青春の天刑病者達

北條民雄




霧の夜



 黒ぐろとうちつづいた雑木林の間から流れ出る夜霧が、月光を浴びて乳色に白みながら見るまに濃度を加へて視野遠く広がつた農園の上を音もなく這ひ寄つて来る。梨畑が朦朧と煙つた白色の中に薄れてしまひ、つらなつた葡萄棚の輪廓が徐々に融かされてゆくと、はるか向うの薄暗く木立の群がつたあたりにちらちらと見えがくれする病舎や病棟のもぼんやりと光芒がただれて、眼のさき六七間の眼界を残したまま地上はただ乳白の一色に塗り潰されてしまふ。やがて湿気を吸ひ込んだ着物のすそにしつとりとおもみを感じ始めると、のろのろと歩いてゐる素足にひやりと冷気を覚え、私は立停つて利根子の方にちらりと視線をやつた。彼女は二三歩ゆきすぎてから足を停めたが、さつきから頬をふくらませておこり続けてゐ、立停つても私の方を見ようともせず仄白くつつ立つたまま体を堅くしてゐる。声をかけて見ようと思つた気持もそれに圧さへられて、私は黙々とまた歩き出した。一体どうしてみづ江と私とが結婚することをこんなに強く利根子が望んでゐるのか、私にはまことに不可解であつた。みづ江に頼まれたのであらうかと一応は考へて見たが、みづ江の日頃の態度を考へて見ると、決してさうでないと思はれる。それでは私がみづ江を真実ほんとの心から愛してゐるものと思ひ込んでゐるのであらうか。或はまた、私とみづ江とがその一歩を超えた関係をもつてゐるとでも思つてゐるのであらうか。
 むつつりと口を噤んだまま、私より五六歩あとになつて利根子は歩き出したが、不意に
「兄さん!」と鋭く呼びかけた。が私は足を停める気にもならず、霧を眺めながら歩いてゐると、彼女はばたばたと跫音を立てて私に追ひつき、
「あなたはあの人がどうなつても構はない、つて気持なの、他人の愛情を踏み躙るつてことが罪悪だとはお思ひにならないの。」とけしきばんだ口調である。それではやつぱり利根子は、私がみづ江と深い関係におちてゐるものと思ひ込んでゐるのか、しかしそれは誤りといふものだ。
「返事をなさる気もあなたにはないの。」
 彼女はもう眼を光らせながらつめ寄って来た[#「寄って来た」はママ]
「お前のやうにさう昂奮ばかりしてゐてはどうにも困つてしまふぢやないか。」といひながら私は、堅く結んだ義妹の唇を眺めた。そしてこの療養所へ這入つてからの二ヶ年間の異常な生活にもあまり影響されず、昔ながらの一本気な素朴な激しさでものごとにうちかかつて行く彼女の性質に、私などの持ち得ない強いものを感じさせられた。がそれと同時に、素朴な一本気の故に彼女は意外なところで脆く敗れてしまひさうな危なさが私には感ぜられてならない。
「兄さんはわたしをからかつてゐるの? わたしがどんな気持ちでゐるか少しは判つてくれてもいいじゃないの[#「いいじゃないの」はママ]!」
「そりやね利根、判る部分だけは判ってゐる[#「判ってゐる」はママ]つもりだよ。しかし兄さんの身になつて見ると、お前のやうに真直ぐにばかりは歩けないんだよ。横の方にも道はあるし――。」
「横にも?」
「ああ横にもだよ。それにこの道を歩かうと思ひつめてもなかなか歩けない場合が多いんだ。」
「どうして歩けないの? 邪魔になるものがあればどんどん踏み超えて行けばいいと思ふわ。覚悟さへはつきり定めたら、あとは方法だけが残つてゐるのよ。」
「そりやまあさういふ訳だが、しかし人間にはプライドといふものも大切だからね。
「プライド? あたしにはなんのことだか判らないわ。みづ江さんと結婚するつてことが兄さんのプライドを疵つけるとでもおつしやるの。」
 彼女は幾分軽蔑するやうな調子でいふと、貌を上げて私を見た。仄白く浮き出た、豊な利根子の肩を眺めながら、私は今自分がとうてい女性には理解に困難であらう問題に触れたのを意識し、堅く閉された扉にぶつかつた罪人のやうな絶望感が心の中を通り過ぎるのを覚えた。するとみづ江の白い肉体が浮かんで消え、私は不意に今の自分の気持を利根子に全部話してしまひたい欲求にかられ出した。が、
「ばかだなあお前は。」といつてしまふと、もう語る気持もなくなり、またこの気持などいくら彼女の前に展げて見ても判りつこないに定つてゐるとも思はれて止した。がそのかはりに、
「しかし利根、お前はどうして僕とみづ江さんが恋愛関係になつてゐると信じ込んでゐるんだい? あのひとにはちやんと定つた人があるんだぜ。お前だつてそれは知つてゐる筈だが。」といつて見た。すると彼女はぴたりと立停つて、殆ど叫ぶやうな声でいつた。
「どうしてさう兄さんは曖昧なことばかりいふの、わたしをだまさうとしてゐるの、にくらしいつたらありやしないわ。だからわたし男は嫌ひよ。ね、はつきりいつてちやうだい。定つた人つて紋吉さんでせう。無論わたしだつて知つてるわよ。兄さんはその紋吉さんにかかはつてゐるやうな人だつたの?」
「別段かかはつてゐる訳じやないさ。しかしみづ江さんを僕にられると紋ちやん首を吊つてしまふに定つてるよ。」
「そんなの問題ぢやないわ。」
「問題さ、人間が一匹死ぬんだからな。それに僕はなにもどうしてもみづ江さんでなくちやならんといふ理由はないし、そりやみづ江さんは好いひとさ、しかし他にも……。」
「他にも愛してゐる人があるつていふの。」
「ある訳ぢやないが出来んとはいひ切れないよ。心理といふものは絶えず変転するものだ。」
 彼女は急に黙り込んでしまつた。ひどく腹を立ててゐるらしいのである。と、どうしたのか不意に泣声が聞え出したので、
「どうしたい?」と不思議になつて訊くと、彼女は噛みつきでもするやうな声で、兄さんのばか! と叫んで一層激しく泣声を高め出した。どういふ変化が彼女の心を襲つたのか丸切り判らない。何にしても今夜の彼女は私にはどうも変に思はれてならなかつた。いつたい彼女は何時もむつつりと黙り込んでゐるたちで、何事かを深く考へ続けてゐるやうにまなざしは自分の内部へ向つてさされてゐることが多いのである。もつとも、一度び考へが定まると男のやうに猪突するので、私も今まで何度となく吃驚させられて来たものであるが、しかし今夜の彼女の態度は、なんとなく何時もと違つてゐるやうに思はれてならぬ。するとふと私の心内に秋津大助の姿が浮んで来た。私は利根子がひそかに彼を愛してゐるのを知つてゐる。彼は大学の法科を中途で発病し退学してここへ這入つて来た男である。しかし未来の法学士となるべきだつた男とは思へぬ、詩人肌で、私は彼を大変尊敬してゐる。ではその秋津と利根子との間に何かいざこざが起つたので利根子の心理が何時もと異つた風に廻転してゐるのであらうか。といつてそれが何も私とみづ江とを一緒にしようとする努力になつて表はれる理由とはならぬ。私は結局判らなかつた。
「あなたは、兄さんは、わたしの気持がちつとも判つてくれないのね! 女の真剣な気持が少しも判らないのよ。」と彼女は声を顛はせながらいつて切ると、勝手になさい! と投げつけてばたばたともと来た道を引返し始めた。帰るのかい、と呼んで見たが返事をしようともしなかつた。
「利根!」と私は強く呼び、乳白色の中にはや半ば消えかかつた彼女の姿がくるりと飜るのを見ると、歩み寄りながら、お待ち、と重ねた。
「俺も帰らう――。」
 しかし彼女は、
「勝手になさい、しらないわよ。あんたみたいに得手勝手なひとつてありやあしない。自分の病気のことだつて少しは考へたらよくはなくつて。あなたは何時までも今のままでゐられると思つてるの、あと五年もしないうちに盲目めくらになるのは判つてるじやないの。盲目になつてもあなたは生きてゐられるの? 今やつてゐる仕事だつて出来はしないのよ。云はなくたつて判つてる筈だわ。今の仕事を捨てて生きる道があなたにあるの。あなたの苦しんでゐる姿をそのままわたしに見てゐられて? もうわたしはしらない。好きなことなさい?」
 激しく突つかかるやうに叫んで彼女はまた足を返すと、もう霧の中深く駈け去つてしまつた。まだゆらいでゐる霧の奥を一度すかして見てから、私はぶらぶらと果樹園の中へ這入つて行つた。
 恋か、
 結婚か、
 このレプロシイが――と私は呟いた。


 私はやつと彼女の気持が判つたやうな気がした。つまり彼女は義兄を幸福にするにはみづ江と結婚させるより他にないと思ひ込んでゐるのであらう。突然泣き出したりしたのは私の態度に冷たい義理のわかれめを感じてのことであらう。私は、義理などいふものがまだ力をもつてゐるのに気付くと何か新しい発見でもしたやうな気がした、けれど彼女の身になつて見れば、血肉を分けた親兄弟に別れてかうした療養所で送る日々の孤独のなかでは私一人が身近な人間であり、頼り得る者であるのであらう、そこにふと見る義理の気持は堪へられないものであつたに違ひない。もとより私にそのやうな気持などあらう筈はないと自分でも考へてゐるが、しかし日頃の自分の態度を思ひ出すと、彼女が私を冷たいものに思ふのも道理である。けれど私に、今の私にああした態度以外にどのやうな態度があるか、私とても彼女を愛してゐるのは無論のことだが、しかし私にはその愛情をどういふ形で表現したら良いのか判らない。
 だがよく考へて見ると私はやはり冷たい性質に出来上つてしまつてゐるのだらう。利根子には、私のやうな義兄があつたとはいへ、やはり母の肌を知つてゐるだけ愛情に対する豊かなものを持つてゐる。もつとも私に対する反動のやうな母親の偏愛を受けてゐるだけにやはり一種病的な愛情に対する感覚を育てられてゐるに違ひない。愛情を知らぬ者も不幸であらうが、また偏愛のみを知ることも不幸である。いやむしろ、この私等の世界のやうな冷酷な現実の中に投げ込まれた者にとつては、豊かな愛情を受けた者ほど不幸なやうに思はれる。愛情らしい愛情を誰からも受けることのなかつた私は、それだけまた愛情に餓ゑてゐることも事実であるけれど、しかし孤独に立つて冷然と自分の理性をとぎ澄ませてゐることも出来るのである。それが利根子の場合になつて見ると、譬へば自分の愛する者から裏切られたりすると私などには想像も出来ぬ強烈な絶望を覚えるのであらう。
 しかし、今夜の場合一体私は利根子に対してどういふ態度をとつたら良いといふのか、彼女のいふやうに簡単にみづ江と結婚することが可能であるか? 私は癩者なのだ。癩患者が癩患者と癩療養所で結婚する――今のうちこそ私もみづ江も軽症で、頭髪も眉毛も変りはない、何処にも病者らしいところはなく街を歩いても誰も怪しんだりしない程度であるが、何年か、恐らくは七八年も過ぎて見るが良い、眉毛はすつかり抜けてしまひ、頭はまんだら模様に禿げわたつてところどころに毛虫が五六匹も這ひまはつてゐるやうな恰好になるのだ。丸切り猩猩と猩猩とが愛し合つてゐるやうな有様、これがお互に堪へられるものかどうか、この一事を考へるだけでもたまらない気持になる。それなら生涯独りで暮す覚悟があるかといふと、私はそれにも自信がない、五日に一度は襲ひかかつて来るあのヒポコンデリアックな憂鬱と苛立たしさが何処から来るか、いはずとも判り切つたことである。私はどちらへも行くことが出来ない、そして自分を決定するに一番確かなところは死の世界である。だがそこへ行く気力もないのだ。私はふと今自分の住んでゐる部屋を思ひ浮べた。あの薄暗い狂病棟の監禁室は、空気抜きの小さな窓が一つあるきりで――その窓も鉄棒が入れてあり、おまけに岩乗な金網が張り亙してある――太陽の光線もめつたにささない八方塞がりだ。その監禁室と同じやうに、私の気持も八方塞りである。
 何時の間にか、私はもう水蜜桃畑の中へ這入り込んでゐた。霧に湿つた青葉がすうつと貌を撫でたので、私の心は飜つて立停ると、手を伸ばして濡れた葉を一枚ちぎつた。自分の病気のことや監禁室のことや、それからあの狂病棟に充満してゐる狂的な雰囲気などが浮んで来ると、私はもう歩くのが嫌になつた。といつて腰を下すところもなく、ちぎつた葉を破き捨てると、暫く立停つてじつとしてゐた。何時まででもかうしてじつとしてゐることが出来たら、一切の進行も変化もなくなり凡てが静止の状態でゐることが出来たらこんな良いことはないのだが、と思ひながら――。すると利根子がなんとなく秋津大助のところへ行つてゐるやうな気がし出したのでまた歩き出した。私は利根子が秋津を愛してゐるのを知つてゐるが、秋津がどういふ苦悩を内部に潜めてゐるかもまた察せられるので、私はひどく不安である。秋津のやうな男を愛したことは彼女にとつて決して幸福な結果を産まない、これは私には判り過ぎるほど判つてゐるが、しかし利根子のやうな女が秋津のやうな外面単純澄明な態度で人に接する男を愛するやうになつたのは、けだし自然なことと思はれる。
 水蜜桃の林の次は梨畑、その先は葡萄畑になつて居り、秋津のところへ行くには棚の下を潜つた一條の道を真直ぐに突き抜けて行くのが近道である。私は幾分か足を早めて歩いた。素肌の胸に流れ込んで来る霧に、寒気さむけを覚えて、襟をかき合はせたり、額に垂れ下つて来る頭髪をかき上げたりしながら、利根子がもう私などの知らぬうちに秋津に全身をぶちつけて行つてゐるやうな気がしてならなかつた。勿論二人の関係に対してどうしようといふ考へも私にはないし、それならそれで良いと思ふが、しかし利根子の愛を秋津がどういふ態度で受けてゐるのか非常に知りたかつた。私が今ぶつかつてゐるやうな問題を彼はどうさばいて行くか、これは大変興味あることである。といつて二人の関係がどの程度まで進んでゐるのか私は少しも知らない。それでゐて、今夜はどういふものか利根子が秋津の前に身を横たへてしまつてゐるやうに思はれてならない。
 が、葡萄棚の入口まで来た時不意に棚の中から人の声が聴えて来たので私は立停つた。楽し気に大声を出してゐるのは紋吉に相違なかつた。人の好い関西訛りの特長ですぐに判るのだ。明るい女の声はみづ江であらう。間もなく二人の姿が現はれて来ると、紋吉はすぐに私に気付いたのか、つかつかと近寄て来た。
「今晩は。」
 私は声を出す代りに微笑して見せた。そしてちらりと紋吉の背後を覗いて見ると、足音を忍ばせてみづ江が霧の中に隠れるところであつた。ひらりと白い空間を扇いだ彼女の裾が強く私の眼にしみついた。紋吉は気付かぬらしく、
「散歩かい。」と尋ねた私の貌を眺めながら例のやうに、へつへつへつ……と笑つて、
「さうです。」といつた。
「あんまり好いところを見せると、紋ちやん、おごらせるぜ。」
 彼は一そう声を高くして笑ひ出すと、てれくささうに額をこすつて、
「弟がお世話になつてすみませんです。」と切口上でいつたので私は思はず吹き出した。
 弟といふのは監禁室で私が世話してゐる白痴の多門のことである。紋吉は今までも私に会ふ度に弟の礼をいふ習慣があつた。私はちらと多門の間の抜けた貌を思ひ浮べ、今夜もまた彼は病棟の裏の孟宗藪の中に立つて呆然と碧白い空間を眺めてゐることであらう。それにしてもみづ江はどうして姿を隠したりしたのだらうか、多分は、紋吉と一緒に歩いてゐるのを私に見られたくなかつたからであらう。ひらりと空間にひらめいた彼女の着物の裾が再び瞼の裏に浮び上つて来て、私はちよつと紋吉の様子を窺つてから霧の中を探るやうにすかして見た。しかし彼女の姿は見えなかつた。だが何にしても悪いところで出会つてしまつたものだ。勿論紋吉には私とみづ江とがどういふ風であるかなど皆目知つてゐる筈もないが、とにかく今の二人にとつて誰かに出会ふということはまことに不快なことであつたに違ひない。けれどこの狭い所内で誰にも会はずに歩き廻ることなど不可能であるし、運が悪ければ患者監督の眼に、それもそのどたん場を見つけられることも決して珍らしいことではない。
 何にしても私は二人の邪魔をする気は毛頭ない、
「紋ちやん夜霧は体に毒だぜ、早く帰つて寝んだ方が良いよ。」と幾らか冗談気を混ぜながらいつて歩き出さうとすると、彼はまた高声で笑ひ出し、
「南さん、ひやかしたらあかん。」と四国弁を使つて、「利根子さんと喧嘩しよつたな。」といつた。それでは利根子の声が二人に聴えたのであらうか、聴えたとすればなかなか大変なことになる。すると彼はさつき葡萄棚の向うで会つたのだと説明して、
「なんやらひどく利根さん怒つとつた。」
 その時彼はみづ江がゐないのに気付いたのか、急にそはそはし始め、背後を振り返つて見たりしたが、
「ありやあ!」と飛び上るやうな声を出してぐると全身を一廻転させ、霧の奥を頭を低めて覗いてゐたが、「あいつ、どこへやら行きよつた。」と太い声で独語ちて、私の貌を打眺めると、ちよつと間、もぢもぢと体を動かせてゐたが不意にべこんと頭を下げると一目散に棚の中へ駈け込んだ。とたんに棚に頭をごつんとぶちつけ、た! と仰天したやうな悲鳴を発して頭を抱へると、胴を丸くし首をちぢめて一散に走り出した。


 私はもう秋津の許を訪ねる気もなくなつてしまつた。長い間霧に濡れてゐたため全身は冷たくなり、その上ひどく足が疲れて来たので、部屋へ帰つて休みたくなつた。ふとみづ江の艶の良い肌が浮んで来たが、私は深い興味も起らず、それを打消すと紋吉の後を追つて棚の下へ這入つて行つた。隧道のやうに中は暗かつたが、棚の上を這つた葡萄葉の間を落ちて来る月光がまばらに地面にこぼれてゐた。腰を低めながら向うをすかして見ると、棚の外はけむつたやうに白んで明るかった[#「明るかった」はママ]。風もなく、霧はじつと澱んでうごかないのである。
 利根子、みづ江、秋津、紋吉、これ等の若い患者達の姿が浮んで来ると、私はいひ様のない不安を覚える。私は私自身の歪められた青春を思ひ、彼等もまた歪め、傷つけられてゐるのはいふまでもない。紋吉のやうな単純無知な者といへども、またみづ江のやうな水面に浮かんだ草の葉のやうに絶えずゆらぎ続けてゐる性格の持ち主も、みな歪められてゐるのである。彼等はみな等しく癩者であり、人生の暗黒面のみを見るべく運命づけられてゐる。しかもみづ江や紋吉はこの暗黒に慣れ、自分の住んでゐる世界が地上いづこにもない恐るべき世界であるといふことすら気付いてはゐない。これはかへつて彼等にとつて幸福であると一応はいへるが、しかし意識するとしないにかかはらずこの現実に身を置いてゐるといふ事実は決して否定出来ないのだ。よし無意識のうちにしろ、この現実は絶えず彼等に向つて襲ひかかつて来る、そしてこの暗黒さが彼等の意識に映らざるを得なかつた時、彼等はどうなるか、恐らくは彼等自身の内部に潜んでゐる若い血が彼等を殺すに至るであらう、私はそれを考へると不安でならぬのだ。秋津大助の苦悩も利根子の苦しみも、そして私自身の悩みもみなこの若い血がさせる業に相違はないのである。
 葡萄畑を抜け出るとすぐその先に火葬場があつた。火葬場の横には茶碗や湯呑などと一緒に骨壺を焼く窯が建つてゐる。私は死んで行つた幾人もの知人達を思ひ浮べ、更にこの小さな火葬場の内で焼かれた二千名に近い同病者達を思ひ浮べた。ドストイエフスキーはシベリヤの監獄を死の家と呼んだが、今私の住んでゐる世界もまた死の家でなくてなんであらう――。社会生活からはみ出されて、このなかへ追はれて来る患者達の姿が、やがて病棟の出口からはや死体となつて運び出され、火葬場に向つて押し寄せて来る有様が浮き上つて来る。
 死の家、監獄が死の家ならここは人生の牢獄である。暗い気持になりながら私は焼場の横を通つて雑木林の中へ這入つて行つた。私の病棟の燈がもうすぐそこに見えた。
「待つて!」
 女の声が不意に青葉の間から聴えた。私は立停つて声の方を眺めた。みづ江である。ばさばさと枝々をかき分けて、彼女は私と並んで歩き出した。
「隠れてゐたの。」
 私の貌を見上げて、くすりと笑つた。彼女の貌を見、視線が合つたが私は微笑して見る気も起らなかつた。うるさいつたらありやしない、と彼女は独語ちて、やや捨てばち気味につと私の近くへ寄つて来て肩をすり合はせた。紋吉のことをいつてゐるのであらう。が、黙り込んでゐる私を見ると、彼女は私から離れて道端に出て、ぴりつと音を立てて栗の葉を破つた。撓んだ枝がはね返つてさわさわと揺れると、露に濡れた葉柄が白く見えた。
「もう晩いよ、帰つて寝みなさい。」
 兄のやうな調子でいふと、
「もつと歩かない?」と彼女は私の言葉を黙殺してまた寄つて来ると、ぷんと頭髪の香を私の貌になげつけ、少女のやうに栗の葉を弄つてゐたが、疲れ切つたといふ風に全身の力を抜いてあああと溜息を吐いて見せた。
「紋ちやんに怒られるぜ。」
 葡萄棚にごつんと頭をぶつつけた恰好を思ひ出して幾分をかしさが突き出て来たが、真面目な様子でいつた。
「あんな人、怒つたつて構やしないわ。お父さんが悪いのよ、お父さんが勝手に定めたつて、わたしはわたしよ。わたしの思つた通りやりたいわ。わたし、誰にもしばられたくない――。」
 紋吉といふ言葉が彼女の心を刺したのであらう、昂奮した声である。忘れてゐた彼女の父親の姿が頭の中を流れ去ると、また私の心は癩の重さを感じ始めた。その父親もやはり同病者であつた。私がここへ来てから一ヶ年ほど立つてから死んだが、彼は幾年も重病室で呻きながら死を待つてゐたといふ。紋吉の父親は現に私の今附添してゐる病室の隣室で気が狂つてゐる。みづ江と紋吉が許嫁いひなづけであるといふのは、この二人の父親達がまだ軽症で東京に生活してゐた頃に定められたのであつた。みづ江の母親は病者でなく、父が療養所へ這入つてからも彼女は発病するまで母と共にゐたといふ。
『どうせかつたい同志の子供だから――。』大方かういふ気持で結びつけたのであらう。みづ江の母親はみづ江が入所してから半年も過ぎぬうち死んだ。――癩――癩、私の周囲は癩ばかりである。若々しい血の流れが溢れるばかり脈搏つてゐるみづ江も、やがては毒血に生きながらの屍臭を放つであらう。
「帰らう。くたびれた。」
 私は実際疲れてゐたので一時も早く部屋へ帰りたかつた。彼女は悩まし気に上体をくねらせてゐたが黙つて歩き出した。怒つたかな、と瞬間私は彼女の貌を覗いて見たが、別にさういふ表情も見えなかつた。
「利根さんどうしてるかしら?」
 暫く無言の後、私にいひかけるでもなく独語のやうにいつた。
「さつき会つたのかい?」
「会つたわ、けんか、したの?」
「怒つてた?」
「さうよ。」
 するとまた秋津大助の貌が浮んで来たので、「君、秋津のとこへ遊びに行つたことある?」と訊いて見た。
「あるわ、利根さんと一緒に行つたのよ。あの人めつたに外へ出ないのね。あんな小屋の中ばかりにゐて胸わるくしないかしら。でも好い人ね。」
「どんな風に。」
「どんなつて、さうね、わたし利根さんが羨ましくなつちやつた……。」
 そしてくつくつと笑つてゐたが、「利根さんにいはないでね。おこられるわ。」と足した。私はみづ江の黒い頭を眺めてゐたが、ふとこの女の心はもう秋津の方へ傾きかけてゐるのではあるまいかと思はれ、利根子がさつきあんなにみづ江と結婚しろと迫つて来た理由が意外にこんなところに潜んでゐるのかも知れぬと思はれて来た。秋津がこんな女に屈しようとは思はれないが、またどうかすると却つてたあいなく負けてしまふかも知れない。私はなほも彼女の頭を眺めながら、この女には私の以前にも、やはり私と同じやうに愛してゐるでもなく愛してゐないでもなく、それでゐて恋人同志のやうな関係をもつてゐた男があつたのを思ひ出し、この頭は一体何処までゆらいで行くつもりであらうと考へた。それにしてもこれはなんといふ根のない女であらう、私は彼女の頭がなんとなく動物の頭のやうに見え出し、この女が私を惹きつけるのは実にこの動物性であつたのに気付いた。すると、けもののやうにむくむくと闇の中にうごめく白い肉体が眼前にちらつき出した。また始まつたぞ、と私は意識すると、何時ものやうに全身の骨をゆるめるやうに体の力を抜き、さざめき出した情慾の波を鎮めにかかつた。女のにほひがむせるやうに鼻につき出すと、私は栗の葉をちぎつて彼女の頭の上に置いた。葉つぱは頭の上で彼女の歩調と共に進みながら月光を浴びて青黝かつた。やがて栗の葉に気がつくと、私を睨みながら腕を上げて払ひ落した。
「あの人のところへ行かない?」
「秋津のところか。」
「ええ。」
「もう寝てるに定つてゐるよ。」
「さうかしら? もう幾時頃なの。」
「十時過ぎだらう。」
 私の病棟がすぐ眼の前で電燈を光らせてゐた。





底本:「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社
   1980(昭和55)年10月20日初版
初出:「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社
   1980(昭和55)年10月20日初版
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:富田晶子
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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