編輯室より(一九一四年一月号)

伊藤野枝




□「武者小路むしゃのこうじ氏に」 十二月号白樺の誌上で私が「世間知らず」を軽蔑してゐるさうだとのことをお書きになつたのを拝見して私は本当に意外に存じました。本当に心外に思ひます。
 私は他人の作品に対して無暗むやみとさう軽蔑したり悪く云つたりしたことは御座いません。何時でも私は自分で創作するときの気持や何かに思ひ合はせては他人のものを読んだり批評したりする時にはどんな小さなつまらないものに対しても相当の敬意を払ふことは忘れません。殊に私はもうずつと以前からあなたのお書きになるものは可なり深い注意と尊敬をもつて忠実に拝見して居ります。だのに私が「世間知らず」を軽蔑したなんと云はれることは本当に意外で御座います。
 私はC子氏に対してはおっしやる通りに或る侮蔑を持つて居ります。然しそれは、あなたには些の関係もないC子氏で御座います。私は「世間知らず」後のC子氏は存じません。「世間知らず」以前のC子氏に対しては到底多少の侮蔑の念を持たずにはゐられません。私にとつてはそのC子氏とくらべられることは本当に不快で御座いました。ですからその通りのことを書きました。然し今考へて見ますと私はその発表するときに僅かな不注意の為めにあなたに抗議を申込まれるやうなことを書きました。「動揺」の中に「白樺のM氏と可なり青鞜社でも迷惑を感じたC子氏との恋にくらべられたのは不快な気がした云々うんぬん」と云ふのがそれです。あれを書きますときの私はかなり激してゐました。そして急ぎました。ですからさういふ局部々々に深い注意を払つてゐる余裕がなかつたので御座います。しかし私がこうかきましてもあなたはそれが卑怯な言ひのがれか浅薄な弁解としかお思ひにならないでせう。でも事実はさうなので御座いますから――私の軽蔑するC子氏はあなたにも「世間知らず」にも関係がないことを御承知置き下さいまし。それからまたあなたは私とTのことについてお書き下さいましたが何のことだか私はその解釈に苦しみます。あなたは私共の生活についてあゝ云ふことをはばからず仰しやれるほどよく私共を御存じですか、私共の生活を御存知でゐらつしやいますか、私共の生活を知るものは私共二人きりで御座ひます。私はあゝ云ふことを書かれるのが一番不快です。それは丁度あなたが「世間知らず」を軽蔑してゐるとお聞きになつたときの不快さと同じだと私は存じます。屹度きっとあなたは私に対して、「世間知らず」に表はれた事柄を本当に理解することも出来ないで軽蔑するなんて失敬だと云ふやうなおつもりだらうと存じます。だのに本当に解りもしない私共のことについて彼是仰しやればつまりはいたちごつこになつてしまふでは御座いませんか。
 それから「女らしくいゝ加減な処で考へを止めて置くから他人の心持ちに同感することが出来ないのだ」と云ふやうなこともあなたの感違ひから出てゐるのです。あなたは第一女と云ふものを軽蔑してかゝつてゐらつしやいますから癪にさわるのです。あなたのゐるまはりにはどんな女の方達がゐらつしやるか存じませんが屹度狭量な何の考へもない浅薄な方達ばかりだと見えます。そう云ふ方達を標準にして何か仰云おっしゃるから駄目なのです。いゝ加減な処で考へを止めて置くと云ふやうなことは自分に対して忠実なものには出来ません。あなたの標準にとつてらつしやるやうな女には第一自分の人格なんかもつてゐるんでもないしまた、物を考へることすら出来ないのです。考へることが出来る程ならいゝ加減な処で止めておくことなんか出来る筈がありません。大抵の人はあなたの所謂いわゆるいゝ加減の処から先に考へを進めることが不可能なのです、さう云ふ女たちの前も後もない浅薄な狭量な妬みと云ふ程の意味から無暗と人の事をけなしつけるそれと同一のものと見られてはたまりません。
 勿論私はあなたに軽蔑されやうと尊敬されやうとそんなことには何の頓着も御座いません。私は私だけの運命を信じて進みます。
「無用な処に引つかゝつて云はなくてもいゝところにC子に対する女らしい侮蔑を見せたがるので不快を感じた」と云ふお言葉では一層なんだかあなたの方が狭い御了見だと云ひたくなります。決して云はなくともいゝことではないのです。私は自分の感じたことを卒直に書きました。無用な処に引つかゝつた訳ではありません。あなたこそ本当に無用な処に引つかゝつてつまらない侮蔑を見せたがつてゐらつしやるでは御座ひませんか。


□野上彌生氏の「指輪」(中央公論)久しぶりの御作の故か十一月の創作中で一番期待したものだつた。
 読んでしまつて後、づ女らしい情緒が至る処に少しの嫌味もなくなだらかに出て素直な処が気持よく感ぜられた。物の観方考へかた細かな筆致、描き出された情景、すべての点において、優さしい女らしさを失はない作だと思つた。その点に於て私は婦人作家のうちでこの位美しい純な作をものする人はあるまいと思ふ。
 読売新聞で中村孤月こげつ氏の、この作に対する評をよんで私は本当に不快に思つた。この評ばかりでなく一体中村氏は、馬鹿に鼻つ張りの荒い批評家だ。鼻つ張りの強い人にかぎつて内容は何にもないものだ。中村氏の乱暴きはまる批評を読んで不快な感をもつ人は恐らく私一人ではあるまいと思ふ。それだけ氏の批評は権威を失つてゐる訳だ。あの無反省な傍若無人な態度は氏自身を辱めるものであると云ふことにすらお気がつかないのかと思ふと「氏の為めに悲しまざるを得ない」と云ふやうなことも云つて見たくなる。
 それを別として、この野上氏の「指輪」など評する資格は中村氏には与へられてゐないものだと私は思ふ。何故なら中村氏は女を無視してゐるのだ。女の生活を無視してゐる。無視してゐると云ふことは同氏には女の生活が解らないのだ。女の生活を御存知ないのだ。同氏は「女と云ふものはいらないものだ。何故男が子供を生むことが出来ないのだらう…………女と云ふものはあんな下だらない仕事をする為めに生れて来たるのだ……」と云ふやうな乱暴なことを云つてゐる。また少数の文芸などに趣味をもつ女はいくらか男に近い思想なり趣味なりがあるので侮蔑しないと云つたやうな意味のことを云つてゐる、私はこんな途方もないことを云ふ人が比較的我々に近い処にゐると云ふことが不思議なやうな気がして馬鹿々々しくなつてしまつた。
 こんな人にどうしてこの作なんかゞ解らう? 私はこんな僭越な人はないとつく/″\思つた。氏には男子の書いたものゝまねをした、我々から見て何の価値も興味もないつまらないものがお気に召すのだらう。深い気持を味ふことは出来ないとは何の意味か? 平坦に書きならしてはあるが我々にはあの作に表はれた女の日常生活の中からいろんな興味深いものを取り出すことが出来る。
 批評家は、寛く深い万遍なき理解を有する人でなくてはならぬ筈である。中村氏の如きは狭いく自己の或る心持を標準として批評する人である。かう云ふ小さな愚かな批評家は遠慮なく葬つてしかるべきである。
[『青鞜』第四巻第一号、一九一四年一月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第四巻第一号」
   1914(大正3)年1月号
初出:「青鞜 第四巻第一号」
   1914(大正3)年1月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:雪森
2016年9月9日作成
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