縛られたあひる
小川未明
流れの辺りに、三本のぶなの木が立っていました。冬の間、枝についた枯れ葉を北風にさらさらと鳴らしつづけていました。他の木立はすべて静かな眠りに就いていたのに、このぶなの木だけは、独り唄をうたっていたのです。
ここからは、遠い町の燈火がちらちらと見られました。ちょうど霧のかかった港に集まった船の灯のように、もしくは、地平線近く空にまかれたぬか星のように、青い色のもあれば、紅い色のもあり、中には真新しい緑色のもありました。そして、その一つ一つに、いろいろの生活があるごとく思われました。木たちには、人間の生活というものがよく理解されていなかったようです。人間は、ただわがままで、無考えで、快楽を追っているとしか思われませんでした。まったく生き物の悲しみというものを知らないもののごとくにしか考えられませんでした。だから、彼らは、かってに林を切り倒し、土地を掘り返して、自分たちの生活についてはすこしの同情ももっていないもののように見えたのです。
三本の木は、たがいに頭を寄せ合って、かなたの町の方を見ていました。天気のいい日には、白い煙や、黒い煙が立ち上っていました。もし木立は、その煙が、自分たちの屍を焚く煙であったと知ったら、どんなに驚いたことでしょう。やがて、夕日が沈んで暗くなると、燈火がちらちらと閃きはじめました。ところが、その群がった火の中から、飛び出したように、ぽつ、ぽつと、町をはなれて、幾つかずつ火が寂しい野原の一方に散っていくのでした。ある夜のこと、すぐ近くにみずみずしい冴えた魔物の目のような燈火がついたのです。これを見た、一本の木は、
「おや、あすこへも、やってきたぞ!」といいました。
「なるほど、いつここへくるかもしれない。」と、他の一本の木は、不安そうに、答えました。
三本の木は、その夜、北風に声を合わせて、いつになく悲しい唄をうたったのであります。
明くる日、朝日の影が、下の流れの上に射したとき、小さな魚たちは、もうじき春がくるのを喜ぶように、銀色の腹を見せながら水の中で踊ったのでした。そして、のねずみは、穴の入り口で、目をこすりながら、
「昨夜は、ぶなの木さんが、悲しい歌をうたっていたが、人間どもがこのあたりをうろついて、木を切る話でもしたのかな。いやこのごろの世間の不安ってありゃしない。いつこの川辺のおれたちの巣も掘り返されてしまうかわかったものでない。危ないとなったら、どこへか引っ越しをしなけりゃならん。」と、ひとり言をしていました。
午後でした。なんだか、急に頭の上が騒々しいので、のねずみは目をさましました。そこで、穴の中から出て、のいばらや、藤づるの下をくぐりぬけて、ぶなの木のところまできてみると、いつ造ったか、そこには、みすぼらしい犬でも入りそうな小舎ができていました。屋根には、さびたブリキ板を載せ、周囲は、破れた板が立てかけてありました。のねずみはのぞくと、天井から、ぼろきれが釣るしてあり、バケツには、川水が汲んであって、頭髪の伸びた父親らしい乞食が、曲がった指頭で、もらってきた銭を数えていました。そのそばに、十ばかりの男の子が、口をもぐもぐさせて、なにか食べているようすでした。これを見たのねずみは、板のすきまへ頭を突っ込んだままどうしようかと、しばらくためらっていましたが、
「ぶなの木さんも、こんな人間どもが下に住んではさぞ困ることだろう。しかし、町の方から、子供たちが釣りにやってこなくなるだろうから、魚たちには、都合がいいかもしれない。」
そんなことを思いながら、小舎の中へは遠慮して、圃の方へ走ってゆきました。
はたして、乞食の親子は、ぶなの木の根もとで火を焚きました。青い煙が、幹を伝い、小枝を分けて、冴えた、よくふき清めたガラス張りのような空へ上ってゆきました。このごろ、ぶなの木は、春の近づいたせいか、空を見ると、去年の夏、飛んできたかわらひわのことを思い出すのでした。かわらひわは、毎日のように、どこからか飛んできて、枝に止まって、いい声でさえずりをきかせたり、また、遠い旅の話などをきかせてくれたのでした。そして、別れる時分に、さも名残惜しそうにして、
「また、来年の若葉のころには、きっときますから、どうぞ、みなさんお達者でいてください。」といったのでありました。
三本のぶなの木は、そのかわらひわのいったことを思い出すにつけ、こんな乞食が、ここへやってきたのでは、たとえ自分たちが、無事でいても、かわらひわは、おそらく、二度とここへはきて止まることもあるまいと考えたのでありました。それは、なんという情けない、また悲しいことだったでしょう。日が沈んでから、その日も募り出した、北風に、木は、昨日にもまして悲しい声で唄をうたったのであります。
二、三日後の、暮れ方のことでした。だいぶ暖かになったので、水の中の魚が、しきりと輪を描いて泳いでいました。このとき、乞食の子は、町の方から、一羽のあひるを抱いて帰ってきました。それより、一足先に小舎へもどっていた父親は、それを見て、
「どこでさらってきた?」と、たずねました。
「犬がくわえてきたのを追い払って、捕らえてきたのだよ、どこにも傷がついていないようだ。」と、子供は、あひるを大事そうに両腕の間に入れて、いつまでも放そうとはしませんでした。
「焼いて、食べたら、うまかろう。」と、父親は、じっと、ふるえている羽の紫色をした鳥を見つめました。
「俺はいやだ、殺すなんて。」と、子供は、白目を出して、父親の顔をにらみました。
「どうする気だ?」と、父親は、そっけなく問いました。
「おら、飼っておくのだ。」
「ばかめ、そんなもの飼っておいてみろ、おまえが盗んできたことになるぞ。」
子供は、考えていましたが、
「明日殺そうよ。今夜だけ、川の中へ、一晩、足を縛って放しておくから、それならいいだろう?」
「かってにしろよ。」
父親は、無理に今夜あひるを殺すとはいいませんでした。せめて、一晩は、子供の自由にさせておいてやろうと思いました。
「しっかり足を縛っておくだぞ、さあ、この繩でな。」といって、父親は、手ごろなじょうぶそうな繩を取り出して、子供の足もとへ投げました。
子供は、だまって、繩を拾って、あひるの足を結んでいました。もう水の上は、ほの白く夜の空の色を映しているだけで、水ぎわに生えているやぶの姿がわからないほど、暗くなっていました。子供は、しばらく、その暗を透かして、水の面がさざなみをたて、あちらこちら泳いでいる、あひるのようすをながめていましたが、手に握っている、繩の端をいばらの木の根につなぐと、さも満足そうに、小舎の中へもどっていきました。それからのこと、暗がりで泳いでいたあひるは、足についた繩の重みで、身動きができなくなったのか、岸へ上がって、やぶ蔭にうずくまってしまいました。
今夜も、ぶなの木は、悲しい唄をうたいつづけました。たぶん、あひるは、何事も夢のようで、意外であった、この一日のでき事を思い出していたのでしょう、目をぱちくりさして、太いくちばしで、傷のついているらしい、翼の下のあたりをなめながら、気にしていました。そのうちに、つい自分が、どこにどうしているということも忘れて、あの居心地のよかった古巣が、この付近にでもあると思ったのか、急に恋しくなって探しはじめました。しかし、それは、ますます彼の体を窮地に陥れるものだということに気づかなかったのです。
穴の中から、頭を出して、いっさいを知りつくしたのねずみは、あひるが、不格好なようすで、あわてるのを見て、はじめはにくらしい奴だ、いいきみだというくらいに思ったのが、だんだん気の毒になりました。それには、前にこんなことがあったから――いつかこの流れへ下りた白鳥が、旅のおもしろい話をきかしてやるからと、たくさんの魚たちを集めておいて、ふいに、かわいらしい小ぶなを三びきも食べて、どこかへ逃げていってしまったことを知っていたからです。けれど、この愚かなあひるには、そんな芸当は、どう見てもできそうはありませんでした。それどころか、自分でぐるぐると繩をなにかの枝に巻きつけて、苦しまぎれに、ウエー、ウエーと悲鳴を上げているのでした。ちょうどその声は、ぶなの木がざわざわと体を揺すって歌うのに、調子を合わせて、頓狂な拍子でも取るようにきかれたのでした。
りこうなのねずみは、この風のうちに、いつもにない不安を感じたのです。昼間、もうだいぶ青々と伸びた麦圃を通っている時分にも、ただならぬ風のけはいを予知したのであるが、日が暮れてから、いっそうその不安は濃くなってきたのでした。
「この美しい、すみよかった場所がこんなになってしまった。このとおりあひるは縛られて明日の命がわからないし、ぶなの木は、根本が焦がされている。そして、川の魚も、私たちも、安心してはいられない。すべてのものが息詰まっているのだ。なにか思いがけないことでも起こらなければ、もう二度と昔のように、平和な楽しい太陽の光は見られないだろう……。」
穴の入り口から、夜の空を仰いで、こんなことを考え込んでいたのねずみの姿も、そのうち、いつしか消えてしまいました。
真夜中ごろ、子供は、あらしの叫びで目をさましたのです。小舎が、ぐらぐらと動いて、ブリキのはがれる音がしていました。
「たいへんな風だ。」
「いつでも逃げる用意をしていれよ。バケツとふろしき包みを忘れんでな。」と、父親がいいました。
子供は、外へ飛び出しました。空は、気味悪いほの白さで、ぶなの木が、腰を折れそうに曲げて、風の襲うたびにくびを垂れるのが見られました。
「父ちゃん、あちらの空が、火事のように明るいよ。」と、子供は、外から叫びました。
「大風のときは、そういうもんだ。このあらしが過ぎれば暖かになるぞ。」
ちょうどこのとき、その声を打ち消して、どっとたたきつけるごとく吹きつけた風に、小舎は、めりめりとこわれて、ブリキ板がどこかへ飛んでしまって、なにかにぶつかった音がしました。
「雨が降ってきた!」と、子供が、大声で告げました。
「さあ、いつものところへ逃げろよ。」と、父親はそこらにあったものをひっつかむようにして、闇の中へ駈け出しました。子供は、川ぶちまで飛んでくると、あひるは、いまにものどをくくられて死にそうな悲しい鳴き声をあげていました。子供は、刃先の鋭い小刀で、足を縛った繩を切りました。そして、そのままあひるを放して、バケツとふろしき包みを下げて、父親の後を追いかけました。
雨と風と雷の、ものすごい一夜でした。その夜が明けはなれたときに、流れの水は満々として、岸を浸して、春の日の光を受けて金色に輝いていました。また、ぶなの木は、古い枯れ葉をことごとく振り落として、その後から、新しい緑色の芽を萌していました。乞食は、ふたたびその木の下に寄りつかず、どこへいったやら、あひるの影も見えなかったのであります。いずれ彼らの消息は、りこうな、敏捷なのねずみによって、探ね出されて、ぶなの木や魚たちにもわかることでありましょう。
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