あの座敷に寝ころんで見たら、
お茶屋でもなし、寺でもなし、
孤独な、老い先のない身で、こんな大きな
彼は毎日、家のまわりを、ひとりで
「おう! これや
「これ花世、何が恥しい、こちらへ参って、ご挨拶を申さぬか。――どうも、いつまでも、子供で困る」
「なに、子供どころか、貴公よりは、
人恋しいのであろう、意外な訪問者を迎えて、老人のよろこびかたは非常なものであった。
「……ほう、部屋数が二十七もあっては、たいへんだな。どうじゃ花世、広いものではないか、ウム……眺望もすばらしい」
富武五百之進とは、誰も知る、番町の旗本、四十四、五の年配で、見るからに、
いわゆる、
わけても、五百之進などは、その代表的な人物で、学才もあり、思想も健全で、私行上にも役目にも、かつて曲がったことがない。剛直、竹の
――に、ひきかえて、娘の花世は、女性的な上にも女性的な、
いい
誰も、この父と、この娘の、正しさ、
鶉坂の老人は、五百之進とは、
一巡すると、老人はまた、わら草履をはいて、
「さ、こんどは、わしの
と、二人を
やはりこの大きな建物は、老人の
「
「……愛縄堂」
五百之進は、つぶやきながら、中をのぞいた。
堂の内部は、
「ウーム、おびただしい数だな」
「三十年のお役目は、ふり顧れば、一瞬の間、自分でも、こんなに多かろうとは思わなかった」
「……怖ろしい! 拙者はこれを見ていると、世の中が、怖くなる」
と、
そこへ、下男の姿が見えた。一通の飛脚をもって、
「――老先生、長崎から、お手紙でござります」
「さあ、
と、老人は、また一つのよろこびを受取って、ほとんど、その手紙へ
「ちょうどよい折。五百之進殿、郁次郎からの便りでござる」
「どれ、どれ」
と、五百之進も、顔を寄せて行ったが、花世は、
「いつ着くな、郁次郎殿は」
「この手紙では、九月の末――十月には相違なく帰るじゃろう。帰府の上は、早速にも、婚儀を挙げたいと思うているが、そちらのご都合は」
「
「なるほど。郁次郎めも、こう早く帰府いたすというのは、一日千秋の思いで、一刻もはやく、花世さんの顔が見たいのじゃろう」
聞かない振りをして、空を見ていた花世は、火のようになって、父のうしろに隠れた。
「はははは。恥しいことはない。郁次郎が帰れば、あの屋敷は、二人のもの。わしはこの草堂の
「そのことなら心配はない。御老中方も、趣旨を聞かれて、さすがは塙老人、殊勝であると、すぐにご聴許になった」
「それで安心いたした。公儀のお許しがすめば、もう世間へ知れてもよい」
「では、いずれ近日に、改めて、
「左様か、では、婚儀の日どりは、その時のご相談としようか」
五百之進は、花世を連れて帰った。
老人はふたりを送り出してから、大工に大きな
「きょうは
と、
これで分った。
では、彼は医者かというに、
この老人こそ、享和、文化、文政の三時代にわたって、十
が、数年前に、その道を隠退してからは、好きな
あの柔和な
四、五日すると、
婚儀は、十二月ときまる。
江漢老人と五百之進とは、心と心をゆるし合った
「きょうで、五日経った、もう長崎をだいぶ離れた頃だろう」
老人は、指ばかり繰っている。
「彼も、
彼は、希望にみたされていた。
と、そのうちに――「江漢老先生が、ご子息が長崎の遊学を終えて帰ると共に、貧者のために、蘭医養生所をひらくそうだ」と、その噂が、ぱっとひろがった。
何しろ、あらゆる方面に顔はひろい。隠退してから七、八年になるが、いまだに町奉行所でも、何か重大な難事件に行き悩むと、老先生を訪ねて、探索の方針について教えを乞うのが常だった。それが、神眼で指すようにいつもキッパリと謎の
毎日、
江漢老人は、大迷惑な顔で、
「わしは、今日まで、
と、怒らんばかりに断ったが、次々にやって来ては、怒りきれない。たちまち、養生所の家具一切から、庭、門、垣根まで、寄附で出来てしまった。
「あの、愛縄堂とは、どういうわけですか」
と、来る客は皆、必ず、その木額の意味と、奥の変な木彫人形の
老人は、きまって、こう話した。
「――十手捕縄をもつ人間は、鬼のごとく無慈悲なものと思われているが、人間
「成程、そういうものでしょうか」
「で――わしは、ひとりの罪人を獄門へ送ると、必ず、一つの木像を彫って、朝と夕に、
世間は、奇を好む。
この話が伝わると、誰が
席は、愛縄堂で、あの悪像を
老人に指導をうけた
「なんじゃ、捕縄供養とは?」
「前例のないことですが、老先生のようなお方も、前後に珍しいことですから」
「で、どんな事をするというのか」
「こちらの愛縄堂を拝借して、名月の夜は、心ある者が集り、あの老先生の
「でも、わしはもう、とうにお
「けれど、世間では、こんどのご普請で、初めて老先生のお覚悟をはっきりと知ったのですから、古いお
「そうか。……じゃ皆のよいように、やって貰おう」
やがて、案内状は、知人の間へ配られる。そして間もなく、
仲秋の名月――八月十五夜。
実にいい月であった。盛会であった。
しかし、この晩! ああこの晩!
彼が、塙隼人の若い時代から、多年の間、十手にかけ、捕縄にかけて、獄門台へ罪人を送るごとに、一体、二体と
「いい十五夜だなあ、昼のようだ」
「オイオイ
「なんだ、
「月にばかり
「そうだ、こん夜の捕縄供養は、老先生が生涯に一度の思い出だ。おれも貴様も、老先生には、訓育のご恩をうけている師弟のあいだ。それが遅く参っては、参会者も不都合な奴と怒っておるかも知れん。早く参ろう」
南町奉行所の同心、波越
土橋を渡ってから、ふたりの影は足早になった。大股を争うように急いだ。四ツ辻へ来ると、その町口から、左の方に月の海が光って見えた。
やがて、その息で、
ひろい
「しッ……耀蔵」
「待てよ、ちょッと」
「どうした?」
「あれに、妙な奴が
「いや、そう聞えたのは、
「そうか、しかし、怪しい
夜目にも色の白い侍だ。が、惜しいことに、その白さは目と鼻のあいだがちらりと見えるだけで、
静かに――チャラリ、チャラリ、と眼の前を通り過ぎて行く。
「なんのこった、山猫をひやかして帰る
二人は、草の中で、黙笑を見合ったが、すぐに飛び出すわけにも行かないので、
月の
「や、あいつ、御霊廟のうしろから出て来たぞ」
「あの裏は、往来でない筈だが」
「
「ウム……おやっ? ……こいつあ、臭い」
二人の六感は、何ということもなく一致した。近づくのを待って、ばらッと、露を蹴って躍り出すが早いか、左右から
「待てッ」
「何処へ参る!」
と、右の腕、左の腕、両方からグイと
「? ……」
男は、
そして肩越しに、
「おッ――あいつの連れだ!」
八弥が、そう気がついて、駈け出そうとした途端に、侍の影は、
「わっ」
くらくらとして、八弥は、思わず自分のこめかみを抑えたまま、よろめいた。――風を切って来た小石は、彼の頭から刎ね返って、地上へ小さい音を転がせた。
すると、同時に、
「耀蔵、油断するな! そいつは、
八弥は、こう呶鳴って、注意せざるを得なかった。杖の先には、鋭い
「生意気な!」
と、加山
――男は、野獣のように、体を屈曲して、
こんな奴に、十手を
いや、かえって二人の方が、しばしば、三本錐に見舞われて、どこともなく、血まみれになってしまった。
そのうちに、男の運の尽きだったことには、背負っている
よほど強情な人間とみえて、それでも男は、わッとも、すッとも言わなかった。二人は呼吸を弾ませながら、男をがんじ
そしてすぐに、報告だけをしておいて、二人はまた捕縄供養の席へ、出直すつもりだったが、短い道のりを、駕で飛ばしている間に、耀蔵は頭がふらふらとして来るし、八弥は、薄黒くあせた唇を噛みしめて、意識さえ、あやしくなる。
奉行所の医者に、熱い
「気がついたか」
前を仰ぐと、
「どうじゃ、両名、苦しいのか」
「いえ、なんの、面目ない儀です、不覚を仕りました」
「不覚どころではない、これや、案外な大罪人かも知れぬぞ。
時の江戸町奉行は、
その晩の立会与力は、
二人の申し立てが終ると、奉行はうなずいた。係りは、東儀与力の手にうつる。
捕われて来た百姓男は、よく、田舎から江戸へ出て来る
「おいッ、坐れ!」
東儀与力の吟味の
「ひかえろ!」
獄吏が叱りとばす。
だが、男は、ぽかんとしたまま、無感覚であった。そして、両方の手で、耳を引ッ張ってみせた。妙な、張合い抜けが、瞬間ではあったが、吟味所を
「これや、一筋縄で恐れいる
湯灌とは、何の意味か、奉行がうなずくと、獄吏たちは、男を
と――すぐに、東儀与力は、眼くばせをして、
「怪しいのはこれだ。……ウーム、かなり重い、どこかの武家屋敷から盗み出した
「あっ?」
とたんに、誰もが、思わず
「死骸だ!」
「――女じゃないか」
白い
東儀与力は、手をさし込んだ。引き摺り出してみると、ああ、やっぱり駄目だ! 女の体は、
一つ、短刀であるが、それは道具屋にでも、ざらに転がっているような物で、何らの特徴もなかった。ただ――幾度見ても、つくづく嘆息の禁じ得ないのは、女の美貌なことである、死顔とはいえ、実に美しい、肌といい、
奉行は、ここで退席した。
そして、この事件の
「
東儀与力は、腰をすえて、考えこんだ。
「十九か、
「ウム、おれもその辺に見当をつけているが、身分は、何者だろう」
「さあ、髪はこわしてあるし、帯はないし、当りがつきませぬが、ただどこか上品な面影があるように見うけますが」
「いかにも、
「ことによると、どこかご大身の方の
「鎧櫃に入れてかつぎ出された点からみても、武家屋敷だという推量はつく」
「しかし、どうして、女の死顔が笑っているのでしょう」
「眠っているところを、一突きに、刺し殺されたものと思う。――
「お説に同感です。けれど、ここに不審があります」
「何か」
「死骸の左の手を
「情痴の下手人が、持ち去ったものだろう」
「それならば、髪の毛とか、小指とかを、切りそうなものですが」
「いや、争う場合に、切り落されるという例もままあるから、その指は、あまり
「なるほど、少し、
「その匂いは、長崎
「それだけ伺えば、だいぶ目星がつけ易くなりました。両名して、きっと女の素性を洗って参ります」
「いや、その手傷じゃ、二、三日は無理だろう。充分に加療して、それから働いてもらいたい」
翌日、東儀与力は、引っかかりの仕事をすべて他の者に受けつがせて、役室で、一ぷく吸いながら、
「おい、ゆうべの男は、何かしているか、ちょッと覗いて来い」
と、
獄吏は、すぐに戻って来て――
「
「なに、寝ている」
「正体なく、
「よし!」
彼は、
そこには人間の、悲鳴や呻きを作る機械――血や肉をしぼる
それを獄吏のことばで、
「起きろ! おいッ」
彼は、
「こらっ、起きないかッ」
肩に足をかけて、ぐりぐりと
――
まったく不解な男だ。古沼からひきずり出した
(この野郎、拙者を呑んでかかっているな。面白い、
肚にたたみながら、しばらく、睨みくらべの形である。
「これ、町人。貴様は手足の皮があつい所を見ると、田舎者に相違ないが、どこの国の者だ。黒焼売りか、百姓か」
「…………」
「ゆうべの
男は、眼と鼻をクシャクシャと
東儀与力は、じりじりする
「おい大将、唖聾のまねなんざあもう
「…………」
「どうしても、口を
「…………」
彼の顔いろに、男は少し硬直した。
(こいつ、本物かしら?)――そう思わざるを得なかった。それじゃ、唖として対話しない以上は、通じる
彼は、紙と
こんどは、手や、指や、顔の表情で、いろいろに問いかけた。白洲に唖聾をひき出す場合も
彼は、
「あっ!」
と、初めて
「ざまを見ろ!
彼は、自分の機智に凱歌をあげた。
男には、耳がある、声が出る。
だが――東儀与力のよろこびは早すぎた。男は決して、ビクリとした様子もない。
では、あッといった声は、誰の口から出たのだろうか。
その
「やっ?」
東儀与力は、
「何か、お見違えではござらぬか。ここは、奉行所の中、ことには白昼。あんな所から、まことに婦人が覗いたとすれば、それは、狐でしょう。……なに、この辺でもまだ狐はおるので、諸侯の屋敷のお庭などには、昼でも啼いていることがままござりますからな」
と、小役人たちは、彼の
× × ×
ゆうべの雨で、道には、
「――ぜひ老先生の、ご名断を仰ぎたいと存じまして」
東儀三郎兵衛は元気がない。まったく、あの唖聾の吟味に根気をつからしたものと見えて、数日の後、とうとう兜をぬいで、
老人はひと通り聞いて、
「それやあ、惜しいことをした。実に、惜しい」
「えっ、何か、ぬかりがあったでしょうか」
「だが、貴公の落度ではない。最初に、唖聾を捕えた時の二人の手ぬかりじゃ。まだ若いからしかたがないようなものの、残念なことじゃった」
「ははあ? ……とは何故で」
「唖聾は、何者かにあやつられている手先とわしは
「あっ、なるほど」
「いちど
「
「いまだに、何処からも、届けも出ねば、騒ぎ出しても来ぬ点をみると、よほど身分のある婦人か、でなければ、巧みに現場を伏せてあるものとみえる」
「何しろ、捕えた男が、
「それや、立派な、ほんものじゃよ」
「では、女の素性に就いては」
「まだ、どうとも、断言ができんが、下手人には充分に余裕があった。死骸から
「
「ちょっと、面白いな。だが
「短刀は」
「それも、下手人の周密な用意、出来心でない証拠だ、痴情の殺人と申すのは違っとる」
「左様でしょうか」
「下手人は両刀を帯びた侍、なんで、そんな短刀を選ぶ必要があろう。後日の
「そのために、
「いや、突かれた時は、声をあげぬが、抜く時には、悲鳴を発しるものだ」
「怖しいほど細心な
「なにせい、殺した現場をつきとめる事に急ぎなさい。悪くすると、この下手人の大胆さでは、後の証拠まで、きれいに掃除してしまうじゃろう」
「さ。そこでござります、神の如きご眼力で、何とかこの
「そこじゃて……」
と、老人は半眼をふさいで、考えこんだが、その時ふと、東儀与力の
それは、
「や。や。あの女だ! あの女だ!」
彼は、あぶなく口走るところだった。――
その女と、今の娘。
どこと言って違うところはない。確かにあの顔だ。これが自分の眼の狂いだったら、与力の職を
彼は、
「老先生――」
「なんじゃ」
「妙なことを伺いまするが……」
つとめて平静を
「今、あちらへ参った美しい
「いや」
と、かぶりを振りながら、老人は、堂の窓から木の間を
「違う。わしの手元に、
「では、出入りの町人の娘か何かで?」
「いや」
「どちらのお女中でございますな」
「あれや、実を申すと、長崎
「えっ、では、ではあの……」
「まだ
「はい、ご
「どうした、たいそう考えこんでしまったが」
「イヤ、何、余りお美しくいられるので……」
老人は、自分のことを
「近頃はまた、めッきり
「は。……はっ」
彼の返辞は、どこへ向って投げているのか、自分でも分らなかった。老人は、猫のように、肩骨を尖らして、眼まで
「あるよ! あるよ! たった一つの鍵が。思案と申せば、まず、それをやることだな」
と、
だが、
隠退した名与力塙江漢のために
重そうな
その時、
手懸りも
そこで弱りはてた南町奉行所の与力、東儀三郎兵衛は、高輪鶉坂の大先輩塙江漢老人をたずねて、謹んで教えを乞うたところが、耳かたむけていた老人が、やがて口をひらいて、たった一つの鍵がある! と言う。
――そこまでが
× × ×
「えっ、ありますか」
「ある!」
と、老人は、重く、つよく言った。
東儀三郎兵衛は、もう事件の
「して、その鍵とは?」
「やはりあの唖男だな」
「老先生のお考えもそこにござりましたか。して、その唖男を、何といたしますか」
「獄から出してやる」
「出して?」
「む」
「出して、それから?」
分らん男だなあというように、江漢老人はちょっと舌うちを鳴らして、
「逃がしてやるんじゃ」
「げッ!」
東儀与力は身ぶるいをした。そして、呆れ返ったように老人の顔をながめてしまった。一世の名探偵といわれた
「東儀」
「は……」
「何をわしの顔を見ておるのか」
「でも、奉行所としては、唯一の手懸りとしている唖男を放免せよとは、老先生にも似あわぬお考えかと……」
「ハハハハ、早合点をいたしておるな。放免せよといっても、それは一つの策、その前に、加山と波越に旨をふくませておいて、唖めが、牢を放されたら何処へ帰ってゆくか? ――その先をつきとめる。つまり唖は、
「あ。――なるほど!」
と、東儀与力は、間がわるそうに膝を打って、
「恐れ入ったご深慮、凡智の及ぶところではございません」
「しかし、放してやっても、唖めが、
「早速、立ち帰って、そういたしましょう。――ついては老先生」
「何かまだ話があるのか」
「これは、お奉行からの伝言ですが、この度の難事件は、死骸の女の身元次第では、容易ならぬことになるやも分りませぬ。従って、ご迷惑ながらこの後も何かと手懸りのあり次第に、ご意見伺いに出ますゆえ、よろしくお指図を願いまする」
「わしは町奉行じゃないから、
「は。そのお町奉行が、只今、ご承知のとおり、御評定所の
「だから、しっかりやンなさい、出世のしどころじゃ」
「老先生のお力にすがるほかはございません」
「できるだけの相談相手にはなって上げたいが、わしも、知っての通り隠退をするような老年、近いうちに、伜郁次郎が長崎から帰り次第に、花世と婚礼もさせねばならぬ、また
「その岡倉殿は、数ヵ月まえに、幕府のおいいつけに依って、
「ハハア、そうかそうか、そんな噂だったな。では? ……」
と老人、しばらく眼をふさいで考えていたが、やがてある人間を思いうかべたらしく、
「む、ちょうどいい人物がある。あれならば、年は若いし、
と口を極めて、賞めた。
南、北の両奉行のうちで、今、老先生にも
「だが東儀、それは
「や、それでは困りますな」
「なに困りゃせん。折よくも彼は、永らく
「いったいそれは、どこの
「名をいえば、お前も知っていよう、大坂町方役では
「えっ、羅門塔十郎が、いま江戸表へ来ておりますか」
「あれや、
「ちっとも存じませんでした」
「礼をつくして、いちど相談してみるがよい」
「そういたしましょう」
「じゃ、わしはあちらに、
と、老先生は愛縄堂を出て、
「オオいい
と空を仰いでも、親心に、やがて長崎から帰るわが子のことを思いながら、歩調ゆるく、養生所の方へ行ってしまった。
花世? ――
東儀与力はまたしても、さっきチラと見た怖ろしい疑惑に
そんなことは疑ってみるだけでも罪悪である。あんな人格者である老先生が選んだご子息の許嫁ではないか。また大番組のうちでもわけて実直家な富武
――それをたとえどう顔が似ているにしても、白昼、奉行所の奥へしのびこんで、唖男を吟味している
「よそう、よそう、そんなくだらぬ迷いは」
と、東儀三郎兵衛は思い直して、いそぎ足に奉行所へ帰った。
そして早速、同心の加山と波越のふたりをよんで、江漢老人の鬼策を話すと、
「なるほどそれは妙案だ」
と、ふたりも手を打って、それぞれ手配にかかった。加山
時刻をしめしあわせて、その晩、伝馬町の牢役所の外にひそんでいる。
星空の
むろん、唖男をつかまえた時に、ひどい
――一方では東儀与力、彼も伝馬牢へ出張して、最前から役室の
「おい、牢番」
「は」
「唖聾のやつは、どうしておるか」
「さっき晩の
「ウム」
「それをガツガツと食べ終りますと、
「吟味にかかると、まるで
「只今のぞいてみると、またぐうぐう
「なぜ獄則どおりにせんか。割竹をもって
「つんぼですから、びくともいたしません」
「あ。そうか」
と、
「お、支度だぞ」
と、九番という木札のついている牢の合鍵をはずして役室を出て行った。
寝ているところを揺り起されて、
「? ……」
東儀与力の顔を、顔負けがするほど、じいっと、見ている。
放免状を読んで――といっても形式だけであるが、手真似と表情とで、牢を出して帰宅をゆるすからどこへでも行け、という意味を呑みこませてやる。
が――唖はうれしそうな顔もしなかった。
張合いのないこと
それで唖も、やっと少しわかったらしく、ぺこんと一つお辞儀をして、伝馬牢の裏門から突き出された。
さて、どこへ行くだろう?
老先生の妙智、果たして
「ウム……紙屑屋の加山がうまくからんで行くな。オ、波越も横丁から出て
と、少し安心していたが、そのうちに何を見て驚いたのか、
「ややっ!」
と、東儀与力は絶叫して、そこから
彼が、
東儀与力として、それを驚かずにいられるものではない。なぜかならば、不意に牢を出されて、夢みるように歩いてゆく唖男の影が、ひろい草原を斜めに抜けて、向うの片側町の灯を見ながらのろのろと進んでゆくとすぐに、頭巾をかぶっている一人の女が、すっと、草むらから伸び上がったのである。
そして、ちょうど近所に住む者が、買物にでも出るように何気ないさまをして、唖男のそばを
そのうちに、ひょいと
オオその夜目にもわかる白い顔よ。
きょうもきょうとて鶉坂の老先生の庭で、ちらと見たあの花世にそっくりな輪廓だ。
また、つい二、三日前には、
「畜生ッ」
そのまま、ひらりと、東儀与力は塀の外へ跳び降りたのであった。
唖男の鈍重きわまるのにひきかえて、女はまた怖ろしく鋭利な感覚と、すばしッこい動作力をもっている。
――来た! と気がつくと女はすぐに目的をあきらめて、元来た草原の小道をススススッとまるで低く飛ぶ
「うぬ、今夜こそは」
と、東儀与力もまた、歩速のあらんかぎりを出して、つんのめるように追い駆けた。
男の
またたくまにその距離は迫ったけれど、もう一歩という所で、女は、混み入った裏町の露路へまぎれこんでしまった。
うす暗い職人町の露路を、彼の眼がせわしなく光って、
そのうちに、川端へ出た。
右手をふり向くと、京橋口の大通りの灯がチラチラ見える。ああいう
こう考えて、彼は、仲通りを大股にあるき出した。――すると、ものの三町も行かないうちに、彼は、動悸を
いた! 女はいた!
しかも大胆にも、かぶっている頭巾まで解いて、丸八という大きな呉服屋の
この女が、姿の優美なのにも似あわない不敵者だということは、真昼中、奉行所の
「ウーム、
彼が、
「では明日にでも、それと、あの帯皮を、届けてくださいましね」
と、腰を上げた気ぶり。
しめた、呉服屋へはもう女の
今だ! 夢とも知らない女。
東儀与力は音もなく近づくが早いか、
「女。待てッ!」
と、するどい一喝に相手の耳を
びっくりしたに違いない、女は、顔いろを失って、じっと、肩越しに黒い眸をながしたが、気を沈めるように、
「あっ……
「えッ……拙者を東儀と? やや、貴女は」
「ごぞんじの筈ではございませぬか、富武
「こ、これは、飛んでもない失礼を仕りました。……ウウム、やはり貴女は花世殿だ、花世殿にちがいない」
と、恐縮と疑惑と、迷いと否定と、
花世の寒いほど
「東儀様、ご得心が参りましたか」
「は、は、よく相分りました、まったくの人違いで」
「他人のそら似ということもままございますから……」
「面目ない失礼でござった。どうか、お父上にはご内聞に」
「はい、私も
「しかし、供もお連れ遊ばさずに、おひとりでどちらへ」
花世は、もじもじと、答えかねていたが、東儀与力の
「貴方様も、老先生から、ほぼお聞き及びではございませぬか。……あの、
「む、それならば承りました、こちらへご帰府になるとすぐに、
「で……お恥しいことでござりますが、道中おつつがのないようにと、毎晩、
「が、今何か、その辺でお買い物をなされておられたようですが」
「はい」
と、花世はいよいよ恥かしそうに、
「
「成程。いや、なかなかお手廻しのよいことですな」
こういわれてみると、事毎に、疑う点は
「お送りいたそう、お屋敷の前まで」
「いえ、もうどうぞ」
と、花世はいたく迷惑そうに、
「今もお話しいたしましたように、父には内緒でございますから」
「言いようのないご無礼をして、このままでは心苦しい、お詫びのつもりで」
と、構わずいっしょに歩きだした。
橋を渡って、八官町の旗本町まで来ると、花世は礼をのべて、とある門の袖潜りを静かに開けて、中へ姿を消してしまった。そこはたしかに、大番組御書院方、富武五百之進の邸にちがいない。
「むむ……どうも
塀にもたれて、考えこんでいると、奥ふかい邸の木の間からみやびた
「お! この事にばかり心を
彼は気がついて、大急ぎで、伝馬牢へ引っ返してきた。――詰所をのぞいてみると、
加山も波越もまだ戻っていない。
「さてはうまく行ったな」
と、いささか慰めていると、そこへ牢番同心がのっそりとはいって来て、妙な顔をして
「おい、どうした」
と、少し
「あ、東儀様でございますか、今し方まで、加山殿と波越殿が、非常にさがしておいでになりましたが」
「えっ、では一度ここへ立ち帰ったのか」
「はい、戻るとすぐに、身なりもあのままで、よほどなご急用とみえて、ご両所とも
「はてな? ……そして唖男の行く先は首尾よく突き止めたようか」
「まるで
「やつ、逃げ失せたか」
「いえ、その唖奴は、ご両所の帰るより前に、ひとりでのこのこと伝馬牢に舞い戻って来て、あげくの果てに、ひとりで牢へはいって澄ましこんでおるのです。――何でも波越殿にお話を
なるほど、それでは全然
「ウーム
と、
すると、そこへ、同心の加山
「あっ、ここにおいででしたか」
「今、話を聞いていたところだが、唖への計略は、すっかり
「お聞きになりましたか。吾々も随分いろいろな罪人を手がけましたが、あんな奇怪な男には初めてぶつかりました」
「して、すぐ町駕で飛ばしたそうだが、どこへ行って来たのか」
「一応ご相談の上と思いましたが、結果が余り意表外なので、鶉坂の老先生をお起ししてご意見を伺ッて参ったので」
「ム。よく気がつかれた。して老先生は何と言われたか」
「それは手順が足りない。今夜のうちにやり直したがよかろうと仰っしゃるので」
「どの手順が抜けているのだろう」
「奉行所で吟味をした上、外の見えない盲目駕で伝馬牢へ差送りましたが、それが第一いけない、唖は全くの愚鈍で、その上、江戸の地理にうといと見えるから、元の奉行所へいちど戻し、また、初め召捕った増上寺の
「してみると鶉坂の老先生は、飽くまで唖を、大愚者と見ておられるのだな」
「何しろ世話の焼ける奴です」
「ともかく、その手順どおりに踏んでみよう」
夜は
ちょうど、この辺が彼を
「? ……」
唖はしばらく、四方を眺め廻して考えていたが、やがて黙々と、
「おや、あそこは通り道ではないのに」
「
「ははあ……では今度こそ、その晩、出て来た所へ戻るつもりだろう。では、両人、ひと足先へ」
と、東儀与力は、物蔭に頃あいを計っている加山と波越へ眼くばせをして急がせ、また、ふところからは一通の書面をとり出して、
「先刻、密使をつかわしてあるから、委細はお聞き及びの通りであるが――と申し添えて、これをお奉行の手へ届け、羅門塔十郎に
と、ひとりの部下に耳打ちをして、すぐにその場から走らせた。
増上寺の五重の塔を見上げたり、
屑屋の加山と、
「おや、また
曲がるたびに、唖は、必ず何かの物体へ眼を近づけて考えこむ風なので、波越八弥があとからいちいち検察してゆくと、あの晩携えていた
「うむ、やっぱり老先生のお
そうしている間に、幾曲りして、御霊廟の裏から僧房の裏まで突き当ると、道はもうないはずであるが、唖男は、がさがさと、一方の雑木山へ登り出した。
「あっ、成程」
常識はいつも探索に失敗と
やがて、そこの地域をぬける、淋しい
大きな
「? ……」
唖は、その前に、突っ立った。
――
かなり隔てている波越八弥の眼にも、その家の
唖は、小門の戸に手をかけて、がたがたと揺すり始めた。――もうそれだけで充分である。
「それっ」
と、東儀与力が手を振ると、加山、波越、そのほかの捕手がすぐ唖を縛り上げて、用意して来た盲目駕に抛り込んで、すぐ伝馬牢へ送り戻してしまった。
「さ、いよいよ兇行の場所はここと極った」
三人だけは残って、静かに門の戸をコジ開けにかかる。
「どなた様ですか」
すると、生垣隣りの、しもたやの窓が
よい者が起きてくれたと、東儀与力は窓の下へ寄って、
「静かにしてくれ、吾々は、奉行所の者だから」
「えっ、あのお奉行の……」
と、女はふるえ出した。
「いや心配することはない。ただ用意として聞いておきたいが、そちの家は、何商売だな」
「
「通い
「は、はい」
「平常
「口をきいたこともございません」
「
「そうらしゅうございます。ほかに、小間使い風の玉枝さんという
「門が閉まっているな」
「はい、その頃から、
すると――小門を開けて先へはいった加山耀蔵と波越八弥のふたりが、何を屋内に見出したのか、
「東儀与力! 早く、大変です!」
と、絶叫して呼んだ。
何事かと、あわただしく駈けこんでみると、
部屋は、十六畳の客間、或いは、
家具の配置は、ざっと、こんな按配であるが、そこに散雑している物は、薩摩焼の茶碗だの、笛だの、血みどろな女の衣裳だの、燃えさしの
そして、まだまだ驚くべきものがあった。
それは、
男の死骸には、
「どうでしょう与力、この態は」
「案外だな。……しかしなかなかいい暮しをしていたとみえる、すべてが大名道具だ」
「だが下手人の思慮にも似あわしくなく、どうして今日まで、このもう一つの死骸や、兇行のあと始末をつけないのでしょう」
「あの晩、鎧櫃に入れて、二度にして運んで隠すつもりだったろうが、その最初に、唖が捕まったので、
東儀与力が一代の智慧をしぼって、ふたりに何か囁いた。――以来この
無論、隣り近所にもかたく口止めをしてある。そして二人は外に、東儀与力は屋内にひそみ、指南間の大きな
三日目……四日目……何事も起らない。
すると、五日目の夜半である。少しつかれてとろとろしかけたところへ、よほど勝手を知っているらしい男が、庭の
「玉枝……玉枝……。ここを開けてくれい」
と、四隣を
「む、来たな……」
と、東儀与力は、自分の
「……いないのか、玉枝は」
すうっ、と風が流れこんで来たので、
のっそりとそこにはいって来たのは、
が――
はッとしたように、武士が左足を退いたので、おのれ逃がしては、と
「
と、怒鳴りながら、大客卓の蔭から立とうとした。
とたんに、びゅッと白い切ッ
「うッ」
と、何か叫ぼうとした。
曲者は、
「残念ッ、残念。――おいっ、加山、波越ッ、二人ともおらんのか!」
卓の下から、手足をもがき出しながら、彼が
「与力、どうなされました」
彼は、部下に対する間の悪さを、憤怒に変らせて叱りとばした。
「どうなされたじゃない、今、出て行った曲者をなぜ捕えぬのだ。居眠っていたのであろう、たわけ者め」
「曲者? 与力こそ何をとぼけているのですか、そんな者は、出て来ませんが」
「幽鬼ではあるまいし、姿を見せずに出てゆけるか。たしかに表から出て行った。――それもたッた今ではないか」
「なるほど、今、一人の武士が出て行きましたが、あれは与力がお呼びになった奉行所の使いでございましょう」
「ええ、何をたわごとを言う。拙者が曲者を呼ぶ理由があるか」
「でも、その武士を
「貴公、同心のお役をご辞退したらどうだな。曲者の言い訳を、そのまま信じるようじゃ勤まらん」
「でもその武士は、
「作り物だ、それは」
「いや、奉行所鑑札が作り物かどうかぐらいはてまえにも分ります。決して、
と、折角、
夜は、いつのまにか、白々と庭の樹々に明けている。東儀与力はまだ
「こんな馬鹿な目にあったとは、老先生にも話が出来ぬ。以後はきっと気をつけろ!」
と、どこまで、部下のせいのように、加山と波越を叱りとばした。
「おはよう。――南町奉行所の東儀殿はここへ来ておられますか」
客の
誰かと思って出てみると、ふし糸の茶無地の羽織に、ひだのきちんと通っている
「やっ、貴方は」
「拙者は、お奉行
「オオ、では貴殿が、有名な羅門
「拙者がおひきうけをして、浅学ながら口出しをする以上は、一命を
「それはもう、ご方針のままに。――吾々にもよい
「では、ご免――」
と、草履をぬいであがるとすぐに、羅門塔十郎のするどい眼は、もう何ものかを観破したように、ぴたっと、部屋の一隅に吸いついた。
「ほう。……さすがは女笛師の家だけあって、たいそう
室内に立った羅門塔十郎の第一歩は、迷うことなく、すぐに床脇の棚へ向ってすすんでいた。
何か、ひとりで
上方流の
――やがてどんなことばが、その引き締まった唇から洩れるであろうか、と東儀与力も、加山、波越の二同心もかたずを
だが、塔十郎はべつに奇言も吐かない。何の発見もなかったように、無興味にやがてそこを離れて、
「この現場は、当夜のままでござろうな」
と、室内を見廻して、東儀与力にたずねた。
「左様。ただ死骸だけを庭へ移しましたが」
「死骸? 誰の?」
「素姓不明の町人でござるが、この屋内に絶息しておりました者で」
「そういう大事な被害者の位置を移してしまっては
「いや、正確な
「あ、そうか。……どれ、その図面をこれへ」
と
「三井の通い番頭とかいう隣家の夫婦者は、無論、
東儀与力は、自分の手落ちを意識したように、
「いやまだそれは」
と、軽い狼狽を見せた。
「隣家の夫婦者に足どめを命じておかれぬのはご不覚であった」
と、塔十郎は一本釘を刺して、
「留守かも知れぬが、いたらば、主人でも女房の方でもよろしいが、すぐにこれへ呼んで戴きたい」
「承知いたしました」
と、東儀はうしろを向いて、
「八弥、ご苦労だが」と、顎を
「はっ」
と、波越八弥はすぐに塀隣りの隣家へ行って、やがて、ひとりの年増女を連れて戻って来た。女は薄い髪の毛を
羅門塔十郎は、庭先へ膝をついた彼女をじろりと
「おまえか、隣家の女房は」
と、縁へ腰をおろした。
「はい、お
「主人は不在かの」
「毎日、駿河町の三井様へ、通い番頭をつとめておりますので、夜分でなければ宅にいたことはございませぬ」
「そうか」
と、塔十郎はうなずいて、
「ではお前でもよいが――いやお前の方がむしろくわしく承知しておるであろうが、この
「存じているだけの事は、何なりと申し上げまする」
「む」
と、塔十郎は、ふところから覚え帖と
女は、お蔦という名からして、それしゃの上りらしく、世事馴れていることばづかいで、問わぬ先までをしゃべり出した。
「たしかこの夏の初め頃かと存じます。はい、こちら様が移って来ましたのは。――そのうちに大蔵流京笛御指南という看板をかけたので、ははあ、女の笛師かと知ったようなわけで、
「玉枝?」
と、東儀与力は思わず横から口を出した。
「では玉枝と申すのは、雪女の小間使をしていた女だの」
「はい、なかなか
塔十郎は
「して、その小間使は、いつ頃から見えぬのか」
「ちょうど十五日の夕方、その玉枝さんが、風呂敷づつみを抱えて宅の前を通りましたので、オヤどちらへ? と声をかけますと、急に田舎の身寄りに不幸ができて、一月ほど宿下がりをして帰るところと、挨拶をして行きました」
疑惑は、誰の胸にも起った。同じように玉枝という小間使を疑った。――十五日といえば女主人のお雪が殺された名月の晩である。それにゆうべ、ここを訪れた例の覆面の侍も、玉枝玉枝と二度ほど呼んだ。
塔十郎は、隣家のお
「では、その男の顔を見たことがあるか」
と、訊ねた。
「まあ! その人も、殺されたのでございますか」
波越八弥が、死骸にかぶせてある筵の端を少し
そして、十五夜の晩以来、お雪の家の中に隠されていた
「どうして、お前は、それを知っているのか」
と、塔十郎は筆をうごかしながら訊ねる。
「
「では、この佐渡平も、雪女の所へ笛を習いに来ていた弟子の一名なのだな」
「左様でございます。佐渡平さんが来ると、いつも夜遅くまで笛の音がして、時には、笛と三味線を
「む」
と、塔十郎はうなずいて、
(さては、お雪はこの佐渡平に囲われている女かも知れぬ)と、呟いた。
だが、不思議なのは佐渡平の死骸で、一ヵ所の
お
「どうです。これでほぼ見当がついたでござろう」
と、言った。
東儀は首をひねって、
「さ? ……」
と、考えこんだ。
「事件は簡単です。
「なるほど」
「それが覆面の侍です」
「あっ……そうですか」
「その
「しかし、その覆面の男が、何で好きなお雪を、ああまで
「男の無残な行為を見て、女が嫌気をさして逃げることに同意をしなかったか、或いは、殺された夜に佐渡平が巨額な
「ところが、そのお雪の人差指が斬り取られてあるが、それはまたどういう意味でしょうか」
「狡智な下手人は、よくそんな用もないことをして、わざと詮議者の眼を惑わそうとたくむものだ。何の意味もないことでしょう」
打てば響くがごとく、塔十郎の答えは
ただ江漢老人の説と一致する点は、唖男は偽片輪ではなく真の唖聾にちがいないということと、覆面
「その覆面の男が捕まる日も遠くはありますまい。これ、この通り曙光は見えておる」
と、塔十郎は前の笛掛のところへ戻って、二本の京笛をつかんで来て東儀与力に示した。
「ごらんなさい、この笛の銘を」
一本には、「
「あ、これは、殺された佐渡平の持ち笛ですな」
「そうです。あれにある笛は、みなお雪の所へ習いに来た弟子たちの笛でしょう。が、それはとにかく、この方を早く一見して下さい」
もう一本のものには、「
「郁?」
と、口のうちで呟きながら、東儀与力は不審そうに、
「これは一体、何者ですか」
「すなわち、佐渡平を殺し、お雪を殺害した下手人、かの覆面の男の名です」
「えっ、どうしてそれが分りますか」
「吹いてごらんなさい、その笛を」
「鳴りません」
「鳴らぬはずです。叩いてみれば分りましょう」
妙なことを言うと思いながら、軽く、
羅門塔十郎は、最前、調べるうちにすばやく一読していたので今さら驚きもしなかったが、東儀与力をはじめ、波越も加山も、
それにはこう書いてあった。
かねての事、こよいを最後に、御談合参らせたく、九刻頃 、そっと忍び行き候まま庭裏の木戸へお心たのみ置候
余事すべて、お逢いの上にて
八月十五日
「どうです」余事すべて、お逢いの上にて
八月十五日
郁次郎
お雪の君へ「ウーム成程」
「しかも男からその手紙を出した日は、お雪の殺害された十五夜と同日です。女は、男が何か最後の相談に来るというので、男の大事にしている『
「ご
「姿や
と、羅門塔十郎は、
「あっ、羅門
と、東儀与力はあわてて、門の外まで追いかけて来て、
「――しばらく」
「何ですか」
「いろいろご明断を授けられて、暗夜に
「いやいや、まだこんな事では、ご参考にもなるまいが、いずれ拙者も心がけて、
「ところで、このままお別れいたしては、何となく心残り、ご迷惑でなければ、奉行所までご同道下すって、お雪の死骸についておった証拠品やら書類などをご一見下さるまいか」
「さあ……実はこれから、少し私用を帯びて、
「八官町ならば、どうせ自分にも戻り道、おさしつかえなくば、同行してもよろしいけれど」
「では、ご一緒に参りましょう」
「そう願えれば、何よりの好都合で」
と、東儀与力は
「や。お待遠でござった」
と、すぐに引っ返して来た。
血の異臭につつまれた犯罪の家を出て、明るい秋の陽の下に歩み出ると、常に、闇の魔ものを相手に暮し馴れている東儀三郎兵衛も、さすがに腰が伸びて、ああ、と深く息を吐きたいほど朗らかな気もちに返った。
ふたりは、肩をならべて、
「お立寄りになる先は、八官町といわれたが、誰か、ご友人のお住居でもござりますかな」
「いや、ちと、調べたいことがあって、初めて参る屋敷です」
「ではやはり、何かのご
「と申しても、公のことではなく、もう七、八年来取りかかっておる個人的な探索なのです。大坂奉行所に勤めて、公禄を頂戴いたしている間は、そういう、私人的な依頼に応じて、自分の猟奇心を満たすような仕事にはあまり没頭されませんでしたが、今では禄を辞して、こういう自由な身になっておる
「それは結構なことじゃ。まったく捕物の探究ということも、ほんとは、お上の禄に縛られていては思うように働けませぬ。して、
「丹波亀山の龍山公をご存じかの?」
「亀山の龍山公? ……お、あの、
「そうです」
「その龍山公がどうしたのですな」
「実は、拙者が一代の事業としている探索というのは、その亀山のご隠居龍山公から
「ほ。それでは、大名から秘密に頼まれている仕事なのですな」
「ま、そういったわけです」
「どんな内容か、お
東儀与力は、自分より若い
で、そういう仕事は、
塔十郎は、彼のさもしい眼には気づかぬように、
「いや、差支えがあるどころか、それはぜひ聞いておいて戴きたいと思う。そして、何かの時には、貴公たちのお力添えも仰ぎたいし……」
「どうか、ご遠慮なくおっしゃって戴きたい。こんどの難事件で、
「では、その辺で一服いたそうか」
塔十郎は
………………
彼の打明けた話によると、亀山六万石の城主松平龍山公はもう
ところが、龍山公には、
複雑な家庭の事情もあったり藩の内争もあったりしたが、とにかく現在では、家老の
しかし、その期間も、はや八、九年過ぎて、余すところは、一年ばかりしかない。――その期間が終れば龍山公は、いやでも、藩地を幕府に返して大名の籍をぬけるか、でなければ家老の子の大村主水をそのままほんとの養子に迎えて世継に立てるほかはないのである。――が、こういう場合にはどこにでも起るお家騒動の例にもれず、藩論は家老派の大村組と、飽くまで、龍山公の血すじを世継とするを主張する正統派との二つにわかれて、足かけ十年ちかく紛争している。
というのは――この世に龍山公の血すじがまったくないのではないという事実が、ある時、老公の口から、藩論の席で、洩らされたからであった。
老公は、
むろん、家名は没取である。
離散した一家、
龍山公も、時には、思い出すこともあったが、いつとはなく、血縁のうすいものと、忘れ果てていたのである。
正統派の家臣たちは、それこそ正しい龍山公のお孫である。といって俄に小普請組の石川某の遺子たちを探しはじめた。お孫であればまだみんな、若い、
そこで、
(龍山公のご落胤であるその四名のお孫たちを、ぜひとも、探し出してもらいたい)
と、いう依頼であったことはもちろんである。
頼みては大名である。事件は重大である。その報酬の額がいかに莫大であるかも想像がつく。
「ウーム、成程……」
と、東儀与力は、羨ましそうに聞き終って、羅門塔十郎が、役禄を辞して、悠々と東都に遊び暮しながら、しかも、ぜいたくな服装をしているのは、そんな金の出所があるからだろうとうなずいた。
「そのご依頼をうけてから、もう八、九年にもなるのでござるか」
「大坂奉行所の方で、なかなかお
「して、きょうこれからお訪ねになる八官町というのは」
「さ、それです」
と、塔十郎は
「さるところから聞きこんだのですが、小普請の石川某から貰われた娘が、そこに住んでおるということなので、ちょっと、小あたりに訪ねてみようという所存なのです」
「ほ、すると、龍山公のお孫でござるな」
「まだ、
「しかし耳よりなことじゃ。そして、その娘と申すのは、今、八官町のどこにおるのでござるか」
「あの辺は、多く、旗本町ですな」
「左様。大して、家格の大きなお旗本はおらぬが、だいたい
「そのうちの一軒です」
「するとやはり、武家屋敷なので?」
「いかにも」
「何という者の屋敷でござりますな」
「江戸城の
「えッ、あの、富武五百之進」
「そこに、花世という一人娘はおりませんか」
「お、おりまする。……が、あの花世が……ふウむ……これはどうも、ふしぎ千万だ」
「ご承知ですか、その花世を」
「知っているどころではござらぬ」
と、東儀与力は意外な
塔十郎も意外だったらしい。
あれは貰い娘である、龍山公の
いや、そればかりではない。
東儀与力にいわせると、その花世の行動には、こんどの女笛師のお雪が殺された事件以来、いろいろな奇怪なことが多いというのである。
また、つい二、三日前の晩も、江漢老人の計りごとで、その唖聾の男を牢から放してやると、どこからともなく頭巾すがたの女が出て、唖に近づこうとした。そして、東儀与力が追いつめて、さる呉服屋の中に見出して捕まえてみると、それは、富武五百之進の娘の花世であった。
まさか、江漢老人のご子息の
「ははあ……そういう女性ですか」
と、羅門塔十郎は、すこし失望のいろを
「お、ここの
「成程、この家ですな」
「左様。――てまえは、ご用事のすむまで、外にお待ち申しておりましょう」
「いやいや、貴公と花世とはご面識があるとのことですから、かえって、ご一緒にはいって貰った方が好都合です」
「では」
と、東儀三郎兵衛も、塔十郎のあとにつづいて、何がな、気構えを
「たのむ」
と、奥へ言った。
静かに、ふすまの
小間使である。手をついて、
「あの、どちらさまでござりましょうか」
「花世どのは、ご在宅かの」
と、東儀与力が代って、軽く、ふたりの姓名を告げる。
「お嬢様はただ今、よそにお出ましで、お留守でござりますが」
「ははあ、それではまた、
「ま。よくごぞんじで……」
「いつぞやも、その途中でお目にかかりました。では、ご主人の
「その旦那様は、ちと前から、お知行所の
「やれやれ」
と、塔十郎の顔をふり
「ではお留守中をぶしつけながら、花世殿のお帰りまで、玄関脇のお部屋でも拝借して、お待ちうけしたいと思うが、どうであろう」
「さ、私には計らいかねますが……」
「用人はおらぬのか」
「至って、
「案じることはない。お目にかかればすぐわかることじゃ」
と、草履をぬいで、
「
と、上がってしまった。
若い小間使は困った
と――二人がことばもなく、
「? ……」
二人は、無言の
同じような疑問を抱きながら、しばらく、羅門も東儀も耳を
「花世どの、花世どの……」
と、呼んだ。
つづいて、
「おや、お部屋にはおらぬのか。……ははあ、花を
と、こんどは、二人の控えている客間の境を二尺ほどすうっと
「やっ?」
東儀三郎兵衛は、倒れるばかりに驚いて、思わず大きな声を発してしまった。
開けた方の者も、
「お! これはご来客、失礼を!」
と、ピシャリッと、閉め切るがはやいか、跫音あわただしく、たたたたと奥の方へ隠れこんでしまった。
羅門塔十郎は、
「東儀殿、どうなすった」
「ウーム、意外だ。いよいよ分らない」
「一体、今そこへ顔を出した若い武士は、あれは何者ですか」
「羅門氏にはまだご承知あるまいが、
「えっ、では今のが、
「たしかに郁次郎だ。――だが
「今の一瞬、彼がさッといろを変えた
と、羅門塔十郎は、その活眼から燃えるするどい洞察力のあらんかぎりをこめているように、腕を
同時に、東儀与力の脳裡には、つい先程、「
「え、お客様がお待ち遊ばしておいでになるって? ……どちらのお部屋に?」
そこへ、障子の外に、帰って来た花世の声が、明るくひびいた。
明るい
「これは東儀様でござりましたか、いつぞやは飛んだお間違いをかけた上に、わざわざ送って戴いたりなどして、まだお礼も申しあげず……」
「いやいや、その折は、拙者こそ大きに失礼いたした。時にこれにおるは、
「ま。……ではこのお方が、あの有名な」
「お初にお目にかかります」
と、塔十郎は
――まず彼女の父の消息をたずね、江漢老人との旧交ぶりを語り、床の間に見える
(さすがに知名な士、羅門様ではある)
と花世も、さもさも感じ入ったように、彼の巧みな座談にひきこまれて、初対面から打ち溶けた風であった。――東儀与力はまた、二人の話が合ってゆくので、羅門の社交的な才にも
「おお、つい話しこんで、思わず長座をいたしたが、時に……」
と、塔十郎はやがて思い出したように、
「貴女は
と、さりげなく、本題を
急に、話題が変ったので、花世はすこし不審な顔をしながら、ぱっちりと眼を向けて、
「いいえ、ちっとも……」
「ではお父上の五百之進殿から、何かその龍山公について、話されたことでも」
「それもございませぬ」
「ははあ。では……
「母は幼い時に亡くなって、父の手一つで育てられたと聞いておりまする」
「して、五百之進殿は、ご実父ですか、ご養父でございますか」
花世は、すこし
「はい、血をわけた、ほんとの父でござります」
と、語尾まで、はッきりと言った。
その間に東儀与力は、郁次郎の隠れこんだ奥の方ばかり気にしているので、花世に気どられてはまずいと思ったらしく、また雑話に
花世は、玄関まで送って出ながら、
「父も四、五日うちには、ご用先から戻るでござりましょう」と言った。
「あっ……」
塔十郎は何と思ってした事か、式台を降りて、
花世はすぐに拾い上げて何気なく、
「もし、ご印籠が落ちました」
と、手をさし伸べた。
ちょっと、自分の腰を探ってみて、
「オオ、これはどうも、
と、彼は、初めて気づいたように礼を言いながら受け取ったが、その極めて短い
富武家の門を辞してから、二人はまた、
「いかがですか、貴公のお眼に映った花世という
と、東儀がまず意見を
「賢く、
と、羅門は答えた。
「
「それは、疑ってみれば多分に疑える点はある。第一、まだ長崎表から帰府していないはずの
「ひとつ!」
と、東儀はぴりっと眉を
「五百之進の不在こそかえって倖せ、今夜にでも、ふいに
「いや、それは早い」
「しかし、
「他人の偽筆といわれればそれまででしょう。もう少し証拠がためをする必要がある。――殊にほかならぬ塙江漢先生のご子息、もし間違いだった場合には、拙者は元より、幾十年来功労のあるお方に対して、奉行所としても申し開きが立ちますまい」
「なるほど……」
と、東儀与力はほとんど昏迷そのもののように
「あの
と、足さえも重く、
羅門塔十郎も同じように
「この事件は、局外からちょっと観ると、至って簡単なように察しられるが、さて、手を着けて一歩はいって見ると、古沼へ足を踏み入れるようで底の知れない秘密がありそうだ。
と、
東儀は驚いて、
「今、貴公に手を引かれては当惑至極じゃ。そんな事を仰せられずに、何とか一つ、打開策はござるまいか」
「拙者に一つの案がないではないが……」
「それは?」
「さ、それも上方流の
「知れてはお
「大先輩たる江漢先生のお耳にはいれば、決して、お
「何、そんなご
「では、申してみるが、
「十五夜の晩以来、だいぶ
「日本橋の
「あ。あの
「そうです。その亀八に雪女の死体を見せて、同一の死人形を亀八独特の蝋細工にて作らせ、折からちょうど平賀鳩渓が神田のお
「ははあ。では奉行所内の極秘な物を、世上へ公開いたすことになるが」
「さ。そこが江戸流と上方流の相違なのです。拙者の流儀で行くならばむしろそれが世間の評判になるのを欲する。そして、博物会の会場に目明しを
「成程」
「評判が高くなれば、
東儀は一も二もなく同意をして、すぐその奇計にとりかかる決意を洩らしたが、羅門はまた考え直して、それをやるにしても、一応は江漢先生の意見を求めるのが順当でもあり、また礼儀であろうと言い加えた。
智に富むばかりでなく、礼にも厚い彼の
「では早速、手前は
奉行所へ立ち寄って、与力部屋のぬるい茶を
鶉坂の
「おう東儀か、どうじゃなその後は。……なに少しも探査が
と、
世に「親馬鹿」という俗言があるが、老先生ほどな人物も、子に甘い余り、やはり盲愛の例に洩れないで郁次郎に
「ははあ、それは上方流の羅門の献策とみえる。あの方法も、幾度も繰り返しては効がないが、江戸では珍しいから或いは意外な拾い物があるかも知れん」
と、可もなし不可もなしという
東儀は早速、その帰り足で、亀八の家を訪ね、万事手筈をきめて、いよいよそれから数日の後の博物会に「亀八作、
それが、名月の夜に殺された女笛師
この博物会というのは、
「やあ、あれか、評判の美女の蝋人形は」
「凄いな、生きているようだ」
「ばかをいえ、鷺江お雪の死体を写すと書いてあるじゃねえか。死人形が生きているようじゃ、
「だが、あの血の色の生々しさッたらねえな。
「オヤ、指といえば、左の手の人差指が一本切り取られてあるぜ」
「ほんとだ。殺した上に、指を一本切ったんだ。ひどい
「
会期の七日間、毎日の人気はその死人形に
と――
「オオ……」
と、何か強い感動に
「…………」
編笠はかろく
と、絶えず、会場の中に、眼を配っていた一方の男が、ふいに袖を引いて、
「おっ波越、上役が招いているぜ」
「そうか」
と、あわてて接待場へ茶碗を返して、
「どこに?」
「例の
「お、手を上げているな。さては何かあの前に、変った事があると見える」
東儀は、人と人との間から、じっと、昂奮に燃える眼を据えていたが、
「加山か、おう波越も、あれにおる編笠の侍のどこかに見覚えはないか、どうだ」
と、
「さあ? ……」
と、二人が考えていると、
「顔は見えぬが、肩とか、
「畏れいりました。……成程、そういわれてみるとどうやら」
「思い出したか。いつぞやの晩、
「ウム、似ています!」
「最前から
「いかにも、ただの見物人ではありませぬな」
「万が一にも、大丈夫とは思うが、万一、
「承知しました」
二人は目くばせを交わして、さっと、見物人の中へ姿を隠した。
東儀はその位置を離れずに、疑問の編笠の人物と、二人の部下がそれへ近づいてゆく間隔とを、三角線に見つめながら、
「ちいッ、愚図め。何を
と、じりじりした東儀は、堪らなくなって、そっと、加山のうしろから、肩を突いて言った。
「なぜ早く側へ行って、
「…………」
加山は黙ってかぶりを振った。
舌打ちをしながら、東儀はまた、波越の袖を引いて、
「今だぞ」
と、強く
「駄目です」
と、田舎者に変装している波越は、投げるように、肚の息を、ふッと吐いた。
「なぜっ?」
と、東儀の声は、低いが、鋭く咎めた。
「あの侍のわきには、先刻から、妙にぴったりとついている町人がいて、それが邪魔になって、何としても手出しができぬのです」
なるほど、そう言われて、東儀も初めて気がついた。
しかたがないので、しばらく隙を計っていると、やがて人混みの間に、編笠がくるっと横に向いた。
「オ、出て行くぞ」
東儀があわてて注意するまでもなく、忠実なふたりの同心は、
「ははあ、いよいよ側にいる町人は、
加山と波越は、目で語りながら、
そのうちに
「あっ!」
と、加山耀蔵は、思わず
ほんの
しかも、波越の眼に
(さ! どッちを追おうか?)
ふたりの足は、刹那にちょっと譲り合ったが、波越が一散に深編笠を追い
横丁から横丁へと、町人の脚は、鹿のように迅かった。けれど、何度ふり顧っても、すぐうしろに加山耀蔵の姿が迫っていたので、すッかり
「――旦那。くたびれるだけ損だ。あっさりと、お縄を頂戴いたしやしょう」
と、立ちどまって、
「ウム、男らしい!」
と、加山耀蔵は跳びかかって、すぐに、熟練した縄さばきで、ぴったりと、縛り上げた。
「歩け」
「真っ
耀蔵は、附近の
と、その波越は、神田川の堤の上に、唇を噛んで、無念そうに
「オイ、波越、どうした」
駈け寄って、肩を叩くと、
「加山か。……残念だ!」
「逃がしたのか」
「これを見てくれ」
と、波越は腕につかんでいる
「ここまで追い詰めたから、しめたッと思って、分銅を投げつけると、編笠の首に
「残念なことをした」
「一度ならず、二度三度だ。おれはもう同心が嫌になった。おれには、捕縄を持つような
「まあ、そう落胆するな。……また上役の東儀
「オオ、
「おい
「加山、よく言ってくれた。おれはともすると、意志の
「おれこそ、欠点の多い人間だ。頼む」
二人は、敗地に立つたびに、友情を強めた。感激の手を握り交わして、難路の踏破を誓った。
「さ、すぐに
「無論だ」
と、自身番へ戻って、
「おい! 顔を上げろ」
「ヘイ……」
と、男は
「貴様は連れのあの侍と、どういう縁故のある人間だな。まず、それから申せ」
「連れ?」
と、すこし変な顔をして、
「旦那、あっしに、連れなんざありませんぜ」
「偽りを申すな。あの博物会の中から一緒に出た侍は、貴様の連れに相違あるまい」
「うふッ」
と、彼は吹き出しかけたが、二人の怖ろしい眼に出会って、ぐっと、その笑いを
「冗談じゃございません、あれや、あっしが朝から目につけて来た
「鴨? ……して一体貴様何者なのか?」
「こうなっちゃ、何もかも、神妙に申し上げます。あっしゃ、何を隠しましょう、中国筋からこの江戸表まで、あの侍の
「じゃ
「へい、これでも、中国筋では、少しは知られているチボでございます。花の江戸へ出て、お縄を戴いたなあ、かえって、本望でございます」
二人は、唖然として、顔を見あわせてしまった。二の句がつげなかった。
最初は、その自白も疑ってみたが、彼の
「貴公たち、また、最前の怪物を逃がしたそうではないか」
そこへ、東儀与力が、不きげんな色を眉に
「何と言っても、きょうは場所が悪かった。まあ、そう咎めてもしかたがないでしょう」
と、
そして二人は、狭い、薄暗い、自身番小屋の隅に腰をかけた。
ちらと、二同心の
「肝腎なシテを逃がして、そんなワキ師を捕えてみたところで大したことはあるまいが」
と、冷笑した。
「面目次第もございませぬ」
と、加山は、俯向いている波越に代って、
「しかし、意外な獲物がございましたからご一見下さいまし」
と、別府の新七が自白したことばと共に、彼の
「やっ、これは、
と、手に取り上げた羅門は、中をひらいてすぐに言った。
「東儀
「えっ、ど、どうしてそれが分りますな」
「ここに一札がはいっておる。これは、郁次郎が長崎表から江戸へ送り金をした
「ウーム成程」
「まだある」
と、次の一札をひろげて、
「これは手紙ですが、見らるるとおり女文字、しかも、宛名は郁様へ、雪女よりとしてあるのを何と見らるるか」
「オオ!」
と、東儀与力は、それをつかむと飛び上がらんばかりに驚いて、
「こ、これは、
と、意気込んだ。
然り、事件は一歩すすんだ。
自身番の番太郎に手伝わせて、
一 今夜のうちに、両替屋の佐渡平の店を訪れて、為替札 の実否を調べておくこと
一 同時に、主人の佐渡屋和平は、鷺江お雪の笛の門人であり、かつ彼女の殺害された十五夜の同日、麻布 の家で死体となっていた町人に相違なければ、この件も、同時に、再吟味をとること
一 夜半 には、加山、波越の両名にて、ふたたび博物会の蝋人形の囲い場を見張ること
一 明朝、寝込みに、或いは都合によって夕刻、すべての証拠がため整い次第に、東儀与力自身、奉行直筆 の差紙 をふところにして、富武五百之進 の屋敷に赴き、塙郁次郎を御用拉致 すること
なお細かい手配りや注意については、羅門塔十郎が「ゆるせ」
軒の
佐渡平の店は、大戸をおろして、店のひとみ障子の
東儀与力はずっとはいった。
「内儀はおるか」
「どなた様でござりましょうか」
――と店の者。
「八丁堀の者じゃ。東儀三郎兵衛」
「あ、お見それいたしました。……まず、どうぞこちらへ」
と、帳場のわきへ、
「内儀に会って、ちと、密談したいことがあって
「それはどうも、わざわざ、恐れ入りまするが、実はお内儀様は、
東儀は眉をひそめた。主人の佐渡平が
その顔いろを、
「何か、ご用の筋がございますならば、奥に番頭もおりますゆえ、すぐにこれへ」
「待て待て」
「へい」
「公用じゃ、殊に、密談を要すること、番頭などに洩らすわけにはならん。内儀に飛脚を打って、立ち帰り次第に、奉行所に出頭させい。世間
用の足らぬ腹立ちも
「しばらく、お待ち下さいませ」
「誰だ……
「当家の
「な、なんだと!」
東儀は愕然とした余り、思わず足を
「佐渡平? ……あの、そちが、死んだ佐渡平だと申すのか」
「
「それをば何で、先頃、部下の者が当家へ調べに参った時には、そちの内儀を初め家族一同が、悲嘆の涙にくれ、なお、
「まったくの思い違いでござりました。その間違いの
「ふム、成程」
「この男は、以前は、肥前の唐津、
「では、お雪の
「兄弟のことゆえ、人様がよく間違えるほど似ておりますので、こんな事になったのではないかと存じまする」
「それならそうと、なぜすぐに、届け出んのじゃ」
「私が帰ったのも、つい
と、改めて、奥へ招いて、
東儀はそれへ手もつけないで、すぐに、
けれど同様な
若いお屋敷風の女と聞くと、東儀は、習性のように、
佐渡平の店へ金を取りに来た妙齢の女についても、店の者たちにつぶさに
「何か、これという、たしかな特徴がその女になかったか」
と、訊ねると、若い手代が、隅から答えた。
「私の目に、はっきり残っていることがございます」
「ウム、申してみい」
「雪のように、白い、
「襟あしの奥に」
「へい、俯向かなければ見えません」
「ほかには」
「さあ?」と、店の者たちは、
と、揃って、頭を掻いた。
昼は人いきれと
淋しい、夜番の灯が、ぽちッと、隅の方に二つばかり……。
それも、何かの、眼みたいに見える。
「なあ、波越。なんだってこんな
「いや、あの
「しかし、
「寒いなあ、そこに
と、霜除けをかぶった
しばらくすると、こんどは波越の方から――
「だがなあ加山、おれはまた、しみじみと奉行勤めがいやになって来だした」
「また、そんな弱音を
「と、言われちゃ、少し心外だが、考えてもみろ、若年からいろいろお世話になっている恩師の江漢先生のご子息が、いくら大悪党だって、貴様、イザとなって、縛れるか」
「それは俺も、自分が
「そんな講釈は、おれだって知っているが、いくら
「おられまい、
「それ見ろ、貴様だって、血はあるだろうが」
「しかし、やはり、裁きは裁きだ。おれたちは、天に代る、
「おれは苦しい。何という、いやな職業を
「そう考えるから辛いのだ、弱いのだ、天の使徒! 征悪の使徒! そう思うんだな」
ぎょッと、二人は何かの物音に、本能的に立ち上がった。――と、すぐにその気配が、大きな音響になって、二人の耳を
「やっ、蝋人形の囲い場だ」
「竹の
物陰から躍り出して、そこを
「待てッ!」
と、耀蔵は思わず呶鳴ってしまった。
ぐわらぐわらと
「
耀蔵は、
「波越、逃がすな!」
と、友へ応じながら、加山はつづいて追ッた。追いかけながら見た彼女の胸には、たしかに、
しかも、その迅さは、風のようだった。加山が、二、三度も、丸太の根につまずいたのに、彼女は女らしい細心さと敏捷な速度で、外の、桐畠の闇に、かくれ込んでしまった。
先へ廻った波越八弥は、ふいに、彼女の前面へ出て奇襲した。それには、彼女もあわてたらしく、あッ、と軽い声をあげて戻りかけたところを、波越は、腕をのばして、むずと、頭巾をつかんだ。
有明けの空のような、
「やっ! 貴女は」
と、叫んだ。
同時に、手を離した。――引き合っていた頭巾の手を。
放たれた小鳥のように、彼女の姿が、真ッ暗な風のなかへ、ばたばたと消えてゆくとすぐに、そこへ、息を
「波越ッ、に、にがしたな貴様はッ」
「ウーム、逃がした」
「故意だ! たしかに故意だ」
と、彼の不甲斐なさを怒るが如く、つかんだ手を
「な、なんで、逃がしたかッ……。こらっ、波越! き、きさまは」
「ま、待て」
「ええ、
「俺を……俺を打ってくれ」
「貴様を打って何になるんだ! ……ええ、ものの道理の分らんやつじゃ! 弱い男め! 意気地なしめ!」
と、泣きながら友を打った。
「すまない、加山、ゆるしてくれ。……おれの不覚だった」
波越は情の人だった。加山はどっちかといえば理性家だった、天職の意志のつよい
路傍の草の色に、ぱっと、明るい光線が射したので、二人は、驚いて跳び別れた。桐畠の小道を、静かに歩んで来た人の
じっと――
「波越。――
「えっ、波越に、お
と、
彼のうしろには、彼の
近国の
で、夜ははやくから、屋敷の数ある戸を閉め切って、
そう風があるわけでもないのに、庭まわりの樹木が、時折、
「おや? ……」
奥の部屋へ今、
「何か、裏の方で、人の
「気のせいでしょう」
と、若い侍は、疲れた眼を、書物の上から離して、
「お父上からは、まだ、飛脚が参りませぬかの」
「オオ、夕方の用にまぎれて忘れておりました。あなたのご依頼の用もすみ、ほかの公用も片づいたから、もはや、間もなく帰る、
「お礼の申しようもござりませぬ」
「そんな、他人行儀なことを……」
灯にかこつけて、
「どんな苦しみをしても
「お父上にも、そなたにも、婚儀の前に、こんなご苦労をかけながら、何で、薄情でおられましょうか。ただ、郁次郎がきょうまでの
「私は、信じておりまする。この信念をうごかしたら、私は、女ではございませぬ」
「そういう心を
「お見捨てくださいますな。ほんとの、
「ね、ようございますか、郁次郎さま」
ふるえている。……甘えている。
郁次郎は甘い感激に閉じていた眼を、ふっと、熱い息といっしょにひらいた。そして、何の気もなく、自分の手にある、花世の爪の先に眼を落したのである。
「あ、これを見ては、嫌です」
何か、
「はははは」
と、郁次郎は笑った。彼女の
「ホホホホ」
と、花世も笑った。
油の
と、そこの、
「
ぎょっとして、
「誰ですッ?」
「誰でもありませぬ」
すっと、
「やっ、
と、郁次郎が、そばの刀に手をのばすまに、東儀は駈けこんで、その
「な、なんとなさる?」
「
「無断で
「ともあれ、南町奉行所までご同道願おうではござらぬか。こう穏当に申すのも、江漢老先生のご子息と思えばこそじゃ。見苦しく振舞われては、父上のお顔に、泥の上塗りでござろうぞ」
「父の顔に泥を塗る! これや、いよいよ聞き捨てにならん」
と、郁次郎は色をなして、真四角に、膝を正した。
「逃げも、隠れもいたさん、どういうわけで、拙者をお召捕りに相成るか、それを承ろう! またそれが、武士に縄をかける作法ではないか」
「ウム、それまでにいうならば、花世どのをここにおいて申すが、
「無論!」
と、強く言い放ったが、ちらと彼女の白い顔を見た郁次郎の
「では訊ねるが、貴公、
「知らぬ! 存じませぬ!」
きっぱりと言って、横を向いた。
「
と、東儀は
郁次郎の顔は、見る間に、血の気を失った。――が、彼以上の驚きと悲しみとは、むしろ花世の方に強かったかも知れなかった。今も、たった今、心の全部をあげて、信じていると言ったばかりのその人に、自分以外の女があろうとは、誰が、思っても見たろうか。
突然、花世は
東儀は、勝ち誇ったように、
「神妙になさるならば、ほかならぬ老先生のご子息、途中の縄目だけはゆるして進ぜる。さ、お立ちなさい」
「お屋敷の前後、途中、辻々、手配りは充分ですぞ。見苦しい事はなさるだけ
こういって、東儀は、郁次郎の反撥のない腕を、自分の
――引ッ立てて、廊下へ出る。一枚の戸が
そこから、庭先を見ると、植込の間には、いつのまにか、多勢の捕手がなだれこんでいた。そして一組は、提灯をかざして、
「ああ! ……」
と、花世の絶望的な声がうしろで聞えた。
振り顧って、郁次郎が、何かことばをかけようとするのを、東儀は、腕を締めつけて、すこし大股に、玄関まで引ッ立ててしまった。そこには、土まみれになった四、五名の捕手が、
「探り当てました、これでしょう、昨夜の紛失物は」
と、てがら顔に、築山の裏から掘り出したという、蝋人形の首をかざして待っていた。
郁次郎は、
「さ、お歩きなさい」
彼は、幾たびとなく、背中を突かれた。しかし、足の関節が外れたように、歩みが乱れていた。恐怖と煩悶に、目のいろまでうつろであった。
後にしてゆく家には、花世の低く泣く声が洩れて、いつまでも、彼の耳にこびりついた。彼は、ともすると、仰向けに倒れそうになっては、東儀の腕に支え止められた。
「東儀殿、武士の情けです。しばらく、ま、まってください……」
京橋河岸まで、四、五丁歩むと、郁次郎は、
「まだ疲れる程は、歩いておらぬが」
「いや……少々、お話があるのです」
「話なら奉行所で承ろう」
「いや、秘密に」
「何じゃ」
「……後生です、情けです、恩に着ます、逃がして下さい拙者を」
と、郁次郎は
「や、これは、金ではござらぬか」
「そうです、それを寸志の礼としてさし上げますゆえ、拙者を」
「だまンなさい!」
と、東儀は
「オオ、しかもこの金には、
「そうです」
「悪党にも似合わぬ見下げ果てた未練者だ。東儀三郎兵衛は
と、そのまま、
隙を見て、郁次郎は、ぱッと、彼の手から腕を抜いた。おのれッという声といっしょに、夕闇の底から、どぼウん! と真っ白な水煙が上がった。
濡れねずみになって、河の中に立った東儀与力は、無念そうに
郁次郎の影は、
もがけば
「残念だ。――あれ、郁次郎めが、橋を越えて逃げて行く。追えッ、追えッ、誰か、あれを追え」
と、叫んでは
「東儀殿じゃないか」
と、
「お! 羅門先生」
東儀は、自分の力で、河から上がろうと努めたが、上がれなかった。
「それっ」
「や、
と、東儀与力の真っ黒に濡れた姿が、木像
「あれに、井戸がある」
と、
「うろたえ者め、ここに用はない。郁次郎を追えッ、郁次郎を」
「えっ」
部下たちは、初めて知ったように、
「――
「たった今だ、ふいを狙って、
白魚橋の
そこへ、同心の加山耀蔵が、自身番から
「与力。お着更えを持参いたしました」
「加山じゃないか」
「は」
「何をしておったのだ、何を」
と、東儀は誰の顔を見ても八ツ当りである。
「――貴公、わしが河へ突き落されたのを知っていたなら、なぜ、衣類を取りに行くよりも、郁次郎めを先に追いかけなかったのだ」
「はっ……」
と、加山は暗涙をのんでうな垂れた。
東儀は、あわただしく、体や髪の
「郁次郎めが老先生の子息であるという点から、さては、十手が鈍ったのであろう」
「……決して、そんなわけではございませぬ。拙者は富武家の裏門を見張っておれと申し付かっておりましたので、忠実にそこを固めているうちに、組下の者から様子を聞いて、驚いて駈けつけて来ましたが、もうその時は遅かったのです」
「いかん! どうもいかん」
と、東儀は、すべての喰い違いがみな部下の怠慢からでも起ったように、首を振ッて、
「いつぞや
「いや、それは無理もないことです」
と、羅門はそばから
「拙者にしても、きょうが日までは、いくら証拠に証拠が重なっても、まさか、女笛師を殺害した下手人が、老先生のご子息であるとは、思いながらも、よもやに引かれて、惑っていたくらいなもの。――まして当代の人格者
羅門のさばきは、いつも
加山はひそかに、こういう立派な人物を上役に戴いて働いたなら、どんなに、働きがいがあるだろうと思った。
が――東儀のこじれた気もちはまだ
「加山ッ」
「は」
「は、じゃあない。何をぼんやりとしているのだ。もう組下の者さえ先に手配に廻っておるではないか。早く善後策を講じて、郁次郎めを引っ捕えて来い」
「はっ」
「郁次郎を召捕らぬうちは、断じて、奉行所に帰って来るな」
「……ご免」
と、悲痛に、無情な上役へ向って、低く会釈をすると、加山は、冷たい十手と捕縄をつかみ直して、
その、うしろ姿を見送って、東儀はすぐに、
「この上は、花世の方を」
と、羅門を眼で促した。
「そうだ、郁次郎が逃げたと知ると、あの鳥も、逃げるかも知れぬ」
二人は、
見ると、一
「もしや、花世が?」
と、疑って、すぐに、駕のタレを
「おや、これは下総から、ぶっ通しで来た駕らしいが」
「主人の五百之進が帰ったものと見える」
「じゃ、花世もまだ奥にいるだろう。――羅門
「心得た」
二人は、ばらばらと、邸内へ駈けこんだ。
たった今、大勢の捕手が踏みあらした屋敷の中は、まだ、土足の
「――郁次郎殿は? 郁次郎殿は?」
その中へ旅から戻ってきた
が、そこには、もう郁次郎の姿はなかった。
寂しい夕暮を守る一つの灯の下に、彼のはいって来たのも知らずに、畳に顔を沈めて、泣き伏している花世の
「これ! 花世」
「あっ……」
と、びっくりして、
「お父様」――と
「何としたのだこの有様は。郁次郎殿は、いかがいたした?」
「お……お父様……」
「泣いていては分らぬ。郁次郎殿は?」
「たった今、南町奉行所の東儀様や、大勢の捕手が
「なに」
と、五百之進は、よろよろと、倒れそうになった体を、柱に支えて、
「では、当家に隠れていることが、早くも、奉行所の知るところとなって、引っ立てられて行ったと申すか」
「は……はい。なんとお縋りしても、東儀様には、役目とあって、
「ウーム、しまった。一足遅かった。せめてわしがいたならば、むざむざと、郁次郎殿を渡すではなかったのに。……娘! この上はぜひもない、そちも早く、屋敷を
「でも、お父様を独り残しては……」
「な、なにを、猶予しておるか、そんな場合ではない。飽くまで、
「私も、それを思うと、この胸が、張り裂けるようでござります」
「よいわ! 今日まで、老先生を
「は……はい……」
「そして、時節を待て。よいか! 強くなれよ! 添い遂げろよ! それが、この父へ対しても、老先生へ対しても、ただ一つのそちの婦道であるぞ」
五百之進は、そう言って、あわただしく、自分の居間へはいって、手文庫の中から、路銀や、印籠や、何かの書類や、
と!
「あれッ、お父様ーッ」
と、花世の救いをよぶ声が、悲しく、奥の間に
「あっ」
と、五百之進が仰天して戻ってみると、彼が去った瞬間に、入れ代りに、そこへ踏み込んだ羅門塔十郎と東儀三郎兵衛が、両方から、彼女の
「わっ、まッ、待てッ」
と、五百之進は、われを忘れて、東儀と羅門の
ふたりは冷然と、
「おうご主人には、いつの間にお帰りか。ご息女の一身について、少々不審のかどがあるに依って、奉行所までお供を仕る」
「いや、お待ち下さい」
「待てというのは」
「何の理由をもって、花世を、お召捕なさるのか、それを、承りたい」
「その儀ならば、追ッつけ、貴殿も奉行所までご足労を願う場合があろうから、その時に、お
「それだけの理由では、娘を渡すことは相ならん」
「公命に
「拙者も、
「その辺もお察しはするが、何もかも、不運とおあきらめなさるよりしかたがあるまい。郁次郎の身にも、花世どのにも、
と、羅門は、こんな場合にも、多少は五百之進に同情を持つらしく、そのことばも物柔らかであった。
東儀は、ぐずぐずしていてまた機を逸しては、と
「不服があるならば、奉行所へ、奉行所へ」
と、叫んで、
「さっ、お歩きなさいッ」
と、花世の背をとんと突いた。
深い
「御用!」
と、呶鳴り浴びせた。
「それっ」
と、東儀と羅門とは、すぐその
「ウウーム……」
と、五百之進が前伏せに
「ヤ、ヤッ、これは!」
「ご、ご両所。……」
と、五百之進は、血みどろな片手を上げて、ふたりの影を、拝むように振りうごかした。
「お、おねがいでござる」
「自害とは、短気な。五百之進殿! しっかりなさい!」
「……おねがいでござる、ご両所。……む、娘を」
「えっ」
「見のがしてやって下さい。これには、深い
「ウーム」
と、東儀もさすがに、死をもって、子の
羅門は、さも同情に
「ああ、ご無理もない」
と、横を向いて、暗涙を拭った。
そして、低い声で、
「東儀殿、見のがしてやったらどうだ」
と、
そう言われると、東儀は、捕縄役人の冷厳な本心が、かえってピクリと
「いや! 断じて相成らん。――切腹してまで、子を助けたいというのは、なおさら花世に深い秘密のある証拠ともうけとれる」
さすがの羅門も、呆れたように、
「貴公は怖ろしい法の
と、呟いた。
「いかにも、十手をとる以上は、飽くまで私情を殺さねばならぬ。花世の罪科が明白になれば、五百之進殿も、当然、切腹の運命は遅かれ早かれ来るものに決まっておる。――見のがすなどとは、もってのほかだ」
五百之進は、俯つ伏せていた顔を、がばと上げた。もうその顔は、青い死相に変っていた。
「で、では、これほど、お
「くどい」
と、東儀は心づよく言い放って、
「罪がなければ、ご息女の身も、無事に帰されるであろうし、犯した
「ちぇッ。……情けを知らぬ武士め!」
「なんだ!」
と、東儀は、憎々しげに睨み返して、
「法の前には、何ものもないわ!」
「ええ、しまった。――娘ッ」
「――娘ッ。――花世」
「おおっ……」
「斬りやぶッて逃げろ! 父も、助勢してつかわす」
と、つよく言い含めた。
「あっ」
羅門塔十郎は、身を
「逃げたッ」
と、不意を衝かれた捕手たちの慌てた声が、ばらばらと彼方へみだれた。
「外へ出すな」
と、東儀は呶鳴った。
羅門は、死骸を見すてて、
辻に、橋の
闇、闇、また闇。――行く手は暗い、彼女の運命のように暗い。
はやくも襲われた呪いの暴風に、愛人との隠れ巣、父との愛の家、そしてその一人の父の
まだ
今し方まで、
宿役人が来る――見物の旅の者が追い払われる――。やがて、
「あら、ちょっと、
「お武家さま――」
「編笠のご浪人さん」
「泊っていらっしゃいな」
この東海道――わけて戸塚の宿には、
「これ、離せ」
おぼろ笠をかぶった浪人だった。どこか
「放さんか、放せ」
「でも、どうせお泊りでございましょう」
「いや拙者は、この戸塚の宿に知り人の家がある。それを尋ねているのだ」
「うまいことを」
「通せ」
「いいえ」
争い合っていると、町の
「あれ、若様ではございませぬか」
「おう、
「まあ、どうして! ……」
と、老婆は駈け寄って、
「おまえらは、何をさらすんじゃ。このお方はわしが若いころに、
と、自分の子でも
「さ、郁次郎様、貧しい家でございますが、どうぞお寄り下さいまし」
「
「おや、なぜでござりまする?」
「すこし仔細があって、身を隠している体だから」
「長崎へご勉強においでになったというお話ですが」
「その長崎の修業中に……」
と、何か言いかけたが、急にそわそわと、
「
と、急ぎ足に歩き出した。
「よろしゅうございます。お杉が、きっとお
と、ひきうけた。
だが、お杉の亭主は、宿場人足のあぶれ者だった。呑ンベの繁といって、戸塚でも
で、
お杉は一挺の駕を雇って来た。
「
と、文字は
「やい、お杉、いつぞやの居候は、どうしたんだ」
五、六日見えなかった呑ンベの繁が、帰って来ると、果たして、こう呶鳴りだした。
「居候って、誰のことを言うんだえ」
「あの、郁次郎っていう、色の
「勿体ないことをお言いでない。あの方は、私にとっては、昔のご主人様だよ」
「何でもいいが、おれに黙って、何処へ行ったのだ」
「急用がおできになって、江戸表へ、お帰りになったのさ」
「嘘をつけ」
と、繁は、あざ笑って、
「てめえ、あの若蔵の嘘っぱちを真にうけて、何か、小細工をしていやがるな」
「何で私が、お前に隠して、そんなことを」
「やかましい! おれの耳は、地獄耳だぞ。この間、野郎の泊った時、夜の更けるまで、おれが酔いつぶれていると思やがって、ひそひそしゃべっていたなあ何の話だ。よし、夫婦の仲で、そんな水くせえ真似をするなら、おれにも、
ぷいと、飛び出して行ったが、そんな行状は、珍しくもない亭主なので、お杉は、悲しい顔をしながらも、
繁は、
「こう、この中に、安はいねえか、安は」
「安は、ここにいら。よく眼をあいて見ろ」
「うむ、なるほど」
「何が成程だ。相かわらず、いつも、呑ンだくれていやがるな」
「よけいなお世話だ、やい、安」
「なんだ」
「てめえ、うちのやつに頼まれて、今朝、何処へ駕をやったんだ。あの、色の
「知らねえ」
「ふざけるな、相棒の兼に、聞いて来たんだ」
「あいつ、もう、しゃべったのか」
「ふてえ奴だ。ぬかさなけれや、てめえと、一騎打だ。さ、首を洗って、外へ出ろ」
「いいじゃねえか、何も、兼に話を聞いているなら」
「いや、てめえの方が、詳しい話を知っているはずだ。去年の十月頃に、
「塙郁次郎とかいう、江戸で、女笛師を殺した下手人だろう」
「そうよ」
「それがどうしたんだ」
「けッ、
そう言われて、安も、はッと何か思い当ったふうだった。しかし、そのために、彼に打明ける気にはよけいになれなかった。自分の口から密訴すれば、その報酬も自分のものだ。
「やい、ぬかせ」
「知らねえッていうのに、くどい奴だ」
「どうしても、言わねえな」
「あ、おら、義理がてえから」
「何を言やがる」
繁のふり上げた拳が、ぐわんと、安の
「野郎」
安のこぶしは、繁の鼻を突いた。
「やったな」
「やったとも」
駕屋だまりの羽目板には何本もの、
「さ、出てこい」
「おッ、へどをつくな」
安も、その一本をふりかぶって、
と、たまりの軒先に、最前から一挺の駕がおいてあった。駕のうしろに、江の島
「両人とも待て。――立ち騒いで
ぱらりっと、駕のタレが、
羅門塔十郎その人であった。
「来い」
塔十郎は、どぎもを抜かれた繁と安へ、こう
「――来い、仲直りをしてとらせる」
と、先へ
「どうしよう兄弟」
「成敗するって言ったぜ」
ふたりは、
ぶきみな、雪踏の音に、引きずられるように、ついて行った。
「おや?」
と、見ているまに、羅門は、小料理屋の
「ゆるせ」
と、はいってしまった。
すぐ、女が出て来て、外でまごまごしている二人を連れこんだ。
「飲むがいい。喧嘩よりは、酒の方が、うまかろう」
塔十郎は、
「お尋ね者の郁次郎が、この辺に、
「へい、たしかに、
繁は、しゃべりだしたが、自分の家に一晩泊ったということは、
「行く先は、こいつが、よく存じております、へい」
と、安の顔を指さした。
羅門は、黙って、小判を一枚ずつ、二人のまえへ投げた。
「こりゃ、お
「江の島の、江之島神社でございます」
安も、小判の前には、すぐ泥を吐いてしまった。
二人を帰すと、羅門は、その晩、江戸へ帰る予定を
彼は、非常に旅行好きだと常に人に話しているとおり、暇があると、旅へ出かける癖があった。尤も、上方から下って来た目的が、龍山公の
史蹟に、名所に、旅行癖はそうした人にはありがちである。ことに、彼は江の島の海色がまたなく好ましいといって、相州附近からあの島へは、度々、旅をしている。
ちょうど、春先。
遊心をそそられた彼は、この四、五日まえから、鎌倉江の島めぐりをして、ちょうど、戸塚まで帰って来たところだった。――江戸の方で、
「旅もしてみるものだな」
と、羅門の頬には、意外な拾いものに
その翌日、七里ヶ浜をいそいで、江の島への
「旦那」
と、呼ぶ者がある。
ふり返った羅門はすぐに、
「
と、すたすた歩きだした。
「羅門先生」
「や?」
「私です」
と、鮑売りの
さすが
「おう、加山か」
「羅門先生には、きのう、江戸表の方へ街道をお急ぎとお見うけいたしましたが、どうして、お戻りなされたので」
「貴公こそ、どうしてここへ来ているのだ」
「はい、拙者は、あれ以来、奉行所へ戻らずに、遂に、郁次郎の足跡を見つけて以来、彼の影を離れたことはありません」
「では、郁次郎がこの島へ来ていることを、貴公はもう知っているのか」
「そのために、早速、こんな姿に化けているわけです」
「ご熱心だな」
と、言ったが、羅門には、ちょっと、自分の功をさらわれたような不快さが、軽く走った。
「この島へはいったのは、郁次郎も、自分で自分の墓穴を掘ったようなものだ。江戸表へは、
「あ、もうそんなに」
「羅門の手を下す以上には、
そう言って、少し誇らしく、
「だが、その手配の来るまで、何より不安なのは、この渡し口です。貴公は、その身なりがちょうどよいから、昼夜、ここの海辺を離れず、見張っていてもらいたい」
「承知いたしました」
そういって、羅門は、島の中腹にある町中の
「ああ父にすまない。あの老いたる父は、
机に
「花世は、どうしているだろう」
苦悶は、すべてを苦悶にする。
――波の音、木の葉の風。
彼にはすべてが、恐怖と、苦悩の音響だった。罪の人にありがちな、神経質な顔に、おそろしく、若い明るさを傷つける
りん……鈴の
江の島見物の旅人たちが、なにがしかの
気を
「あら、咲きましたこと」
誰か、話しかけたのである。
ぼんやりしていた郁次郎は、うしろに、人が立ったことすら知らなかった。
「あ……」
「ホ、ホ、ホ」
直美は笑った。
いつも化粧をしているせいか、表情のある
「……何を驚いたのでございますか」
「べつに」
と、郁次郎も、淋しく笑った。
「ご退屈でございましょう」
「なに、書物に親しんでおりますから」
「お江戸だそうでございますね」
「江戸です」
「私も……」
と、言いかけたが、
「
「そんな幼少からこの江の島に?」
「え、巫女に貰われてまいりました」
「
「舞を舞っている間にも、それを思うと……」
涙が目にいっぱいだった。
「直美、直美――」
拝殿の方で、
彼女が、顔いろを改めると、涙がぱらぱらと落ちた。
「はあい」
と、返辞をしてまた、
「お客様、晩に、江戸のお話をうかがいに行ってもようござりますか」
「え。おいでなさい」
「じゃ、きっと、参りまする」
また呼ばれたので、彼女は、あわてて走りかけたが、胸に挟んでいた
「あっ」
と、何を見て驚いたのか、郁次郎は、発作症でも起きたように、いきなり、彼女のその左の手をつかんだ。
「……いけません、人が見ます」
が――郁次郎の
彼女の左手の中指である!
なんと、奇異な暗合だろう。郁次郎は
「おお……花世と、同じ爪だ」
「おはぐろ爪」
と、直美は手を引っこめた。
そして、
「晩にね」
と、
「
江の島の山の雑木林には、まだ、海霧が乳色にからんでいた。朝はやく、峠を越えて、裏磯へ出る
江之島神社から四、五丁奥の林の中である。
巫女の直美は、一太刀で、むざんに殺されていた。みんな、その美貌を惜しがった。
島役人が来て、検死帳へ書き上げた一ヵ条には、死骸、証拠品などのほかに、直美の左手の中指が斬りとられてあることが特記された。
指を切られて殺された女。
それと同じ事件は、去年、江戸にもあった。
女笛師の
いや、あの時の雪女は、同じ左の手でも、切られた指は、人さし指だった。こんどは、中指だ。
指切りの悪魔。ふしぎな殺人だ。下手人は誰だろう? 何の目的で殺したのだろう。
島の者はむろん、旅の者まで集って、山の林には、
その人々のことばを綜合すると、きのう灯ともし頃、
(直美どの、海を見に行かぬか)
と、若い侍が、誘いに来て彼女を連れ出した。居あわせた者が、
(誰か)
と、訊くと、直美は少し恥かしそうに、
(
で、深く注意もしなかったが、外に待っていた男は、編笠をかぶり、
「よしッ、他言するな」
島役人は、その
同じ宿には、ゆうべ江戸から着いた、東儀与力をはじめ、屈強な部下が七、八名、姿をかえて泊っていた。
「もう、猶予はならん」
断乎として、羅門のくちびるから、決断の一句がつよく走った。
「すぐにだ!」
しきりと、何か、考えごとをしている顔つきだった。――或いは、それから四、五町奥の山林の声を、
やがて、水を汲み上げて、顔を洗い出した。血でも落すように、神経質に、手を、幾度も幾度も洗っていた。
たたたたッと、犬のように
「郁次郎ッ。御用だ」
と、うしろから締めた。
ぱッと、白い水が、五尺も高く上がった。
腰を落して、捕手を投げつけながら、手にかけていた
「――郁次郎殿、郁次郎殿。もう
木立の蔭から、そう言って近づいてくる、羅門塔十郎と、そして東儀与力のすがたを見ると、郁次郎の顔いろは、もう生ける
人も知る山城国の四明ヶ岳にある
「あ。黄門様の窓に灯火が
と、寂しい夜になったのを知るのであった。
それがまた、この九年間、少しも時刻を
「ご不幸な殿様だ」
「お世継がひとりもないので、自分もこの世に何の
「それにしても、九年もあの上に住んでおいでになるとは、根気のいいことだ」
「何しろ、よほど変り者の殿様とみえる」
と、密かに噂するくらいな知識しか持たなかった。
すると。
春も二月の末頃、その
「
と、
「いらっしゃいまし。
「叡山へ? あ、成程、ここは叡山の登り口だね」
「はい、
「なに、あっしは叡山へ参詣に来た者じゃないのさ。この通り、
「おや、お急ぎでございますか」
「これから北国へ廻らなけれやならないが、せめて、
「ホホホホ。それはどうも」
「姐さん、もう一つ」
「お茶でございますか」
「菊ヶ浜から休みなしに急いで来たので、すっかり喉が渇いちまった。……したが旅もだいぶ楽になったね」
「ほんとに、春めいて参りました」
「ところで
「はい裏道はございません。大津を越えて、京都へはいればべつでございますが」
「それじゃ途方もねえ遠廻りだ。……妙に、いろんな事を訊くようだが、今朝から今までの間に、年のころ
「ひとり旅のお若い方でございますか」
「色が白くって、柳腰。無造作に手拭で髪を包んでいるが、都者というのは一目でわかる」
「さあ? そんなお方は、お見かけしないと思いましたが」
「はアてね」
と、旅商人の男はひたりと、頬へ手をやって、
「そんなはずはねえんだが」
と、しきりと、湖畔の街道筋へ眼を送っていた。
と、
唐崎や浮御堂の景色へ、駕屋は、指をさしながら何か大きな声でしゃべッて行った。湖水の案内をしているらしい。で、そッちへ向っている駕のタレは
「――おい姐さん、少ないが、ここへ置いたぜ」
「オヤ、もうお立ちでございますか」
「あれだ! 駕の上に、女笠と女草履」
呟いたと思うと、もう駕の速度と同じぐらいに急ぎ出していた。
道中にはいかものが沢山いる。旅を廻る木綿屋の註文取りにしては眼をつける者が少し商売違いである。――と思ってよく見ると、その旅商人、実は、江戸表の南の同心、かの博物会の蝋人形に変事のあった晩に、当然、捕まえ得る花世を捕まえ損ねて、組頭の東儀与力の勘気にふれ、即座に役名を
では――
しかもその八弥が、江戸の品川口から東海道を経て、遥々とここまで
女が、
「四明ヶ岳の含月荘へ行くのだが、ほかに裏街道がねえかと訊かれましたで、山はかえって遠廻りになるから、この北国街道をよい加減な所まで駕で行かっしゃいと教えてやったのでがす」
小屋の
(よし!)
と、八弥はすぐに足を向け直したが、その寸間に、もう先に見えた女はどこにも姿が見えないのであった。さては、飛んだなと、叡山の下の坂本まで、急いで来てみたが、一向そんな女が通った様子もないとの事に、茶店にはいって、一息やすめていると、何のこッた、やがて、名に負う八景の風光を流し目にして、
「あっ、また一杯食った」
八弥は口癖のように、叫んだ。
永い道中、女の小智に
だが、今日はもう必ず女の全部を突き
やがて女は、あの駕を、どこかで降りるにきまっている。――すべてはそれからのことだ。
しかし、そこの
今、自分が遥か江戸からここまで
これが分らない。
それと八弥には、もう一ツ、その女が江戸表から姿を隠した花世か、或いは、彼女と似ているが実は全くの別人なのか、どうしても明確に判断しきれなかった。
花世か? 別人か? という一個不思議な女性は、女笛師殺しの捕物にかかって以来、幾たびとなく、事件の表裏に登場して、東儀与力をはじめ、南の捕手たちを
今――それは小半町ほど先の並木を、駕を打たせて、急いで行くのだ。
「ああ! きょうだ」
彼は、
花世か? 別人か?
また、彼女が含月荘へもたらす用向きが何であるか。
その二つの疑問が
やる! 俺はやる! 命がけでやる。
たとえ、不幸にして彼女が、自分の願わざる花世であっても、再び私情に
おれは今、大きな功名の機会にぶつかっている。きっと、そいつを掴む。――上役の勘気にふれて、役名を
若い八弥の心は、情熱燃えるような血のなかで、そう遠くへ、叫んでいた。
「おやっ。降りたぞ」
突然、八弥は並木の蔭へ
いつのまにか、道は湖岸を離れて山蔭の道にはいっている。
駕は、
「ご苦労でしたね。……
女は、駕屋の
「おそろしく気前のいい女だな。だまって、
「ふふん……」
と、駕屋は、
「あんなのなら、ただで乗せてやってもいいと思ったのによ」
「さ、戻ろうぜ、金が木の葉に化けるといけねえや」
「こう山ン中で見直すと、何だかよけいに美しいな」
「これ! 駕屋」
「ヘイ」
二人は、
「――な、なんでえ、てめえはさッき坂本で休んでいた
「ははは、どうも相済みません」
と、八弥は
「おそれいりますが、お火を一つ」
「おまけにご拝借ときやがったぜ。図々しいやつだ」
借りた
「今のお女中は、含月荘へ行ったんでございましょう」
「よく知っているな」
「へい、てまえも、
「江戸表の上屋敷から使いに来たという話だから、多分、あっちの者だろう」
「それにしても、女一人の使者というのはおかしいじゃございませんか。どういう用事で来たんでしょう」
「なあ、相棒、なんだか小さな
「む、
駕屋に別れると、八弥は足を早めて、遅れた距離を取り返した。街道とちがって、こういう山道では、先に自分の姿を気づかせないということは至難だった。
しかし、それより前から女はちゃんと知り抜いているらしかった。そして何の恐怖にも襲われずにあたりまえな歩調で登りを
(はてな、何か、よほど大事な物らしいが、道中ではあんな小筥を持っていなかった。……ははあ、してみると帯の背に隠していたのを、きょうはいよいよ目的の含月荘へ着くので、手に持ちかえて参るんだな)
八弥は、そう判断した。
しかし、気にかかる。小筥の中に何を入れてあるのだろう。路銀? 手紙? イヤどうもそんな程度のものじゃない。
(そうだ、これや一つ、含月荘へはいらぬうちに、あれを奪って、同時に、花世殿か別人か、それも同時に確かめてしまうのが何よりだ)
八弥は、そう肚をきめた。
彼はさらに足を早めて、女の後ろ姿へ迫った。半町の距離は、二十間になり、十間になり、もう四、五間の近くにまで追い着いた。
「今!」
と、八弥の胸は
とんと、膝を落すとともに、彼の
「――見えませんか」
と、白い片方の手を真ッすぐに伸ばした。
「あっ」
と、八弥は思わず、地へ、首を
八弥は、一歩も動き得なかった。跳びつくには、間があり過ぎるし、身を起せば、同時に
(花世か? 別人か?)
と彼の
かなり近い距離だ。そこで、瞬間に見た判断では、やはり実によく似ているという以外一歩も出なかった。花世とも言いきれないし、別人とも思いきれない。
「――見えませんか」
女が、もう一度そう言ったら、その声こそ、花世か花世でないかを明確にするかも知れないと待ち構えたけれど、女は、それっきり、無言であった。
八弥は、
しかし、彼が一尺にじり出すと、女も、一歩後へ
が、八弥のそうした準備は、一気に女へ迫るためではなかった。四、五尺先にある樹木の楯を得たかったのである。彼は、ふいに躍り立つと、その樹の幹を楯として、
「花世ッ、神妙にせい!」
澄んだ沼のような謎へ向って、初めて、大きな試みの石を投げつけてみた。
女の表情は、花を
「しめた」
と、彼は、走り出した女を追いかけながら意気が
からりと、その時、地上に物の転がったような音がした。女の左の手から弾み落ちた
「おうっ」
彼は、全身をもって
スッと、女の白い腕も、恐ろしい速度でそれへ伸びた。
それがほとんど同時に、小筥の帛紗をつかもうとした刹那に、一本の槍の穂が、横あいから風をふくんで、キラリと八弥の眼を
「あっ、投げ槍」
咄嗟のまに、地上の小筥はもうなかった。それを胸に抱いて、ひた走りに跳んだ女の姿を見つつも、八弥は再び樹を楯にして、
その意外な敵は、もう彼の踏んでいる地上を遠くもなく、
× × ×
峰の
「お願いの者でござります」
小筥を抱えた女は、あれから程なく、少し息を
門といっても、巨大な自然木を組んだ風流門である。塀といっても、古代の山城のように
ただ、
その内側から、
「何者じゃ」
と、いうのが響いた。
女は、ことばを
「はい、江戸表から参った玉枝でござりまする。お国家老
「おう、その玉枝殿ならご家老から伺っておる」
と、すぐに小門の方をギイと開けて、
「さ、おはいんなさい。只今この下で、短銃の音がしたが、あれは
「江戸を立つ時、よほど巧みに来たつもりでございましたが、
「多分、そんなこともあろうかと、ご家老のお計らいで、途中に侍たちを置かれたが」
「それで助かったのでござります。して、大村様は」
「お待ちかねだ。こっちへ」
彼女をさしまねいて、侍は、そこからまだ三、四町もある中門を
廻廊から廻廊へ。その奥の一室。
「オオ玉枝か。遠路をよう参ってくれた。女の一人旅、疲れたであろう。まあ、風呂にでもつかって、休息したがよい」
国家老大村郷左衛門である。五十以上であろうが骨格も太く、皮膚も若い。
女は、もう
「はい、体より、気疲れもしましたが、何よりも先に、大事な用事をすませてしまいませぬと、心の方が休まりませぬ」
玉枝とよばれたこの女は、その美貌や肉づきでは、ほとんどあの花世と変りがないほど
「そうか」
と、郷左衛門は
「では早速だが、持参の品を一見いたそうか」
「はい、これをお渡しせぬうちは、肩の重荷が
と、玉枝は、
と、唐突に
「父上」
何か、どきッとしたように、玉枝も郷左衛門も同時にふり向いた。
「えい、
贅沢な絹物と大小に飾られた若い侍であった。父に叱りつけられて、顔を
「お
「殿がお召しになっておるのか」
と、郷左衛門は苦い顔をつくって、
「――じゃあしかたがあるまい。あの四層楼の
「はい」
「その間に、玉枝を
と、席を立ちながら、今度はその玉枝に向って、
「また殿様の愚痴を聞き飽いて来ねばならぬが、その小筥の品は、立ち帰って来てからゆっくり見ることにいたそう。その間でも、うかつな場所へは置かぬように」
言い残して、橋のように永い廻廊を、
奥から奥へと、その廊下づたいに進むと、やがて突当りの
――
と、
「開けい」
郷左衛門が一声呼ぶと、左右の部屋から、屈強な侍が、ばらっと出て、すぐそこを開けて両方に膝まずいた。
「変りはないか」
「は。べつに」
土蔵の中みたいである。隅に、上から落ちて来る光線が月のように見える。そこに鉄の
老公のいる含月荘の
「ヘヘッ」
と、次部屋の
「――大殿、大殿。お召しの郷左衛門めにござりまするが、お襖を開けても苦しゅうござりませぬか」
「郷左か」
と、温雅な老声が聞えた。
「はいれ」
そーっと、音もなく襖を開けて、郷左衛門は、ぺたりと、遥かに退がったまま、
「いつもながら、
「人間も、天空におると、
老公は膝にあまるくらいな美事な
一切の国政をみな家臣にまかせて、
が――ただ
「時に、郷左」
「はっ」
「今年もはや二月になるのう」
「御意にござりまする」
「数えておるか」
「胸にこたえておりまする」
「幕府のご猶予は秋までだぞよ。この秋までに、世継を届け
「郷左も、その儀ばかりを、実に心痛いたしておりまする。ひとたび、思いをそこにいたす時は、夜の眼もろくに眠られませぬ」
「まったくか!」
「何で、私が」
「いつもいつも、汝は左様申してはおるが」
と、老公は幅のひろい声量に少し怒りをふくんで、
「待てど暮せど、いまだに、身の
「いや」
と、郷左衛門はあわてて、
「大殿が左様にお思い遊ばすのは、ご無理ではございませぬが、それに係っておる者は、誰も彼も、寝食を忘れ、身を粉にくだいてご落胤のお四名様を、探し歩いておりまする。決して、一日たりと、それを忘れている臣下はございませぬ」
「わしの血をうけている四人の孫、それは正しい側室の
「おことば、重々ご
「あたりまえじゃ」
「が
彼が、声にまごころをこめ、眼に涙をうかめて、こうまでに言うと、時折、歯がゆくなられるらしい老公もだんだん顔いろを
「郷左、何分にもたのむぞ」
老公は、そう繰り返して、峰の夕雲に眼を移した。
西側の窓の方からは、遥かに、京都の町の灯がチラチラ見える。郷左は、畳に
ギリギリギリと何処かで時計が鳴る。
「郷左、退がれ」
老公は立った。蘭之助、杉太郎の二人に手燭を持たせて、静かに、次の間の書庫へ書を取りにはいられた。
「
湯から上がって、軽い着流しで
山の屋敷にしては、贅沢な膳部が、燭の
「亀山のご城内とちがって、こちらの方には、美しい女中達がおりませぬから、それでお父上は気づまりなのでございましょう」
と主水は、主水らしい
「たわけた事を申せ。おまえなどは、父が誰のためにこういう苦心をしておるか、知らんのじゃろう」
「それは不肖ですが、分っております」
「分っておったら、冗談にも、左様なことは申さぬものだぞ」
「けれど、私が立身すれば、父上も同時にもっとお好きな事ができるわけですから」
「老後には、それくらいな埋め合せがなくてはやりきれん。……お、忘れていたが、玉枝、そちをこの山まで
「最前その事を、表の侍から、申して参りました」
「お、そうか」
「けれど惜しいことに、逃がしてしまったそうでござります」
「それはまずいな」と、郷左はすこし眉をひそめて、
「わざわざ江戸表から害虫を連れて来て、山へ、追っ放したようなものだ」
「いいえ、たいした者ではございません。まだ青くさい同心の
「同心ならばなおいけまい」
「いくら江戸の同心であろうと、十手を持って、お大名の奥へ立ち入ることはできませぬから」
「む。大きに」
と、郷左は、自分へ頷いて、
「ところで、最前の品は」
「側に持っておりまする」
「酒の
「よろしゅうございましょう」
「主水、おまえは、退がれ」
「なぜですか、父上」
と、主水は露骨に不平のいろを示した。
「見てもつまらぬ物じゃ。あっちへ行けと申すに」
「よいじゃございませぬか。つまらぬ物ならば、見ても差支えないわけでしょう」
「そちが見ても、益にはならぬから立てと言うんじゃ。わからん奴め」
「まあ、それまでに仰っしゃるならば、お見せした方がよいではございませぬか。他人とは違いますからね」
玉枝は、
「何ですか」
と、主水は無遠慮に顔をつき出した。
玉枝は笑いながら、
「当ててごらん遊ばせ」
「
「いいえ」
「琴の爪入れ」
「あれはもっと小さな物でございますよ」
「では、
「あたりました」
「何だ、つまらぬ」
「中は?」
「中身は違うのか」
「まさか江戸表から、
「わからぬ。開けてみい」
玉枝は、指をかけて、蓋を開いた。
「おや、中はただの白木の箱じゃないか」
返辞を与えぬ代りに、玉枝は、さらに次の木箱の蓋を取り
「? ……」
ごくと、
やがて……
「父上」
「む」
郷左衛門も、余り、気味がよくはないように、
「こ、これやあ、父上、女の人さし指じゃございませんか」
「そうだ」
「斬ると、こんなに、爪の色が、
「そりゃ、
「だって、こんなに黒いのは」
「何でもいい、そちの
「でも、不思議だなあ」
「何が不思議?」
「父上は近頃、妙な物を
「蒐める?」
「昨日も、相州の江の島から、江之島神社のお
「…………」
郷左衛門は、わが子の
「だが、これと違って、昨日の指は、斬ッたばかりのように生々しかった。それに、これは人さし指だが、あの方は、たしか中指で」
「
「だめですよ父上、そんな難しい顔をしたって」
「貴様は、見たのか」
「はい、ちょっと、失礼いたしました」
「どうもしかたのない奴だ。しかし、見た者がおまえだからよかった」
その、ほっと
「えっ、また後の指が着いたんですって。――このあんばいでは思いのほか、早くすべてが片づくかも知れませぬ」
「どうか一日もはやく、そうしたいものだ」
「私も江戸表の方が気がかりですから、一刻もはやく、帰るといたします。では、私の持って来た分の
「よろしい、金子の方は、相違なく送るであろう」
主水は物好きに、父の隠しておいた文庫の中の小筥を、もう一つ出して、
二本の女の指!
生々しい中指と、血の
「あと、もう二本でございますね」
玉枝は、小判を見いるような眼で、
「ウーム、もう二本。……はやく並べて見ぬうちは、心が安まらん」
「揃いましたら、お約束のように」
「ム。四本目の最後の指には、倍額の二千両与えよう」
三人の眼が、ひたっと、そこに
「ふッ……」
と、側の
「あっ、何をする」
と、郷左衛門の声が、闇の中で
いつのまにか、襖の境が、一寸ほど
「――あっ、見られました。聞かれました。ご、ご家老様ッ。あれを、逃がしては大変です! 早く、早くッ」
その跫音へ、玉枝の声が、
どんな敵と真向きになっても
黄門公のお眼覚めとみえる。
――四明ヶ岳は夜が明けたのである。
「江戸表までは長い道だ。――では玉枝、ずいぶん気をつけて行くがよいぞ」
「玉枝どの、お名残惜しいが、それではここで……」
人の姿は霞んでいる。
国家老の大村郷左衛門と
玉枝は、昨日と同じ旅装いに、杖、
「お別れいたしまする。それでは、郷左衛門様にも、主水様にも、ご機嫌よう……」
「ム。次の吉報を待っておるぞ」
「はい、きっとまたすぐに、指を入れた小筥をお送りすることになるでしょう」
ニッと意味ありげな
道が、山陰に曲がる時、玉枝は、もういちど含月荘の方をふり
「……そうだ、同じ道を歩いて戻るのは智恵がない。きょうは、この四明ヶ岳から峰づたいに、
つうッと、
陽がのぼる。
旅は、朗らかであった。
西――一乗寺より白河を経て京都へ。東――
所々にある
「オオ!
だいぶ登って来たので、
ほっと、深い息を吸い入れながら、彼女は、風に向って、眼を細めた。――その眼は、何かを笑っているように。
すると!
うしろの
「あっ! いけないッ」
と、叫んだ。
ほとんど、倒れんばかりな驚き方だった。
ぽーんと、男の影へ向って、菅笠と杖とを投げつけるが早いか、狼狽して、ざざざッと、道もない崖へ逃げ下りた。――いや! 転げ落ちたと言った方がいいくらいに。
その上から、びゅッと、
「玉枝ッ――御用だ!」
男は、波越八弥であった。
「あッ」
玉枝の体は、崖の中腹に転がっていた。
「ざまを見ろッ。よくも
と、玉枝の背ぼねを踏みつけて、
「さ! 歩けッ」
と、八弥は、昂奮した語気で、縄尻を絞った。――玉枝は、
「ちッ、やかましいじゃないか」
と、口惜しそうな流し眼を向け返して、
「猫が
「
「ヘン……よくお分りでございますこと」
「大津口まで出れば、問屋場からすぐに
「山の中だからちょうどよかったよ。町中でこうされちゃ
「何だ」
「私もずいぶん多くの手先や同心にも
「さすがの妖婦も、天命を知ったと見えるな。いつの世にでも、悪運の永く続いた
「ご親切さま……」
と、玉枝はうすら笑いを
「けれど、私は死んだって、悪事は止められない性分なのさ。悪事を働くくらい、面白いことはないからネ」
「毒婦だな、貴様は。――その美しい
「何とでも仰っしゃいましとサ」
八弥はこの女に、何らの同情も湧かなかった。それだけに、気が楽である。びしびしと
――そして、縄尻をつかんで、叡山道の峰を
「玉枝」
「…………」
「オイ玉枝」
「うるさい人だね。私に何か
「そうか、じゃ少し休ませてやる。そこへ腰をかけろ。――その代りに拙者の問に答えるのだ」
「オヤ、もうお
「貴様は、江戸表から
「そんな事は、お前さんの方が、とうにご存じじゃないか」
「あの中には、人間の指がはいっていた」
「それも
「あの人間の指は、誰の指だな?」
「…………」
答える代りに、玉枝は、
「おいッ」
「なんですか」
「誰の指だと訊いているんだ。言え」
「もう見当がついてるじゃありませんか」
「よし。それではべつな事を訊くが、あの亀山公の国家老大村
「…………」
「また、あの奇怪な家老は、なんの為に、莫大な金を
「…………」
「これッ、なぜ言わんか」
「…………」
「言わぬな。よしッ」
八弥が、捕縄の端を
その
「あっッ!」
と、五体を
しいんと、氷の棒で打たれたような痛烈な感じが、
「わははは。
倒れた八弥の上へ、
「オイ、みんな出て来い!」
手をあげると、四方の笹むらや、木蔭や、岩の蔭から――
「何だ、もう済んだのか」
「少し呆ッ気ないぞ」
含月荘の武士どもであった。山いでたちに、
不意に、八弥を昏倒させた侍は、
「この通りだ」
と、得意げに地上を指さして、
「ご家老は?」
と、見廻した。
「先に、主水様とご一緒に、
「そうか。じゃすぐに
「心得た」
首を持つ、足を
八弥の体は、人間の波の上に浮き上がった。彼は、宙に足を振って、何か叫んだが、すぐに、
「――それッ、急げ」
と、真っ黒に、そのまま走り出そうとすると、玉枝の笑い声が後ろでひびいた。
「もし、私を忘れちゃ
「あ、玉枝どのを」
「そうだ、縄を解いてやれ」
彼女は、
「
「でも、少しは
「何、これで胸が清々しました。――けれど、どうしてこの同心を、すぐこの場で殺さずに、作兵衛小屋とかへ持って行くのですか」
「そこが、ご家老一流の、細心なところなので」
「じゃ、
「左様。死骸をこの辺に埋めておいて、万一、強雨の後などに、土中から洗い出されると、ここは叡山道で人通りもあることゆえ、世上へ洩れる
「なるほどネ」
「江戸の上役人が、含月荘の領内で、殺されていたと分ったひには、こいつ、
「それなら、衣類も大小も、みんな灰になってしまうから、世間に分るはずはない」
郷左衛門の
山の
作兵衛はもう六十近い老人だが、腰も曲がらず病というものを知らない。
そこへ、今し方、ぶらりとはいって来たのは、大村郷左衛門と
「作兵衛。――作兵衛はおるか」
と、小屋を覗いて、声をかけた。
「おう、これやご家老の息子様だの。また、鳥撃ちかね」
と、
「あっ、これやぶったまげた、ご家老様まで一緒にござったね。こんな山小屋へ、何しに来たんだね」
「作兵衛、お前に少し頼みたいことがあって、それでわざわざ父上までご一緒にお越しなされたのだ。これは少ないが、
「ほ。……おらに、この金をくれるのかね」
「見たことがあるか、それは、小判というものだ」
作兵衛は、
「こんな物は要らねえだよ」
「なぜ」
「おらには、もっと欲しいものがあるだがなあ……」
「何なりと望んでみるがいい」
「去年の夏ごろだ、おらの
主水は、父の郷左衛門と眼を見合せて、ちょっと苦笑を洩らしたが、無智な者を
「よしよし、案じることはない、唖の岩松は、今にきっとお前の手に返してやる」
「えっ、返してやる? じゃおめえ様方が、隠したのじゃねえのかい」
「ば、ばかなことを申せ。あんな、
「それやそうだ……」と、作兵衛はがっかりした顔で、
「ところで、おめえ方の頼みというのは、何だね」
「きょうは
「あ。今、三番竈に火を入れる支度をしているところだ」
「それや好都合だった。ほかじゃないが、そちの炭焼
「えっ、人間を焼いてくれって」
純朴そのものに出来上がっている作兵衛
「嫌か」
「嫌と申すか」
「い、いえ、嫌とは、言わねえでがすよ」
「そうだろう、常々のご恩顧を忘れて、嫌だなどと言えばただはおかん」
郷左衛門は、小屋の横から谷道を見下ろして、
「
「おお成程、引っ担いで参りましたな」
「作兵衛、火入れを用意しておけ」
そこへ、南の同心波越八弥を肩にのせた大勢の武士たちが、ぞろぞろと登って来た。
玉枝は、郷左衛門
「ご家老様、首尾よく、ゆうべの
と、言った。
郷左衛門は、武士たちへ
「すぐに、裏の
「はっ」
と、山いでたちの武士の群は、八弥を引っ担いだまま小屋の裏へ廻って、
「
と、訊ねた。
そこには、真っ黒に
作兵衛は、気のない顔をして、
「きょう火入れをするのは、三番竈だよ」
「こっちの端か」
「へい」
「どれ……」
と、一人の武士が火口から中を覗き込んで、
「ム、いかにも、楢の炭材がいっぱい詰め込んであるわ」
「それでは、すぐに
「よいしょ!」
と、肩から下ろした八弥の体は、たちまち、真っ黒な
ぽんと、
郷左衛門は、玉枝や
「作兵衛、すぐに火を入れい」
と命じた。
「まだちッとべい、早うがすよ」
「火入れにも時刻があるのか」
「へい。
「未の刻か。では、もう
「その間に、茶でも入れますべえ」
作兵衛は小屋の中から
「これや絶景だ、酒が欲しいな」
と、主水は口を
「いや渋茶でもいい。おい、一同、ここへ参って休息せい。ご苦労だったな」
玉枝はうしろを向いて、乱れた髪を
「それではご家老様、これで安心いたしましたから、こんどはほんとに出立いたします」
と、挨拶をし直した。
郷左衛門はふり向いて、
「まあもう少し休んで参ってはどうだ。ついでのことに、竈へ火がはいるのを見届けてから出立するがいい」
「そうですね、人間の蒸焼きを見るのは初めてですから、それじゃ、見物してから立ちましょうか」
「そうせい。……これこれ、誰かその砂時計を睨んでおれ。――まだか」
「もう
そして、時が経つ――
耳を澄ますと、四山の樹々には、さまざまな
やがて――
「ご家老、ちょうど
と、砂時計のそばに立っていた武士がさけんだ。
「む!」
と、郷左衛門はつよく頷いて、
「作兵衛はいかがいたした」
「
「そうか」
と、再びぞろぞろと裏へ来て見ると、炭焼の作兵衛は、その跫音にも気づかずに、三番竈の目塗りをしきりに
「こらっ、何をする?」
一人の武士が呶鳴りつけると、作兵衛は、びっくりしたように振り向いて、
「何をするかって、見たら分るだろう。目塗りを
と、不平そうに、反抗した。
「目塗りは最前に充分いたした筈ではないか」
「中のやつが暴れくさッたで、この通り、
「げッ、それでは、息を
「そうらしいぞ。
「ウーム……何かそんな物音がするようだ」
「どれ、どれ」
好奇な眼をした武士たちは、代る代るに、竈の肌や火口へ耳を寄せ合った。
なるほど、作兵衛のいう通り、中では烈しい物音が暴れている。異様な
「さ、
と、作兵衛は、
郷左衛門は、
「
「合点でがす」
枯枝の先に
ぱちッ、ぱちッ、ぱちッ……とたちまち焔は竈の胎内を真っ赤にした。
一同は、
さすがに、幾ら悪人でも、余りいい気持はしないのであろう、郷左衛門も顔を硬直させて、じっと、鋭い眼をすえていた。
ごうッと、竈は巨大な焔の心臓を
見るまに、粘土質の
「わあ、堪らん」
「臭い! 人間臭い」
作兵衛も、
何で
その爪も、その髪の毛も。
聞える! 聞える! ああ聞える!
異様な苦鳴が
――人間最大の断末苦である。生きながら心臓を焼かるる者の狂炎乱舞だ。
「わははは。わははは」
と、
「父上、父上、
胸さきに、
ああ、若き
それを、江戸に報じる
彼の捕術の恩師、
彼の
その人々は、その夜、どんな夢も見なかったであろうか。夢、夢、せめて夢にでも通え!
彼の無念極まるこの最期を、彼の味方に告げるものは、夢よりほかには頼みがない。
江戸の笛師殺し、江の島の
島役所の
四日――五日――七日と――
相手は、交代して休息するが、郁次郎は少しも寝かされなかった。夢、うつつである……。そして
皮肉はやぶれ、精神はもうろうとなってしまった。
「しめた! 自白したぞ」
明け方から根気よく、納屋蔵に
「なに、自白したと」
と、羅門も緊張して乗り出した。
「ム。ずいぶん強情な奴だが、とうとう笛師のお雪を
「それは貴公の大手柄だった。――して、何の恨みでそんなに人命を
「何しろ、怖ろしく疲労しておるので、一遍に細かいことまでは訊きとれないが、他人の頼みをうけて殺したと申しておる」
「金のためかな?」
「そうらしい。何でも、江戸表の方の調べと綜合してみると、花世の父、
「ほう、それは初耳ですな」
「彼は御書院
「ははあ、それで婚儀の費用にも窮し、また、養生所の創業にも金が要るので、江漢老人だけには内密で、富武五百之進、花世、郁次郎の三人で、悪意を起したものとみえますな。なにしろ、一日ごとに事件の迷霧が晴れて、こんな
「昨日、お奉行の
「いや、かほどの功を、左様に
「やっかいな下吟味がすんで、なんだか、肩の重荷が半分以上も下りた気がいたす。それではすぐに、用意を申しつけましょう」
その準備は早かった。
いつでもというように、部下の者は、七日も前から待ち構えていたので。
わずかな間に、げっそりと衰えた塙郁次郎は、やがて、
羅門塔十郎と東儀与力が先頭に立った。加山
「指切りの郁次郎だ」
「江の島の
と、たいへんな騒ぎである。
中には、
「憎い奴だ」
と、軍鶏籠を目がけて、石を抛りつける者がある。
「ばか者ッ」
と、そんな時、加山耀蔵は思わず腹の底から呶鳴りつけた。――恩師の息子を
その晩は、保土ヶ谷泊り。
神奈川の陣屋に着く予定だったが、ちょうど、国元へ帰る備前岡山侯が
保土ヶ谷には、本陣めいた大きな
「今夜は、ほかの
と、いう言い渡しで、総勢二十四、五名、ぞろぞろと、
宵のうち、宿場の通りを、細い尺八の音が、流れて行った。
籠の中に、瀕死の病人のように、昏々と
「人違いか……」
と、呟いた。
たった一つ、消し残された
屋の棟も三寸下がる――という時刻である。
郁次郎の軍鶏籠の置かれてあるすぐうしろの窓の外で、何者か、しめやかに歌口をしめして、尺八を吹く者があるではないか。
「あっ、花世! ……」
ギシリッと、軍鶏籠が少しうごいた。
郁次郎は、くわッと、血走った眼をして駕の穴から外を見廻した。三人の男は、寝ずの番の名にそむいて、ぐったり柱に
「ああ、花世だ。……あの鈴慕の曲の節廻しは、たしかに、花世に違いない。小さい時から、あれは、尺八が好きだった。五百之進殿も好きだった。そして、いつのまにか、二人して、習うともなく吹き覚えたのが、あの鈴慕の曲一つ……」
彼はもがいた。
体の自由は
「花世だ……ええ会いたい! ……ひと目でいい! たった、ひと目でも」
――その時、裏口から、そっと抜け出して行った者がある。それも、
「はてな? この深夜に」
耀蔵は、
不思議な尺八の音に、
かしらには
「オヤ、虚無僧だな」
四、五間ほど離れた天水桶の蔭に、耀蔵は、じっと
とも知らずに、虚無僧は、やがて尺八を袋に納めて、しばらく、屋内の空気に耳を澄ましていたが、
「もし……」
と、軽く、爪の先で、そこの戸をたたいてみる。
「…………」
静かである。――
屋内からは微かな人の寝息が洩れるばかりだった。すると突然、虚無僧は、天蓋の顔に両手を当てて、さめざめと、泣き出した。
(ふしぎだ、いよいよおかしな奴だ、死罪になる
彼は、まさかその虚無僧が、花世の
虚無僧は、涙をふいて、何かはッと気をとり直したように、
すっ、すっ、と短い
耀蔵は、思わず、あッと口走った。――振り向いた天蓋は、そこに、彼の姿を見て、ほとんど、
「ああ、もう少しだったのに!」
こう、
「待てッ、
四、五丁跳んでゆくと、青木川の岸に出た。耀蔵は、追いつくや否、虚無僧のうしろから組みついて、
「御用ッ」
と、叫んだが、何か怖ろしいものにでも
「やっ、あなたは」
と、相手の天蓋の人を見直した。
「――頼みます!
「その声は、花世どのだな」
「情けじゃ」
跳び
そして、青木川の土橋を、
「ウーム……」
と、耀蔵は
だが!
彼はふと、いつか同僚の波越八弥に言ったことばを思い
――と声を大にして、友を叱ったあの言葉を。
「おお、逃がしてはならぬ」
耀蔵は、吾れと吾が心を叱咤して、すぐに、花世を追いかけて行ったが、もう、彼女の行方は分らなかった。
仄白い光が、行く手にひろがっていた。それは神奈川
「おう、夜が明けた」
彼は、花世が逃げてほっとした心と、その心を非とする
もう、ぼつぼつ旅人が通る。
どうせの事に、
煙草の火――耀蔵はさっきから、火のない
「
と、呼びとめた。
馬の背には、早立ちの女客が乗っていた。
「――火を貸してくれぬか」
「おやすいことで」
だが耀蔵の眼は、その途端に、あらぬ方へ
「あっ」
と、煙管を足もとへ落した。
「おのれ! 花世ッ」
女も、はッと何かに
「何をするのさ」
掴みかかった耀蔵の手を、
不意を食らって、手綱を離した
「花世! 花世! たしかにゆうべの花世に違いない。――だが、ゆうべは虚無僧、今朝は女の旅姿、それに、声も少しちがっていたが」
馬蹄のほこりを浴びながら、
彼もまた、波越八弥と同じような疑問にぶつかった。――二人の花世? ゆうべの花世? 今朝の花世?
それとも、すべてが同一人なのかと。
必死になって、十町あまり追いかけた。しかし、先は馬、こっちは
「加山!」
どんと、肩を支えられて、
「あっ」
「どこへ参るのだ」
「これは、
息を
「ただ今、この道筋を、若い女が、馬に乗って逃げたはずですが」
「ウ、見かけたが、それがどうしたのですか」
「怪しい女です。花世かも知れません。五、六名ほど手をお貸し下さるなら、すぐに追いついて、引っ捕えて参ります」
「待て待て」
と、羅門は
「貴公は、何か
「ど、どうしてですか」
「
「まるで違ッておる」
そう言われると、加山耀蔵も、人違いな気がして来るのだった。もし今の女が花世と別人であるとすれば、これは、こんどの事件の上に、
きょうまで、事件の裏を縫って、
(はてな……こいつは?)
と、耀蔵は、考え直した。
黙々と、警固の行列について歩いてゆく
(これや変だ)
という気もちが、何か、微妙なものの暗示のように、胸をかすめたのである。そして、心しずかに、眼をふさいで数里の街道を歩いて来るうちに、
(そうだ! これは一つ)
と、密かに、ある決心を固めて、不意に、列を脱して、八ツ山口から単独に、何処かへ、ぷいと姿を
「ああ、
「……どうしたぞ、何処におるぞ! 郁次郎は。……なぜ親にそう心配をかけるのじゃ、秋から指を繰って、こうして毎日、長崎から帰るのを待ちわびている親心がわからんのかなあ」
雲に嘆く老人の
「――途中で怪我でもしたのではないか。それとも、学友どもに誘われて、京か大坂にでも、浮かれておるのではないか。それにしても、手紙ぐらいはよこしてもいいではないか。わしもこの頃は気が弱くなった」
しみじみとした述懐である。だが、孤独な老人には、それを聞いてくれる人も側には誰もいない。
「――妙なことには、近頃はまた、この鶉坂へ、さっぱり人も訪れて来ぬ。
すると、珍しく、この養生所の裏山の方で人の
老先生は、耳ざとく、
「誰じゃ――」
と、愛縄堂から立ち上がった。
ばたばたばたっと、犬のように迅く走り寄って、老先生の足元に、ペタリと
「おやっ、おい……お前は加山耀蔵じゃないか」
「老、老先生ッ……。お久しゅうござりました」
「なんじゃ、泣いとるのか貴様は。……ああ止してくれ、それでのうても、わしは泣きたくってならないところだ」
「ご胸中のほど、深く、ご推察いたしまする。波越もてまえも、事件と同時に、一刻もはやく、お慰めに推参いたさねばならなかったのでござりますが、いかに、師弟のあいだなればとて、老先生のご子息を、縄目にかける役目に立って、おめおめと、お顔を拝すことも心苦しく……」
「これ。これ。……な、なんだって、ちょっと待て」
「今日までご
「おい待てというのに。……何じゃと、今聞けば、わしの
「郁次郎様のあのお始末、こうして、老先生のお顔を見ると、涙ばかりが……涙ばかりが先に立って、この胸が、張り裂けるようにござります」
「はて、分らんぞ。伜の始末とは」
「あ、あの……」
「何のこッた。はっきり申せ」
「指切りの郁次郎と、世上の評判も、もうお耳には入っていることと存じますが」
「こ、これッ加山、指切りの郁次郎とは、それや一体、なんのこッちゃ」
「ではまだ、何事も、老先生にはご存じないので」
「この鶉坂から一歩も出ぬわしじゃ。なにか、郁次郎の身に変事があったのか」
「あったのかどころではござりませぬ。女笛師のお雪を殺したのも、江の島の
「げッ」
老先生は、
「ほ、ほんとか? それは」
と、驚愕にふるえて、倒れそうになった。
耀蔵は、その顔いろが、死者のように蒼ざめたのを見て、
「老先生、お危のうござります。どうぞ、お気をたしかにして下さい。お気を、お気を」
「ウウム、だ、だい丈夫だ加山」
「先生ッ」
加山は、老師のふところへ、涙の顔を埋めこんで、わなわなと肩をふるわせた。
「加山、加山」
「は、はい」
「今のことばは、
加山は、老先生の心臓が、
「なんで偽りを申しましょう。思えば、今日まで拙者を初めすべての人々は、ただ、老先生のこのお悲しみが見たくないために、
「では、伜は、もうとうに、江戸表へ帰っていたのか」
「はい、昨年の名月の晩――あの女笛師の死骸が見出されたその晩には、もうこの江戸表に潜伏しておられたのでござります」
「待て待てッ」
と、老先生は激越な声で、
「そちまでが、伜の郁次郎を下手人というのか」
「四面の事情、すべての証拠、一として、郁次郎殿を明るくするものはござりませぬ」
「ええ、馬鹿を言えッ、馬鹿を言えッ。わしの子だぞ!
「ご尤もです! 誰あろう当代の名与力、塙老先生のご子息とは、私ごとき者まで、胆にこたえて、
「遅いッ、遅いッ、その真心があるならば、なぜもう少し早く聞かせてくれなかったのだ。して富武五百之進殿は、この大変事をご存知なのか」
「ことの発覚と同時に、自刃して、割腹なされました」
「えっ、割腹した」
「のみならず、ご息女の花世どのも、今では、きびしい
「ああ知らなかった!」
老先生は、地だんだを踏んで――
「それでは、いくら待てど暮せど、来ないはずだ、音沙汰のないはずだ。――ええこうしてはおられぬ。加山! 案内をせい」
「ど、どちらへですか」
「わしの伜のいる所じゃ! 南町奉行所の仮牢じゃ。わしが参って、奉行の
「手前は、無断脱走いたしたので、奉行所には参れません」
「かまわんッ」
と、老先生の声はいよいよ激しかった。耳は、炎のように赤く、唇は壮者のように燃えていた。
「かまわん! 罪もない人の子を、極悪人と誤るような上役に
「しかし、或いはもう今頃は、郁次郎殿をひき出して、
「そんなはずはない! そんな理屈はない」
「でも、吟味はすべて、江の島の方で済まし、自白の
「その
ひらりっと、愛縄堂の中へ駈けこんだ老先生は、若者のごとく、
わが子よ! 待て!
父は今行くぞ。――側へ、行ッてやるぞ。
おまえの血は父の血だ。わしはおまえに兇悪な血を
もし! わしがおまえにそんな悪の血を生みつけたとすれば、この父も、獄門の根に坐って、わが子の罪に
だが、おまえはわしの子だ! わしは、わしを信じる如くおまえの正義を信じるよ!
待て! 父は今行くぞ。
胸に叫び、心に誓って、
「――郁次郎よ、郁次郎よ」
と、わが子の名を呼びつづけながら、夕雲の赤い
ひらりと、老先生は馬の背から跳び下りた。馬は鼻腔をひらいて、肌に汗をかいていた。
手綱を、奉行所の駒止めに
「――鶉坂の
と、息を
今しがた門限の
「どなたでござるか」
と、訊き返した。
「塙江漢じゃ。はやくたのむ」
「えっ、鶉坂の先生ですか」
「そうだ、早くせい、一刻を争うのじゃ」
「しばらく」
と、言い捨てて、番士は、あわてて奥へ駈けこんで行った。
ちょうど、役宅の
門衛の知らせを聞いて、
「なに、江漢老人が来たと?」
意外そうに、顔を見あわせて、どうしたものであろうというように、三名は、ちょっと、当惑に曇った眼をして、黙りこんだ。
「さては、郁次郎が召捕られたと聞いて、最後の別れを告げに来たものと見えまする」
と、東儀与力はそう言って――
「お奉行、会わせては事面倒ですぞ。ていよく、追い払った方が、上策ではござるまいか」
「いや」
と、
「江漢先生といえば、ほかならぬ人物です。隠退はしても、この南町奉行所にとっては、過去の功労者、そうはなりますまい。武士の情けとしても、この際は、是非、会わせてやるのが当然でしょう」
「いかにも、言われるとおりだ。番士、老人を
江漢老人は、肩の骨を
その、ただならぬ
「老人、珍しいのう」
主計頭が言うと、江漢は、その真っ四角に坐った膝を、きっと、向け直して、
「火急、談じ申したいことがあって」
と、厳しく、改まった。
その眼! その語気! 既に火のようである。
「ほ、談じたいこととは」
「
「では、この度のことはもうお聞き及びであるな」
「承った」
と、息を
「なんとも、お察しする。悪事をする子ほど可愛いとは、俗にもいうことば、さだめし、ご愁心であろう。しかし、もう今日と
老人の
「あいや、奉行のおことばではあるが、伜郁次郎は、決して、左様な極悪人ではない。子を見ること、親に
「
「証拠? その、証拠とは?」
「いちいち、ここで述べ立てるよりは、これを一見した方が早かろう」
主計頭が、調書をそれへさし出すと、老人は、
読み終ると、老人は憮然としながら、白い
「どうじゃ、老人」
「ウウム……」
「それで、
「いや!」
と、烈しい眼を上げると、老人は、さっと、
「まだ分らん! まだ分らん!」
「なぜ?」
と、主計頭がだいぶ激した。
「この調書のうちに、しばしば
「それが即ち、おてまえの息子、郁次郎のことじゃ」
「事実、その覆面を剥いで見られた場合がござるか」
主計頭はグッと詰った。
「また!」
と、老人は調書を叩いて、
「女笛師の死骸、江の島の
「さ……それは」
「まだある!」
老人は、敵の陣へ迫る猛将のように、膝をひらいた。
「この事件の発した当夜、即ち、十五夜の晩以来、各方が、いわゆる郁次郎の
「あ……」
と、主計頭も、自分の手ぬかりに、思わず弱い音を洩らした。
「どうじゃ、奉行殿」
と、老人の
「さ……実は、その点もまだ……」
「はて、怪しからん! 左様な点も充分に確かめずに、ただ、罪悪を作るため、ただ、下手人を作るための調書が、何の役に
と、調書を抛り投げて、
「これを見ても、郁次郎の
と、
すると、老人の態度を、じッと、冷智な眼でながめていた羅門が、
「老先生」
――と、少し、膝をすすめた。
「なんじゃ!」
「では、お上の調書はすべて信じられぬ、作り物であると、仰せられますか」
「おまえ何じゃ?」
「はっ」
と、羅門は、老人の威圧に押されて、
「お忘れでござりますか、以前、どこかで、お目にかかっておりますが」
「ウム」
と、老人は思い出したように、
「
「そうです」
「これや、しばらくじゃった」
「いつも、お
と、
「長命のわずらいじゃ」
と、老人は
上方の名捕手羅門塔十郎と、江戸の大先輩
「羅門」
と、老人はすぐに開き直って、
「――今、わしが言ったことばに、何ぞ、異論があるようじゃが……」
「いかにも、大いにござります」
「何、大いにあると」
「さればです!」
と、羅門も
「調書について、三つのご反説、いちいちご尤もにはござりますが、まず第一に、覆面の男が郁次郎なりや否やのお疑いは、ご無用にござります。何となれば、それは、自分をはじめ、同心の加山、波越らも、しばしば目撃しておるところで」
「待たれい。――覆面なれば、
「のみならずです!」
「ウム」
と、老人はあらい息を抑えて、羅門を見つめた。
「先頃、平賀源内の博物会があった折、老先生のお知慧を拝借して、女笛師お雪の蝋人形を
「それが、郁次郎であったと申すか」
「いかにも」
「それがどうして、覆面の男であるという証拠になるか」
「一時の痴情で、お雪を、
「さて、
「然るに、天運の尽くるところか、その折、郁次郎の懐中物を狙っていた
「えっ、あの、殺された女笛師と、郁次郎との恋文があったと」
「何か、よほど、複雑な仲だったとみえまする」
「ウーム……そうか」
と、老先生の唇が
「して、
「
「この儀は、江漢が、後になって、
「次に、第二のご質疑――。なぜ、下手人が死者の指を切取るか、その目的が、吟味の上に明白でないという仰せですが、これは、犯人が捜査の目を
「見解の相違じゃ、くどく申せば水掛論、ぜひもない」
「第三のおことば、唖男と郁次郎を、なぜ対決させぬかという点は、近頃、ちとご難題かと存じます。何となれば、一方は、唖で聾、文字も読めぬまったくの明盲、何をもって、白洲の対決がなりましょうか、よろしく、ご賢察をねがいます」
羅門の弁舌は水のながれるように爽やかだった。さすがの江漢老人も、なるほど、この男は頭がいいと、心の裡で舌を巻かずにはいられなかった。
が、老先生は、その時初めて、うすい
「なるほど、唖で聾、しかも無筆では、どうにも吟味のいたしようがあるまい。これはわしも失念であった。――だが、最前おてまえは、郁次郎が覆面の男と同一人であるということは、自身の推量のみならず、唖男の申し立てもそうであったと言われたな」
「あ……」
と、羅門の
「貴公、どうして、その唖男にものを言わせたのか」
「い、いや、あれは失言です。――失言でした」
「お間違いか」
「ことばの
「してみると、どッちにしても、ちょいちょい吟味の手落ちがある。
と、つよく言って、
「司法の明鏡に、曇りがあっては、ご聖代の汚辱じゃ。万一、わが子が
「おお、それはよかろう」
と、主計頭も、老先生の真心にうごかされたように、
「
と、眼くばせをした。そして、老先生を
郁次郎は奉行所内の遥か奥に隔っている
そこには、明和の大獄の折に、
真っ暗な床の上に、
「? ……」
青白い顔、
ああ。この変り果てた姿を、老先生が一目見たらどんなだろうか。
「…………」
がくりと、彼はまた、
深々と、井戸の底にでも墜ちてゆくような眠りが、疲れた神経をすぐに昏睡させた。といってもそれはほんとの眠りではない。
「おや?」
彼はまた、窪んだ眼を、
「……誰だ、誰だ」
と、枯木みたいな体を這わせて、牢格子に
すると――
外の星明りに、ふわりと、白い顔がうごいた。忍びやかに、樹蔭をぬけ出して、自分の方へ近づいて来るのである。
「あっ……花世!」
彼が、思わずそう叫ぶと、近づいて来た女の影は、かえって、驚いたように飛び
「あっ、違ッた」
と、木立の暗がりへ走りこんでしまった。
「花世、花世」
郁次郎は狂わしげに、その、腕を、肩を、牢格子へぶつけて、もがいた。肩の肉がやぶれて、獄衣に、血がにじみ出すのも知らずに、及びもない力を、獄壁へぶつけた。
「ええ、どうして逃げるんだ。――人違いじゃない、おれは、郁次郎だ。おれを、救いに来てくれたのではないのか」
彼は、冷たい
ああ、それもこれも、気のせいかも知れない。会いたい会いたいと思う一念が幻を描くのかも知れない。
もう、有明けの
ただ、涙だけが、その青い頬を止めどなく流れていた。
がちゃりと、
同時に、黄いろい
「老先生、こちらでございます」
と、先に、案内をして来た羅門塔十郎の声がした。奉行の
「おう」
老先生は、開かれた牢内へ、よろぼいながら駈けこんで、
「郁次郎! 郁次郎!」
と、呼び立てた。
「――郁次郎はどこにおる」
「えっ」
むっくりと、起き上がった我が子! 我が子の影。
「おう!」
と、老先生は、とびつくように近づいて、ひしと彼の腕を、握りしめた。
「これ!
「あっ?」
「伜」
「…………」
「伜……」
郁次郎は、思いがけない父の姿を見て、白痴みたいに、ただ茫然とした。夢ではないかと、疑った。
老先生は、握りしめた我が子の手をつよく揺りうごかして、
「わしじゃ! 父じゃ」
「おう……おう……」
「来たぞ、おまえの父は来たぞ」
老先生は、
「もういい、もういい! おまえの
「ち、父上……」
郁次郎は、いきなり抱きついて、わッと、泣いてしまった。生れながらの幼い者のように、声をあげて、オイオイと泣いた。老先生もまた泣きながら抱きしめた。
「――失礼いたします」
と、老先生のそばへ、提灯をおいて、牢の外へ、しばらく避けていた。
何という痛ましい
老先生は、はっと、気がついたように、
「これ、郁次郎。そちはなぜ、長崎表から帰って来たら、すぐに、この父の
「お年を召されている父上に、大きなお嘆きをかけました。ふ、不孝の罪! ……どうか許して下さいまし」
「何ごとも災難だ。わしは、おまえ一人の愛によって生きている。長崎へ勉強にやったのもその為だ。
「あ、ありがとうございます。父上、郁次郎の不孝の罪、重ね重ねおゆるし下さいませ。その
「な、なにをいうか。おまえを見殺しにするくらいなら、父は、こんな苦労はせぬ。わしはおまえの潔白を知っている。おまえは決して、
「ああ、もう、もう、取り返しがつきませぬ……」
「それを、おまえはまた、なんで心にもない自白をしたのだ。女笛師や
「父上ッ……」
「む。……言え。明らかに、その
「駄目です! やっぱり、私が殺したに相違ないんです」
「な、なんだと!」
老先生は、脳心を、打ちのめされたように
「これッ、そちは、狂気いたしたか。長崎で立派に医術の修業を習得して、江戸には、新築の養生所や、やさしい花嫁や、この父や、人間のあらゆる幸福が待っておるのに、それを捨てて、益もない、悪事に走るはずはない。何かの誤解だろう、さ、この誤解を解け、ほんとのことを言ってくれ」
「父上、もう、おたずね下さいまするな。不孝の子を、獄門へ、送って下さい」
「馬鹿ッ、馬鹿。貴様はどうしてそんなばか者になったのだ。今、ほんとの事を言わなければ、後になって、いくら父の名を呼んでも及ばないぞ」
「もう……覚悟をいたしております」
「ええ、親の心子知らず、わしは気が狂いそうだ。まったく、自分の
「すべて、羅門殿と東儀殿へ、申し上げたとおりでございます」
「あ、あ……」
と、老先生は、頭をかかえて、よろよろと、獄壁へ倒れかかった。絶望的な大きな息が、その
「おからだに
東儀与力にそう言われて、老先生も、悲しげにうなずいた。
「取りみだして、面目ない。……がこの上には、親として、もう一つ、最後の手段を講じてみたい。それは例の唖男と、郁次郎の紙入れを
「でも、唖男は、あの不具者でござるが」
「江漢が多年の経験による一つの吟味法をもって、きっと、唖にも口を
「では、あれは、偽唖なので」
「いや、偽唖ではあるまいが、その本体を、調べ上げて見せるというのじゃ。両名をすぐにここへお
だが――二人を曳き出すべく、
「お奉行! また奇怪なことが持ち上がりましたぞ」
と、呶鳴った。
「何事じゃ。奇怪なとは」
「破牢いたしました」
「だ、だれが?」
「唖も、
「や!」
と、そばにいた羅門は、袋の水が洩れたように驚いて、
「して、いつの間に」
「たった今らしい。――拙者がゆくまで、見廻りの六尺さえ、まだ気づかずにおったくらいだ」
「ちぇッ、ぬかった」
――と、羅門が地だんだをふんで走り出そうとすると、
「あいや、待たッしゃい」
と、老先生も牢の外へ出て、彼を、こう呼び止めた。
「――今、駈け出しても、及びますまい。二人の破牢には、外部から、誰か、手を貸したものがある」
「どうして、そのご推察がつきますか」
「掏児と唖とが、同じ時刻に、牢を破ったというのが何よりの証拠、外部の者でなくて、誰が、その連絡をとろうか」
「ウム、成程」
「のみならず、ここにわしは、新しい大疑問を見出した。信念をつかんだ。下手人は飽くまで郁次郎でないことを信じる。八
「老先生、この
「過信とはなんだ。――よく思念を澄ましてみるがいい。郁次郎が
「証拠証拠と仰せられるが、すでに、あの通り、当人が自白しているのが、何よりの証拠ではありますまいか」
「では、羅門――」
と、老先生は、一歩迫って、
「
「いかにも!」
と、羅門はつよく言い切った。
「情に於いては忍びぬものがありますが、是非もないことです。明らかに申します。笛師殺し、
「ウーム、面白い」
老先生は、締めつけられて
「面白い。――貴公とわしとは、江戸流と上方流との、見解の相違じゃ。これから、幾日の間と、日限を切って、その間に、どっちがはやく悪人どもを
そう言って、
「折角ですが、老先生。もはや事件はあまりに片づいております。もう、そんな
「なに、
「されば、今夜ももうだいぶ更けました。実をいうと、郁次郎の
「えっ! じゃあ何というか、あの、もう御老中たちの、印可まで、下りているのか」
「ごらんなさい」
羅門は指さした。
「――あの樹蔭には、あしたの朝の荒むしろ、
「罪だ! 罪だ! 何のうらみがあって、それを、一晩、牢内から見せておくのだ」
「先生――老先生――お気をたしかにしてください。気を、落着けてください」
「離せッ、わしは、こうしてはおられない」
羅門の支える手を、突き飛ばすように払って、彼は、ふらふらと走りだした。
「星よ。星よ」
老先生の白い
「――明けるな、明けるな、朝になるな。星よ、もういちど、わしが郁次郎の所へ帰って来るまで、その光を失ってくれるな」
「どうする? どうする?」
老先生は、よろよろと地を踏みながら、突然、自分の頭を、コツコツと、拳でたたき始めた。
「だが、夜明けまで。――
ぼろぼろと、涙が飛ぶ。
拳が、頭をたたく。――足が大地を蹴る。
どう見ても、狂者である。あわれや、塙江漢も、とうとう、気が狂ったのではないかと思われた。
「あっ、老先生だ」
と、加山
老先生の
――と今。
力のない、人影が、そこの門を、ふらふらと、出て来たと思うと、自分には声もかけず、魂のぬけ殻みたいに、
「――老先生、老先生。どうなさいました」
と、手をあげて、駈け出したのであった。
だが、
一緒に
彼の魂に今あるものは、きょうの夜明けと同時に、無残な刑刀の
「ああ、朝までに、朝までに」
彼は、狂わしく、
「郁次郎、郁次郎」
と、遠心的な、叫びを投げたり、うるんだ眼をして、訴えるように、星を見たり……。
そして、その足すらも、大地につかぬように、暗い
「もしッ、老先生」
「おうっ、加山か」
「
「わしの、顔色は、そんなにも悪いか」
「真っ蒼です。恐い、
「ああ……ああ……」
と、江漢は、さめざめと泣くように、そう言われた自分の顔を両手で
「もしッ。しっかりなすって下さい」
耀蔵は、彼の手をかたくつかんだ。老人の指先は、死人のように冷たかった。
その冷たさが、耀蔵の熱い手にはっと感じられた。――もしや? ああもしや、老先生は発狂したのではあるまいかと、彼は、声がわなないた。
「どうなすったんです! 郁次郎殿は、どういうことになりましたか」
「郁次郎?」
「私とても、案じられて堪りません。老先生の申し分が届いて、ご子息の
「ウーム、そ、それだよ」
と、老人は、あらい息を吐いて、
「わしは、敗北したよ。見事に、羅門塔十郎のために、言い負かされてしまったんじゃ」
「えっ、では、老先生の明智と熱とをもって、ご子息の
「形のうえでは、わしが言い
「して、老先生には、獄中の郁次郎殿と、ご対面はなさらなかったのでございますか」
「会った……」
老人は、ほろりとして言う。
「会って来たよ。――見違えるばかりに
「その節、ご子息には、何と仰せられましたか」
「伜も伜だ、逆上しておる、あいつは、幼少の時から、気が小さい、それに、柔順だ。――だから、もう運命に負けきって、笛師殺しも、
「えっ、それでは何ですか、あの、お父上たるあなたに向って、郁次郎殿は、そう言っておりますか」
「いくら、わしが励ましても、彼はもう、死ばかりを望んでいる。……親の心子知らずにもほどがある。父は子の
と、老先生は、やり場のない愛熱と、やり場のない
「……そうですか」
耀蔵も、それを聞いて、がっくりと首をうなだれた。父たる人が、
――だのに、老先生は、本人の自白まで否認して、飽くまで、ほかに犯人があるような
耀蔵は、老先生が、たまらなくあわれになった。何か
「……ご心中、お察しいたしまする」
わずかに、そう言うと、
「加山! 朝までだ」
と、老先生は、
「――夜が白むと同時に、郁次郎は、藪牢のまえで刑刀の
「ああ、それまでの、お命でござりますか」
「死なしてたまるか。わしは、殺さん」
「――と、仰っしゃっても」
「まだ
「でも、今鳴ったのは、もう
「……ああ、そうか」
老人は、熱した頭を、時間の観念にさまされたように、力なく、声を落した。
「いくら、わしが、捕物の名人でも、半夜のうちに、この難事件は片づかん。……だが、加山」
「は……」
「およそ……」
と、彼の態度は、俄に、ぴたりと落着いた。ふいに、耀蔵は、厳粛な気に
おや?
と、耀蔵も、思わず、その方へ首を曲げかけたが、老人は、それを、あわてて
「加山、聞いておるか」
と、腕くびを、つかんで、振った。
「は。聞いております」
「いつも、
耀蔵の眼の
第一、やるとは、何をやるという意味なのか?
耀蔵には、それすら、疑われた。
と思うと――老人はまた、急に、ことばの調子まで悲しげに、
「やる! やる! 四、五年前の江漢ならば、きっとやる! だが、わしは、
耀蔵は、考えてもいなかったことをふいに言い出されて、はっと、恥しい
「加山! 死んでくれい……」
老先生は、もう、右の手に、短い
人間の心理は複雑だ。死ぬまぎわまで、複雑だ。
老先生が、はやくから言いたかったのは、その死だったのである。だが、死を決行するまえにも、彼は、父として、わが子を、真の犯人であるとは言いたくないのであろう。
耀蔵は、そう察した。
同時に、彼も、死を考えた。
自分も、無断で、公役の途中から脱走してしまった体だ。のめのめと、今さら、奉行所へは帰れない。
また、この不幸な老先輩の死を見すてるのも忍びないが、生きていよとは、なおさらすすめ
(
彼は逃げなかった。
江漢の手は、もう、耀蔵の
じいっと、眼をふさいで、耀蔵の心支度を待っていた。耀蔵も、
「……死んでくれるか」
「お供をいたしまする……」
「おう」
江漢は、にいっと、笑った。――
「刺せ」
と、言った。
「ごいっしょに」
「む」
と、江漢の刃は、耀蔵の喉のそばを、ひやりと、とおりぬけた。はっと、思う途端に、真っ正直に突いて行った耀蔵の刀の
だが――老人は、その切ッ尖を、ついと、交わしてしまったのである。そして驚く耀蔵の耳へ口をよせながら、ううーむ……と作り声をあげて、彼のからだに
「ううむッ……うーむ……」
と、ふた声、三声。
そして、その影が、さも、苦しげに、しばらくの間、けいれんしていた。
すると、やや
ただ、五、六間先の、柳の樹の蔭から、白い女の手が、路向うの軒先へ向って、しきりと、手招きをしているのが、ちらと、見えた。
と――そこの天水桶の見える軒下から、ひとりの、男のすがたが、のっそりと、歩いて来た。暗やみから牛を曳き出したという形容は、この男のためにできていると言ってもいい。肩の肉の厚い、顔のまろい、足の太い、ずんぐりとした
同時に、柳の蔭から、それにあわせて、忍び足で、そろり、そろり、と前へすすみだした女は、夜目にも
死を粧って、大地の下から、そっと、薄目でそれを見ていた加山耀蔵は、思わず、あっと、声を出しそうになった。
花世だ。いや、花世とそっくりな女。――いつぞや、郁次郎を江の島から護送して来る途中、捕まえ
しかし、それよりも、もっと彼を驚かしたのは、路向うから、怪美人の手招きにつれて、のそのそと、側へ寄って来た
われを忘れて、彼が、ぴくッと、起ち上がろうとすると、同じように、死んだまねをしている老先生の手が、胸の下で、ぐいと、抑えた。
(ああさすがは老先生だ。捕物にかけては、まったく神だ。どうして、この二人が、あとから
と、耀蔵は、ときめく胸の中で、今さら、
怪美人の玉枝は、まさか、さっきからの老先生の狂態が、自分をひきずる
「……ホ、ホ、ホ、ホ。来てごらん」
玉枝は、一間ばかり側まで、近づいて来て、唖男の臆病を
玉枝は、地上を、指さした。唖聾は、うなずいて、首をふりながら、下品に、クククク、と
「――かあいそうに、この
「…………」
唖聾は、きょとんとして、彼女を見つめた。
「そんなに、人の顔をお見でないよ。おまえに、うっかり口をきくと、いつまで顔を見ているから困ってしまう。……と言ったところで、これも、分りゃしないけれど」
と、苦笑しながら、
「だが……どうしたんだろう、新七は。もうお
と、つぶやいた。
とたんに、息をひそめて、死骸そのもののように、地上に俯ッ伏していた老先生は、いきなり、
「
と、
「あっ! ……」
と、ふたりは、
「おのれッ。
手には、断られた片袖を。そして、夜風のなかに、
逃がしてなろうか?
顔、すがた、頭巾まで、花世に
今も、女は、
老先生は必死だ。
この女さえ
駈けた!
――だが、若い女の、柔軟性に富んだ跳躍とは、比較にならない。玉枝は、柳の樹から柳の樹を縫って、美しい
二間――一間――三、四尺――
伸ばした腕の指さきが、魔女の、白い
(ちぇッ、
と、江漢は、歯がみをした。
(なぜ自分は、捕縄を捨てたろう)
とも悔いるのだった。三十年来、肌身を離したことのない捕縄も、公職を
「えいッ」
老先生は、突然、小石をひろって、投げつけた。
ひイッと、声をながして、鬢へ、手をやりながら、彼女の影が、よろめいたと思うと、老先生は、
「あっ、しまった」
と、さけんで、一足跳びに、
どぼうん! ……と真っ白な
彼女のすがたは、瞬間に、消えてしまった。暗い水面には、いちめんに、白い泡つぶが、わき立っていた。
「いかん! これや、いかん」
老先生は、水面を見つめて、ひどく、いらいらした顔いろで、
「女狐め! 逃げる気で飛びこんだならばよいが、のがれぬところと
と、呟いた。
彼の狼狽は、その点にあった。折角、召捕っても、それが死骸で揚がったのでは、郁次郎を救う有力な反証を自白させることができない。
老先生は、せわしい眼で、うしろを見まわした。
「
と、文字だけがかすかに読めて、灯の消えている
どん、どん、どん――
そこの戸を、あわただしく叩いて、
「これ! これ! 釣舟屋。ここを開けい、火急だ。火急だ」
――家のなかで、
「うっッ」
と、
「な、な、なに者ッ? ……」
よろよろと、彼は、うしろ倒れになりながら、自分の
「…………」
うしろから、ふいに、老先生の喉を締めた男は、息をのんだまま、口をきかなかった。そして、
「うーむ……」
と、老先生は、ひらいた鼻腔から、最後のうめきをもらして、だらりと、敵の肩へ、仰向けに、首を寝かした。
だが、一心はおそろしい。よほど、無念だったに、ちがいない。
老先生の脈は止まったが、眼は、くわっと
ああ、彼は、生と死との、瞬間に、その相手の顔を、眸に
それこそ、悪人の首領だった。去年、十五夜の晩以来、黒幕にひそんで、巧みに、部下をあやつるほかは、きょうまで、数えるほどしか、事件の表面に、すがたを現わさない、覆面の男だ。
だが――老先生の眸はもう死魚のようにどんよりとしていた。
黒い覆面は、にやりと、笑った。
そして、とどめの
「どなたですえ?」
――とたんに、眼の前の、釣舟屋の戸があいた。
それは、
するどい眼をもって、覆面をして、
ふいに、
――一方では、同心の加山耀蔵と、あの唖男が、河岸ぷちの砂利場で、
唖の
砂利山のうえで、ふたりは取っ組んだ。ずぶずぶと、足もとがくずれるので、すぐに、同体にころがったと思うと、耀蔵は、すばやく、十手を口に、捕縄を解きかけた。
唖は、縄に、しがみついた。
その手を、十手で、二つ三つなぐりつけると、さすが、強頑な唖も、手を離して、逃げかけた。
「こいつめ、どこへ行く」
うしろから、こんがらかった捕縄を、そのまま、浴びせかけて、首にひっかけて、引き倒した。
唖は、二本の足を、宙に上げて、ぶっ倒れた。――得たり、と耀蔵はその胸いたへのしかかった。唖は、
三度めに、今度は、耀蔵の方が、仰向けに倒れた。ひとりと思っていた敵は、いつのまにか、二人になっていた。――いや、たちまち、三人にふえて来た。
があんと、何か頑丈な
「あ。お
唖に加勢をしていた
「はやく、片づけろ、そいつを」
「河へでも、蹴込んでおきゃあいいでしょう」
「奉行所の近くだ。すこし、まずいな……」
「では、どうしますか」
「そこらの、小舟を
「え、どこへ?」
「品川沖へでも持って行って、沈みをかけてしまえば一番いい。……それに、てめえたちだって、破獄したばかりの体だから、しばらくの間、海風にでも吹かれて、ほとぼりを、さましていろ」
「なるほど、一挙両得というわけで」
「おい」
と、唖へも、
「何か、物を落してゆくなよ。血は、こぼれていやしめえな。……おう、いけねえ、こんな所に、十手が落ちていやがる。こんな物も、
「じゃ、お
「む」
と、覆面は、うなずきながら、出てゆく舟を見送っていたが、また、岸を追いかけて、
「忘れていた。――おうい」
「なんですか」
河のなかで、新七が答えた。
覆面は、橋を渡って、その中ほどの欄干から、下をのぞいて、舟が、
「四、五町先へ行ったら、
――重くるしい
「や。もう
覆面は、ふと、耳をすました。
鐘の音が消えた空に、
「かわいそうに……」
彼は、
「郁次郎の命も、あと、たった
だが、彼の顔に現されたのは、哀傷の表情ではなく、深悪な苦笑だった。
「どれ、俺も、明けねえうちに……」
すたすたと、彼は、歩き出した。と――橋のたもと。
ぎくとしたように、覆面は、足をとめた。
さっと、迅い歩足が、その後ろをかすめたので、虚無僧は、くるりと、
「おや?」
と、見送った。
「気のせいかしら? ……」
つぶやきながら、歩き出して、そしてまた、
「よく似ていらっしゃる。だが、奉行所の獄中においで遊ばす郁次郎様が、外をあるいているはずはない」
と、自分の迷いへ、打ち消すように、言った。
虚無僧は、花世であった。
彼女の足は、いつとはなく、奉行所の方へ、人なき夜をさえ忍びやかに、運ばれて行った。恋人のいる
だが、花世はまだ、恋人の命が、あと
もし、怪しまれたらとも、思うのであったが、彼女は、どうしても、会えぬ恋人の胸に、自分の訪れを知らしたかった。心と心とだけでも、会わせてやりたかった。
裏は、森がふかい。塀ごしに、
この曲を聞けば、恋人は、必ず自分と知るであろう、あの、
彼女のたましいは、尺八をとおって、七孔から空へ
(
と、すすり泣くのであった。
甘えている。
嘆いている。
そして、眼をさました郁次郎の心と、彼女のたましいとは、手をとり合って、夜もすがら、語り尽きないのであった。抱擁してやまないのであった。
彼女は、何もかも忘れていた。今の
聞くや、とどくや。
獄中の郁次郎は、果たして、その音を、聞いたろうか。――ともあれ彼の
× × ×
「わっ、ひでえ
舟辰は、土間に、腰をついて、呶鳴った。
「どうしたんです、親方」
同居している船頭たちが三、四人、とび起きて、眼をこすりながら、出て来た。
「どうもこうもあるもんか、
「おや、
「これが、
「いくら美い女だって、死人じゃ話にならねえ。しかも、お武家のようですぜ」
「どこのご隠居だろう。知らねえか」
「見たような人ですね……」
と、ひとりが
「あっ、これや大変だ。親方」
「どうした」
「その人は、今じゃお
「えっ、じゃ、
「あっ、そうだ、その
「そいつあ、
「どうしようたって、死んでいちゃ、まあお上がンなさいと言うわけにもいかねえや」
「やい、やい、下らねえ
「何をはやくするんで」
「何とかしろってンだ」
「困ったなあ、そういう親方からして、まごまごしているんだもの。
「そうじゃねえ、脈を見ろっていうんだ。そして、助かるものなら、はやく、お手当をして上げなけれや」
「脈はありませんぜ」
「ばか、そんな所に、脈があるか。はやく
ひとりが、飛び出す。
ひとりが、台所から、
舟辰の家では、家内じゅうの騒ぎになった。そのうちに、起されて来た外科医が、あたふたと、訪れたが、その外科先生も、寝巻に刀を差していた。
――喉の骨が
しかし、その苦痛によって、塙江漢は、医者が帰るとまもなく、はっと、意識をひらいた。
「ああ、ここは」
気が
「ちぇッ、しまった!」
と、腰をついてしまった。
彼は、舟辰の二階に上げられて、静かに、寝かされていたのだった。だが! だが! ああ何としよう! 夜は明けてしまった。
窓は明るい。静かに、朝のいろを
「ウーム」
と、老先生は、ふとんの上に、どっかり、坐った。ふたつの腕をつよく
じっと、天井をにらむ。眼をふさぐ。
喉には、紫いろの
「オオ。いまこの家の前の川すじを触れて行った船頭の声は、明けの
どんな名案があるのか、老先生は、決してゆうべのように、
やがて、むっくりと、立ち上がると、二階の窓障子を、開けひろげた。――白みかけたばかりの夜明けの風が、今や、刑場の
上屋敷は、
この人の習慣として、毎朝、起きぬけに百
――今朝も、
「あっ、誰だ?」
と、突然、びッくりしたようにその
ぷつんと、一本の矢が立ったのである。
それは、主人の左近将監が放した矢とは違っているし、また、左近将監が、
「たれの
と、采女が、駈けだそうとすると、
「待て待て。それは
と、左近将監が、
「え、矢文?」
手をのばして、抜き取ってみると、なるほど、
「殿。なにか、
「ははあ、さては、寛永寺の訴訟に関係のあるものが、何か、言い分を、矢文に托してこの屋敷に射込んだものとみえる。――然るべき手続きもふまずに、左様なものを取り上げては、この後の悪例となる。よし、よし。そのまま、射返してやるから、矢を、これへ持て」
と、築山のうえに登って、そこから、手に取るように見える数寄屋川の向うの
「はてな? ……それらしい人間も見あたらぬが、采女、そちの眼では、どうじゃ」
「わかりました。……あれにおります」
「どこに」
「川向うの民家の屋根に、ひとりの老人が立って、じっと、こっちを見ております」
「見えん。どこに?」
「もすこし、私の方に寄ってごらんなされませ。あの河岸添いの釣舟屋の屋根に、ひとりの老人が立っておるではございませぬか」
「あっ。これは妙だ!」
と、左近将監は、采女の指さきへ視線を向けるとすぐに、びっくりして、こうさけんだ。
「あれは、江戸の
「や、や、殿。ごらんなさい。お屋敷の方へ向いて、拝んでおります」
「ふしぎなこともあるものだ。よもや、江漢老人、気が狂ったわけでもあるまいに、当屋敷へ矢文を射込んで、拝んでいるとは心得ぬことだ。……オオ何はともあれ」
と、左近将監が、にわかにそれを開いて一読してみると、まさしく、塙江漢の
「采女、馬を曳け」
「はっ」
しかも、主人の
――町にはまだ、朝霧があった。
またたくうちに、彼の駒は、三宅坂の
「御老中は、お目ざめでござるか。奏者番、小笠原左近将監です。早朝なれば、お
次席老中
面談は、五分間と、かからなかった。
備中守から、一通の書付をとると、左近将監は、ふたたび
ヒラリと、降りて、
「おうっ、塙ではないか」
「へへへ」
と、老先生は、地上に額をすりつけてしまった。
「老人、久しぶりじゃのう。――そちが在役中には、何かと、寺社奉行の方にも助力を得たが、隠退したと聞いて、左近将監もかげながら惜しんでおったぞ。その後、健在か」
「
「最前の矢文の願意は、左近将監、たしかに承知いたした。安心せい」
その一声に、老人は、張りつめていた気が
「あ、ありがとうござります」
と、肩で、
「事情は、書状に依って、
「もし、それに相違ある時は、郁次郎のみか、父たるこの江漢も、
「よし、よし」
と、左近将監は、かろく頷いて、
「したが、老人、ひどく
「一夜のうちに、白骨になるほど心労いたしました」
「そうあろう。誰しも、わが子の愛に変りはない。いわんや、一代の名与力、塙江漢の一子が、極悪人として断罪にされては、末代までの恥辱、いや、天下の人心に及ぼすところも
と、一通の
「あ。これは?」
と、老先生の手は、指は、つよい感激にふるえを刻んでいる。
「御老中太田備中守様のお書付。時刻がないゆえ、何かの手続きは後にゆずるとして、とりあえず、郁次郎の処刑に対して、百日のご猶予をおゆるしあったのじゃ」
「えっ! あ、あの、百日」
――鐘が鳴った。朝の
郁次郎の刑される明けの鐘は、郁次郎の生命に
「オオ!」
と、老先生は、狂喜の手に、老中太田備中守の書付をつかんで、奉行所の門内へ走りこんだ。
「――鳴った。
そこに、
「ご大儀に存じまする」
と、
「各にも」
と、軽く、会釈を返しながら、その中へ、ずっと通って来たのは、
東儀はすぐに、
「罪人を曳き出せ」
と、命じた。
そして、羅門と肩を並べながら、刑場の一方にある
獄卒たちは、牢の鍵をあけて、躍りこむようになかへはいった。――そして、糸のように痩せ衰えた郁次郎を引き立てて、死の
「
「はっ」
「すぐに斬れ」
羅門のこう言ったことばの下に、刑吏は
ヒュッと、一振り、水を切って、刑吏は郁次郎のうしろへ廻った。東儀与力は、かたく
尊いかな、一秒の時間。
江漢老先生が駈けつけたのは、実に、その一瞬の時であった。それと見るより老先生は、両手をふりあげて、
「待てッ」
と、呶鳴りながら駈けて来た。
「こらッ」
わらわらと、その後から、奉行所の番士たちが追いかけて来るのを、老先生は
「刑吏! その太刀を下ろすことはならんぞッ、待てッ」
と、叫びつづけて、郁次郎のそばに、両手をひろげて立ちはだかった。
「やっ、老先生」
と、東儀は、床几から飛び上がるほど驚いて――
「な、なんで、大事な執刀の邪魔を召さるか。狂気されたかッ。役儀の遂行を
と、こめかみに、青すじを立てて言った。
「だまれ、東儀!」
老先生は、
「――狂気したかとは何たる放言だ。老いたりといえど塙江漢、まだ、気狂うほどの
「ではなんで、郁次郎の愛に溺れて、刑の執行を
「いや、邪げるのではない。止めるのだ」
「止める?」
と、
「いかに老先生でも、法の命ずる
と、
老先生は、きっと向き直って、老中太田備中守の
「見られたか、ご両所。郁次郎の刑を、百日のあいだ延期いたすということは、この江漢のことばではない。老中のご命令でござるぞ」
「あっ?」
と、ふたりは、それへ、疑惑の眼を
「これは、不審だ。すでに、老中ご一統の裁可に依って、郁次郎の断罪をお認めあったものを、ふたたび、延期せよとは心得ぬお沙汰じゃ」
「――ではこのお書付を
「よしや、
言い争っているところへ、役宅の方から、あわてて、それへ駈けて来たのは、奉行の
「ひかえろ」
奉行の声に、
「はっ」
と、東儀と羅門は、それへ、片膝を折って、指を地についた。
左近将監は、
「今日、処刑するはずの塙郁次郎、吟味不充分のかどあるによって、証拠がためとして、百日の延期を命じる」
と、ことば短く言い渡して、
「追って、くわしくは、
そう言って、すぐに、ひき揚げてしまった。
「意外なことになった」
と、東儀は、羅門と顔を見合せて、不平そうにつぶやいたが、羅門は、
「いや、ご念のいったことです」
と、皮肉な笑いかたをした。
そして、老先生の方へ、ちらと、その
「とにかく、これでご子息の命は、百日のあいだ生き延びたわけ。吾々の眼が違っているか、ご老人の眼が、子の可愛さに
と、いつにもなく羅門は、やや挑戦的だ。
「もちろん!」
と、老先生は胸を張って――
「天に誓って、反証を挙げて見せる。郁次郎にあらぬ、真の犯人を引ッ捕えてみせる」
「ご健闘を祈っておこう」
と、羅門は、さり気なく答えたが、クルリと振り向いて、
「お奉行」
と、一歩すすんだ。
「――かく御老中から急なお沙汰が出たのは、
「もとより、そうなくては、羅門塔十郎ともある名捕手の
「よろしい――」
と、老先生は、大きく、
「これで、わしはわしの信念に向ってすすむこと以外に、なんにも言うことはない。郁次郎は、それまで、
「はははは」
と、東儀は、
「だが老先生、万一、その百日めになっても、他に犯人が出ぬ時には……」
どうする? ――というように、眼で詰問した。
老先生は、ふと、
「各のお
と、語尾の
――こうして、郁次郎は、ふたたび牢獄の中へ、戻された。
さて。
ここに事件の解決までに、百日の期間はできたが、老先生には、そもどんな策戦があるか。やがて、
明けがたには、ひと
品川の海は、いい
「こいつあ大アテ違いだ。海は人目のねえものと思っていたが、
小舟の
艫には、唖聾が、生れてはじめて海を見たように、ぽかんと口を
「ほんとに……。捨て場がないね」
こう答えたのは、
「しかたがねえから、グッと沖へ出て、沈め込むとしましょう。だが、船番所の見廻り舟にでもぶつかると面倒ですから、気をくばっていておくんなさい」
「大丈夫だよ。わたしが、こんな顔をしていれば、
「女の乗っているところが安心だが、その唖聾が、キョロついているのが困りものだ」
「なあに、これだって、人が見れば、山出しの下男だろうと思うから心配はない。それよりも、うでに
「おッと、そのことだ」
新七は、わき目もふらずに、漕ぎ出した。――玉枝の坐っている舟底のまえに何やら、
玉枝は、それを気にして、めくれるたびに、すぐに、筵をかぶせた。そして、
「おや、まだ息があるんじゃないか。いっそ、
と、言った。
「飛んでもねえこった」
と、新七はあわてて、首を振りながら、
「こんな所で、人間の
「なるほどネ」
と、玉枝は、笹いろに光る
「やっぱり、あの人は、要心ぶかい……」
と、つぶやいた。
「もう、ここらでよかろうじゃねエか」
ぐっしょりと、汗をかいて、新七は、疲れた腕から
「さ、おまえも、手伝わなくっちゃいけないよ」
玉枝は、唖男の膝をつッついた。
「…………」
唖は、眼をさました猛獣のように、
足も、手も、胴も、ギリギリ巻きに縛られた一箇の人間が、その下に、仰向けになって伸びていた。いうまでもなく、それは、まだ夜の明けぬ暁闇の数寄屋河岸で、悪人たちが首領とよぶ覆面の侍と、ここにいる新七や唖男などのために、無残な敗北を遂げてしまった江漢老先生の片腕の同心加山
「ひ、ひ……」
と、唖男は、妙な声を洩らして、耀蔵の顔を指さした。無念をのんで昏倒した時の眉が、ふかい針を立ったまま、仮死状態の青ぐろい皮膚にとッついていた。
「はやくしろ」
と、新七は、
「それ、いいか……」
手と、脚とを持ち合って、
とたんに、
「わっ……」
と、
どぼッ――と、白い
「おやっ? ……」
と、さけんで、顔いろを変えた。
ふしぎ!
耀蔵のからだが、およそ、
「あっ、いけない!」
玉枝は、飛びあがって、
「たいへんだ。わたしたちは、いつのまにか、誰かに、
と、手を振った。
新七も、何かは知らないが、うろうろして、
「ちぇッ、しまった」
――新七は、唇を噛んだ。
――見ると、彼方の
まさしく、どこからか
「ええ、だめだよ! 新七ッ、舟が廻ってばかりいるじゃないか」
玉枝は、やっきとなって、自分も、
そのまに、見事な舟脚で、サッと、水を切って来た一方の小舟は、いきなり、
「ざまをみやがれ」
「いくら逃げ足の
三人いちどに、身を躍らして、玉枝の舟へ、とび込んで来た。
「何をしやがる」
新七は、
匕首は、
ひとりが、そのうしろを
「ちッ、くそうッ」
盲目的な
「親方、面倒だ」
「
ふたりが言うと、見すましていた町人は、脇差を抜いて、新七の
「ううッ……。うーむッ……」
真っ赤な、血あぶらの
――玉枝は、その揺れうごく
「この
町人は、足蹴にかけて、
「だいじな
と、自分の舟へ、ひき込んで、
「痛いッ、手をゆるめておくれよ」
「何を言やがる、
「親方、どうします、こいつの死骸は」
「魚の
「合点。――
と、新七の死骸を抛りこんで、
「舟は?」
「舟もそのまま突っ放してしまえ」
「もう一匹、ヘンな男が、まっ先に海のなかへ逃げこんだが、どうしやがったか、浮いて来ねえ」
「ム、下男みてえな男か。
「じゃ、ぶんながしますぜ、この舟は」
と、自分たちの舟へ返って、突き離した。
と、
「――やあい。何してやンでい」
と、潮を吹いて呶鳴った。
「あ。千吉だ」
「待てやアい」
あわてて、漕ぎよせてゆくと、千吉とよばれた若者は、
「はやく綱を
「船頭のくせに、弱音をふくな。こっちだって、大仕事があったんだ」
「いくら、
「おう、どうしたものは」
「ものは、首尾よく、このとおり……」
「ご苦労、ご苦労」
と、舟のなかへ助けあげて、千吉のかかえて来た加山耀蔵の縄をすぐ解いた。
海へ沈みかけられる時に、すでに、
玉枝は、度胸をすえてしまった。
ふてくされた、凄艶な頬を、海風に、
帆ばしらの下に、立て膝をして、もう逃げられないと覚悟をきめた眼に、誰のとも知れない、かます
加山耀蔵の手当をしていた船頭たちは、
「親方、あきれてものが言えねえじゃありませんか。ごらんなせえ、人の、莨を吸ってやがる」
指さすと、彼女は、不敵な、そしてまた、ひどく
「オヤ、おまえさんの?」
「勝手にしやがれ」
「しみったれたことをお言いでないよ、莨の一ぷくや二ふく、いいじゃないか」
「あれだ……」
と、あきれ顔に、
「親方、世の中にゃ、こんな不敵な女もあるもんでしょうか」
「どうせ、ひとすじ縄で行く女じゃあるめえ。逃げられねえように、要心していろ」
「はばかり様。おまえ達みたいな、町人根性ならしらぬこと、こうと度胸をすえた以上は、見ぎたなく、じたばたするような玉枝さんとは違うんだからね、安心おしよ」
「……親方、似ていますね、まったく」
「誰に」
「
「ム、
玉枝は、横を向いて、うす笑いをうかべながら、
「じゃ、おまえたちは、鶉坂の老いぼれに頼まれて、私たちの仕事の邪魔をしたんだね」
「それがどうした」
「おぼえておいでということさ!」
「けッ。この
若い船頭たちから、親方とよばれている町人は、数寄屋河岸の釣舟師、
明け方、老先生から事情をうちあけられて、
老先生の機智は、矢文の方も、これも、二つながら成功した。加山耀蔵のからだから解いた縄は、そのまま、玉枝を縛るものに使えた。舟辰と、若い船頭三人に
すると、そのなかの千吉が、
「オヤッ?」
と、手を引っこめた。
「なんだ? 千吉」
「親方、ふしぎなこともあるもんですね」
「どうして」
「この女、左の手を見ておくんなさい。――
「ウム……なるほど」
「妹も、こんな毒婦にならなけりゃいいが」
「あの
「いえ、……お恥しいわけですが、ちょっと、
「ヘエ、じゃ、
話が、思わぬほうに
中洲の
「あ、いけねえ。その女を、むき出しにして置いちゃ、
舟辰は、気がついて、帆を下ろした。
ほかの三名は、あわてて、玉枝のからだを俯向けに倒して、その手足を、板子へ縛りつけた。そして、上から、帆をかぶせてしまった。
間もなく、舟は、数寄屋河岸へついた。病人の客でも連れ戻ったように
「おう、帰って来たか」
土間のもの音を聞くと、待ちかねていたように、二階の
「あ、
「シッ」
と、老先生は手を振って、
「首尾は」
「ただ今参ります」
一同で、耀蔵を、そっと、二階へたすけ上げて、隅へ寝せつけたうえで、
「老先生、ごらんのとおりでございます。四、五日、静かに、
「大儀、大儀」
老先生は、ななめならず
「して、悪人どもは」
「ひとりは、海へ逃げこまれてしまいました」
「小人数だ、やむを得まい。それは誰だ」
「下男みたいな野郎」
「ははあ、唖聾だな。――して、もうひとりの、
「あいつはうまく行きました」
「召捕ったか」
「いえ、
「なに、殺した」
「死骸はそのまま突き流してしまいました。今ごろは、
「それは惜しいことをしたなあ。……アア残念なことをした」
「どうしてですか」
「生かして引ッ吊して来れば、泥を吐かせる手段もある。後日になっても、唯一の生き証拠となったものを」
「あ、成程。……ですが、その生き証拠には、女の方を、ふん縛って、連れて参りましたから、これでどうか、埋めあわせをつけて下さいまし」
「えっ」
と、老先生の耳は、若者のように、ぽっと
「ゆうべ、わしが捕り逃がしたあの妖婦を、おまえ達の手で、捕えて来たと申すか」
「どうです、老先生、こいつあ、
「ある! ある! イヤでかしたぞ舟辰。事件の解決いたしたうえは、きっと、充分に褒美をとらせる」
「なに、あっしは、そんなものを目あてに、した仕事ではありません」
「失言じゃ、ゆるせ。おまえの侠気はよくわかっておる。――して、女は、どこへ連れて来た」
「近所の眼がうるそうございますから、舟底に縛りつけて、帆をかぶせておきました」
「ヤ、ヤ! それやいかん! それやいかん」
老先生は、
舟辰は、
「なぜいけねえんですか」
「あの女には、たえず、覆面の
まさか――と舟辰は
舟は、そのまま、繋いであった。
帆布も、そのままかぶせてあった。
――だが、それを
玉枝のすがたは、魔術師の籠にはいった鳩のように、きれいに、消されてしまっていた。
「ど、どうしたんだろう」
「すこしも、不思議はない」
老先生は、がっしりと、腕を
「……惜しいことをした」
「なんとも、相済みません」
「あやまることはない。わしがはやく、気をつければよかったんじゃ」
「オイ、そこにいる
舟辰は、
「――今、この船の中から、若い女を連れ出した奴があるんだが、誰か、そいつを、見かけた者はねえかい」
「女?」
と、附近の舟の者たちは、顔を見あわせて、
「――知らねえなあ。ただ、いつも見かけねえウロ舟(物売り舟)がそこへ寄って、何か、していたように思ったが、そのうちに、いなくなってしまったなあ」
「それだ」
と、老先生は、きっぱりと諦めて、
「――もう追うのは愚だ。それよりは、何か手懸りになるような物でも落ちていないか」
「おや? ……老先生」
舟辰が、しゃがみ込んで眼を
一枚の
父上よ。――
父上はなぜにかくまでわが子を苦しめ給 うや。
わが子の愛を思 し給わば、益なき妄動 をやめ給え。年寄の冷水 、夢、妄動をやめたまえ。
子たる余は、老父と闘うにしのびずといえども、老父、なお余を苦しめたまわば、余の悪霊はその時ごとに獄内をしのび抜けて、泣きつつも、闘わざるべからず。泣きつつも、闘わざるべからず。
老先生の父上はなぜにかくまでわが子を苦しめ
わが子の愛を
子たる余は、老父と闘うにしのびずといえども、老父、なお余を苦しめたまわば、余の悪霊はその時ごとに獄内をしのび抜けて、泣きつつも、闘わざるべからず。泣きつつも、闘わざるべからず。
不孝の子
覆面の首領
「あはははは。まず、
と、はがし取って、細かに裂き破ったそれを、
「ああ、お苦しいことだろうなあ」
そうして老先生の胸のうちを察しると、舟辰の二階に、枕をならべている耀蔵も、熱いものが、眼じりにながれて、思わず、夜具の襟で、顔を
たちまちである。――あれから
その老先生が、めずらしく、
「加山、ちょっと出かけて来るよ」
と、気軽に、壁の
「え、お出かけですか」
「む。
「どちらへ」
「あてもないが、
梯子段を下りかけると、茶菓子の盆と土瓶を持って、上がって来た舟辰が、
「あ。老先生、今、お茶を入れて参りましたが」
「出先じゃ。帰ってから馳走になろう」
「では、手前がお供をいたしましょう」
「きょうは、よい」
「よかアありません」
「よいと申すに」
「いいえ、独りじゃ物騒です。あっしでいけねえなら、加山さんを連れておいでなさい」
「耀蔵はまだ、体の回復が充分でない。きょうは、独りで行くよ。心配せんでもいい」
「そんなことを言ったって、心配しずにゃいられません。老先生は平気のようだが、家の女房や若い者まで、どんなに、案じているかわかりません。――恐ろしい悪党の仲間が、夜となく昼となく老先生のお命を狙っているんだ。この頃は、野良犬みたいに、家の裏口から覗いたり、
「それやあしかたがないよ。わしの方から、挑戦したんじゃ。昔の
と、笠をかぶって、
年は
もう四、五日で六月にはいる気候だ。町はすっかり夏めいている。
――老先生は、何処へ行く?
「
門内にはいると、なるほど、
老先生は、裏の墓地へはいった。
まだ新しい一基の墓の前に寄ると、老先生は、
「さても、お変りなされたお姿ではある。何と、お慰さめ申そうやら、何と、お詫びをいたそうやら、江漢の胸はただただいっぱいで、張り裂けるようじゃ……。
老先生は、そう言って、大地に手をついた。はらはらと、落涙した。
さながら、生ける人にでも、言うように。
冷たい――黙せる石――。それは、花世の父、
「郁次郎の身に秘密があったばかりに、ご息女の花世どのには、意外な苦労をかけ、貴殿には
大地は、老人の、さんさんたる涙を吸った。
僧院の人のすさびであろうか、どこかで、ほそぼそと、尺八の
だが、老先生には、その音も耳に入らなかった。強い、自責の念に、肩をふるわして、燃えるような眼をあげて、
「わしは今日、誓いに来た! 五百之進どの、わしはここで誓う!」
無言の石に――無言の友に――こう、訴えるのだった。
「ご息女の花世どのの身は、身にかえても、この塙江漢がおひきうけ申す。同時に、郁次郎との
と、思わず、
「もしまた、不幸にも、百日の期間のうちに、それの成らざる時は、ここへ来て、老腹を掻ッ切り、江漢も、
と、自分の吐くことばに疲れるほど、老先生は、
――すると、何者か、墓石の蔭で、わっと、泣き伏した声がした。
「や? ……」
眼を
「あっ! 花世じゃないか」
叫ぶや否、老先生は、跳びつくように、虚無僧すがたの彼女のそばへ。
そして、痛いほど、手をつかんだ。
「五百之進どのの引合せか。どうしてこんな所におったぞ。これ花世! 花世!」
「おお、お
「なに、お舅父様と? ……ああお前はもう、わしをお舅父様と呼ぶほど親身な気でいてくれるのか。それでは今、ここで五百之進どのに誓ったわしのことばも、そなたは、残らず聞いていたな」
「……思わず泣いてしまいました。ご恩は死んでも忘れません」
「何を言うのだ。親子の間で。……それよりも、そなたは、どうして、ここへ来たのか。まさか、亡き五百之進殿の
「はい、実は、この
「ム。この縁故は分っておる」
「で。
「アア。それではいくら
「参りたいのは山々でしたが、その前に、郁次郎様から、これだけは、父にいうてくれるなと、固く、口止めをなされていたこともありますし……」
「
「それに、私の身には、絶えず怖ろしい人間がつき
「そうか、悪魔は、そなたまでを、
「今も、方丈様が、尺八を聞かせて欲しいと仰っしゃるので、うつつに、吹いておりますと、覆面をした妙な男が、
「覆面の男?」
「寺男のいうには、若い、浪人ふうの男だそうです」
「それが、悪魔の首領だ」
「えっ、悪人のかしらですか」
「しかし、案じることはない。おそらく、彼は、この江漢のあとを
女である。花世は、そう訊くと、さすがに、唇のいろを、雨に
「……どうしましょう。寺には、
「案じるな。老いたりといえど、塙江漢、
「はい……私も、お
「ム。大船に乗った気で、安心しているがよい」
と、老先生は、可憐な、未来のわが子の嫁を、
「時に、花世」
「はい」
「そなたは、わしに、渡さなければならん物を持っている。ここで会ったのはいい折だ。わしにくれい」
「ええ、何でしょう?」
花世は、首をかしげた。
老先生は、微笑して、
「
「え、鍵。……どこの鍵でございますか」
「鍵といっても、ことばの鍵だ。たった、
「はい」
「では、訊くが……」
「何なりと、お訊き下さいませ」
「郁次郎は、長崎表に遊学中、何か、若気の過ちで、わしに言えぬ秘密を抱いて江戸へ帰って来たのではないか。……それを、五百之進殿とそなただけには、打ち明けたものと考えるが、どうだな」
花世の顔は、紙のように白くなった。ほつれ毛が、
「い、いいえ……」
「それ、それ、それがいけない。郁次郎を、未来の
花世は、その優しいことばに、かえって、激しい感情を
「す! すみません! ……お
「ム。それでよい。それで結構だよ。……ところで、ついでのことじゃ。もう一つ、わしの問いに答えてくれるか」
「はい、どんなことでも、もう決して包み隠しはいたしません」
「おう、よい嫁じゃ」
と、老先生は、眼の中へでも入れてしまいたいような愛撫を
「ほかではないが、そなたのこの爪だ。薬指の真っ黒なこの爪の色だ……。これはいったい、生れつきか、それとも、幼い時に怪我でもしてこうなったのか。婦女子の
「…………」
花世は、
老先生には、彼女の心臓の音が、ありありと聞えた。
「……どうじゃな、花世」
「…………」
「もし、これも、口で言いにくければ、前の問題といっしょに、書いて見せてくれてもよいが」
「こればかりは、死んだ
「これで、だんだんに、夜明けが近づいてくるような気がする」
「私の、こんな、恥しい爪の事などが、何か、事件のお役に立つのでございますか」
「立つどころか、秘密を開く鍵になる。その代りに、気をつけぬと、その爪のために、一命を縮めることもあろう」
「まあ? ……」
と花世は、不思議そうに、自分の薬指を握ってみた。生みつけられた宿命の指を、改めて、見つめるのだった。
「たしか、その黒い爪を持つ女が、そなたのほかにも、この世に、幾人かおるのではないか」
と、老先生は、呟くように言った。
「はい、私を入れて、四人はいるはずでございます」
「ウム、とにかく早速、今訊ねた二つの問の答えを、書いてくれんか」
「では、ちょっと、お待ち下さいませ」
と、花世は、立ち上がって、少し丘になっているそこの墓地から、寺の方丈の方へ向って、小走りに、駈け降りて行った。
と――その後ろ姿を見送っていた老先生の眼のさきを、きらりと、星のような、白い光が、横切って行った。
「あっ、
老先生は、絶叫した。
とたんに、その鋭利な
ざらざら……と、老先生の足もとへ、崖の
はっと、うしろを振り顧ると、
おお! 悪魔の首領。
「待てっ」
老先生は、叫んだ。
「おのれ!」
と、
その
だッと、走り寄って、崖の下へ――。
同時に、
「ええいッ」
と、投げ上げた二丈の
が――曲者は
太刀を抜きざまに、
いちどは、なおもと、追い足を飛ばしかけたが、老先生は花世の方が、気がかりでならなかった。
――キャッと、耳を
「しまった!」
老先生は、地だんだを踏んだ。――今。彼女の一命に、もしものことでもある場合には、永遠の闇に、この事件の心臓は活動を停止してしまうほかないのである。
「――ちぇッ、先手を打たれた」
と、老先生が、慌てたのも、決して無理ではないのである。事件の鍵とする「二つの
しかし、
そのかわりに、墓地の下の日蔭で、手づかみで、めんつうの
「やッ、親方。人が死んでる!」
「また死人か」
「女乞食だ」
「おや、たった今、殺されたばかりのようじゃねえか」
「山門をはいってくる時に、ギャッと、いやな声が聞えたと思ったら……これだ」
「でも、老先生でなくってよかった」
と、
うしろから、跫音がした。
不安な
「おう、辰じゃないか、何しに来た」
そう言いながらも、死骸をのぞいて、ほっと安心したように、
「あ。花世じゃなかったか……」
と、呟いた。
舟辰は、すぐに、
「老先生、たいへんです。すぐに、来ておくんなさい」
と、手を引っ張った。
「どこへ」
「深川まで」
「深川へ。……まあ落着いて話せ。どうしたんじゃ」
「ゆうべ、この千吉の妹のやつが、殺されたんです。いつぞやお話し申し上げた、柳橋から
「なに、お半が殺された!」
と、老先生は、さながら、自分の子でも失ったように
「あれほどわしが、固く、注意しておいたのに」
「……へい、どうも、何とも面目のねえことで」
と、お半の兄の千吉は、取り返しのつかない悲嘆と悔いに、顔を曇らせながら、
「あっしの妹のお半のことについて、先日、くわしく身の上ばなしを申し上げたところ、ことに依ると、お前の妹は、人に殺される
と、
「妹のやつが可哀そうで……。あっしゃ、死骸を一目見たとたんに、意地にも我慢にも、泣かずにゃいられませんでした。元はといえば、老先生のご注意を、うわの空で聞いていた
「よし、すぐに、行ってやろう」
「有難うございます」
と、舟辰と共に、そう言って、
「実は、老先生の出先も心配になるので、店の者を、後から
「あ、そうか、深川の
「
「む」
「上品な、どこかの、若殿様でもあるような
「……ははあ……」
老先生の眼が、くるりと、うごいた。
「で? ……それから」
「あっさりと、遊んでから、屋根船を雇って、妹を連れて行きましたが、五明庵でも、
「そいつが食わせものだ」
と、老先生は、千吉のことばを切って、
「――分った。あとは現場に当ってみよう」
「では、すぐにお供を」
「イヤ、ちっと待っておくれ」
と、老先生は
「花世、花世」
と、低い声で、呼んだ。
「はい」
と、花世の顔が、すぐに、そこの窓に見えた。
「また一事件もちあがった。わしはすぐに、行かねばならん。
「書いておきました」
「オオ、これか」
と、窓の間から受け取って、
「舟辰」
「へい」
「千吉にも、申しつけることがある。今日より、向う八十日間のあいだ、この花世どのの一身を、おまえ達ふたりに預けるぞ。命がけで、間違いのないように、守ってくれい」
「…………」
二人は、返辞を忘れていた。
「どうじゃ」
「…………」
「嫌か」
「……不思議だあ」
と、
「なにが」
と、老先生は、彼等の顔つきが、変なのに気がついた。
「なにが、そんなに、不審なのか」
「でも、そのお嬢様は、いつぞや品川沖でふん捕まえて、また、悪党どもに
「似ているというのか」
「誰が見たって、別人とは思いませんぜ」
「いや、あれはまったく、べつな女だ。そのからくりも、化けの皮も、やがて近いうちに、江漢が
「よろしゅうございます」
と、舟辰は、もちまえの侠気を出して、ひきうけた。
「きっと、あっしが、お嬢様をお守り申しておりますから、老先生には、そんなご心配なく、どうか存分に、腕をふるっておくんなさいまし」
「よし、それでわしも、晴々と、征悪の
山門の外には、駕が待っていた。
老先生の体は、宙を飛ぶように、揺られていた。――その駕の中で、彼は、花世が
「む!」
と、大きく、独りで頷いた。
眼をふさいで、腕を
彼の胸には、
が――どうしても、腑に落ちない点が一つあった。疑問の
第一には、殺された、女笛師の雪女である。
第二には、江之島神社の
第三には、つい最近、舟辰の口からふと聞き出した船頭の千吉の妹で――柳橋の
――それと、花世。
これだけならば話は合うが、先日、舟辰と千吉が目撃したところによると、花世と生写しの怪美人玉枝という女にも、同じような黒い爪があると聞いた。すると――どうしても、五人になる。四人に、一人余る。
「はて? ……」
と、老先生は、もういちど、花世の「二つの答」を、読みなおして、考えこんだ。
どんと、駕が
同時に、ぎしっと、地上に感じた。
「――旦那、
と、駕屋が、タレを
無数な足の向うには、川の水が見えた。
喧騒が耳を
そして、足の数が減ると、砂利場の地上に、麻の葉
「これは、
駕の外で、いんぎんにこう言った人物がある。
老先生は、すぐ、その
「やあ、
と、駕から立った。
「――拙者も、今、駈けつけたばかりです」
羅門塔十郎は、検死役人の手帳をのぞきこみながら、
「また、
と、かろく、舌打ちを鳴らした。
「同じ策とは」
「ごらん下さい」
と、老先生を、眼で誘って、お半の死骸のそばへ近づいた。――附近を追われた弥次馬たちは、遠くから、
(塙先生だ。
と、
羅門は、腰をかがめて、友禅の
「また……小指が斬り取られています」
「なるほど」
老先生は、予期していたことのように、
「これで三人めじゃ」
「そうです。……例に依って、
「
「大きに」
と、羅門も、苦笑して、
「手口は、まったく、同じです」
「むろん、
「まあ、表面は、そうも見えます……」
羅門は、相変らず、冷静な
「ちょっと、
「相変らず、貴公も、自信がつよいな」
「いや、自信のつよ過ぎるのは、老先生でしょう」
「いまだに、郁次郎を犯人と見ているなど、奇抜じゃ」
「不肖ですが、羅門塔十郎は、まだこうと睨んだ事件を、一度も、
「まあ、やってくれ」
「やります! どこまでも、
「は、は、は。あぶない」
と、老先生は彼の語気を軽く避けて――
「また、議論になるのは、お互に、よそう。何事も実行だ。今日は、検死の立会いだけをすればよいんじゃ。……どれ」
と、老先生は、独りで、犯行の手口、時刻、地理、そのほかを、ずっと、胸にたたみこんで、一足先に、現場から退いた。
そして、
「老先生」と、追いかけて来るものがある。
「や。加山か。お前も来ておったのか」
「弥次馬のなかに隠れていましたが、奉行所の旧友たちが多勢来ておるので、つい、顔を出さずに、見ておりました」
「よい所で会った。おまえは、これからすぐに、本石町の
「承知しました。そして?」
「そして、こう……」
と、老先生は、彼の耳に口をよせて、何事かを、
「よいか」
「分りました」
「こんどが、恐らく、事件の峠だろう。ひとつ、働いてくれい」
「
「すべて、わしの言った手順どおりにな」
「心得ました」
まだどこか、体の
その晩――
本石町の佐渡屋の店へ入って行った彼は、夜が
そうして、
「こんばんは……」
と、やさしい女の声で、灯がついたばかりの店の
「誰かいないんですか」
女は、土間にはいって、帳場を見まわした。
帳場には、
ただ、
「あ……」
と、何かに、
「誰も、店の衆は、いないのですか」
「へい、おります」
その声までが、妙に、ふるえていた。
「呼んでくださいな、分る人を。――この小さな荷物を一つ、京都へ送って貰いたいんですが」
と、女は、胸にかかえている小さな小箱を示して言った。
「――へ。ただ今」
お掛けください、という世辞も忘れて、小僧は、奥へとびこんで行った。と、すぐに、如才のない、中年の番頭が、
「どうも、お待たせいたしまして、とんだ失礼を。……さ、お敷き下さいませ。オイ、幸どん、まだ、お茶が出ておりませんよ」
手をたたいて、奥と客とへ、等分にしゃべりながら、座ぶとんをすすめる、茶を出す、世辞を
誰がふんでも、一人前の、
「ええと……お嬢様」
耀蔵は、もみ手をしながら、
「ただ今、承りますと、何ぞ、お荷物をお送りになるとか、為替のご用だとか、伺いましたが」
「はい、いつもの所へ」
と、女は、頑丈な二重箱を打ちつけた上に、渋紙と、麻縄をかけた小荷物を、そこへ出した。
「……送って戴きたいんですが」
「へい、
「毎度、あちらから、金子を為替で送ってもらう……」
「あ、そうそう、つい、お見それいたしまして、只今、台帳を調べまするが、先様のご姓名は、なんと仰っしゃいましたでしょうか」
「
「あ、山城で。……では台帳がちがいました」
と、幾冊もあるうちから、一冊とって、ぱらぱらと、風を
「
と、誇らしく、ひと息に言った。
そのとおりを、送り状に、さらさらと書いて、
「これでございますな」
と、耀蔵は、女のまえの、小箱へ手をのばしかけた。
「あ、お待ち!」
と、女の眼は、急に、不安にみちて、彼の手を抑えた。
「待っておくれ。大事な、大事な、この小箱の中の品物……」
と、女は、自分の腕でも切って渡すように、その小箱を、
「粗略に扱われては困るのです。――よいかえ」
と、幾度も念を押した。
うまうまと、
「へい、それはもう」
と、軽くうけて、
「――大丈夫でございます。当家の
と、言った。
が――女はまだ、疑い深く、
「では、私の見ている前で、二重箱にして、荷造りして貰いましょうか」
「お
耀蔵が手をたたくと、ほかの者が、彼女の見ている前で、外箱を造り、二重に入れて、
それへ――
こう書いた送り状をベタリと
「これで
「結構です」
と、女は初めて、安心したように
女の姿が、店の外へ消えるとすぐ、
「しめた」
と、耀蔵は、それを
「これだ! 佐渡平」
「ほう、その小箱で」
「うまく
「どうしてそれが、前から、お分りでしたか」
「老先生のご明察、おれにも分らぬ。あの玉枝が、小指のはいった小箱を持って、この店へ、荷為替を頼みに来るということを、ちゃんと、見抜いて俺を差向けられたんだから、まるで、神のようだ」
「あなた様の仰っしゃる老先生というのは、
「そうだ」
「そのお方ならば、数日前に、店へお越しになって、殺された手前の弟忠三郎と、女笛師のお雪との関係や、また、
「ほう、それでは老先生には、いつのまにか、玉枝がこの店から金や荷の送り受けをしていたことを調べ上げていたのか。――オオ、ついしゃべりこんでしまったが、俺は、こうしてはおられない。佐渡平、ではやがて近いうちに、貴様の弟忠三郎の
たちまち、前垂れをはずし、
「一走り、行って来る」
と、小箱をふところに、裏口から飛び出した。
表通りへ、駈け出しながら、
かねての手筈とみえて、町角の辻には、店の者が立っていた。
黙って、右を指す。
その先の辻へ行くと、やはり佐渡平の店の者が立っていた。こんどは、左を指している。
すると、たった今、店から出て行ったばかりの怪美人玉枝の姿が、つい、半町ばかり先を小急ぎに戻って行く姿が見えた。
「見ろ、今夜こそは」
「――きっと、巣を、突き止めてやるぞ!
だが、賢い、すばやい、彼女の六感は、たちまち
「駕屋さん――」
と、白い手をあげた。
「あっ」
と、耀蔵があわてる間に、彼女をのせた町駕は、山の手の方へ向って、もう風のように駈けていた。
「駕屋、駕屋」
と、耀蔵もすぐに、手を振ったけれど、風態の悪い
「面倒だ」
耀蔵は、駈け出した。
足と足である。向うは駕籠、こっちは
宙を飛んで、後を
――と先の駕は、
「さては、悪人どもの巣は、この寺内か」
と、耀蔵もつづいて、山門を潜った。
途端である。
「この野郎っ」
ばらばらッと、左右から躍り出した若者が、
「親方! 怪しい奴を捕まえたッ。はやく
と、呶鳴った。
「なに、怪しい奴?」
すぐに、一人の男が提灯を持って来て、彼の顔へかざした。
「やっ? 加山さんじゃありませんか。野郎ども、
「えっ」
と、一同も驚いたが、耀蔵もびッくりした。
「オオ、お前は
「あっしは、老先生に、花世様の守護をいいつけられて、
「俺は今、怪美人の玉枝を
「だって、誰も、この寺へはいって来た者はありませんぜ」
「イヤ、たしかに今、駕から降りて、この寺内へ駈け込んだ筈だ」
「筈だと言っても、ねえものはしかたがない……」
「そこの窓に、ちらと見えた女の影は?」
その声を聞くと、
「加山耀蔵様ではありませんか。まことに、しばらくでございました」
と、
はっとして振り仰ぐと、富武五百之進の娘の花世である。あの怪美人の玉枝と、
またしても耀蔵は、妙な疑惑に
すると、玉枝は?
耀蔵は狼狽した。
「
いいながら、山門の方へ、駈け戻ろうとした。
すると――江漢老人の声だった。
「加山。もう駄目じゃよ」
「あっ、老先生、いつの間に」
「玉枝は、山門の側の、
「や、や。そんな次第でございましたか」
「だが、
「残念です。どうも、不覚をいたしました」
「なに、よいわ」
と、老先生は、決して部下の罪を深く咎めたことがない。
「それよりは、例の小箱は」
「首尾よく、
「うム、上出来上出来」
と、受け取って、舟辰の若い者、千吉へ、
「これと、同じような荷を、すぐに、もう一つ作ってくれ」
「へい」
と、千吉は振ってみて、
「老先生、何がはいっているんですか」
「殺されたお前の妹――お半の指がはいっておる」
「えっ、妹の指が」
「だが、今開けてはならん」
「へ、へい……」
と、千吉の手は、怪しくふるえていた。
すぐ同じような小箱を造り、
「加山」
――老先生は、彼に、その、
「では、かねてお前に詳しく言いふくめてある通り、これを持って、
「はっ」
「急いで行ってくれ」
「心得ましてござります」
「そちの吉報が、
「必ず、一刻もはやく、吉報をつかんで立ち帰りまする」
「オオ、早く
「ではご一同、ご免を」
「あっ、待て加山」
「はっ」
「その
「それは、途中で、
「ウム、そうか。まだある、路銀が不足じゃろう、それから、わしのこの印籠には、
と、老先生の温か味。
押しいただいて、
「では、ご機嫌よく。――しばらくのお別れを」
と、加山耀蔵は、その夜、その場から、目黒行人坂を振出しに、大山街道から東海道へ。
――そしてやがて、白雲つつむ秘密の松平家、山城の国四明ヶ岳の含月荘へと、急ぎに急いで行ったのであった。
彼がとった道筋は、この前、玉枝が自身で、秘密の
途中で、姿はすっかり、飛脚屋に変装して、例の小箱を、棒の端に
色の
ただ、まずいのは、足に、
そのために、着く日も、予定よりは、四、五日遅れてしまった。
やっと
「飛脚でございます。江戸表から参りました急飛脚の者で――」
門内へ向って、呶鳴ると、
「飛脚か」
と、門番ではない、
「へい、
「書状ではないのか」
「送り状に、ご
「誰だ。宛名人は」
「大村郷左衛門様とござります」
「ご家老か。――品物は」
「三寸角ばかりの小箱で」
「
「
「待っておれ」
山侍は引っこんだ。
しばらくすると、出てきて、
「飛脚屋、はいれ。――
「おう、江戸の飛脚屋か。遠路大儀であったぞ。その品の着くのを待ちかねていたところじゃ」
と、
「これ、早速あれを受け取って、
「父上、また小箱が来たんですか」
「よけいなことを申さずともよい。はやく捺してやらんか」
「飛脚屋、ここへ持って来い」
「へい」
と、耀蔵が、何気なく縁の側まで寄って、それを主水の手へ渡すと同時だった。
「廻し者め!」
床下から、ふいに、伸びてきた手が、彼の脚をつかんだ。うしろに立っていた山侍は、同時に、彼の襟がみを掴んでいた。
「あっ! ……な、なんとなされます」
「黙れッ」
大村郷左衛門は、ぬッくと立って、怖ろしい眼で彼を
「
「やっ? ……」
耀蔵は、あまりのことに、口がきけなかった。――どうして、こう早く、自分が着かないうちに、自分の素性が観破されてしまったのだろう?
「それっ、
「チェッ、残念」
彼は、地だんだを踏んだ。
「ばか!」
「たわけ!」
「間抜けめ」
あらゆる
「わははは。智恵なし同心め、自分の来るよりもはやく、江戸の方から、
俗に、霧谷とよぶくらい、そこは、
ばり、ばり、と枯木や、落葉を踏みしめて来た谷間の
耀蔵は、その中へ、抛り込まれた。
暗い! 夜よりも暗い! 外は絶えずぼやっと霧が煙っている。
「番人なしで大丈夫か」
侍たちは、しばらく、外で
「なに、この厳重な鉄の柵が破れるものか。――それに、見張は、如意ヶ岳の山の
「ウム、炭焼の作兵衛か。なるほど、あの炭焼小屋からは真正面だ」
「しかし、幾日で死ぬだろう」
「まあ、十日も
「水があるから、案外長く生きてるぞ」
「それにしても、二十日か、二十四、五日もたてば、この湿気だけでも、余病を起してくたばるに違いない」
「では、三十日目に来てみるか」
「その頃には、白骨になっているかも知れん」
そんなことを言い合って、ぞろぞろと、立ち去ってしまった。
――話の様子では、明らかに、自分を餓死させるつもりであることが、耀蔵にも分った。
案の如く、それっ切り、訪れる人間はなかった。絶対に、一粒の米も運ばれなかった。無論、
ただ、
三日――四日――七日――九日――彼は上を向いて落ちてくる清水を口にうけて、生きていた。
ある夜は、凄い暴風があった。ある夜は、谷の霧が、海の底のように見える月夜だった。――そして半月、そして
死は、一日ごとに迫って来た。
湿気のために、皮膚いちめん、妙な
「死んではならぬ! 死んではならない!」
彼は、その一念で、生きていた。
また、栄養なく、ただ
「ああ……今日でもう二十二日」
岩壁の
江戸を立った時からの日数を繰ってみると、もう四十日近い時間が空しく、まったく空しく、消えているのだ。
「ええ、どうしよう!」
彼はもだえた。いや、
「俺は生きたい! 俺が生きて、もういちど江戸表へ帰らなければ、老先生は自滅だ。――ああ、それもわずかのうちに」
岩壁の
――二十三。
今朝まで、からくも、彼の生命を
彼は、土を削って、口に入れたが、しばらくすると、胃の激痛と共に、吐いてしまった。
暦を記録すると、一日の仕事は、何を食うべきかということだった。彼は、すばらしい
――岩壁の暦、二十四。
蟇に味をしめて、彼は、夕刻になると穴の奥から外へ出て行って、また帰って来ては穴の奥に貼りついている
――岩壁の暦、二十五。
今日まで、生きていられるのは、水と苔と、
――岩壁の暦、二十六。
「やっ、まだ生きてるぞッ」
「えっ、生きてる?」
「ほれ、ごらんなさい。
「なアるほど、眼ばかりぴかぴかさせておるな」
「強情な奴ではある」
「飢え死になどは面倒くさい。父上に言って、
「槍では、奥へ逃げると、届きません」
「では鉄砲がよかろう」
「そんなに、楽に殺しては、この
「なに、もうたいがい、見せしめにはなっている。
郷左衛門の子息、大村主水の声だった。四、五人の山侍たちと、中を覗いて、こんなことを言いながら立ち去った。
その晩は、電光雷鳴、山も谷も樹木も、押し流されるような暴風雨だった。
――岩壁の暦、二十七。
「やっ?」
眼をさますと共に、彼は、気絶するほど
誰だ? 誰の仕業だ?
鉄柵の内側に、何者か、一箇の白い握り飯を入れて置いてある。彼は、驚喜してとびついたが、はっと、手を
「止そう! 鉄砲のかわりに、俺を毒殺する計略だ」
――岩壁の暦、二十八。
今日はもう、また、深い霧だ。
昨日の握り飯がないと思うと、また、新しい握り飯が置いてある。見ると、それを乗せた竹の皮に、一枚の
と、謎みたいな六文字が記してあるだけだった。
「はてな? ……後三十一日也? 何のことだろう」
と、耀蔵は首をひねった。
「後三十一日也……後……あっそうだ。今日は日をかぞえれば七月の十五日、老先生の百日の期限までには、ちょうど後三十一日だ。不思議、不思議、誰がどうして、そんなことまで知っているのだろう。そしてこの
彼は、
――岩壁の暦、二十九。
朝、昼、何事もなかった。
夕方である。不意に訪れた跫音だった。
「なるほど、生きてるぞ」
「執念ぶかい奴だ。――では
「鉄砲は」
「三
「ここへ並んで、
大村
中の三人が、鉄砲の筒をならべて、
「駄目だ!」
耀蔵は立った。
「老先生ーーっ。おゆるし下さい。遂にご使命を果たさず、加山耀蔵はここで殺されます。この無念は、夢枕に立って、お詫びをつかまつります」
と、
「見ろ、何か、
「発狂したんだろう」
「撃てッ」
と、
どかん! と並んでいる銃身の筒口から、三つの
だが――
「やッ、斬られた!」
どさっと、続いて、誰か仆れた。
「わっ、誰だッ」
「何者だッ」
「一同。――気をッ、気をつけろ」
大村主水は樹の上へ逃げ上がった。それはすばらしい迅さと鋭さを持った一本の
ところへ、更に、また一人。
野獣のような怪老人が、
「この! 悪党の餓鬼め」
と、打ち下ろした。
主水の顔は、
「みなごろしだ! わははは」
怪老人は笑って、次に、
その間に、一人の若者は、早くも中へおどり込んで、まだ茫然と、棒立ちになっていた耀蔵を背中に背負って、谷から峰へと、一目散に駈け出した。
「あっ、山火事」
「なに、
怪老人――それは
「さ、八弥様。病人はそのまま、小屋の中へ寝かせたがいいだ」
作兵衛小屋へ着くと、山の
耀蔵は、八弥の背中で、
「いや、俺は寝ない。俺は病人なんかじゃない」
と、呶鳴った。
「おや、えらい元気じゃな」
「誰だ! 誰だ! 俺を救ってくれたのは、俺は、それが知りたい。俺を
「加山!」
と、波越は、彼を下ろして、痛いほどな力で、その腕を握りしめた。そして、
「加山! 俺だ! 波越八弥だ」
「げッ」
と、耀蔵は驚倒した。
「波越ッ」
「加山ッ」
「ど、どうして貴様は」
「奇遇だ! どうしたって、悪人ばらの往生を見ぬうちに、死んでたまるか」
「そうだ! 死んでたまるものか。――だが貴様が生きているとは思わなかった。イヤ、俺さえ助かったのが夢みたいだ」
「何を隠そう、今だから言うが、実は拙者は、この春、単身この含月荘へ乗りこんで、見事に大村
「ウム、ではここの先陣は、貴様だったのか」
「ところが、かえって、悪人ばらの
「だが、どうして、老先生の百日の期限のことまで、分ったのか」
「江戸の事情は、また
加山は昂奮して、疲労も何も忘れていた。
八弥と作兵衛
一目、その男を見ると、耀蔵はまた、
「やっ、この男は、江戸にうろついていたあの唖聾じゃないか」
「そうだ。吾々は、名も分らないので、唖聾と呼びつけていたが、
「岩松?」
「そうだ。そしてこの岩松こそ、実に、そこにいる作兵衛
「じゃ、矢張り、悪人たちの手で、
「作兵衛は、この山の
「待ってくれ、岩松は唖で聾。どうしてそんな白状をしたり、
「それは、作兵衛
「なるほど」
「その結果。貴公がこっちへ来たらしいということ、また、老先生が百日の期間のうちに、事件の解決を約して、それが果せない時は、
「ああ、有難い! 神はまだおれ達を見捨てない」
「そうだ。正義はきっと勝つよ」
「すぐに、江戸へ行こう」
「ばかを言え、その体で」
「なにくそ! 行ける! 歩ける!」
「いかんいかん。そう気ばかり立っても、肉体が承知しない。まあ、二、三日、静かに寝て、体をこしらえろ」
「愚図愚図していると、もう日がない」
「何、まだ一月はある」
そんなことをいってる間に、山火事はひろがった。作兵衛は、含月荘の山侍がここへ来ては大変だからと言って、二人を、べつな薪小屋の中へ
間もなく帰って来て、
「奴らも、今日はよほど慌てている」
と、言った。
「なぜですか」
と、八弥がたずねると、
「どうやら、含月荘の
「えっ、あの、九年間も高い
「そうじゃ。偉いこッちゃ。
「それは一体、どういうわけで」
「いつかも、八弥様には、話したことじゃが、黄門様のお
「ははあ……」
と、加山は初めて聞いた話に、何か、じっと考えこんでいた。
と、――改まって、急に、
「波越」
「なんだ」
「まことに済まないが、貴公、これから俺を背なかにかけて、
「どこへ」
「無論、江戸表だ」
八弥も何か考えていたが、
「よし! 命がけで出かけよう」
「
「まあ待て。もう半日寝て」
「半日は重大な時刻だ。寝てなどいられるものか」
「いやその
と、何か密談を
「じゃ、行ってくる。その間だけでも、体を休めてくれ」
と、飽くまで友達思いのことばを残して、
――と、どこからともなく、風を切って飛んで行った一本の矢文が、ぷすっと、その灯のついた窓の柱に立った。
気がついたらしい。
お
「しめた、お手もとに届いたな。――あれをご覧になったお答えは、灯でご合図を願いたいと書いておいたから、あの窓の灯が、消えればご不承知。左右にうごけば、こっちの計略を、ご承認くださることになるわけだが……」
と、峰の一角に隠れて、
やがてしばらく――
「あっ、ご承諾だ。ありがたい」
それを見届けると、八弥は一散に、作兵衛小屋へ帰って来た。
「波越、遅かったじゃないか」
「
「そうか。ここまで事を運んで帰れば、老先生もさだめしお欣びだろう。夜にまぎれて、早速立つとしよう」
作兵衛は、
× × ×
この頃、急に評判が立った。――よく
毎日は出ないが、三の日、五の日、七の日に出る。場所は蔵前の
「先生、もう今日はこれぐらいでいいでしょう」
下足番の男も疲れたとみえて、
「開けていたひにゃ、
「そうだなあ。
「たまには、そんなことがあって、ようがすよ。先生のように、金を儲けちゃ、仕舞い殺しにするばかりが能じゃありませんぜ」
「あははは。では、ぼつぼつ片づけるか」
と、
「あの……
門に、女の声がした。
下足番の男は、舌打ちをして、
「もう今日は、仕舞いました。また明日じゃねえ、次の、五の日にでもおいでなせえ」
「あ……これこれ」
と、奥の机から首をのばした乾坤堂は、四十をやっと、二つか三つ越したくらいな年配、総髪をきれいに後ろへ撫で、
「まだ
「あれだ……女というと」
下足番は、呟いて、不承不承に女を通した。女は、秋には早い、頭巾をかぶって、そのまま机の前に坐った。下足番が
「ははあ……」
と、乾坤堂はじッと見つめて、
「観てもらいたいというのは、男女のことでござるな。恋でござろう。そうらしい」
「ま……それもございますが」
と、女は顔を
「ほかにも、もう一つ、大きな願い事が」
「ウーム、その
「ほんとに、かないましょうか」
「今に、西の方から、福音が訪れましょう」
「西の方から。――していつ頃」
「遠くはござらぬ。ここ一月ばかり以内」
「少々、思いあたることがございます。ですが、その願望が
「今の
「はい」
「手をお見せなさい。――イヤ、左の手」
と、女の手相をしげしげと眺めていたが、ひょいと、指の爪を調べて、
「おや、
「あ……そ、それですか。それはあの……何でもございません。
「あ、そうか」
と、
「あなたは、愛してござる男と、絶えず離れておる
女は、くどく
「老先生、何だって、網にかかってきたあの玉枝を、みすみす返してしまったんです」
と、食ってかかるように
同時に、隣の部屋からも、
「惜しいことをした。今に、老先生が、それっと言ったら、ふん捕まえてやろうと腕をさすっていたのに」
と、言いながら、出て来た者がある。
それは
四十二、三の好色家らしい
「いや、それはいけない。――あの女の
「ですが、老先生、もう今日は八月の三日ですぜ」
「そうだ、百日の期限も、あと十二日になった」
「一体どうなさるおつもりなんで……」
「天なり命なり、今に、加山から何とか吉報があろう。それの便りが来ないうちは、いかに江漢でも、手の下しようがない」
「あの耀蔵さんも、一体、何をぐずぐす[#「ぐずぐす」はママ]しているんだろう」
こう言い合った翌々日である。
加山耀蔵、波越八弥、二人は江戸へ帰って来た!
すぐその翌々日は、
相前後して、たった二日ちがいである。
だが、その黄門の龍山公は、どこを宿所に定められたか、まだ、辰の口へも届け出がない。江戸の上屋敷も下屋敷も、あるにはあるが、十何年間も閉めっ放しで、到底、一時の宿とするにも足りない荒れかたである。
奉行所では、しきりに、たずねていた。
それは、南町奉行自身ではなく、所内にいる
東儀与力は、またこのところ、老先生のすがたが、消えたように江戸から見えなくなったので、しきりとそれを気にしては、
「もう近いぞ、近いぞ」
と、
そのうちに、とうとう、期限の百日もあと一晩、九十九日目が来てしまった。
羅門も、この日は、何事かあるかと緊張した面持で、奉行所につめていた。
ところが――昼――夕刻――になっても塙江漢の方からは音も沙汰もない。
「なあ
「いや、そんなお方ではない」
と、羅門は、この
「しかし、今に至っても、沙汰のないのは
「まだ分りますまい。明日の晩――そして夜明けの鐘が鳴るまでは」
「あと一日や半日で、どうなるものではない。もうそろそろ、郁次郎の首斬り道具を、並べておいても間違いはない」
「それはそうと、亀山の龍山公は、どこへ宿所をおとり遊ばしたかなあ。ぜひご拝謁を願いたいことがあるのだが……」
「羅門氏は、そればかり気になすっているが、何か火急のご用事なのか」
「お
「そうそう、いつか承った。龍山公のお
「されば、それについて、非常に心をいためておるが、昨年来当奉行所に
「ご尤もな心配じゃ。しかし、幕府の方は、御老中や要路の役人方へ、相応な
話しているところへであった。
「羅門様、ご書状です」
と、下役の者から、届けられた一通の密封。――はっとして、羅門の顔が
「オオ、龍山公から。たった今、
と、押しいただいて、封を切った。
「お使者の方に、相違なく、明夜は参上いたしますと、お答えしてください」
こう返辞を伝えているのを聞いて、東儀は、
「明夜? 明夜は郁次郎の首を斬る日だのに、尊公が、立ち会わぬのは甚だ困る」
「いや、夜明けまでには、立ち帰ります」
「して龍山公は、どこにおられるので」
「ご親戚だそうで、八重洲河岸の
「あ。なるほど、あしたは十五夜だ」
東儀は、去年の名月を思い出して、なんとなく、戦慄された。
翌日の夕刻になると、羅門は、常になくいそいそとして、
龍山公は、待ちかねておられた。――彼の通されて行った月見の大広間、
廊下に照る月、泉水に
「へへっ……」
正面の老公を仰いで、羅門は、ぺたりと平伏した。それは、君臣の礼儀に
「羅門」
と、老黄門は、
「余が今度の出府、なんの為か、存じておろうが」
「
「いかがいたした、
「
「その言い訳は、郷左衛門からも聞き飽きておる。しかも、すでにそれは遅い。幕府へのご誓約に対しても、この秋には、亀山六万石の家名はご返上せねばならぬ
「しかし、羅門の承知しますところによれば、それは要路の大官方へ、何らかのご方法をもってお願いいたせば、まだ両三年の……」
「だまれ、だまれ!」
老黄門は、千軍を叱咤するように、声をあらげて、
「九年の間、雲閣に坐して、身は老衰隠居いたしても、
「ヘヘッ」
と、さすがの才人羅門塔十郎も、威圧されて一言もなかった。
「数年の間、身が
「
「では、今日まで、何をいたしたか」
「実は、まだ確証の揃うまではと、ご披露はいたしませぬが、たった一人、ご落胤の
「なんじゃ? ……」
と、龍山公はたちまち、
「羅門、それは
「ただ今は、
「ほう……何をして」
「
「年は。また名は」
「ちょうど二十四歳。お名は、玉枝様と申しまする」
「何か、
「ご系図一巻」
「なに系図
「そのご系図に書いてあるのを見ますると、四名のお孫様は、みな
「爪へ、入墨をしたとか。それは、何の為に」
「恐らくは、高貴のご
「ふーム……。さては、わしの
「まさか、その石川家が断絶して、ご
「とにかく、その女性に会いたいものじゃ。たしかに、
「では、折を伺って」
「いや、早いがよかろうぞ。……今宵のうちに」
「したが、大事なご対面です。今夜というのも、余りにご性急、わけて、本人は寝耳に水でもござりましょうゆえ」
「いや、苦しゅうない。羅門、孫へ手紙を書け」
龍山公はもう有頂天な喜びかたである。何でもすぐに、ここへ迎えようと言う。
羅門もやむなく、玉枝へ
小笠原の家臣は、
月はいよいよ冴え、月はいよいよ
一点の雲もない仲秋。
宴は別間にひらかれた。そして、龍山公のお孫の着くのを、名月の席に待つのであった。
迎えの駕は、なかなか帰らない。
「まだか」
と、龍山公は、幾たびも、
羅門はそろそろ、明け方が気がかりになって来た。郁次郎の処刑――そのことである。
塙江漢は、果たして、今夜のうちに、郁次郎を救うべき確証と罪人を挙げて、奉行所の門を叩いたろうか。
東儀は、立会いの自分が戻らぬため、さだめし、気を
あれや、これ、彼の
ところへ――
「ご老公に申しあげます。只今、お
と、小笠原家の用人が、それへ来て、うやうやしく両手をついた。
「オオ、これへ。すぐにすぐに」
と、龍山公は、待ち
「
その位置まで、近侍たちへ、
やがて、伴われて、
ただ黒髪が、ふっさりと、うしろへ垂れたほかは、その頬、その手、雪よりも白く、ちらちらと姿にうごく、月の
「羅門! 玉枝とは、この女か」
「はっ……左様にござります」
「相違ないか」
「相違ござりませぬ」
「たしかに見よ」
あまり老公が念を押すので、羅門は、形ばかりに、そっと
「――たしかに、玉枝様にござります」
「はははは」
と、老公は、何を考えられたか、
「羅門。おまえの眼も、今宵にかぎり、少々どうかいたして来たな」
「えっ」
「もういちど見直すがいい。玉枝はおまえの情婦ではないか。いくらふだん、他人に似るように、作り化粧をさせているにせよ、情婦の顔を見違えるたわけがあるか。
とたんに、彼は大地から大きな震動で
「あッ、違ッた!」
と、絶叫して、膝を立てた。
「うごくな! 下郎ッ」
こはそも何たる
突然、はッたと巨眼をいからして、羅門を睨みすえながら、ぬッくと立ち上がった眼前の人は、龍山公その人と思いのほか、
「あっ」
と、羅門はまたも、
「卑怯!」
と、呶鳴った。
「――逃げるか羅門。イヤ、覆面の男、悪魔の首領!」
「な、なにッ」
「汝が生涯の智恵をしぼって
「ウーム」
と、羅門は蒼白になって、全身をぶるぶると
「聞け! 花世」
老先生は、やさしく、声を落して、雪のかたまりのように、坐っている、花世に向って言った。
「まるで、お前の分身のように、瓜二つに似せて、悪の手先になって働いていた玉枝という女は、あれは、故意に、そなたの姿や顔に似せて、作り化粧をしている妖女だ。――なぜそんな真似をしたろう。それはおまえが真の龍山公のお
「えっ、私が、私があの……」
「おう、そなたは、自分の爪を見るがよい。また、亡き養父の
花世はわッと泣き伏した、なぜかなぜか、いっさんに、悲しさがこみ上げて来たのである。自刃した父の気持が、余りにも強く、余りにはッきりと、胸を
老先生は、厳かな語調をついで――
「しかも、そなたのほかの
「だまれッ、江漢」
鋭く、ふるえを帯びて叫ぶのを、老先生は子供の頭を抑えるように、静かに、沈痛に、
「余人の眼はくらませても、この江漢の眼は
「えいッ、
「羅門よ。それはおまえのことだ」
「証拠があるか」
「ある!」
「なにッ、聞こう!」
「おう、言わずにおこうか。
「見たような嘘をいう奴だ。なんでそれが証拠になる。
「だまれ、静かに聴け」
と、
「その密約が成り立つと、汝は、指一本を、千金に売った。郷左衛門は、その指一つを手にするごとに、龍山公の
「う、うぬ。――まだ申すか」
「汝に代って、
「懺悔? 片腹いたいことを申すな。おのれの一子郁次郎の罪悪はつつんで」
「あれにも落度はある。しかし、法を犯したものではない。女笛師のお雪が、旅芸人であった頃、彼はふと、遊学先の長崎で、その美貌にひき込まれて、恋に落ちたまでのことだ。彼は、気が小さい、そして善人すぎるために、わしにそれを打ち明け得なんだ。そして、この江漢には、まだ江戸表へ帰らぬていにしておいて、
「待てッ、江漢」
羅門は、かつて彼が吐いたことのない
「貴様は、驚くべき嘘の天才だ。大山師だ。よくもそう根も葉もないことを、すらすらと言えたものだ」
「これでも根も葉もないことか」
老先生はからりっと、羅門の眼の前へ一箇の小箱を投げ出した。血の
「これは何だ!」
羅門は
「何だ、この
「そうだ、いかにも子供騙しにちがいない。しかし汝は、これを玉枝の手から大村郷左衛門へ送らせては、数千金の金を取ったではないか」
「覚えはない! 左様なこと」
「佐渡平――」
と、老先生は右わきの襖へ向って呼んだ。
「
「へい……」
佐渡屋和平は、
「見たらどうだ、羅門、遠慮はいらん」
「知らん!」
きつく、首を横に振って、
「拙者は、上方の与力羅門塔十郎だぞ。江戸の
「そうか」
老先生は微笑して――
「しかし、まだ生き証拠はいくらもおるぞ。――波越八弥、隣室にいる作兵衛
羅門はその方をじろりッと
「どこの
と顔を
「では、乞食と言わさぬ生き証拠を出そうか」
「おう、見よう!」
と、羅門は、血走った眼をつり上げて、じりじりと、老先生の方へ、開き直った。その血相! まるで、
老先生は、もう完全に、羅門の心理を
「いや、こっちではない」
と、彼の殺気の先を、自由自在に
「あちらを見よ」
と、庭を指した。
羅門は、
「え?」
と、思わず、うしろを振り向いた。
見ると
「ううむ……ここまでふかく計っていたのか」
羅門は、絶望の闇へ、どっかりと観念の腰をすえた。そして、ぎゅッと、無念そうに噛んだ唇から、たらたらと、血の糸がたれた。
「もう、これまでだ」
「恐れ入ったか」
「勝手にしろ」
眼を閉じて、無言。
勝手にしろ! 何というふてくされた、悪覚らしい一言だろう。それが悪人のすべてを終局にした最後の声だった。
老先生も、ずいぶん悪人は手にかけたが、こんな不敵な
無言と無言――
もう何をいう余地もない。正邪、明らかである。これ以上追及はいらない。と――老先生が眼を
「老先生!
ああ、かほどな悪人も、遂に、性は善であったかと、老先生は憎いうちにも、ふと、哀れを感じた。
「この上は、獄門、
「神妙じゃ。――したが公儀にかかる陰謀とは」
「党類も
「フーム」
と、老先生は、ちと、むずかしい顔をしたが、羅門の
「よろしい、何事か知らんが、ここで言われぬ事とあれば」
と、別室へ連れて行って、二人きりで、対座した。
さすがに、恥を知るか、羅門は、両手をついたまま、いつまでも、ひれ伏していた。けれど、余りにそのもじもじしている間が長いので、老先生も、少し、
すると――ギリギリギリ、と遠い書院か何処かで、時計の音がした。老先生は、はッとした。今のはもう、夜明けに近い、
さては、この底の知れない極悪人は、わざと、最も深刻な故意と用意をもって、自分の時刻をつぶしているのではあるまいか。やがて程なく、夜明けの
それは、間接の刺し
老先生は、居たたまれなくなった。
「羅門、その話は、いずれ
と、言い放って、立ち上がった。
「あっ、しばらくッ」
と、顔を上げたとたんに、羅門は、つつつと、老先生のそばへ
「おのれッ、
と、
「ウームッ……」
と、老先生の苦しげな絶叫が、血しおと共に、障子を震わした。
「あッ――お父様が」
花世がさけんだ途端に、
「えいッ、汝も」
と、彼女へ向って、躍って来た。
「出合え!」
「羅門を召捕れ」
すぐ隣室には、万一の場合にと、七、八名の武士が詰めていたのにこの不覚だった。武士たちは、八方から、どかどかと、羅門へ集った。そこから、再び血が飛んだ。二人ほど仆れるのを見て、羅門は発狂したように、刀を振り廻して、大広間へ出た。
その途中、彼は、幾つもの
「八弥! 波越八弥! 八称はおらぬか。八弥を呼べ……」
「オオ!」
と、色を失って、駈けこんで来た八弥は、苦悶に転々する彼の
「老先生、八弥です! 波越です!」
「八弥……。わしの傷は浅いぞ。わしは死なぬぞ」
「は、はい、浅うござります」
「縛れ。わしの傷口を、かたく、かたく、縛れ。――そして大急ぎで、わしのからだを、南町奉行所まで連れてゆけ」
「うごいてはお悪うございます。老先生、どうか、静かに」
「ええい、たわけめ。そんな場合ではないわ。花世はおるか、花世、花世」
「はい……お父様。わたくしが、しっかりとこう手を握っているのがお分りになりませんか」
「オオそうか……。分る、分る。わしはまだ死なんぞ。花世、わしはこれから、夜明けまでに、目出度い、目出度い、おまえ達の婚礼の席にのぞまねばならんのじゃ。おまえの死装束は、幸いにも、そのまま目出度い晴れ着になる。……わしを抱いて起してくれ。そしてわしを歩かしてくれ」
「だ、だい丈夫ですか。先生。老先生」
「八弥は、右の肩を助け、花世は左を貸してくれ」
「それならば、お駕を、お駕を」
三つの駕に、小笠原家の武士たちが
そこには、
「波越、どうしたのだ」
「老先生が、
「えっ! だ、だれに」
「羅門だ」
「畜生ッ」
と、足ずりをして、
「よし、俺が、召捕ってくる」
と、駈け出した。
「ご門番!」
波越は、割れるように、門をたたいた。
ほとんど、乱入するように、開けると同時に、駈けこんだ駕は、奥の
「郁次郎様、郁次郎様」
と、声をあわせて、叫んだ。
見ると、その郁次郎の
とても、江漢老人の方からは、音沙汰のないものと、
「何者だ」
と、呶鳴った。
「老先生です」
と、八弥が答えた。
「なに、江漢老人が? ――」
と、一度は
「誰であろうと、駕のまま、奉行所へ乗り入れるとは
「いや、老先生は、ご重態です。一歩も、歩行はできません」
「やっ、病気か」
「
八弥は、
「郁次郎、郁次郎はいるか。郁次郎は達者でいるか……」
花世と八弥に、抱え出される間にも、老先生は、
「オオ! 父上」
「
「ど、ど、どうなされました。この血は、おお、この血は!」
「驚くな、伜よ。こんなことは、四十年間十手をとっていた生涯の間に、とうにあってよいことだ。……おまえと、花世の婚礼に、わしは、世の中の何ものよりも強い、何ものよりも真実な、真っ赤な、神の
老先生は、だんだんに落着いて、左に、花世の手を握った。右の手に、郁次郎のほそい手を握った。
「ふたり共に、わしの見ている前で……わしの息のあるうちに、婚儀をあげてくれ。おお!
「お父様……」
「父上……」
「なぜ泣く。強く生きよ。いいか。幸福に行けよ! いいか」
「は、はい……」
「郁次郎は、気が小さい。世間に弱い。社会にうとい。それを直せ、修業しろよ」
「ご苦労をかけました。父上、この、不孝の罪を、何とおわびしてよいか分りませぬ」
「花世! いや、伜の嫁よ」
「はい……」
「いじらしい、牢獄の花嫁よ! そなたは、何という薄命だったろう。だが、これからは幸福になれる。きっとなれる。わしが、あの世からも守ってあげる。よい
「わかりました、お父様! どうぞ、安心してください。安心して……」
多くの、みだれた跫音が、
人々は、血の
「老先生! 老先生! 羅門塔十郎は自殺しました。羅門は遂に
――だが、一代の名与力、