九兵衛の助力のことなどを、ここでくわしく話すには、あまりに心がせいているので、簡単にその要点だけを言って、すぐに、日本左衛門のあとを追おうとして立ち上がりました。
で、釘勘も万太郎も、にわかに奇遇のよろこびから醒めて、彼と共に、鼻寺の庭から
その頃ちょうど本堂の方で、
で、夕焼の
姿は薄れてしまいましたが、そこで、九兵衛のつぶやきだけは聞こえました。
「……あ、とうとう焼け落ちてしまいやがった。しかし、どうしたろうな、金吾様の方の首尾は」――と。
ところへ。
数歩の距離にガサガサと人の来る
「いけねエや」
そのあとで、姿を見せた九兵衛は、腰かけていた石仏を踏み台にして、
「うまく網の目を抜けやがった。今なあ日本左衛門だ」
と、舌打ちをしてのび上がったものです。
間もなくそこへ、息をせいて追って来たのは、彼が、今夜の首尾いかにと、案じていた金吾です。そして、釘勘も来る、万太郎も勢い込んで追いついて来ます。
しかし、すでに長蛇は遠く逸しているので、その意気込みのやり場もありますまい。
そこで。
待ち設けていた秦野屋九兵衛は、自分の手に収めておいた洞白の鬼女
久しかりし
日本左衛門という
このてがらは一に秦野屋の奇策にあるところ、金吾は万太郎のよろこびをうける前に、その礼を先に彼へ述べなければならないと思いました。
しかし、九兵衛はそんな面倒な礼などをうけている顔つきもなく、もう菅笠を引っ
「じゃ相良様、いろいろお話もございましょうから、手前は一足お先に仲間の者を追いかけます。え? 何処へって仰っしゃいますか?
と、釘勘の方を向いて笑いました。
あっ……
気味のわるい薄笑いを自分に向けられて、釘勘は初めてハッと感づきました。こいつは日本左衛門と
けれど、九兵衛はそのとたんに、器用にどこかへ立ち去っていました。
こう砂も立てない器用な逃げかたをされると、目明しとしての釘勘も、さまで口惜しい気持にもなれませんでした。ただ、金吾と彼との関係を不審と思って見送ったのみであります。
その疑点は、やがて金吾の口から解いて話し出されました。――彼がもと金吾の父に仕えていた者であること、また報恩的な行為に出た老賊の気持など、その動機から今夜までの経過をつぶさに聞くと、万太郎は一も二もなく感激して、
「そういう者であってみれば、繩にかけるのは痛ましい。なあ釘勘、日本左衛門は捕えても、秦野屋だけはゆるしてやるがよいぞ」
と、彼の顔色を察して言いました。
しかし、釘勘はそれに対して、承知したとは言いません。幕府から
で、何とも答えなかったものだから、その問題にはふれないで、話はその先の相談にすすんでゆく。
さし当って、何よりの当惑は、
だが、万太郎には、それを江戸
おれの跳躍はこれからだ!
今までのことは、ほんの序曲でしかない。夜光の短刀をさがそうとする途中の一波瀾でしかありはしない。
こう考えている彼です。
気がかりだったこの
義通の身も父の中将も、秘蔵の
「愉快だ」
万太郎の胸はおどる。
それはいいが、とにかく、目前の使いに困りました。誰にこの
元より釘勘のからだにはひまがない。金吾はこれから秩父の道へ日本左衛門を追跡してゆくと言う。
いや、自分も釘勘も、一刻も早くここの始末を切り上げて、同じあとを追わねばならぬ。――あの切支丹お蝶の
とすると、さしずめこの
「そうだ、次郎!
横手を打って、万太郎は二人を連れ、ひとまずそこの裏山を降りました。
焼け落ちた鼻寺の
秋のあゆみは目にも見えてきました。
やがて武蔵野の
そしてこの秋を、部落の
「おわずらいなさらなければいいが……」
家付きの郷士たちはうわさしている。
「あまりのんきらしく、大きな声で、
部落の土民たちも気がねして、盆の踊り、石神の燈籠祭りさえも、今年はひッそりと済ましたくらい。
「おりん、そこを開けてくれ」
その千蛾老人が言いました。
例の宏大な屋敷――御隠家の奥ぶかき一室です。老人は、鶴のような
「秋だな。……もう秋だぞよ」
と、
「秋でございます」
おりんは、そこへ三ツ指をついて、
「障子をあけますと、
「気のせいか、今年は木犀の花も薬のような
「まあ、御隠家様が、常にもないことを仰せ遊ばす。そんなことがあってよいものでございましょうか、今日は、ほんとにお顔色がよくていらっしゃいます」
「いや、それはさっき、少しばかり酒をふくんだせいじゃろう」
「いつぞや、お
「
「ごもっともでございます」
「おりん、もう、秋だぞよ」
「はい……」
老人の心をなぐさめることばに窮して、おりんもついうつ向いてしまいました。
「――どうしたろうな、月江は」
遂に、
「夏ではないか、まだ暑いころではなかったか、月江が屋敷に戻らぬのは。――それがいまだに帰って来ない、手を分けてさがしてみても、姿も見せぬ」
「ほんとに、どう遊ばしたのでございましょう。いつか、うまやの馬を曳きだして、久米川の辺へお遊びに出たまま、とうとうお帰りなさいませぬ」
「わしは考えておる。だれか、
「おめおめと、そんな策にかかる、お嬢様でもございませぬ」
「では、甘言をもって、かどわかされたか」
「それとしても、何か、便りぐらいは聞こえそうなものと存じますが」
「そうだの、生きたか死んだか、風の知らせぐらいはあってもいい。それが、これほど手をつくしても、行方も知れねば安否も知れぬ」
「さかしい振りをするようでございますが、おりんが考えますには、これはきっと、お嬢様の御気性から、次郎殿をさがしにおいでになったに違いないと存じます」
「次郎をさがしに?」
「はい。お嬢様は、次郎殿がお屋敷から見えなくなったことを、たいそう悲しんでおいでなさいましたから」
「
老人の顔には、ひとりの
おりんは、千蛾老人のその苦悩に、心から同情をよせている。ほんとに今の御隠家様としては、月江様ひとりをこの世の楽しみとしていらっしゃる。その月江様にもしもの事があったら、このお方のあらゆる希望は霧のように散ってしまう。
今はすこやかでお美しいが、やがて良人をもつ年齢になると、必ず若くして死ぬという怖ろしい遺伝の血筋を断とうとして、幾年か御隠家様が苦しまれたのも、月江様が可愛いため、――そうしてその薬とする
思えば、困ったことになったものです。
また、御隠家のおやしきには、いわゆる家の子と称する、
けれど、いずれも半農そだちの野武士であって、一朝の変に、野火をあげたり兇器をとるにはすぐれて役に立ちますが、今のような場合に、老人の心の話し相手となるようなものは、一人としてに見当らない。
おりんは、それも歯がゆく思われて、
(せめて、こんな時には、あの久米之丞でもたずねて来たら……)
と、ふだんは持つ、あのいやな性質に対する
「そういえば御隠家様、あの
「久米之丞か」と、老人は気がなさそうに、
「久しく見えんのう」
「お嬢様がいらっしゃるうちは、毎日、うるさいように訪ねて来ておりましたが、近頃は、あのお人もすっかり姿を見せませぬ」
「わしが、彼に約束したことがあるから、その方で夢中になっているのじゃろう」
「それは、どんなお約束でございましたか」
「月江を妻にくれと言う――あれがな」
「
「やると言うたよ。――ただし、夜光の短刀をさがし求めて来い。その上には、月江をくれようと申したのじゃ。すると久米之丞、たいそう自信があるように、
「御隠家様、私がひとつ、行って見てまいりましょうか」
「どこへ?」
「久米之丞の
「そして」
「お嬢様のご消息をただしてまいります。ことによると、あの男が、何かそれにかかわりがありはしないかと思われますので」
「そうか。だが、拝島まではだいぶあるぞ。女ひとりでは夜に入ってさびしかろう」
「いいえ、おりんにとっても、大事なお嬢様、じっとこうしている方が、かえって心苦しゅうございます。」
「では、だれか郷士を連れてゆくがよい。
「ひとりが結局よろしいかと存じます。それに、もしそこでも手懸りがなかったら、心当りをたずねたいと存じます故、どうか、四、五日の間、おりんにお
午後でした。
染屋の宿の実家へ
山を出て平野の一端に来てみますと、見渡すかぎりの武蔵野の原は、尾花の
(お嬢様。月江様)
心のうちで呼びかけて探してゆく。
峡谷のお屋敷を出て、ここの広い秋の天地をながめますと、おりんはもうすぐ
ぽーんと
見るまにあなたから一頭の駒が近づいて来て、駒の上から、下げ髪の月江が野菊を投げて――おりんやこッちだよ――そう言って駆けすぎて行くような意外が、今にも目の前に現われそうな気がするのでした。
けれど、それは尾花の
なんと静かな武蔵野の昼でしょう。
彼女はすこしくたびれました。まだ久米之丞の家のある拝島までは、そこから一里半はたしかにある。
汗ばんだ額ぎわの白粉を
「次郎や――次郎やア……」
それは肉声です、人が人をよぶ声です。
ふと、その遠い所に、おりんが四方をのび上がって見ますと、彼方の
「次郎やア……」
と、哀傷的な声を長くひいて、しきりとその辺りを見廻しています。
やがて、おりんも日傘を手に小走りに駆けだしていました。近寄って、年増の女を見ると、彼女の想像にたがわず、それは
「お常さんじゃありませんか」
声をかけると、女はびっくりしたように、取り乱した姿を気まりわるげに、
「あ。おりん様でしたか」
そこへ
「次郎さんを探しているんですか」
「はい。次郎の
お常は
「私もお嬢様の居所をさがしに出て来たところなんです。じゃ次郎さんも、どこへ行ったか分らないのですね」
「あんな不孝者はございません」
口説くようにお常はおりんへ話しだします。
「その帰らないのも、もう十日や二十日ではないのでございますよ。どこを飛んで歩いているのか、親の心配も知らないで、ちッとも顔を見せません。で、毎日、今日は帰るか、あしたは来るかと、鍛冶小屋の軒に立って見ていますと、さっき、甲州路から来た一人の旅の人が、なんでも久米川の辺で、野槍を持ったそんな小僧がウロついていたと教えてくれたので、急いで探しに来たんですけれど……」
「見つからないのでございますか」
「足も声も疲れてしまって」
「それはまア……」とおりんは、お常の素足から血のにじんでいるのを痛々しそうにながめながら、
「人違いだったのでございましょう。あの子がこの辺にいるものなら、何で家に帰らずにいるものですか」
「そうすると、あれは他国へ行ったのでしょうか」
「さア、それは分りませんが」
「大それた子でございます。ほんとに末おそろしいようなやつで」
「いいえ、狛家のお嬢様まで、同じ頃に行方知れずになっているのですから、これには何か、ふかい
お常が、一緒に来るというのを無理に帰して彼女は、そこから久米川に沿って歩みだしました。
すると、間もなく、また彼女を追いかけて来た男があります。お常が帰るとすぐに駆けて来たものらしく、野鍛冶の半五郎が、拝島まで送ってゆくと言って、おりんのあとにつきました。
次郎はすきな子だし、お常は質朴な女だしするが、おりんは前から片目の半五郎の性質の悪いのを聞いているので、その親切もなんとなく気味わるく思われて、
「帰って下さい。ひとりで行きますから」
たって断りましたけれど、半五郎は帰る
しかし、そうして半里ばかり歩くうちに、おりんの懸念も薄らいできました。半五郎がついて来たのは、決して、ほかの邪心をかくしているのではなく、彼もまた、次郎の身を案じて、一刻も早く、その安否が知りたいためだという事が、動作やことばのうちに、正直にあらわれて見えたからです。
「半五郎のような
おりんは御隠家様の憂うつを、いとどお気の毒に思いやりました。そして、久米之丞の浪宅を訪れたら、そこに、何かの手懸りがあるようにと、次郎の親のためにも念じずにはおられません。
程なく七ツ下りも少しすぎて、拝島の岡にたどりつきました。
岡の上の
例の荒れはてた岡の屋敷。
くずれた土塀には
そこを通ったおりんと半五郎は、いくら郷士の
「留守であろうか」
と、がっかりして辺りを見廻しました。
されば、いくら訪れても、返辞がないのは当然でした。この荒れ屋敷に住む関久米之丞は、いつかここへ駒をよせた月江と共に八王子の町に向い、あれから小仏越えにかかって自分の野望を遂げようとしたため、かえって、月江を谷底へ失い、おのれは通りすがった日本左衛門と
その死骸さえ断崖へ蹴込まれて、たれひとり彼の死を里へ伝えたものもありませんから、骨ばかりの冠木門と朽ちはてた
ただひとり、ここの台所に働いていた老婆も、いつか姿が見えなくなって、
返辞のあろうはずはありません。
でも、そうとは知らないおりんは、念のためにと、半五郎をうながして、家の裏手へ、廻って見ました。
と、そこに。
あるべからざる人影が三人、真ッ赤なものを取りかこんで、じッと腕ぐみをし合っている。
真ッ赤なものとは鶏の血のような、葉とも花ともつかない植物が、そこに群生していたのです。今思えば、それは
「ウーム、妙な花だ」
「燃えつきそうな色だ」
そう言いながら見つめています。その植物を、その三人の男達が。
で、おりんはハッと足を止めて、後ろの半五郎を手で制しました。そして二人が、庭木の蔭に身を沈めながら、暫く、その男どもの行動を見ておりますと、いろいろ腑に落ちない点がかぞえられる。
第一は、三人の風ていです。
一人は
「こいつだよ、こいつだよ」
やがてその人形師が、おそろしい昂奮的な口ぶりで、花の根元にかがんで言う。
「どうもこいつに違いない。ごらんよ、この色を。……ええ、どう見たッて鶏の血ッてえ色だ。
「鶏血草かなあ? この花が」
「そうさ。まあこの色を見るがいい」
「それをじッと見つめていると、ほかの物が黒く見える」
「おそらくこんな植物が日本のどこにもありはしまい。
「――とすると、これこそ、今ヨハン様がたずねている、鶏血草にちがいないと言うのだね」
「そうだよ。わしはたしかにそうと信じている。それで、お前たちにも見てもらったのだが、ただ不思議なのはこの家で、だれが住んでいたのかその由来がわからない」
と、人形師の梅市、
もの蔭に
「とにかく、山の会堂へこのことを
こういったのは針屋の丁二郎です。すると蓑直しの安蔵が、
「いや、これが鶏血草と極まれば、何もヨハン様の御苦労をかけるまでもなく、おれ達三人でその下を掘り返してみたが一番早い」
「そうさ」と、人形師の梅市も同意の顔で、
「山の会堂へ報らせに行ったり、ヨハン様を連れて来たりするうちに、どんなやつが横合から出て、掘り返してしまわないとも限らない」
「じゃあ一つ、掘って見るか」
「
「あるだろう、物置に」
「なにさ、道具は手近に揃っているよ」
と、梅市は
「それ安蔵、
と、縁下へもぐり込んで、そこにほうり込んであった鍬や鋤を投げ与えました。
「おっと。手頃だ」
首にかけていた針の荷や、人形箱などを肩からはずすと、三人はひとしく
まず、鍬をもった安蔵が、
サクッ、サクッ……、
つづいて梅市の
三人は、ようやく無言の境に入って、
一尺、二尺――三尺。
ボクリ、ボクリと土の音がするたびに、何か出て来やしまいか、何か手ごたえがして来るだろうと、眼も心も鍬の先にあつまって、他念のない
一坪ばかりの花の根を滅茶滅茶に掘返して、やがて四尺も掘下げてくると、キメの細かい黒土は粘質的な赤に代って、なかなか
「暑いぞ」
丁二郎は肌をぬいで、
「なんにも出ないな」と、ホッと息をつく。
「まだまだ、こんな事じゃ分らない」
「そうとも、まだ分るもんか」
安蔵も鍬を休めません。
で、
「信念をもって掘れ。信念をもって掘れ」
「そうだ、これもひとつの信仰だ」
「きっと夜光の短刀が出ると!」
「ヨハン様が仰っしゃった。――鶏血草のあるところ、必ず夜光の短刀がある場所だと。――根気だ根気だ、根気のつづくかぎり掘れ。いつも山の会堂で、ヨハン様が読んで聞かせる
1 日本にて客死せる王族ピオ、かれの最後の地は関東江戸市に近き僻地 なるべし。
2 ピオは世襲の夜光珠の短刀をもてり。
3 ピオは日本政府の追捕をおそれて人跡なきところに餓死せしならんか。
4 ピオは自然をこのめり。生前バチカノの草原の風趣を愛せり。あるいは江戸市西北の未開の曠野 にかくれて天寿を全 うせしか?
5 またピオは花をこのみ、ことに鶏血草の深紅 を熱愛する癖あり。かれが日本渡航の理想は、バチカノの野に似たる平和の自然に、鶏血草を移植して学林の庭とし、日本における聖カトリック羅馬教 の教会を建設するにありき。
6 またピオの通信は千六百〇三年――日本慶長八年の記号を最終として絶えたるも、絶対にかれは日本政府に捕われたるものにはあらず、そは、後の天草 支会の報告書を綜合するもすべて一致すればなり。
彼等は懸命に掘りつづける。その王庁の文章をくり返しながら掘りつづけます。いつか文章に音律がついて歌のようにうたわれながら、根気をつづけているのです。が――
土の色は黒から赤に変じましても、石の
いうまでもなく、この三人は山岳切支丹族の信徒です。さすがに夜光の短刀をさがすにも、この者たちは慾ばかりでなく、ひとつの信仰が伴っていますから、土にまみれ、汗につかれて来ても、容易にその信念を曲げそうもありません。
懸命はおそろしいもの。
遂に、その信念が何か掘りあてました。
丁二郎の鍬の先に、カチッと、異様な手ごたえがあったのです。
カチッと鍬の刀先に触れたものがあるので、
「おや、何かあったぞ」
と丁二郎が叫ぶと、さてはと眼色を変えて、二人も気早にそこを掘り返してゆく。
上の底ふかく食い込むように
「オオ」という
そこで、梅市や安蔵の手に、掘り出されたものは何でしたろうか?
見ると、背の短い、片足のない人体です。王朝風の結髪に、
また、その人体は、人間の化した
で、がっかりしたのはその三人。
「なんだい、これは」
と顔を見合せて、
「
「そうさ、千余年も前に高麗のコクリ族が、この武蔵野に移住して来た当時の品物だよ」
「つまり、高麗のコクリというのは、今高麗村の奥に住んでいる、あの部落の衆の先祖ッていうわけだね」
「その当時日本へ移住してきた、コクリの王族というのが、あの
「すると、ずいぶん古い家がらだな」
「だからこの武蔵野の草分けは、江戸太郎でもなし、
「なるほど」
「が、どうする? この
「そうだ」
と、話のわき道からわれに返りました。
「そんな物は、自分たちのさがす、夜光の短刀に縁はない」
「いや、まんざら縁がないでもないぞ」
「どうして?」
「聞けば高麗村のやつらも、御隠家様とやらの命をうけて、密々に夜光の短刀をたずねているというではないか。さすれば、こッちの
「オオ。たたき
「こうか!」
というと安蔵が、手に持っていた
それは、彼等のいぶかしい行動に目をみはりながら、そこに潜んでいたおりんと半五郎です。――その二人がにわかにバラバラと駆け出すのを見て、
「やっ!」と、辺りに人なきものと安心していた三人も、愕然として飛び上がりました。そして、
「きゃつら、高麗村の廻し者ではないか」
「いずれにしろ、今の秘密を聞いたやつ、逃がしては一大事だ」
言うが早いか、風を切ッて走った人形師の梅市は、いきなりおりんの
「や、てめえは
さてこそとばかり、ねじ仆して、裏の方へ引きずり戻してくる。
「逃がすなッ、そいつも!」
こう叫んだのは針屋の
と――追いかけて行った安蔵と丁二郎も、黄色い木の葉を舞わせながら、姿は見えないで
山岳
世に交わりを絶って、山や
かれらの信奉するデウスの聖典にも、殺人の罪悪なことは教えてありましょうが、為政者の迫害に追われて、世間なみの
(幕府がおれたちをこうさせたのだ!)
と、まなじりを裂く理由であるかも知れません。
とにかく、かれらは兇暴です。殺人の
ことにそれが、仲間の秘密を知られた場合に、いっそう強く、盲目的であったようです。
――おりんは生きた心地もなかったでしょう。うわさに聞いている切支丹族! ひそかに
それに捕まったのですから、最後です。けれど、彼女もさすがに、月江にかしずいていたくらいな女、めめしい悲鳴はあげません。相手のなすがまま、ずるずると前の場所へ引きずられて来ました。
「やい!」
丁二郎の目には、争われぬ血のすじが走ってみえます。身なりは世間を歩く都合で、おとなしい行商人となっていますが、殺気立ったその全身が、動物的な屈伸をして、山男の兇暴さを思わせます。
「てめえはたしか、高麗村の人間だろうが」
彼女をそこへ突っ放して、責めだしました。
おりんはわるびれずに、
「はい。御隠家様の召使いでございます」
「聞いたろうが、今おれたちが話していたことを」
「べつに……」
「うそをつけ、うぬは、狛家の廻し者にちがいない」
「いいえ、用事があって来たのですから」
「人の居ないこの
「関久米之丞をたずねて参りました」
ところへ、息をせいて戻って来たのは、安蔵と梅市で、
「残念なことをしたよ」
来るなり言って、
その腹いせもおりんの身にかかって、
「こいつ、どうしてくれようか」
と、二人が彼女の両手をつかむと、
「
梅市がカラカラと笑って言う。
「おう、穴も人がたに掘れている。安蔵、声をだすとうるさいから、何か女の口へ」
「猿ぐつわか」
「そうよ、早くしろ」
「よし!」と言うと、羽がい締めにしたおりんの口へ、むごい布が廻されました。
自分の呼吸がつまりかけたせつな、おりんは初めてヒーと懸命な救いをよびましたが、もうだめです。鳥飼の腕へ小鳥が爪を立てるよりも、効果のない反抗でした。よしやその悲鳴が生き
彼女の体は、鶏血草を掘り返した
すると。――誰も人の住んでいないはずの
「おや?」
と切支丹族の三人は、耳をすまして振向きましたが、気がついてみると、たそがれの
それきりの事で、べつに変ったこともない。
家の中の物音は、野猫か鼠であったかも知れません。
その野猫のひとみのような四日月が、紺の深い夕空に懸っているのを仰いで、
「おお、思わず遅くなった」
「帰ろうぜ、山の会堂へ」
針屋の
…………
あとには、四日月の白い光が水のようです。土とも草とも分らぬ狼藉なそこらに、雨のような虫の声。
松虫、すず虫、くつわ虫、かんたん、こおろぎ、かねたたき、あらゆる虫の音が、わが秋の夜ぞとばかり啼きすだいています。
と――
不思議です。
そこに居るはずもない人間が居たのはとにかく、生ける
時々、虫の音がハタと止む。
根こそぎにされた鶏血草がうごきます。わずかに、土がうごいています。それが止むとまた虫が啼きすだく……。
なぜあれを助けてやらないのか。屋内の細い
同じ日の夕方のこと。
八王子の
ところどころのゆるい小川は、観世水のような紋様を流し、空には、
「次郎や」
「はい」
「なんて
「おいらの口笛なんか、ちッともいい声でありゃしないもの。折角ないい虫の声が濁ってしまうでしょう」
「そうでもないよ。おまえが退屈まぎれに、毎日
「あれはねお嬢さん。
「臼挽き歌を口笛で吹いていたの」
「ええ」
「やってごらん」
「やってみましょうか」
手に野槍を持ち、顔に般若の
それが済むと、すぐに
聞き澄ましてから月江はまた、したり顔のうしろの仮面を振り向きました。
「次郎や」
「なんですか、お嬢様」
「最前から、おまえは面白そうに、
「もしか、落とすといけないからです。ハイ、手に持って歩くよりも、ふところに入れて歩くよりも、顔につけて歩いていれば一番大丈夫ですからね。決して、面白がってかぶっているわけではありません。顔でお
「おまえはほんとに言い抜けがうまいわ」
「だって、ほんとにそうなんですから]
「手で持って歩いても、顔で持って歩いて行ってもいいから、落としたりキズにしたりしないようになさいよ」
「はい、それは次郎も合点していますよ」
「何しろ、尾州様の御秘蔵
「分っております。ですから顔から離しません。早く高麗村へ帰って、御隠家様にこれを見せ、次郎の
「ほんとに、早くそうして上げなければ、万太郎様の御好意に対してすまないわけ」
「いつかあの人が
「お……河原へ出て来たね」
「熊川の岸でございますよ。ここを越えると拝島の裾でしょう」
川幅はかなりありますが、水は浅く、
月江が草履をぬいで着物の裾を折りかけると、
「お嬢様、おぶってあげましょうか」
と、野槍を杖に、次郎が背なかを向けました。
ちょうど、時刻にするとその頃でした。
かの切支丹族の三人が、おりんを生き
しかし、まだ熊川の岸までは、十数町の距離がある。また、野を縫う道も西へ東へ、或いは秩父へ甲州路へ、幾すじとなく走っている。
彼等がもしその道を、熊川の方へとって来たらいやでも出会うのは必然です。
またもし、彼等がほかの道へ去れば、次郎と月江は事なくそこを通りすぎる代りに、おりんの運命も、あのまま誰にも顧みられないことになるでしょう。
いずれを祈るべきでしょうか。ただ草のみしげる草原のわずかな距離にも、大きな運命の岐路がある。
――あの鼻寺炎上の事があって後、万太郎は小仏の甘酒茶屋へ使いを立てたものとみえます。
そこには、まだ月江が体を養っていました。無論次郎もあれ以来、彼女のそばを離れていない。
万太郎の使いが次郎にもたらして来たものは、すなわち尾州家の秘蔵
次郎のよろこび、言うまでもありません。
彼は、一刻も早く、それを持って高麗村へ帰り、千蛾老人に
また。
万太郎はそれを次郎へ託した後、金吾や釘勘と共に、即日、甲府から秩父路へ向っています。
日本左衛門のあとを追い、かたがた切支丹屋敷のお蝶の行方を知るためであることは、言うまでもありません。
けれど、次郎と月江が小仏の茶屋に足をとめている間は、その後の万太郎を初め金吾や釘勘の消息はさらに聞かなくなりました。――甲府から奥秩父にはいる道は、
谷間へ落ちた時のかすり傷や打身も、秋の立つ頃にはすっかり
もう、なつかしい高麗村はすぐそこです。
今夜、月江は八王子の宿に泊って、あしたの朝早く、馬を雇って武蔵野を横切ろうといったのですが、次郎が、
「いいえお嬢様、夜の旅もいいものですよ。秋の晩はなおいいものでございますよ。高麗村だって、もう半夜も歩けば行き着くじゃございませんか。歩きましょうよ。歩きましょうよ、ここまで来て一晩泊るなんてばかばかしい。それに、決して道に迷うことはありゃしません、武蔵野といえば次郎の巣のようなものですからね」
そして、一歩武蔵野へはいると、秋草のしおらしさ、虫の音のおもしろさ、足のつかれも、たそがれのさびしさも忘れるほどですから、次郎の言に従って来て決して後悔がありません。
「ほんとに、夜の旅もおもしろいね」
次郎の背なかにおぶさりながら、月江がこういって興がりました。
彼は、その月江を背におぶって、熊川の浅瀬をえらびながら、
「昼間だったら、いくら人がいない所でも、きまりが悪くって、こんなことはできやしないでしょう」
と、ザブ、ザブと
「そう……」月江はホホ笑みながら、次郎の肩へやわらかい手を廻して、
「おまえ、私をおぶうときまりがわるいの」
「だって、お嬢様は、女だもの」
「でも、主従だから、人が見てもおかしくはないはずだろう」
「だって女だもの。お半長右衛門みたいだ」
「あら。おまえお半長右衛門なんてことを知っているの」
「
「まあ。おりんはあんな本ばかり好きなんだね。そしておまえは、そのお半長右衛門の話が分ったかえ?」
「分らない」
「分らないくせに覚えているの」
「絵が描いてあったんで、なんだか、お嬢様をおぶって川を渡っていると、おいらが絵になったような気がしたんですよ」
「ホホホホ、じゃ、その絵にあった長右衛門も、次郎みたいに、
「ううん、もッと、きれいな男でした」
「女も、私よりずッと美しい、京
「でも、女の方は、その絵よりもお嬢さんの方がなお美しい」
「嘘ばッかり」
と、月江が次郎の
鬼面をかぶッた年下の長右衛門と、油気のない下げ髪のお半。
二人は、見たことのない夢をみるように、熊川の浅瀬を渡ってゆきます。
祭文のお半の夢と、今みている自分の夢と、どっちがあぶないだろうか――とも、ことさら考えてみる二人ではありません。
月江は、少女のようにハシャいで、
「次郎や、口笛をお吹きよ、口笛を」
「そんなことを言ってもむりではありませんか。川を越えてから歌います」
「私は、おまえの背なかで聞きたいの。そして、このまま寝てしまいたいの」
「寝てしまッちゃいけませんよ。しッかり肩につかまっていなければ、川へはまッても、おいらのせいじゃないからいい」
「ああ、落としてごらん、おまえも一緒に抱きこんで上げるから」
「じゃ、落としてもかまわない?」
「ああいいとも……」
そうして二人は、もう一足か二足しかない岸へ近づいたのを惜しんでいます。もっと、この川幅が広ければ――と胸にうずいているらしいのです。
ふざけているうちに、遂に次郎は手をはずして、月江を水へ落としました。しかし、岸は近いし水も浅い所なので、二人濡れもせず、石を投げられた
「あはははは」
「ホホホホ」
と、何がおかしいのか、手をたたいて笑いこけました。
その笑い声が、あまり時ならぬものでしたから、びッくりしたのは、かんたんや
「あっ」と言って、のび上がりました。
そして男は、近づいてくる人影を、いぶかしそうに見透かしておりましたが、やがてのこと、牛のように歩き出して、自分からも歩を近づけ、
「次郎じゃねえか」
こう言いました。
「えっ」
「月江様じゃございませんか」
「オオ、誰だえ、お前は」
「野鍛冶の半五郎でございますよ」
そう
「この小僧め、いい加減にしやがれ。無断で家を飛びだしたまま、どこをホッつき廻っていやがッたのだ。おっ母アを見ろ、おっ母アを。毎日、目を泣きはらして心配しているじゃねえか」
「半五郎や、次郎に
「そうだ、こっちもそんな場合じゃなかった。お嬢さん、今日おめえ様をさがしに来たお屋敷の小間使いが、切支丹族の男たちに捕まって、生埋めにされてしまいましたぜ」
「えっ、おりんが」
「ちゃん、それはほんとうかい」
次郎と月江とは、道々もうわさをして来たそのおりんが、生埋めという、
しかし、事実は半五郎の口からつぶさに語られて、二人の心を
「だが、その切支丹族のやつらが、まだこの
彼のことばが終るが早いかです、次郎は野槍の先ッぽを拝島の岡に向けて、
「ちゃん、おいらがおりんさんを助けて来るから、おめえはお嬢様のそばを離れないでついていてくんねえ」
「生息気なことをいうな、小僧のくせにして」
「いいかい、ほんとに、お嬢様に
「ど、どこへ行くんだ」
「知れているじゃねえか。おりんさんを助けによ!」
「ばかッ。あぶねえぞ」
「くそうッ、切支丹族のやつなんかに、高麗村の者がおそれていてたまるものか。ちゃんは臆病だから、
「このばか! このばか! 命知らず――」
半五郎の目でみれば、どうしたって、まだ乳の香のうせない子供でしかありません。彼のような
だが、次郎は耳もかしません。野槍をすぐッて駆け出しました。彼が真に
向う見ずな次郎の血相を心配して半五郎があとを追いかけましたから、月江もそこに残ってはいられない。
彼女もつづいて駆けました。
「ばかよ。ばか野郎よ」
と
一陣の野分が吹いて過ぎる、――ザアッと満目の
「ほい、しまった」
ところで切支丹族の三人づれ、岡を降りて来たところで、ホイと言ったのは梅市です。
「どうかしたのか?」
「忘れ物をしやがった」
「だれが」
「この
「なんだい品物は」
「腰に差していた
「そんな中へ、入れておくからわるいじゃないか」
「さっき
「そいつはいけない。あんな物が人手に渡ると一大事だ。おれ達も一緒に行ってさがしてやろう」
「いや、置いた場所はわかっているから、おぬしたちは、暫くここで待っていてくれ。すぐ一走りで戻って来る」
そこで梅市が道を取って返そうとして、
どんと、何物かに肩を押されて、あっと安蔵がよろけたかと思いますと、ほかの者をも突き飛ばすようにして、ひとりの小僧が目の前を駆け抜けてゆく。
「やっ」
「待てッ」
と、こッちで彼を呼びとめると同時に、
「やい!」
と、野槍を廻して踏み
「おや?」
向うから逆に、ヤイ! と食ッてかかって来たのにも驚きましたが、その
「やい。てめえたち三人は、今、
さてはこいつ、どこかで様子を聞きかじって来たな――と思いましたから、三人は同じように山刀の
「小僧、うぬも
「おおよ。おいらは高麗村の次郎ッてんだ」
「そして、さっきの女を助けに来たのか」
「あたりまえだ!」
「どッこい、そういう用ならここを通すことはできない。まごまごすると、おのれも
「なにを、こいつら。おいらの
と、やおら次郎は、鋭利な刃物のすげてある
その一足あとから、半五郎につづいて、月江が息をせいて来てみた時には、次郎は血ぶるいをしていました。
すでに、野槍の穂さきは
仲間のひとりが、いわゆる次郎の言うなるキモサシの槍玉にあげられたので、あとの二人、
それを見ると半五郎は、わが子の大胆さにあッとあきれました。
「この野郎」
いきなり梅市と安蔵に打ってかかります。
「やっ、てめえは」
と、相手の狼狽に、いよいよ勇をました高麗村の次郎は、手に馴れきッたキモサシを、槍にも棒にも刀にも使いわけて、
「ちゃん! あぶないから
と、かえって半五郎の身を子供のようにあやぶんで叫びました。
たかのしれた小僧と思いきや、
「うぬ、おばえていやがれ」
「山岳切支丹族の名を忘れるなッ」
いつも、捨て
そのあとで、ほッとしながら半五郎は、こんがら童子のように突っ立っている次郎の姿をながめて、
「こン畜生はまあ。こン畜生はまア……」
褒めていいのか、怒ッていいのか分らないで、
「末おそろしい
と、今さら、舌を巻きました。
彼のちゃんは舌を巻いたりなどして、がっかりしておりましたが、次郎はまだ今の張りつめた気込みを少しもゆるませないで、
「さあ、早くおりんさんを」
と、すぐに野槍を持ち直します。
「まア、待てッたら」
「ちゃんも来るのかい」
「第一、どこでどうしたのか、その見当もよくついてやしまいに」
半五郎の口ぶりは、最前からみると、だいぶ子供の実力を認めてきました。
「拝島の岡だって言ったろう。え? そうじゃないの」
「べらぼうめ、拝島といったって、ずいぶん広いじゃねえか。だからおれが案内してやるからそう
「じゃあ、ちゃんが先へ歩きなよ。――お嬢様、次郎のそばへいらッしゃい」
前ほどではありませんが、それから十数町の間も、月江にはかなり辛いほど急いで行く。
と、半五郎が、
「あれッ?」
岡の
「なに? なに?」
次郎は、事こそあれと、寄って来ました。
「変だなあ……」
「なにさ、ちゃん」
「この上の関久米之丞の屋敷には、ついさっき来た時には、たしか、誰も人が住んでいなかったはずなのに、今見ると、チラと、明りが
「久米之丞は殺されたよ」
「へえ、どこで」
「甲州境の
「それだのに、明りが
「何処に見える?」
「も少し、おれの方へ寄って見な」
「……見えないやあ、なんにも見えないや」
「そんなはずはねえ、今、チラチラと木の間に光って見えた」
「お嬢様には見えますか。久米之丞の
「見えないねえ、私にも」
「それごらんな。ちゃんの眼は少しどうかしているぜ。見えたとすれば狐火か、それでなけりゃ、小仏で殺された久米之丞の
そう言って、次郎は事もなげに笑いました。
とにかく三人は、岡の空屋敷へ急ぐことにしました。そこに
が、この押問答は半五郎の負けでした。行き着いてみると、例の
次郎と月江は、彼のあとについてすぐ草深い裏庭へ廻ってゆきました。おりんの身はどうしたろうか? 近づくに従って、予感の教える、いやな恐怖におどおどするのが、自分でも制しきれない足どりです。
すると、雑草の折れ敷いたところを目あてに、ガサガサ歩き廻っていた半五郎が、
「この辺だ」
と、有り合わせた
そこで、次郎もあわてて手伝おうとしましたが、
そして半五郎と一緒に、セッセと土の下をさぐりましたが、どうもその土の当り具合が少し不審です。
「おかしいなあ」
「不思議だ」
「どうしたの?」
たずねますと、半五郎も次郎も、一緒に
「居ませんよ。おりんさんは」
「えッ」
この驚きは、ホッとしたよろこびでもありました。
けれどまだ、それで彼女の生命に保証がついたとはいわれません。逃げたのであろうか? 場所が違っているのじゃないか? と三人の迷いはかえってふかくなる。
「逃げたとすれば、
こう月江が気休めをつぶやきますと、半五郎は首を振って、
「いやいや。どうしたッて、ひとりで逃げ出せるわけがない」
と頑固に否定してしまう。
「じゃあ、おりんはどうしたの」
「さあ、それは分らねえが」
こんな会話をつづけ合っていると、どこからともなく、柴をいぶすような白い煙が、自分たちの足元へ低く這ってきたので、
「や。この
そこで半五郎は、さっき途中でチラと見た
そこも納屋だか物置だか分らないほど荒れています。綿のような白い煙は、たしかにこの近くから流れている。
と。――彼や次郎の足音を耳に入れたのでしょう、立てかけてあった風呂場の戸をはずして、ひょいと外をのぞいた女があります。それが意外にもおりんだったのです。
おりんは、湯をわかして、髪や手足を洗っていたところでした。半五郎は呆然とするし、次郎や月江は手をとって狂喜しました。
なおさらのこと、おりん自身の驚きは申すまでもありません。探しぬいていた月江と次郎が、その戸の外に立っていようとは夢にも予想しない事ですから、胆をつぶして、にわかに会話を合すこともできない。
だんだん事情をたずねてみますと、おりんは気を失って、自分が土の下になった意識もなかったそうです。彼女が気がついてみた時には、この
そうして、彼女が何気なく立とうとすると、奥の方で、こういう男の声が聞こえたといいます。
(お女中、べつに怪我もないようだから、もう安心するがいい。手足を洗うならば、風呂場に
そう聞こえたのは、三間も四間もへだてた薄暗い奥の座敷で、ことばの
明りがないので、どこの部屋も厚ぼッたい
かすかな寝息が聞こえます。
そこには静かというよりも、むしろ気味わるい
もう夜は肌寒い秋ですから、いかにやぶ
かりにも、男の寝息がしている部屋なので、おりんは中の一間を
「最前、お救いくださいましたのは、多分あなた様と存じますが」
そう言って、畳に両手をつきました。
「――只今ちょうど、高麗村の者と、お
幾たびとなく、礼をくり返していましたけれど、蚊帳はソヨともうごきませぬし、寝返りを打つ
心残りの様子でしたが、おりんはぜひなく立ち上がりました。
外には、月江をはじめ、次郎、半五郎の三人が待ちぬいている。
やがて彼女はその人々と共に、夜更けにかけて高麗村の道をたどっていました。
「だれだろうね?」
当然、四人の話題は、おりんの口から話された
ほぼ小一里も歩いたかと思うころ、一行の前に、数頭の馬首と数点の
何者が報じたのか、この夕べ、
狂喜したのは
次郎の勘気も、この折からのこととて、一も二もなくゆるされました。何物より欲していた老人は石神の
「ありがとうございます。では、近いうちに、これを持って、江戸へ行ってまいります」
次郎も、これでほんとに安心したというものです。で、またもや事故の起らぬうちと、彼はそれから二、三日目に、ふたたびわらじをはいて高麗村を出る。
御隠家様のゆるしをえて、江戸の尾州家へ
「もう、行かぬがよい」
と月江にも言われましたが、あのまま礼をしないのは心苦しいと言って、
そこは、相変らずヒッソリとしていて、奥をのぞくと、昼だのに、
けれど、そこに寝ていた人間は、きょうは影も姿も見当りません。やはりあれはこの空屋敷を巣にしていた者ではなく、折よくあの日だけ、行き疲れか何かして、この空屋敷に一夜を過ごしていた通りすがりの旅人に相違なかった……。
そこに、信玄の隠し湯という言い伝えのある、自然のいで湯と、かたちばかりの小屋がある。
しかし、湯治をしているほどのんきな道中ではありません。あの
それを、悠々とここに足を止めたのは、もうここまで来れば安心という見込みがついたのと、やがて自分達のあとから、日本左衛門や千束の稲たちも、同じこの道を来るにちがいないと、それらを待ち合す心もありました。
果たして、あとから一行へ追いついて来たものがある。それは秦野屋九兵衛です。なお、九兵衛の話によると、日本左衛門も同じ夜に山越えの方角をさして落ちたというので、つい一日のばしに待っていたわけです。
ところが、九兵衛が一行に加わって以来、稲吉も日本左衛門も、遂にこの信玄の隠し湯に追いついては来ませんでした。
「稲は
雲霧はこう
「だが、親分はどうしたろうか。秩父へ越えるとすれば、当然ここを通るはずだが」
と、四ツ目屋は、時折つぶやいて、小屋の前に半日も立っていることがある。けれど、この往還ばかりは、一日立っていても、ひとりの旅人を見ることさえない日が多いのです。そして、
「九月のなかばになると、もう金峰の上には
「そうさ、親分のことだから、あのおっとりとした様子で、わざと本街道へ出たのかも分らねえ」
「それとすれや、もうとうの先に、江戸か
「どっちにしても、もうほとぼりもさめたろうし、長居は無用だ、立つとしようぜ」
「よかろう!」と、相談のまとまった翌日です。一同はまた山かごにお蝶をのせて、信玄の隠し湯から木賊の奥にはいりました。
登りや渓谷にかかると、お蝶は時々かごを降りて、素直にあるいておりました。無理に
もっとも、秦野屋という策士が、あとから一行にまじっていますから、どういう隙に、四ツ目屋や雲霧の目をぬすんで、お蝶にことばをかわしているか、その辺のことは察しかねます。
とにかく、山から山へ、幾日かの初秋の旅がつづきました。
「気楽だなあ、ええおい」
雲霧は、連れの者へ笠を向けて、
「天下の
「だが、中仙道へ出ると、まさか、こう気楽にはゆくまいぜ」
「そうさ」
と、四ツ目屋は、お蝶のかごへ目をやって、
「第一、あいつに油断がならなくなる」
聞こえたでしょうが、お蝶は横を向いて笑っていました。
翌日も同じ山の旅。
次の日もおなじ山の旅でした。
その間に、左右の空に見た山をかぞえてみますと、
こうして、一行が、この往来で難所の名のある、
「おや、煙が見える」
「めずらしいな、人間が居るんだぜ」
と、雲霧と四ツ目屋が、顔を見合せて意味もなく笑っている。
ずいぶん、人を人と思わない雲霧なども、こんどの旅ではまったく人間が恋しくなっていました。あの信玄の隠し湯を出てからでさえ、まだ飛脚屋や炭焼などにも、ひとりも出会っておりません。そこで暫くの間は、あなたの空に立っている煙が、ひとつのたのしみとなって、部落があるのか、それとも炭焼のたむろか、
「久しぶりで、今夜は、あったかい蒲団で、あったかい御馳走にありつけそうだ」
と、雲霧が早くもそれを当てにするものですから、四ツ目屋の新助は、からかい半分に、
「だが雲霧。もしかして、山目付なんていう、役人などが居たひには、とんでもねエ御馳走を食うだろうぜ」
「はははは。そいつは、あやまるよ」
と雲霧が笑えば、かごかきや秦野屋も、一緒になって笑いました。
ところが、次第にそこへ近づいて行くと、一種異様なにおいが人々の鼻にさとられて来ました。猟師だろうか、人家だろうか、さまざまに空想して来た煙も、誰の想像もあたッておりません。
かごと旅人が、そこへ通りかかるのを見うけると、焚火のまわりにいた連中は、一様に首をこッちへ向けて、
「ご苦労さんでござんす」
「えらいこッてごす」
「ご苦労さんで……」
ひとりひとりあたまを下げて、長途の山の旅をねぎらうのでありました。まったく、人気のない山の中でふと出会った土地の者に、このあいさつをうける時ほど、郷土人のあたたかみと親しみを感じる場合はありません。
四ツ目屋、秦野屋、雲霧なども、人間の群れ争う都会のなかへはいると、それぞれものすごい
「よう、御連中、たいそう仲よくおそろいだね」
と、
「すまねえが、一服やらしておくんなさいな」
と仲間にはいって、そこらへ腰をおろしました。
「さあ、旅の衆、火のそばによるがいい」
「なあに、せこせこ歩いて来たやつで、すこしも寒かアありません。……時に、変なことをきくようだが、おまはん達ゃ、なんだね? へへへへ。なんだネっていう聞き方も不作法だが、御商売は何でござんす。どうも、
「あ、わしたちの、仕事かね」
「そうよ」
「わし達は、この辺の山から、
「そうかい。じゃ、おまはん達は、うるし掻きというやつだね。いや、やつじゃねえ、御商売なんだね」
「へえ、うるし掻きでございます」
「道理で、変なにおいがしたよ」
「お客さん、そこらの桶にさわるとかぶれますぜ」
「なにさ、みんな
「皆さん、江戸の衆とみえるね。面白いことばかり言う」
「しばらく
「で、旅の衆、お前さん方は、何を御商売で、こんなところを歩きなさるのか」
「え。おれたちの商売かい?」
と、これには、ちょっと返辞に困って、ただニヤニヤと笑っていると、焚火の仲間に割りこんで、じょうだん口をたたいていた雲霧の前で、突然、ポーンと火薬でも投げ込んだような音がしました。
「あっ」
と、四ツ目屋までびッくりして飛び上がると、
「旅の衆、栗だよ、栗をくべてあったのだよ」
雲霧の仁三ともあろうものが、
「焼けた、さ、旅の衆、栗をたべねえか、この辺の栗は、つぶは小さいが甘みがある」
と、漆掻きの男どもは、人にもすすめ、自分たちも灰の中から栗をかき出して、皮をむき合っている。
「ひとつ、御馳走になろうか」
四ツ目屋の新助も手を出して、
「ウム、こいつは甘い」
と、
その間に、秦野屋はどうしたろうかと
一
「こんな所へ来て、困ったことを言い出しやがる」
と、九兵衛は舌うちをして、そのいさくさを新助に代ってもらいたい顔つきです。
「何をゴネているんだ、てめえたちは」
新助が問いただすと、
「なに、べつにゴネているわけじゃございません。ただ、あまり日数がたちすぎたから、ここらでおひまを貰いたいと、今、旦那にお聞き申してみたところでさ」
「そんな約束じゃねえはずだが」
「旦那の方じゃそういうけれど、こちとらの方じゃ、元々こんな遠方へ、それもたしかなあてもなく、やって来るつもりじゃなかったんです」
そこに
もっとも、かごかきどもの考えでは、信玄の隠し湯あたりで、とうに引っかえしたい算だんであったのですが、帰るといえば、
「ちッ。面倒な」
雲霧は目ですくって、
「おい四ツ目屋、
「だって」
「秩父の町へ行きゃあ、どうかなるさ」
「その町まで、まだどのくらいあるかもわからねえのに」
「お蝶だって、観念している、何も、あとの道ぐらいは自分で歩くだろう。どっちみち、ふた心のあるやつを連れてあるくのは、あとあとの為にもならねえことだ」
それも一理ある言葉ですから、新助は
秦野屋は
かれのそばへ、かごを降ろされたお蝶が足を休めました。お蝶の目が、何か九兵衛に話しかけたいようにうごくのを、彼は気のつかない顔をして、ぷッと、たばこの火玉をてのひらに吹きました。
そのお蝶の美しさは、
「旦那がたはよいけれど、あの、かご屋を帰しては、その
と、案じられるように、ささやき合っています。
雲霧は気軽に、
「どうだろう、今夜はおめえたちの部落へ行って泊めて貰えまいか」
「だが、わしらのいる部落は、すこし横道へはいる所だから」
「何里ぐらい?」
「一里ほどはありましょうよ。だが、そこへ来れば、あしたは秩父の町へゆく馬があるから、その
とにかく雲霧たちは人里に餓えている。部落と聞いても恋しい気がする。で、
深林から深林へ、道はいくたびとなく折れ曲がって行きます。
西へ向いているのか東へさしているのか、この辺の地理になると
そのうちに、行く手に明るい空がひらけました。森を離れたとたんに道は急落していて、その下に四方山にかこまれた盆地があります。
「わしたちの村は、あの盆地の底でございますよ。旅の衆、先へ下りたがいい」
こういって、指さす所を見ると、そこは足がかりもない絶壁で、頼りとするのは、一すじの
しかし、新助も雲霧も秦野屋も、身の軽いことにかけては漆掻きに劣らぬ
「おや?」
一同が下へ着いたかと思うと、今降りて来た繩梯子が、カラカラと上へ手繰り上げられたので、新助は雲霧にささやいて、
「兄貴、すこし油断がならねえぜ」
「ウム……」と、彼の目もこの辺から
「あしたの朝になれば、秩父の町へゆく馬があるといったが、こんなスリバチの底のような所から、どうして馬が通えるものか」
「それに、
「だが、ここまで来てしまっちゃ追いつかねえことだ。行くところまで行ってみるよりほかはない」
が――泰野屋は平然と黙りこくッて歩いていました。むしろ好奇の目をもって、盆地の風物をながめている。流れに添って部落へはいると、やがて大きな水車があります。水車のそばには自然木で組まれた、非常に頑固で原始的な小屋があり、小屋には小さな
一戸の小屋の中からは、シューッと物を摺るような音が洩れる。また一戸の家の窓からは、意味のくめない
いよいよ不審に思ったので、
「おい、あの小屋にも、おめえ達の同職が住んでいるのかい」
と、新助が案内のひとりに問いますと、漆掻きが答えますには、
「あれですか。ありゃみんな
「細工場……へえ?」
「今あるいて来た所に、大きな水車がございました。あれから水の力をとって、
「はてね、そうして、何をこしらえるんだね」
「何ということはございませんので。盆、
話は分っておりますが、雲霧も新助も、その説明を聞いてから、よけいに疑惑がふかくなって、見るもの聞く物、いちいち
そのうちに一人の漆掻きは、かなり広い流れのふちに立って、
「おぅ――い。川番」
と、何か向うへ、合図をよびかけました。
川番――とよばれると、一人の男が、流れの向うに姿を見せて、釣橋の仕掛けへ歯止めを
あぶねえ。あぶねえ。
無断で、うかと足をのせようものなら、下の流れへ、
(油断をするなよ)
(気をつけろよ)
四ツ目屋と雲霧は、時々、目にものをいわせて警戒しあいましたが、秦野屋ばかりは相かわらずの黙々です。そしてお蝶も、あたりの物にばかり気をとられている。
「おい、旅の者、こっちだよ」
織物を織るのか、粉をつくのか、機械的な木音が、コトンコトンと何処からか洩れてくる。モンペをはいた若い女が、何かの壺を頭にのせて通りますし、
部落とはいえ、
「さあ、この小屋が空き物だ。御苦労御苦労、よくお
自然木の横組み
「さ、どうか御遠慮なく」
と、促します。
新助は二の足をふんでいました。たれより先に、お蝶がものめずらしそうに
「じゃ」と、いや応はありません。
這入ってみると、そんなビクついたものではなく、草を編んだ敷物もあれば、毛皮、夜の
「不自由はありがてえ、まるで何かこう、立派な宿屋にでもついたような気がするぜ」
とりあえず、疲れた足をのばし、
「おい、旅の衆、お湯におはいり」
湯まであるのは勿体ない気がすると、なかば怖れながら、裏の風呂にゆくと、それも真っ黒な荒小屋ですが、野天風呂ではありませんし、次に来た食事の膳も、なかなか器用なものを食べさせるには驚かされる。
「だが一体、ここの
「さあ、分らねえ」
「
「分らねえな、どうも」
「そして、何という所だい」
「なお分らないよ。何もかも分らねえ。おれもずいぶん旅をしたが、こんな山奥に、こんな土地のあるのを聞いたためしがない。――秦野屋の兄貴などは、相当に年をとっているんだから、何か、見当がつかねえかな」
黙りがちな九兵衛へ、新助がこう尋ねますと、九兵衛は初めて口をひらいて、
「ウーム、最前から、わしもずいぶん考えていたんだが、ここへ着いてからやっと分った。何しろ、ちょッと鬼門へ向いて来たよ」
「えっ。じゃ、何か
その時です。
どこかで、カアーン……という鐘の音が、夢幻的な尾をひいて永く鳴りました。谷のような地形では、木の実の落ちる音さえ高く聞こえるのに、四方、山ばかりに囲まれた盆地の鐘、なんともいえない
すると、ワラワラ、小屋の外を、人の足音が流れてゆきます。
その足音の流れもひとしきりで、内窓のひさしに白い星を見出すと、四方の山も一色に黒ずみだして、盆地は夜の底に沈んでゆく。
鐘が聞こえる――湖水の底にでもいて聞くような音響です。
小屋の炉の火はトロトロと赤いしずかな火になっていました、あたりが暗くなるほど、
はッと気がついたように、雲霧はその火の色に目をこすりました。見ると、秦野屋も話をやめ、四ツ目屋の新助も膝をかかえたまま、うッとりと、いい気持に居眠っているので、
「お……」
何か言いかけようとしましたが、口に
そして、ごろりと炉べりに横になって、目をとじる、火の色がチラつく。また、目をあいてみると、秦野屋も横になり新助もそこに寝てしまう様子です。――お蝶は? ……と思ったが、
「眠い……」
雲霧はただもう眠くってたまらない。
カアーンと遠い鐘音が聞こえる。
「ああ、さっきの鐘だ」
そう思ううちに、その鐘も、だんだん耳に遠くなりました。
「寝ちゃあいけねえ。何しろ、油断のならない妙なところだ。寝るな、寝るな、寝入ってしまってはいけないぞ……」と、しきりに眠気をこらえていましたが、いつのまにか、彼の意識も霧のように、ぼやッと、わからなくなったまま、前後のけじめを知りません。
トロ、トロ……と炉のなかの暗紫色の火が、それからの、うごかぬ景色を明滅させておりました。時間にして、約、半刻ばかりの間……。
「寝た振りをしているのかと思ったら、ほんとにヘタばってしまやがった。……おや、お蝶も」
やがて、むっくり起きたのは秦野屋九兵衛です。炉を離れて、これも他愛なく寝入っているお蝶をながめて、自分は、足へ脚絆をつけ初める。
彼は、この盆地の小屋に落ちつく前に、万一の場合を思って、ひそかに用意の解毒を
* * *
かれらの呼ぶ「山の会堂」では、鐘に集まった人々が、夜の
その人々に取り巻かれて、おぼつかない日本語をつづり、何か楽しげに話しているのは、黒い
堂の正面には大きな黒い
と。そのマリヤの上に懸け渡されてある、
「お。こんなにおそいのに、誰か来たようです。開けてやってください」
黒い裾をひいた異国人の手が、会堂の
「山の会堂」を司祭するひとりの異国人は、永い間、切支丹屋敷の牢獄にいた、
ヨハンはある夜その牢獄から、風のごとき人間の
ヨハンは、建築を教え、水の力の利用を教え、歯車の組織をさずけ、附近の樹木によって製産する小工芸を与えました。
こうして、まず凶暴な切支丹族の掠奪性を
ガラン――と今聖壇のそばの銅鈴が鳴ったので、ヨハンが一つの
「誰だ?」
と、そこへ寄って念を押す。
何か、声が聞こえます。うなずいて
皆、すこしきれいになっていますが、昼間、お蝶や雲霧を盆地へ誘って来た
「ヨハン様、首尾よく、何もかも済みました」
「御苦労さま」
ヨハンは深いひげのなかに笑い
「お蝶さんを、傷つけないように、ここまで連れてくるのはなかなか骨折りだったろうと思います」
「お察しのとおりですよ。あの方に怪我をさせたくないばかりに、信玄の隠し湯からこっちへ来るまで、ずいぶん気の永い網を張っていました。だが、荒療治をせずにうまく行った仕事も、いい気持なものでございます」
「それから、どうしていますか――お蝶様は?」
「みんな、ひとまず寝かしておきました」
「眠り薬で?」
「え。夕がたの御馳走のついでに」
「では、お蝶様だけを、この会堂のうしろの
「そうそう、あの方は、ヨハン様のお話によると、羅馬王家の血をつないだものの、今では、たった一人の御子孫だそうで」
「母は日本の女ですが、父親はわしの御主人にあたる――王家の立派な血統です」
「この会堂に、その王家の血すじのお蝶様をむかえ、そして、御司祭はヨハン様がする、これで、日本に切支丹の禁制さえなければ、まったく天国でございますな」
「いえ、幕府の禁制がありましても、ここは天国にちがいありません、どこをどう通っても、政府の目付がこの盆地へは来られないでしょう」
「おお、じゃわし達は、お蝶様をあちらへお移し致しましょう」と、切支丹族の者十数人、明り木の火を先に立てて、以前の小屋へ引っ返して来ます。
程なくそこから、こわれ物でもかかえ出すように、お蝶の姿が運び出されてゆきましたが、
「おや頭かずがひとり不足だぞ。ここに薬にあてられているのは、雲霧と、四ツ目屋の新助」
「あっ、九兵衛という老いぼれめだ」
「逃げたな」
「さがし出せ。さがし出せ」
獲物を取った者や、
ヨハンの起き伏しする
窓のそばには
「お
ヨハンはこう言って自分の椅子を、お蝶の仰向いている寝台のそばへ寄せてゆきました。
ガバと、お蝶は起き上がって、
「あら?」
と、天井を見たり、窓を見たり、そして最後に、ヨハンの顔を、穴のあくほど見つめている。
「びッくりしたでございましょう。私はヨハンでございます。あの切支丹屋敷の牢にいた……」
「ここは何処?」
「秩父の奥の
「じゃ、やっぱり、漆掻きの男たちに案内されて来た所じゃないの」
「その切支丹村でございます。私はこの夏の初めごろから、この天童谷の司祭者になってくれと頼まれて、ここに住んでいるのでございます。――しかしお
「私が甲州へゆく途中で、やはり、こんな深い谷あいで、大勢のものが集まって、
「その群のなかに、私の姿は見ませんでしたか」
「ヨハンさん――と、あの時、思わず谷へ呼んだけれど」
「まさかと、お信じなさらなかったでしょう、どう考えても、小石川の牢にいる私が、あんな所に
「だけれど、あれから
「アア、久助。あれもこの切支丹村のひとりでございます、あなたを村へ連れてくるようにと私の
「じゃ、お前はこの山にいても、何もかも知っているんですね」
「ええ、何もかも存じております。……ですが、お
「ヨハン」
「はい」
「さっきから私の事を、お
「なぜでございますか」
「このお蝶は、ころびばてれんの娘じゃないの、どこにお姫様づらがあるもんじゃない、ホホホホホ……そんな事をいうと、私、真面目になれなくなるわ」
お蝶は、朱い
お蝶の沈み込んだ心が読めているように、ヨハンは暫くその静思の時間を与えておいて、おもむろにまた話しかけました。
「私が、お姫様とお呼びするのは当りまえなことでございます。いつか、切支丹屋敷の牢の前でも話しました。あなたは、ころびばてれんの娘だなどと、身をいやしんでおいでになるが、
「だってねえ、ヨハンや」
「はい、はい」
「わたし、そんな貴族の血をうけた娘だなどとは、どうしても、思ええないんだもの……この自分が」
「どうしてな? ……ヨハンには分りませぬが」
「わたしは、悪い事が好きなんだよ」
「美しい
「お父さんの事を言ッちゃあ嫌よ」
お蝶は打つ真似をしましたが、その目はたまらなく悲しんでいます。そして、明りの届かない部屋の隅に、
「あー、そういうお心が尊いものです。いくら悪事がおすきでも、きっと、救われるに違いありません」
「生れつきの性質は、直らないというじゃないか。私は、お前みたいな窮屈な人が嫌いで、たとえて言えば、日本左衛門みたいな、あんな人間が好きでしょうがないんだよ」
「怖ろしいことを仰っしゃいます。あれは盗賊の巨頭ではございませんか。そして、夜光の短刀を狙っている、お姫様や、ヨハンの強敵ではございませんか」
「そんな事はべつにして、ただ私の性質を話すのだよ。……実を言うとね、ヨハンや」
「はい、何か秘密なお話で」
「私は今迷っているの」
「話しておしまいなされませ。ヨハンがそのお迷いをとって上げます」
「こんどの山の旅にかかる前にね、鼻寺という所で、こういうことを囁かれたんだよ」
「誰にですか?」
「日本左衛門にさ……お前にはまだ日本語のよく分らないところがあるとみえる」
「いいえ。もう海を越えて来てから七年になります。お
「あのネ。……分って」
「はい。そして」
「日本左衛門が私に言ったのだよ、この手を、こう強くにぎりしめて……」
「無礼な悪魔でございますな。そして、なんと申しましたか」
「――女房にならぬかと言ったのだよ。恋をしていると言ったのだよ。あの大盗でも恋をするとみえてね……」
「えっ、お姫様に向って、恋を、あの妻にならぬかと」
「その時は、ゾッとして突き放したけれど、永い間の山駕のなかで考えてみると、そのくせ私は、あの人がすきらしい……それで迷ってしまったの」
「…………」
「ねえ、ヨハン、私はどっちが幸福になるだろう」
がたんと、ヨハンは不意に
「お寝みなさいまし。今夜はもうお話をいたしますまい。そのベッドへ寝て、二官様の顔つきでも夢の中でごらん遊ばせ。そして、今のことは、お父上の二官様にきいてみるが、よろしゅうございましょう。……では明りを消しますよ。とにかくお姫様、ヨハンはあなたの血の全部が、王家の御息女に洗い返されるまで、あなたのお体をこの天堂谷へお預り申しているつもりでございますから、それだけをおふくみ下さいまし」
ふッと明りが消えました。
ヨハンの顔もお蝶の影も塗りつぶされて、ただ白いシーツの上に、窓越しにうごく白樺の葉の影がほの青く見えるばかりであります。
ギイ……と
「オオ、梅市と安蔵――」ヨハンはあとの
「お前たちが交わる交わる旅から帰って来るのが楽しみだ。そして何かよい手懸りはなかったか」
「ありましたよ」と
「えっ?」と、ヨハンの目は森の闇の
「ほウ……」と言ったばかりです。
「そこはやはり武蔵野でございます。
と梅市が、そこで出会った事や見届けたことを
何事かと、ヨハンの方からも近づいて行ってみますと、今日お蝶と共に連れて来た三人のうち、九兵衛という老賊だけが、巧みにいッぱい食わせて逃走したので、手分けをしてそれを探しているところだと口々な騒ぎかた。
そしてまた、八方へ明り木の光を振って別れて行きましたが、ヨハンは急に思いついて、梅市と安蔵に何事かを言いつけた
また安蔵と梅市とは、それから教えられた小屋へ急いで来てみますと、成程、ヨハンが言ったとおり、二人の人間が正体なく
生ける墓場はまッ暗です、どこからほうり込まれたものか、明暗の境を知らずに飛び込まされた雲霧の仁三と四ツ目屋の新助には、後でいくら考えても分らない。
正気がついた時にはそこに居たのです。夢から
何しろそこは地底にはちがいない。音と光のない世界です。しかし決して窮屈なせまさでもなく、立って歩くに不自由はなく、横に進んで鼻がつかえる程でもない。いったいどれくらいな広さがあるのか、光と音響がないのでそれも暫く想像がつきません。
ところが、時間にして約一夜も過ぎたかと思われるころ、初めて、墓場の空に薄い光の穴があきました。見ると、その一道の丸くさした光線の中へ、ポーンと何か落ちて来たかと思うと、光の穴はすぐ閉じられて、また前にまさるうばたまの暗やみ。
すこし
それから、これと同じ事件は、約十二時間目ぐらいに一回ずつくり返されました。墓場の空から丸い光線がボヤッとさして来ること、途端に何か落ちてくる事、そしてすぐ暗くなること、妙な空気が動揺しだすこと、うるさい咀嚼がはじまること、寸分もたがわぬ約束の履行でありました。
初めは、なんだろうと驚いて、すくみ込んでいた雲霧も四ツ目屋も、その三回目からうごめくものの一つとなって、手にさわった物を無考えに口へ押しこんでおりました。
十二時間目ぐらいに一回ずつ上から落ちて来るのは食物です。食物はまず目と鼻の感覚に訴えてはじめて味覚の乗りだすものですが、その目が用をなさないので、何を与えられているのか分らない。
想像するに、それは切支丹村の切支丹族たちが、食べあました残物かも知れません。山の会堂の祭壇に供えたあとの物や、ヨハンの台所の料理クズなどもあるかも知れません。
――何しろ、それによって生ける墓場にうごめく者が、ここには雲霧、四ツ目屋ふたりのほかに、なお幾十人居るのだかわからない。
また、不思議なことには、そこに居る無数の人間は、光のない沼の目なし魚みたいに、ウヨウヨうごめいておりながら、話しもしなければ笑いもしない、また同じように、泣きもしません。
この生ける墓場の
その証拠には、第一、こんな時には一心同体な気持になって、互いに励まし励まされる唯一の対象となり合わなければならない筈の四ツ目屋の新助とも、だんだん口数をきかなくなりました。
新助もまた口をきいて来ない。そばにいた体がさわる事があっても、ぐんにゃりとして身をよけるだけです。
どうもこんな暗やみに息だけを吸わせて人間を生かしておくと、精神的にも生理的にも、おそろしい退化がからだの内部に起ってくるようです。すべての意慾は眠ってしまい、思判力は失われ、視覚は無能になり触覚は
また、かすかに生命の保持をいとなんでいる胃ぶくろの方でも、十何時間目に一回送られるわずかな食物を原則として、当然、生理経済をやってきますので、なるべく肉体の所持者に身うごきをいましめ、ムダな口をきくなと命令し、多量なカロリーを消耗するすべての考えごとなどは、最も不生産的なものとして一番早く衰えてくるようです。
雲霧などがしばしば経験している、あの伝馬牢とよぶ獄舎などは、ここから見れば、まだまだ立派な人間世界です。ともかくあそこなどでは、夜の果てには明けがあり、昼間になれば夜に入るという変化がある。貨幣の力も行われれば、性慾のもだえもあれば希望もある。
ところが、ここにはすべてがない。
光明、希望、金力、争闘、邪智、愛慾、それがありません。喜怒哀楽、失意得意、それらの生活の変化もあろうとしてもありません。まったく無音無色のなかに無神経な冬眠をジッとつづけている
――だが。
雲霧はまだそんなでもない。
彼と新助とは新米なので、多少の
「もう助からねえ」
駄目だ――という観念の方が濃くなって、逃げ出そう、助かろう、とする焦躁や気力は、日ましに燃えとぼれて来たのは事実です。
気力が枯れて、
ふと眼をさました時です。雲霧の足もとに、大きな
「新助……か?」
「お」とも「ううん」とも言わないので、足を上げると転がりました。で、雲霧がさわってみると、やはりこいつもよく寝ています。
「誰だろう?」
そう思ったが、見るよしもありません。
「この中には、おれ達のほかにも、まだ随分人間が居るようだが……」と、何気なく
顔があるのにふしぎはないが、新助の顔ではありません。かさかさとしたあぶらけのない顔。
雲霧の手がこくめいになで廻しても、その人間は一向さしつかえなく寝ています。まず
「このあんばいでは四十以上の人間だな。……だが、大きな鼻だな。長い顔だな……」
いくら退化した冬眠人間でも、そういじられてはうるさいとみえて、やがて、雲霧の手をつかまえたと思うと、目をさまして起き上がったふうです。
「おい。おい。おい……」
雲霧はその人間の肩をゆすぶって、彼の知覚を試みました。――自分の方を振り向いた様子です。この暗やみでも眼だけがかすかに光って見える。
「おい、大将」
どう呼んでいいか思いつかないので雲霧はこうよびました。しかし、起き上がった大将はさらに刺激されないと見えて、またぐンにゃりと寝ようとするので、彼はあわてて抱きとめて、
「誰だい、お前は? え? お前はだれだよ」
ほとんど、つんぼにものを言うようにくどく聞きますと、やっと気のない口を
「お前は誰かね」
と、初めて、人語をもらしました。
自分のことばを
「おれかね。おれは江戸の者だが、おめえはやはり山の衆かい」と、答えると相手は俄かに
「ほ……江戸、お前さん、江戸の者……」
「そうだ、ことばつきでも分るだろう」
「アア、久しくその江戸弁も聞いたことがなかった」
「――と言うと、おまはんも、江戸の人かい」
「うむ」と、がっくり首を下げたふうです。雲霧は、また寝入られてはと、手首をつよく握りしめて、
「なつかしいなあ。江戸は何処だい」
「
「溝店だ? ……へええ、いよいよなつかしい。
「…………」
「そして、
「
「え。何の商売?」
「易者だよ」
「はーて、こいつは
「梅花堂流」
「ふム、梅花堂流」
「馬春堂」
「ひぇッ。ば、馬春堂だって」
と、雲霧が思わず大声で仰天しますと、うそか、ほんとか、馬春堂と称したものは彼の手をもぎ離して、のろまな動物のように四つンばいに這って逃げだしました。
一寸先は
「雲霧、何をしているんだ」
「おう、新助か。今な、そこでひょいと鼻を合わした人間が馬春堂だっていうので、びっくりして話をきこうと思っているまに、どこかへ這い込んでしまったんだ」
「馬春堂が居たって。……嘘だろう、まさか、いくら易者の身上知らずでも、あいつがこんな所にいるとは考えられない」
「ところが、何も知らずにその寝ている顔をなで廻したんだが、今になって思い合してみると、やっぱりあれの
それから二人が、気永にそこらをなで廻して探しますと、変り果てた――と言ってもその姿は見えませんが、実に意外と言えるその馬春堂が、二人の四、五
思いがけない馬春堂先生をそこに見出したり、暗やみにも眼がなれて来て、新米の雲霧と四ツ目屋にも、生ける墓場の実相なるものが、次第にうすうす分って来ました。
そこはちょうど「山の会堂」の真下であって、この穴蔵と会堂とはどこかに通路の階段があるのだそうです。そして今この地底には、およそ三、四十人の眼なし魚が冬眠状態になっている。
その人間達の
どうしてそういう人達が、こんな所へ墜ちたかというと、その
かりにも、この秘密郷の生活をのぞいた者は、その故意であるとないとにかかわらず、彼等はふたたびその人間を里へ帰すことはしません。しかしまた、それを殺す事もしないで、「山の会堂」の底へ抛りこんで置くには、或る理由があるのでした。
切支丹族の者たちが、もっとも心細く感じていることは、年ごとに自分たち種族の数が、
それは、女の生む数が少ないのと、絶えず世の迫害と闘いつつある結果として、里で捕らわれたり殺されたり、当然な犠牲を多く出すためによりましょう。
で――その補充をしなければならない。彼等は、この穴にほうり込んで、ある期間の冬眠状態を経過させた人間を、やがて「山の会堂」へ呼び出します。
そこには、剣と十字架と、二つのものが用意されてある。そして、どっちでもその一つを選ぶにまかせる。
剣をのぞむ者には死。
十字架をのぞむ者には、洗礼を与える。
そこで反抗をみせた人間はかつてないそうです。十人が十人、洗礼をのぞまないものはありません。
そうして、種族にはいった人間は、もう、どんな事をしても、村に
「じゃあ馬春堂、お前も今に、会堂へ呼ばれて、洗礼をうける日をたのしみに生きているのかい」
雲霧がこう聞きますと、馬春堂先生は、
「うむ……」と、うなずいて、またのろまな動物のように、隅の暗やみへ
「そうすると?」
「おれも。おめえも……か?」
四ツ目屋と雲霧は、眼と眼をさぐり合って、変な顔をしていました。さても変な暗やみがこの宇宙にもあればあるものです。
――が、彼等がそうしている間に、太陽のかがやく世間はどう動いているでしょう。
地球はまるいはずでした。
* * *
きょうは月並の祭日か、日本三大
そこから、谷ひとつ隔てた妙法岳の中腹に、今、足を止めて、満山の
三峰神社の
「にわかな
と、あいさつに出た神官は、尾州の若殿の来臨は、何か祈願のすじであろうと思った様子です。
「いや、不意にお訪ねいたしたのは、御参詣の為ではなく、この
「ほう……」と神官は意外らしい顔をして、
「では各には、甲州から
「或る
「成程、この奥秩父へ逃げ込んだものとすれば、それは容易にお分かりはありますまい」
「道々、炭焼の者などにも問い
「おやすい御用でございます。しかし、そのおたずねなさる曲者と申しますのは」
「一名は日本左衛門という兇賊、またもう一組は山駕に若い娘を乗せた彼の手下で、四ツ目屋の新助、雲霧の仁三などと申す手輩でござる」
神官はそういう名を聞いただけでも戦慄を禁じ得なかったようです。折から祭日で、山へは里の男女が大勢参詣にのぼって来ているところなので、そんな風聞だけでも穏やかでないという風に、
「では、お疲れをお休めになって、
と、
神官の察しのとおり、万太郎はかなり疲れておりました。何しろここ一ヵ月あまり、悠々と暖かい家屋に体を横たえたことがない。
しかも、日本左衛門の逃げた先は、
何を相談しているのか、神官の返辞はなかなか参りません。万太郎は火鉢を抱えて、思わずウットリと
その間のすることなしに、ふと耳にはいって来たのは神楽殿の古雅な楽のしらべです。さっきは
「おう……たいそうな人だな」
何の気なしに、釘勘と金吾が、そこの
群衆の上には、舞台が見える。舞台の板には舞人や楽人の姿が見えます。――と釘勘はその笛吹きのなかに、一人の奇怪なる男を見つけました。
吹いてる! 吹いてる! 夢心になって吹いている! 鎌倉舞の笛を吹いている!
その男は、道中師の伊兵衛に相違ありません。伊兵衛は例の阿佐ヶ谷組の
「ほ……伊兵衛が居る」
「なるほど、道中師の伊兵衛ですね。あの野郎、妙な所で笛を吹いていやがるが、何しにこんな所へ舞い込んで来たのだろうか」
釘勘と金吾の二人は、腕をこまねいて社家の窓から彼の挙動を注視しておりましたが、神楽堂の上の伊兵衛自身は、笛に熱しきッていて、今は、笛以外何ものも知らない顔つきでした。
「うむ、そうだ」
不意に釘勘が席を立ったので、金吾は彼の身ごなしに、早くも察したものがあって、
「止せ止せ、釘勘。あんな者をこの場合に、召捕ったとて始まるまい」
「目にとまらなければそれまでの事、べつに気にもなりませんが、大勢の頭の上で、しゃあしゃあと笛を吹いているのを見ると、どうも目明しの職分として虫が納まりません」
「それゆえ、伊兵衛を召捕って来ようというのか」
「ひとつ、不意をついて、お手当を食らわせてまいります」
「つまらん話だ。止せ止せ、この金吾も彼のためには、一時難儀をこうむったが、
「どうして、どうして、この釘勘の役儀から言えば、姿を見たのが百年目というやつで、決して、見のがせない
「その筆法で往来を歩くと、見る者、
「どうも相良様、今日はひどく目明しをこきおろしますなあ」
「万太郎様を初め、おれ達二人は、日本左衛門とお蝶の落ちた先をつきとめるほか、しばらくは決して何へもわき目を触れてはならぬ場合だ」
「じゃ、伊兵衛のやつは、今日のところは見のがしてやるとしますが、何と
「しかし、自分にはよく分らんが、盗賊の隠し芸にしては、上手なものではないか」
「そのはずでございます、あいつは元、阿佐ヶ谷
「ウーム、それで甲府から、この地方に逃げ込み、昔の
「何しろ、抜け目のない野郎でございますよ。……したが、あいつと絶えずつるんで歩いていた馬春堂の姿が見えないのはどうしたものでしょう……」などと釘勘は、その手出しを思い
「あっ――
と釘勘が、思わず声を発した時です、――
たしかに
はっとした
彼は、伊兵衛が笛を持ったまま仰向けに仆れた、神楽堂の上の騒ぎよりも、その堂の下に人浪を押している群衆に目をつけて、小柄を投げた人間をじいっと物色しておるらしい眼ざしです。
しかし、不意の事件におどろいた群衆の動揺は、ただ口々に何か騒いで、かんじんな自分たちの中に潜んでいる
と――その見物のなかに、ただひとり挙動のちがう人間が見出されました。それは、編笠に顔をかくした浪人体の男です。そしてその男が、神楽堂の騒ぎや周囲の
「やっ? ――似ている」
と、釘勘がそれに身のびをして、金吾の袖を引いた時、折
「おかまいも申さず、長時お待たせいたしまして、まことに失礼仕りました」
と、それへ出て、いんぎんに改まりましたので、二人は、不作法に窓を開けて覗き見をしている訳にもゆかず、外へ心を残してそこを閉めきりました。
で、坐り直ると、
「いや、自分達こそ、祭典の忙しいところを、突然邪魔をして気の毒に思う。……して、先程頼んだ山案内の者は見つかったであろうか」
「お話を
「なに……切支丹村?」
例の万太郎の
「この奥秩父に、そういう村があるのじゃな」
「あるといううわさは誰でもしておりますが、まだそこへ足を踏み入れた者はございませぬので」
「この地方の者が知らぬ程な奥と申すと、よほど
「山の嶮しさより、その辺へ迷い込んで、一人として帰った者がないのでございます。――で山案内の申しますには、ほかの所なら、たとえ
「では、案内に立つ男がないと言うのか」
と、万太郎の声が少し
さるにても金吾の意中では、今の表の騒動に、釘勘が、「似ている――」と叫んだのは、誰に似ているのかと気になって、一刻も早く、このまどろい神官との対座をのがれたいものだと、腰を浮かしておりました。
もらいうけた一枚の山絵図をふところに納めて、万太郎主従と釘勘は、ひきとめる神官に別れて、外へ出る。
「釘勘――」と、金吾はすぐに、「只今そちがあの窓で、似ていると申したのは、一体誰をさしたのじゃ」
「私の気のせいかも知れませんが、ちらと、人浪をくぐって逃げた
「えっ、奴がおッたと?」
金吾の眼ざしがすぐ何ものかへ
「と申したところで、今言ったように、ほんの瞬間は、似ているなと見ただけで、まだ確かにそうとは分りませんが」
「ともあれ、その姿はどう向いて行ったか?」と万太郎のひとみも、参詣の群衆を物色しつつ、釘勘のあとに
その辺の森に添うて、
――試みに、今もらいうけて来た山絵図をひらいて見ますと、そこは裏秩父の山の背を越えて、武蔵の
「はて、どうしたものか?」
と万太郎は迷わざるを得ない面もちです。
「彼を追って行くとすると、天童谷の切支丹村の方角とはだいぶ道が違うのじゃ」
「しかし若様、その切支丹村とやらには、参ってみた上でなければ、お蝶の手懸りがあるかないかも、疑問な土地でございましょうが」
「うム、それは疑問であるが、何となく予感がする――お蝶のことが分らねば、夜光の短刀の
「と言って、釘勘のみとめた者が、日本左衛門であるとすれば、みすみすそれを見遁すのも残念千万」
「では、ともあれ
「そうなすッて下さいまし、あいつさえ片づければ、あっしも肩の荷が下りますので、あとは若様の為に、夜光の短刀でも何でも一
「おお、それでは、急ごう」
「と仰っしゃって、今からそう意気込むと、山道はすぐ疲れてしまいます。どうせ横道のない間道のことですから、方角さえつけば、息を切って駆けだす必要はございませんよ」と、釘勘は山馴れているので、足ごしらえを直し、万太郎主従もそれにならって、妙法の
その日の夕刻はゆるゆると、
それとなく訊ねてみると、一人旅の浪人風の男は、たしかに、自分達より一刻半ばかり前にこの山村を過ぎている。しかし、それから、山伏峠か正丸越えの追分はやがて一里弱にすぎない所で、それから先は、どうしても夜旅にはあるけない所だということも確かめましたから、釘勘は、双者の距離を胸算にとって、すっかり、安心しているふうです。
朝を待って、僧房の
山に入るほど、山の深さと秋の深さが身にせまります。すばらしい
「オオ」
と、釘勘が叫んだのは、ちょうど山伏峠の上に立った時で、
「見えましたぜ、先の影が」
「えっ、追いついたか」
と、万太郎主従が、彼の指さす先に目を
その時その姿は、
「それッ、急げ」
というが早いか、金吾も万太郎も一散に峠の下りを駆け出していました。
しかし、
沢の渓流に沿って、最前、日本左衛門を見たあたりに来て見た時には、もうその影は行手の山蔭にかくれて先に見当りません。
「万太郎様、万太郎様。あまり急いでおいでになると、先へ行って息がつづかなくなりますぜ」と、釘勘はしきりに落着こうとしますけれど、
「いや、もう一息急げば追いつくに違いない。金吾つづけ」と彼の足どりは、容易に平調に返ろうとはしない。
ぜひなく、釘勘も大股になる。
山伏峠の
「あっ……」
そこを望む所に立って見下ろした時、三人は一様に呆れました。自分達はかなりな速度で急いで来たと思ったのに、今見ると、日本左衛門との距離は、最前から少しも短縮されておりません。
では気がついて、先でも
「おゥ――い、日本左衛門」
たまらないで、金吾は遂に手をあげて、先へ向って叫びました。
彼とは、星影の
「お――い。おおゥ……いィ」
呼んでは走り、呼んではまた駆け出してゆく。
けれど、絶えず高原をさわがす風にさまたげられて、その声は、まだなかなか先方の耳には届かない様子であります。
すると、不意に三人の行く前へ、四、五人の小娘の――いずれも山家者らしい者たちが、
一本ずつの銀のかんざしです。
――東、双子山ヲ経テ
駆けながら見て通った岐れ道の道しるべには、どうやらこう記してあったように読まれましたが……今は何を
「お――いィ」
と、金吾は声をからして手をあげているし、釘勘も今は口もきかずに、彼に添って疾風を衝いて急いでいる。
――と声が届いたか、先にゆく編笠の影がやがて高原の真っただ中に、笠のつばを抑えてクルリとこっちへ振り向きました。
空には
と言って、あの
われと吾が指先から弾き出る琴の音にうっとりとして、月江の横顔はいと
と、不意に、それもやめて、
「ねえ、おりんや」
「はい」
「次郎はもう江戸表へ着いて、今頃はあの
「あの子のことですから、抜け目なくお役目を仕終わせて来るに違いございませぬ。そして、御用がすんだらその帰りに、
「まあ、そんな事を言っていたかえ」
「ええその方が楽しみで出かけたのでございますもの。それに御隠家様からも、ゆっくりお暇を頂戴してゆきましたから、羽ネをのばして見て歩いていることでございましょう」
「そんなくらいなら、私も次郎について行けばよかった」
「でも、お嬢様を出すことは、もう御隠家様が、
「また来年の春になったら、熱海の海辺へ行って、駆け出してみたい」
「あの
「りんや……」と月江は琴のそばを離れて、
「お前もまだ、あの方のことを覚えておいでかえ」
「ええ、折にふれて、思い出すのでございますよ。御病気はなおったかしら? あの御一緒の部屋にいた、美しい伝法な
「ああ、あの下町風な……」と月江は憂鬱になって、暫く
「お嬢様とは、顔を見合わせても、口もきかないような
「あの女は、いったい金吾様の何なのだろうね、
「夫婦にしては似合いませぬし、まったく妙な道づれでしたが、あの騒ぎが起った最後の晩には、とうとう、金吾様は女を捨てて姿をかくす、また女は、夜ッぴて金吾様を追って海辺を叫んで歩いておりました」
話のうちに、
ちょうど、そうした話の切れた時です、奥まった庭の深い暗に、竹でも裂けるような物音がひびいて、一瞬の
「おやっ?」
と、つい十日程前の奇禍におびえている魂が、新しい身ぶるいを起して、おりんのひとみを
「誰か来てください!」
と、叫ぼうとした時、内玄関にある訪鐘が、誰かこの
この
で、そこに訪鐘がありながら、
「お頼み申す。おたのみ申す」
と、来訪者の声が幾たびか、繰返されているようなので、最初は、耳を疑っていたおりんも月江も、
「おや、この夜中に、誰かお客様のようだが」
「侍たちを起しましょうか」
「とにかく、ちょッと出て行ってごらんよ」
「はい」と、おりんは今しがたの庭の物音に、まだ幾分か胸の鼓動を感じながら、手燭をともして玄関前の杉戸をひらきました。
そこの式台へ明りの影がさすと、訪れた人々は、会釈をもって待ちながら、
「夜分、御静居をおさわがせ申して、まことにぶしつけではござるが……」と、
「どちら様でいらっしゃいましょうか」
と、おりんも、手燭と共に、しとやかに式台へ指先をつかえます。
「秩父より越えてまいった旅の者でござるが、土地不案内な上に、御近辺には宿屋も見当らず、当惑して一宿の御無心に参ったのでござりますが……」
「まあ、それは
と、おりんが灯影を顔にゆらめかせて立ちかけると、そこに立った三人のうちで、応対していた前の武士が、
「や? ……あなたは」と、
「オウ」と、おりんも美しい目を丸々と見張って、
「あなた様は、この春先の頃、
「いかにも、その時の金吾ですが、これはまた何という奇遇でござろう……」
「まあ、夢ではございますまいか、今も今とて、お嬢様とその頃の、うわさをしていたところでございますのに」
「すると、おたずね申すまでもなくこちらは
「これはいよいよ御珍客ばかりのおそろい、さ、どうぞそれへ、只今すぐに月江様にこの事を申し伝えてまいります」
おりんは手燭をそこへ残して、まろぶが如く奥の方へ駆け込んでゆきました。
かの高原で振返った日本左衛門が、あれから
ところへ、月江がにこやかな顔を見せる。
小仏で難を救われた娘の恩人である釘勘や、また、尾州の若殿の来訪と聞いて、千蛾老人も衣服をあらためて出迎えに出る。
いつか、式台には、幾ツもの明りや、幾人もの郷士たちが座列を作って、さすがに豪族の
人知れず、月江の胸に思い出として棲んでいた相良金吾が、前に変ったりりしい姿をして、わが
意外な客と貴公子を迎えて、冷寂としていた
さて、酒の
「折入って、万太郎様に申し上げたいことがござるが、暫時、別室までお越しを願えましょうかの」
と、気がねをしながら、千蛾老人が金吾へまで申し出る。
それくらいな事なら、至って気軽な若殿です。金吾の取次も待たず、即座に席を立って、彼の案内について別の間にうつります。
人の来る前に、すでに、
「話とは?」
万太郎は正座の敷物を少し片寄せて、微酔のからだを竹の床柱にもたせかける。
「夜光の短刀のことにつきまして……」と老人の
「お。その儀は、自分からも問いたいと思うていたところじゃ。当家と、あの短刀の持主ピオと申す異国の貴人とは、深い縁があったそうな」
「さればでございます、浅からぬ奇縁があって、当家歴代の者も、夜光刀の捜索には、心をくだいておりますが」
「実は、自分もそれを手に入れようとしているのだが」と、万太郎がすばやく
が、千蛾は軽く、その語の切ッ先を避けて、
「まず、お聞き下さいませ」
「ウム、短刀の詮議は止めよとあるか!」
「何で左様な自由をこの老人が持ちましょうか」
「いかなる危害が身にかかるとも、余は夜光刀の捜索を思い止まらぬ覚悟じゃ」
「千蛾も共に、御成功をお祈り申しあげまする」と、
「では、そちには、野心がないのか。われらよりは、必ず多くの手懸りもあろう其方が、思い
「御意のとおり、家の宝としても
「わしに譲る? ……」と、彼いよいよ不審そうに千蛾の顔を見つめて――「と申しても
「いやいやそうでもござりませぬ。
「ふーム、では、万太郎の如き、
「おそれながら、今のままでは、御失望が目に見えております。しかし、お案じ遊ばすな、及ばずながら、千蛾ができうる限りの、御助力をいたしましょう程に」
「ほ。そちがわしを助けて、夜光の短刀を身のものにして見せるというのか」
「ついては、千蛾が折入って、お願い申す一儀がござります。あえて、御尊体を別室までお運び願いました次第、なんと、お聞き届けを願われましょうか」
そういうと、千蛾はさらに畳をすべって、
ことに、夜光の短刀の望みさえすてて、それにも代えようという頼みは何でありましょうか?
昼のようだった
その頃、例の奥まった所にある石神の拝殿に腰かけていた一つの人影が、名月や池をめぐりて夜もすがら――そんなふうに、ふところ手をして、秋草の間をあるいていたかと思うと、いつか、千蛾の部屋の窓明りをぬすんで、その雨落ちの下に、
――がしかし、その一室をうかがっていた者は、ひとり、窓の外の盲蜘蛛の如き人影ばかりではありません。
廊下口の杉戸の外にも、
それは、酒席を抜けて来た金吾でありました。金吾なれば、彼の行為にうしろ暗いところはない。彼が、大切な若殿の身を護衛するために、かく、側ぢかく侍しての根気は、まことに当然な
部屋のうちでは、いよいよひそかな二人の対坐です。――暫くすると万太郎らしい声で、
「なんの願いかは知らぬが、それ程の誓いをたて、きっと違背をせぬというならば、そちの頼みを聞いてやってもよいが……」と言う。
「ははっ」と、千蛾はおののくような感激をあらわして、
「お快く御承諾、かたじけない儀に存じまする。この上は、千蛾が骨身をけずりましても、必ず、夜光の短刀をお手に入れて、若殿の思召しに
「それはうれしいが、しかし、老人。いったいそちの願いとは何ごとじゃ」
「ふつつかな、ひとりの娘の事にござります」
「あの月江とよぶ女子か。して、それがどうしたのじゃ」
「かなしや、恋に陥ちておるのでござります」
「かなしむことはあるまい。恋をする年ごろの女、なんで不思議があろうか」
「それ故に、
老人の声がほろりと哀れをふくみました。頬の落ちたところに燭の影が濃く、涙をこらえる顔のすじが、びくりとうごいて見られます。
――声をのんで、また平調に、
「で、当家の世つぎに選ぶ
「分った」
と、万太郎は同情のあるうなずきを与えて、
「そこで、恋の相手は、誰か」
「御家来、相良金吾様を、熱海の入湯中に恋したようにございまする」
「金吾?」
その声が、おそらく大きく聞こえたので、杉戸の外に
――すると、折もわるく、
「おいで遊ばすのは、相良様ではございませんか」
と、暗がりをすかして、おりんがそこへ近寄って来たようです。
しッ……と目顔で制したい程でしたが、おりんは何も知らないので、
「若様の御用のないおひまに、ちょっとこちらへおいで下さいませ。いいえ、あちらのおひとかたは、郷士達と、まだ賑やかにお話しでございます。……あのちょっとでよろしゅうございます程に、お顔を……。ホホホホ、お嬢様が、しきりと、お待ちかねでございますのよ。……あれ、なぜでございますか、お嬢様、お嬢様、金吾様は逃げておしまいなさいます」
おりんのうしろには、月江のすがたが、おぼろげに見えていました。金吾は、決して逃げるというような気持ではありませんでしたが、とにかく、そこにいるには耐えないで、有り合う庭下駄をはいて外へ出てしまったのです。
ばッさりと、床下の暗をふさいでいるやつでの葉蔭から、その足もとを見ていた二つの目は、金吾にもつれて行った
しゅくしゅくと千蛾老人がうれし泣きにすする声が、やつでの窓にまでもれてから、暫くして後――
「心配いたさぬがよい。必ず金吾を説いて、当家の月江と添わせてやるであろう程に」
万太郎が、誓言をくり返していますと、老人はいくたびか彼の姿を拝して、やがて、次に聞こえたのは、ガチリと、刀
あとで、違約のないように、早速にも、何か自分へ誠意を示そうというのらしい。――万太郎はそう思いながら、千蛾の手元を黙然とながめていました。
えび
そして最後に、空ひきだしをスッと抜いて、底に敷いてある、花模様を浮かした
取り出したのは、尺二、三寸の虫
取り出した刀を、また一腰一腰、元のとおりに納めて、千蛾は
目がさめたように、明りがさえます。それを二人の間に引きよせると、樟板の図面をそこにおいて、
「さて、万太郎様。これこそ、当家の代々の者が、筆に筆を加えた、夜光の短刀の捜索図でございます、――おそらく、あの短刀をたずねる者は、皆、さまざまな空想をたどって、そのありかの空想図を作っておるに相違ございません。しかし、当家のものこそ、三代四代と世をついで、ようやくこれまでの完成しかけた、間違いのないもの、まず、よく御覧下さいませ」
そういって、図の正面を、万太郎の方へ向け直しました。
老人はまた問わず語りに――
「拝島の
「老人老人……」と万太郎はもう千蛾の話などはうわの空で――
「これはどうやら御本丸を中心とした江戸絵図らしく思われるが」
「左様、まず町絵図にそっくりでございます。しかし、そのなかで、所々に
「おお、あるな、朱点、黒星、そのほかさまざまじゃ」
「朱は、当家の前代が、ピオの日誌を手がかりとして、掘返してみた跡でござります。また黒点は、ピオの足跡、また、+の印は謎の土地、そうした諸方、
「えっ、そこまでの事が分明いたしておるのか」
「ところが」
と、千蛾は首を横に振って、
「やんぬるかな。それもやはり、諦めものでございました」
「なぜじゃ。それまでの苦心が現在むくわれておりながら」
「実は手前も、ピオの最期の地と分っている場所を、生涯に一度はあばいてみたいと願っておりましたが、それは、所詮及びもない大望に過ぎませぬ。
千蛾老人の説いてくるところは、決して怪力乱神ではないように聞かれます。
――千蛾老人などには寄りつけない所であるが、万太郎ならば
ピオの秘密と彼の最期の歴史が
「ウーム……」と万太郎は腕ぐみをしたまま、
「だが老人……今日まで自分が探ったところによると、ピオの最期の地は武蔵野のうちであって、この絵図面にしるしある場所とは、だいぶ違っておるように心得るが」
「それが、誰しも考え違えをし易いところで、武蔵野とは申しますが、今の江戸市中も、慶長の昔には、武蔵野の一部であったに相違ございませぬ」
「ふム、成程な」
「よくよくその絵図面を見ているうちには、老人が説明するまでもなく、自然と、何かが胸に解けてまいります筈で」
「して、この三つの、流れのような線は何か?」
「間道のしるしでございます」
「ほ。間道」
「江戸の三孔と申しまして、
「その三孔とやらも、そちの先代が調べだしたものであるな」
「いえ、それを疾くから調べていたのは、兵学家の
「また、この三孔の線が結び合っている所に、嵐山という地名が書いてあるが、江戸の市街に嵐山などという所はない。何かの間違いであろう」
「いえ、間違いではございませぬ。たしかに、その三孔の中心が嵐山なのでございます」
「はてな。京都ならば聞いておるが、江戸の嵐山とは何処であろうか」
「若殿などは、お歩きになった事もある筈でござりますが」
「いや、江戸の嵐山などとは、見たこともない」
「何せよ、この図面だけでは、難解な
「オオ、そうしてもらえば、何よりである」
「で、何とぞ、千蛾の
「その儀は、今も言ったとおり、決して心配いたさぬがよい」
「では、夜も更けます故、どうぞあちらの
万太郎が元の席へ帰って来た時に、ちょうど、金吾も庭先からそこへ来合しておりましたが、何か、いつもの落着きを乱されている様子が彼に見えました。
で、万太郎は最前の廊下のささやきを思いうかべて、
「金吾も月江に恋をしているのであろう。月江も金吾を恋している。さすれば、千蛾のたのみをかなえてやる事は、なんでもない事だ」
ひとりのみ込みに合点して、案内された一室の夜具に身をいれると、夢はもう夜光の短刀を手にいれた気で
金吾は、その次の間へ。
釘勘はその縁向うの部屋へ。
そして狛家の郷士たちも、それぞれ
ひとり、やつでの窓に灯をかかげて、樟板の秘図に注釈の筆をコツコツといれていたのは千蛾老人で、シーンと
「お泣きなさいますな、お嬢様。あなたがお泣き遊ばすと、おりんも共に悲しくなってまいります」
千蛾老人が夜を徹している一室のほかは、どこの棟も、すべて寝しずまったであろうと思われましたに、
「りんや、ほっておいて下さい。私はなんだか、こうして夜明けまで泣いていたい」
庭のあずま
「滅相もないことをおっしゃいます。この冷えびえする
と言いかけて、あわてて口をつぐみ、
「おからだの為にようございませぬ。さ、お
うかつに出たことばを言い直しながら、月江の手を取って、無理にそこを引き立てました。
「だって、りんや、おまえ私の気もちを知っておいでだろう」
力なくおりんの手にもたれて、月江はまだ泣きたらないように、ほろほろと、歩みと共にに泣いている。
「分っております。……ですから、おりんが今に、きっとあの金吾様に」
「だめよ」
月江は、駄々に身を振って、
「おまえがお呼びして来ても、さっきのように、あんなに素気なくして、奥へ馳けこんでおしまいなされたじゃないか」
「でも、それは若殿の御用があるお体ゆえ、仕かたがないではございませぬか。……またよい折を見て、このおりんから必ずお話いたしましょうから、そんなに取越し苦労をして、お泣き遊ばすものではございませぬ」
しかし、月江は泣きたいのでした。泣く理由があると否とにかかかわらず、ただばくとした恋というものに、あるだけの涙をそそいで泣きたい。
はたから悲歎にみえるその涙は、彼女に、甘い味がする。
(これが、遺伝とやらいう、わるい御病気のきざしでなければよいが)とは、ひそかにおりんが一番
「おやすみ遊ばせ。くよくよとお思いなさらずに」
――とにかく寝せつけて、
「おりんも、休ませていただきまする」
と、彼女が月江の部屋をそッとさがってきたのは、庭から影をひそめて、なお、半刻も
屋の
そよそよと、通りぬける風があるので、おりんは一度自分の寝間へはいってから、
「あ、雨戸を」
と、気がつきました。無理に月江を引き入れた時に、閉め忘れた庭向きの一枚です。
折角、寝巻に着かえたのを、また着なおすのもおっくうな気がして、昼ならば、眼を射るであろう
「まあ、降るような――」
銀河を眺めて呟やきながら、ぶるッと、身ぶるいをして、そこを閉めかけましたが、どうしたのか、うごきもしない。
「おやっ?」
と見ると、動かない筈です、自分が手をかけた少し下に、五本の指が戸に掛って押えているのです。――自分の指は自分の指、それはいくらながめても、自分以外な者の指です。
ぎょッとして、おりんは、雨戸にかけた手を引っこめようとしましたが、蛇のように、するすると雨戸の
「あっ……」
と、身をねじ曲げたのは、何か、黒い見上げるような影が、さっと、廊下におどり上がったので、人を呼ぼうとしたのですが、もう一方の薄べったい
「しッ。……驚くことはない」
耳のそばで、こう低く言ったのは男の声です。しかも、どこかで覚えのあるような声がらなのです。
相手が、
と。
「おい」
気がついてみると、自分は決して、相手の力に束縛されているのではない。身を締めているのは、胸に結んでいる自分の腕で、今見た人影は、戸を閉めて、もうろうと廊下の中に立っています。
「おりん、なんでそんなに驚くのだ。……忘れたのか、おれの姿を。この声を」
「あっ、あなたは」
彼女が、よろめく背を、あやうく柱にささえて踏みとまると、目の前のもうろうとした影も、ゆらりと迫って、
「命の親を忘れるやつがあるものか。しかも、自分の肌までゆるした男を……」
白い歯が見える。
声をぬすんで笑ったらしい。
おりんは、総毛だつおののきをこらえるのに全力で、とても、救いを呼ぶ気力もなく、そこを逃げ去る足もすくんでいました。
と――相手はさらに寄って来て、
「どうだな、あれ以来、からだの工合は」
と、やさしい声でいう。
「もしッ……」
おりんは口惜しさに、やっと、反抗的に出ない声をわななかせて、
「な、なにをおっしゃるんです、あなたは」
「何を言うって」
「ええ。なにを言ってるんですか。だまって聞いていれば、私が不義でもしたような……」
「したじゃあないか。ふふふふ」
相手の語尾が、ゆがんだ笑いにかすれたので、おりんは、あの事だけに、かっと熱い血が頬へのぼって、怖ろしいことすら忘れかけました。
「じょうだんを言うのも、よい程にしてください。なるほど、拝島の
――相手は黙って聞き入って、すぐに澄んだ返辞をしてきます。
「知らない?」
「し……知りません」
「その知らないのが証拠だとも言えるが、じゃ話してやろう。あの誰も居ない空屋敷の奥の
静かで
そうしておりんは、
嘘だ、嘘だ、と心で強く否定していながら、おりんはこの間うちからの肉体の変化を、おののきの奥に、思い出さずにはいられません。
「そして、あの翌日だが」――と相手はなお身ぶるいの出るような
「おれは
「もう……そんな口から出まかせは、言わないでください。けがらわしい」
「というて――見た夢を、おまえは何で
「知りません、そんなこと!」
涙も出ない口惜しさにちがいありません。けれど、彼に向ってそう激しくいい返したことばも、忌わしい疑いにくるまれて真っ黒なものを胸に抱いてしまった彼女には、なんとしても、泣くに泣けない、弱々しい反抗であるのをどうしようもないのです。
「まあ、その話は、打ちきるとしよう。おれの恋はほかにある。あの空屋敷の
「……そ、そしてあなたは一体、だれなんです?」
「おれか。――おれは日本左衛門というものだ」
「…………」
おりんの顔色は紙のように白くなって、そのまま柱の下へよろめきそうになりますのを、日本左衛門の手がやんわりと支えて、
「驚いたのか」
と、耳へ口をつけました。
「なにも驚くことはねえ、ただ少し頼みたいことがあって、さっきからここに
「…………」
「いやか」
……ぱたッと、何か物音がそこで聞こえたかと思うと、それっきりです。
それから暫くして、ズズズズと廊下を向うへ
何しろ古い様式の建物で、中の
まして、千蛾老人の部屋は、一番奥まった北の屋の一室で、そこへゆくには、ひとつの橋廊下と、二ヵ所の厳重な杉戸がある。
約束のとおり老人は、窓もふすまも閉めきって、
――と、
「誰じゃ」
激しくいったが、答えがない。
「誰じゃ、そこを開けたのは」
立って、ふすまの外をあらためようとした時です。自分のうしろにさした人影に、ヒョイと
「
と、のどを破ッていった短いことばも、語尾は血煙の中にかすれて、皆まで聞こえなかった程です。
床をうしろに立っている日本左衛門、その手は柄を握って待っていました。かッといったかと思うと、振り向いた老人の肩先へ、抜き打ちに落ちて行った冷刃! 彼の手に馴れた
ふすまへ走ッた血潮の細粒が、
「ううムッ――月江ッ……月江……」と二声ほど、悲痛なうめきをもらすなり畳に爪の音を立てて、
老年であり、日本左衛門の腕ではあり、ただの一刀でも、たまろうはずはありません。ビクと、最期のけいれんを両の拳にふるわしたかと見ると、もう横顔はサッと死色に変って、まったく絶息した様子です。
血
そして――
長廊下をさぐり長廊下を忍んで、最前の戸口から外へ出ようというつもりであるらしい。
ところが、折
「はてな? ……」というような様子で、彼の居る方へ足を早めて来ました。
途端に――日本左衛門の影は
「
と、一
「なに、曲者?」
同時に、彼の起きて出た隣の部屋で、こういったのは万太郎です。――遠ざかる廊下の足音を耳にするが早いか、同じく、おッとり刀という構えで、
「金吾ッ、何ごとじゃ」と色をなして駆けつけて来ました。
「おお、若殿。お目ざめでございましたか」
こういいつつも、なお八方へ眼をうごかしている金吾の様子に、
「曲者はいかがいたした?」
「見失ったようにございますが、まだ屋外へ逃げ出した様子は見えませぬ」
「家族たちを起こしたらどうじゃ、
「気がかりなのは、千蛾殿のいる、北の
「千蛾の部屋に妙な音が聞こえたと。それは気がかりだ。万一、あの……」といいかけたまま、万太郎は思い当った不安に駆られて、一散に彼のいる北の屋へ走り出しました。そして、そこの橋廊下を渡って、境の
「あっ、
さては、と金吾も胸のとどろきを覚えました。しかし、万太郎についてそこの異変を
「金吾! ……金吾」
と奥ではしきりと万太郎の呼ぶ声がして来ますが、彼は、そう考えて、断じてそこをうごかずにいます。
そして――なおも油断のない目で、中廊下の曲り角から、そこの天井をズウと見上げていますと、覆面をしたひとりの男が、片手を
そのすばやい
それこそ、自分たちが、秩父の
無論、それと気がついて
「拙者は相良金吾だ。うしろを見せては約束がちがうであろう」
耳も破れよと怒鳴りました。
日本左衛門はあわてもしないで、肩から胸元へ廻している金吾の腕に自分の手をかろく重ねて、
「今夜はすこし都合が悪い。またそのうちに会おうじゃねえか」
ジロリとうしろへ瞳を流してあいさつしました。――がしかし、金吾はこう組止めた大きな仇敵をどうしてめったに離すことではありません。
「だまれ。小仏の谷間でなんと言った、この
「いや、卑怯ではない。おれは今自分の渡世を働いているところだ。稼業のなかでそんな道草を食ッちゃいられねえ。おれに会いたくば、
という言下に、肩を落として、組みついている金吾を前に振り捨てようとしましたが、金吾もウムと踏みこらえて、
受身になった日本左衛門と組みついた金吾と、ふたつの体が一つによじれ合って、どんと壁の腰にぶつかるなり大きな震動をたてましたが、その途端に、日本左衛門のかかえていた
しかし、金吾はそれをどれ程大切な物ともまだ知っていないので――また知っていてもそれを拾い取っているような余裕は無論なかったので、ただ、彼の
でんと、そこへ同体になって仆れたせつなでした。変を知って飛び起きた釘勘、その他、
吠えるように耳をうった日本左衛門の一息が、足
血眼になった金吾と釘勘が、すぐそのあとへ駈け込んでみると、もう次の間のふすまが開いている、そこへ入るとまた次の部屋へ、次の室へはいるとまたその先に、十方の通路は彼の行くままに口を開いていて、人数ばかりいたずらにふえても、彼の姿はふたたびそこらの
「
「曲者をのがすな。庭先へ出合え、庭先へ出合え」
そんな騒ぎが八方を駆けずり廻る間に、まだほんとに眠りついていなかった月江は、おそろしい胸騒ぎを抑えて
そして、真っ先に、おりんの寝間へ駈けこんで行ってみると、おりんは
暴風的な驚きのなかに、千蛾老人の横死が人々の口に叫ばれ出すと、その乱迷な廊下を狂わしい勢いで、北の屋へと駈けこんで行った月江とおりんの姿が見えました。
とたんに、声を惜しまずにわッと泣きふしたような、若い女の哀声がその一室から洩れて来る。
表の方ではさらに激しい騒音と喚きがなおも度を加えておりましたが、
いつか、夜は
暴風のあとの家には重苦しい哀寂が満ちて、密閉された千蛾老人の部屋から絶えなく洩れるすすり泣きに、家の子の郷士たちも胸をつかれて、皆その板縁の外にうずくまるなり暗愁な涙をのんでひれ伏しました。
とにかく、この際善後の処置を執らなければならない立場の者は万太郎でした。深い因縁というものか、ゆうべ千蛾が万太郎に
曲者は日本左衛門と明らかに分っている。その目的も
それを話すには順序として、ぜひとも月江の恋に及ばなければなりません。一族悲しみ傷んでいる席で、それを語るのは、誰よりも嘆きの深い月江をして、いっそう悲痛な思いを加えさせるものではあるまいか。
機会がある。それを語るには語る機会があるであろう。
万太郎はかく思案をして、取りあえず月江に代って一同へ
――と或る日のことです。
程離れた山腹の
その日、月江や万太郎を初め、すべての人々は寺へ行って、留守となった狛家の屋敷には、わずかな召使いだけがさびしい塵を掃いているのみでしたが、そのうちに、いつも台所の隅に、黙々と働いている唖の
唖の男が手に抱えて行ったのは、あの騒動のあった翌日、彼がふと廊下の一隅で拾い取った
察するところ、この
前に見えるのは、
するとまた、その山ふところの霧の中から吹いて出されたような一人の男が、
ところが、そこへ来た
「もし、もし。
と、腰をかがめて訊ねましたものの、相手に一向感応がなく、ぽかんとして、無表情に、いつまでそういう自分を見つめているのに間拍子を失って、
「ヘヘヘヘ……」と意味もなく笑って見せました。そしてまた改めて、
「
と、
この
「え、もし。これから人里へ出るにゃどう行ったが一番近いでしょうね。お前さんは何処から来てこれから何処へ行くつもりだえ? エエおい、不愛嬌な男じゃねえか、なんとか返辞をしたっていいだろう。……おやおやこいつは情けない、たまたま人間に出会ったと思ったら、さてはおめえは唖だとみえる。こいつが役に立たねえだろう、こいつが」
自分の口を指さして言うと、偽唖の男は、初めて一つうなずいて見せましたが、九兵衛がからからと打笑うのを、おかしくもなさそうに睨んで、すたすたと先へ行ってしまう。
そこで九兵衛もしかたがなく、彼と別れて、あてのない道を急ぎ出して行く。
するとやがて何処かで遠い鐘の音が聞こえて来たので、
「こいつは脈がある」
と九兵衛の足は急に勇気づいて来ました、そして例の疲れを知らない足どりで、
ふと見ると、今しも彼が登りきって行った峡谷の上に、赤松の植林された
最前の鐘の音と思い合せて、これは誰かの野辺送りか、忌日の供養に詣でた人々であろうと、久しぶりに世間らしいものを眺めた九兵衛が、もの珍しそうに見ていますと、ひとりの侍女に助けられつつ一番先に降りて来たのは、
手に手に、
さて、九兵衛が驚いたのは、その供養の列の一番最後に、山門を出て来た徳川万太郎と釘勘と、そして金吾の姿を見たことであります。
金吾も目ざとく九兵衛を見つけて、意外な顔をしながら万太郎に何やらささやいていました。――しかし、この路傍では
で、九兵衛も神妙にそこでは声をかけずに、列の一番おしまいにのそのそと歩き出して、遠く白壁の土塀が見える
さて、一方の偽唖の男が、天童谷の切支丹村へ
「山の会堂」の司祭者たるヨハンの姿が
ヨハンの姿をかくしたのは、何か、
外部に裏切者がいたのかも知れません。――でなければ、あの生ける墓場の穴蔵へ外の消息がわかるはずもなし、また、そんな
とにかく、村の者が、お蝶の逃げたことに騒ぎ合っている頃に、誰か、山の会堂から地底へ通じる隠し口を
まるで、
猛然と、死から生へおどり帰った人間と、兇猛な切支丹族たちとの争闘は、そこに
――雲霧の仁三、四ツ目屋の新助、そのほか二人の百姓ていの男と、もう一人は、これも同じ地底に永らく陽の目を見ずにいた馬春堂先生。
彼等はいち早く、死地を逃げ出して来ました。――逃げて来る前に、「山の会堂」の祭壇にあった燈明でも仆して来たのか、
――
「ここは陽の照っている世間の一部だ。おれの上には太陽がある……」
そう考えただけで先生は、不甲斐なくもそこでまた、生命意識をボウとさせてしまったものとみえます。
――気がついてみると、傍にはもう誰も居ない。
雲霧も、四ツ目屋も、また一緒に逃げて来た二人の墓場の友達も、いつのまにかそこにはおりません。彼は彼ひとりで、ボウとした意識のままで、何処か分らない山の中を歩いている。決して、そこが何処だろうか、この道の行先は何処かなどと、そんな事を考えてもいなければ、知ろうともしないのであります。
先生は、ただそうして、歩いている。
かくて、盆地の底から
いわゆる、火の性質は山火事というものに変って行ったのでしょう。それから
しかし、やがて里よりは一月も早く、そこへサラサラと降って来た雪みぞれに、さしもの火勢も衰えて、秩父あたりで怪し火と騒いだ噂もやみました。
それから
里へ着いた秦野屋九兵衛の話したところによって、釘勘から甲府の柳沢家へ人数のくり出しを頼み、日どりを
早いもので、と言うのは誰もが口癖に出る師走のことばで、その年も暮れると、明くる翌年は
市中の初春気分はいうまでもありませんが、江戸城の正年行事は元朝から始まって、登城の大小名の
「実に何年ぶりでございましょうな」
その厳かな千代田の大玄関に立って、こう珍しげに言ったのは、兄の
「この江戸城の
御三家の登城なので、格式どおり
松の内の登城ですから、無論式服、
同時に、刀も、大広間
三家の
白書院には、
まず、義通から年頭の御慶をのべます。
吉宗は
「尾州殿、それへ持参いたされた品物は何であるな?」と率直にたずね出しました。
義通はその質問の出ることを待ちかまえていたように、
「は。これは、すでにお聞き及びのとおりな仕儀で、上屋敷の秘蔵より盗み出された
「おウ。昨年の
「文照院殿様から拝領いたしました神品で、毎年、二の丸の能お催しの場合は、必ず持って登営いたすことになっていたものを、昨年だけは不慮の禍いのため、遂に不面目ながら差出すことがならず、
「はははは。それで尾州殿の引籠りでござったか。しかし、無事に手に戻ってまいったとあれば目出度いこと。新春早々の吉事、これで病気も本復であろう」
「就いては、春は例の年始御答礼の勅使に御
「お、あれは二月じゃ」
「その折には、ぜひまた御使用の栄もある事と存じますし、
と、畏る畏る顔色を見る。
「鬼女の
吉宗は軽い
まったく拝領品の光栄も、頂戴だけで済むならばよいが、能催しのあるたびに持参して登営しなければならない責任付きの品物などは、義通にとって有難迷惑な光栄に違いはありません。
で、これを
それは、彼の任意と認めておいて、さて吉宗は思い出したように、
「時に尾州家には、万太郎と申す愉快な男があったが、その万太郎は健在であるか」
と話題を変えて問い初めました。
吉宗が大統をうけてから、万太郎はまだ一度も新将軍に
その万太郎が、
また、彼や金吾が高麗村を出る際、共に江戸表に連れて来た月江とおりんは、それより前に、洞白の
「なに彼を同道してまいったというか。なぜ目通りへ連れて来ぬのじゃ」
と、吉宗は聞くと共に、即座に義通をうながしました。
間もなく、召呼ばれた万太郎は、笑みを作って新将軍の前へ出ます。
「やあ、久し振りであるの」
と、吉宗の会釈は、青年らしい当時の調子から少しも変っておりません。
万太郎と吉宗とは、ちょうど同じように三家の
「昨年の春、大手の外濠でお目にかかりましたな」
と万太郎も将軍家とは思いながら、急に元の友人的な調子を改めることができないで言うと、
「そうそう」と、吉宗はそれにふさわしく快活に
「ははははは」と万太郎も思い出して、将軍家の微笑に哄笑を交ぜました。
彼は、川越の城下での事が、吉宗の耳にはいっていたと思うと、何か愉快に思われて来るのでした。あの「おやじ」と呼んでいた秋元家の家老や用人の
「
と、吉宗は笑ったあとでこう
「しかし尾州の七男殿も、いつまでそうしてはいられまい。水戸殿を介して越前家から養子に欲しいという話があるが、どうでござるな」
「養子ですか。ハハハハ」と二の句も聞かずに笑い流して、
「養子の口などはどうか
そばではらはらしていた義通は、いくら元の友人的な気持が失せない弟と吉宗の仲にしても、余りな放言に、座に耐えないで、
若い二人は、話に熱して、そこには一介の放浪児と将軍家の隔てもない様子に話し込む。
「養子はいやか。成程、
「いや、部屋住みの境遇で結構です。そのうちに折を見て、また遠方へ出かけてみたいと思っておりますから」
「
「や、よく御存知で……」
「柳営には、お庭番という密偵の者が居る」
「伊賀者ですな」
「左様、それが時折いろいろな事を
「ははア……」と万太郎は少し
「しかしまだこれから遠方へ行くということは初耳であるが、一体どこへ行くつもりであるな?」
「
「羅馬へ?」
「如何でしょうか」
「よかろう。羅馬はよかろう。いかにも
「そこで、折入ってお願いがあるのですが」
「船の便なら、長崎
「いや、その前に」
「何であるか、申されてみるがよい」
「当江戸城のお庭を拝見させていただきたいのですが」
会話は、軽く進んでいますが、吉宗の腹にも一物、万太郎の胸にも一物、或る反感を隠し合っています。
吉宗は思っています。
「万太郎の胸は
万太郎は観ております。
「吉宗は飾り物に祭り上げられた得意な気持から、おれをみじめな者に見下しているな。それで養子の口があるなどと自分を
前の将軍家が歿した時、紀伊と尾張の間に激しい暗闘があったといううわさが、誰の口からともなく
しかし、表面はどこまでも、竹馬の友である紀伊の
「何の頼みかと思うたら、江戸城の庭を観せてくれとはいと易い望みじゃ、幾日なりと滞在して御覧あるがよろしかろう」
と、吉宗は彼の深慮のあるところを知ってか知らずか、簡単に笑って承認を与えました。
「早速の御許容で」
万太郎はまず先に礼をのべておいてから、
「ではおことばに甘えて、当分、当城の
「いや、隅でなくとも、大奥以外の場所ならば、何処にでも自由に」
「御好意は分りますが、しかし、いくら自由にと言われても、
「そこが気楽なら其処もよかろうし、また
「
「はははは、江戸城の中の貸家さがしは神君御開府以来始めての珍事であろうな」
「家主は新将軍の吉宗公、いずれ新統治の御善政ぶりを
とすぐに万太郎の口から針が出る。
吉宗は鋭敏にその皮肉を感じましたが、彼また決して、すぐ顔色に出すような練れない人間でもありません。
「しかし万殿、仰せのとおり自分はまだ新世帯の持ちたてで多忙な体、滞在は随意じゃがおかまいは出来ないかも知れぬ」
「御念までもないこと、お側衆だの表役人だの申す
「さあ、嵐山とはどこであろうか。江戸城の庭と申しても、紀州や尾張殿の城内とは少し広いので、まだこの吉宗さえ足を踏まぬ所ばかり」
「成程」
「しかし、山の多いのは三の丸から二の丸の間の
黒鍬の者に案内させたがよかろうという吉宗の好意に、万太郎はその日は大人しく
何事も、おいそれとは行かない柳営の事なので、どうしたと催促してみるわけにも行かず、ひとりでその辺を散歩して退屈をまぎらわせている自由もききません。そこらに時々見受けるのは、池田候とか、伊達候とか、松平
はて、
紀州の
御三家の間の
「
「大儀だ」
「お支度は……せめてお
「元よりのこと。
「はッ」
程なく支度を更えて、万太郎が竹の間の
無論、肩衣は
金吾は万太郎に従い、万太郎は黒鍬の剛兵衛に
「秋は鮮紅なお山の風情が得もいわれぬ美観でございますが、冬は、
と剛兵衛はそろそろ案内役の説明をしはじめて、
「これより登りましても、船見山、
万太郎は剛兵衛のことばをうつつにして、
「広い。――さすがは広い」
と暫く感に耐えて眺めている。
「はい、御城内の広さと言っては、とても一口ではお話にはなりません」
彼は足を躍らせて、紅葉山の高所にのぼり、
そこに立てば、さながら深山の中腹から
そして、天守閣、
「江戸の中の嵐山。開府以前の武蔵野の原――そして
しきりと四方を見ていた万太郎には、今、四隣夜更けた一室で
「まだこの辺は御本丸の
と、剛兵衛は先に立って歩き出す。
千代田の城内には古くから三ツの滝が落ちている。
吹上のお茶屋の近くにあるのが作兵衛滝、船見山の森林を水源とする三筋滝、もうひとつは
とにかく万太郎、
「ああ、ここがどうして江戸なのだろうか」
不思議な
案内役の剛兵衛は、自分のものでも見せるように得意になって、
「どうして江戸でない事がございましょうか。
「それは分っておる」
「はっ」と、剛兵衛は言い過ぎたかと、少し冷やりとして金吾の方を向いた。
「若殿にもお疲れでござりましょう故、今日は、このくらいにしておいては
「そうじゃの、日もだいぶ暮れてまいった。剛兵衛がああ申しますが、若殿には如何なさいますか」
「剛兵衛、この辺に家はあるか」
「お茶屋のことを仰せ遊ばすので?」
「そうじゃ」
「ならば、こうおいでなさいませ」
と剛兵衛は針葉樹帯の
松と松との林間です。見るからに静かそうな、一戸の寒亭が
その林間から、江戸の市街がすいて眺められます。山を北にした東南向きの建て工合、冬のお茶屋と見えまして、そこへ来る風当りがバッタリ違う。けれど間数は至って狭く、一の間、床の間、中の間、後ろ納戸、次の間、
「手頃じゃないか、金吾」
万太郎は方々を開けて見ながら、
「ここでいい。ここなら至って気楽そうじゃ」
と、
「しかし、お食事は如何なさいますか」
と、これは剛兵衛の心配。
「
「は。は……」驚いたらしいが、否やは言えずに「御膳部のものへそう申し付けておきまする」と、自分には責任のちがう事を断るように釈明しておきました。
「では今夜から、早速そう申しつけておけ。もうお前には用はない。帰れ」
「はっ。お暇申しあげまする」
「いや、ちょっと待て、つい聞きそびれたが、この
「古くは船見山、または
「
「それよりずっと山の
「よしよし、もう用はない」
剛兵衛が立ち去ると、万太郎は疲れた足を長々と伸ばして、腹んばいから仰向けに引っくり返る。
そして、一方の膝へ一方の足を組み重ねて、
「さて金吾、これで手順はすべて首尾よく行ったが、これからが難問題、
さて、その夜からの異変です。
将軍家そぞろ歩きの折の休み茶屋である錦霜軒から、夜になると
それが毎夜のこと。
昼は錦霜軒の炉べりに寝て、夜になると眼をさましては活動するらしいのです、――徳川万太郎と相良金吾であります。
目的は、ピオの遺跡を探すにあること勿論で、彼が、この城地で最期をとげたものか、或いは捕らわれていたものかは分りませんが、とにかく、
それにつけても、今になって惜しくも残念でならないのは、あの時の
けれど、あれがたとい日本左衛門の手に入ったにしても、それがこの吹上を中心とした図解であったとしたら、彼の力も及ばぬことで、定めし失望したであろうと、その点は安心もし、あとで苦笑を催しました。
ところが、或る夜のことです。
相変らず金吾と万太郎の二人が、春先の寒さをしのぎながら、あっちこっちをしずかに歩き廻っていますと、
――思わず足を
「あ……誰か人が参ったようですぞ」
金吾が注意すると、万太郎は暫く耳をすましておりましたが、
「この吹上の奥を、自分たち二人のほかに夜半歩いている人間のあろうはずはない。この城地の奥には
「しかし若殿、それにしては少し歩調が違います」
と、金吾は大地へ耳を付けて、じいっと夜陰の地音を聞きすましながら――
「どうも獣類とは思われませぬ。……人です、確かに人間の歩行に相違ございません」
「ふーむ、人とすれば怪しい奴だ、この上に登って見届けてやろう、静かに来い」
「……うーむ、なるほど人間だわえ」
万太郎は怪しみました。
無論、要害堅固な江戸城のこと故、寝ずの番もあろう、
とまれ彼は、息を殺して見つめていると、その人影は
ひとみをこらして
「不思議だ」
思わず、彼が身をのび出したので、手をかけていた樹の枝からばらばらと夜露が落ち、下を通る男の影に降りこぼれたので、その影は冷やりとしたように立ち止まって、覆面の顔を仰向けに振り上げました。
はっと、二人は息をのみましたが、せつなチラリと見たその顔の輪郭が、夜目のせいかクッキリと白い。
先でも気がついたものか、はっと思うまに、その不思議な人物は、フイと何処へやら消えうせていました。
――次に出会ったのは、それから四日目の同じように月もない闇の
例のごとく、万太郎と金吾の二人が、
「や? ……金吾あれを見たか」
「オオ、また先夜の奇怪な者がやってまいります」
「身を隠しておれ、何者であるか、今夜は
二人が左右の暗がりに身を伏せているところへ、橋を渡って来た者は、先夜の如く、
この間の晩見かけた覆面とは、たしかに、人物が違っている。――するとこの吹上を夜な夜な
相手の正体が分るまでは、決してうかつに手出しをするなと、固く金吾に
「あっ……」
「若殿、どうなさいました」
「きゃつ
「今の礫に、何処ぞお怪我はありませんでしたか」
「いや心配するな。頭巾の端を
「前にも御注意したこと、滅多に御油断はなりませぬ。先夜の男と只今の者とは、まったく別人でござりますぞ」
「しかし、何とも不思議なわけじゃ。この城内にどうしてあのような異装の
「その儀は金吾にも殆ど思い寄りございませぬ。城外の者か? 城内のお人か?」
「まさか城内の者が深夜あのような異装を作って徘徊いたすはずもなし、そうかと申して、
「何にしても不思議な人物」
「
「若殿、御自重なさらんといけませぬ」
「ウム、気をつけることにしよう」
それ以来、二人は
かかるうちに、錦霜軒の前の
少し時日をさかのぼって、話はここに切支丹屋敷のお蝶の事にうつるとする。
――そこでは彼女が、
「
「
と指さされて、食に困り、宿に迷い、浮世の悲雨
「私はほんとに、お馬鹿ちゃんだわ」
江戸へはいると、
「――なぜ私は、甲州へなど逃げたんだろう。やはり江戸が何処よりも一番いい。通る人だって、口をきく人だって、私の
ただ怖いのは宗門役人です。それと辛いのが、帯や
「アアお金が欲しい。着物だって下駄だって……これじゃ町が歩けやしない」
帯や裾を振向いて、お蝶はそれのみ苦になりました。そして、飢えている境遇は忘れて、何よりも着物と
故郷へ帰省したものが第一に、生れた家を訪れるように、お蝶は江戸へ着いた日に、もう浅草へ行っていました。
そして、羽子板店の市に立ったり、呉服屋の
「……お金、お金、お金」
……一心にこう思いつづけていると、誰か、お蝶の五本の指をそッとつかんで、真っすぐになった手のひらを、じいっと見ている人がある。
オヤこの人は、私の手相でも見るというのか、それとも私が、あまり可愛らしい手をしているので、いやらしい事でもするのかと思っていると、……一枚二枚三枚四枚と、その手へチャラチャラと小判を読みながら
……四枚、五枚、六枚、七枚、おお拾両、拾五両。
「うれしい!」
と思わずその男の顔を見る。男は意外にも日本左衛門だったので、彼女は、恥しそうに顔を隠しました。
すると日本左衛門の人さし指が、横を向いたお蝶の、ちょうど
「お蝶、しばらくだったなあ。あれ以来、おれはお前を忘れかねているのだよ。お前は? エ? お前は?」
こう言って、男らしい幅のある胸と腕が、じりじりと息づまるまで抱きしめて来たので、お蝶はきまり悪さに身を縮めましたが、その
その音に、ぶるッと身ぶるいをして、お蝶は
夢でした。
そこはお蝶が夜に入ってから、宿る所がなく身を休めていた観音堂の
「寒い! ……」
とろとろと眠った
けれど、今坐っている観音堂のこの廻廊が、氷の上でも石の上であっても、そこを立つ勇気はない。
夜はだいぶ更けていると見えて、奥山の小屋の
すると最前から、
「姉さん、眼がさめなすッたようだが、そんな所で夜を明かしていると、風邪をひくだろうぜ」
と、じろじろとお蝶の
「有難う。ほんとにブルブル慄えてしまった、どこか、火の気のある所はないかしら」
「こんな所に寝るから悪いや、ここは、煙草の火も禁断だよ」
「だって……」と何か言いかけましたが、お蝶はその時になって、男の
口のうちで唄っているので、よく聞きとれませんが、それは、
切支丹屋敷の吉野桜の下で、父の二官がよく口笛に吹いていたのを、薄ら覚えに記憶していた
お蝶の心は、その意味のわからない唄で、
「あれ、もしやおめえは、切支丹屋敷に居たお蝶っていう娘じゃねえのか」
「えっ?」
「そうだよ……道理で何処か見たことのある娘だと思ったが」
町人は
「――似ているはずだ、二官の娘のお蝶じゃないか。おれはおめえといい仲だった山屋敷の
「……知らないわ、私」
わざとらしく首を傾げるお蝶の顔を指さして、
「知らねえことはねえじゃねえか。ほれ、いつかおめえと龍公が、山屋敷の仲間部屋で、何か寝そべッて話している所へ、おれが不意に戸を開けて、びっくりさせたこともある」
「じゃ、知っているとして置くわ」
「アー成程、そうそう、まさかおめえも、気のゆるせない人間には、滅多に知っているとは返辞のできない身の上だったな。だが、安心するがいい、髪結の鶴吉は決して、宗門役人などに懇意はねえんだから」
彼が独りでベラベラと
「おや、どうしたんだね」
「もう話すのはいやですから、あっちへ行って下さいよ」
「どうもおめえは素ッ気ねえ人だな、何も、口説いているわけじゃなし、断ることはないだろうに。……おや、腹でも痛むのかい」
「とにかく、家へおいでよ、相談にも乗って上げようし、悪いようにはしないから」
親切そうに誘うので、お蝶もその気になりました。
行ってみると鶴吉の
「おや、お帰りかえ」
長火鉢には鶴吉より年上らしい四十前後の
「さあ、お蝶さん、ずっと火鉢のそばへ寄んな、誰も遠慮はねえ家だから。……どうだいお千代、この娘は」
「まあ、いい
「おれの兄弟分の龍平と懇意だった或るお屋敷の娘さんだから、そのつもりでよく面倒をみてやってくれ」
「アアいいとも。そのうちに、ほかの友達も帰って来るから、すぐみんなと馴れちまわアね。きまりの悪いのは初めのうちだよ」
猫板をチャブ台にして、鶴吉とお千代という年増が、
「オオ寒。姐さん、只今」
「兄さん今帰りましたよ」
「寒い、寒い。今夜はばかみた
一人一人、いろんな事を言いながら、格子の内へ駈けこんで来るのが、どれもこれも、
その白粉首が五つ六つ火鉢をかこんだ時に見ると、飛んでもない四十
「なんだろう? ここの家は」
床に入ってから、お蝶は不審に考えましたが、食物に
翌る日になると、
「お蝶さん、これを着てごらん、そして、この帯をしめてお見」
お千代が一重ねの衣裳をそろえてくれる。
古着らしいが、いい
「ああ寸法もちょうどいい……それにお前さんには、ばかにうつりがいいじゃないか」
お蝶はいい気持になって、
「おばさん、私に、似合って?」
「少し目立ち過ぎるくらいだよ。あとでお
「あら」
何しろお蝶は、永らく
「ねえや、あたいがお
と、何処へ何しに行くのか分りませんが、お蝶は外に連れ出されました。
川風が強く吹きつける川口には、土橋があって、枯れ柳があって、少し向うに砂利置場がある。ちょうど殺し場の
「――お蝶さんあぶないから、
そこへ来るとお角はこう言って、自分も着物の裾を端折る。そして、お蝶が意外な顔をしてためらっている間に彼女は、
「びっくりしているのかいお前さん。――大丈夫だよ、舟の中には、
手を取られて、苫の中に入りましたものの、お蝶は屋根の低い小舟の中の
お角は早速、中の
「呑気なものだよ、こうしていると。だからなかなか足が洗えないのさ」と、お蝶の顔を見てげらげらと笑っている。
「ねえさん、これから何処へ行くんですか?」
「何処へも行きゃあしないさ。こうしてね、ぼつぼつ商売を始めるんだよ。そのうちに、
商売? 亡者? お蝶にはだんだんお角の言う事が分らなくなりました。――しかしお角の言ったとおり、
すると、そのうちに上の土橋を踏んで行く人の
「ちッ。……二本差の
舌打ちをして、何か、じれッたそうに首を振りながら、
「引き
けれど、いくら切支丹屋敷という別世間に育ったお蝶にでも、それから夜更けにかけて、橋の上から声をかける男だの、
これは、いわゆる岡の岡場所と対立して、江戸の風紀を
いつの頃か、お千代という
「お千代、お千代」と、啼くように呼んだのが初まりとなって、それから
何せよ、今思い合してみると、あの
そのせいか、お角はだいぶ客の
「お蝶さん、ちょっと待っておいで、すぐ来るから」
と、彼女を置いて、岡へ上がってしまいました。
好色そうな宗匠頭巾の隠居をつかまえて、そこの
好色隠居の
「じゃお蝶ちゃん。私はちょっと、蔵前まで
と、お角はそこをはずしてしまいました。
入れ交わってゴソゴソと苫舟の中に入って来たのは、お蝶を買った狒々隠居です。
無遠慮に
「なるほどお前は
この隠居のエヘラ笑いが、お蝶には他愛なく見えました。そして、売女を買いに来ても、おれは金持なんだぞという所を見せたいような気持も露骨に分ります。
お蝶は、お角がお食べといって置いて行った
「きれいな髪だな、よく
と、隠居は指を出して猫の
「もう
「ええ、買って頂戴」
「何がいい、
「
「とんでもない望みをする
「だって、お爺さんは、金持でしょう」
「お爺さんなんて、色消しなことを言うものではない、
「だって、何も買って貰いもしないのに」
「おれは、お角に二両渡しているよ。舟まんじゅうといえば、たいがい、安いところが二百五十文、高いところで一歩どまり、二両なんていう大枚を投げ出す旦那様は
「じゃ、私の体は、二両なの」
「松の
「知らないわ、そんなこと」
「何しろゆっくり遊んで行こう」
「沢山遊んでおいでなさいね」
「お前はなかなか愛嬌のいい
「知らないわ」
「じゃ、年は幾ツ?」
「知らないわ」
「自分の年を知らない者があるもんか。ほんとにお前はあどけないところがある。だけれど、こういうことは知っているだろう」
お蝶はおかしさをこらえながら、死んだ父親とこの隠居との年齢を比較して考えていました。手を握られてもその手ざわりよりは、
「いやよ、お爺さん」
指を
「何がいやなことがあるものか。お前はまだきまりが悪いとみえる」
「これ、舟が揺れるわ、じっとしておいで、じっとして……、怖いことも何もありはしない」
「嫌ッ……嫌ッ……。ええうるさいッ」
「わしはお角に二両渡してある」
「嫌だッてば、この人は!」
お蝶は、隠居の指に
争い合った動揺で、
途端に、お蝶が川の中へでも飛び込むと思ったのか、
「これ、何処へ行く」
と船底へ引き戻しました。
こんな事なら早く隙を見て逃げ出すのであったのにと、お蝶は自分の
お蝶が逃げ廻ったり
「さあ、打つがいい、打つがいい。もっとその爪を立てるがいいよ。何、ばら掻きになってもかまわない。そうだそうだ、力まかせになぐッておくれ」
甘んじて、お蝶の
自分の手が
「
と
そしてまるで、盲目的になって寄って来る
「私は
と、
「何だと、この
けれどお蝶は必死でした。
女色を
隠居の手にはいつのまにか、短い刃物が握りしめられています。それとて彼には、実は興味を助ける一つの小道具でしかないのですが、霜夜の川の波明りをうけて、凄い光をギラギラと持っています。
「逃げると殺すぞ。さ。中へはいれ。逃げると殺すぞ」
そう言いながら、
そして、
――すると、これは
今、脚の高い両国橋の暗い陰から、ギイッ、ギイッと
「あ……あの声は女じゃねえか」
と、
すぐと彼の
「率八率八。早くあれへ
「やりますか、あの船へ」
「そうよ、屋根舟の中の
「合点です! あれ――というところへ、宮本武蔵という格ですね」
「ええ、またくだらねえお
「おッと、案の
「どうした?」
「待っておくんなさい、
「ちぇッ、しかたのねえ奴だ、それ、早く漕げ」
率八と呼ばれた
「しまった!」
と、唇を破って胴の
同時に、
ダブリ――と大きな波紋が、次第に大川の両岸へひろがって行くのを眺めて、
「親分、間に合いませんでしたよ」
と、がッかりしたように、櫓の力を抜いたのは、
「ちぇッ、だから早くしろと言ったのだ。だが、飛び込んだのは、男か、女か」
「それがネ親分、あっしの見た見当じゃ、女の方が野郎を川の中へ突き飛ばしたように見えたんですが……」
「おれもそう思ったが、それにしては少し妙だ、おお、娘は
「じいッと川の中を見つめていますよ、何だか凄い娘じゃありませんか。……オヤ、こッちの舟に気がついたと見えて、急に、舟底へ姿を隠しましたぜ。――かまわねえからあの舟を取ッ捕まえて見ましょうか」
「待て待て。向うで影を隠したのは、おれの舟に気がついたためじゃねえ、
「あっ……成程」
「と言って、あわてて逃げ出すなよ、逃げるとあいつは二挺櫓で追いかけて来る。いつもの通りにしていればよいのだ」
「じゃ、親分」
「
二
そして、船手の同心でしょう、
「何処だ?」
と不意に声をかける。
「へい、
「船の
「丸に金の字」
「よし、行け」
「御苦労様でございます」
ギイーとわかれて、一方は両国橋の
「親分もうよろしゅうございますよ」
「寒いからこのまま手枕で寝ていよう」
「それも工合がいいかも知れません。じゃ風邪をひくといけませんから」と、ちょっと櫓を放して、隅に丸めてある
そして、その
そこは、上れば上る程、両岸が高くなって、
チョロチョロと何処かで水の湧く音がするほか、
そして、朽ち木の枝を手懸りに、一方の岸へ
「なあ率八、
* * *
ところでその晩、川見廻りの役人に怪しまれて、
「
若い娘だけに、手荒なことはしませんが、無論、風紀を
相手が、役人や番太郎では、彼女も
首尾よく自分の素性もばれずに、外へ出されるとお蝶はほっとした顔です。けれど、悲しいのは、再びその体をいじめて来る
しかし考えてみると、あの
「死んだ人の身なんかを考えてやるどころじゃないよ。困ったねえ、どうしようかしらこの私は、いッそのこと、
お蝶の思案は後ろから来る空ッ風に、
着物だけは、どうにか
町は押しつまる年の暮で、
「畜生ッ、あんな所に」
「あら、居てよ、お蝶ちゃん」
不意に、こういう声を筒抜けにさせて、お蝶を目がけて駆け出して来た者がある。――と、彼女はもう袂をひるがえして逃げ出していました。
「畜生」
「お蝶ちゃん、お待ちッてば」
売女宿の鶴吉と船まんじゅうのお角が、腰弁当で探してでもいたように、声をあげながら追いかけて来る。
何処という方角も知らずに、横丁から横丁へ逃げ廻って、そして逃げながらお蝶は考えているのでした。「
けれど心と足は別物のように、迷いにかまわず足は速度を加えています。遂に鶴吉とお角を、何処かの辻へまいてしまったようです。そしてお蝶は「もう追いついて来ない」と知って振向いてみましたが、べつにアアよかったという安心もありません。むしろ何かを取逃がした気がする。
金。金。金。
お蝶は足のつま先に物欲しい目を落としながら当てのない心を抱いて歩きました。と――其処の曲り角に、黒髪を束ねた
「あ……」
何か胸を
匂い袋のような小さな袋の中に、一粒の
「ああ、あったわ、あったわ、これを売れば……」
と、珠を手のひらに転がしてニッコリしました。
そして後も見ずに、かもじの釣り看板の下を小走りに駆け走りました。
そして少し
「
飢えた眼にも美しい雪。
お蝶は湯島の
たった一粒身に着いていた
「もし、お嬢様」
彼女が、寒々と
お嬢様――と呼ばれたので、お蝶は間が悪そうに、
「はい」と、伏し目に返事をすると、女はいろいろな事を訊いて来ます。そしてお蝶のいい加減な作りごとにホロリとさせられて、
「じゃ、私の家へおいでなさいな、小間使いが欲しいと思っているところですから、辛抱してくれる気なら、永く居てもらってもようございますが」
弓町の近くに住む、
成程、門には池の坊の小さい札が出ていましたが、翌晩になって分ったことは、それは弓組
ちょッと酒屋へ行っておくれでないか、帰りに八百屋へ寄っておくれ、それからてん屋へ何を
「人をばかにしている! 親切ごかしに」
彼女は腹が立って寝られない。
こういう屈辱は彼女の耐えうることではありません、――と言って
今夜も
「ああ、つまらない」
と。
お蝶は何か怖ろしいことを思い決めたように、
その中に、もう一つ残っていた品物があるのです。
何かというと、それは銀いろをした一箇の
その鍵は、お蝶の飢えるたびに、
(官庫へおいで、官庫へおいで、切支丹屋敷のある
と怖ろしい誘惑を囁きます。
だが、怖ろしい。お蝶はあそこへ近づく事が何となく
――帯を固く締め、
そこにある蛇の目の
もう人通りもあるまいと思ったのは、
しかし、塗りの下駄に
そこまで来ると、龍平の
ヒューッと吹き
それも風の力とは思えません。あの時、血みどろにさせた三人、山屋敷の
彼女は目をつぶって駈け抜けました。そして切支丹屋敷の高塀へどんと
「ああ、怖かった……」
前後を見廻して立ち上がると、彼女は、投げ出した、傘も下駄もそのまま、暫く塀を見上げておりましたが、やがてのこと、崖に寄った樹木の雪を落として、ヒラリと山屋敷の内へ飛び降ります。
雪明りの明るさに、お蝶が物蔭から物蔭へ小走りに忍んで行く姿は、餌をあさる
やがてその姿は、例の官庫の前に立ちました。帯の間から取り出した
そこを開ければ、彼女の心を満たすさまざまな物がある。官庫は彼女の
けれど、官庫は
とこうするうち、
「やっ、官庫の前に、怪しげな人影が見える」
「オオ
と、雪を蹴って来る足音。
山屋敷の同心と見廻りの
お蝶は驚いて走り出しました。しかし、この切支丹屋敷の中で生れている彼女のことなので戸惑いをすることなどはありません。
「
その
「ちいッ、骨折り損をした上に、あぶなく捕まってしまうところ……。ああ、着物は濡れるし、髪はこわれるし、こんな事なら来るのではなかったのに」
空しく、元の所へ帰ろうとすると、突然、低いけれど鋭い声で、
「お蝶様ッ……もしお蝶様」
と、すがり付くように、呼ぶ声がします。
はッとして
「お蝶様。お蝶様。ヨハンをお探しでございましょうが。そのヨハンはここにおりまする」
「えっ、ヨハンだって?」
二度目のことばに驚いて、彼女がそこへ駆け寄って見ると、ああ意外です、
「まあ、ほんとにヨハンだね。ヨハン、お前はまた
お蝶は石牢の中の人影を一時は幻影ではないかと怪しみながら、それが真実のヨハンだと知ると、あわれむ如くこういいました。
しかし、ヨハンはかえってお蝶の姿をこそ、哀れむような眼で見ながら、
「お蝶様、あなたは天童谷をなぜ抜け出して来ましたか」
「江戸が恋しくなったから」
「でも、世間はあなたを
「だって、そこは
「いいえ、この鉄棒の二本はいつでもとれるようになっています。切支丹族の者は絶えずこの鉄窓の中と秩父の山の間を往来しているのでございますよ。ですから、私は何度捕まっても、決して自由を縛られてはおりません」
そういっているうちに、ヨハンはいつのまにか鉄窓の一部に二尺四方ぐらいな口を作って、お蝶をそこへ引き入れました。
ただ明りだけはありませんが、それも外から
ヨハンはお蝶の
「もう此処を出ては危険です、ヨハンのそばを離れてはいけません。あなたの身には、宗門役人の眼、怖ろしい凶賊の眼、野心の眼が光っています」
「じゃヨハン、私はいつまでもここに居てかまわないの」
「石室の奥に居れば、山屋敷の役人でも、気のつく気づかいはありません。欲しい物は、時折ここへ忍んで来る切支丹族の者にいいつけてやれば、何でもととのえてまいります」
ヨハンの母性的な
除夜も元日もない石牢の奥に、そうして幾日か
ヨハンのその努力は、天童谷の時では厳父が説き
そういう時に、ヨハンは殊に力をこめて、
「あなたの大きな幸福は、
噛んでふくめるように説いて教えます。
かくしている
お蝶はこの頃になって、
竹の柱に風呂敷ほどな
「ええ、
と、
「
「
「
その辺の川ぞいには、同じ
ところへ、
「ふーム……」と何か笠の中で笑っているらしい。
勿論、こういうのは銭になるお客ではありません。のみならず中には、多少
「お通んなさい、店の邪魔になる」と、馬春堂が長い
「そう言うなよ、馬公」
おやと思うまに、二人の虚無僧は、尺八の端で幕をめくり上げて、御免とも言わず中の空箱に腰をおろし、
「こいつは焼け過ぎる」と言いながら、先生が折角あんばいよく
「これこれ、無作法なまねをするな」と先生がムキになってその手を抑える。
二人はクスクス笑いながら、
「いいじゃねえか」
「よくはない、これはわしの弁当じゃ」
「おごってやるよ、後で」
「誰だい、
「まだ分らねえのか、この声でも」
そう言いながら、
「あッ兄弟か」
と、先生が思わず、ばかでかい声を出す。
「しッ……」と雲霧はその声を制して、
「どうだ、
「まったく、それじゃ分る筈がない、しかし、何時から江戸へ戻っていたのじゃ」
「おめえと同じ時に、天童谷から這い上がって、あれから中仙道を
「へえ、何をそんなに弱っているので」
「親分の身だ」
「日本左衛門様の?」
「ウム、甲州で打合せをした事が、あれ以来、すッかり行き違いになって、
「存じませんなあ。何ならひとつ、易をたてて見ましょうか」
「親切はありがてえが、おめえの
「いや、そうばかにしたものでもない、信じると信じないとはそららの勝手として、とにかく一
頼みもしないのに呑み込み顔の先生が、
「やっ兄貴、向うへ行く女を見たか」
と、不意に四ツ目屋が立ち上がって、折角馬春堂の無念無想に
「おっ、あの娘か」
「お蝶だッ」
と、
見失って、探しあぐねた雲霧と四ツ目屋は、半刻ほど経つと、再び空しい顔をして馬春堂の露店へ帰って来て、
「残念なことをした、確かに、お蝶の奴に違いなかったものを」
と、何か小声に囁き合っています。
やがて一息休むと、雲霧は小判一枚、馬春堂の机の上にチリンと
「ほれ、
「えっ、これを」と先生は、処女の如くぽっと赤くなって、有難う、有難う、と幾たびも押しいただいて財布の中にしまい込む。
「ところでな、馬公」
「はいはい」と一両の手前、馬公でも豚公でもこの際は腹が立ちません。
「親分の身やお蝶のことで、何か耳に入れたらおれの宿まで知らして来てくんねえか。宿は例の
と、なお何か言い残して、仁三と新助はそこを立去りました。
「さあ、今日は
忽ち、空箱の机や日月
「お先に――」と言いながら好い気持で、ぶらりと
住居というのは、やはり以前のどぶ
「あら、暫く」
と、あざやかな笑い顔をもって、彼を待っていた頭巾の女があります。
「やあ……これは」と馬春堂は仰山に、
「お前は、切支丹屋敷のお蝶じゃないか」
「ええ、
「ああそうかい、寄ればいいのに」
「だって、変な虚無僧が居たじゃありませんか。そして私を追いかけて来たので
「ウウム、よく捕まらなかったな」
「あれは一体だれだったの」
「あれかい? ……」と馬春堂が口を
「とにかく往来じゃ話ができないから、先生の家まで行きましょうよ」
「えっ、わしの家へ来るッて言うのかい」
「そのつもりで、
「こいつはどうした風向きだろう」
先生は酔わないうちから
細い露地のドブ板を踏んでいると、二枚の板戸を
お蝶が、たすきをかけて、酒の支度をしてくれるのを見ると、先生は感極まって、幾日も
「正月め、おれを驚かそうと思って、不意討にやって来やがった」
どうもいつもの
その有様を格子の外に立って眺めながら、
「おや、馬春堂の家へお嫁が来たのかしら?」
と、はいりかねている様子の男は、以前からここへは時折遊びに来るお人好しの
馬春堂の家の常にない空気をのぞき込んで、率八は例の
「先生、今日はたいそうお宅の中が明るいね」
「おう率八か、上がって一服吸って行くがよい」
「エヘヘヘ、お邪魔になりゃしませんか」
「なぜだい?」
「でも、いつもお見かけした事のない、
「居たってよいじゃないか、余人と違って、お前ならば邪魔にはならんよ」
「人間が甘いからでございますか。どうも驚きましたね、先生も見かけによらない色男だな」
「うふ……」と馬春堂は妙な笑い方をして箒を掛け、「率八、きょうは一杯飲ませるぜ」
「ところが、これから野暮用に行く途中なんで」
「じゃ帰りに寄るがいい、支度をして待っているから」
「ヘエ、ばかに景気がいいんですね、それにひきかえて、うちの
質草のはいっている小風呂敷を差し上げて見せると、率八は抜け露地を駈け出してあたふたと
「どれ、これで春風一掃じゃ」
「これ、お蝶さんや、早くここへ来て手でも暖めないか。なに、お
と、斜めならぬ機嫌顔で、まず一、二杯のところを手酌で試みる。
「驚いたでしょう、不意に来て」
お蝶は、炬燵向うへフワリと坐って、その
「私ほんとに困っている事があるの。……で、お願いにやって来たのよ」
「聞いてやろうじゃないか。わしは、人にすがられると、元来が涙ッぽくって、いやと言えない性分でな」
「じゃあ聞いて下さる」
「うむ、どんな事か、話してごらん」
「でも最前、雲霧と四ツ目屋の二人から、私の姿を見つけたら宿へ知らせてくれと言って頼まれた時も、先生はうんと承知していたじゃありませんか」
「ほウ、お前はあれを見ていたのか」
「幕のうしろに立っていて、すっかり話を聞いちゃッたわ」
「そいつはいかん」と先生は毛の薄い頭へ手を乗せましたが、少しもテレる様子はなく、
「だがお蝶さん、それは心配にも及ぶまい。なぜかと言えば、あの雲霧や四ツ目屋の輩には、何の好意をもつ理由もないが、わしは元からお前さんには深い同情をよせておる」
「ほんとに?」と力をこめて――「実はね先生」と言い
馬春堂は眼を細くして、片手に杯を運び、片手を
「窮鳥ふところに入れば何とやらいうたとえもある、決して他言はしないから、どんな事か言ってみるがよい」
「私はほんとにその窮鳥なのよ。宗門役人には
これは窮鳥どころか願ってもない
率八が帰りに寄ってみた頃には、先生はもう他愛なく酔って
思わずグッスリと寝込んで――その明くる朝。
「おや、お蝶は?」
と彼はムックリ起きに、何より先に家の中を見廻しました。しかし、馬春堂なるもの安んじて可なりであります、お蝶はこの家の世話女房になりすまして、
盆と正月がいっぺんに来た気で、馬春堂はすっかり若返ってしまったようです。今日は顔を
そこで、また
「もうお金がないんでしょう。いいわ、心配しないで寝ていらッしゃいよ」
こう言って、お蝶はその晩、身支度をして出て行きそうにした。
その身支度を見ていると、いつのまに持って来てあったのか、黒の男小袖に薄木綿の
「これこれ、そんな
と、
「何処へ?」と、馬春堂が怪しむのを聞き流して、お蝶は男装の上に覆面したおのれの姿をしきりと見廻しておりましたが、
「どう? 似合って?」
と、袖口を胸で合せながら、
思わず釣り込まれて、馬春堂も、
「よく似合うな、そうしていると、路考とか伝九郎とかいう役者絵のようだ」
「じゃあ外を歩いていても、男に見えるわね」
「だがその
そう言われるとお蝶も気がついて、またその上に並の平袴を二重に
「これならいいでしょう、スラリとして――」
「ウム、それならばどう見ても、旗本の御次男が、夜遊びにでも行くようだ」
「じゃ先生、ちょッと行って来ますから、
「おい、おい、お蝶さんや」
呼び止めるまに、すっと格子の音がして、お蝶は変ったその姿のままで、
「あれ、もう行ってしまった」
馬春堂は格子の前まで出て来ましたが、急にソワソワとそこらを巡り歩きながら、何か考えていたかと思うと、戸
「
と白い息を吐いている駕かきの溜りがある。
「おい、駕を一挺」
「旦那、何処へ向けますか」
と馬春堂を乗せた駕屋が肩を入れかけます。駕の垂れには春らしく輪飾りが下がっていて、寒いうちにも春らしい夜風がさらさらとそれに
「あの、今向うへ行った、仲間のあとを
「じゃ今ここで、黒頭巾を
「そうそう、切通しの方へ真っすぐに駆け出した」
先の足どりが早いとみえ、やがて暫くの間は激しく揺れに揺れて、駕の中の先生は舟にある思いをしています。
ぎッと、駕の足が止まったかと思うと、
「旦那、先のお武家が下りましたが、どうなさいますか」
「なに、下りたかい? それではわしも此処から歩くとする」
駄賃を払って、そこの曲がり角から暗い坂をスタスタと下って行く。彼の先には、
お蝶の足は坂へ向って、加速度に早くなりました。歩調が激しくなるにつれて彼女の影も男性的な活溌の度を増して見える。
いや、活溌どころの沙汰ではありません、獄門橋の先まで尾けて行った馬春堂は、次の瞬間に、あッと言ったきり、掌中の玉を失ったように、やや暫くというものは其処で開いた口がふさがらない。
もうお蝶の姿は、彼の視界の届かぬ所に逸していました。
「なるほど、お蝶の言ったのは嘘ではない。おれが金に困っているので、切支丹屋敷の官庫の中から、何か持ち出して来ようという気だろう。イヤハヤ、娘心のひとすじと言うやつは怖ろしいものだテ」
天下の色男はわしかしらと、長い
ところが、
で、それから先の彼女の行動は、遂に先生の知るよしもない事。
先生はその翌日、銭はないが大道へ稼ぎにゆく勇気もなく、
「あら、寝ているの?」
お蝶の嬌笑が障子を開ける。
何だか狐につままれたような気持で、馬春堂は眼をこすっています。
「これは約束のお金、少しですけれど、当座のお小遣いにして下さい。またなくなったらいつでも、切支丹屋敷から持ち出して来て上げますからね」
馬春堂の寝ぼけ眼をハッと覚ましたのは、お蝶が、無造作にそこへ置いた二十両ばかりの小判の色。
先生は驚き
同時に、お蝶に対しては、色と慾の両天をかけて、彼女の事を頼まれた雲霧に密告するどころか、下へも置かぬようにして、気随気ままに任せています。
そこで、拘束のない
「面白かったわ、ゆうべは男になって、吉原へ行って来たのよ」
そんな話を持ち出して、なにがしと呼ぶ青楼に何という馴染が出来たとか、或いは、そんな社会で知り合になった茶屋の
それだけは馬春堂も、甚だ不平に思いましたが、いつか習慣のようになって、その不平や不審にさえ慣れてしまう。
「先生、お蝶さんていう娘は、いつ来ても昼寝をしているね。今日も隣の部屋に寝ているんですか」
「この娘は、
「へえ、家にいる親分と、よく似ていますね」
「お前の家にも、誰か居るのか」
「え……」と率八は、あわてて口をつぐみましたが、
「なに居候のこってすよ」
「だって今、親分と言ったではないか。この間うちから、わしも少し腑に落ちないと考えているのだが、率八、お前は日本左衛門を
馬春堂が睨みつけて言うと、果たして、率八の顔色が変って来ました。
「じゃ先生には、もうそいつが分っているんで……」
「分らないでどうするものか。わしも梅花堂流の易者だよ、それくらいなことは、とうに心のうちで
「じゃあ先生にだけ話しますけれど、
「誰がそんな事をツベコベと
「へい、実は師走の中頃から、あっしの家に隠れていますが、その親分もお蝶さんと同じように、毎晩家を外にしちゃ、昼になると寝ているんです」
「そりゃあ何も不思議はないさ、
「ところがそうじゃありません」
お人好しの率八は、いつのまにか、馬春堂の口車とも気がつかずに、膝を進めていましたが、それと共に、障子を
時の移るのも忘れて、お
隣の部屋で、率八の話に聞き耳をたてていた間に、
町を歩いてゆくうちに、案外油を売っていた時間が長かったことに気がついた率八は、にわかに
やがて、
そこが率八の家とみえて、
「おっかあ、今
声をかけると、井戸端で
「親分はどうしている?」
「さッき眼を覚まして、この井戸端で顔を洗っていましたよ」
「じゃあ、
彼の家族が住む二
一同が
「親分、只今帰りました、ツイどうも遅くなりまして済みません」
十能に炭を
「おう火を持って来てくれたか、
側の火鉢の灰を掘る。
それへ移す炭火の火で、赤く映って見える鼻すじや頬骨の線には、日本左衛門の特徴が線香で描いたようにハッキリと見えました。
「今日は遅くなったので、お支度をなさるにも、少し暗うございましょう」
「いや、そう急ぐことはない、毎日の事なので、舟の支度も馴れて来たし、最前夕食もしたためた」
「気のつかない
「いや、こうしている間は、かえってかまってくれぬ方が自分も気楽だ。そちの用意がよかったら御苦労だがまたいつもの所まで送って貰おうか」
「それじゃすぐにお出かけなさいますか」
「ウム、明りを
膝の傍の大刀を寄せて、腰にたばさむと、あたりの物を片づけて、静かに、そこを立上がった様子です。
立ってみると、着流しではありません、足元を
「親分、あとは嬶あが戸を閉めに来ますから、どうか、そのままにしておいておくんなさい」
と、
ぽんと、それへ日本左衛門の影が没して、ギイッ、ギイッ、という
一
日本左衛門様、日本左衛門様、恋しい日本左衛門さま、恋、恋、恋、恋、恋、恋、恋。
――恋という字が虫のようにならびました。
ビリビリとその一枚を破って捨てると、筆の端を白い頬へ突いて、暫く首を傾げておりましたが、やがて思い切った様子に、こんどはこんな風に書いてゆく。
どうしたのでしょう、私は怖ろしいはずのあなたが、あれ以来、何だか忘れ得ないで悩んでおります。
あの鼻寺の本堂で、私に囁 いたおことばが嘘でなければ、お蝶はほんとに救われますけれど、もしやあれは当座の嘘ではなかろうか、それとも真実のおことばかしら、と娘心は、他愛もなく、いまだに判断がつきませぬ。
お留守のあとへ参って、心残りの一筆、あわれとお読み下さいませ。またのお訪ねの折に、それが真 ならば久しぶりの笑顔を、また、それが嘘ならば、お蝶の命を召されるなり、何と遊ばされるなり、御意のままに。
こう書き流して自身の名を微細な注意と身構えを持って、そッと、納屋から外へ抜け出ようとすると、案の
彼女はギクとして、宗門役人の手先を連想しましたが、さり気ない
――と、それを遣り過して十二、三
「お蝶だ!」
ムックリと身を起こしたのは案外体の小さい小童で、その影が飛躍すると共に、彼の手にある棒先の
と、思うと、一足飛びに、
「待てッ」
と、その刃物の穂先が、追いつきざまに
「何をするのさッ、あぶない!」
帯の間からつかんだ物を少年の顔へぶつけて走り去りました。
「あっ……」と、顔を
「臭い、臭い、女臭いぞ。これをみても、今のは女にちがいない。男に化けた切支丹屋敷のお蝶とかいう女にちがいない。そうだ、早くこの事を」
真っ白になった顔や手を、そこらの
そして、朝になっては帰ってくる。
今朝も、まだ
「ほイ」と、揚げ
ひらりと飛び上がると、率八は駆け出して、
「親分、今ひと
「ああ人心地がついて来た」と、日本左衛門も背中をあぶる。
焚火に
火のそばを離れ難く、そこであたりながら、頭巾や
「いい気持になった、もう少しここで暖まっているから、これを納屋へ抛りこんで、ついでにおれの
と、率八に渡して言う。
すぐ納屋の中へ飛び込んで行った率八は、それを置いて、いいつけられた煙草入れと一緒に巻紙の切れ端を持って、読みながら歩いて来ました。
「親分、親分」
「なんだな、それは」
「机の上にこんな物が置いてありましたが、誰でしょう?」
「どれ……」
と、
そして、呟くように、
「今日は来るかも知れない」
と、頬へ手をやる。
「親分」
「うム?」
「誰が来るんですえ?」
「お蝶という切支丹屋敷の
「ヘエ、じゃ親分は、あのお蝶という娘をとうから御存じなんてすか」
「あの女にゃいろいろな
「そうですか、それなら早く親分にも話せばよかった。実は、馬春堂の
「そこで何か
率八はドギマギしながら頭を掻いて、
「つい、口を
「まあいいよ、口止めされても、つい
「お人好しの率八でございますからね」
「そのお人好しの家へ
「ど、どう致しまして、親分に恩返しなんかして貰う覚えはありません。あっしの方こそ、以前の御恩があると思えばこそ、及ばずながら、こうしているんでございますもの」
「てめえの心持ちはよく分っている。だから、何かいい
乳色の
「親分、もう少し
「いや充分に暖まったから、おれは納屋で一休み寝るとしよう。……そしてな、率八」
「ヘイ」
「もしかすると、お蝶が来るかも知れねえから、訪ねて来たら起してくれよ」
と頼んでおいて、小屋へはいる。
大川の空には、春風に乗った二枚半の
一方、野槍を小脇にもって、下谷の方へ駈け去った小童は、あれから何処へ行き着いたか?
そこは
その茶寮の縁先からは、遠からぬ所の
「お嬢様、こんどはあなたの番じゃございませんか」
「あら、そうかえ」
「考え事ばかりしていては、折角こうしてお
「だって、何をしても、気が
玉の如き
「おりんや、もう止しましょう」
「そうですか……」と、小間使いのおりんも、慰めることばに困りながら、双六盤を床脇へ片寄せて、
「では、お気が晴れますように、おりんが田舎娘の手前を一服たててさし上げましょうか」
ところへ、裏門の
「おりんさん、月江様は?」
「おや次郎かえ、よい所へ帰って来てくれました、お前が居ないので、お嬢様も淋しがっていたところですよ」
「今夜、
「そうそう、何処やらのおいしい
「まだ来ない?」
「ええ、まだ」
「どうしたんだろう、じれッたいなあ」
「早く上へおあがりな、何を独りして、そんな所で
「金吾様や釘勘のおじさんが、前々から探している、
「そんな事を言ったって、金吾様と万太郎様は、当分この根岸にはお帰りがないというお
「うム、おいらの顔を見れば、月江様の泣き顔はすぐに直る」
「ほんとに、お嬢様の機嫌を直すのは、お前が一番名人だわ」
「なんかって、人をおだてるから、おいらは
「おだてはしない、この通り、次郎や、頼みます、頼みます」
茶を立てながら、おりんが片手で拝む真似をすると、次郎はその辺へ野槍を立てて、
「お嬢様、次郎でございます。只今!」
と、わざと元気な声で、次の間の縁先へ這い上がる。
「あ、帰ったの……」
泣いていたのでしょう、窓へよってうつ向いていた月江は、あわてて袂を離した顔を、明りにそむけて答えました。
次郎は、ちょこ
「お嬢様、あなたは
「あら、何も泣いてなんかいやしないのに」
「だって眼のふちが赤くなっているじゃありませんか」
こう、ぶッ切ら棒に詰問されて来ては、絹糸のように細い佳人の哀傷も、思わず、破顔せずにはいられません。
その泣き笑いの笑くぼを指さして、
「ほーら笑って来た、今泣いた
そこへおりんも薄茶を一服立てて来て、
「やはりお前に限りますね。さ、お嬢様、次郎も帰って来ましたから、お気持を直して、また
と言うのを、次郎はあわてて手を振って、
「いや、おいらは今も言った通り、今夜は遊んではいられないよ。釘勘のおじさんが来なければ、これから浅草まで急いで行って、あの事を早く知らして来なければならない」
「あの事と言うと、何なの? 次郎」
月江も思わず彼の眼色につり込まれました。
そこで次郎が
偶然、彼はそれより数日前に、お蝶が狭い横丁から出て来る姿に行き逢いました。しかし、その後気をつけてみると、まるで服装が違っているので、男か女かの判断に迷いながら、今日、浜町へ帰る率八に
そしてまた、この根岸の下屋敷に、千蛾老人が亡い後の月江を引取ったのは、万太郎の計らいで、機を見て、彼が老人の生前に誓った約束を果たそうとする準備であるとも考えられるし、或いは、この家族に金吾を協力させて、千蛾老人を殺害した
ともかく、月江はここに移されて、或る機運の巡転をじっと待つ境遇に置かれています。
しかし、金吾からも万太郎からも、この正月以来、さっぱり音も沙汰もない。
時折、釘勘が浮かない顔をして月江の様子を見舞に来ますが、その釘勘にも、以後の消息はさらに窺うべくもありません。――つまり夜光の短刀を
「来ないなあ、釘勘のおじさんは――」と、次郎はしきりと待ち
「もう来そうもないから、これから浅草の釘勘の
と、再び庭へ下りかけます。
「もうだいぶ夜更けらしいから、明日にしてはどうですね」
おりんが止めるのを、かぶりを振って、すでに野槍を持ちながら、
「行ってまいります。遅くなったら、泊まって来るかも知れませんよ」
彼時代の元気というものは、自分にも他人にも
釘抜きの勘次郎の手先部屋は、以前は京橋のお
その桐畑は観音堂のお火
僧院のものらしい法衣の人達が、
「今晩は。――今晩は」
勢いよく、
訪れてみますと、折角彼が不眠で告げに来た甲斐もなく、
「どちら様ですか。もう
と、よそよそしい女の返辞が奥の方でするばかりで、釘勘の
でも、次郎はなお
「こんばんは。今晩は。――ここを開けて下さい。私は根岸の方からやってまいりました高麗村の次郎というもんですが……」
「今晩は
「いえ、部屋の者は留守でも、釘勘親方にさえ会って、たった一ことお話すれば用は済むんですから、どうぞ、ちょっとここを開けておじさんに取次いでくれませんか」
そう言っている間に、奥の方でする女の声は、一向立って来そうもなく灯影も
「お気の毒様だけれど、その親方もこの四、五日の間、ちッとも
「困ったなあ」
次郎はそう呟いて、また奥へも聞こえるような声で、
「困ったなあ、そいつは」と繰り返しながら、いつまでもそこに
「もしもし、それでは、釘勘親方が帰って来るまで泊まらして貰いますが、何処から這入ったらようございましょうか」
内と外で、なお二、三度押問答をしておりましたが、とうとう、根気負けがしたように、
「私は留守居の者で、何の御用事か知らないけれど、じゃあ裏の方へ廻ってごらん」
と、
次郎は家の横を廻って、裏口の明りを目あてに近寄って行きました。見ると、ことばの通り、もう戸締りをして寝ていたものに相違ありません、髪をぞんざい結びにした二十四、五の肌の白い女が、二尺ほど明けた戸の隙に
「泊って待っていると言っても、親方はいつ帰るか分りませんよ。何しろ、商売がらだからね」
「でも、しかたがありません」
「それに私は、
「決して、御心配には及びません、私が参ったのは初めてですが、釘勘親方とはとうから御懇意で、根岸のお下屋敷へは、時々訪ねて下さいます」
「根岸のお屋敷だって?」
「はい、前には徳川万太郎様が押し込められていた
「何か知らないが、じゃ寒いから、内へ上がっているがよい」
「どうも有難うございます。ここから上がってもようございますか」
「今、
「折角、お寝みのところをすみません」
「さ、ここへ置くよ、雑巾を」
「はい、はい」
「そして、真っ暗だから、ちょっと其処に待っておいで、今、明りを持って来て、部屋へ案内して上げるから……」と、縁座敷の障子を開けて、奥に細く灯っている
円い
すると、次郎は初めて
「やっ、おめえは熱海で逢ったことのある、江戸のお
明りを提げた凄艶な寝巻すがたへ、目をみはって叫びました。
意外です。それは
けだし次郎ならずとも、お粂の素性を知る者ならば、彼女が今こうして、目明しの
しかし、事実はどこまでも事実で、
「おや、それじゃお前は、あの時、何処とかいう御大家のお嬢さんについていたお供だったのかえ」
と、彼女もひとしく驚いた顔をした様子を見ますと、それは他人の
「それじゃまんざら知らない仲でもなかったね。さあ、早く後ろを閉めて、こっちへ
お粂は親切に、火鉢に火を取って与えたり、寝るべき夜具を押入れから出して、自分も再び寝間へはいって、そこの明りを消しました。
「変だなあ、あのお粂というのは、金吾様をたぶらかしていた女賊だという話を聞いていたけど、どうして、釘勘のおじさんの
次郎はもっとお粂と話を交わしてみたいと思ったのですが、彼女がそれを避けるように、すぐ明りを消して寝てしまったので、自分も寝るよりほかはありません。
で、疲れた足を
と――同じように、お粂もさまざまな考えに迷ったことでしょう。
どうしてあの高麗村の次郎が、根岸の下屋敷にいるのか? また、何の急用をおびて
いや、それよりも、彼女とすれば、すでにこういう境遇に
去年の夏――
彼女の眼の先には、青い螢のようなものが明滅して見えてくる。
うまうまと
彼女は、そうして自殺を果したものとのみ思っていました。……ところが、誰かに介抱されて気がついてみると、おのれの身は柳沢家の町方役所の
吐き気をつづけて、半日ほどは苦しみましたが、
三尺高い獄門の台が、もうお粂の目には近づいていたのです。彼女も、相応な覚悟はきめて、
「そのうちに吟味があるかも知れないが、暫く養生をするがいい」
と、釘勘に言い渡されて、夢とも謎とも考えつかない数ヵ月を
洗えば、
けれど、人間いつでも逃げ得られる境遇からは、逃げようとする衝動も起こらないし、また、どうして釘勘が自分をこうして置くのかという疑問も、お粂の心を一日のばしに此の
枕元で、釘勘らしい声がしたので、次郎がふと眼をさましてみますと、
「あ……おじさん」
「どうしたい? 次郎」
「寝坊しちゃッた、お帰んなさい」
「鼻から提灯を出していたぜ、随分よく寝ていたようだな」
と、彼は次郎の寝ぼけ眼を笑いながら、今外から帰って来たばかりらしく、羽織を壁にかけて火鉢の前に坐り込んでいます。
「おじさん、急用があるんだぜ、今話すから待っていておくれ」
次郎はその間に、元気よく、夜具を押入れの中へまるめ込むと、流し元へ走り出して、ほんの
「何と言ったッけ……そうそうお蝶だ、切支丹屋敷のお蝶という
「それがどうかしたというのか?」
「おじさんはあの娘を、去年から血眼で探し歩いているんじゃないか」
「おめえも小耳に挟んでいたろうが、お蝶と日本左衛門の隠れた先が、皆目知れないので弱っているのだ」
「ところがそのお蝶に、おいらが昨日出会ったんだよ。それで、もう
「ほんとうか、次郎」
「ウソなんか言うものか」
「そいつが
「お蝶ばかりでなく、おじさんが今言った日本左衛門の隠れ家も、おいらはちゃんと突き止めて来ているよ」
「えっ……」と、釘勘も目明しの本業をこの少年に出し抜かれた驚きよりも、意外な吉報に思わず膝を立てて、彼がつぶさに話すところの率八の家の位置や、そこに現れた覆面異装のお蝶の行動を物静かに聞き取っていました。
やがて、
「じゃあ、すぐに手配にかかるとしよう」
羽織を着直して外へ出ました。
次郎も捕手の仲間に加わる気か何かで、例の野槍をたずさえて、彼と共に飛び出しましたが、桐畑から千
「おっと、お前はこの辺で待っていてくんな」
と、
「
無論、次郎に否やはありません。
「承知いたしました」
「じゃ頼んだよ」
「あ。――親方親方」
「なんだい?」
「その時は、おいらも
「うまくこッちの方寸どおりに行くかどうか、とにかく、部屋の者に、上手にやれと言ってくんな」
次郎をそこに
「あ。……忘れた」
後ろ姿を見送って、用水堀のふちにぽつねんと立っていた次郎は、その後で、何か悔むようにこう呟きました。
「忘れた、忘れた。……自分の教える事ばかり
「おい、すてきもねえ
「ほウ、成程、こいつは素晴らしい眼の保養だ」
「何処へ行くんだろう。行く先が気にかかる」
「あれ、
などと干し場の
と――其処から小半町、
「あ。お蝶さんで」
その流れの水に屈み込んで、
「あら、今日は」
と、お蝶がこッちの岸から笑い返すと、率八は腰をのばして、
「見違えちまッた――今日は馬鹿に綺麗にお化粧して、それに、素晴らしいおめかしじゃありませんか。それじゃまるで、瀬川
「あの……お前のうちに居る人へ、少し用があって来たんだけれど」
「親分も、お蝶が来たら起こしてくれと言っていました」
「じゃ、ゆうべ書いて置いた物を、読んでくれたのね」
「とにかく、こッちへお渡りなさい」
「あら、怖い……」
二間ばかりの小川の丸木橋を、
「親分、来ましたよ」
率八に揺り起こされて、眼をさました日本左衛門も、今まで幾度となく見たお蝶よりも、今日のお蝶の思い切った濃艶なおめかしに、思わず眼を奪われて、
「おう、上がるがいい」とは言ったものの、殺風景の
「どうぞ、ごゆるりと」
率八が出て行こうとすると、
「おい」
「何か御用で?」
「面倒だろうが、あとで酒の支度をしておいてくれ。それと、ぬかりはなかろうが、納屋のまわりを時折見張っているようにな」
「よろしゅうございます。安心して、お話なさいまし」
どんと、戸を閉められると、納屋の中の光線は、わずかに明り取の切窓一つで、お蝶の
――まず何から話そうか。
彼と彼女の間に、或る心の経過があったとしても、茶屋町の四ツ目屋の帰りからずっと今日まで、彼が追えばのがれ、彼が迫れば蛇の如く
が――そういう時には、女にはモジモジしているという受身の
「…………」
けれど日本左衛門も暫くは無言で、彼女の
外では率八が、見張りの眼を光らしながら、酒の
暫くの間、ひそかだった納屋の中で、やがて
「お蝶。それに
日本左衛門の低いうちにも力のある言葉です。
「考えてみると私ほど、世の中に頼りの薄いものはありませんもの……。いつかの晩、鼻寺の暗やみで、女房になれと、あなたに言われた時は、ただ怖い一心でしたが、
「そうだろう、お前は
「ほんとに私はその通りなの。今日は
「おれも孤独だ。孤独のおれはそういう薄命な女をいつも心でさがしているらしい」
「じゃ今でも、鼻寺で言ったことばに変りはないのでございますね」
「あのお粂に裏切られた
「私の悩みと似ておりますのね」
「お前というものがいつかそれに選ばれたのだ」
「ほんとに嬉しゅうございます」
「女房になれ」
お蝶の腕を引寄せて、その肩を抱えました。
「なりますわ。いつまでも、
「親分、何にもありませんが」
と、そこへ率八の声がして、戸口から射し込む光線の中に、酒と膳とを運んで来た彼の姿が立ちました。
「お蝶さん、
「あい」と、彼女はいそいそと受けて、
「まあ、なかなか御馳走が」
「率八も可愛い奴、あいつだけは、早く足を洗わして、矢来の中の往生はさせたくねえものだ」
お蝶は、彼の杯へ一つ
「私も死ぬのはいやですわ」
「それや誰だってそうに違えねえが、人間には、何の力も及ばぬ運命がある」
「どんな運命が向って来ても、私は
「お前は、おれより気が強そうだな」
「弱い気持では、とてもこの世間に、生き通して行けませんもの。それに、あなたという人があれば、一層私は気を強くして、少しでも永くこの世に居てみたいと思います」
そう言いながら二人共に、何となく、寸前の運命に
「おう、暮れて来た」
日本左衛門はふと
「夜になると、出かけなければならない用事があるんだが……お蝶、また折を見て訪ねて来てくれ」
今日の首尾を惜しみながら、お蝶も夜になると切支丹屋敷にいるヨハンの姿が目に見えて来て、じっと落着いていられない気持に
「じゃ、またそのうちに」
と眼で誓って、彼女が先に男のそばを立った時です。――慌ただしい率八の
「親分ッ、手が廻った!」
と
さてはと、さすがに胸をギクとさせて、
「親分、今のうちです、早く舟の方へ」
と顔色もなく、舌をふるわせて
――と共に、飛鳥のように外へ走ろうとするお蝶を後ろに制して、
「騒ぐな。捕手か」
「え、そんなあんばいです。最前からこの辺へ、うさん臭い男がウロついていましたので、
「よし、よし。それくらいの事はかねての覚悟だ」
「だが私はどうしたらいいのかしら? ……」
「案じる事はない。率八の言うとおり、八方は
「そうです、愚図愚図していると一大事ですよ。……さ親分、お蝶さんも、早くここを」
「とにかく、おれと一緒に舟へ乗るさ」
「ああ、それなら私も気が強いわ」
男の腕にすがりついて、お蝶が外の夕暗をのぞくと共に率八は、大川の
今だ! と直覚したので、
「しまッた!」
と叫びざま、左右へ離れてのめりました。
耳をつンざく
「日本左衛門、御用」
と呼んだのは、まぎれもない釘勘のどす声であり、同時に繩の右端から、
「お蝶、待てッ」
と野槍を持って躍り立った人影があります。それはここに捕手を導いて来た
次郎が鋭い勢いをつけて、お蝶へ野槍を向けて来たのを見ると、率八は驚きながら、有り合う舟の
「お蝶さん、舟へ、舟へ」
と、おのれが代って彼の相手に立ちました。
「釘抜き。まだ生きていたかッ」
と、飛躍と共に、斬り下げて来たのです。
何の尺二、三寸の十手がそれを支え得ましょう。ガッキと受けたら長船の刃はこぼれて飛んだかも分りませんが、その代りには釘勘の脳骨がたしかに二つに割れたでしょう。
元々、目明しや捕手などは、武芸をほこる武芸者ではありませんから、どう
「おッと! あぶねえ」
ひらりと横ッ飛びに逃げ
がしかし、日本左衛門は二度とは寄って来ませんでした。
彼は片手の長船を少しずつ手元に納めて、一歩一歩と後
「
囁きながら、彼女の手首を右腕の脇へ抱き込みました。そして、片手の切ッ先は、いつか、釘勘と次郎の野槍へ等分な注意を配りつつ、なおジリジリと川波の白い洲の方へ退がッて行くのです。
そのうしろには、
しかしその時――深川河岸の方からと永代の川番所の方から、紺色に黒ずんだ宵の大川に
けれどもまた不思議なのは、紙干し場の原やその辺の小屋の蔭に、合図を待っている人数です。
今の
そのくせ、
ちょうどその前後に、
ちらと、笠の
「やっ、雲霧と四ツ目屋だ!」
折から張込んでいた捕方にそれを伝えたから堪りません。
彼方の納屋で合図があったら一度に動き出す手配をして、幾段にも構えている捕手の伏せ勢が、何気なくその危地へ懸って来た虚無僧の二人をつつんで、
「それッ」と、声を揚げてしまいました。
不意を
驚いたのは、雲霧と四ツ目屋でしょう。
二人は、この遭難を偶然とは思いません。
江戸表へはいり込んで以来、
この向う見ずな二人には、多勢の捕手もスッカリ手を焼いた形で
その頃はもう、とっぷりと陽が暮れて、大川を隔てた深川の屋根の上から、黄色い宵月が顔を出しています。
その反映が箱崎川の
「驚いたなあ、雲霧」
「まったく不意を食らわしゃアがった。前から気振りでもあれば、少しは覚悟のしようもあるのに」
「どうだろう、もうボツボツ出かけて見ようじゃねえか」
こんな事を言い合っていたかと思いますと、
「いいか?」
「よし」と一方に眼くばせしながら、ひらりと
「困ったなあ、天蓋を吹ッ飛ばしてしまった」
「おれは尺八を何処かへ落としてしまったぜ」
「どうせ偽者だからしかたがねえや」
「おい、待ちねえ。……誰か向うから駆けて来やがった」
「成程……だが犬じゃねえようだが」
「何処かで見たような男だぜ」
「誰か探しているんじゃねえか。ふらふらしながらこっちへ来る」
枯れ柳の蔭に身をかわして、通る男をやり過ごそうと見ていると、それは、少し度を失った様子で、眼色を変えてよろけて来たお人好しの率八でした。
四ツ目屋の新助は
「やっ、あいつは率八だ。オイ、率八じゃねえか。率八、率八」
呼び止める声に、駈けて来て、
「おっ……四ツ目屋の」
「
「オオ雲霧の
「静かにしろッて言うのに、わからねえ奴だ、どうしたんだその
肩を叩かれてそう訊かれると、率八は、クスッと一つ肩でしゃくり上げて、遂にワッと手放しで泣き出しました。
新助と仁三は驚いたり
「やいやいやい。泣く奴があるか、泣くやつが?」
こんな所へ捕手でも来られては――と
「ばか野郎め。大きななりをしやがって、人の
雲霧に叱られて、率八はやっと泣き黙りました。そして、話すのではなく、訴えるが如く言うのを聞き取ると、四ツ目屋と彼は顔を見合って、
「それじゃ親分は、お蝶と一つ舟で大川へ逃げたと言うのか。なんのこった、おれ達は足を棒にして探していると言えば、飛んだ
「そんな親分じゃなかったが、鼻寺以来、お蝶に少しどうかしているな」
「何しろ率八がいい災難だ」
「可哀そうに、てめえを捨てて、お蝶を連れて逃げた親分の心が、おれは憎い」
「とにかく、落ちた先を探そうじゃねえか」
「親分のか?」
「そうよ」
「また、お手軽にゃ分るめえぜ。甲州でドジを踏んでから、仲間の連絡も
「その心棒になる親分が、眼色の
親分が悪く言われるのを、率八は辛い顔をして聞いておりましたが、そのままにして置くと、何処まで辛辣になるか知れないので、
「ねえ、四ツ目屋の
二人の間へ、横から顔を伸ばして言う。
「ふウむ、何処で?」
「お茶の水の底へ降りて、夜になるのを待っていれば、きっと親分がやって来ます、今日まで毎晩、そこへ行く事を欠かした事はありません」
「何しに行くんだ、そんな所へ」
「何しに行くのか、俺にも分らねえが、毎晩舟で送って行くと、あの谷間にある
「へえ、そいつは初めて耳にした」
「だけれど、親分も今夜からは、俺が居ないで不自由だろうな。きっと暫くは、そこへ行くのも止めるかも分らない」
「何しろ、そのうちに、折を見て一つ行って見ようじゃねえか。その時は、案内だぜ」
二人に
「おい率八、空き腹だろう、食いたい物は何がいい?」
「ありません、沢山です」
「意気地のねえ奴だ、元気を出せ」
「縁日を歩いていると、みんな女房や子供を連れて、楽しそうに歩いていますね」
「盗ッ
「な、なぜですか」
「いやに哀れッぽい声を出しゃあがって、仏心があり過ぎるもの」
「これでも随分我慢をしているつもりなんで……実アさっきから、
「そうそう、てめえには、
「こんなつもりで持ったんじゃありません。そのうちに子が出来て、食えなくなったから、始めたんです」
「そして、てめえの罪が、女房子にかかって行けば、元々になるじゃねえか。そんなに案じられるなら、もう一度
「お、おどかしちゃ、いけません」
「ははははは。
薬師の横丁をのぞくと、
朝飯前に百射の弓と
今朝も
「源次郎、そちの歩き方を見ると、まるで締まりがないぞ。それだから弓も剣道も上達しない筈じゃ」
「左様でございましょうか。しかしお
「いや、わしには心得がある。屋内では禅坐、戸外では歩心、一歩でも、不用意には歩いておらん。それに引きかえて、そちの足は、
「元々、足を動かすのは、体を前に出す為のものと心得ますが」
「いや、足は体を運ぶ道具だけではいけない。世の中を踏み上げてゆく心がなくては」
「難かしゅうございますな、考えますると、どう歩いてよいのか、分らなくなりました」
「
「歩術、ははあ、どこかで承りました」
「
「この附近は、南向きのせいか、早咲きにござりますが、
「
「あれは、わけても遅い方で」
「お、錦霜軒で思い出したが――」と吉宗はふと足を
「
「お召とあらば、見てまいりましょう。近頃、
庭を駈け出した源次郎は、やがて黒鍬の
「何ぞ、お庭の手入れに、悪いところでも、お目に触れましてござりましょうか」
と、
「そういう咎め立てをするのではない」
と、吉宗はまず古参の老庭師が心配顔を
「呼んだのはほかでもないが、過日、そちが案内に立って吹上へ参った尾州の万太郎の事じゃ」
「おう、あのお方の事でござりますか。それについて、剛兵衛からも、いつぞや、お側衆まで申し上げておきましたが、お
「いや、何も聞いておらぬ。尾州家の気まま者ゆえ、誰も、なるべく噂を避けているのであろう。――ところでその後、彼は如何いたしているな」
「相変わらずにござります」
「相変わらずと言うと?」
「錦霜軒で寝てばかりおいで遊ばします」
「江戸城の庭が拝見したいなどとは、元々、口から出任せの口実と思うたが、寝てばかりいるとは、合点がゆかぬ」
「時折、あの前を通りまして、それとなく声をかけてみまするが、いつも、御家来金吾様と共に、戸を
「そりゃ無益じゃ。近習の中にも、万太郎へ苦言をするほど勇気のあるものはあるまい。よし、よし。そのうちに、吉宗自身から申してくれよう」
なお二、三、万太郎の行動について、剛兵衛に問い
その頃から、妙なうわさを、吉宗はちらちら耳に入れました。
深夜、船見山の方角に怪し火が走った。また
そんな噂の出所はいつも
もっとも大奥にこんな噂の立つことは、珍しいことではありません。大奥と怪力乱神とはつきものです。
しかし、それを聞くと、吉宗も信じました。
無論、口では笑っていたでしょうが、心の裡では、
(万太郎だな)と、あるべき事とうなずいたのです。
その万太郎の所為にしても、彼には二様の解釈がある。一つは、ちょうど自分と同じ三家の
また一つは、別な目的をもって、
そのいずれか一つに違いないと見たのが吉宗の信ずるところでありましたが、将軍継承問題では、水戸とも暗闘があったところなのに、
けれど妖聞はなかなかやまない。
「狐狸の仕業であろう?」「いや黒鍬の者の
「いえ、いえ、狐狸や
と、その存在性を肉づけるために、さらに臆説が臆説を生じ、うわさが噂を作り出す。――仮に火のない所に煙が立たないものとすれば、異国人の幽鬼とは、何を根拠として起こった説か、けだし大奥の異聞のうちでも、今度のうわさは徳川八世のうちでは新しい怪異でありましょう。
儒官、筑後守新井白石は、前々将軍家時代から久しく
これが初めての
吉宗は紀州の屋敷元にいた時代からこの
「時に
「君美御奉公中には心得ませぬが」
「いや、近い世の事でなくともよい。
「宗門役の御制度、切支丹屋敷の御設置などが開かれました
「ひとつ調べてくれぬか。奉公じまいじゃ」
「数日の
「急がいでもよい」
「取調べました
「いや、
「かしこまりました」
「もはや登城の折もあるまい。余生安楽に暮らすがよいぞ」
「
急がずともよい、とは言いましたものの、吉宗は心のうちで、今日は来るか、明日は届くかと、新井
下向して在府中であった年頭の勅使、
それが、
御錠口にかかる手前の
「
松平源次郎は、紀州家に在った時から吉宗に仕えていた小姓です。その源次郎には、君美から書状のくるのを含ませてありますので、ふと、こう言われた途端に、
「参ったか」
と、吉宗はそれと早合点をした様子でした。
「いいえ、あれではございませぬ」
「何じゃ」と、改まる。
「今朝ほど、黒書院のお庭先にある梅の木へ、
「誰ぞ、まずい歌でも
「どなたの筆やらわかりませぬが、女文字で、
「そうか……」と吉宗は苦ッぽい微笑を頬にのぼせて、「女のしたことでは取るにもあたらぬ。捨て置け」
「
「それでいい、何事も、聞き流しにしておくがよかろう。いずれ、水戸か、尾州か、吉宗に心よからぬ大奥
寛容に笑ってみせましたが、
「吹上の
吉宗はこう思って、しきりとそれへの対策を考えておりましたが、いわば内政の醜いこと、明るみへ出して争うのは、新将軍の威厳にかかわる。
そこに辛さがありました。
「憎むべき万太郎の悪戯――さて何としてくれようか」
じりじりと思いつめた揚句、ふと、こうもしようかと案に浮かんだ一策、源次郎に旨をふくませて、ついにある夜のこと、本丸の寝所からこっそりと外へ忍んで出ました。
本丸の
「源次郎」
「
目と目にうなずき合って、番士の眼をおそれながら、ひらりと
その支度は、二人とも黒の頭巾、そして総身黒の
しかしながら、彼と小姓が、あんな姿で、この
こよいも錦霜軒から起き出して、吹上の奥をさまよい歩く覆面の人影が二つ。
「夜更けになっても、一頃と違って楽になった。春だなあ、金吾」
「早いもので、もう二十日余り、よく御根気がつづきました」
「根岸に残しておいた月江や次郎、そして
「釘勘へは、先日、黒鍬の剛兵衛殿に手紙を頼んで、近況を知らせておきました故、まず、御無事の点だけは、安心いたしているだろうと存じます。……しかし若殿」
金吾は前後の木立を見廻して、万太郎に
夜は三更か四更か、とにかく深々たる
しかし若殿――と声をひそめた金吾は、四隣の気配を探ってから、
「意気地のない事を申すのではありませんが、ここ二十日余りの間に、夜ごと、船見山、
「ウム、今のところでは、殆ど何らの得るところもない」
「金吾が愚考いたしますには、恐らくこれは、徒労に終るのではないかと存ぜられますので」
「なぜじゃ」
と万太郎は少し色を
「いや、さりとて決して、
「だから、どうせいと申すのか」
彼の一念を
「将軍家の御不審を求め、またまた、御本家へ迷惑を及ぼさぬうちに、御断念なされた方が賢明ではないかと心得まする」
と、ツイ
案の如く、万太郎は取ッてもつけない
「金吾、そちは精が切れたとみえる。嫌なら去れ、わしは突き止めるまでここを去らぬ」
「精が切れたとは、お憎いおことば、左様な金吾ではござりませぬ」
「ならば、なぜ左様なことを言い出して、わしの捜索に励みをつけぬか」
「もしや将軍家の御不審もやあると、ただ、尾州家のおん為に、それのみを
「そちは、何かにつけて将軍家将軍家と、吉宗に
「いや、その心持は違います」
「大事はない、前もって、彼の諒解も得てあることだ」
金吾は黙ってしまいました。
「……是非のないこと」と独り思い
――やがて、金吾は前の
「若輩者の
「するな! 万太郎は思い立った事を、
そうした主従の話の間に、カサコソと、疎林の中を踏んでうしろへ近づいて来る者がありましたが、作兵衛滝の水音に二人の神経はそれとも知りません。
どうとうと鳴る水の音に、四囲のものの
近づいて来る足音を、二人が少しも知らなかったように、疎林の中をカサコソと歩いてきた何者かの黒い影も、そこに万太郎と金吾が腰を下ろしていた事をば、さらに意識もなく足をすすめてまいりました。
樹と樹の枝にせばめられた細い小道からヒョイと一足踏み出した途端に、当然、不意にその姿を見合った両者は、
「あっ!」
と、
「何者だッ?」
金吾は伏せ身になって白眼を射向け、万太郎は素早く立ってその人形の横を挾む。
ギョッとしたらしい相手の影は、
おお、その手の白いこと! 夜目にも綺麗な手をしている! そしてその手は抜き打ちの閃光を吹かんとして、刀の
(違いない、いつぞや会った
いつか、
また、その前後、二、三度影を見かけた肩幅の広い覆面も、二人には常から解けない疑問でありましたが、計らずも、重ねてここで
「金吾、逃がすな」
いいつけると、一方も、
「心得ております」
と、すでにその気で、手捕りにしようとするものらしく、先の
相手は進退に窮しています。
うしろは松や
前には、手に
「柳営の者か、外から忍び込んだ賊か、名を言え、名を申せ、次第に依ってはゆるして遣わさぬものでもない」
念のために、万太郎がもう一応こう言ってみましたが、相手が立ち竦んだまま返辞もせぬので、さてこそ、
「あっ、若殿!」
先を制せられて、金吾が思わずこう叫んだのは、あながち敵に
案のごとく万太郎は、相手を
「おのれ」
と、自分も
ところが、その一瞬です。
ザザザザッ――と嵐山の上の方から、風の神でも降りて来るように、あわただしく
――と、その山猫のように
「ああッ……」と、身をよろめかしたのは万太郎で、突然来たその男に、肩を突き飛ばされたものと見えました。
と言って男は、そこを一顧もするでもなく、何に慌てているのか一目散に、そのまま
「待てッ」
一飛躍して追いかけた金吾が、その長反りの刀の
鐺をつかまれた相手の男は、慌てもせず、ガッシリしたその体躯をひねって、
「ちぇッ」
舌打ちを鳴らしながら、金吾の襟がみをつかんで無造作に振回そうとしかけました。
小兵なりといえど金吾、さはさせじとあるべきところです、その手をパッと払い上げると、両々の体が相迫っている機をすかさず、
「えいッ」
と試みましたが、空を
相手は
逃がした! 残念――と彼もつづいて走ろうとした刹那です、ふと忘れてしまった万太郎の声で、
「金吾、金吾ッ」
と、助勢を求めるらしく、何かしきりと慌ただしい。
「オオ」
気がつけば一方にも、今二人して立ちすくませた、異装
両兎を追うもの一兎を得ず、逸早く、金吾はきびすを巡らして前の所へ戻って来ましたが、もうその時は万太郎の方も、優形の覆面を取逃がして、
「その林の中へ逃げこんだのじゃ。こよいこそ、追詰めて、
しかし、奥へ奥へとすすむうちに、林の小道は幾筋にも分れ、或いは渓泉に切れ、或いは丘の上下にうねり、遂に逸した優形の男の影は見つかりません。
その間に一刻の余も費やしたと見えて、ぼやっとした
その
「意外な所へ出たな、ここは何処であろうか」
「やはり吹上の一部でございましょうが、とんと覚えがございませぬ」
「思い出した、お
「やっ、最前の奴があれに居るぞ」
「えッ、どこに?」
金吾もひとみを
「身を隠せ」
「はっ」
ばらばらと、横に駆けた二人は、芝生の平庭に、臥牛形に寝そべっている巨石のうしろに体を
「あの弓小屋の裏から歩いて来る者を見ろ」
「オオ、なるほど、二人連れで……」
「察するところ、最前は別々であったが、あの優形の者と体の大きな男とは、同類なのに相違ない」
「ウーム、或いは、そうかも知れません」
「今度こそ逃がさぬように。よいか」
「金吾にお任せ下さいませ、きっと、一名だけは捕り押えてごらんに入れます」
「いや、相手が連れ立って来た以上、そち一人では手にあまる。わしは一方の、優男を組みふせるから、そちはもう一人の者へ
腕をさすッて、
機先を制するつもりで、万太郎、
「うごくな!」
ぬッくと立って両手をひろげると、金吾も
しかし相手は前とちがって二人組なので、意を強くして出直して来たものか、今度は逃げ腰も見せず待っていたぞと言わないばかりに、
「
かえって、万太郎と金吾へ曲者呼ばわりをしながら、猛然と、逆に攻勢を取って来ました。
曲者の曲者呼ばわり、沙汰の限りな図々しいやつではある。今に、その覆面を引っ
――万太郎は勇敢でした。
彼が勇敢なる
それと見て、
「あっ……早い」
と注意をしたのは金吾です。――金吾は何しろ万太郎のその無鉄砲が見ていられません。
相手の身構えには、立派な用意が備わっております。
で――思わず、金吾がアッと言いましたが、もう万太郎は
と思うと案の定です。
「えいッ」
鋭い一喝!
しまッた――と叫びながら万太郎、敵の矢筈にかけられて、でんと大地へ投げ捨てられました。
金吾は金吾で、べつな覆面の男と対して、互いに機を計っておりましたが、それを見ると、万太郎の危険を感じて、不意に、彼を役げた男の方へ助勢に駆ける。
「卑怯」
逃げると見たか、こういうのです。
そして、一方の覆面が、彼の帯
「何をッ」
「曲者! 神妙にいたせ」
こいつ、いよいよ法外もない言い草と、金吾はむッと怒りながら、
「だまれ、おのれこそ怪しいやつ、その
つかみ止めている、彼の腕くび、それを
もがく敵の腕を膝下に敷いて、
「うう……」と、彼の下の者は、くちびるに歯を当てたまま、もうちょっとの身うごきもなりません。
さて、こッちはこれで片づいたが、
「どうなすったろう? 万太郎様の方は」と、そのまま、
それへ助勢に向おうとして、金吾は一人の敵を
しかし、それにも及ばなかったことは、ここを先途と善戦した万太郎が、最後の鋭い
そして、金吾と同じように、
「しめたぞ」
と叫びながら馬乗りになり、さらに、その得意そうな顔を
「金吾、組み伏せた!」
「オオ、お
「なんの、案外もろい奴じゃ」
万太郎はこう言いながら、そも何者か、正体をただしてやろうと組み伏せた男の覆面をムズとつかんで、その
「いけない、いけない! 金吾ッ帰れ」
二人の巣としている
「あとを閉めておけ。戸を。戸を……」と息をきって錦霜軒の中へ駆け込んだ万太郎の
「どうなさいました、若殿」
金吾は合点がゆかないので、座に着くとすぐにこう訊ねましたが、
「水を……」
と、彼の色は紙より白い。
裏の流れへ出て、
「ああ、驚いた」
と、初めて人らしく呟きました。
「実に、意外でございましたなあ、折角、組み伏せた怪しいやつの面を見てやろうとした途端に、いきなり若殿が駆け出されたので、金吾には、何が何やら一向理由がわかりませぬ」
「いや、そちの驚きはまだしもの事よ、この万太郎は、生れて以来、あのような意外な目に会った覚えはない」
「とはまた、一体どうした
「力闘して、やっとわしがねじ伏せたあの覆面じゃ」
「はい」
「そも、何者かと、そちは思う?」
「分りませぬ」
「吉宗じゃ」
「げッ、……将軍家」
と言ったまま、金吾も色を失って、さすがに二の句もありません。
まさか――と疑いたい程ですが夜目に
「すると先頃から、嵐山の
「どうも、そうであったと見える」
「しかし……」と、金吾は少し小首をかしげて、
「拙者の組み伏せた男の方は、どうもいつもの男とはやや違う気がいたしまする」
「どう違うというか」
「第一肩幅、体のこなし、そしてつかんだ腕のもろくもねじ得た事などが、あのウワ
「すると、初めの覆面の男とは、別人であると申すのじゃな、だが待てよ……そういたすと、吹上の深夜に、
「まさか、そう幾名もおるわけはございませぬが、とにかく、別人には相違ござらぬ」と金吾は、それだけを断定しましたが、何としても胸づまりなのは、将軍家へ対しての失策です。
「なんの! 吉宗の新将軍づらに、わびをするなどは
夜になると、かれの眼は冴え、心はしきりと
金吾が案じるのを、
「捨ておけ!」
言い放って外へ出る。
――いつもの支度、
それから約七日ばかりの間、
すると、その晩は、春にはめずらしく、水気のない空に、常よりは明るい月がかさもにじませずにヒッソリとさえていた夜半でした。
型のごとく、錦霜軒を出た二人が、その晩に限って、嵐山から山里の
そこは、千代田のお
「やっ?」
足を止めた万太郎は、もう
「金吾、あれはよもや、吉宗ではあるまい」
姿を隠してささやきました。
前の失敗にこりているので、金吾も充分に注意しながら、藪の蔭を這って近づいてみると、どうもいつぞや広芝で組伏せた者とは、その柔軟な輪郭が違っています。
「あっ……」
途端に、勘のするどい
が――そこは枯れ木の柵があり、柵の外には万太郎がひそんでいたので、
「待っていた!」とばかり、彼がそこをつき破って出て来るところを、大手をひろげて飛びかかる。
――と思うと一閃の流刃が、月光を切って彼の真ッ向へ鳴って来ました。かわしましたが万太郎は、その切ッ先に手の甲を掠められて、ピッと散った冷たいものに、はッと気をすくめると、そのせつなに、艶めいた
「ええ、またしても!」
今は、意地です。
指の先から血を散らしながら、追おうとすると、十歩ばかりの間隔の先で、
「やッ」
声と共に、飛んで来た
「たしかに、吉宗とは別人。きゃつこそ曲者!」
金吾も追う。万太郎も飛ぶ、
いつかの夜とは違って、
かなたこなたと追い廻された優形の男は、かなり狼狽した様子で、やがて、息をせきながら、裏山の一端まで逃げ込んで来ると、厚ぼったい
「もう袋の鼠だ。あの堂の中へ逃げ込んだのが運の尽き」
「のがれぬところと、観念したものと見えまする」
それと、ふと頭を
目白の丘の石神堂、
この江戸城も、遠い昔は、やはり武蔵野の一部であったことを思えば、なんのふしぎもありませんが、彼には、ふしぎな奇遇のように感じられてならない。
何はともあれ、彼は金吾と共に、その
しかし、そこにはもう誰も居ません。二坪ばかりの
「不思議な」
茫然と、二人は顔を見合せて、
「居ない」
と、さらに言葉を同時にしました。
「たしかに、この堂の内へ逃げ込んだと見たが、金吾、そちの眼にはどう見えた」
「拙者も、
「おらんとは不思議千万、もしや……」と天井から床板へひとみを落とした時、万太郎はハッと足をひらいて、
「ここだ! 床を上げて見い」
「オオ」と膝を折った金吾が、喜連格子を洩れる月光に、よくよくそこをすかしてみると堂の一隅の床板が一枚、こころもち浮いています。
ぽんと、その床板を払って見ると、
「どこだろう? ここは」
「築城には秘密として、知るものはございませぬが、これこそ、うわさに承る、汀戸城の間道ではございませぬか」
「ウム、或いはそうかも知れぬ。――金吾、火をすってみい」
「はっ」
金吾は
「オオ、土肌に
と万太郎の前へそれをかざす。
燃え尽きると、すぐあとの
越後三徳流
「読めた」
附木の火の燃えつきたのを、ふッと捨てて、
「ここが
「しかし、これには、二道ありと
「まあよいわ、とにかく急げ」
無音、無明の間道です。いかに何でも、月光の下を飛ぶようには行きませんが、とにかく迷わずに進みました。
すると、岩壁の誌文にたがわず、間道は途中から二股にわかれています。そこで、二人は、そのいずれへ行こうかについて、しばらく案じ合いましたが、結局、万太郎は北方の一道へ向い、金吾は西へ向ってその出る所をつき止めることに一決しました。
西道は白丘に通ずと言い、また、北道は渓水より
この二筋の間道――分れて何処へ出るものやら知れませんが、とにかく外部へ出るものと仮定して、
暫く
「意外、ここはお茶の水の谷底だ」
そうです、やがて彼が出た所は、
のぞいてみると、水の色がかなりに深い。流れの幅は七、八間ばかりで、すぐ向うに岩壁が見えますが、とても足で渡り得るような浅瀬ではありません。
「はてな? ……」と当惑して、樹木の枝がふさいでいる間道の上を仰ぎましたが、そこからも、猿でない以上は、何処へも登る足がかりがないので、しばらく、
月明りとのみ思っていた水面の明るさは、いつか夜明けであったとみえて、彼が、当惑しているひとみの前は程なく輝かしい
と――茗渓の上の方から、
「あぶねえ、あぶねえ、おれがやるから
「なに大丈夫だよ」
「だって、
「臆病だなあ、おじさんは」
「何も怖がるわけじゃないが、物見遊山じゃあるまいし、舟が廻ってばかりいちゃしかたがねえや」
人声がする――一
「オオ、そこへ行く舟の者、ちょっと向うまで渡してくれい」
彼があわてて呼びかけると、
「おッと! 舟を止めろ」
一人の持っていた
「
と、万太郎が、ぽんとそれへ飛び込んだ途端です。
「やっ、あなたは!」
「オー、そちは釘勘と、高麗村の次郎ではないか」
「万太郎様とは少しも気がつきませんでした。して、どうしてこんな所に?」
「いや、仔細は
「実は少し心当りがあって、ゆうべから夜通し、このお茶の水を漕ぎ廻っていたのですが、夜が明けたので、桐畑の家へ帰ろうとして参ったところです」
「では、わしと一緒に、根岸の方へ来てくれぬか。そこへはやがて金吾も落合う約束になっている」
「いろいろ申し上げたい事もございますから、すぐにお供を致しましょう」
「だが、舟は」
「紅梅河岸の番屋へ預けてまいります」
互いに聞きたいことも積っていますが、そこでは要談もムダ口も制して、舟から上がると駕を
そこへ着くと、次郎は誰より真っ先に、屋敷の庭へ駈け込んで行く。そして、
「お嬢様! お嬢様! 万太郎様がお帰りでございますよ」
ありッたけな声で月江の部屋へ向って
そう聞くと、われを忘れて、障子の内から
「えっ、万太郎様が、お戻り遊ばしたって?」
「次郎や、ほんとにかえ?」
「嘘ではございません。嘘だと思うなら、玄関の方へ廻ってごらんなさい。……だけれど、お気の毒様なことには、お嬢様の大好きな、金吾様は御一緒ではございません」
「まあ。次郎があんな事を言って!」
「オヤオヤ、お嬢様が今にも泣きそうな眼をして来た。だが、お笑いなさいまし、御一緒じゃありませんが、金吾様も、今日は後から此処へ来るそうです」
次郎が
万太郎を主座にして、月江、釘勘、次郎、おりん、こう五人が何かの話に時刻のうつるのを忘れていると、
「
と、ここで落合う約束のあった金吾が、遅れ
万太郎は、待ちかねていて、
「そちの向った間道は何処へ出たか」
と、何よりも先に、それを訊く。
そして、自分が出た地点と、釘勘や次郎に出会った理由を話します。
金吾は膝をすすめて、
「拙者が歩みました西道は、行くこと暫く、やがて、空井戸のような所に突き当ったのでございます。四方は削り立った岩面、上へのぼる手がかりもないので、
「やっとの事で、這い上がってみますと、そこは古びた一宇の堂内……
「ウム、その堂内に抜けていたのか」
「されば……出て見ますと、人も通らぬ森の中で、何処かの丘と思われました。で、坂を下ると、程なく例の切支丹屋敷の門前に出ましたので、ほぼ地点の見当もつきあれから急いで参った次第です」
「ヘエ、するとそこは、あの切支丹屋敷の近くなんですか」
釘勘はかつて見た、目白の丘の石神堂を思い合せて、ふしぎな念に
「して、そちが今日、次郎と共に、お茶の水を下って来たのはどういうわけじゃ」
「それも、ただ今細かにお話しようと思っていたところでございます」と話は釘勘の方に移って、彼の口から、その後、次郎が突き止めたお蝶の行動や、日本左衛門を大川端の隠れ家から逸したことなどを語って来て、
「――すると、前夜のことでございます。神田川の土手下から妙な侍がお茶の水の崖へ這い込んだという、番屋からの知らせがありましたので、それを探しに参ったところが、夜ッぴて、舟で見て廻りましたが、何の
「では、番屋の者が認めたという、その侍の
「そういう知らせがあったのは、一度や二度の事ではなく、あのお茶の水の崖上にある、
「ふウム? ――」と万太郎は金吾と眼を見合せて、自分の踏んで来た径路に
「どうじゃ金吾……わしは何か一
「拙者にも、おぼろげながら、吹上に出没する曲者の輪廓が、心に浮んでまいりました」
御隠家様の殺害された当夜、彼の部屋から失われた
疲れているので、一同はそれから一
そして、その密議がまとまると、万太郎と金吾は、ふたたび例の間道から江戸城へ戻り、釘勘は次郎を連れて、お粂ひとりの留守をしている桐畑の
――お
彼は
奉行所へ送り込めば、死罪をまぬかれない凶状のあるお粂を、目明しの自分が、ひそかに家に隠しているのは、まったく相良金吾の頼みをうけてしたことです。
金吾は、お粂には怨みもあるが、また再生の恩義もある。ことに、あの螢の飛び
で、甲州から差立てられる時、金吾がひそかに、その助命の工夫を、釘勘に頼んでおいたものとみえます。しかし、いつまで現在のままでも置けますまい。
この処分は、彼の胸の宿題でした。
やっとそこらの
そこの小座敷には、初期の浮世絵師が
「おうお蝶か。きょうは来ぬかと思うていたが」
ふと見ると、屏風の蔭に、
日本左衛門です。――むっくりと起きて、
「一風呂浴びて来るから、待っていてくれ」と、手拭をとる。
「ええ、ごゆっくり」
お蝶はニッコとしながら、袴腰の若衆すがたで、何もかも打解けた世話女房のように、あたりの物を片づけます。
この額風呂の庭には、植込みもかなり多いので、離れの一棟も
それを、濡れ縁の端から見送っていたお蝶は、彼の姿が隠れると、キッと眼くばりを変えて、部屋の四方を見廻しました。
しかし――
が――やがてうしろを見廻しながら、お蝶が隅の地袋へ屈み寄って、その袋戸を開けますと、一個の包がかくしてある。
「オオ……」と、彼女はすぐに、解いてあらわれた品物へ目を見張ったのです。
ちょうど書物でもくるんである程な大きさに見える包の中には、薄絹で作った、忍びの
その欠けたる方は、たしかヨハンの手に渡っているはずで、今は、ヨハンからお蝶の手に与えられている。
完全なものが両分して、完全な秘図の用をなさない以上、各その一方を求めているのは想像に難くないことで、お蝶も日本左衛門も、口にも色にもそんなことは微塵も現しておりませんが、心の
(そうだ! 今のうちに)
彼女のひとみに、そういうような意志のうごきが険しく見えたかと思うと、お蝶の手はすばやくそれを元の通り包み込んで、自分の、袖の下へ抱えようとしかけます。
すると、不意に濡れ縁の障子が開きました。
「おやっ? ……」
「あっ……」とお蝶はあわてて地袋の中へそれを戻して、何気ない顔を作ってひとみを上げますと、日本左衛門ではありません。
「こいつはいけねえ、座敷ちがいをしてしまった。へへへへ、つい酔っているもんですから、飛んだ失礼をして、ごめんなすっておくんなさい」
無論、
ですが、町人の去ったあとも、いつまでもお蝶の胸は動悸が納まらないように、あの
「ああ、よかった……」
と暫く胸騒ぎをおさえています。
こうして、ある時は女のまま、ある時は若衆の男姿で、恋に寄せて、彼に近づいておりますが、もし今の挙動を、あのけい眼な日本左衛門にちょっとでも見られたならば、もう彼女の運命も長くは無事でいられません。
すると、すぐその後へ、濡れ
「アア、さっぱりとした」
だるそうに湯上がりのした両足を、畳の上へ投げ出しました。
彼の姿を見た途端に、お蝶の
「すこし髪がくずれましたのね、私が、
しなやかな白い指が、自分の髪の根へこころよい櫛の歯をくり返すのに任せながら、
「おれが風呂場から出て来ると、この離れの植込みから、飛び出して行った男があるが、座敷をのぞいて行きはしなかったか」
「何ですか、座敷ちがいをして来たと言い訳をしていましたが妙な素振りだッたんですよ」
「犬だろう。またここにも長居はできねえ」
「でも、きょう一日ぐらいは大丈夫でしょう」
「まあ日の暮れねえうちはやって来まいが、油断をしていると、この前の時のように、飛んだ泡を食わなければならねえ、明日は少し方角を変えて、山の手の
「じゃ、わたしが、また
いつのまにか、櫛はどこかに姿を隠して、白蛇のようなお蝶の両腕が、うしろから日本左衛門の肩にからんでいます。
で、その肩越しに、お蝶の頬が彼の頬へすり合うように寄りついて、その髪の香、肌の香、ものを言う息のかおりまでが、
「ね、行きますよ、白梅亭へ」
「同じ
「お前は、なぜ一つ宿に、泊まっていないのだ。そうすれば、滅多に犬に嗅ぎつけられることもないのだが」
「だって、日が暮れると、あなたこそどこかへ出て行ってしまうんですもの」
「そりゃ白浪の世渡りには当り前だ。おれたちが、夜をムダに過していちゃ、飯の食い上げになるだろうじゃねえか」
「だから、私も
「家へ? ……」と、男の眼が自分へ来ると、お蝶はあわてて打消して、
「家と言っても、わたしに家なんかありゃしませんけれど、そッと、切支丹屋敷へ寝に帰るのよ」
「それが、おれには少し、合点がゆかない」
「なぜ?」
と、お蝶はまぎらすように、男の体をゆすぶりましたが、彼の面持ちはやや真面目です。
「なぜというまでもない話だ。あの切支丹屋敷は、お前にとっては、怖ろしい
「エエほんとに、怖ろしい故郷ね、あそこの憶い出に、一つだッて、いい
「まして、宗門役人のいる場所だろう、それを、所もあろうに、毎晩そこへ寝に帰るというのは少しおかしい話だ」
「ところが、今のような、岡ッ引や何かが絶えず
いかにも、その合理的な事は、日本左衛門にもうなずけます。しかし、いわゆる敵の営中に眠って敵を眠らせぬというような大胆な
理にうなずいても、やはりその点では、彼はお蝶に油断ができないと思っています。
けれど、いくら心を許すまいと思いつつも、こうして、自分の愛撫を求めてやまない
まして、日本左衛門という男には、愛といい情けという形だけのものにすら、常に
率八の
そのくせ、日本左衛門の悩ましそうな態度や、お蝶が、危険を冒して毎日訪ねてくる様子などを見ると、表面いかにも熾烈で、他愛のない
その矛盾は、夕方になると、二人の顔いろにあらわれます。
お蝶が来る――障子が閉まる――二人のささやきが甘そうにもれる――姿も見せないで半日が暮れる。そして、夕方が迫る。
こういう順序が、額風呂の離れへ来てからも、毎日
「やっ? ……誰かこの袋戸に手をふれたな」
彼女が去るとすぐ後で、こう気がついて
「ちッ、――さてはお蝶が……」
嫌疑はお蝶に走るよりほかはない。
まだ宵ですが、いつもそうする事なので、離れの雨戸を閉めきると、寝につくように見せかけて、中で
彼は、神田川の
「切支丹坂の下までやってくれ」
――と、知るか知らないか、やがて、あの急な暗やみを、ヒタヒタと小走りに降りてくる姿をすかしてみると、
「待て!」――とその前へ、大手をひろげて立とうとしましたが日本左衛門は、今夜というこの機会に常に
見ていると――かつて、自分が官庫に忍びいる時、足がかりにした見覚えのある塀際のムクの木から、その姿が苦もなく山屋敷の中へ飛び越える。
「あっ……あの高い塀を」
驚くべき敏活な動作を見せつけられて、日本左衛門すら、その姿を追うのに心を
「ヨハンや……ヨハンや……」
敏捷に忍びやかに、榎の下の石牢まで寄って行ったお蝶は、
「ヨハンや、今帰ったよ」
極めて低い声でその鉄窓をほとほととたたきました。
「オオ、お
陰静な答えが暗で応じます。
「入口をこしらえておくれ」
「ただ今」
「ああ、これはどうした事だろう? ……」
さすがの彼も、この奇異な事実を目のあたりに
ほとんど、地をはうようにして、鉄窓の外に耳を付けてみると、黒い
「どうなさいました、その後の首尾は?」
こういうのはヨハンの声のようで――
「この頃は、ここへも
「ヨハンや、よろこんでおくれ」
「では、私の想像があたりましたか」
「まだそこまではゆかないけれど、近いうちに、私はきっと、夜光の短刀を手に入れてみせる」
「オオ、定めし、御苦心でございましょう、お体もお疲れでございましょう。……けれど屈してはいけませぬ。私が使いにやった切支丹族の者も、もう長崎に着いていましょう。そして、
幸福の船出といい、
ただ、その言葉のうちの端的な意味に、ふしぎな耳をそばだてるのみです。
ヨハンの囁きが切れると、さらに低いお蝶の声で、
「じゃ、敦賀津の港へゆけば、私を乗せて行ってくれる、
「はい、夜光の短刀さえ手に入れて参りますれば、すべてのことは、船のカピタンが心得ていてくれます」
「夜光の短刀の方のことは、もう私の物になったのも同じだよ。なぜかってヨハン、これを見ておくれ……」
「おっ……これは
「私の手にある図面と合せて、これでピッタリと
「図面がそろえば、一目で
「ウーム、おれは何という愚か者だろう。お蝶のような小娘の手くだに、今日までうまうまと乗せられていたのだ」
鉄窓の外に体を屈していた日本左衛門は、思わず心のうちでうめきました。先には、お粂に苦い経験をなめさせられ、今またお蝶に首尾よく
元々、彼はお蝶というものを、一個の不良少女ぐらいにしか思っていない。それが、夜光の短刀を目がけていたり、牢の中のヨハンが糸をひいていようなどとは、今初めて投げつけられた驚愕です。
恋と慾を両
「おのれ、どうしてやろうか」
石室の奥では、ツギ合せた
「これだ。オオここだ……お
「ではやっぱり、あの薬草の中には違いなかったのねえ」
「そうです。ま、お待ちなさい……。ウム、判りました。一方の符号と一方の解を考え合せてみますと、つまり、薬草園のうちの北の境から九十六歩、東の崖から四十四歩、その三角線の中心にあたる所に、一基の石を乗せた古塚がある」
「塚? ……あったかしら? ……そんなものが」
「塚は
「まあ、そんなことまで
「場所が江戸城の奥のこと故、ここまで突き止めた
「だけれど、それも江戸城だけの伝説じゃないかしら?」
「伝説かもしれません。おそらく現在の江戸城に棲むものは、何でそんな所に奇異な塚があるのか、疑ってみることも忘れているのでしょう。けれど、あながち世の伝説は、みな架空なりとも申されますまい」
「そうね、きっと、その塚かも分らない」
――暫くそこで言葉がとぎれる。
何か、帯を解くような音がする。そして、
「じゃあ……ヨハン」
お蝶が立って来るのかと、日本左衛門が身をすくめ込むと、
「お蝶様、聞くことを忘れておりましたが」
「なアに」
それから、少し改まったような、ヨハンの声音でした。
「あなた様はこの
「日本左衛門に近づいて、やっとの思いで手に入れて来たんだよ。……ヨハンや、お前はそれが何かふしぎなの?」
「いいえ、不審とは存じませんが、あなた様は、
「どんなことを?」
「――私は日本左衛門が忘れられない……と」
「ああ、私は、そう言っていた」
「あの男が恋しいと仰っしゃいました。あの男の妻になりたいとも言ったことがございます」
「アア、私は、そう言ったよ」
「では伺いますが、あなた様は、今でもそのお心でございますか?」
お蝶は黙りこみました。しばらく返辞が洩れません。
答えに窮したものか、お蝶は暫く黙しておりましたが、
「……分らないわ、今の私には」
そして、ヨハンがまだ何か問い詰めようとする先に、
「私のすることを見ていておくれ、永い目でとは言わないのよ、ここ二晩か三晩のうちだから」
ヨハンは暝目しながら十字を切って、彼女の足元へ
「お
――が、その途端に、彼女の白い
鉄柵の一端に
ハッとして、物蔭へ身を
「ウーム……」と思わず出る唸き声が、
ヨハンの石
飛鳥という形容は、それから刹那の先に見た、お蝶の行動にこそふさわしいことばでしょう。
その足が、以前の
長い高塀の角を横に曲って、
こんもりとした森と森の間を抜けると、
「はてな。どこへ行くのか?」と、後を慕ってゆく日本左衛門は、さながら彼女のために五里霧中を引き廻されているような気がしています。
――すると、その足音を聞きとめたか、四方の樹の蔭から、ぽかと、四ツ五ツの
見ると、提灯には一つ一つ、明らかに「御用」と記してありますから、さてはと、日本左衛門はギョッとして笹むらの中へ身を伏せましたが、意外なことにはお蝶はすこしも驚いた様子が見えない。
いや、驚かないばかりではありません。
「あら、
「ヨハン様のお申し付けで、石神堂を見張っているのでございます。どうやらこの間道は、誰やら一度通ったらしい形跡があるので」
「あるとすれば、いつぞや私を追いかけて来た、相良金吾かも知れない。先でも、この頃は薄々覚ってきたようだからね」
「そこへ足を踏み込むのは、虎の穴へはいるのも同然で、ずいぶん危なッかしい仕事だと思いますが……」
寄り集まった明りの中には、かの
「あぶない事は、素足で刃渡りをするようなものさ。だけれど私は行かなければならない……もし、三日のうちに、ここへ帰って来なかったら江戸城の土になったものと思っておくれ」
「みんな!」
突然、梅市が「御用」と書いてある
「――お姫様のために、お
ゾロゾロとひざまずくと、一団の人影が、やや暫く、声なく、身うごきなく、じっと、首を垂れている。
――その
カランと堂の中でひびいたのは、
醒めたる如く、それに首を上げた切支丹族の者たちは、火のない御用提灯をふところに畳んで何処ともなく立ち去りました。
後は、ごうッ――と、空を
御府外
中で最も古いのは雑司ヶ谷の西お薬園で、そこの奉行をかねながら、閑役の余暇に本草の研究に没頭しているのは小野
暁台、今も屋敷の書斎にはいって、何か
「桃園の筑後守様がお見えでございますが」
と、門人の取次でした。
中野桃園の人といえば新井
「おお、
筑後は門外に駕を待たせて、もう式台へ来ております。
「おめずらしい事ではある。さあ、こちらへ」
自身案内に立って書院へ通る。
「時に、今日伺ったのは」
と初めて要件をもちだしました。
「なんぞ折入ったことでも? ……」と暁台も膝を改めます。
「ほかでもないが、近ごろ
「人参畑の薬園は、手前の祖父小野
「そこの人参畑の血塚は、一体、徳川御開府以前のものであろうか、以後であろうか」
「祖父の蘭岳が、お
「慶長の甲寅は十八年、大坂攻めを遊ばした冬の陣の当年で、神君の御発令により、大久保
「塚もその当時に建てたものではあるまいかと心得ます」
「して、以来あの塚について、何か変った話は残っておるまいか」
「と申せばあの塚の附近で、よく下役の耕作人が怪我をいたす事で、それと、秋になると、塚の
「ほう?」
「しかるに、数年前に、手前が長崎表へ公用で参りましたせつ、その
「なるほど、それで自分にもおよそながら
彼は要件をすまして中野の隠邸へ帰りました、
当代の
数日前から、諸書の記述や諸方の考証を
――近ごろ、大奥にかしましい妖説は是か非か、
果たして、白石の探究によっても、そこがピオの最後の地と見極めがつけば、ピオの通信が本国へ絶えた紀元千六百〇三年以来、ローマの人々が千里を遠しとせず探しぬいて来た王家世襲の宝刀、夜光の剣も、意外なところから、この世の朝光を浴びることになるかも知れません。
そこは、城内御薬園の一部。
北の境から九十六歩、東の崖から四十四歩、三角線をえがいて中心にあたる所、
四方をかこむは、高々とした
「ところで、他言を禁じるぞ」
こういったのは若き吉宗、
「はっ」とその左右、指先を土について、居流れたのは近側の旗本、土屋
また一方には、
吉宗は平服、それも例の素服、旗本たちは
「突然、その方たちをここに集めて、塚をあばけと申せば、いかにも吉宗が怪を好むやに思うであろうがこれには仔細があることじゃ、源次郎、筑後守からまいった調べを一同に読み聞かせてつかわせ」
命をうけて、松平源次郎は、黙念と一礼して、ふところから一
白石が復命した調べ書です。
――原文はあまり長きに失しますし、本篇の筋には関係のない部分もありますから、ここに概要だけをつまんで申しましょう。それはつまりピオの生涯記です。
……………………………………
彼は、
その動機は、首都における王族間の内乱と、失恋であると想像される点があった。
ピオは初め、
それは、慶長八、九年前後であった。
当時は、秀吉歿後、いくらか、異教徒の往来もあり、伝道も黙認されていた。ピオの目的は、関東京坂の
天下は二勢力に分れていた。彼は大坂の秀頼の許しと、関東の大御所の印可とをあわせて得て、日本に一大
そういう通信は、故国の
なぜ、ピオが山へ隠れたかというと、当時すでに、関東大坂の交渉は風雲険悪になりはじめて来て、その
その事件が関東方の神経を
つづいて、関東の老将軍家康は、突然禁教令を発し、多くのばてれんを斬り、教会堂を
ピオの山岳生活は知るよしもない。しかし、彼は三年目に、もうほとぼりも
けれどピオはそこにも長くいられなかった。忽ち、徳川家の武士の知るところとなって、
江戸城へ送られたその年が慶長十九年。ちょうど関東大坂手切れとなって、大御所の
そういう際であったせいか、ピオは深い吟味をうけた様子もなく、出陣の血祭に、江戸城の庭で斬られたらしい。死骸は小者の手に渡って、無造作に
どうして、鶏血草がそこに咲くか、それは想像であるが、恐らく、ピオの所持していた
迷信は迷信を生む。以来、江戸城の三代、四代、五代、とかく奥庭で怪我をすると、塚のせいにしたがった。
……………………………………
白石一流の文章と「以上、聞いたとおりな次第であるが、そこでじゃ」
と吉宗は、ズウと一同の顔を見渡します。
「そこで……」と語をつづけた吉宗は、先頃から忌むべき噂にのぼっている吹上の妖について、最後の断案を下して言います。
「――察するところ、
頭を垂れて聞き入っていた一同は、黙然として頷き合いました。微風にうごく梢の陽蔭は、幾つもの顔や肩や塚のあたりを
それから、どんな秘命が吉宗の口から出たものでしょうか、やがて、旨を含んで、「はっ」と立った一同は、
まず
太陽の
七尺の地底――あばかれた白骨はそも何を
* * *
夜になりました。
山里、
ギイ……と石神堂の
白い顔の端が外の赤松の林をのぞきました。
お蝶です。――小石川の石神堂の穴から江戸城の
大丈夫――と見ると、お蝶の姿はむささびのように松林から船見山を越えて行きます。すると、すぐまたその後から、同じ石神堂を飛び出したのは、日本左衛門の憤怒に燃えている姿です。
一陣、二陣、吹き去る風の
「よかろう!」
何処かで、こう言った人声がする。
――と共に、堂の裏手や、四方の木蔭などから、
「早くいたせ、こういう場合は神速でなくてはならん」
四、五の人間は剛兵衛の使っている黒鍬の男と見えて、彼がこう指図をすると、「はっ」と
「これでよろしゅうございましょうか」
見張りに立っていた剛兵衛と源次郎は、一応、その入口をゆすぶって試みながら、
「よし!」
そして、相顧みて、ニッコと笑い合いました。
「こうしてしまえば、袋の鼠じゃ」
「では、手前は
「御苦労にぞんじます。後刻また……」と予定のように、軽く左右へ別れてゆく。
松平源次郎はただ一人で、裏山づたいに、例の万太郎主従が根城としている錦霜軒の方へ足を運んでいる。――刻限は、ちょうど八ツか九ツ時分でしょう、遙かな、本丸、二の丸の深殿の灯も消えて、富士見番所のお
彼が、暫く附近に身を隠していると、やがて錦霜軒の戸があいて、例によって身軽にいでたちをした万太郎主従の影が、忍び足にそこを出て行こうとする気配でした。
ばらっと、
「尾州様、しばらくお
小膝を折って、いんぎんに申します。
ぎょッとしたらしい万太郎は、足をひいて、
「誰じゃ?」
と鋭い目を
「小姓番の松平源次郎にござります」
すかして見た彼の背丈や輪郭、ははア、さてはいつぞやの明け方、広芝の先で、
「なに、小姓番の松平源次郎と申すか。その源次郎が、何用があってここへ参った」
「お
「ふーむ、この万太郎に、将軍家から?」
「はい」
「何じゃ。承ろう」
「上意、戸外にては、申しあげかねます」
危げな沙汰とは思いましたが、いつぞやの気がかりもあり、将軍家の旨といえば、まさか、立話にも聞かれません。
「こちらへ来い」
あごで招いて錦霜軒へ引っ返します。
先に戻って、戸をあけた金吾は、さてこそ万太郎の行為がたたって、何か、尾州家に対する吉宗の凶命、いよいよやって来たかと予感をもちました。
銀泥のふすまに
「お……参ったか」
音もなく開いた一方のふすま。
「はい、お供仕りました」
身を伏せたのは松平源次郎です。――それを目でうなずいて、
「尾州殿、私見でござる。昔の友として会いましょう。遠慮はいりませぬからどうぞこれへ」
こういった吉宗のことばは、将軍家の格式をのぞいて、紀伊の息子である元に返った口ぶりでした。
「では」と、源次郎のうしろから、つかつかとはいって来た者は、何かお召しというので、錦霜軒から導かれて来た徳川万太郎で、それを見届けた後、金吾は
「源次郎、遠慮いたせ」
吉宗は、
「お呼びしたのはほかでもないが、昼間、公の格式で会うては、親しい話もしにくいので、今夜は、すこし
過日の、広芝の件は
「いや、なかなか、雲をつかむに等しい手懸りで、何の端緒もつかめません。このあんばいでは、あるいは飛んだくたびれ儲けかも分らない」
何の前提もなく、彼の単刀直入に対して、こっちも底をぶちまけてしまい、その後の空虚をふさぐ為のように、ハハハハハと音響の返る天井へ高い笑い声を投げました。
「ところが万殿、偶然といおうか、きょう何心なく
「刀の
吉宗の皮肉を、万太郎は逆手に出る。しかし、さすがの彼も、昼のうちにピオの遺蹟があばかれているとは夢にも気づきません。
「いや、それが目の届かない品物、日本の
「異国の……」と、万太郎は目を
「何か分からぬが、短剣じゃ、
「おっ……」
「御記憶があるか」
ないとはいえません、夜光の短刀! 万太郎は彼に対する意地も忘れて、思わず膝を乗り出させる。
「見せてください! その短刀を」
「見てもらおうと思って呼んだこと。さ、こちらに置いてあるから、御案内申そう」
吉宗は先に立って、サッと廊下を開けましたが、そこに、うずくまっている人影を見て、
「何者じゃッ」
と、将軍家らしい
万太郎は彼のうしろに
「あ、それは手前の家臣です」
「なに、万殿の家来とか」
「
「主人思いなやつ、叱って、気の毒であった」
白い足袋の裏が鏡のような大廊下をそのまま踏んでゆく。
その姿を遙かに過して、金吾は
と――先に行った吉宗は、鉄のような厚い
金吾は、それ以上に進み得ず、望楼の下に身を
「もしや? ……」彼の想像は彼の肉と血を凍るようにひきしめました。吉宗は、望楼の上に刺客を伏せて、主人を亡いものにしようというのではあるまいか?
そういう例が、支那の歴史などにもないとはいえない。天下の大統をうけついだ吉宗にとって、万太郎の存在は、決して
案じる程のものではありません。上を見ない金吾の杞憂は、あまりにも主人思いな、思い過ごしです。
吉宗に導かれて、望楼の上へあがった万太郎は、太い柱のみで、四壁のない
「何であろう? あれは」
「白骨を祭ってあるのです」
と、吉宗は微笑をふくむ。
白骨――と聞いて万太郎は、何となく霧でも吹かれたような寒さを感じました。
万太郎はいぶかしげに、また、ことばかず少なく。
「白骨……誰の白骨?」
「白骨に名はござらぬ。想像で申そうならば、
「…………」
初めて彼は、ここに至って、吉宗がいつか自分の目的を知り、その目的の線を越して、鼻をあかせてみせるのかと気づいたらしく、口を
「塚をあばいた時は、その土を祭るものじゃそうな。で、一緒に出た夜光珠の短刀と共に、ここに、こうして霊を祭っておいた」
いわれて、彼がふと見ると、なるほど、白骨の
初めは、
だが、相手はこうしておれの羨望をながめてひとりで愉悦を感じているのだ、と心づくと、彼の気性は、意地でもそれを見たいなどという気振りを出させない。
「それは飛んだお拾い物だ」
こういって、苦ッぽい笑みをかすめたのみです。
「どうじゃ、手に取って一見されては」
「そのうち、昼でも、ゆるりと拝見いたしましょう」
「左様――この
今度はふいと話を
「何せい、だいぶ更けましたな」
「もう見えてもよい時分だが……」
「え、何が?」と問いかけて、万太郎は理由のない後悔を軽くおぼえる。
「見えるであろう。
再度、何がといってたずねたいところを、黙って聞いておりますと、吉宗も口をつぐんで、根気よく西北の
ふと、万太郎が顔を上げたのは、流れ星に目をひかれたのでした。しかし、吉宗は
四半
「さて、どうしたであろうか、こんなはずはないのだが……」
と吉宗はつぶやきながら、
「万殿、今宵はここで、白骨の
と、すえてある
元より、万太郎とても、このまま吉宗に
「望楼の
彼とならんで、同じ角度に胸を
「いやいや、万殿の体は、風にも夜露にも、だいぶお馴れになっておろう」
またしても吉宗が、ちくりと刺すようなことばでしたが、それに不快を抱いているまもなく、
「あっ! あの火?」
と、万太郎の
――お蝶、お蝶、お蝶、お蝶。
お蝶のかげを追い慕って、吹上の丘を越えつめぐりつ、日本左衛門は息をきりました。
彼女の今夜の
殊には、幾夜となく、探り歩き、さまよい廻っているところなので、深山
ヨハンがいった
場所が分っても、その地底を見るには、幾尺の土を掘る努力がいるだろうとか、または、ピオの遺物死体があった場合も、それが石棺にはいっていたらどうしようとか、そんな場合の第二策は、彼女の念頭にありません。
「夜光の短刀は、もうわたしのものだ!」
歓喜のほかは何ものもない、希望のほかに何物も持たない、一念一途のお蝶であります。
その懸命は彼女をして、彼女が生れて初めて知る、熱と大胆をもたせました。
パリッと響いたのは枯木の
「――
彼はさすがに音もさせず、
青い星明りの下、お蝶は、ほっと息をついている。
息を休めながら、彼女の鋭い目くばりは始まりました。そして
「オオ、これだ……これにちがいない」と呟やきました。
見ると、夏草の伸びる頃には、その中に隠れてしまいそうな低い塚石がある。が、ふしぎなのは、その日の昼、
しかし、元よりお蝶は何事も知りません、確かにそれ! と飛びつくように寄って、石の肩を抱くように手をかけました。どうしてこの石の下を探ったものかと、そこで思案につき当ったものか、この石こそ血をうけた祖先の姿かと懐かしく思ったものか、とにかく、暫くそうしておりましたが、やがてその手が石の抵抗を試みるように、力をこめて向うへ押す。
案外にも、据えられてある石の根はもろく動いて、ごろッと向うへ倒れましたが――と思った途端です。
「お蝶ッ!」
どんな激情もめッたに顔に出さない彼が、そう叫んだ
「やっ、これは?」
と、すんでのことに、彼もその
「
四方の
驚愕に重なる驚愕、意外にかさなる意外な強敵の計策です。――危地に
どう
合図はさかんに火を呼びました。
望楼の上で万太郎が、アッと驚いたのはこの火光のうごいた刹那でした。
それと共に側にいる吉宗の片頬にニッとゆがむ
知らせにつぐ何かの報告。
やがて集まる提灯や
とんとんとんとそこへ誰やら駆け上がって来る。
きっと、吉宗が振返ってみますと、
「捕り押えました曲者、かねてのお指図どおり、ただ今不浄駕籠にのせて、
「一人か? 曲者は」
「もう一名のものは、なかなか手
吉宗と万太郎が、やがて望楼を降りてゆきますと、今しも、一挺の
見ると、その中には、黒装束を
「若殿」
そッと袖をひいて知らせる金吾に、返辞もなく、万太郎は、
「ウーム、お蝶だ……」
茫然たるばかりでした。
「万殿、
吉宗のことばのうちに、すでに
しかし、吉宗はまだ寝所へは戻りません。
すでに四
一
「どこに姿を隠したものか、日本左衛門の姿は一
――最後の報告は吉宗を失望させました。しかし、石神堂の間道もあのとおり
彼は、注進の侍に、わざと声を激しくして、
「
言わず語らず、万太郎をそばに据置いて、手厳しく
注進の者は、将軍家の
「やっ? ……」
ひとしく、吉宗や万太郎の眼は、望楼の上へつり上がりました。早、暁に近い
一同の胸に、何か知らず、ハッと不意を
「御免!」
と叫びながら、将軍家と万太郎のうしろから、
「ヤ、ヤ? ……あの音」
つづいて将軍家も
万太郎も
真っ先に、その頂きに駆けつけて来た金吾は、そこに立つ
何処をどう逃げて、どこから此処へ伝わって来たものでしょうか、まさしく、そこに立っていた人影は日本左衛門です! ピオの白骨の祭られてある白木の
「オオ、おのれッ」
叫ぶが早いか、金吾がパッと飛びかかッて行きますと、咄嗟に身を沈めて、相手の体を泳がせた日本左衛門は、白絹にくるんだままの短刀を、
「めずらしいな! 金吾」
「おぼえておッたか、日本左衛門」
「オオ夜が明けそうだ。――おさらばだぜ」
「待てッ」
「おれの年貢の
言うかと思いますと、望楼の一
あっ! 何たる離れ
そこで一つよろめけば、四
「今だッ」
逃がしてなりましょうか、相良金吾として、与えられたこの再会を逸して、ふたたびこんな機会というものが巡ッて来るかどうか分りません。
無論のこと、彼もつづく。
先の影は、すでに天守番長屋から
「あれよ!」
思わず叫んだのは、望楼の上の吉宗と万太郎でした。
天地は暁闇。
遠い
そこから見れば、目の下は、御本丸大奥から大本丸の表方まで、海のごとき
われを忘れた吉宗は、
「助勢をよべ! 旗本どもを呼び返せッ」
しかし、ここに至って万太郎は、やや自分の立場を盛り返しました。彼は溜飲をさげつつそれをこう言って制したのです。
「あいや、あまりお騒ぎなさらぬ方が得策でしょう、かりそめにも天下の首城が、一盗賊に
そうです。彼は金吾に手がらをさせたい。この機会を完全に、金吾ひとりの力に授けてやりたい。――でなければ、よいのうちから随分と吉宗に
吉宗の聡明は、たやすく彼のことばをうけ容れて、
「ウーム、それもそうか」
無言と冷静の
されば、日本左衛門を追って行った金吾には、彼ひとりの宿怨のほかに、「どうかやッてくれ、吉宗に見せてくれ、頼むぞ」と望楼の上で力こぶを入れている主人の期待が多大にかけられている。
元より金吾も
彼が本丸の屋根によじれば、金吾もすばやく大屋根にのぼって、彼と十二、三間の間隔を、一
四方へ富士形にながれている屋根
そこまで来ると、もう目の下に水が見えます。
「しめた!」
彼の心は叫んだでしょう。
初めてそこで、ヒラリと大地へ降りました。ちょうど梅林門の地先です。
土をふむが早いか、彼はさらに自由な足どりで、
番所の間を駆けぬけて、小松の植えられてある
逃げて来た道は誤りません、およそ江戸城の十重二十重のかこみから出るにはここよりほかに逃げ口はない。なぜといえば、この梅林櫓の土手から水のかなたの竹橋御門の間にかぎッて、幅は広いが、濠は一重になっています。
が、しかし――彼がそこから躍ろうとしたせつなには、金吾もすでに、彼の姿をそこに見つけて、
「おのれ――ッ」
疾呼して日本左衛門を捕えました。
どぶ――ん……と凄まじい水煙を、
時ならぬ水煙です。しかもまだ薄ぐらい明け方。
そこへわらわらと飛んで来た人数は、折よく竹橋御門の外を通りかかった宗門奉行井上河内守とその配下でした。
忽ち、濠の水面へ、
金吾と日本左衛門です、二人ともに気を失っている、そしてぬれしずくな
来合せた井上河内守は、この遭遇が、折よくもあり折
この未明に、早出のくり出しはそのためです。しかし、そこで
* * *
それより少し前に、中坊陽之助を先にたてて、本丸を出たお蝶の
「まだ宗門方の者は来ておらぬようだ、約束よりは、少しこっちの方が時刻が早かったかも知れぬ」
陽之助は、
「おう、あれへ来た」
と自分からも提灯を振って、早くと合図を送りました。
すると、さしまねく
「昨日の
と、列の中から一人の武士が、こう言いながらいんぎんに、中坊陽之助に会釈をしました。
「大儀でござる。――がしかし、河内殿御自身は?」
「病中のため、御舎弟
「ウム、お風邪のことは前日承っておったが、大事な
「では、たしかに」
「御苦労でした」
お蝶の体は、繩のまま
で、陽之助は役目が済んだわけですから、平河口から城内へ引っ返しましたが、ここに奇怪きわまる事には、それから約半刻を経て、ふたたび平河口へお蝶をうけ取りに来た人数があります。
それが
落度の争いは
その早朝、根岸の里にも飛報がありました。
息をきって知らせに来たのは、この四、五日、ここへも帰らなかった
「おりんさん、おりんさん、お嬢様はどうしたい?」
と、声のありッたけを出して、今起きたばかりの耳を驚かしました。
縁先で、小鳥の
「まあ……」と、両方から彼の突拍子もない現れに目をみはって、
「次郎じゃありませんか、どうしたの?」
「あ、お嬢様ですか、どうもこうもありません、早く支度をして、私と一緒に、お
「お濠端へ? 何をしに」
「くわしいことは話していられませんが、何しろ、大変なさわぎ、あの、日本左衛門がネお嬢様、天運つきて、とうとう
「えっ、ほ、ほんとかえ次郎」
「ほんとですとも!」
「いつ?」
「きょうの明け方――たった今です。だが、もっと驚くことがありますよ、その日本左衛門を捕まえるために、金吾様も組みついたまま濠に落ちて、気を失ったままどうしても息を吹っ返さないと騒いでいました。――で私が来る時に、御城内から万太郎様も駆けつけて来たり、釘勘のおじさんも飛んで行きましたが、何しろ早く、私はお嬢様にこのことを知らせようと思って、息をきって飛んで来たんです」
おりんは鳥籠をほうり出して、奥の
「さ、お嬢様、ここで次郎の話を聞いているより、少しも早くそこへおいでになるのが
「おりんや、着物などはこれでいいよ、それより早く、駕を頼んで来ておくれ」
「おっと! 駕ならば、おりんさんのと都合二
「じゃ、私の護り刀を」
「ハイ」
「それと、お祖父様の
「ハイ、ハイ」と、おりんはくるくる舞いをして、彼女と自分の草履を二足、庭の
裏門の木戸から、ふたりが乗物に身を入れると、次郎は例の野槍を小脇にかかえて、月江の駕わきに付きながら、
「ねえ、お嬢様」
タッタ、タッタと、駕屋の足と速度を合せて駆けながら、中の月江に話しかけます。
「ねエ、お嬢様、うれしいでしょう」
「私は、何だか胸がワクワクして、嬉しいのだか、悲しいのだか分らない」
「金吾様は、そのまま死んでしまいはしないかと、それを心配しているのでしょう。……だが、それは大丈夫ですよ、水を飲んだだけですから」
「私は、駕の中で、今もじいっと祈っているんだよ」
「だが、胸が
「やはり、お
「そうかも知れません、金吾様は、今にお嬢様のお
「何をいうの、次郎は」
「ホイ! また石のやつに
汗をしぼった二挺の駕は、またたく間に神田橋から
だが、そこに
「もし、お伺いいたしますが、これにおりました釘勘という目明しと、徳川万太郎様たちは、どちらへお移りになったでしょうか」
次郎がその内の一名にこう尋ねてみますと、
「オオ、そちは、万太郎様の召使いか」
「はい、召使いでもございませんが、日本左衛門と一緒に、お上の御介抱をうけました相良金吾様に会いたいお人がございますので」
「それならば、呉服橋御門内の南町奉行のお役宅へ伺ってみるがいい」
「有難うぞんじます……。お嬢様、聞いたでしょう」
駕の中へこういうと、次郎はまた先に立って、飽きもせずに駆けだしました。
呉服橋門内の役宅では、その日の早朝から総出役で、奉行所始まって以来の物々しさと混雑を呈しております。
折も折です。
そのただならぬ混雑のところへ、また新しい入牢が三人、釘勘の組のものに
見ると、
それは、雲霧の仁三と四ツ目屋の新助で、一番どんじりに、
「入牢です。入牢です」――釘勘の組のものは、
「あっ、親分……」
と、率八が、右側の板じきの上に、医者の手当をうけて仰臥していた日本左衛門を見て、いと悲しげに叫びました。
「おう、率八か」
日本左衛門も気がついて、ガバと向うで身を起こしながら、
「や、雲霧も四ツ目屋もか」
「親分……」涼しそうに二人は目礼して、
「とうとう、来る時節がやってまいりました。小塚ッ原へ着くまでは、どうかお達者でお暮らしなさいまし。いずれ、お話は獄門の上で寝もの語りにいたしましょう」
「ばかを言え、おれはまだもう少し生きのびるつもりだ。いろいろ
こう言って、ニッと笑うと、聞きつけた同心が駆けて来て「これッ」と双方を裂いて、引っ立てました。
果たして日本左衛門の放言は後日、うそでなかった証拠を見せました。やがて
そして、
一方――金吾の方は、充分手あつい介抱をうけ、根岸から急いで来た月江や次郎も、共々、その枕辺に寄って、あらゆる心づくしを捧げている。
ところへ、桐畑の自宅から、釘勘の手へ一通の手紙が届きました。辺りの者が立った時、彼は金吾の手へそッとそれを見せて、
「金吾さん、あとでよく読んでください、お
そうこうしている間にも、奥へは、
「釘勘、やっと目ぼしがついたぞ」
いや、病気というものほど怖ろしいものはありません、彼の持ちまえの猟奇病は、この最後に至ってもお蝶の先途を見届けないでは、まだ何か宿題が残っているような気がして、なんとも気が済まなかったものと見えます。
* * *
中仙道から北国路、
これなん実は
ヨハンは山屋敷の石牢で自殺しました。前の夜、事の破れたのを知ったからです。そして、彼女はヨハンの遺命によって、その行くところへ運ばれているのです。
真ッ
「どうだ釘勘、追いかけては」
「ウーム、もう目明しの繩じゃ届きません」
「だが、ふしぎにわしは気が軽くなった。もう夜光の短刀も欲しゅうない。帰りにはひとつ、信州路の
「およしなさいまし、また三年も苦労をしちゃ、あなたはともかく、この釘勘がたまりません」
砂山の砂をくずしながら、ふたりの旅人は、その晩の宿をさがしに帰りました。