T医科大学の四年級の夏休みに、わたしは卒業試験のため友人の
あるいは東洋一と称せられる千人
かれこれするうち、わたしたちは玉突き場で一人の若い女と親しくなりました。彼女は東京のYという富豪の一人息子が高度の神経衰弱にかかって、このS旅館に静養しているのに付き添っている看護婦でありました。息子は居間に
彼女はトランプが大好きでしたから、わたしたちはたびたびゲームを行い、負けた者には顔なり
ある日の午後、わたしたち三人が例のごとく身体じゅうを
それきりわたしたちは、紳士のことを忘れてしまいました。ところが夕食後、わたしたち二人が伊豆山神社の階段を登ろうとすると、
「あなたがたはもう長らくご滞在ですか?」
と
「いえ、まだ十日ばかりにしかなりません、あなたは?」
とわたしが言うと、
「今日の
その時、海から急に冷たい風がどっと吹いてきて、ぽつりぽつりと大粒な雨が落ちはじめ、なんだかいまにも大雨がありそうでしたから、わたしたちは神社に登ることをやめ、紳士とともにあたふたS旅館に引き上げました。
「どうです、わたしの部屋へ来ませんか」
と紳士が言ったので、わたしたちは遠慮なく海に面した紳士の部屋に押しかけました。その時、雨は
わたしたちは明け放した障子の敷居のところに
「今日、一緒に風呂へお入りになった女の人はお近づきなのですか」
と訊ねました。
わたしはその看護婦について知っているだけのことを話し、そうして、トランプに負けた者にああした悪戯書きをするのであると説明しました。
すると紳士は笑うかと思いのほか、夜目にもはっきりわかる真面目顔になり、しばらくの間黙って考え込みました。
わたしはなんとなく気まずい思いをして町田と顔を見合わせ、雨に
「こんなことを言うと変に思いになるかもしれませんが、よしそれが冗談であるにしても、若い女の身体へ絵を
と言いました。
紳士の声がいかにも
「それはまたなぜですか」
と、町田が訊ねました。
紳士はまたもやしばらく黙っていましたが、ちょっと軽い
「うっかりすると、意外な悲劇が起こらぬとも限らないからです」
と言いました。
わたしは少々薄気味の悪い思いをしました。その時、湿っぽい風が吹いてきて、夏ながらぞっとするような感じを
「意外な悲劇というのは、どんなことですか?」
と訊ねました。
すると紳士は、
「いや、こんな妙なことを言い出して、定めしあなたがたに変な思いをさせたことでしょう。実はわたし自身の経験から申し上げたのでして、言い出した以上、一通りわたしの経験を申し上げることにしましょう」
と言って、次のような話を語りはじめました。その時、あたりはもうすっかり
わたしはいまでこそなにもやらないで、こうしてぶらぶらしておりますが、実はあなたがたの先輩なのですよ。明治××年にT医科大学を卒業して産婦人科の教室に半年あまり厄介になり、両親の希望によって、すこぶる未熟な腕を持ちながら日本橋のK町に病院を建てて診察に従事しました。わたしも学生時代には、あなたがたのようによく温泉宿へ出かけては勉強したもので、やはり卒業試験前の夏休みは、ある温泉で暮らしたのでした。わたしもずいぶん茶目っけの多いすこぶる楽天的な人間でしたが、開業すると間もなく両親に死なれたのと、ある入院患者について奇怪な経験をしてから医業なるものに
さて、お語はわたしの開業当時に戻ります。ある日、わたしの病院へ二十七、八の、大きな腹を抱えた患者が診察を受けに来ました。わたしは彼女を見るなり、どこかで以前に見たことのある女だと思いました。そうして、彼女のひどくやつれた、
さて、肝臓硬変症はなかなか治りにくいものです。腹水を取り去ることによって患者は一時軽快しますが、すぐまた水が
すると彼女は、わたしの心配そうな顔を見て、
「先生、妊娠でしょう?」
と訊ねました。わたしはこれを聞いて、思わずも、
「いえ、違います」
とはっきり答えました。
彼女はしばらくの間、じっとわたしの顔を眺めておりましたが、
「先生、本当のことをおっしゃってください」
と、
「本当です。妊娠ではありません」
わたしはこう答えながらも、もし彼女が妊娠であってくれたなら、どんなにか心が楽だろうと思わずにはおられませんでした。そうして、わたしはその時彼女に肝臓硬変症だと告げる勇気がどうしても出ませんでした。わたしが内心大いに
「先生、どうかよくわたしのお腹を眺めてください。先生には、わたしのお腹の中に宿っている恐ろしい怪物の頭が見えないのでございますか」
「え?」
と、わたしは全身に冷水を浴びせかけられたような気がして問い返しました。彼女は“メデューサの首”に気がついているのだ。こう思うと、わたしはなんだか痛いところへ触れられたような思いになりました。
「先生」
と、彼女は診察用ベッドに相も変わらず
「わたしのお腹の中にはたしかに恐ろしい怪物が宿っております。先生は、ギリシャ神話の中に出てくるメデューサの首の話をご承知でしょう。わたしのお腹の中にはメデューサの首が宿っているのですね。先生、よくご覧なすってください。メデューサの髪の毛の蛇が、わたしの皮膚の下でうねうね動いているのが見えましょう。どうです、動いているではありませんか」
わたしはこれを聞いて、とんでもない患者が訪ねてきたことを悲しみました。彼女はたしかに発狂しているのだ。病気の苦しさのために精神に異常を来したのだ。と、考えながらも、彼女の言葉に少しも発狂者らしいところがないのを不審に思いました。恐らくヒステリーの強いのであろう。そうして、お腹の皮下の血管の有様と、お腹の大きくなったのを見て、メデューサの首を妊娠したものと思い込んだのであろうと考えました。しかし、彼女がメデューサの首だと認めているのは、彼女が肝臓硬変症であることを説明するに都合よく、なおまた彼女の妄想を打ち消すにも役立つから、いっそこの場で彼女の病気の真相を告げたほうが、メデューサの首を妊娠したなどという妄想に悩むよりも幸福であろうと思って、わたしは肝臓硬変症によって起こる症状を詳しく説明して聞かせました。
ところが、わたしのこの説明はわたしの予期したのとまったく正反対の結果をもたらしました。すなわち彼女は、わたしの言葉を聞くなり、
「そーれご覧なさい。先生にも、わたしのお腹に宿っているのがメデューサの首であることがわかっているではありませんか。わたしがメデューサの首を
彼女はまったく真面目でした。わたしはむしろ
「いったい、あなたはなぜメデューサの首を妊娠したのだと信ずるのですか。人間がそんな怪物を孕むということは絶対にあり得ないではありませぬか」
と訊ねました。
これを聞くと彼女は悲しそうな表情をしました。
「ああ、先生はちっとも、わたしに同情してくださらない。昔、中国の何とかいう女は鉄の柱によりかかって鉄の玉を妊娠して産み落としたというではありませぬか。わたしにも、メデューサの首を妊娠するだけの立派な理由があるのです」
「それはどういう理由ですか」
「では先生、一通りわたしの身の上話をしますから聞いてください。わたしはもと奇術師の△△一座に雇われていた女優でした。わたしの孤児であるということが、そうした運命にわたしを導いたのですが、ほかの人たちと違って身持ちがよかったために少しばかりのお金を
ところが、いまから一年ばかり前に、わたしは神経衰弱にかかって一座を引退し、×××温泉にまいりました。それはちょうど夏のことでしたが、山中のこととていたって涼しく、わたしの宿は避暑客で賑わっておりました。一月ばかり滞在するうちに、すっかり神経衰弱はよくなり、わたしの身体には肉がついてきましていっそう美しくなり、したがって毎日鏡の前で過ごす時間がかなりに長くなりました。いま申し上げたような理由で、他人に顔を合わすのがなんとなく厭であったので、特別室の湯に入るほかは部屋の中へ引っ込み勝ちにしておりましたが、そうすると他人の好奇心を
部屋の中に引っ込み勝ちにしていた関係上、わたしは盛んに読書をしました。なかにもわたしはギリシャ神話を好みました。ところがある暑い日の午後、湯に入って紅茶を飲み、例のごとく神話の書物を開いてちょうどゴーゴンの伝説を読んでいますと、常になくしきりに眠けを催し、書物を開いたまま眠りました。すると、わたしは恐ろしい夢を見たのであります。夢の中でわたしがパーシュース(ペルセウス=ギリシャ神話の英雄)となってメデューサの首を切り落とすと、その恐ろしい首がわたしのお腹へ飛び込みました。はっと思ってわたしが跳ね起きますと、なんだか頭が重くて、時計を見ると三時間も寝たことがわかりましたので、びっくりして鏡に向かって髪を
それからわたしが冷静になって考えますと、たしかにだれかが催眠剤によってわたしを眠らせ、メデューサの首の悪戯書きをしたに違いないと思いました。わたしは悪戯そのものよりも、他人がわたしの肉体に触れたということにいっそう腹が立ちました。それと同時にわたしは、メデューサの首がわたしの身体の中に飛び込んだという夢が正夢に思えて、身震いを禁ずることができませんでした。
わたしは悪戯をした人間を憎みましたけれど、事を荒立てて
東京へ帰った当座はなんともありませんでしたが、二月ほど過ぎると身体に異常を覚えました。だんだん身体が
ある日わたしが鏡に向かって膨らんだお腹をよく見ますと、皮膚の下にかすかに蛇のうねりが見えるではありませんか。いよいよメデューサの首がお腹に宿ったのだ! こう思うとわたしは気が違うかと思うほどびっくりしました。それからというもの、来る日も来る日も、わたしがいかに苦しい思いをしたかは先生にもお察しがつくだろうと思います。わたしはだんだん痩せました。肩から胸へかけての美しい曲線は見苦しく変化しました。メデューサの首のために、わたしの恋人すなわちわたしの身体が破壊されるかと思うと、どうにも我慢ができなくなって、ついにこうして先生のもとにお伺いしたわけでございます。先生、これでもまだ、先生はわたしがメデューサの首を孕んだのではないとおっしゃいますか」
わたしはこの話を聞いて、なんと答えてよいか迷いました。わたしはもはや彼女に反抗する勇気がなくなってしまいました。
「それについて、先生にお願いがあるのです」
と、彼女はいっそう力を込めて語りつづけました。
「わたしは今日までどうにか辛抱してきましたが、もうこれ以上メデューサの首のために、わたしの肉体の破壊されるのを許すことができなくなりました。ですからわたしの腹を断ち割って、メデューサの首を取り出していただきたいと思います。ね、先生、どうか気の毒だと思いになったら、わたしの願いを聞いてください」
わたしはぎくりとしました。この恐ろしい難題にぶつかってわたしははげしい
「先生、先生はたぶん、わたしのような妙な癖を持った者が、平気で他人に身を任せて手術を受けることを不審に思いになるでしょう。けれども、自分の容色の美を保つためならば、わたしはあらゆることを忍びます。メデューサの首を取り出してしまえば、わたしの容色を取り返すことができます。その喜びを思えばどんな犠牲でも払うのです。ね、先生、潔く手術を引き受けてください」
わたしはなんとなく一種の威圧を感じました。とその時、わたしにある考えが電光のように
「よろしい。手術はしてあげましょう。しかし、あなたはたいへん衰弱しておいでになりますから、はたして手術に堪えることができるか、それが心配です」
「手術してもらって死ぬのなら本望です」
と、彼女は言下に答えました。
「手術してもらわねば、しまいにはメデューサの首にこの身体を
「よくわかりました。それでは明日手術しましょう」
と、わたしは答えました。
翌日の午前に、わたしは手術を行うことに決心しました。わたしはその場合きっぱり引き受けたものの、とうてい彼女の容体では麻酔と出血には堪え得ないだろうと思って不安の念に駆られました。で、その晩はいろいろなことを考えて充分熟睡することができませんでした。
いよいよ当日が来ました。わたしが手術前に彼女を訪ねますと、彼女は昨日とは打って変わった力のない声をして言いました。
「先生、弱い人間だとお笑いになるかもしれませんが、もし手術で死ぬようなことがあるといけませんから、わたしの死後のことをお願いしておきたいと思います。わたしの少しばかりのお金の処分は先生にお任せしますが、わたしの
これを聞いて、わたしは言うに言えぬ恐怖を覚えました。もし手術が無事に済んで、麻酔から
「それに先生、実を言うと、わたしはまだもう一つ心に願っていることがあるのです。それは温泉宿でわたしのお腹に悪戯書きをした人間を捜し出し、思う存分
わたしはそれを聞くと、ひょろひょろと倒れるかと思うほどの恐怖を感じました。なんという
「復讐といって、どんなことをするのですか」
と、わたしが思わずも訊ね返しました。
「魂だけになったら、その人間に一生涯しがみついてやるのです」
わたしはなんだか息苦しくなってきたので、
「よろしい、万事あなたの希望通りにします。しかし、死ぬというようなことは決してないと思います」
こう言ってわたしは、彼女の病室を出て手術の準備をいたしました。
ところが、わたしの予想は悲しくも裏切られ、彼女の心臓は麻酔にさえ堪え得ないで、手術を始めて五分
かくて、彼女は自分の妄想の犠牲となって死んでいきました。もっとも、どうせ長くは生きることのできぬ身体でしたから、あえて、わたしが殺したとは言えませぬけれど、わたしにはどうしても、彼女の死に責任があるような気がしてなりませんでした。
わたしは彼女の冷たくなった死骸を眺めて、彼女が生前に言った恐ろしい言葉を思い出してぎょっとしました。彼女ははたして、魂となって彼女のお腹にメデューサの首を描いた人間にしがみついているのであろうか。
わたしはそれから、彼女の希望通りに××火葬場へ彼女の死骸を運んで、焼いてもらうことにしました。
いよいよ彼女が
いまから思えば、わたしはそれを見ないほうがよかったのです。といって、別に超自然的な出来事が起こったわけではありません。それはきわめて平凡な、当たり前のことでしたが、わたしのいやが上にも
彼女は身体じゅう一面に
あっと思ったが最後、わたしはその場に卒倒してしまいました。
お話というのはこれだけですけれど、最後にぜひお耳に入れておかねばならぬ大切なことがあります。もはやお察しになったかもしれませんが、実は彼女のお腹ヘメデューサの首の悪戯書きをしたのは、かく申すわたし自身だったのです。わたしは卒業試験準備をするために、×××温泉へ行って彼女と同じ宿に泊まり合わせました。彼女は不思議な女として宿の人たちの評判となっていました。わたしは好奇心に駆られて彼女の様子をうかがっているうちに、彼女が一種の変態性欲、すなわちナルシシズムを持っていることを発見しました。そこで持ち前の悪戯気を起こして、彼女の肉体に墨絵を描いて驚かしてやろうと決心し、機会を
だからわたしは、若い女の身体に落書きをすると、意外な悲劇が起こらないとも限らぬと申し上げたのです。