船の破片に残る話
小川未明
南の方の海を、航海している船がありました。太陽はうららかに、平和に、海原を照らしています。もう、この船の船長は、年をとっていました。そして、長い間、この船を自分たちのすみかとしていましたから、あるときは自分の体と同じようにも思っていたのであります。
「俺もはやく、こんな船乗りなんかやめて、陸へ上がりたいと思っているよ。いくら、世の中が文明になったって、こうして船にばかり乗っているんでは、ありがたみがわからないじゃないか。」と、若い船員が、甲板の上で、仲間に話をしていました。
「おまえのいうとおりさ。飛行機ができて、一日に、千里も二千里も、飛ぶようになったって、それが俺たちに、なんの利益にもなるのでない。この船でも、新しかった昔は威張って、大きな港々へいったものさ。それが古くなって、ほかに、速いりっぱな船ができると、あまり人のいかないような遠いところへやらされるようになってしまう。そして、この船に乗っているものは、どうなりっこもない。いつも変わらない、終わりのない労働がつづいているばかりなのさ。」と、仲間も答えていました。
海は、人間の話などは、耳にはいらないように、朗らかな顔をして、笑っていました。そして白い波は、力いっぱいで走っている船のまわりで戯れていました。
このとき、年とった船長は、いつのまにか、ここにきて二人の話をきいていましたが、
「私なども、やはり、君たちのような考えをもっていたことがあったよ。しかし、このごろは、どこへいっても、同じだと思っている。おりおり街の生活もしたくなるが、うそと偽りでまるめていると思うと、この正直な海の上のほうが、どれほどいいかしれなくなる。いま飛行機といったが、たまに乗る人には便利かしれないが、職業となって、毎日乗っている人のことを考えれば、どれほど、この船より危険の多い職業かわからない。世の中が、文明になればなるほど、そこには、犠牲になっているものがあるのだ。みんな人間は、しまいにはその職業のために死ぬのさ。そう思っていれば、いちばんまちがいがない。私は、もう、この船の上で、長く暮らしてきた、陸よりも、どこよりも海の上が安心だと思っているよ。」と、船長はいいました。
若い船員たちは、びっくりして、船長のいうことを聞いていましたが、
「じゃ、いったい、だれが悪いのだ。なにもせんで、食っている金持ちが悪いのか?」と、いいました。
「金持ちは、金のために、首をつることがあるよ。」と、船長が笑いました。
ちょうど、この船の中に、南洋へいく、大金持ちが乗っていました。金持ちは、大きな腹を抱えるように、ゆったりとした足どりで、甲板の上へ出てきました。
「真珠島は、見えませんかな。」と、いって、あちらをながめました。
船乗り人には、魔の島として知られています。島には美しい娘たちがいて、月のいい晩には、緑の木蔭で踊るということでした。しかし、自然は、どこも、かしこも、人間が荒らしつくしたので、最後に、これらの島を守ろうとするごとく、無数の岩がとり囲み、平常ですら、波が高くて近寄りがたいところとなっていました。
「波は、静かですが、いくらか曇っているので見えません。」と、船長は、答えました。
「どうです、お礼は、いくらでもしますが、真珠島へ、この船を着けてはくださらないか。きっと、あの島へいけば、掘り出しものがあるのだから――。」と、金持ちは、頼みました。
船長は冷ややかに笑っていたが、若い船員たちは、目をかがやかしました。このようすを見て、金持ちは、
「たまには、金を握って、帰って、都会の文明にも接したり、うまい酒も飲んでみるものだ。」と、いいました。
「そうだ、船を真珠島へ着けよう、俺たちは、それだけの冒険をするかわり、うんと報酬をもらわなくちゃならない。」と若い船員たちは、ほかにもいつか甲板の上に集まってきていて、いったのでした。
ひとり、船長は、だまって考えていましたが、
「おそかれ、はやかれ、一度は、あの真珠島へ船を着けるようになるだろう。私は、この船と運命を一つにすればいいのだ。みんなが、気ままにするがいい。」と、船長は、いって、自分のへやへはいりました。
へやには、青い鳥が、かごの中で、じっとしていました。よく馴れていて、船長の顔を見ると鳴きました。船長は鳥のそばへ寄って、
「長い間、よく私をなぐさめてくれた。おまえの声をきくと、あの南洋の人間に汚されない、らんの花の香う森林を思い出すのだ。おまえは、その強い翼で、森林へ帰ったがいい。」
こういって、かごの戸をあけて、鳥を海の上へ放してやりました。青い鳥は、しばらく操舵室の屋根の上にとまってあたりを見まわしていました。
「ああ真珠島だ。真珠島だ。」という叫びが船の上から起こりました。この時分から、ようやく波のうねりが高まってきました。
海の色を見つめていた船長が、突然危険の警告を発しましたが、もうまにあわなかった。船は、ひどい音をたて、暗礁に衝突したのです。見るまに古い船体は壊れてしまい、金持ちも、若い船員も沈んでしまえば、また船長もその姿を見失ってしまいました。晩方にかけて、ひとしきり、風も波も高かったが、それもしだいに静まって、海は、もとの平静にかえりました。
月の明るい島では、その夜も少女は、唄をうたいました。そして、島をはなれて、幾十里の沖合いには、船の破片が漂い、その上に青い鳥がとまって、潮のまにまに流されていました。独り、岩に砕ける波だけは憤って、永久に自然の恨みを伝えているごとくであります。
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