日露戦争の始まって以来、どの雑誌もほとんど戦争の話で持切りのありさまで、あるいは海戦陸戦の実況を報じ、あるいは戦時における人民の心得を論じていたが、これは時節柄もっともな次第であった。しかしそのうち、戦時における心得を論じたものを見るに、多くは戦争と平和とを相反するもののごとくに見なし、戦時には平常と異なった特別の心得方が必要であるかのごとくに説いてあるが、戦争がすんで平和が回復せられたのちに、平和は戦争の反対であると誤解して、戦時に必要な心得をことごとく捨てて顧みぬようなことでもあっては、せっかくの戦勝の利益もその大部はしばらくの間に消えてしまうおそれがある。かような失策を防ぐためには、平生から戦争とは何か、平和とは何かという問題を研究してこれらを明らかにしておかねばならぬ。
世の中には平和はつねであって、戦争は例外であると思うている人がとかく多いようであるが、世界の歴史を調べてみれば、実際はその反対であることが明らかに知れる。試みに歴史の中から戦争のあった時間だけを除いたとすれば、残りはほとんど何もない。かしこが平和であるときには、ここで戦争があり、甲の所で戦争が終わるころには乙の所で戦争が始まる。全世界を通じていえば、どこにも戦争のないという日は
開闢以来おそらく一日もなかろう。一国一国に分けて論ずれば戦争と戦争との間には若干ずつの平和の時代がはさまっているごとくに見えるが、これもていねいに考えてみると決して真の平和ではない。その間には必ず砲台を築き、軍艦を造り、できうる限り兵力を整えて、意識的かあるいは無意識的かに次の戦争の準備に全力をつくしているゆえ、機が熟すればささいな口実を種にしてたちまち戦い始める。およそ戦争の芽を含まぬ平和は今日にいたるまでいまだ決して一回もなかったと言うてよろしかろう。さればいわゆる平和なるものはあたかも芝居の幕間のごときもので、単に次の戦争に対する準備の時期を言い現わす言葉に過ぎぬ。
かように考えれば、戦争と平和とは元来決して根本的に性質の相反する二種の状態ではない、ただ生活という一種の引続いた働きの中の相交代する二様の時期を指してかく名づけるだけである。すなわち幕を開ければ戦争、幕を閉じれば平和であって、見物人の側からみれば幕間はすこぶる暇で退屈を感ずるが、幕のかげにいる人等はその間に精を出して働かねば次の幕の間に合わぬ。その上、いわゆる平和の時代にはまた平和の戦争と名づける劇烈な戦争があって、剣や鉄砲を用いこそせぬが、その敗北者が悲惨な境遇におちいることは決して真の戦争にも劣るものではない。これはすなわち人間の生存競争であって、いやしくも人間の生存している間はとうてい避けることのできぬものである。
語をかえて言えば戦争は実であるが平和は虚である。世の中には評判のみ高くて、実際にないものが決して少なくない。たとえば幽霊のごときはその一で、どこの国へ行ってもその評判のない所はないが、実際これを捕えたということは一度も聞かぬ。いわゆる平和なるものも全くこのとおりで、たいがいの戦争は平和を目的とするが、戦争のすんだのちに真の平和のきた例はない。平和を目的とする戦争がつねに絶えず行なわれ、人間の歴史はほとんど戦争の記録で満たされてあるにもかかわらず、いまだ平和に達することのできぬありさまは、あたかもアラビアの沙漠を旅行する商人らが
椰子の樹の茂っている
蜃気楼を見て、あそこまで行けば涼しい樹陰と、冷たい水とがあると思うてしきりに急ぐのと少しも違わぬ。行けば行くだけ蜃気楼も向うへ逃げてどこまで進んでもついにこれに達することはできぬ。
さてなぜ戦争がつねにあるに反し、真の平和が絶えてないかと考えるに、これは人類の性質に基づくことでいかんともいたしようがない。その性質がいかなるものかを論ずることはここには略するが、国と国との戦争はしばらくおいて、いわゆる平和の時代における個人の生活を見ても、生まれてから死ぬまでが実際一個の引き続いた戦争ではないか。フランスの文豪ボルテールも「この世では剣によらねば何事も成就せぬ、吾人は死ぬまで剣を手から離すことはできぬ」と言っているが、これは全く実際のありさまである。ドイツ語では墓地のことを「平和の庭」(Friedhof)と名づけるが、これは人間の生涯が徹頭徹尾戦闘であることを裏面から言い現わしたものであろう。しかして個人間のみがかような次第ではない、人間は元来社交的の動物でつねに団体を形造って生活しているが、団体間の関係も全くこのとおりで、やはり剣によらねば何事も成就せぬ。多数の人間種族が相対して生存しているこの世の中にては、一種族が膨脹する場合には、他の種族に圧迫を加えることをいとうてはおられぬ。まして数多の種族がみな年々膨脹してゆく場合には、その間に衝突の起こるはもとより当然のことである。されば数多の種族が並び存する以上は、いつまでも戦争は絶えぬものと覚悟しなければならぬ。
今日の戦争は非常に高価なものである、軍艦一
艘が何千万円も価する、弾丸一発が何千円もかかる、かくのごとく
莫大の入費を要することゆえ、経済の側から考えると戦争は容易にできるものではない。軍備を固めるのはずいぶん苦しいことであるが、隣の国で兵を増せばこちらでもこれに応じて兵を増さねばならず、たがいに競争して軍備を固める結果、双方ともに国力が
疲弊するは必然の理で、もしその上に実際戦争でも始めたら経済上両国ともにつぶれてしまう。それゆえ、戦争なるものは不可能のことである。したごうて未来においては戦争はなくなるなどと説く人もあるが、戦争は決してかような理屈くらいでやむものではない。戦争の手段と方法とは人知の進むにしたごうてむろん変ずるであろうが、戦争その物があとを絶つようなことはとうていない。戦争は莫大の入費のかかることゆえ、
我慢のできる限りは何種族も戦争を始めぬには相違ないが、自己の種族の生存が危うくなる場合には、いかなる危険を犯しても戦わねばならぬ。また甲乙二種族が戦うて充分疲れたところをねろうて、丙の種族が攻めてきて戦わずして大利益を収めるようなこともつねにあるゆえ、容易なことでは戦争は始められぬ。しかし戦争によらなければ自己の種族の独立が保てぬという場合には、この冒険をもあえてせねばならぬ。つまるところ、我慢のできるだけ戦争をせずに我慢するのも自己の種族の維持生存のため、またすべての危険を犯して戦争を始めるのも自己の種族の維持生存のためである。しかるに人間の各種属は非常な圧迫さえこうむらなければ、絶えず膨脹して抵抗の最も少ない方面へ延び出すべき性質を備えているもので、決していつまでも同じ太さで止まってはおらぬゆえ、一種族の独立生存が他種族の膨脹のために危うくせられる場合は、必ず続々生ずるに違いない。しかしてかかる場合に戦争の避くべからざることはまたもちろんである。
世界の強国がみな同盟してしまえば戦争などは全く必要がなくなると考える人もあるが、これはもとよりできざることである。そもそも同盟とは何かといえば、これは単に共同の敵に対して身を護るための一時の方便に過ぎぬ。歴史を探して見るにいつの世でもどこの国でも、共同の敵のないところで二個以上の異種族が同盟をした例はかつてない。共同の敵があるゆえに二個以上の異種族が同盟一致するありさまは、あたかも桶の輪によって桶の形が保たれているごとくである。それゆえいったん共同の敵がなくなれば、たちまち同盟が破れてしまうこと、桶の輪が切れた時と少しも違わぬ。政府に抵抗するために在野の二政党が連合することはあるが、いったんこれを乗取ってしまえば、その時がすなわち二政党の分離する時であることは、従来の例で誰も知っているであろう。共同の敵を控えれば異種族も同盟を結び、同盟を結べば有力となるゆえ、共同の敵を
亡ぼすことができる、共同の敵が
亡ぶれば同盟はたちまち破れるが、同盟が破れれば異種族はみな互いに敵であるゆえ、また新たに同盟を結ぶものができる。同盟の結ばれ解かれる順序はほぼかくのごとくで、決して永久不変のものではない。ある同盟がやや久しく継続するごとくに見えるのは、ひっきょうわれわれ各個人の命が短いために行末までを見届けることができぬからである。共同の敵もないのに諸強国がことごとく同盟を結び、しかも永久に同盟を続けるなどということは人間の性質上決してできぬことと断言せねばならぬ。
また諸強国が連合して一個の高等な仲裁所、あるいは裁判所を組織し、これを列国の上において、列国間の紛騒はここで裁判し、あるいは仲裁することに定めたならば、世の中から戦争というものを除き去ることができるであろうと考える人もあるが、これも前と同様でもちろんできぬことである。ささいな事件については面倒を省くために、かような高等仲裁所に委任することをいずれの国でも喜んで承諾するであろうが、自己の種族の存亡、盛衰に関するような大事件については、誰が何と言おうとも自己の不利益なことを承諾のできるものではない。仮に先年南アフリカに紛騒のあった際に、万国連合高等裁判所がトランスバールは英国に属するが正当であると宣告したと想像してみるに、ボア人がつつしんでこれを承認するであろうか、人口は少なく、資力も不充分で、必ず負けることが明らかに知れていても一戦争せずには決してすまされぬに違いない。万国平和会議の主唱者がだれであるかを思えば、かような組織がとうていまじめに役に立つものでないことは明瞭であろう。
かように論じてみると、過去の歴史が戦争の記録で満たされてあるごとくに、未来の歴史もやはり戦争の記録で満たされるものと断言せねばならぬ。もとより一の戦争と次の戦争との間には若干の平和時代がはさまってくるには相違ないが、これは次の戦争の準備のできるまでの幕間に過ぎぬ。されば平和なるものはいかなる場合にも、ただ表面にのみ限られたことで、幕の陰まで平和でおられるような時期は決してない。新聞雑誌に往々見るところの永久の平和という文字にいたっては虚中の最も虚なるもので、夢にもあり得べからざるありさまを言い現わした言葉である。雑誌などにはわが国で第一流といわれる学者の説として、今日戦争というごときことのあるのは社会がいまだ充分に発達せぬからである、完全な域に進めば世界中の列国は連合して一大合衆国となり戦争などは全くなくなってしまうというようなことがしばしば掲げてあるが、これは全然間違いであろう。万国連合郵便、万国連合為替をはじめ、万国衛生会議とか、万国漁業会議とかいうごとき万国連合の事業の数が続々ふえるのを見て、これは列国合同の方向に進む階段であると誤解するも無理ではないが、人間各種族の膨脹の結果として生ずる種族間の
軋轢と、諸種族共通の便益のための会合とは全く別物で、後者がいかに発達しても前者がそのために減ずるという望みはとうていない。
多数の人間種族が相対して生存している以上は、戦争は決して避くべからざることであって、いわゆる平和なるものは次回の戦争の準備のできあがるまで一枚の幕をもってこれをおおうているありさまを指すものとすれば、戦時にあたっても平生に異なった特別な覚悟を要する理由はない。そのかわり平生からつねに戦時同様に心得ていなければならぬ。もとより実際敵と砲火を相交えておらぬいわゆる平和の時期には、下女が給金の中から軍資を献納したり、小学校の生徒が親にねだって
恤兵部へ金を寄付したりするような極端なことは不必要であるが、精神の持ちようにいたっては全く同様でなければならぬ。先日ある新聞に某村で行うている戦時中の規約が掲げてあったゆえ、これを読んでみたら、あるいは病気急用などのほかは人力車に乗らぬとか、つとめて華美なことを避けるとか、無用の儀式に金をつかわぬとかいうようなことばかりで、一として平生から心得ているべきことでないものはなかった。戦争が始まったについて急にかような規約を設け、戦争がすんだあかつきにはふたたびこれを捨ててしまうようなことでは、せっかく戦争に勝っても、その結果として国力を増進せしめることは容易でない。たといいったん戦争がすんだとしても、数多の異種族が相対して生存する以上は戦争の全く絶えてしまうことはないゆえ、平和はすなわち次にきたるべき戦争の準備であると心得て、やはり戦時同様の覚悟を失なってはならぬ。「治にいて乱を忘れず」という昔からの
戒はすなわちこのことを指したもので、種族生存の上から見ればすべての諺の中で第一に位するのである。
全く乱を忘れて安心していられるような真の平和は過去にも一度もなく未来にもまた決してあろうとは思われぬが、かく実際には絶無のものであるにかかわらず、その名を聞くことはきわめて普通で、およそ異種族間で何事かの行なわれる場合には、必ず平和のためと称することが例である。戦争を始めるのも平和のため、勝って敵国を
併呑するのも平和のため、他国の勝ちえた物を強いて捨てさせるのも平和のため、捨てさせておいてたちまちこれを拾いとるのも平和のため、なんでもかんでも平和のためと称して、自己の勝手なことを行なうのが現在のありさまである。されば列国間の外交文書に平和のためと書くのは、あたかも英語の手紙では、仇のごとくに思うている人に対しても Dear Sir と書き始めるのと同じことで、日本語に直せば拝啓とか一筆啓上とかいう何の意味もない定式の文句に過ぎぬ。むしろ平和という文字を含んだ外交文書の遣り取りが頻繁になったら、次の戦争が迫ってきたものと見なして、なおいっそう準備に尽力することが必要である。
人道という字も戦争の口実としてしばしば聞くところであるが、列国間に用いる場合にはこの文字の意味はすこぶる
曖昧である。しかしながら不得要領であるゆえ、自分の欲することを行なうための口実として用いるにはもっとも重宝なもので、今日までに人道のためと称して文明国のために攻め滅ぼされた野蛮人は何ほどあるやら知れぬ。文明国同志の間においても、人道のためという文句は、あたかもわが種属のためとあからさまに言うべきところをおおい飾るための符号のごとくに用いられているように見受けるから、これもやはり平和のためというのと同じく、一種の定式の文句とみなしてよろしかろう。手紙を
認めるときに拝啓と書いても実際拝むわけではなく、頓首と書いても実際頭を下げる者は一人もないにかかわらず、これらの文句を省いては先方に対して失礼にあたるゆえ、その真実でないことは双方ともに充分に承知しながら、やはりこれらの文句が必要であると同じく、列国はいずれも平和を愛し、人道を重んじ、平和会議を主唱したり、敵を優遇する道を講じたりしているのである。されば平和の敵、人道の敵という言葉はこれを平たく翻訳すれば、わが種族の膨脹発達に邪魔をする奴らということに過ぎぬが、これと戦わざるべからざることはいずれの名称を用いても同じである。
以上述べたごとき次第ゆえ、およそ世の中に人間のあらん限り、戦争はとうてい絶えぬものと覚悟しなければならず、そのためには治にいて乱を忘れぬ心掛けがつねにもっとも大切であるが、新聞や雑誌を読んで見ると往々これに矛盾した議論を見受けることがある。もしも多数の人々がこれらの議論に迷わされるようでは、わが民族発展の上にはなはだおもしろくない結果を生ずるであろうと考えるゆえ、その一二について特にここに論じておきたい。
いかに文明が進んでも人間の幸福は
毫も増すものではない、文明が進めばかえって人間の苦しみが増し不平が多くなる。人間は自然の状態に復することによって初めて真の幸福がえられるのであるなどと説く人もあるが、われらから見ると、これは根本から考えが間違うている。文明は決して人類全体の幸福を増すための
贅沢物ではない、これによらなければ種属の生存ができぬという必要条件である。いかに文明が進んだとして生存競争がなくなるわけはないから、大多数の者は相変わらず苦しんで渡世しなければならぬことは明らかであるが、今日の人間種属は文明か滅亡かのうち、いずれか一を選ぶのほかに途はない。他種属には負けぬだけの速力で文明の方向に進まねばとうてい滅亡をまぬがれぬ。今日世界のありさまを見るに、文明の高い種属は日々膨脹拡大し、文明の低い種族はそのため
漸々圧迫せられて滅亡に傾いている。さらに懸隔のはなはだしい野蛮人種は犬猫同然に文明人種に飼われざる以上は続々死に絶えてしまう。されば文明に進む進まぬは実に種属死活の大問題であって、決してそのため幸福が増すか増さぬかというようなことを論じておられる場合でない。アフリカの山奥や南洋の荒磯に住んでいる土人らの中にも敵を恐れぬ勇気、おのれの種属のために身を捨てる義心にいたっては決してヨーロッパ人に劣らぬ者があるが、機関砲で撃たれ、水雷で攻められてはいかんともしようはない。精神の方面のみがいくら確かであっても、物質的方面でいちじるしく劣るようでは、とうてい今日の生存競争に勝つことは望まれぬ。文明とは知力の進歩を指す語であるが、人類が他の動物に勝ったのも、文明人が野蛮人を征服するのも主として知力であって、知力は人類の生存競争における最有力の武器と見なすべきものゆえ、いささかでも文明の発達をいやしむような傾きがあってはとうてい他人種に対して勝を制することはできぬ。現今の青年の中にはトルストイなどの不健全な思想に感染して、今日の文明を特に物質的文明と名づけ、軽蔑の意味をもってこれを呼び
得々としている者もあるように見受けるが、これははなはだ心得違いのことである。わが国を真の一等国として、大いにわが民族の発展を図ろうとするならば、よろしく生存競争における文明の価値を承知し、最堅牢の戦闘艦でも、最大速力の機関車でも、わが国でできるように、最大の博物館でも、最完全の実験場でも、わが国に備わるようにと心掛けるべきである。そのくらいの意気込みでなければ、たちまち他の諸国との文明の懸隔が増して、とうてい追いつけぬほどにおくれてしまう。
ここに文明と言うたのはもちろん、いわゆる文明紳士の贅沢生活を指すのではない。今日のいわゆる文明社会の生活の状態を見ると実際感服のできぬ点がはなはだ多くあるが、その原因は決して知力の進んだためではなく、各個人が利己心のみをたくましうして団体全部の利害を顧みぬことや、かかることをあえてせしめる社会の制度に不備の点あることなどが、おもなる原因であろう。今日文明社会に欠点の多いのを見て、その罪をただちに文明その物にかぶせるのは議論が全く転倒していると思う。知力の進歩は今日の人類の生存競争には一日もゆるかせにすべからざることゆえ、この意味における文明はどこまでも発達せしめるようにと力をつくし、今日の文明に伴う欠点は別にその原因を研究して、これを防ぐの法を講ずるのほかはない。今の世の中にあって物質的文明をののしって、その進歩を妨げようとするのは、あたかも自己の民族の自殺を主張するのと同じことにあたる。
また世の中には科学万能主義を排斥すると称して、
暗に世人の科学に対する信用を減殺しようとはかる者があるが、これもまた大いに戒むべきことである。一体科学万能主義とはたれが唱える主義であるか、これがすでに疑わしい。いやしくも自身で科学を修める者ならば科学の万能にあらざることくらいを承知せぬ者はないはずであるから、科学万能主義なるものはおそらくこれを排斥すると称する人らが故意に造るか、あるいは誤って想像しているものに過ぎず、これに向うて戦いをいどんでいるのは、あたかもドンキホテが風車に対して剣を振うているのと同様で、むしろ滑稽である。科学以外のことはいかになってもかまわぬ、ただ科学さえ進めばよろしいと考える人があろうとは決して思われぬゆえ、これに対してならば心配はすこしもいらぬ。人生には科学以外にも必要なことがなお数多くあるはむろんであって、いずれの方面にももとより力をつくさねばならぬが、今日の人類の生存競争には純粋および応用の科学の進歩が最も有力なる武器であることは眼前の事実であるゆえ、いかなる口実のもとにでもこれを軽んずる傾向を造ることは決してほむべきことでない。われわれは諸強国の現状を調べ、一歩もかれらに劣らぬのみか、さらにいっそうまさろうとの覚悟をもって科学を進めねばならぬ次第ゆえ、今後はなお数倍も意を用いて一般の人民に科学を重んずる習慣を養成することが必要である。宗教や文学を進歩せしめるのはもとより結構であるが、そのために科学万能説にあきたとか、物質的文明にあきたらぬとかいうごとき文句をならべて、科学と文明とに反抗するような態度を示すことはわが国などにおいては特につつしまねばならぬことであろう。
人間の生活に必要な条件は種々の方面にわたってはなはだ数多くあり、決して科学の発達、物質的文明の進歩のみに限られてないことは改めて言うにおよばぬことで、いわゆる精神的方面の発達ももとより重要である。人間は日夜たえず戦闘にのみ従事しておられるものではない。その間にはむろん相当の娯楽もなければならず、美術文芸のごときも人生にとって欠くべからざるものである。また人間の知力の発達の程度は決して一様でないゆえ、大多数の人々の安心立命のためには宗教もまたはなはだ必要である。これらのものもすべて進歩せしめねばならぬが、そのために科学の発達、物質的文明の進歩をゆるめて安心しておられる理由は少しもない。もとより物質的文明が進んだからというて、そのため人情風俗がよくなるというわけはなく、われら一個の考えによれば今後はますます万民
鼓腹して
些の不平もない理想的黄金世界からは遠ざかりゆくであろうが、これは別に理由のあることで、物質的文明が進んでも進まなくてもおそらく避けることはむずかしかろう。しかしながらもし物質的文明の進歩に遅れたならば、たちまち他国から圧迫せられて非常に苦しい目に遇わねばならぬ。人間の性質上、戦争の絶えるごときことはとうてい望まれず、ただ他の民族等が外からわが民族を圧迫する力と、わが民族が外に向こうて膨脹せんとする力との釣り合いによって、
暫時わずかに平和の姿が保たれるに過ぎぬこと、生存競争場裡に立つ間は科学の発達、物質的文明の進歩は一日もゆるかせにすべからざることが明瞭である以上は、われわれは充分にこの点に力をつくして他の民族を追い越そうとつとめねばならぬ。いささかでもこの点を軽んずるようでは後にいたって悔いても取り返しのつかぬような不利益な境遇におちいるおそれがある。しかるに多数の青年の愛読する文学雑誌には往々前に述べたごとき科学や物質的文明を呪うごとき口調の議論も見えるようであるゆえ、もしこれに迷わされる人がありはせぬかとの老婆心から一言ここに弁じておいたのである。
(明治三十七年三月)