霧の深い夜が毎晩のやうに続いた。黒々と打ち続いた雑木林の繁みの間から流れ出して来るかのやうに、それは月光を浴びて乳色に白みながら、音もなく菜園の上に拡がりわたつた。梨畑が朦朧と煙つた白色の中に薄れて行くと、連なつた葡萄棚の輪郭も徐々に融かされて行き、あたりはただ乳白の一色に塗り込められてしまふ。はるか向うの、群がつた木立の中にちらちらと見えがくれする病舎や病棟のあかりも、ぼんやりと光芒がただれて、大地は真白な雲の底に沈んでゐるやうであつた。
さつきから深い物思ひに耽りながら、首を垂れてのろのろと歩いてゐた野村英吉は、湯気を吸ひ込んだ着物のすそにしつとりと重みを感じ、足下から這ひ上つて来る冷気を素足に覚えると、何気なく立停つて空を仰いで見た。月はぼんやりとかげり、霧は幾万の微粒子となつて重なり合ひながら、かなりの速度でゆらめき流れてゐる。彼は暫くの間棒のやうに突つたつたまま霧粒を眺めてゐた。が、ふと、俺はなんだつて突つたつてゐるんだらうといふ疑問がちらと頭をかすめると、また苛立たしいものが心の中に湧いて来て、急いで足を動かし始めた。けれど二三間も歩かぬうちにまたぴたりと足を停めると、俺はなんだつて急いで歩くのだらう、急ぐ必要は少しもありやしない、と例のやうにぶつぶつと口のうちで
風もなく、霧は少しづつ濃度を加へて、野村の周囲七八間の限界を残しただけで真白であつた。時々その煙つた中から若い男や女の声が聴え、やがて野村の限界に黒い斑点となつて現はれると、今晩はと声をかけて再び乳白色の中に消え去つて行くのだつた。
果樹園の入口まで来ると、野村はふとそこの番小屋に住んでゐる老人を思ひ出し、それではひとつ葡萄でも御馳走にならうとその方へ足を向けて見たが、生憎と老人は留守であつた。彼は
が、棚のすぐ間近くまで来た時、野村はまた若い男女の声を聴いた。どうやら棚の中から出て来るらしいのである。ははあさては紋吉だな、とその声によつて判断すると、彼は引返さうかと瞬間思つたが、なあに構やしないと、そこに立つて相手の出て来るのを待つた。相手は棚の外に立つてゐる野村に気がついたと見えて、話声はぴたりとやみ、ただ足音だけがぼそぼそと土を踏んで近づいて来た。
「やあ、野村さんですか、今晩は。」
と紋吉は唐突な調子で言ふと、べこんと頭を下げるのが月明りで見えた。
「ああ、今晩は。」
と野村も返事をしたが、その時紋吉の背後に六七間も離れて立つてゐた女が、こつそりと霧の中へ隠れるのが見え、ゆらりと動いた着物のすそが妙に鮮かに眼に這入つた。勿論、水江に定つてゐる――。紋吉は気づかぬらしく、小心さうにもぢもぢとしてゐたが、間抜けた調子で、
「散歩ですかい。」
と言つて、馬のやうに足先でこつこつと土をほじつた。
「うむ。紋ちやんもこれでなかなか隅に置けないぞ。」
と野村がちよつとからかひ始めると、
「あかん、あかん、野村さん、ひやかしちや。」
紋吉は大阪弁をつきまぜた言葉を使ふ習慣がある。そしてえへへへと嬉しさうに笑つてゐたが、あらためて水江の顔を眺めて見たくなつたと見えて、くるりとうしろを振り向いたが、とたんに、「ありや。」と叫んで腰をかがめると、注意深く霧の奥をすかし出した。
「どこへやら行きよつた!」
仰天したやうな声を出しながら、紋吉はなほも視線を光らせてゐたが、信ぜられぬといふ風に首をひねつた。
「はははあ、紋ちやん心配するなよ。俺がゐるから羞しがつたのさ。なんしろ良いところを見せるからなあ、どうも。」
すると紋吉は合点がいつたと言ひたげに野村の顔を眺めて、忽ち嬉しげにふふふと口の中で笑ふのであつたが、自分と一緒になつて笑はうともしない野村の憂鬱さうな姿に、またしても不安になつたと見え、不意にべこりと頭を下げると、慌しく歩き出し、低い葡萄棚にごつんと一つ頭をぶちつけて、いた! と叫ぶと、駈けるやうに棚の奥深く消えていつた。
やがてどたどたと地を踏んで行く紋吉の足音が聴えなくなると、野村は不快さうに額に皺を寄せて黙々と棚を潜り出した。こつそりと隠れた水江のゆらめいた着物のすそが浮んで来ると、彼はちえッと舌うちをし、紋吉に向つて言つた自分の言葉の一つ一つに嫌悪を覚えるのであつた。「何たるこつちや。」と彼は秋津の口癖を真似て呟くと、頭に浮き上つて来る水江との醜悪な関係を打ち消した。そして例のやうににやにやと笑ふと、ひとつ風景でも眺めてみようと思つて、棚の中程で腰を跼めて見たりするのだつた。もう秋津に会ひたいといふ気持も消えてしまひ、彼は蹲つたまま何時までもかうしてじつと静止してゐることが出来ればどんなに平和であらうと思ふのである。棚の中は暗く、真黒な土の上に葡萄葉の間を落ちこぼれて来る月光が、まばらに散らばつてゐる。棚の外は真白な霧に包まれ、白々と明るいが木も草も融解されてしまつたかのやうに何にも見えない。見えるものはといへば棚を支へて林立する丸太の柱と、無気味にくねつて立上つてゐる葡萄の幹、その間のところどころに堆く積まれてある藁などで凡てが静寂の中に沈んでゐるのである。
「どうしたの、何、考へ込んでるの。」
不意に耳許で水江のささやくやうな声が聴えた。そして彼女は晴やかな笑ひ声を立てると、
「ね、歩かない?」
となまめいた調子で言つて、腰をかがめて野村の横顔を覗き込むのであつた。
「うむ。」と野村は重い返事をすると、仕方なく立上つて、自分の顔と向き合つて一二尺の眼前に近寄つてゐる女の顔に、「帰つて寝みなさい。」と兄貴のやうな語勢で言つてみた。
「霧、霧、すてきぢやない、棚の中から見ると特別きれいね。」
とたんに野村はぶつかつて来る女の体の重みを胸に感じ、思はずよろけさうになる足をふみしめると、続いて女の冷たくなつた頬と濡れた唇とが折れ重なつて
「よせ!」
理由の判らぬ憤怒であつた。
「おこつてるの? ね、憤つてるの?」
野村は返事をして見る気にもならず、腰をおろしたままじつと煙つた霧を眺めてゐた。水江はその横に坐つて野村の耳のあたりを見つめてゐたが、切なさうに溜息を吐いたり、くねくねと胴をくねらせたり、その度にがさがさと藁の音が立つのであつた。
「わたし、ほんとにこんなところにゐるのが嫌になつたのよ。ね、ゆかない? ああ、ほんとに、嫌、嫌。」
「外へ出ていつたつて、ろくなことないに定つてるさ。」
「でも、ここよか良いと思ふのよ。それに、大阪にわたしの兄さんがゐるんだもの、なんとかなるわよ、きつと、なんとかしてくれると思ふわ。だつてこなひだも、出て来たけりや出て来いつて、手紙が来たんだもの。」
「君は、どうしてそんなに外へばかり出たがつてるんだい、馬鹿馬鹿しいことだよ、そんなのは。」
「あんたはわたしの気持が判らないのよ。」そして彼女はちよつと口ごもつてゐたが、思ひ切つたやうに言ひ出した。「わたしはね、あんたみたいに大きくなつてここへ来たのぢやないの。わたしがここへ来たのは九つの時だつたわ。それから一度も、ほんの一眼も外を見たことがないの。死ぬまでに一度でいいから社会の風にあたりたいの。そでなきあ、なんのために生れたんだか判りやしないわ。」
彼女はうつむいて藁の一本を、幾筋にも引き割いて、びりびりといはせた。野村は、この病院で死んで行つた水江の父親を思ひ出し、九つの年からここで育つたといふ彼女が、朝から晩までこの病院から逃げ出すことばかり考へてゐるのは、実に自然なことと思ふのであつたが、その相手役に自分を選んだのは誠に不仕合せなことに違ひないと思つた。しかし――と彼の心はその時急に自分自身に向つて鋭く内攻し始めた。しかし、俺は一体どうするつもりなのか、この病院に落着いて腰をおろす気なのか、全治の殆ど不可能を知つた今の俺は。だがその覚悟は丸で出来てゐないぢやないか、それではもう一度社会を泳いで見る気なのか、けれどそれの不可能なことは判り切つてゐる。それなら俺は――
「ね、ね、連れてつてよ。」
水江の声にはどこか野村の心を動かす激しさが潜められてゐた。
「それぢや、ひとつ出かけて見るかな。」
野村は硬直した顔を強ひて笑ひながら言つたが、いきなり女の首に腕を巻いて引き寄せると、
「どれ、ちよつと顔をお見せ。」
と言つて仄暗い中を浮き上つてゐる水江の白い、ふつくらと柔かくふくらんだ頬、形の良い鼻、幾分狭い額の鮮かな眉毛、それらの一つ一つ点検してゐたが、こんな女と心中したつてつまらんぢやないか、心中、ふん、しかしちよつとリリックなところがあるぞ、と心の中で呟き、
「まあ、よさう。」
と口に出して言つた。棚の間をこぼれて来る月光が、彼女の顔に蒼い斑点を映して、それは奇怪な
「いや。」
と彼女は小さな声で、だがはつきりと言つた。愚劣だぞ俺は、自分の不恰好な動作を頭の中に描きながらも、腕の中で逃げ出さうともがく女の肉体感に衝動は強まつた。が、その時ちらりと紋吉の姿が頭をかすめ、霧の中に消え去つた水江にびつくりして叫んだ「ありや。」といふ声が心内に聴えると、なんとなくばかばかしくなつて来て女を放した。
「あんたは、わたしをばかにしてるのよ。」
と水江は頬を脹らませながら言つた。野村はもう返事をして見る気にもならず、どら帰らうと呟いて立上つた。すると水江は不意に激しく
気づかぬうちに霧はもうかなり薄まり、桑畑や菜園が茫とした中に遠くまで輪郭を現はし始めてゐた。棚からぶら下つた葡萄の房々が頭にころころとあたるのにも彼は気づかず、じつとその風景に眺めいつた。心の中にはかつて一度も感じたことのないほどの、深い孤独感がいつぱいだつた。それは身を切るやうな、骨の髄まで冷たく凍るやうな孤独なのである。俺は一体どうしたらいいのだらう、やがて盲目になり、生きながら腐敗して行くこの肉体を抱いて、俺はまだ生き続けて行くつもりなのだらうか。彼は発病以来の日々を振り返りながら、動物小屋の方へ足を向けた。なんとなく秋津大助に会ひたくてならないのであつた。水江のことなどもう彼は完全に忘れ、今もなほ頭の中に印されてゐる、あの日のことを思ひ浮べるのであつた。あれ以来彼は、自分の顔にぢぢッと焼きつけられた烙印を感じた。それは生涯消えることのない烙印であつた。…………