玉虫のおばさん
小川未明
ある日、春子さんが、久代さんの家へ遊びにまいりますと、
「ねえ、春子さん、きれいなものを見せてあげましょうか。」と、いって、久代さんは、ひきだしの中から、小さなきりの箱を取り出しました。
「この中に、なにが入っているか、あててごらんなさい。」と、笑いながら、いいました。
春子さんは、なんだろうと思いました。いくら頭をかしげてもわかりません。
「わからないわ。」
「きれいなものよ。」と、久代さんは、にっこりしました。
「指輪でしょう。」と、春子さんは、答えました。
「いいえ、そんなものでないの。」
「じゃ、なんでしょう。宝石?」
「宝石より、もっときれいなものよ。」
「もっときれいなもの……わからないから教えてよ。」と、春子さんは、まったく、見当がつきませんでした。
「虫よ。」
「まあ、虫? ああ、わかったわ。ちょうでしょう。」
春子さんは、宝石より美しいものは、ほかにはない。どうしても、ちょうであるとしか考えられませんでした。
「いいえ、ちがうのよ。」
「もう、私、わからないわ。早く見せてよ。」と、春子さんは、せがみました。
「玉虫よ。ほらごらんなさい。」と、その小さな箱を久代さんは、春子さんの手に渡しました。春子さんが、受け取ってみると、それは、美しい、紅ざらを見るように、濃い紫のぴかぴかとした羽を持った玉虫の死骸でありました。
「まあ、玉虫って、こんなにきれいなもの?」と、はじめて、玉虫を見た春子さんは、それに見とれていました。
「ええ、そうよ。黄金虫だから、たんすに入れてしまっておくと、縁起がいいと、お母さんがおっしゃってよ。」と、久代さんがいいました。
春子さんは、そのとき見せてもらった、玉虫の美しさをお家へ帰っても、忘れることができませんでした。
「誠さん、玉虫を見たことがあって?」と、春子さんは、弟の誠さんに、ききました。毎日ちょうや、とんぼを捕りに歩いているので、虫のことなら、あるいは、知っているかもしれないと思われたからです。
「ああ知ってるよ。今度捕まえたら姉さんに持ってきてあげようか。」と、誠さんはいいました。
「どこに、玉虫はいるの?」と、春子さんは、ききました。
「それは、めったにいないけれど見つけたら、持ってきてあげようね。」と、誠さんは、答えました。
春子さんは、どんなにそれが楽しみだったかしれません。そうしたら、久代さんに、自分のを見せてあげようと思いました。春子さんは、やさしい性質でありました。誠さんが捨てたとんぼや、せみが、もちで羽がきかなくなって、飛んでいけずに庭の地面に落ちていると、春子さんが見つけて、すぐに、げたをはいて庭へ出て、それを拾い上げました。
「まあ、かわいそうに、なんて誠さんは、乱暴なことをするのでしょう。いま私がもちを取ってあげてよ。」と、いって、奥から揮発油を綿にしませてきて、丁寧に羽をふいてやりました。そして、それを夕空へ放してやると、とんぼや、せみはさもうれしそうに、お礼をいって、飛んでいくように見えたのであります。
「ああ、いいことをした。」と、これを見て喜ぶ、やさしい春子さんでありました。
弟の誠さんは、あいかわらずもちざおを持って、学校から帰ると近くの松の木のある丘へ遊びにゆきました。早くも秋がきて、そこには、いろいろの草や花が咲きました。そして、ひところのように、せみの声はしなくなったけれど、やんまや、かぶと虫がいたからであります。
松にまじって生えている雑木をたずねて歩いていると、一本のかしわの木があって、そこにかぶと虫の止まっている黒い脊中が見られました。
「あ、いる。」と、誠さんは、その木の下に立って見上げました。そこには、かぶと虫のほかに、さいかちがいたし、また大きなありが動いていたし、しかもすこしはなれたところに、姉さんの欲しがっていた玉虫がとまっていて、それらを護衛するように、すずめばちが、怖ろしい目をして、あたりをきょろきょろながめていたのです。年老って、腰の曲がったかしわの木は、これらの虫たちに皮を傷つけられて、甘い液を吸われているのを苦痛に感ずるのでありましょうが、どうすることもできずにいました。誠さんは、棒でかぶと虫と玉虫を下へ落とすと、あわてて口笛を吹きながら、体をすくめて、飛んできたはちの攻撃を避けようとしました。やがて、はちはまた木へもどりました。そこで、誠さんは、二匹の虫を拾うと大急ぎで家へ帰ってきました。
「姉さん、玉虫を捕まえてきたよ。僕、揮発油をつけて、殺してやろうか?」と、誠さんは、いいました。これをきくと、春子さんは、
「待っていらっしゃい。」と、いって、急いで、出てきました。
「きれいな虫なのね、久代さんところで見たのより、よっぽど美しいわ。」
「それは、こっちが生きているからだよ。」と、誠さんが、いいました。
「そうかしらん、殺すのはかわいそうね。」
「僕、殺してあげようか。」
「生かして、飼っておかない?」
「ああ、そうしようか。はちみつをやるといいのだよ。砂糖でもいいかもしれない。」誠さんは、石鹸の入っていた、ボール箱に穴を明けて、その中へかぶと虫と玉虫を入れておきました。誠さんの留守に、春子さんは、一人でかぶと虫と玉虫とが、箱の中でもだえているのをながめていましたが、誠さんが帰ると無理にすすめて、二匹の虫を原っぱへ逃がしてやりました。
ある晩のことです。春子さんは不思議な夢を見ました。夏から秋にかけて、林や、花園にきて遊んでいたちょうや、はちや、蛾や、とんぼや、せみが、だんだん寒くなるので、船に乗って暖かな南の国へ旅立つのであります。その中にもいちばん目立って美しいのは玉虫のおばさんでありました。紫色の羽織をきたおばさんは、船に乗ろうとして、
「また、来年まいります。」と、見送りにいった春子さんに、にこやかに、お別れのあいさつをしていました。すると、いつか、もちをふいて逃がしてやった茶色のとんぼが、また玉虫のおばさんの蔭から、恥ずかしそうにして春子さんにあいさつをしていたのでありました。
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