市内電車の隅の方に、熱心に夕刊を読んでいる鳥打帽の男の横顔に目をそそいだ瞬間、梅本清三の心臓は妙な
「たしかに俺をつけているんだ」清三は蒼ざめながら考えた。「あれはきょう店へ来た男だ。主人に雇われた探偵にちがいない。主人はあの男に俺の尾行を依頼したんだ」
清三は貴金属宝石を商う金星堂の店員だった。そうして、今何気ない風を装ってうす暗い灯の下で夕刊を読んでいる男が、今日店を訪ねて、主人と奥の間で密談していたことを清三はよく知っていた。
密談! それはたしかに密談だった。あの時主人に用事があってドアの外に立った時、中でたしかに自分の名が語られているように聞えた。もとより小声でよくはわからなかったけれど、ドアをあけた時、主客が意味ありげに動かした眼と眼を見て、その推定は強められた。そうして今、この同じ電車の中で彼の姿を見るに及んで、清三はいよいよ主人の雇った探偵に尾行されていることを意識したのである。
「やっぱり、主人は気附いたんだ」
清三はうつむきながら考えこんだ。彼の頭はその時、自分の犯した罪の追憶で一ぱいになって来た。
恋人の妙子を喜ばせたさに無理な算段をした結果、友人に借金を作り、それを厳しく催促されて、やむを得ず彼は店の指輪を無断で拝借して質に置いたのである。店の品物の整理係をつとめているので、こんど整理の日が来るまでにお金を作って質屋から請出し、そのままもとにかえして置けばよい、こう単純に考えて暮して来たのだが、それが思いがけなくも、主人に勘附かれたと見える……
「なぜ、あんなことをしたのだろう」
こうも彼は思って見た。大丈夫発覚はすまいと思った自信が彼を迷わしたのだ。自分はなぜ男らしく、主人に事情を打ちあけてお金を借りなかったのか。
けれども、恋人のために金がいると話すのは何としても堪え難いところであった。それかといって、主人に知れてしまった今となっては、所詮一度は気まずい思いをせねばならない。その結果、店にいることすら出来なくなるかも知れない。
「だが、主人とても、まだはっきり自分が盗んだとは思うまい。ほかにまだ数人の店員がいるのだから、いっそいつまでも黙って突張ろうか」
遂にはこんな自暴自棄な考えまで起こった。
いつの間にか乗客が殖えて、清三と鳥打帽の男との間は
清三は、今のうちに立ち上った方がよいと思って、次の停留場が来るなり、こそこそと電車を降りた。すると、幸いにも、そこで降りたのは、彼ともう一人、子を負んだ女の人だけだったので、むこうへ走って行く電車を見送りながら、清三はほッと
今頃探偵はきッと自分のいないことを発見したにちがいない。そうして次の停留場で降りるにちがいない。こう思って彼は急ぎ足で鋪石を踏みならしながら、第一の横町をまがった。するとそれが、いやに人通りの多い町で、馬鹿にあかるく、道行く人がじろじろ彼の顔をながめるように思えたので彼は逃げるように、更にある暗い横町にまがった。いつもならば彼はまっすぐに下宿に帰るのだが、今夜はその勇気がなかった。それに少しも空腹を覚えなかったので、彼はどこかカフェーへでも行って西洋酒を飲もうと決心した。
ぐるぐると暗い街をいい加減に歩いて、やがて賑かな大通りが先方に見え出したとき、ふと傍に、紫色の硝子にカフェー・オーキッドと白く抜いた軒燈を見た。外観は小さいが、中はテーブルが五六十もあるカフェーで、いつか友だちと来たことがあるので、彼は吸い寄せられるようにドアを押した。
客はかなりにこんでいたが、都合よく一ばん奥のテーブルがあいていたので、常になくくたびれた気持で清三は投げるように椅子に腰かけた。そうして受持の女給にウイスキーを命じ、ポケットからバットを取り出して見たものの、マッチを摺るのが、いやに恥かしいような気がして躊躇した。
「あら、梅本さんお久しぶりねえ」
突然、通りかかった一人の女給が声をかけた。見るとそれは、かつて恋人の妙子と共にM会社のタイピストをしていた女である。二三度妙子の下宿であったのだが、まさかカフェーの女給をしていようとは思わなかった。
「やあ」清三はどぎまぎしながら答えた。そうして無理ににこにこしようとしたが、それは、へんに歪んだ顔になっただけであった。
「どうかなすったの? 妙子さんは相変らずお達者?」と、彼女は意味ありげな顔をしていった。
「妙子さんにも随分永らく御無沙汰いたしましたわ。わたし、色々の事情があって、とうとうこんなことを初めるようになりましたの。ここではよし子といっておりますのよ。これから時々来て下さいねえ。またあとでゆっくり話しに来ますわ」
こういい置いて、彼女は忙しそうに去った。
重くるしい感じが一しきり清三を占領した。が、女給の持って来たウイスキーをぐっと一息にのむと幾分か心が落ちついて来た。そうして、陽気なジャズの蓄音機をきいているうちに、だんだん愉快になって行った。
が、その愉快な気持も長く続かなかった。続かないばかりか、折角の酔心地が一時にさめるかと思った。というのは、ふと顔を上げて入口の方を見ると、そこに、電車の中で見た鳥打帽の探偵が友人らしい男と
「いよいよ俺をつけているんだな。それにしてもどうして俺がここへはいったことを知っていたのだろう。たしかに電車からは一しょに下りなかった筈だのに」
彼は探偵というものが、超人的の力を持っているのではないかと思った。こんなに巧に追跡されては、所詮自分の罪もさらけ出されてしまうだろう。と考えると冷たいものが背筋を走った。
友人とさもさも呑気そうに話していながらたえず自分の行動を注視しているかと思うと薄気味が悪かった。清三はもう一刻もカフェーにいたたまらなくなったけれど、入口をふさがれているので、いわば身動きも出来ぬ苦境に陥れられたようなものである。
その時さっきの女給がとおりかかった。
「よし子さん」と、彼は小声で呼びとめた。「実はあそこに僕の厭な人間が来ているんです。ここの家は裏へ抜けられないかしら?」
「抜けられますわ」
「それじゃ奥へ話して僕を出してくれませんか」
「よろしゅう御座います」
やがて彼は勘定を払って、よし子の案内で勝手場から裏通りへ出た。
星は罪のない光を発して、秋の夜空を一ぱい埋めていた。清三は用心深くあたりを見まわしたが、探偵らしい影はなかった。彼は泣きたいような気持になって、ひたすらに下宿へ急いだ。明日の日曜日の午後には妙子を訪問する約束になっているのだが、こんなに探偵に監視されては、外出するのが恐ろしかった。
清三は罪を犯したものの心理をいま、はっきり味わうことが出来た。僅な罪でさえこれであるのに、人殺しでもしたら、どんなに苦しいのか、きっと自分ならば発狂してしまうにちがいないと思った。
とりとめのない感想に耽りながら、彼は、歩くともなく歩いて、いつの間にか下宿の前に来ていた。彼は立ちどまってあたりを見まわし、そっと入口の格子戸をあけ、あわただしく主婦に挨拶して、走るように二階にあがった。多分もう八時を過ぎているだろうと思ったが時計を見る勇気さえなかった。
「梅本さん、お夕飯は?」階段の下で主婦の声がした。
「いりません」
「お済みになって?」
「まだ」
「まあ、では拵えましょう」
「いえ、いいんです。食べたくないんです」
いつもならば、机に向って円本の一冊を開くのだが、今夜はとてもそんな気になれなかった。急いで床をとって寝ようとすると、主婦は膳をもってあがって来た。
「もうはや、おやすみになりますの、折角拵えたから、少しでもあがって下さい」こういって彼の前に膳を据えた。そうして自分も坐りながら、暫く躊躇してからいった。
「実は今日のおひるからお留守にあなたのことをききに来た人がありますのよ」
清三はぎょッとした。「え? それではもしや鳥打帽をかぶった、色の黒い……」
「ええ、よく御存じで御座いますねえ、実は黙っていてくれとの御話でしたけれど、何だかいいお話のように思えましたので」
「何という名だといいました?」
「名刺を貰いましたよ」こういって主婦は
「どこまで探偵というものは狡猾なものだろう。彼は店を出るなりすぐその足で生命保険会社員となってここへさぐりに来たのだ」
こう考えてから、彼は思わず叫んだ。
「馬鹿にしてる。生命保険がきいてあきれる」
「え? 名前がちがいますか」主婦は驚いてたずねた。
「いや……それで何をきいて行きましたか」
「あなたの故郷だとか、生立ちだとかでした。もとより私は委しいことは知りませんから、何も申しませんでしたが、ただ本籍だけはいつか書いたものを頂きましたので、それを見せてやりました」
「それだけですか、それから何か僕の品行だとか……」
「いいえ別に。何だか
福運どころか、どえらい不運だ! と、清三は思った。やがて主婦が、食べて貰えなかった膳をもって去るなり、彼は直に床の中にはいったが、案の如く容易に寝つかれなかった。だんだん背中があたたまって来ると、過去の記憶が絵草紙を繰るようにひろげられた。両親に早く死に別れ、たった一人の叔父に育てられたのだが、その叔父と意見があわず、遂にとび出して数百里も隔った土地で暮すようになるまでの、数々の苦しい経験が次々に思い出されて来た。その後叔父とはぱったり消息を絶って、今はその生死をさえ知らぬのだか、今夜はその叔父さえ何となくなつかしくなって、探偵に尾行される位ならば、いっそ叔父のところへ走って行って暫くかくまって貰おうかとさえ思った。
二時間!三時間! やっとカルモチンの力で眠りにつき、眼のさめた時は、秋の日光が戸のすき間から洩れていた。いつもならばこの光りをどんなに愛したか知れない。それだのに今日は、その光りが一種の恐ろしさを与えた。そうして頭は、昨日からのことで一ぱいになった。
彼はしみじみ自分の罪を後悔した。けれども今はもう後悔も及ばなかった。それかといって、どうしてよいか判断がつかなかった。
愚図々々しているうちに正午近くなった。彼はやっと起き上って昼めしをすまし、さて妙子との約束の時間が迫っても、何となく気が進まなかった。
けれども、妙子には心配させたくなかった。で、とうとう重たい足を引摺るようにして、家を出たのだが、幸いにして、恐れていた探偵の姿はそのあたりに見とめられなかった。
半時間ほど電車に乗って目的地で降りたときは、さすがに恋人にあう嬉しさが勝って、重たい気分の中に一道の明るさが
が、恋人の止宿している家の二三軒手前まで行くと、彼は思わずぎょッとして立ちすくんだ。丁度その当の家から、あの、まごう方なき探偵が、五六歳の子供をつれて出て来たからである。
清三は本能的に電柱の蔭に身をかくした。探偵は幸いに反対の方向に歩き去ったので彼はほッとした。けれども、それと同時に不安が雲のように湧き起こった。
「どこまで狡猾な男だろう。何気ない風をして、きっと妙子にあって自分のことをきいたのだろう。それにしても子供を連れて来るとは何という巧妙な遣り口だろう。まるで散歩しているように見せかけて、その実熱心に探偵してあるくのだ」
清三は恐ろしい気がしたので、いっそそのまま引き返そうと思ったが、その時二階の障子があいて妙子のにっこりした顔が招いたので、思わずも引きつけられて、中へはいった。
清三は、嬉しそうに迎えてくれた妙子の顔を暫く見つめていたが別に何の変った様子も見られなかった。
「妙子さん」彼は遂に堪えられなくなっていった。「今このうちから子供を連れた男の人が出て行ったが、もしや妙子さんにあいに来たのでない?」
「いいえ」と妙子は驚いた様子をした。「何だか下へ御客様があったようだけれど、どんな人だか知らぬわ」
「きっとあわなかった?」
「ええ、なぜそんなことをきくの?」
「それでは、下の
妙子は
「あの方はある生命保険会社につとめている人で、こちらの親戚ですって。今日は日曜日だから、御子さんを連れて散歩に出かけ、こちらへお寄りになったそうです」
「ちがう、ちがう」と、清三は叫んだ。「まだほかに重大な用事があったんです」
「あら、なぜ……?」
清三の顔はにわかに血走って来た。
「妙子さん!」
「え?」
「僕は……僕は……」
彼はもう辛抱し切れなくなって妙子に一切を告白した。
あくる日彼はいつもより一時間も早く下宿を出た。そうして店で主人の出勤を待ち構えた。彼は妙子から主人に一切を悔悟白状するようすすめられた。「二人が一生懸命になってそのお金を作りましょう」こういわれて彼はすっかり心の荷を下し、ゆうべは安眠して、今朝は上機嫌で出かけたのである。
やがて主人は、いつものとおりな顔をしてやって来た。
彼は奥の間へ行って、早速主人に自分の犯した罪を打ちあけた。主人は黙ってきいていたが、その顔には見る見る驚きの色があらわれた。そうして、一通りきき終って、何かいい出そうとすると、丁度その時来客があって、はいって来たのは、外ならぬ探偵であった。
「ああ」と、気軽になった清三は威丈高になっていった。「あなたはきっと僕に御用がおありでしょう」あっけにとられた探偵のうなずくのを尻目にかけて清三は続けた。「けれどもう遅いですよ。あなたはもうこちらの主人の依頼で僕を尾行する必要はなくなりましたよ。僕は今、すっかり主人に白状してしまったのです」
すると探偵はいった。
「何のことかよくわかりませんが、別にこちらの御主人に依頼されたことも、またあなたを尾行した覚えも御座いません。私は国際生命保険会社の探査部の白木というものです。先日あなたの叔父さんが逝去されて、五千円の保険金を残され、あなたがその受取人になっているのです。そこであなたの捜索にとりかかり遂に一昨日探し出した次第で、こちらへ御伺いしてからなお念のために御留守宅へも行きました。さっきお宿へまいりましたら、はや御出かけになったとのことで、今こちらへ御邪魔したので御座います。どうかこの領収書に署名を願います」
ポカンとして突立った清三の前に、「探偵」は五千円の小切手と証書とをつきつけた。
(「サンデー毎日」新春特別号、昭和四年一月)