彼は奇人とよばれることを
そもそも、学問を飯の種にするということは、本来誤った考えでありますけれど、学者だとて人間である以上食わずに生きて居ることは出来ません。ですから、大学を出て生理学を専攻する人は、二三年の後、それぞれ地位を求めて職に就くのが普通であります。ところが、わが鯉坂君は、真に学問を楽しむだけでありまして、大学を出てから生理学教室に入り、
学問をするものは妻子があってはならない、というのが鯉坂君の持論です。これまで友人たちが何故かといってきいても、彼は決してその理由を説明しませんでした。総じて無妻主義というものは、思想上から起るのは稀であって、多くは生理的の欠陥とか、経済上の都合とかで起るものでありますから、
学問をするものは、いう迄もなく頭脳が明晰でなくてはなりません。ところが鯉坂君の頭脳は、明晰という言葉で形容するには、あまりにも複雑して居るように思われます。
ところが、鯉坂君が、跡から跡から思いついて着手した研究は、未完成に終るものが少くありませんでした。これが即ち、彼の頭の複雑な点なので、彼にとっては頗る気の毒な点でもあります。
抽象的な説明だけでは、読者も十分おわかりにならないであろうから、これから一つ二つ例をあげて申しましょう。
先ず鯉坂君が如何に懐疑的であるかを例を以て説明しますならば、彼は、外国で行われた実験報告は、それがどんなすぐれた学者の報告であっても、決してそのまま信じないのであります。学者である以上、その態度は誠に立派なもので、
次に鯉坂君がどんな研究題目を選ぶかを例をもって説明しますならば、彼は
一たい赤血球の一粒一粒の目方をはかって、それが学問上どんな意義があるかと、読者諸君も定めし不審をいだかれるでありましょう。然し、鯉坂君は、学問は「学問のための学問」であっても決して差支ないという主義を持って
嘗て彼は、立小便の際の小便の描く曲線を研究し、双曲線であったか抛物線であったか、とにかく、数学的に立派に研究をしとげましたが、そのときも小便の曲線を研究することが、学問上どんな意義があるかということを決して説明はしませんでした。小便の曲線を研究するということそれ自身に鯉坂君は満足したのであります。
ある時はまた、涙の頬を伝って流れ落ちる速度を研究し、立派にその研究を仕上げました。そうして、女子の涙が頬を伝う速度は、男子のそれよりも大きく、従って女子の涙は、男子の涙よりも
かくの如く、鯉坂君の選んだ研究題目は、未完成に終るものと、完成されるものとの二種類に分られましたが、いずれにしても、鯉坂君の着想は頗る奇なるものがあります。奇抜な着想といっても、鯉坂君のは、例えば、犬の首と人間の首とをつなぎ替えるとか、蛙の眼球と蛇の眼球とを交換するといったような突飛なものではなく、大ていは出来得そうな範囲のものでして、要するにその頭脳はプラクチカルに出来て居るといってよいかも知れません。
これからお話ししようとする「新案探偵法」なるものも、
鯉坂君が犯罪探偵に興味を持って居ることはすでに述べましたが、彼の発明した新案探偵法はいわば生理学的研究の副産物に過ぎないのであって、探偵法の新奇なるものを工夫しようとして取りかかったのではありません。
然らば、どんな生理学的研究の際に、彼がその探偵法を思いついたかといいますと、それは彼が「条件反射」なることを研究して居た際であります。条件反射とは、ロシアのパウロフという生理学の
やりかけて見ると非常に面白くなり、単に日本の犬でも行われることを発見したばかりでなく、色々な興味ある事実を知ることが出来、一時は有頂天になって、研究に従事したのであります。
材料として犬が要る関係上、はじめ彼は野犬を買っては研究して居ましたが、後には他人の飼犬をひそかに盗んで来てまで実験を行うことにしたのであります。他人の飼犬を盗むということは、まことによろしくないことですけれど、彼は、真理の研究のためには、それくらいのことは許さるべきであると、勝手な解釈をして実験に従事したのであります。然し、一般に、そうした道にそむいた方法をもってする実験は、とかくその結果面白くないものであります。
さて、鯉坂君の「新案探偵法」を述べるには、どうしても、「条件反射」の何物であるかを説明しなければなりません。こうした説明は、とかく
条件反射を説明するには、「反射」ということを一応説明して置かねばなりません。が、これはすでに読者諸君のよく知って
かくの如き反射運動は言う迄もなく人間以外の動物にも存在します。例えば犬に一定の手術を施すときは、客観的に唾液の反射的分泌を認めることが出来ます。唾液腺の導管は口中に開いて
さて、今、犬に食物を与え、それと同時にチリンチリンと鈴をならしたとします。そうしてこのことを何度も何度も繰返すならば、後には、その犬はただ鈴の音だけをきいても、食物を与えられたときと同じように、反射的に唾液を分泌するのであります。本来ならば鈴の音をきいたとて、決して、犬は唾液を分泌しないのでありますが、その鈴の音がすれば必ず食物が貰えると思いこんでしまったあげくには、鈴の音だけをきいて、反射的に唾液を分泌するようになるのであります。ちょうど、
かくの如く、鈴の音をきいて、犬が反射的に唾液を分泌する現象を、「条件反射」と唱えるのであります。即ち鈴の音をきけば、食物が貰えるという条件づきの反射ですから、条件反射なる名称が与えられたのであります。この条件反射が、犬の意志と関係のあることは言う迄もなく、これに反して通常の反射運動は意志とは無関係に行われ、条件反射に対して無条件反射とも呼ばれるのであります。
この条件反射の現象を
音ばかりでなく、一定の色を見せたり、又一定の
さて、わが鯉坂君は、この条件反射の研究に従事してから、犬の心理研究の面白さに惹かれて、一時は夢中になって実験に従事しました。条件反射は通常、外部からの刺戟の少ない暗室で、極めて静粛に行うのが普通でありまして、鯉坂君は、ほとんど毎日暗室の中で日を送ったのであります。
はじめ、彼はパウロフの報告に従い、犬に手術を施して、唾液腺の導管を
実験を行い
だんだん研究して行くうちに、犬にもそれぞれ個性のあることがわかり、聴覚の至って鈍いものや又至って鋭いもののあることを知りました。この犬の個性の研究が鯉坂君の興味をそそったので鯉坂君のところへ連れられて来る犬の数はだんだん殖えました。
聴覚の研究がすむと、こんどは視覚の研究に移り、視覚の研究が一通りすむと、嗅覚の研究に移ったのですが、その嗅覚の研究の際、鯉坂君は、はからずも、一新探偵法を案出するに至ったのであります。
それはどんな探偵法かというに、別にむずかしいものではありません。犬の嗅覚を応用した条件反射による探偵法をいうのでした。例えば、犯罪の行われた
この名案を思いついてからというものは、鯉坂君は文字通りに寝食を忘れて研究に従事しました。先ずよほど嗅覚の鋭敏な犬を選ぶ必要があると思い、その研究に全力を注ぎました。その結果、
ところが待てば海路の
殺されたのは××町に煙草屋を営んで居る加藤つるという婆さんと、その娘のよし子という二十歳になる美人でありました。四月のある朝、いつも早く起きる煙草屋の店が午前十時に至るも雨戸をあけないので、近所の人が不審がって、戸を破って中へはいって行くと、奥の間で母子、各々頭部に斧の一撃を受け、蒲団にくるまったまま、血にまみれて死んで
犯人が手袋をつかったために、斧には指紋が残らなかったが、その手袋が現場に落ちて居たのですから、検事は、それを大学の法医学教授のもとに送って、使用者の職業、年齢などの鑑定を乞いました。教授は手袋の外側と内側とに附着した
鯉坂君は、かねて、この事件を新聞で読み、現場に手袋が遺留されてあったとすれば、条件反射の応用によって、犯人の鑑定が容易に出来るだろうにと、頗る歯痒く思って居た矢先ですから、検事の来訪を受けて、事情をきくなり、飛び立つばかりに喜びました。
「早速こちらでは準備をして置きますから、犯人嫌疑者を片っ端から連れて来て下さい」
こういって、検事を力づけ、すぐさま準備に取りかかるのでありました。
ちょうどその前日、場末で連れ出して来た――いや、厳密に言えば盗み出して来た――一疋の比較的若い雌犬が
さて、一二日その実験を繰返して居るうち、遂に犬に食物を与えないで、手袋を近づけるだけで、唾液の量を増すようになりました。即ち立派に条件反射を起すに至ったのであります。鯉坂君は、暗室の中へはいって、静かに手袋を取り出すとき、犬の顎の下から滴る露の数の急に増加するを見て、踊りたくなる程の喜びを感じました。もうこの上は犯人嫌疑者を引張って来て、その手を犬に嗅がせれば、それが真犯人であるか否かをたちまち鑑別し
然し、いくら警察でも、犯人嫌疑者を、
検事は鯉坂君の願いを容れて、よし子の情夫を生理学教室に連れて来ました。鯉坂君は、その男を暗室に伴って、犬の前に、その右手を差出させましたが、犬は少しも唾液の点滴の数を増しませんでした。そこで彼は、その男を暗室から連れ出し、代りに問題の手袋を嗅がせると、にわかに点滴の数を増しましたから、その手袋はその男のはめたものではないことがわかったのであります。
この実験をしたとき鯉坂君は、若しや、犬が、手袋について居る血痕のにおいによって条件反射を起すのではないかと気附いたので、念のために、人血を新らしい手袋に塗って、犬に嗅がせて見ました。それによって、条件反射を起しはしなかったので、その犬は、手袋について居る持主の手のにおいのために条件反射を起すのであることを確めたわけであります。
さて、かくの如く、犯人嫌疑者の一人は、この新案探偵法によって鑑定せられましたけれど、さて、そのつぎに鑑定すべき嫌疑者がありませんでした。そこで鯉坂君は大いに焦燥を感じましたが、運のよい時には、事が割合に順調に運ぶものでして、ここに、非常に有力なる犯人嫌疑者が、警察の手によってあげられたのであります。
丁度鯉坂君が準備実験にかかって三月ほど過ぎたある朝、兇行のあった煙草屋の附近に張込んで居た一人の巡査が、不思議な男を逮捕したのであります。その男は四十ばかりの、一見して
「よし子をかえせ。よし子は殺されたか」
近づいた男が、こう呟やくのをきいて、その巡査ははっとしました。
煙草屋の娘の名はよし子ではなかったか。こう思うと巡査は、こいつ怪しい曲者とばかり、
「よし子をかえせ。よし子は殺されたか」
男は巡査に捕えられても一向平気で、この言葉を繰返しました。そうして巡査が、何を言っても、ただ、両眼を据えて、じっと巡査の顔をにらむばかりで、同じ言葉を繰返すばかりでした。
巡査は男を警察署に引致しました。そこで署長は、その男に向って、色々たずねましたけれども、男は訊問に対しては返事をしないで、ただ例の言葉を口走るばかりでした。
署長の鑑定によると、この男は多分煙草屋の二人殺しの犯人で、良心の苛責のために発狂し、殺した女の名を呼ぶのであろうということでした。然し、その男が何処のもので、何を職業としているのか少しもわかりませんでした。帽子もかぶらなければ、洋服の上衣も着ず、ポケットの中には、何物もなかったので、その男の身許を判別することは不可能だったのであります。
けれども、この男が、兇行のあった煙草屋の附近をさまよって居たことと、被害者の一人の名を口走り、而も「殺されたか」と言うに至っては、その男のこの兇行に関係のありそうな事が誰にも察せられるのであります。若し兇器に使用された斧の柄に犯人の指紋が残って居たならば、訳もなく鑑別がつくのにと、署長は頗る残念がりました。そこで署長は、その男に、血染の斧を見せてその反応をうかがうことにし、巡査に命じていきなり、男の前に、兇器を差し出させたのであります。
男は、暫らくの間、じっと斧を見つめて居ましたが、やがて、ニコニコ笑って、
「よし子をかえせ。よし子は殺されたか」
と申しました。
最早署長も手がつけられなくなりました。すると其処へ検事がたずねて来たので、早速不思議な男の逮捕の顛末を話すと、検事は、
「それでは、一応、鯉坂さんに鑑定してもらおう」
といって、男を生理学教室に伴って来たのであります。
鯉坂君は、検事から事情をきいて頗る興奮しました。恐らくその男は真犯人であるらしく、この際それを鑑定するのは条件反射による探偵法より外はないと思いました。若し、この男を、暗室内の犬に近づけて、犬が唾液の点滴を多くしたならば、誰が何と言おうとも、この男が犯人にちがいなく、これによって世界の探偵学に一新機軸を開き
男は、警察とはまるで様子の変ったところへ来たせいか、頗るおとなしくして
いよいよ鯉坂君は、鑑定を始めることにしました。こんどの男は、有力なる嫌疑者であるから、よほど慎重の態度をとることにしました。先ず鯉坂君は、暗室へはいって、犬の状態を観察しました。そうして、犬が別に少しも興奮もして居ないことをたしかめてから、検事に命じて、男を暗室の入口に立たせました。
すると、どうでしょう。犬とその男との間にはまだ、よほどの距離があったにかかわらず、唾液の点滴が急に増加しました。鯉坂君ははっとしました。で、顫える声をもって、検事につげ、男を一歩だけ犬の方に近づけました。無論犬はまだその男の姿を見ることが出来ませんでしたのに、唾液の流出はますます甚だしくなるばかりか、頗る興奮したらしい様子をさえ示したのであります。
もはや疑う余地はありません。この男こそは現場に落ちて居た手袋の持主即ち真犯人でなくてはなりません。こう考えると、鯉坂君は他の二人と共に早速暗室を出て検事に事情を話してから、その男に向い、
「おい君、君が煙草屋のよし子を殺したのだろう。白状したまえ」と言いました。
この言葉をきくなり、今まで眠って居たらしい男の心が猛烈に活動しかけたと見え、大声を出して、「よし子をかえせ。よし子は殺されたか」と叫びました。あまりにその声が大きかったので、鯉坂君はびっくりしました。
が、驚きは単にそればかりではありませんでした。暗室の中で、急に犬が
「ああ、よし子か。よく生きて居てくれた」
男は腹の底から
鯉坂嗣三君の新案探偵法は、かくのごとく、まんまと失敗に帰しました。その男は言う迄もなく、鯉坂君が盗んで来た雌犬の所有者でありました。男はその犬をわが子のように愛し、よし子という名をさえつけて呼んで居ましたが、先日突然犬が居なくなったので、悲しさのあまり一時的に、発狂して街中をさがしまわったのです。そうして、たまたま彼の口走ったよし子の名が、煙草屋の娘の名に一致したため嫌疑を受けたのですが、鯉坂君の犬が、その主人の近寄ったことを感じて、唾液の点滴をふやしたことは、当然過ぎるほど当然のことで、いつも食物をくれる主人のにおいをかげば反射的に唾液の分泌を起すべき筈なのです。
このことがあってから、鯉坂君は、条件反射の研究にあまり興味を持たなくなりました。そうしてそれから二月ほど過ぎたある日、煙草屋の母子殺しの真犯人が逮捕せられたという新聞記事を読んだとき、彼はにやりと薄気味の悪い